観応
観応(かんおう/かんのう、旧字体:觀應)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方が使用した。貞和の後、文和の前。1350年から1352年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が崇光天皇・後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。正平一統による4か月間の中断を経たのち復活している。
改元
[編集]出典
[編集]『荘子』の「玄古之君、天下無為也、疏曰、以虚通之理、観応物之数、而无為」から。
観応年間の出来事
[編集]- 元年(南朝正平5年、1350年)
- 10月、足利直義が京都を脱出する。足利尊氏・高師直らは足利直冬追討のため九州へ下向する。
- 11月、直義が師直・師冬討伐を名目に兵を集める。光厳上皇が直義追討の院宣を渙発。
- 12月、直義が南朝に講和条件を示して帰順する。尊氏が福岡(現在の岡山県瀬戸内市)から引き返す。
- 2年(南朝正平6年、1351年)
- 1月、桃井直常が北国より入京し、尊氏らを播磨国へ駆逐する。高師冬が南朝に攻められ甲斐国で自殺する。
- 2月、直義が摂津国打出浜で尊氏方を破り、高兄弟の引退を名目に和睦する。上杉能憲が高兄弟を護送中に謀殺する。
- 3月、足利直冬を鎮西探題に任命する。
- 10月、尊氏が南朝へ降伏し、南朝から直義に対する追討令が出る。
- 11月、崇光天皇を廃位、「観応」が廃され、正平一統が成る。
- この頃高麗国沿岸で倭寇が活動し始める。
- 3年(南朝正平7年、1352年)
- 閏2月、尊氏の将軍職を解く。北畠親房はじめ南朝方の諸臣・諸将が入京し、正平一統が破談。北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と崇光の皇太子直仁親王を南朝の本拠地へ拉致する。
- 6月、光厳・光明両上皇の国母・広義門院が治天の政務代行を承諾し、「観応」元号の回復を宣言する。
- 8月、崇光上皇の弟・弥仁親王が践祚する(後光厳天皇)。
死去
[編集]西暦との対照表
[編集]※は小の月を示す。
観応元年(庚寅) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ | |
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正平五年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1350/2/8 | 3/9 | 4/8 | 5/7 | 6/6 | 7/5 | 8/4 | 9/3 | 10/2 | 11/1 | 11/30 | 12/30 | |
観応二年(辛卯) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月※ | 六月 | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月※ | 十二月 | |
正平六年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1351/1/28 | 2/27 | 3/28 | 4/27 | 5/26 | 6/24 | 7/24 | 8/23 | 9/21 | 10/21 | 11/20 | 12/19 | |
観応三年(壬辰) | 一月※ | 二月 | 閏二月※ | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月 | 十月 | 十一月※ | 十二月 |
正平七年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1352/1/18 | 2/16 | 3/17 | 4/15 | 5/14 | 6/13 | 7/12 | 8/11 | 9/9 | 10/9 | 11/8 | 12/8 | 1353/1/6 |