横山雅男
横山 雅男(よこやま まさお、文久2年10月15日(1861年12月16日) - 1943年(昭和18年)2月22日)は、日本の統計学者。安芸国賀茂郡吉土実村(現・広島県東広島市)出身。
経歴
[編集]広島県師範学校(広島大学教育学部の前身)卒業。広島県内で小学校教員を務めた後上京。当時はまだ新奇な学問であった統計学の存在を知り、表記学社(1878年スタチスチック社、1892年統計学社と改名、1944年東京統計協会と合併し日本統計協会と改称)が1883年、杉亨二や岩崎弥太郎、渋沢栄一、世良太一らの尽力で設立した日本で最初で最後の統計専門学校「共立統計学校」の第一期生として入学。3年間、杉亨二の弟子として本格的に統計学を学ぶ。「共立統計学校」は横山ら第一期生を輩出して1886年、僅か3年で廃校となった。卒業後、表記学社及び後進会社・協会の常任委員・評議員・幹事を務め、1926年から1935年までは同社社長として『統計学雑誌』等の編集、刊行を行う。また生涯を通じて著書、論文を発表しながら統計学の研究と普及に努めた。専修学校(専修大学の前身)をはじめ、大日本私立衛生会(日本医師会の前身の一つ)、東京郵便電信学校、中央および地方統計講習所等、数多くの学校で統計学の講師を務め、慶應義塾大学では約20年間にわたって統計学を講じ多くの後進を育てた。1903年には陸軍教授に任命され、陸軍大学校で統計学を教授。1913年には内閣統計局兼任統計官を務めた。また全国各地の講習会に出向き統計学を講義。横山らの講習を受けた人員は10数年間で全国約2万人に上った。この講習会の多くで横山の著した『統計通論』が用いられ、当時の日本に於ける統計実務担当者の事実上の標準・教科書としての役割を果たした。この書は20版を重ね中国語にも翻訳され、当時の中国の統計行政にも用いられたとされる。
日本に於ける統計学黎明期を支え、統計学普及最大の功労者の一人である。
栄典
[編集]主な著書
[編集]- 『統計講義録』(1900年)
- 『統計通論』(1901年)
- 『国勢調査の実行を望む』(1901年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『近代日本研究』第8巻 (統計学―福澤諭吉から横山雅男へ 慶應義塾における知的伝統) 慶應義塾福沢研究センター、1991年
- 『日本の統計学五十年』 東京大学出版会、1983年
- 『広島県大百科事典』 中国新聞社、1982年