美濃囲い
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一 | |||||||||
二 | |||||||||
三 | |||||||||
四 | |||||||||
五 | |||||||||
歩 | 六 | ||||||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 七 | |||||
金 | 銀 | 玉 | 八 | ||||||
金 | 桂 | 香 | 九 |
美濃囲い(みのがこい)は、将棋の囲いの一つで、主に振り飛車戦法で用いられる、先手でいえば玉将を2八の位置に、右の銀将を3八の位置に、左の金将を5八の位置に動かして作る囲いである(右金はそのままの位置。右図参照)。
通常の美濃囲いを、他の美濃囲いと区別して本美濃(ほんみの)と呼ぶこともある。
美濃囲いは居飛車における矢倉囲いと並んで代表的な囲いである。
長所と短所
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一 | |||||||||
二 | |||||||||
三 | |||||||||
四 | |||||||||
角 | 五 | ||||||||
桂 | 六 | ||||||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 七 | ||||
金 | 銀 | 玉 | 八 | ||||||
金 | 桂 | 香 | 九 |
構えが低く横からの攻めに強いため、居飛車に対して有効な囲いである。例えば、自陣の囲いと反対側から飛車を成り込まれたり、飛車を打ち込まれたりしてもすぐには寄らないため、美濃囲い側は敵陣を攻める時には飛車を切るような激しい戦いもできる。
しかし端からの攻め(端攻め参照)や上部からの攻めに弱い上、玉のある位置に利いている駒がないため、一旦上部を破られると2八に駒を打たれて受けがなくなる弱点がある。なので3六に桂馬を捨てられると、相手の角筋を素通しにせざるを得なくなる。このため端歩をつかない形(俗に棺桶美濃と呼ばれる)に有名な頓死がある。
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香 | 龍 | 金 | 桂 | 香 | 一 | ||||
銀 | 金 | 王 | 二 | ||||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 三 | |||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 四 | |||||
歩 | 五 | ||||||||
桂 | 歩 | 六 | |||||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 七 | ||||
香 | 角 | 金 | 銀 | 玉 | 八 | ||||
飛 | 金 | 桂 | 香 | 九 |
右図は△3六桂と打たれた局面。この局面では手遅れであり、先手玉の逃げ場所は▲1八玉と▲3九玉の2ヶ所のみ、いずれも△2八金までの即詰みとなってしまう。
また、端歩を突いている形でも、一段飛車であったり角のにらみを生かして△3六桂と打たれると、あっという間に寄ってしまいやすい。例えば、左図の場合△3六桂を▲同歩と取ると△8八飛成▲同龍△5五角の王手飛車となるので、先手は▲1八玉もしくは▲1七玉としたいが、この場合は一気に寄せられる。▲1八玉は以下△1七銀で、▲同桂は△4九飛成から△2八金、▲同玉も△4九飛成から△3九角以下詰みである。△3六桂に▲1七玉でも△2八銀で、▲2六玉でも▲1八玉でもやはり△4九飛成で金を手に入れると後手玉は詰みである。そして美濃囲いを寄せる際の急所は4九(後手なら6一)にいる金を動かすことで、3九(7一)に角や銀を打つ展開になると、美濃囲いの玉は寄ってしまう[1]。
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香 | 桂 | 桂 | 香 | 一 | |||||
飛 | 金 | 王 | 二 | ||||||
歩 | 銀 | 銀 | 金 | 歩 | 三 | ||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 四 | |||||
金 | 歩 | 五 | |||||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 六 | ||
銀 | 銀 | 桂 | 歩 | 七 | |||||
飛 | 金 | 玉 | 八 | ||||||
香 | 桂 | 香 | 九 |
右図は木村美濃囲いのくずし例で、居飛車が△3五歩▲同歩△3六歩とした場面。▲同銀ならば△7一角と打つ狙い。以下▲4八飛ならば△5七角成。▲6九飛ならば△4六角成で、▲4七銀ならば△同馬▲同金△5七銀、△4六角成に▲4七金ならば△同馬▲同銀△5七金▲3八玉△6七歩など。
同様に、7八飛型三間飛車や5八飛型中飛車ならば△6一角が狙いとなる。
また玉に紐がないことから、一旦王手がかかると為す術もなく即詰みもしくは一手一手の寄りとなってしまいやすい。
居飛車側が舟囲いの場合は堅さで大きく上回ることができるが、穴熊囲い(居飛車穴熊)に比べると堅くない。
名称の由来
[編集]美しい美濃国の城にちなんでこの名前が付けられた(または岐阜城にちなんで織田信長が命名した)とされるが、東公平の研究によれば、江戸時代の美濃国出身の棋士が創始したからであるという説が江戸時代には一般的であったという[2]。東によれば以下の二説が存在している。
- 美濃の音通和尚が始めた囲いであるから、美濃囲いという。
- 美濃出身の松本紹尊七段が始めた囲いであるから、美濃囲いという。
また、「三枚の金銀を「三布」に見たてた」という見解もある[3]。
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香 | 桂 | 金 | 桂 | 香 | 一 | ||||
王 | 銀 | 金 | 飛 | 二 | |||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 角 | 歩 | 三 | |||
歩 | 銀 | 歩 | 四 | ||||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 五 | ||||
歩 | 銀 | 六 | |||||||
歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 七 | ||||
角 | 飛 | 金 | 銀 | 玉 | 八 | ||||
香 | 桂 | 金 | 桂 | 香 | 九 |
美濃囲いの由来の通説として名前のあがった、美濃の棋客音通和尚(通音や通遠日長とも[4])は、腕前は当時で初段を指し、元禄八年(1695年)刊行の手合集『近来象戯記大全―付異類之詰物』(青木善兵衛・編、上・中・下巻) や享保2年(1717年)刊行の『象戯図彙考鑑』(将棊図彙考鑑、原喜鶴 撰)[2]で合わせて3局の棋譜が残っており、いずれも平手で美濃囲いを指している。1791年刊行の『象戯指南車』では、「通音流」と題して美濃囲いを「其手は濃り通音和尚の指初られたり」との記載がみられ、また享和元年(1801年)刊『象戯鷲抓』(鷲見定齋 編 ; 出版者. 永樂屋東四郎)では美濃囲いを「通遠流」と紹介している。
一方で松本紹尊は『象戯図彙考鑑』により、美濃囲いの開発者にあげられている。「後の駒立は見のかこひといふなり松本入道紹尊きはめて此駒造を好むによつてこゝに是をつくる也しかれ共古流也」とあり、檜垣是安と同時期、初代伊藤宗看の頃の人物で写本として「伊藤宗看松本紹尊平手将棊三十番」で棋譜が残っているが、美濃囲いを指している棋譜はそれに無く、わかっていない。
また、どちらが最初に美濃囲いを指したかについてはハッキリとはわからない。
音通和尚は時期が不詳であるが、『近来象戯記大全』中巻に平手の24番、通遠として対大阪次右衛門(先手)戦が掲載されており、相振り飛車の戦型でお互い美濃囲いの棋譜が存在する。和尚の棋譜から活動期を1700年代前後とみると、1600年代末の将棋であるとみられ、棋譜としては平手において美濃囲いが指された現存する最古の棋譜とみられる。
歴史
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桂 | 金 | 銀 | 桂 | 香 | 一 | ||||
飛 | 金 | 王 | 二 | ||||||
歩 | 歩 | 歩 | 角 | 歩 | 歩 | 三 | |||
歩 | 銀 | 歩 | 四 | ||||||
歩 | 歩 | 五 | |||||||
歩 | 歩 | 歩 | 銀 | 六 | |||||
歩 | 角 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 歩 | 七 | ||
金 | 飛 | 銀 | 玉 | 八 | |||||
香 | 桂 | 金 | 桂 | 香 | 九 |
振り飛車戦法は江戸の時代からアマチュア棋士に人気であったが、駒落ちの戦法・囲いとしては江戸期からかなり研究されていた様子で、下手が二枚落ち、飛車落ち、角落ちでは美濃囲いから銀冠へと組む定跡を紹介している棋書が多数ある。
天狗太郎は、最初に美濃囲いの形をとるのは江戸時代もずっと後代になってからとしている[5]。
美濃囲いが指された最古の将棋として、1641年に指されたとされる下手萩野真甫[6]対上手初代伊藤宗看の右香落戦の棋譜が残る。1695年刊行『近来象戯記大全』下巻32番の棋譜で、下手の萩野が美濃囲いをしている。
1707年刊行、赤縣敦菴の『象戯綱目』[3] 「平手定跡四間飛車」では、2種類の後手の四間飛車についての棋譜が掲載されているが、そのうちの一つが美濃囲いに組んでいる。対して「これは真甫の将棋である」という解説がなされており、萩野真甫の実践譜をもとにした掲載のようである。
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香 | 桂 | 金 | 桂 | 香 | 一 | ||||
王 | 銀 | 飛 | 二 | ||||||
歩 | 歩 | 金 | 歩 | 角 | 歩 | 三 | |||
歩 | 歩 | 銀 | 歩 | 歩 | 歩 | 四 | |||
歩 | 五 | ||||||||
歩 | 歩 | 銀 | 歩 | 歩 | 飛 | 歩 | 六 | ||
歩 | 歩 | 歩 | 桂 | 七 | |||||
角 | 玉 | 金 | 金 | 八 | |||||
香 | 桂 | 銀 | 香 | 九 |
平手用として他に美濃囲い定跡が出てくるのは1717年の『象戯図彙考鑑』である。同書の「定跡駒組美濃囲」では、先手二枚金2五歩型浮き飛車型腰掛銀 対 後手高美濃の棋譜が掲載されている。このように1700年代初頭には「定跡」として整備されつつあったが、昭和初期までは囲いとしての評価はけっして高くはなかった。
御城将棋の美濃囲いはなかなか現れなかったが、1763年の大橋印寿(後の九代大橋宗桂)対八代大橋宗桂の御城将棋、角落ちの手合いで父宗桂と対戦することとなったこの対局で、下手印寿が三間飛車に振り、美濃囲いから銀冠にも組んでいる。
他には、1765年(明和二年)の御城将棋、伊藤宗印対大橋印寿(大橋宗桂 (9代))戦、2香差の左香落ち戦で、出現した[5][7]。 またこの時代には既に居飛車側の左美濃も見られている[8]。
特に角落ちの上手の策については、1700年代に3二玉型から4三玉に組む象眼作戦が開発され、例えば1710年の角落ち戦、下手大橋宗銀対上手伊藤印達で、印達が指している。特にその父である二代目宗印(のちの五世名人)が1722年の御城将棋で採用し優秀な作戦と認識されると、この後の御城将棋での角落ち将棋では、下手が矢倉や相掛かり調の作戦を採用していたのである。
印寿同様角落ちで下手が振り飛車と銀冠にする指し方は、大橋宗順もその後の1765年の御城将棋で採用し、このあたりから美濃囲いが指されるようになる。
△ 持ち駒 歩
| △ 持ち駒 歩
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平手の将棋・対抗系つまり通常の振り飛車美濃囲いが組まれたのは、大橋親子戦の10年後、1773年12月に後手番となった印寿の弟子で詰将棋作家としても知られる桑原君仲が平次良との対局での採用が知られる。先手が急戦調に構えたのに対し、四間飛車に美濃囲いにした棋譜が残っている。
さらに半世紀経った1821年(文政4年)の御城将棋の棋譜に登場する[9]。これが御城将棋においての平手戦で初めて対抗型の美濃囲いが出現したものとみられ、前述の天狗太郎によると、左香落ち戦宗印・印寿戦からみて50数年後、のちに大橋柳雪を名乗った2代目大橋英俊と贈名人伊藤看寿戦であるとしている[10]。
この後将棋界は相居飛車戦の大流行を見、振り飛車はあまり指されなくなったというが[11]、1950年頃以降、大野源一らの活躍により再評価がなされていき[12]、それと同時に美濃囲いも市民権を得ていくこととなった。当の大野は1954年の自戦記で、振り飛車は飛車を振る一手が損な上に角道を止めるため守勢に陥りやすいが、美濃囲いが他の囲いに比べて遥かに堅固であり左翼を突破されてもすぐには玉に響かないため、また捌きを重視する自身の棋風に相応しいため、この戦法を用いていると語っている[13]。
美濃囲いの派生形・変形
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玉側の端歩を突くかどうか任意であるが、対抗型では玉の逃げ道の確保や居飛車穴熊対策などに端歩を突くことが多く、突き越すこともある。それに対し、相振り飛車では端歩を突くと却って相手からの端攻めを誘発するため端歩は突かない。玉側の端歩を突かない形の美濃囲いは棺桶美濃と呼ばれる。
左金の代わりに左銀が参加する形は銀美濃(ぎんみの)と呼ばれる。通常の美濃囲いに比べ金銀相互の連絡は良いが、手数がかかる上、左銀の横腹が弱点となるなど欠点が多く、あまり使われる形ではない。
金銀が1つない美濃囲いは片美濃(かたみの)と呼ばれる。堅さには欠けるが、左金を用いて攻めを強力にすることができる。中飛車では5八(後手では5二)に飛車があるため、美濃囲いに囲おうとすると必然的にこの形になる[注 1]。また金美濃はこの形より上部に強いが、下段からの攻めには弱くなる[14]。
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美濃囲いの4七の位置に左銀をおいたものは、金銀の連携の形からダイヤモンド美濃と呼ばれる。金銀4枚で囲うため非常に堅い。
美濃囲いから数手進めて左金を4七の位置へ進めた形を高美濃(たかみの)という。横の堅さを維持したまま上部からの攻めにも対応しているが、玉頭はまだ弱い。堅さを高めるとともに、攻めへの活用も視野に入れて3七の位置に桂馬を跳ねるのが普通だが、端がさらに弱くなる欠点もある。この形では3六歩と5六歩を突いていないと4七金が桂馬で狙われるため、特に3六歩は金上がりに先んじて突かれることが多い。
高美濃囲いからさらに手を進め、銀を2七の位置へ、右金を3八の位置へ進めると銀冠(ぎんかんむり)という囲いになる。上部からの攻めに手厚い囲いであるが、玉の堅さより玉の(上部の)広さに重点を置いた囲いであり、終盤の寄せ合いに強い。3七に桂馬を上げるとさらに上部に手厚く攻撃的な形になるが、下段が薄くなるため敢えて桂馬を跳ねないことも多い。大山康晴十五世名人は銀冠では決して桂馬を跳ねるべきではないと主張していた。また、銀を上がった瞬間の形が極端に弱いため、上がるタイミングを誤ると一気に崩される可能性もある。高美濃囲いを経由せずに、金が3八と4八にあるものも銀冠と呼ぶ。通常の銀冠よりも短手数で組め、下段からの攻めに強い。
銀冠から穴熊に潜った形を銀冠穴熊という。通常の銀冠よりも、玉が戦場から遠くなるという利点がある。また、4八金型から穴熊に潜り、2八金、3八金寄と締めた形もそう呼び、3八金.4七金型より堅い。
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2筋の歩を突き、居飛車と思わせてから飛車を振る(陽動振り飛車)場合、片美濃囲いや本美濃囲いに組んでも2筋の歩が突かれた状態が残る。この歩を玉のちょんまげに見立てて、加藤治郎は「ちょんまげ美濃」と命名した。銀冠などに発展させることにより、ちょんまげは消滅する。また、玉頭に歩が無い形は坊主美濃とよばれ、ひねり飛車などの戦型で現れる。歩が無いため、片美濃囲いよりもはるかに玉頭が弱く、玉が3九に居ることも多い。堅さを望む場合には2七に持ち歩を打ち、普通の片美濃囲いにすることもある。
また木村義雄が香落ち戦で多用した囲いが木村美濃(きむらみの)である。平手戦でもツノ銀中飛車戦法や雁木戦との相性が良い。雁木でみられるとおり居飛車で左に囲う際でも利用されており、美濃囲いよりも矢倉囲いに近いと考える者もいる。『将棋世界』2022年10月号の記事「将棋世界1000号記念・将棋世界クロニクル」(執筆:小笠原輝、P.46)では、「カニ囲い」「箱入り娘」「流れ矢倉」などとともに、『将棋世界』1947年2月号、3月号での「駒組名称募集」の読書投票で囲いの名前が決まったと記述されている。
右四間飛車#対振り飛車戦にあるとおり、『象戯馬法併作物』(1616年刊)の最初ページにある局面図の後手番で使用されているのでわかるとおり、江戸時代から振り飛車に用いられている。
| △ 黒田 持ち駒 飛歩
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2017年02月日本将棋連盟ウェブサイトのコラム「美濃囲いの弱点はコビン攻め!角のラインで攻略しよう【美濃囲いの崩し方 vol.4】 」[15]で、通常の美濃囲いとは間違えた形が掲載された。金銀の配置がそれぞれ上下逆で、耀龍四間飛車で使用される囲いに類似したような構えになっていた。コラムの画像もすぐに訂正して差し替えられるが、その間違った囲いはのちに連盟美濃(れんめいみの)と呼ばれるようになる[16]。
掲載された当初はSNSなどで、囲いとしてのひどさや間違って掲載した連盟等のずさんさも含めネガティブな意見が多くみられたが、その後に連盟美濃をコンピュータ将棋/将棋AIで検討する者や、連盟美濃を将棋ウォーズや将棋倶楽部24などのインターネット対局などの実戦で採用する将棋愛好者も現れると[16]、案外この構えがひどい囲いではないのではと肯定的な意見が見受けられるようになっていく。実際に中飛車の場合などは、通常の美濃囲いに比べて、先手で5六の地点(後手なら5三の地点)を4八の金(後手なら6二の金)がケアしている格好となる。
そして棋戦では、第5期叡王戦予選四段戦で、里見香奈女流五冠 VS 黒田尭之四段(段位肩書・名称は当時)の対局の際に、先手の里見が局面の流れで自陣の囲いが連盟美濃となったが、そのまま後手の攻めを巧みに受けきり勝利している[17]。
左美濃
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 6九の左金を5九に寄せる、飛車を5九に引いてから左金を5八→4七と動かして高美濃にするといった駒組みは可能である。
出典
[編集]- ^ 例えば、久保利明・菅井竜也『久保&菅井の振り飛車研究』マイナビ将棋Books、2015年 等
- ^ 東公平「甦る江戸将棋」(『近代将棋』2006年4月号96-100頁掲載)
- ^ 塚田泰明・横田稔『序盤戦!!囲いと攻めの形』(高橋書店、1998年)36頁
- ^ 「『将棊図彙考鑑』(「象戯図彙考鑑」、原喜鶴撰 享保2年刊)5巻には「音通」ではなく「通遠日長」の名がある。」[1]
- ^ a b 天狗太郎「将棋金言集」、時事通信社、1992年
- ^ 江戸時代の将棋-萩藩の強豪“真甫”- 山口県文書館
- ^ 湯川 (2005) p.176 。同書によれば当時は銀は3段目に上がって使う物との意識が強く、なかなか銀が2段目に収まる美濃囲いにはならなかったのではないかと言う。
- ^ 湯川 (2005) pp.178-181
- ^ 湯川 (2005) p.184
- ^ 大内延介・天狗太郎(1982年)『振り飛車のルーツ』(時事通信社)
- ^ 湯川 (2005) p.192, p.198。
- ^ 湯川 (2005) pp.203-
- ^ 湯川 (2005) p.211 - 『将棋世界』 1954年9月号よりの孫引き。
- ^ 原田泰夫 (監修)、荒木一郎 (プロデュース)、森内俊之ら(編)、2004、『日本将棋用語事典』、東京堂出版 ISBN 4-490-10660-2 pp. 66
- ^ 将棋コラム 美濃囲いの弱点はコビン攻め!角のラインで攻略しよう【美濃囲いの崩し方 vol.4】
- ^ a b 例えば、でた、連盟美濃! 将棋ウォーズ 10秒将棋実況(833)角交換四間飛車 YouTube アゲアゲ将棋実況 等
- ^ 里見香奈女流五冠が黒田尭之四段を破り勝ち進む 叡王戦予選四段戦 更新:2019年07月27日 17:00 日本将棋連盟
参考文献
[編集]- 湯川博士、2005、『振り飛車党列伝』、毎日コミュニケーションズ ISBN 4-8399-1888-0