淀殿
よどどの/あざいちゃちゃ 淀殿/浅井 茶々 | |
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『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵) | |
生誕 | 永禄12年(1569年)[1] |
死没 | 慶長20年(1615年) |
別名 | 淀の方、茶々、淀君、菊子 |
配偶者 | 豊臣秀吉 |
子供 | 豊臣鶴松、秀頼 |
親 | 父 : [通説では]浅井長政、母 : お市 |
親戚 | 姉妹 : 茶々、初、江 |
淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)[注釈 1] [注釈 2] - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉の側室[注釈 3]。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。
概要
[編集]近江国の戦国大名・浅井長政の娘[注釈 4]。 母は織田信長の妹・市。
同母妹に初(常高院、京極高次正室)と江(崇源院、徳川秀忠正室)がいる。
子には棄(鶴松、夭折)と拾(秀頼)、猶女には完子[注釈 5]がいる。
乳母は大蔵卿局(大野治長の母)・饗庭局(大叔母にあたる海津殿の次女)・大局(前田利家の弟にあたる佐脇良之の室)の三人が明らかになっている。
生涯
[編集]母と二人の父の死
[編集]近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。天正元年(1573年)に父・長政が伯父・織田信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母妹らとともに藤掛永勝に救出された。この時、父と祖父・久政は自害、兄・万福丸は捕らえられ、信長の命で羽柴秀吉によって処刑されている。
その後は伯父・織田信包のもとにおかれ、伊勢安濃津城または尾張清洲城[3]で保護されていたとされていたが、近年の研究によると尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとされている(『渓心院文』)[4]。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後、織田信長の岐阜城に転居することになる[5]。
信長が本能寺の変で家臣・明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母・市が織田氏家臣・柴田勝家と再婚すると、茶々は母や妹達とともに越前国北の庄城(現・福井県福井市)に移る。
勝家が羽柴秀吉と対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに敗れると、市は勝家共々自害したが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた[注釈 6]。 また北の庄城落城後に三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させ(『玉興記』)、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている[6]。この時に一年間程、茶々の世話をしたのが、信長の妹のお犬の方である(『大雲山誌稿』)[7]。また、叔父・織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受け[8]、安土城に住み、後に聚楽第で伯母・京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたともいわれている。もっとも、福田千鶴によれば、いずれの説も一次史料による裏付けに欠け、この時期の三姉妹の所在については不明である[9]。
親、兄の仇、秀吉の側室に
[編集]天正16年(1588年)ごろ、秀吉の側室となる。
天正17年(1589年)、棄(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城(淀古城。江戸時代に築城された淀城とは場所が異なる)を賜り、以後「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになった。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った[注釈 7]。
なお、鶴松を産んだ時に高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめるが奉納者である淀殿の記名はない。これは淀殿の豊臣政権に対する自発的な配慮によるものである[10]。秀頼を産んだ時に父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立した。秀吉の死後、高野山などの修復にも当たっている。
関ヶ原の戦い
[編集]慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成が大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際に、7月27日付の榊原康政から秋田実季に宛てた書状によると、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするように淀殿と三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)から書状を送っていることがわかる[11]。このことから淀殿には家康・秀忠父子を主軸とした秀吉遺言覚書体制、すなわち内府(家康)・五奉行(ないし三奉行)体制による政権運営を是認する、確たる意思があったことが窺える[12]。その後、大坂城に入った輝元が石田方(西軍)の総大将となり三奉行もそれに同調するが、淀殿は石田方が切望したと思われる秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣などは許さず、石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。なお家康は淀殿らからの書状を石田・大谷の動きが謀叛であると諸大名に主張する材料とし、その後、三奉行が家康糾弾の『内府ちかひの条々』に署名したが、淀殿からは先の書状を覆す文書が発給されなかったことも、家康に「秀頼様の御為」という大義名分を維持させることとなった。
9月15日の関ヶ原の戦いにおける徳川方(東軍)の勝利の後、家康は大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答している。毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、そこで家康を饗応した際に、淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるよう強く求め、家康は秀頼の父親代わりたるべきと公に宣言した。
慶長6年(1601年)になると「気鬱」が激しくなり、胸の痛み・摂食障害・頭痛に悩まされ、曲直瀬玄朔から薬を処方をされた(『玄朔道三配剤録』)[13]。
徳川家康との対立、大坂の陣
[編集]家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家は支配地を減らすことになる。淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握る。
慶長10年(1605年)5月8日には家康が高台院を通じて、秀頼が徳川氏に臣下の礼を取るよう、淀殿に要求した。領地を削減されたとは言え、秀吉以来の豊臣氏の家格を守ろうとする淀殿が遺憾の意を表明し、会見を拒絶したが、家康は六男の松平忠輝を大坂に遣わし、融和に努めている。
大坂冬の陣
[編集]方広寺鐘銘事件を契機として大坂の陣が勃発。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激励していたが(『当代記』)[13]、
期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和に傾いていった。[14] 12月20日に講和成立。
大坂夏の陣
[編集]しかし、翌慶長20年(1615年)の再戦(大坂夏の陣)で大坂城は落城し、秀頼や大野治長らと共に自害した。
墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓と伝わる。
淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。落ち延びた先としては、島津氏を頼って薩摩国に落ち延びた説[15]や上野国厩橋まで遁れてきたという説がある[注釈 8]。
呼称について
[編集]諱は茶々。
生存中には、居場所の変化に伴って淀の方(よどのかた、他に「淀の者」・「淀の女房」など[17])、二の丸殿(にのまるどの)・西の丸殿(にしのまるどの)などと通称された。鶴松・秀頼の出産後は御袋様・御上様・御台様などとも。秀吉の死後に落飾して大広院・大康院と名乗っていたという説もある[18]。
現在最も一般的に用いられる淀殿、過去に用いられた淀君の名は、同時代の史料には一切見られず、いずれも江戸時代以降の呼び名である[19]。
「淀君」という呼称が広く普及して一般に定着するのは、明治時代に坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演されて以降のことである。二木謙一が「淀殿が淀君などというへんてこな名前をつけられ、悪女に仕立てられたのは、豊臣家を滅ぼした徳川氏時代の産物」とし[20]、「淀君」の呼称については、悪女・淫婦というイメージと共に売春婦の呼称(「遊君」・「辻君」など)と結びつけて定着したと小和田哲男が主張し[21]、田中貴子が追随した[22]。ただし、幕末に編纂された『徳川幕府家譜』で徳川家康の継室・朝日姫が「朝日君」、秀忠の継室・崇源院が「於江与君」とされているなど、「君」がすぐさま蔑称だと断定するには一定の留保が必要である[23]。
福田千鶴は、彼女の呼称についての検証をした結果、本名を「浅井茶々」、通称を「淀」と号した[注釈 9]とみなすのが適切ではないかとし、生存中に「淀殿」と記した史料はなく、「様」付けで呼ばれていることから、同時代的な呼び方としては「淀様」とするのが正しいとしている[24]。
昭和35年(1960年)に発表された井上靖の小説『淀どの日記』以降、「淀殿」の使用が一般的となり[13][25]、一般への影響力が大きいNHK大河ドラマでも昭和62年(1987年)に放送された『独眼竜政宗』を最後に「淀君」という呼称は一切使われていない。平成28年(2016年)に放送された『真田丸』においては秀吉存命時には「茶々様」、秀吉死後は「御上様(おかみさま)」と呼称された。映画『GOEMON』では「浅井茶々」の呼称が使用された。
人物像
[編集]- 従来の見解では淀殿と高台院は対立関係にあったとされてきたが、最近の研究によれば特に対立関係にはなかったとされ、二人の関係の再検証が進められている。従来の通説は後世の淀殿を悪女とみなす風潮によるところが大きいと考えられている[26][27]。
- 京都で放浪していた従兄・織田信雄を大坂城に招いて住まわせた。
- 毎年萩の季節になると、東光院にて萩の花の鑑賞をしていたという。境内で授与される「萩の筆」は、元は淀殿が萩の枝を筆管として手元に置くことを思いついたもので、「淀君ゆかりの萩の筆」として名物の民芸品になっている。[28]
- 楊谷寺には、淀殿弁財天と呼ばれる弁天堂があり、お前立に淀殿像が祀られている。淀城に住んでいる間、楊谷寺の湧き水で毎日顔を洗っていたという伝説がある。[29]
- 大坂城三の丸に当たる、玉造稲荷神社には、淀殿と秀頼を結ぶ胞衣を祀る「胞衣塚大明神」があり、子供の夜泣きに霊験ありとされる。[30]
- 生國魂神社境内にある鴫野神社は、元は弁天島(現在の大阪ビジネスパーク)に祀られていた弁天堂であり、淀殿が信仰していたと伝わる。女性の守護神とされている。
- 末妹・督(江)が徳川秀忠に再嫁する際、前夫・羽柴秀勝との間にできていた完子を引き取って育てたことも知られる。後に完子を猶子として五摂家の九条忠栄に嫁がせるという、高度に政治的な婚姻を仕立て、その政治力を発揮している[31]。
- 『聚楽物語』では淀殿が秀吉に対して「去り難く仰せられ、度々御文を参らせ」て秀次事件に連座した駒姫の助命を求めたとする。
- 淀殿が醍醐の花見の際に詠んだ和歌が三首残されている。
- この時、従姉妹である松の丸殿(京極竜子)と杯の順番で争ったという事件が起こっている(『陳善録』)[34]。田端泰子はこの事件は妾同士の対立というよりは、女性はいつまでも生家を背負っていたことを感得する出来事と分析している[13]。
- 淀殿と大野治長とは乳兄妹であり、二人の密通が噂されていたという記録も残る(『萩藩閥閲録』九九の二)[35][36]。そのため、秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとする説が、当時からささやかれていた。姜沆による『看羊録』では、秀吉の遺命によって家康が淀殿を娶ろうとしたが、治長の子を身ごもっていた淀殿が拒否したため、家康が治長を流刑にし殺したとの、虚実を交えた風説の記録がある[注釈 10]。
関連作品
[編集]- 小説
-
- 『淀どの日記』(井上靖)
- 『わが恋せし淀君』(南条範夫、1958年、講談社)
- 『もしかして時代劇』(宮本昌孝、1988年、早川書房、ISBN 4150302839)
- 『戦国姫 茶々の物語』(藤咲あゆな 2016年、集英社みらい文庫)
- 楽曲
- 映画
-
- 猿飛佐助 千丈ヶ嶽の火祭(1950年・大映 沢村貞子)
- 千姫(1954年・大映 演:東山千栄子)
- 大坂城物語(1961年・東宝 演:山田五十鈴)
- お吟さま(1962年・松竹 演:月丘夢路)
- 千姫と秀頼(1962年・東映 演:沢村貞子)
- 新忍びの者(1963年・大映 演:若尾文子)
- 真田風雲録(1963年・東映 演:花柳小菊)
- 真田幸村の謀略(1979年・東映 高峰三枝子)
- 忍者武芸帖 百地三太夫(1980年・東映 春川ますみ)
- 利休(1989年・松竹 演:山口小夜子)
- 梟の城(1999年・東宝 演:田中伸子)
- 茶々 天涯の貴妃(2007年・東映、演:和央ようか)
- GOEMON(2009年・松竹、演:広末涼子)
- 真田十勇士(2016年・松竹 演:大竹しのぶ)
- 関ヶ原(2017年・東宝 演:和田奈々)
- TVドラマ
-
- わが恋いせし淀君(1961年・日本テレビ 月丘夢路)
- 徳川家康(1964年・テレビ朝日 演・朝丘雪路)
- 太閤記(1965年・NHK大河ドラマ 演:三田佳子)
- 功名が辻(1966年・テレビ朝日 演:稲野和子)
- 真田幸村(1966年・TBS 演:淡島千景)
- 千姫(1966年・毎日放送 演:藤間紫)
- 剣(大坂夏の陣)(1967年・日本テレビ 演:山田五十鈴)
- お吟さま(1968年・テレビ朝日 演:扇千景)
- 戦国艶物語(1969年・朝日放送 演:岩下志麻)
- 徳川秀忠の妻(1969年・フジテレビ「おんなの劇場」 演:小山明子)
- 大坂城の女(1970年・関西テレビ、演:村松英子・木暮実千代) ※当初は扇千景の予定
- 春の坂道(1971年・NHK大河ドラマ 演:岸田今日子)
- 落城の舞い(1972年・フジテレビ 演:谷口香)
- 出雲の阿国(1973年・テレビ朝日 演:小林千登勢)
- 国盗り物語(1973年・NHK大河ドラマ 演:中村祥子)
- 黄金の日日(1978年・NHK大河ドラマ 演:藤村志保)
- 猿飛佐助(1980年・日本テレビ 演:左幸子)
- おんな太閤記(1981年・NHK大河ドラマ 演:池上季実子)
- 関ヶ原(1981年・TBS 演:三田佳子)
- 千姫春秋記(1981年・日本テレビ 演:藤間紫)
- おんな霧隠才蔵 戦国忍者風雲録(1982・フジテレビ 演:月丘千秋)
- 戦国の女たち(1982年・フジテレビ 演:杉田かおる→岩下志麻)
- 大奥(1983年・関西テレビ 演:小山明子)
- 女たちの大坂城(1983年・読売テレビ 演・岩下志麻)
- 徳川家康(1983年・NHK大河ドラマ 演:夏目雅子)
- 真田太平記(1985年・NHK 演:岡田茉莉子)
- 独眼竜政宗(1987年・NHK大河ドラマ、演:樋口可南子)
- 野風の笛(1987年・日本テレビ 演:三浦真弓)
- 徳川家康(1988年・TBS 演:池上季実子)
- 女たちの百万石(1988年・日本テレビ 演:佳那晃子)
- 長七郎江戸日記(第2部)(1988年・日本テレビ 演:三条泰子)
- 春日局(1989年・NHK大河ドラマ 演:喜多嶋舞→大空眞弓)
- 風雲!真田幸村(1989年・テレビ東京 演:高田美和)
- お市御寮人(1989年・日本テレビ 演:山口弘美)
- 天下を獲った男 豊臣秀吉(1993年・TBS 演:沢口靖子)
- 徳川武芸帳 柳生三代の剣(1993年・テレビ東京 演:波乃久里子)
- 独眼竜の野望 伊達政宗(1993年・テレビ朝日 演:野村真美)
- 愛と野望の独眼竜 伊達政宗(1995年・TBS 演:萬田久子)
- 豊臣秀吉 天下を獲る!(1995年・テレビ東京 演:鶴田真由)
- 秀吉(1996年・NHK大河ドラマ 演:松たか子)
- 司馬遼太郎の功名が辻(1997年・テレビ朝日 演:五十嵐めぐみ)
- 家康が最も恐れた男 真田幸村(1998年・テレビ東京 演:秋吉久美子)
- 影武者徳川家康(1998年・テレビ朝日 演:一色彩子)
- 加賀百万石〜母と子の戦国サバイバル(1999年・NHK 演:松嶋菜々子)
- けろりの道頓 秀吉と女を争った男(1999年・関西テレビ 演:阿木燿子)
- 葵 徳川三代(2000年・NHK大河ドラマ 演:小川眞由美)
- 利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年・NHK大河ドラマ 演:瀬戸朝香)
- 武蔵 MUSASHI(2003年・NHK大河ドラマ 演:若尾文子)
- 功名が辻(2006年・NHK大河ドラマ 演:永作博美)
- 戦国自衛隊・関ヶ原の戦い(2006年・日本テレビ 演:秋吉久美子)
- 徳川家康と三人の女(2008年・テレビ朝日 演:星野真里)
- 天地人(2009年・NHK大河ドラマ 演:深田恭子)
- 寧々〜おんな太閤記(2009年・テレビ東京 演:吹石一恵)
- 江〜姫たちの戦国〜(2011年・NHK大河ドラマ 演:宮沢りえ)
- 影武者徳川家康(2014年・テレビ東京 演:名取裕子)
- 軍師官兵衛(2014年・NHK大河ドラマ 演:二階堂ふみ)
- 真田丸(2016年・NHK大河ドラマ 演:竹内結子)
- 石川五右衛門(2016年・テレビ東京 演:比嘉愛未)
- どうする家康(2023年・NHK大河ドラマ 演:北川景子[注釈 11]、青年期:白鳥玉季)
- 舞台
- 漫画
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 生年については、浅井家の記録である『 浅井三代記』に茶々の誕生に関する記述が全くないため、長らく永禄10年(1567年)と推測されてきたが、近年では永禄12年(1569年)誕生説が有力になっている。また、永禄9年(1566年)生まれの説もある。
- ^ 江戸時代に書かれた『翁草』に、茶々が慶長20年(1615年)の大坂の夏の陣で死亡した時49歳だったと記され、母の市が長政に嫁いだのが永禄10年(1567年)ごろとされているため、市の連れ子で長政以前に嫁いだ時に産まれたという説がある。また市を信長の妹ではなく従妹とする資料もあるため、茶々は信長と市の娘とする説もある。また、淀殿の兄と言われる浅井万福丸が市の子であるかどうか明記した史料はない。ただしいずれも十分な史的考察に裏付けられている訳ではない。
- ^ この時代の史料で、淀殿を側室または愛妾などと記述するものは存在せず、秀吉没後、正室高台院と共に「両御台所」と記した史料(『佐竹古文書』一四五)が存在する[2]
- ^ 『浅井氏家譜大成』によると、永禄10年(1567年)以前は信長と長政は面識が全くなかったとある。これが茶々の永禄9年(1566年)生まれの説の基となっている。また浅井家の菩提寺である徳勝寺には、三姉妹の内、淀殿の位牌のみない。
- ^ 妹の江と豊臣秀勝の間の娘。
- ^ 秀吉の直接的な庇護を受ける前、三姉妹は前田家の越前府中城に保護されていたとも、長政の長姉・昌安見久尼(阿久姫)により北近江の実宰院で保護されていたともいう。実宰院に保護されたのは小谷落城後とも北庄落城後とも言われているが、昌庵尼は後に姉妹を保護した恩賞に秀吉から知行を賜っている。
- ^ 当時の武家社会に於いて現当主の生母は優遇されるためである、また通説では秀吉の正室・高台院とは確執があったと言われるが、近年の研究によって豊臣家存続という共通の目的のもと助け合っていたとされる。詳細は高台院#淀殿との関係の項目を参照。
- ^ 上毛史談会の調査によると前橋市の近くに淀君神社と称し淀殿を祀った神社があるという[16]
- ^ 『御当家紀年録 訳注日本史料』(児玉幸多編、集英社、1998年、成立は1664年)に「長政女、号淀」(長政の女(=娘)、淀と号す)との割注があり、江戸前期の記録「御当家紀年録」に、呼び名が「淀」であったとの認識が示されている。
- ^ 治長は家康暗殺謀議の嫌疑で関東に流されたが、殺されてはいない。
- ^ お市の方と兼任
出典
[編集]- ^ 井上安代「星座から推定した淀殿の年齢」(井上安代『豊臣秀頼』続群書類従完成会、1992年)159頁
- ^ 福田 2006, pp. 5–6, 165–166.
- ^ 桑田 1958, p. 25.
- ^ 宮本 2010, pp. 66–74.
- ^ 宮本 2010, pp. 74–75.
- ^ 宮本 2010, pp. 112–115.
- ^ 宮本 2010, pp. 120–121.
- ^ 桑田 1958, p. 33.
- ^ 福田 2006[要ページ番号]
- ^ 宮本 2010, pp. 34–35.
- ^ 笠谷 2010, pp. 51–52.
- ^ 宮本 2010, pp. 184–186.
- ^ a b c d 田端 2003
- ^ “【戦国こぼれ話】大坂冬の陣の和睦のきっかけは、カルバリン砲とセーカー砲による大坂城への集中砲火だった|渡邊大門” (2021年1月29日). 2024年3月22日閲覧。
- ^ 桑田 1972, pp. 55–56.
- ^ 桑田 1972, p. 56.
- ^ 桑田 1958, p. 45.
- ^ 『浅井系統一覧』による。
- ^ 桑田 1958, pp. 45–46.
- ^ 二木謙一「虚構の系譜」『歴史と人物』11巻3号、1981年。
- ^ 小和田 1997, p. 75.
- ^ 田中貴子『あやかし考―不思議の中世―』平凡社、2004年。
- ^ 福田 2006, p. 4.
- ^ 福田 2006, pp. 1–24.
- ^ 北川央 著「浅井三姉妹の長女―淀殿」、小和田哲男 編『戦国の女性たち』河出書房新社、2005年。
- ^ 跡部信「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』34号、2006年)
- ^ 田端泰子『北政所おね―大坂の事は、ことの葉もなし―』(ミネルヴァ書房、2007年)
- ^ 淀君と萩の筆
- ^ 楊谷寺 由緒と天皇家との関わり
- ^ 玉造稲荷神社 豊臣秀頼公
- ^ 宮本 2010, pp. 171–173.
- ^ 桑田 1958, p. 103.
- ^ 桑田 1958, p. 102.
- ^ 桑田 1958, pp. 103–107.
- ^ 桑田 1958, pp. 114–115.
- ^ 栗田元次『江戸時代史』[要ページ番号]
- ^ 北條秀司の舞台|東海大学付属図書館
参考文献
[編集]- 研究書
- 桑田忠親『淀君』吉川弘文館、1958年。
- 桑田忠親『桃山時代の女性』吉川弘文館、1972年。
- 井上安代『豊臣秀頼』続群書類従完成会、1992年
- 小和田哲男『戦国三姉妹物語』角川書店、1997年。ISBN 4047032867。
- 福田千鶴『淀殿 - われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本選評伝〉、2006年。ISBN 4-623-04810-1。
- 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年。
- 笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年。ISBN 978-4784-21067-1。
- 論文
- 田端泰子「「大阪冬・夏の陣」に収斂する淀殿の役割」『京都橘女子大学女性歴史文化研究所紀要』11号、2003年。
- 跡部信「高台院と豊臣家」『大阪城天守閣紀要』34号、2006年。