葵 (駆逐艦)

ウェーキ島に接岸する第三十二号哨戒艇(葵、左)と第三十三号哨戒艇(萩、右)
艦歴
計画 1917年度[1]
起工 1920年4月1日[1]
進水 1920年11月9日[1]
就役 1920年12月20日[1]
その後 1940年4月1日哨戒艇編入、第三十二号哨戒艇と改名[1]
1941年高速輸送艦に改造[1]
1941年12月23日接岸強行擱座、放棄[1]
除籍 1942年1月10日[1]
性能諸元(計画)
排水量 基準:公表値 770トン
常備:850.00トン
全長 全長:290 ftin (88.39 m)
水線長:280 ft 0 in (85.34 m)
垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m)
全幅 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m
吃水 8 ft 0 in (2.44 m)
深さ 16 ft 3 in (4.95 m)
推進 2軸 x 400rpm
直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m
または直径2.565m、ピッチ3.353m
機関 主機:ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基[2]
出力:21,500shp
ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基
速力 36ノット
燃料 重油250トン
航続距離 3,000カイリ / 14ノット
乗員 計画乗員 107名[3]
竣工時定員 110名[4]
兵装 45口径三年式12cm砲 単装3門
三年式機砲 2挺
53cm連装発射管 2基4門
魚雷8本
搭載艇 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻
備考 ※トンは英トン

(あおい)は、大日本帝国海軍駆逐艦で、樅型駆逐艦の10番艦である。1940年(昭和15年)4月1日、哨戒艇に類別変更。第三十二号哨戒艇に改称。1941年(昭和16年)12月22日、ウェーキ島上陸作戦で、接岸を強行して擱座し放棄された[1]

艦歴

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1920年(大正9年)4月1日、神戸川崎造船所で起工[5]。同年11月9日午前7時進水[6]。同年12月20日竣工[5]

1937年昭和12年)、日中戦争において華北沿岸の作戦に参加した[1]

1940年(昭和15年)4月1日、哨戒艇に類別変更。第三十二号哨戒艇に改称。

1941年11月20日に南洋部隊に編入され[7]、太平洋戦争緒戦のウェーク島攻略作戦に参加した。

11月20日、呉発[7]。サイパンを経て12月2日にルオットに到着[7]。同日、ルオット発[8]。タロアで陸戦隊を収容しルオットに戻った[8]

12月8日、ウェーク島攻略部隊(「第三十二号哨戒艇」の他、軽巡洋艦「夕張」、特設巡洋艦「金剛丸」、「金龍丸」など)とウェーク島攻略援護隊(軽巡洋艦2隻)はルオットから出撃した[9]。 12月10日にウェーク島に到着[10]。しかし波浪が高く艦の動揺のため特設巡洋艦「金剛丸」、「金龍丸」は大発を降ろせず、駆逐艦2隻も失い攻略部隊などはルオットに引き帰した[11]。「第三十二号哨戒艇」と「第三十三号哨戒艇」は大発を降ろすことに成功し陸戦隊も移乗したが、避退命令が出たため陸戦隊は取り残されることになった[12]。この陸戦隊は駆逐艦「睦月」に収容された[13]

ウェーク島攻略は兵力が増強され再び行なわれた。その際、攻略部隊では最悪哨戒艇を擱坐させてでも揚陸を行なうことに決め、了承を得た[14]。攻略部隊などは12月21日にルオットから出撃[15]。12月22日にウェーク島に到着した[16]。「第三十二号哨戒艇」は大発を降ろすことに成功したが「第三十三号哨戒艇」は大発を降ろせず、擱坐上陸が決定された[17]。「第三十二号哨戒艇」は12月23日0時30分に、「第三十三号哨戒艇」もその20分後くらいに擱坐し、陸戦隊を上陸させた[18]。放棄された直後に「第三十二号哨戒艇」は海兵隊の対空砲により砲撃され破壊された[19]

1942年(昭和17年)1月10日に除籍。

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長
  • 千谷定衛 少佐:1920年11月20日 - 1920年12月20日
駆逐艦長
  • 千谷定衛 少佐:1920年12月20日 - 1921年12月1日
  • 斎藤直彦 少佐:1921年12月1日[20] - 1922年7月20日[21]
  • 藤森清一朗 少佐:1922年7月20日 - 1922年8月19日
  • (心得)志賀忠一 大尉:1922年8月19日[22] - 1922年12月1日[23]
  • 志賀忠一 少佐:1922年12月1日[23] - 1923年5月1日[24]
  • 平岡貞 少佐:1923年5月1日[24] - 1923年10月15日[25]
  • 古賀七三郎 少佐:1923年10月15日[25] - 1924年11月1日[26]
  • 岩原盛恵 少佐:1924年11月1日[26] - 1925年1月6日[27]
  • 鈴木幸三 少佐:1925年1月6日 - 1925年4月20日
  • 杉本宇市 少佐:1925年4月20日[28] - 1926年10月15日[29]
  • 杉本道雄 大尉:1926年10月15日 - 1927年11月1日
  • 板垣盛 少佐:1927年11月1日 - 1928年12月10日
  • (兼)福原一郎 中佐:1928年12月10日[30] - 1929年11月30日[31]
  • (兼)藤田俊造 少佐:1929年11月30日[31] - 1930年11月1日[32]
  • 丸安金兎 大尉:1930年11月1日[32] - 1932年1月25日[33]
  • 坂野弥三郎 少佐:1932年1月25日[33] - 1932年12月1日[34]
  • 瀬戸山安秀 少佐:1932年12月1日 - 1933年11月1日
  • 竹内虎四郎 大尉:1933年11月1日[35] - 1934年11月15日[36]
  • 鈴木正明 少佐:1934年11月15日[36] - 不詳
  • (兼)鈴木正明 少佐:不詳 - 1935年10月31日[37]
  • 古賀弥周次 大尉:1935年10月31日[37] - 1938年1月8日[38]
  • (兼)松原瀧三郎 少佐:1938年1月8日[38] - 1938年8月1日[39]
  • (兼)吉田正一 少佐:1938年8月1日[39] - 1938年12月1日[40]
  • (兼)工藤俊作 少佐:1938年12月1日[40] - 1939年1月20日[41]
  • 柴山一雄 少佐:1939年1月20日[41] - 1940年1月25日[42]
  • (兼)工藤俊作 少佐:1940年1月25日[42] -

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第7巻、301頁。
  2. ^ #帝国海軍機関史下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)
  3. ^ #一般計画要領書p.16、士官6名、特務士官3名、下士官26名、兵72名
  4. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.601-602、『大正八年六月十日(内令一八二) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 二三等驅逐艦定員表ヲ附表ノ通改ム | 第六十表 | 二三等驅逐艦定員表 |(詳細、備考略) |』將校、機關將校6人、特務士官准士官3人、下士26人、卒75人
  5. ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1074-1075、昭和3年2月14日附内令第34号、艦船要目公表範囲。
  6. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像45『大正九年十一月九日(中略)驅逐艦葵本日午前七時進水セリ』
  7. ^ a b c 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、124ページ
  8. ^ a b 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、143ページ
  9. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、139、144、156-157ページ、波高し「ウェーキ島」の攻略、320ページ
  10. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、160-161ページ
  11. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、161-167、170ページ
  12. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、165-166ページ
  13. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、166ページ
  14. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、171、176ページ
  15. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、200-201ページ
  16. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、202ページ
  17. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、204-205ページ
  18. ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、205、208ページ
  19. ^ Hackett, Bob; Kingsepp, Sander & Cundall, Peter (2007). "IJN Patrol Boat No. 32: Tabular Record of Movement". SHOKAITEI! Stories and Battle Histories of the IJN's Patrol Boats. Combinedfleet.com. 2015年11月16日閲覧
  20. ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
  21. ^ 『官報』第2991号、大正11年7月21日。
  22. ^ 『官報』第3017号、大正11年8月21日。
  23. ^ a b 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
  24. ^ a b 『官報』第3224号、大正12年5月2日。
  25. ^ a b 『官報』第3347号、大正12年10月18日。
  26. ^ a b 『官報』第3659号、大正13年11月3日。
  27. ^ 『官報』第3710号、大正14年1月7日。
  28. ^ 『官報』第3796号、大正14年4月21日。
  29. ^ 『官報』第4245号、大正15年10月16日。
  30. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  31. ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  32. ^ a b 『官報』第1155号、昭和5年11月4日。
  33. ^ a b 『官報』第1519号、昭和7年1月26日。
  34. ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
  35. ^ 『官報』第2053号、昭和8年11月2日。
  36. ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
  37. ^ a b 『官報』第2651号、昭和10年11月2日。
  38. ^ a b 海軍辞令公報 号外 第118号 昭和13年1月8日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073300 
  39. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)号外 第219号 昭和13年8月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200 
  40. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  41. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第289号 昭和14年1月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075300 
  42. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第433号 昭和15年1月25日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077600 

参考文献

[編集]
  • 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年。
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
  • 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年。ISBN 4-905551-41-2 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 「二等駆逐艦及水雷艇 一般計画要領書 附現状調査」。 
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで』朝雲新聞社
  • 山本唯志「波高し「ウェーキ島」の攻略」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ8 戦勝の日々 緒戦の陸海戦記』潮書房、1988年、315-333ページ

関連項目

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