牛尾健治
牛尾 健治(うしお けんじ、1898年(明治31年)11月 - 1958年(昭和33年)8月20日[1])は、日本の実業家。牛尾合資会社代表社員[2][注 1]。中国合同電気、山陽商事各社長[5][注 2]。神戸銀行副頭取[5]。姫路商工会議所会頭。神戸経済同友会元代表幹事[7]。兵庫県輸出工業協会長[7]。
人物
[編集]兵庫県姫路市出身。飾磨郡豊沢村・梅吉の長男[5][7]。1920年、大阪高等商業学校卒業[8]。1923年、東京商科大学(現一橋大学)卒業[7][9][10]。東京で大学講師をしていたが、1934年に父・梅吉が他界し、帰郷して事業を引き継ぐことになった[1]。1934年、家督を相続した[5]。株式公債売買業を営む[9]。中国合同電気に入社[11]。
広沢製作所会長[7]、大日本産業報国会理事、神戸銀行副頭取、鳥取電燈副社長[12]、日本電球、但馬瓦斯、山陽瓦斯、山陽製紐、北海電気興業、日本商品、日本編物、ナニワ電球工業、牛尾興業、山陽商事各社長などを務め[2][5]、神戸経済同友会の立上げも行った[13]。
1948年、公職追放になった[1]。敗戦による財閥解体のため、事業を縮小し、目立たなくしたが、その財力は、些かも変わらなかったという[14]。追放解除のあと、電力、ガスでは社外役員になったくらいで、神戸・舞子の自宅で句会をしたり、新国劇の島田正吾らと交友した[1]。
1958年8月20日、59歳で死去[1]。健治が残したのは、繊維、不動産、電機部門などをもつ牛尾工業で、どの部門も赤字という中小企業だった[1]。
住所は兵庫県姫路市西紺屋町[9][15]・同市北条口[11]・同市福沢町[16]、同県神戸市須磨区垂水町舞子[5]。宗教は真宗[5][7]。趣味は読書、俳句[5][7][17]。文人肌ながら[13]、進取的な気象に富み、経営的手腕もあった[17]。思想は自由主義的だった[1]。
家族・親族
[編集]- 牛尾家
- 祖父・政五郎[18]
- 祖母・みな(1830年 - ?、兵庫・三木太平の長女、絶家三木氏を再興)[9][18]
- 父・梅吉[15][18](1864年 - 1934年、兵庫県平民、牛尾合資会社代表社員、仲介業、相場師、資産家、兵庫県多額納税者、姫路駅周辺の大地主[19])
- 母・きぬゑ(1875年 - ?、兵庫・望月有寧の三女)[18]
- 養姉・ハナ(1895年 - ?、大阪・乾利一の妻)[5]
- 弟・敏(1907年 - ?、兵庫・三木みなの養子、牛尾梅吉二男[18]、三木興業会長)
- 妻・みつ[16](1902年 - ?、或いは美津子、兵庫・中村彌之祐の養妹)[5][18]
- 長男・吉朗[5](ウシオ工業社長、1929年 - )
- 二男・治朗[5](ウシオ電機会長、1931年 - )
- 女[5]
- 親戚
その他
[編集]- 第二次世界大戦前、姫路藩が所有していた御座船を取得。舞子の邸宅に保管していた[20]。死後、遺族から神戸市に寄贈され中央区にある日本庭園「相楽園」に船屋形として上部構造部分のみ伝えられている[21]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 『わたしの足跡 関西経済人列伝』154-162頁。
- ^ a b 『日本紳士録 第41版』兵庫ウ26頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月14日閲覧。
- ^ 『兵庫県会社一覧 昭和13年12月末日現在』109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月22日閲覧。
- ^ 『統計年報 昭和2年』72頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第14版 上』ウ41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月13日閲覧。
- ^ 『兵庫県会社一覧 昭和13年12月末日現在』114頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第15版 上』ウ13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月11日閲覧。
- ^ 『大阪商科大学一覧 昭和4年5月』323頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月14日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第10版 上』ウ58頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月29日閲覧。
- ^ 『東京商科大学一覧 自大正13年至14年』博士、学士及卒業生姓名194頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月14日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第11版 上』ウ62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月14日閲覧。
- ^ 『日本全国銀行会社録 第47回』鳥取県 下編275頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年12月18日閲覧。
- ^ a b 「先見性と人脈で飛躍 ウシオ電機・牛尾治朗氏に聞く」神戸新聞
- ^ 逆説の日本史23明治揺籃編18 - 21頁。
- ^ a b 『人事興信録 第4版』ウ42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月13日閲覧。
- ^ a b 『姫路飾磨神崎紳士大鑑』68頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月1日閲覧。
- ^ a b c 『人的事業大系2(電力篇)』218 - 219頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月14日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第9版』ウ47 - 48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。
- ^ “ウシオ電機牛尾治朗会長は“平成の後白河法皇”と呼ばれた男”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2020年4月1日). 2022年7月11日閲覧。
- ^ 三百年前の豪華船、尾張藩の御座船発見(昭和17年9月6日 東京日日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p8 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ “陸揚げされた姫路藩水軍の威容”. 日経スタイル エンタメ!歴史博士 (2012年10月2日). 2022年1月9日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『姫路飾磨神崎紳士大鑑』姫路興信所、1924年。
- 東京商科大学編『東京商科大学一覧 自大正13年至14年』東京商科大学、1925年。
- 『統計年報 昭和2年』姫路商工会議所、1928年。
- 大阪商科大学編『大阪商科大学一覧 昭和4年5月』大阪商科大学、1929 - 1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 兵庫県総務部調査課編『兵庫県会社一覧 昭和13年12月末日現在』兵庫県総務部調査課、1936 - 1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937年。
- 交詢社編『日本紳士録 第41版』交詢社、1937年。
- 商業興信所編『日本全国銀行会社録 第47回』商業興信所、1939年。
- 中外産業調査会編 『人的事業大系2(電力篇)』中外産業調査会、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
- 産経新聞大阪経済部『わたしの足跡 関西経済人列伝』産経新聞出版、2007年。
関連項目
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