武部其文
武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2月27日) - 1929年(昭和4年)4月12日)は、富山県出身の政治家、弁護士。
経歴
[編集]文久2年(1862年)2月に、旧加賀藩十村役で1883年(明治16年)に富山県会初代議長を務めた武部尚志(文政12年(1829年) - 明治44年(1911年))の二男として出生。その弟で富山県会議員であった武部堅の養子となった。
富山の岡田呉陽を経て、二松学舎(現・二松學舍大学)、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1885年(明治18年)8月に金沢において代言免許を取得し、富山で代言活動を行った。
内務省による選挙干渉によって死者まで出したことで知られる1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙(富山第四区)では、北陸自由党から出馬し、立憲改進党の島田孝之を破って当選したが、その後1893年(明治26年)6月に当選無効訴訟が確定して失職。
同年5月1日に弁護士登録し、初代の富山県弁護士会会長に就任した。
1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に、富山郡部二区から出馬し当選した。
1929年(昭和4年)4月12日死去。
親族
[編集]金山季逸(司法次官、大審院次席検事、長崎・東京・大阪の控訴院検事長)は実の弟にあたる。
参考文献
[編集]- 『富山県議会史』(富山県議会 1977)
- 『草創期明治法律学校出身の代言人《武部其文》の回顧録』(明治大学大学史料委員会 2009)