舟越楫四郎
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練習艦隊司令官時代 | |
生誕 | 1870年9月23日(明治3年8月28日) 日本・兵庫県 |
死没 | 1962年10月30日(92歳没) 日本 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1891年 - 1922年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 三菱石油社長 |
墓所 | 青山霊園 |
舟越 楫四郎(ふなこし かじしろう、1870年9月23日(明治3年8月28日) - 1962年(昭和37年)10月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。名は「揖四郎」とした例もある。
来歴
[編集]兵庫県出身。船越恭の四男として生まれる。開成中学校を経て、1890年(明治23年)4月、海軍兵学校(16期)を卒業し、翌年9月に海軍少尉に任官。日清戦争に「橋立」分隊士として出征した。「八重山」分隊長、「富士」分隊長、「鎮遠」水雷長、呉水雷団副官、「朝日」分隊長、砲術練習所教官、「八雲」砲術長、教育本部第1部員などを経て、日露戦争には第二艦隊の副官として従軍した。
その後は海軍省人事局員、「香取」副長、「千早」「和泉」の各艦長、横須賀鎮守府付、「対馬」「橋立」「磐手」「八雲」「生駒」の各艦長、艦政本部艤装員、「榛名」艦長などを歴任し、1915年(大正4年)12月、海軍少将に進級した。
イギリス大使館付武官、横須賀鎮守府参謀長、第1艦隊参謀長、兼連合艦隊参謀長などを経て、1919年(大正8年)12月、海軍中将となり第二遣外艦隊司令官、将官会議議員、横須賀工廠長などを歴任、1922年(大正11年)12月、予備役に編入された。その後1932年(昭和7年)1月から翌年12月まで、三菱石油社長を務めた。
戦後は1947年(昭和22年)11月に公職追放仮指定を受ける[1]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)2月10日 - 従七位[2]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[3]
- 1901年(明治34年)4月20日 - 従六位[4]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 正六位[5]
- 1910年(明治43年)3月22日 - 従五位[6]
- 1922年(大正11年)12月28日 - 正四位[7]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等単光旭日章[8]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章[9]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[10]
- 1916年(大正5年)8月1日 - 勲二等瑞宝章[11]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[12]
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、7頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
- ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第1251号「叙任及辞令」1916年9月30日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。