藤井千尋
藤井 千尋(ふじい ちひろ、1837年(天保8年)- 1900年(明治33年)3月15日[1])は、幕末勤王の志士、明治期の内務官僚・神職。第一次奈良県権令。幼名・弘助、明治3年(1870年)に「千尋」と改名[1]。
経歴
[編集]上野国群馬郡、後の群馬県西群馬郡滝川村(現高崎市)で生まれる。貧困のため、父と江戸に出て商家で働く。二十歳頃に幕府御馬所見習となり、馬術などを修業。尊王思想を抱き、幕府の追及から逃れるため「群馬隼人」と名前を変えて各地で遊説した[1]。
明治維新後、明治2年6月4日(1869年7月12日)、徴士弾正台大巡察に任官。以後、監督司出仕・十等官、地方巡察、堺県大参事、同県権参事、同参事などを歴任。1873年11月、奈良県権令に就任。1875年6月から1876年2月まで五等判事を兼務した。1876年4月に奈良県が堺県に統合され廃官となった[2]。
1882年11月から翌年5月まで、大阪府豊島・能勢郡長を務めた[2]。1886年11月、大阪府の生國魂神社宮司に就任[3]。