葦 (駆逐艦)
1929年から翌年の「葦」[1] | |
艦歴 | |
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計画 | 1918年度[2] |
起工 | 1920年11月15日[2] |
進水 | 1921年9月3日[2] |
就役 | 1921年10月29日[2] |
その後 | 1927年8月24日 美保関沖で訓練中に「那珂」と衝突し大破[2] 1928年3月舞鶴工作部で修理完成[2] 1940年10月15日雑役船編入、練習船指定、航海学校附属[2] 1944年12月15日「第二泊浦」に改名[2] 1945年横須賀突撃隊の母艦に使用[2] 終戦時、東京湾第二海堡に擱座[2] 1947年解体[3] |
除籍 | 1940年2月1日[2] |
性能諸元(計画) | |
排水量 | 基準:公表値 770トン 常備:850.00トン |
全長 | 全長:290 ft 0 in (88.39 m) 水線長:280 ft 0 in (85.34 m) 垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m) |
全幅 | 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m |
吃水 | 8 ft 0 in (2.44 m) |
深さ | 16 ft 3 in (4.95 m) |
推進 | 2軸 x 400rpm 直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m または直径2.565m、ピッチ3.353m |
機関 | 主機:ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基[4] 出力:21,500shp ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基 |
速力 | 36ノット |
燃料 | 重油240トン |
航続距離 | 3,000カイリ / 14ノット |
乗員 | 計画乗員 107名[5] 竣工時定員 110名[6] |
兵装 | 45口径三年式12cm砲 単装3門 三年式機砲 2挺 53cm連装発射管 2基4門 魚雷8本 |
搭載艇 | 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻 |
備考 | ※トンは英トン |
葦(あし)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、樅型駆逐艦の15番艦である。
艦歴
[編集]1920年(大正9年)11月15日、神戸川崎造船所で起工[7]。1921年(大正10年)9月3日午前7時30分進水[8]。同年10月29日竣工[9]。
1927年(昭和2年)の美保関事件において、軽巡洋艦「那珂」と衝突事故を起こし大破。1928年(昭和3年)3月、舞鶴工作部で修理完成。1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)まで、日中戦争において華北沿岸の作戦に参加した[2]。
1940年(昭和15年)2月1日に除籍。同年10月15日、雑役船に編入され海軍航海学校付属の練習船となる。1944年(昭和15年)12月15日、葦 (橘型駆逐艦)(のち建造中止)との区別のため、第二泊浦(だいにとまりうら)に改称。1945年(昭和20年)7月11日、横須賀突撃隊の母艦となるが、後に東京湾第二海堡に擱座。1947年(昭和22年)に解体された。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 西尾三郎 少佐:1921年7月20日[10] -
- 駆逐艦長
- 西尾三郎 少佐:1921年10月29日[11] - 1922年12月1日[12]
- 横山徳治郎 少佐:1922年12月1日 - 1923年11月20日
- 後藤伝治郎 少佐:不詳 - 1924年12月1日[13]
- 大島四郎 少佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
- 森友一 大尉:1925年12月1日 - 1927年1月20日
- 須賀彦次郎 少佐:1927年1月20日 - 1927年11月1日
- 金桝義夫 少佐:1928年2月10日 - 1928年11月20日
- 崎山釈夫 少佐:1928年11月20日 - 1929年11月30日
- 伊崎俊二 少佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
- 丸山逞 大尉:1930年12月1日[14] - 1932年10月10日[15]
- 安武史郎 少佐:1932年10月10日 - 1934年11月1日
- 三浦晋 大尉:1934年11月1日[16] - 1935年11月15日[17]
- 山下鎮雄 少佐:1935年11月15日[17] - 1936年12月1日[18]
- 緒方友兄 少佐:1936年12月1日[18] - 1938年3月26日[19]
- 岩橋透 少佐:1938年3月26日[19] - 1938年11月10日[20]
- 小比賀勝 大尉:1938年11月10日[20] - 1938年12月15日[21]
- (兼)高須賀修 少佐:1938年12月15日[21] - 1939年1月20日[22]
- 上井宏 少佐:1939年1月20日[22] - 1939年4月1日[23]
- (兼)高須賀修 少佐:1939年4月1日[23] - 1939年6月1日[24]
- 江原晃 少佐:1939年6月1日[24] - 1939年11月1日[25]
脚注
[編集]- ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.543、No.1426の写真解説
- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本海軍史』第7巻、302頁。
- ^ #日本海軍全艦艇史 資料編「主要艦艇艦歴表」12頁。
- ^ #帝国海軍機関史下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)
- ^ #一般計画要領書p.16、士官6名、特務士官3名、下士官26名、兵72名
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.601-602、『大正八年六月十日(内令一八二) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 二三等驅逐艦定員表ヲ附表ノ通改ム | 第六十表 | 二三等驅逐艦定員表 |(詳細、備考略) |』將校、機關將校6人、特務士官准士官3人、下士26人、卒75人
- ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1074-1075、昭和3年2月14日附内令第34号、艦船要目公表範囲。
- ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蔦、葦製造一件(2)画像13『大正十年九月三日(中略)驅逐艦葦今朝七時三十分無事進水致シマシタ』
- ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蔦、葦製造一件(2)画像20『大正十年十月二十九日(中略)驅逐艦葦今日午前十一時無事御引渡致シマシタ』
- ^ 『官報』第2692号、大正10年7月21日。
- ^ 『官報』第2776号、大正10年11月2日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
- ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
- ^ 『官報』第1736号、昭和7年10月11日。
- ^ 『官報』第2353号、昭和9年11月2日。
- ^ a b 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第156号 昭和13年3月26日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073600
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第259号 昭和13年11月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第289号 昭和14年1月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075300
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第321号 昭和14年4月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075600
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第342号 昭和14年6月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第397号 昭和14年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600
参考文献
[編集]- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年。ISBN 4-905551-41-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 「二等駆逐艦及水雷艇 一般計画要領書 附現状調査」。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『大正10年 公文備考 巻24 艦船1/駆逐艦蔦、葦製造一件(2)』。Ref.C08050172900。