湊慶譲
湊 慶譲 | |
---|---|
海軍少佐時代 | |
生誕 | 1896年8月30日 日本 鹿児島県姶良郡福山 |
死没 | 1982年10月19日(86歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1917 – 1946 |
最終階級 | 海軍少将 |
湊 慶譲(みなと けいじょう、1896年(明治29年)8月30日 - 1982年(昭和57年)10月19日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。
略歴
[編集]鹿児島県立加治木中学校を卒業[1] し、海軍兵学校第44期へ入校した。席次は入校時100名中8番、卒業時95名中4番。新設された海軍省兵備局の第二課長として出師準備にあたり、軍需工業動員および生産力拡充の統制、物資の需給調整などを担った[2]。
年譜
[編集]- 1896年(明治29年)8月30日- 鹿児島県姶良郡福山村生
- 1908年(明治41年)4月1日- 鹿児島県立加治木中学校入学
- 1913年(大正2年)3月31日- 鹿児島県立加治木中学校卒業
- 9月3日- 海軍兵学校入校
- 1914年(大正3年)12月18日- 学術優等章受章
- 1915年(大正4年)12月15日- 学術優等章受章
- 1916年(大正5年)11月22日- 海軍兵学校卒業 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「八雲」乗組・練習艦隊近海航海出発 有明湾~鹿児島~佐世保~青島~威海衛~大連~鎮海~舞鶴~安下庄~大阪~鳥羽~清水方面巡航
- 1917年(大正6年)3月3日- 帰着
- 1918年(大正7年)9月10日 - 第2特務艦隊司令部附
- 1919年(大正8年)12月1日 - 任 海軍中尉・海軍砲術学校普通科学生
- 1920年(大正9年)5月31日 - 海軍水雷学校普通科学生
- 1921年(大正10年)3月19日 - 海軍大学校選科学生 東京外国語専門学校英語科派遣
- 11月17日- 病気に依り待命
- 1922年(大正11年)11月 – 休職
- 1923年(大正12年)3月20日 - 海軍大学校選科学生 復学
- 12月1日- 任 海軍大尉
- 1925年(大正14年)3月 - 巡洋戦艦「金剛」分隊長
- 1926年(大正15年)12月1日 - 軍令部出仕(第3班第5課)
- 1927年(昭和2年)12月1日 - 兼 元帥東郷平八郎海軍大将副官
- 1929年(昭和4年)11月1日 - 軍事参議官安保清種海軍大将副官
- 1930年(昭和5年)4月15日- 軍令部出仕 兼海軍大臣副官兼秘書官(全権財部彪の帰国に随行)
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 軍令部出仕
- 1932年(昭和7年)5月27日 - 兼 元帥伏見宮博恭王海軍大将軍令部長副官
- 1933年(昭和8年)10月1日 - 元帥伏見宮博恭王海軍大将軍令部総長副官
- 1934年(昭和9年)11月15日 - 任 海軍中佐・海軍軍令部出仕 兼第3艦隊司令部附 上海在勤
- 1936年(昭和11年)12月1日 - 海軍軍令部出仕
- 1937年(昭和12年)10月7日 - 第12航空隊副長 兼第3艦隊司令部附
- 1938年(昭和13年)2月10日 - 航空母艦「赤城」副長
- 1939年(昭和14年)3月10日 - 海軍軍令部兼海軍省出仕
- 1940年(昭和15年)11月15日 - 海軍省兵備局第2課長
- 1941年(昭和16年)11月15日 - 横須賀鎮守府附
- 1942年(昭和17年)8月31日 - 航空母艦「雲鷹」艦長
- 1943年(昭和18年)1月28日 - 横須賀鎮守府附
- 1944年(昭和19年)5月1日 - 任 海軍少将
- 1946年(昭和21年)7月15日 - 予備役編入
- 1982年(昭和57年)10月19日 - 死去 享年86
出典
[編集]参考文献
[編集]- 戦史叢書・第79巻 中国方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第38巻 中部太平洋方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第62巻 中部太平洋方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 海軍少将 湊 慶譲 回想録(坂元昭夫等編・私稿版)
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野寺誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)