オウム真理教
この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
略称 | オウム AUM オウム教 オウム教団 |
---|---|
設立 | 1987年(昭和62年)6月[1] 登記上は1989年8月29日[2] |
設立者 | 麻原彰晃 (本名、松本智津夫) |
解散 | 2000年2月 |
種類 | 宗教団体 (のちにテロ組織化) |
目的 | (宗教法人規則認証申請書)主神をシヴァ大神[注釈 1]として崇拝し、創始者の松本智津夫(別名麻原彰晃)はじめ、パーリ仏典を基本としてシヴァ大神の意思を教学し実践する者の指導のもとに、古代ヨガ、ヒンズウー教、諸派大乗仏教を背景とした教義をひろめ、儀式行事をおこない、信徒を教化育成し、すべての生き物を輪廻の苦しみから救済することを最終目標とし、その目的を達成するために必要なワークを行う[2]。 (公安調査庁の見解)教祖である麻原及び麻原の説く教義への絶対的帰依を培い、現行憲法に基づく民主主義体制を廃し、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制政治体制を我が国に樹立すること[3]。 |
本部 | 日本 東京都江東区亀戸(登記上[2]) 山梨県西八代郡上九一色村 (現:南都留郡富士河口湖町[注釈 2])(実質) 静岡県富士宮市(実質) 東京都港区南青山(実質) |
会員数 | 最盛期 日本:15000人[4] ロシア:35000人[5] 出家信者・1400人(日本国内) |
会長 | 麻原彰晃(1995年5月まで) 松本知子(1995年6月まで) 村岡達子(1999年まで) 上祐史浩(ひかりの輪設立まで) |
重要人物 | 石井久子、新実智光、松本麗華、村井秀夫(正大師) |
主要機関 | 省庁制 |
関連組織 | 真理党、Aleph、ひかりの輪、山田らの集団、ケロヨンクラブ、マハーポーシャ |
ウェブサイト | 公式サイト(アーカイブ) |
特記事項 | 松本サリン事件や地下鉄サリン事件などのテロを引き起こした。 |
オウム真理教(オウムしんりきょう、英語:Aum Shinrikyo)は、かつて存在した日本のカルト団体、テロ組織[6][7][8]。
1988年(昭和63年)から1995年(平成7年)にかけて、教団と敵対していた弁護士一家の殺害、信者・元信者へのリンチ殺人や信者の家族の拉致監禁殺害を繰り返したほか、毒ガスであるサリンを使った松本サリン事件や地下鉄サリン事件など、日本犯罪史上最悪とされる一連のオウム真理教事件を引き起こした[9]。1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴いオウム真理教という名称は消滅した。
破産とほぼ同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは、後にアーレフを経てAlephに改称され、また別の宗教団体であるひかりの輪、山田らの集団、ケロヨンクラブが分派した。2018年(平成30年)に麻原をはじめとし元教団幹部ら13名の死刑が執行された。
概説[編集]
地下鉄サリン事件を筆頭に、現世人の魂を救済する「ポア」を大義名分として、組織的に数多くの殺人事件を起こした新宗教団体である[6]。教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、「ヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に忠実に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができる」、などと謳い若者を中心とする信者を多く獲得した。教義的にはヒンドゥー教や仏教、さらにキリスト教といった諸宗教に合わせ、1999年に世界に終末が訪れるとするノストラダムスの予言など、終末論が交錯していた。麻原自身は釈迦の教えを忠実に復元したとしていたものの[10]、実際のところ麻原にとって都合の良いものとなっていた。その後、一般社会との関わりにおいて麻原を初めとした教団幹部らが自身にとって都合の良い解釈を繰り返し、次第にテロ組織に変わっていった[注釈 3]。
当初はヨーガを学ぶ和気藹々としたサークルに過ぎなかったが、次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産をお布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高額販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では奇怪な商品の売付けや過激な修行で懐疑的になり逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者のうち、判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。
「出家」や高額の布施を要求し信者の親族その支援者と揉め事が多く、当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法、行政、警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果坂本弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(詳細は「オウム真理教事件」を参照)を起こした[11][12]ほか、自動小銃や化学兵器、生物兵器、麻薬、爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた[3]。
第39回衆議院議員総選挙での真理党の惨敗もあり、最終的には一般社会と敵対するようになり、麻原に帰依しない部外者を「ポア」により「救済」するとして、国家転覆計画すらも実行するようになった。その到達点と言える1995年3月20日の地下鉄サリン事件は、宗教団体が平時の大都市を狙い複数箇所を強力な化学兵器で同時多発テロを起こすという過去に類のない事件であり、サリンにはナチスですら使用を躊躇った歴史があることや、比較的治安の良い戦後日本で起きたことも含めて、日本国内だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた(海外ではTokyo Sarin Attack[13]等と称された)。
1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い「オウム真理教」としては消滅した(2009年に破産手続きが終了した)。同時に、新たな宗教団体「アレフ」が設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後に「Aleph」と改称され、また2007年(平成19年)5月に上祐史浩を中心とした別の仏教哲学サークル「ひかりの輪」が、2014年(平成26年)〜2015年(平成27年)頃にAleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派(自称ではない)が結成された。また、既に目立った活動はなく崩壊したと見られているが、北澤優子により「ケロヨンクラブ」なる組織が分派して結成されていた時期もある。
2018年には麻原をはじめとした幹部達の死刑が執行されたが、Alephを中心に未だに麻原信仰は根強く、後継組織の施設周辺は抗議の看板が掲示されるなどしている。2020年現在も日本の公安調査庁は団体規制法により後継団体の動向を監視している。公安調査庁の調査では、米国政府、欧州連合(EU)、オーストラリア政府、カザフスタン・アスタナ市裁判所、ロシア連邦最高裁判所からテロリストの認定を受け、各国で活動を禁止されている[6]。
名称[編集]
「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「唵」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。Aは創造、Uは維持、Mは破壊を表しており、三文字の意味は「無常」[14]、すなわちすべては変化するものであるということを表している。
また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦やイエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教や原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学である[15][16]。
しかし、実は命名には京都の私立探偵・目川重治が関わっていたという。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという[注釈 4]。「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機とオームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めたとされる[17]。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。
時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳細は「目川重治#オウム真理教」を参照)[18]。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする[19][20]。
沿革[編集]
鍼灸院から超能力・ヨーガ教室へ[編集]
1978年、松本知子と結婚し、千葉県船橋市の新居に「松本鍼灸院」を開院し、タウン情報誌の広告で「中国で学んだ松本智津夫の中国式漢方総合治療室」と称し腰痛、ムチウチ、肩こり、頭痛で悩む方、「美しく痩せたい方」を募集した[21]。なお、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」では医業の広告や医業類似行為も規制されており、虚偽誇大広告は禁止されている[注釈 5]。既にこの頃、予備校時代からのブレーンが若者を勧誘して「世直しの集会」を開き、鍼灸師は「仮の姿」と語っていた[22]。同年9月には診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業し、耳つぼに鍼を打って痩せる施術をしたり、こんにゃく、ミカンの粉末をダイエット食品として販売した[23]。鍼灸師の長兄もミカンの皮を「体内を浄化する薬」として1回2万円で販売しており、麻原はこれを真似たともいう[24]。1980年7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求され、亜細亜堂を閉鎖したあと、8月に阿含宗に入信した[25]。
1981年2月、船橋市高根台に「BMA薬局」(BMAはブッダ・メシア・アソシエーションの略)開局[26][注釈 6]。さらに無許可の漢方薬やダイエット薬品を製造する「天恵の会」では4千万円を売り上げたが、1982年6月、詐欺被害の訴えによって薬事法違反で逮捕、20万円の罰金刑を受ける[28]。
逮捕後、ヨーガ・スートラを研究[29]。のちに麻原は、この頃、気学、四柱推命、奇門遁甲などの中国運命学、特に仙道を修行し、気を体内に循環させ尾骶骨付近に眠っている霊的エネルギーを一気に頭頂に突き抜消させる大周天を習得し、さらに幽体離脱、手当て療法などの超能力を身につけたという[30][29]。1982年には、経営塾などをやっていた西山祥雲に弟子入りし「彰晃」の名をもらい「松本彰晃」を名乗る[25]。
1983年(昭和58年)夏(28歳)、阿含宗脱会。東京都渋谷区桜丘に、サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック・仙道・ヨーガ・東洋医学・漢方などの塾「鳳凰慶林館」を開設[31]、塾生は女性に限定されており、ダイエット美容や健康法が中心だった[32]。松本はこの時「麻原彰晃」と名乗り始める[31]。
1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨーガ教室「オウムの会」へと鞍替えした[33]。同年5月28日にはオウム株式会社を設立。この時、長兄に「教祖になってくれないか」と依頼している[34]。この頃、麻原は平和健食も設立し、薬品「貴妃」を販売した[35]。1984年6月には飯田エリ子の紹介で、麻原が販売する健康食品のモデルとして[36]、石井久子が訪れる[35]。当時は超能力の獲得を目指すアットホームで明るいヨガ教室だった[37]。
オカルト雑誌の『月刊ムー』が、オウムの会を取材、写真付きの記事を掲載した[38]。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事を書いた。1985年9月、週刊プレイボーイ記者にヨーガによる解脱で核戦争による人類滅亡を乗り越えるのが会の趣旨であると述べる[39]。雑誌『トワイライトゾーン』1985年10月号では、2006年までに核戦争が起こり、核戦争は浄化の手段であるとし、選りすぐったレベルの高い遺伝子だけを伝えるとし、「仏教的・民主主義的な国、完璧な超能力者たちの国」[40]、理想郷シャンバラを確立するために神になる修行をしたと答えた[41][注釈 7]。
1985年12月にヒマラヤの完成者マニクラチューからインドへ来いとの啓示があり、1986年(昭和61年)1月、麻原はインドを訪問し、スワミ・アガンダナンダやパイロット・ババ(Pilot Baba)等と会う[45]。
1986年3月に仙道、仏教、密教、ヨーガの集大成として書籍「ザ・超能力秘密の開発法」を刊行した。
1986年4月、オウムの会をオウム神仙の会と改称した[45]。5月、精進湖キャンプ場での修行で、麻原は杉本繁郎ら弟子数人に対し、「今の国家を転覆させる」、明治維新も数人から始まった、将来はフリーメイソンと戦うことになる、と語った[46]。
1986年5月から6月にかけてヒマラヤに行き「最終解脱」したとし、同時期に雑誌『トワイライトゾーン』に「解脱への道」の連載を開始した[45]。麻原は「1986年夏、ヒマラヤで最終解脱した」と宣伝したが、インドのヒマチャル・プラデシュ州マナリ現地の僧侶たちは、「そんな話は聞いたことがない」という[47]。麻原の最終解脱に疑いを持った弟子達がやめた[48][49]。井上嘉浩には「渋谷で最終解脱した」と答えている[50][51]。また、麻原は説法で「最終解脱」の先に「最終完全解脱」があるが「それは達成できなかった」と述べている[49]。1991年頃、雑誌スパの質問に対して、麻原は「だって、仏陀が大勢現れて祝福してくれたんですよ」と述べるだけだった[49]。
1986年8月の丹沢セミナーでパイロットババを招待した[52]。しかし、麻原は、ババが水中サマディをせず女と金を要求したと不満で、のちの講話でババは嘘つきだと非難した[52][53]。この丹沢セミナーに参加していた元ラジニーシコミューン日本支部にいた信者に対し、麻原はサンガ(出家)制度を作ってくれないかと依頼した[54][注釈 8]。信者は、渋々引き受けた[54]。最初の出家者は石井久子だった[55]。同年秋、横浜市内の一軒家での共同生活が始まり、杉本や新実らのメンバーはそれぞれアルバイトなどで120万円を稼ぎ、教団へ布施した[56][52]。同時期、在家信者の修行コースの料金も大きく値上げされ、「このぐらい出さなきゃ、解脱なんてできないんだ」と麻原は説明した[54]。
1987年(昭和62)1月4日の丹沢セミナーで、密教修行者が魚を焼いて食べた事について、これは不殺生だが、その魚の魂を高い世界へ上昇させるポアであり功徳だ、チベット密教では盗賊を殺すことも功徳となるとし、「グルがやれと言ったことすべてをやることができる状態、例えばそれは殺人も含めてだ、これも功徳に変わる」「グルがそれを殺せと言うときは、例えば相手はもう死ぬ時期に来てる。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね、一番いい時期に殺させるわけだね。」とすでに説いていた[1]。
オウム真理教の成立[編集]
1987年(昭和62年)6月[1]、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であったが、麻原は救済のためと譲らなかった[57]。宗教化後は多額の献金を要求するようになり、会員の三分の一が脱会した[37][58]。7月には、解脱者を3万人出せば、そのサットヴァのエネルギーによって核兵器が無意味になり、真理は一つになると説法した[1]。8月に刊行した書籍「イニシエーション」では「1993年までに世界各国に二つ以上の支部ができなかったら、1999年から2003年までに確実に核戦争が起きる」と予言し、「核戦争を回避するためには、オウムの教えを世界に広めていかなければならない」と教団による人類の救済を説いた[1]。1987年11月にはニューヨーク支部を設立[59]。1988年元旦に刊行した著書『マハ一ヤーナ・スー卜ラ 大乗ヨーガ経典』で麻原は、「現代の人間は、まあ大体地獄か、餓鬼か、動物かに生まれ変わる(略)なぜかというと、まず殺生をしますね。盗みもします。邪淫もしますし、嘘もつく。酒は飲むと。これはもう救済の方法がない」と現代社会に対しきわめて否定的な見方をした[60][61]。
1987年7月に入信した在家信徒は、太陽電池をエネルギーとし、学校、病院などのある村の建設計画を持っており、既に土地を取得したことをオウムに話すと、1988年教団はそのアイデアを流用して日本シャンバラ化計画を打ち立て、ロータス・ビレッジ構想を発表した[62]。その後、知らない内に土地、山林、工場、会社が石井久子名義になっていたため、脱会した上で訴訟となった。1996年4月、和歌山地裁は登記取消を認め、元信徒は勝訴した[63]。
1988年(昭和63年)頃、麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポに接触し、ダラムサラに紹介され[64]、訪問前に10万ドルを[65]、その後、150万ドル以上をダラムサラに対し寄付した[49]。3月に麻原はカギュ派のカル・リンポチェ師を訪問する[49]。同師は麻原に「体験は解脱ではない」と戒めるかのように語りながら、「ヴァジラヤーナ(金剛乗)」の教えには、他に手段が無ければ、大きな悪を働こうとしている人を殺すことを肯定する場合があるとも話した[49]。この時以来、麻原は「ヴァジラヤーナ」という言葉を盛んに使い始めた[49]。7月6日にはダライ・ラマ14世と会っている。麻原側はダライ・ラマ14世が日本の仏教は本来の姿を見失ってしまっているから、君が本当の宗教を広めなさいと告げたとしてオウム真理教の宣伝に大いに活用した[66][67]。帰国直後の7月21日に麻原は、ヴァジラヤーナは救済を成功させる道で、「グルのためには殺生ですらしなければならない」と語った[68]。8月に富士山総本部道場の落成記念イベントに招待されたカル・リンポチェ師は、麻原を称賛し、「あなた方のグルに奉仕し、そして彼がするようにといったことは何でもするようにしなさい」と説法し[49]、自分をミラレパに、麻原をカギュ派を拡大したガンポパに例えた[69]。カル・リンポチェ師の称賛によって、多くの信者は麻原への帰依を強め、宗教学者中沢新一もオウム肯定の根拠とした[49]。
信者死亡事件から信者のポアへ[編集]
1988年(昭和63年)9月22日、在家信者死亡事件が発生。被害者信者の遺体はドラム缶に入れられ護摩壇で焼かれたが、麻原はその場に立ち会い、「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神からの示唆だな」とつぶやいた[70][71]。
10月頃、富士宮市人穴に総本部道場が建設された[72]、麻原は10月に、ヴァジラヤーナ(金剛乗)のプロセスに入ってきたとし、自己を空っぽにしてグルへの絶対的な帰依を説き[1]、「凡夫の救済、地獄化した人間の救済は不可能かもしれない(略)新しい種、霊性の高い種を残すことが私の役割だ。」と説き[73]、11月に麻原は遠藤誠一に、国家が宗教弾圧しようと警察がきたらどうすると問い、「本署ごとポアしちゃえばいいんだよ」と述べている[74]。1989年1月、麻原は「資本主義と社会主義をつぶして宗教的な国を作る。オウム信徒以外は生き残らない」と幹部に語った[75]。
前年9月に起きた信者死亡事件の隠蔽をするため1989年2月10日に男性信者殺害事件を起こした。事件直後の説教では仏陀の前生の話として、ある悪人が船に乗った300人の貿易商の財産を奪おうとしていたが、仏陀(の前生)はこの悪人のカルマが悪かったのでポア(殺害)した、つまり、高い世界に転生させる為の殺害であると説教して正当化した[76]。また、殺害を実行した新実智光が動揺しているのを知った麻原は、救済するための悪行・殺生で地獄に行くことは本望であるというヴァジラヤーナの詞章を毎日唱えさせた[77]。
- 宗教法人認証
1989年(平成元年)3月1日、教団は宗教法人に適用される税制優遇(布施などが非課税になる[78])や社会的認知を得ようとして宗教法人規則認証申請書を東京都に提出した[1]。しかし、信者の家族からの苦情により、都は受理を保留した[1]。 4月24日に教団は東京都庁に押しかけ、抗議した[79]。翌4月25日、麻原は「真理が権力に潰されるような事態になるとするならば、君たちは真理のために戦うか」と問うと、信者全員が「戦う」と答え、麻原は「日本そのものがオウム真理教に、仏陀の国に変わる日は近い」と説いた[79]。4月29日には富士山総本部で「例えば国家的な弾圧が真理に対して向けられると。その時に自己の肉体が投げ出せるかと。真理を弾圧する国家にとって真理は当然邪法だろうから悪人呼ばわりされるだろう。その上に身体が傷つき、あるいは生命を捨てなきゃなんないかもしれないと。それに対して平気で捨てると。これが身体を供養するタントラの道と。」と説いた[80]。同年5月25日に認証申請が受理された[1]。さらに教団は同年6月1日に鈴木俊一東京都知事を相手取り同認証申請についての不作為の違法確認訴訟を提起した[1]。8月16日には政治団体真理党の設立届を提出した[1]。8月25日、東京都からの交付を受けて宗教法人認証を受けた[1][注釈 9]。
1989年9月24日には世田谷道場で麻原は、ヴァジラヤーナの教えでは成就者が悪業を積んだ者を殺して天界へ上昇させることは、高い世界へ生まれ変わらせるための善行、立派なポア、功徳となると説いた[1]。
サンデー毎日スクープと坂本弁護士一家殺害事件[編集]
サンデー毎日は、1989年10月15日号で「オウム真理教の狂気」連載をスタートし、7週間にわたって告発報道を始めた[1][81]。 第一弾発売日の10月2日、麻原らは編集部に押し掛けたが、交渉決裂した[82]。牧太郎編集長の自宅近辺にはビラが貼り出され、電話攻撃や、街宣車が来た[83]。毎日新聞社本社ビル内のトイレに一斉に同様のビラを貼った[84]。オウムに批判的な報道をしたテレビ朝日「こんにちは2時」や文化放送などにも「ヤラセ、ウソ、偏見報道の責任をとれ」と担当者の実名、自宅住所、電話番号が書かれたビラをまいた[85]。さらに教団は、サンデー毎日で証言した元信者の自宅にも押しかけ、記者を装ってドアを開けさせて車に連行し、「証言は事実に反する」という文書に署名させた[86]。この書面をもって教団が抗議すると、フジテレビとテレビ朝日は訂正放送に応じた[86]。
10月11日放送のテレビ朝日「こんにちは2時」の「大島渚の熱血!!生トーク」では、子供を出演させない約束だった[87]が、麻原は永岡弘行被害者の会会長の息子の永岡辰哉を女装させて登場させ、麻原は「オウムが監禁しているか、白黒はっきりさせたい」と述べた[88]。動揺した永岡が発言しようとすると、司会の大島渚がそれを遮って、「(番組は)オウム真理教を叩く意図はない」と述べると、永岡の息子が父は嘘つきだと非難を開始し[89]、オウムの素晴らしさを語った[87]。麻原は400人の出家信者のうち、親子問題が起きているのは10組だけで、その親たちは嘘を吹聴していると述べた[90]。麻原に制された永岡会長は、ほとんど発言の機会が与えられないまま、番組は終わった[90]。こうして、教団は生放送を出演条件とし、事前の打ち合わせを無視し、番組を教団宣伝の場所に変えることに成功[91]、マスコミはオウムの弁護手段として利用されるようになっていった[92]。
サンデー毎日のスクープでは、百万円で麻原の血液を飲ませる「血のイニシエーション」の根拠として、京都大学の研究が宣伝されていたが、京都大学はそのような研究は行われていない、と回答があった[93][1]。坂本堤弁護士が青山吉伸教団弁護士に問い質すと、京大大学院生による教団本部での検査だと回答[94]、結局教団は証拠となるデータを持ってこなかった[95]。10月21日には、坂本弁護士の支援の下で「オウム真理教被害者の会」が結成された[1]。10月25日には教団は毎日新聞社を名誉毀損による損害賠償請求訴訟を提起した[1]。
10月26日にはTBSワイドショー『3時にあいましょう』のスタッフが、坂本弁護士へのインタビューを放送前にオウム幹部に見せたTBSビデオ問題が起きていた[96](この事件は、TBS側は否定していたが、1996年3月になって認めた[97])。10月31日の交渉で、教団が「信教の自由だ」と主張すると、坂本弁護士は「人を不幸にする自由など許されない」と答えた[98]。 10月31日に発売されたサンデー毎日第五弾11月12日号では「肉食拒否の尊師がビフテキ弁当を売る欺瞞」では、霊感商法まがいの悪徳商法と報道した[99]。11月1日、被害者の会は水中サマディや空中浮遊の公開実演を教団に要求した[1]。
麻原は、坂本弁護士がオウム告発のリーダーであるとみなし、11月2日深夜(11月3日未明[1])、教団幹部らに「もうヴァジラヤーナしかない」と坂本弁護士のポア(殺害)を指示した[1][100]。11月4日午前3時頃、オウム幹部ら6人が坂本弁護士宅に侵入し、一家3人を殺害した。午前7時頃、一行が富士本部に到着すると、麻原と石井久子が出迎え、麻原は「よくやった、ごくろう」と上機嫌に述べた[101]。麻原から遺体の処分を指示された一行は、長野県大町市関電トンネル電気バス扇沢駅付近に1歳の長男の遺体を、翌5日新潟県大毛無山に弁護士の遺体を、翌6日妻の遺体を富山県僧ヶ岳中腹に埋めた[101]。11月11日未明、麻原は帰ってきた一行に「三人殺したら死刑は間違いない。みんな同罪だ」と笑みを浮かべながら語った[102]。
一方、警察では、坂本弁護士宅に「プルシャ」が落ちていたため、オウム犯行説が広まるが、任意の失踪の可能性があるとされ事件性すら確定されなかった。横浜法律事務所も、マスコミも当初はオウムの名を出さなかったため、統一教会や創価学会関連の情報提供も多かった[103]。警察は「坂本弁護士はサラ金で首が回らなくなっていた」というガセネタを流したりした[104]。
麻原はオウム叩きの背景には創価学会や内閣情報調査室やアメリカ[105]、フジサンケイグループをバックとした団体が動いていると語り[106]、このけがれきった世の中に対して二つのアプローチがあり、一つは選挙で議席をとって徳の政治に変える。もう一つは、武装して日本をひっくり返して真理でないものを潰して救済する、と述べた[107]。
11月30日のドイツのボンでの会見では、犯人は坂本弁護士の身内だと述べ、弁護士の親族らを激怒させた[108]。その後もテレビで「被害者の会が犯人」と主張を繰り返した[109]。信者への説法でも麻原は「彼が被害者の会に殺されたにしろ、誘拐されたにしろ、彼はこれ以上オウムに迷惑をかけないわけだから、彼のカルマのためにはいいことだ」と坂本弁護士の死を肯定した[110]。
帰国した麻原はワイドショーなどに次々と出演。フジテレビの「おはよう!ナイスデイ」では麻原一家の仲睦まじい姿を報じ、TBS「3時にあいましょう」は信者に教団の魅力を取材するなど、坂本弁護士事件とは関係のない教団の宣伝となっていった[111][112]。宗教学者の中沢新一は雑誌SPA!同年12月6日号で麻原と意気投合し、週刊ポスト同年12月8日号で、麻原を高い意識状態を体験している宗教家であると絶賛した[113][114]。サンデー毎日報道の「狂気」「反社会的」といった言葉も、麻原は中沢新一との対談を通じて、都合よく回収していった[115]。(詳細は後述#中沢新一へ。)
オウムは、被害者の会は警察が指揮して結成した組織で、坂本弁護士一家事件は宗教弾圧であり[116]、オウムこそ被害者であると主張した[117]。
被害者の会と接触したペマ・ギャルポは危機感を強め、チベット亡命政府に麻原と関係を持たないように助言した[64]。ペマは麻原とテレビで共演し、「ダライ・ラマ法王は『すべての人々は仏陀になれる』といったのであり、麻原が仏陀だとはいってない」と述べると、怒った麻原は雑誌や本などでペマを非難した[64]。
衆議院選惨敗からボツリヌス菌テロ計画へ[編集]
オウムは、真理党を結成して1990年2月の第39回衆議院議員総選挙へ集団立候補した。真理党は、徹底的な行政改革によって財源をひねり出して消費税廃止、ほか医療、教育改革、大統領制などを主張した[118]。選挙活動の際には信者が麻原のお面等をかぶり、奇抜な活動が注目を浴びた[119]。また教団が敵視した石原伸晃など他の候補者のポスターを剥がしたり、汚損した[119][120][121]。選挙の結果は、最も得票の多かった麻原でさえ1,783票で惨敗だった[120]。供託金5,000万円が没収され[122]、脱会者が続出した[123]。麻原は、選挙管理委員会が票を操作したと説き[124]、「オウムは反社会・反国家である」と宣言した[125]。
1990年3月、生物兵器となるボツリヌス菌を採取するために北海道釧路市、阿寒湖、奥尻島の土を採取したが、採取できなかった[126]。1990年3月11日、ワシントンのホロコースト記念博物館が建設されることについて「いよいよユダヤ人、フリーメーソンが表面に出てきた」とし、彼らの目的はオウムの崩壊であると説いた[127]。
週刊文春1990年3月29日号では、永岡弘行や江川紹子らがチベット亡命政府宗教文化庁次官カルマ・ゲーリックに面会すると、「ダライラマが、麻原に仏陀の素質があるなどと発言するわけがない」と答え[128][129]、オウムが未成年から金をとったり、逃げた人を独房に監禁することに驚き、「仏教では未成年が出家する時には、両親の許可が必要だ」「麻原が道を踏み外したことも十分考えられる」と答えた[129]、またこの取材で麻原がニューデリー最高級のホテルハイアット・リージェンシー・ホテルに宿泊していたことも判明しており、教団が「尊師は毛布一枚で畳の上に寝られるほど質素であられる」と信者に説明 していたこととの矛盾も指摘された[130]。ゲーリックのコメントが報道されると、麻原は説法で、「カルマ君」(ゲーリックを指す)は手紙で、報道は99%嘘で、自尊心を持つ人なら、だれでも永岡氏らを訴えたと言っていたと報告した[131](ただし、このゲーリックの手紙は麻原の説法以外で確認されていない)。麻原は、聖者や修行者を誹謗した被害者の会やマスコミにはどういうカルマが返ってくるか、報道で脱会者がいるが、情報はわたしたちを苦しみの世界に叩き込むと述べた[131]。オウムがダライ・ラマを悪用したという記事は、「マスコミ、被害者の会、江川紹子が仕組んだ捏造記事」で[132]、教団はゲーリック報道などに関して江川紹子と出版社へ損害賠償請求訴訟を行なったが、判決では名誉毀損に当たらないとされた[133]。
遠藤がボツリヌス菌を入手すると、麻原は大量プラントの建設を指示し、ボツリヌス菌をトラックで日本全土に散布して、一気に大量ポアすると無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を宣言した[1][126]。出家信者や麻原の家族は石垣島へ避難させ、在家信者のために4月に石垣島セミナーを開くことになった[126][134]。「オースチン彗星接近で日本は沈没するが、オウムに来れば救済される」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させた[135][136]。東京、大阪、福岡の信者ら参加者1270人[137]が船でやってきた[138]。麻原は幹部らに、オースチン彗星の再接近の時、偏西風でボツリヌス菌は日本に撒かれるが、石垣島は偏西風が通らない、抗体をイニシエーションで与えると称した[139][140]。しかし村井秀夫、遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗し、テロは実行されず[141]、セミナーも中止となり[126]、翌日25分の講話があっただけで帰路についた[138]。帰りの船では「出家するのは今か、一ヶ月以内か、半年以内か」と聞かれ、答えた出家時期に応じて部屋割りされ、「出家しない」という選択肢はなかった[138]。石垣島セミナーで入った資金は3億円[134]とも数十億円とも言われ[138]、教団蘇生に成功した。
石垣島セミナー直後、麻原はボツリヌス菌によるテロを三度実行し、いずれも未遂に終わっている。1990年ゴールデンウィーク頃、2台の2トントラックから粉末状のボツリヌス菌を、皇居周辺、米国大使館、創価学会本部、立正佼成会本部、防衛庁、霞ヶ関、渋谷・新宿の繁華街などで噴霧した[142]。しかし、被害不明によりテロは失敗した。5月中旬、二度目の噴霧も失敗した[143]。異臭をわざわざ教えてくれたドライバーもいた[144]。1990年7月頃、ボツリヌス菌の培養液を、荒川にポンプを使って流した[144]。村井と新実は通りかかった警官に職務質問され、警官は液体のサンプルを持ち帰った。電話で報告を受けた麻原は叱責、ボツリヌス菌テロ計画は中止された[144]。
波野村と上九一色村の攻防[編集]
1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現:阿蘇市)に15ヘクタールの土地を購入し「シャンバラ精舎」を建設するために進出する。進出の目的は、波野村を武装化の拠点とすることで[141]、ヴァジラヤーナのための兵器として、生物兵器ボツリヌス菌とそれを散布するための風船爆弾[145]や、毒ガスホスゲン製造が計画された[146]。また1990年4月にはボツリヌス菌プラントを第一上九に建設した[147]。
教団はドライブインだった土地に対し5000万円を提示、しかし相場より高すぎるので県が警戒する恐れがあるとして3000万円で虚偽申告を行なった[148]。その後、抵当権がついていたため地権者の負債1500万円を教団が支払う代わりに負担付贈与にすれば国土法届けは不要と、3500万円即金で支払われた[148]。負担付贈与契約が5月24日に締結されると、即日に建設資材が搬入され[149]、プレハブ建設に着手し[147]、大型トラックが通るために村道は勝手に広げられた[146]。
人口2千人の村にオウム信徒450人が住民票を移したら、村が乗っ取られると不安に駆られた村民は6月に「波野村を守る会」を結成し、8月には信徒と村民のもみ合いでけが人も出た[146]。7月に熊本県・大分県で死者行方不明14名の大水害が起きると[150]、麻原は「悪業(カルマ)を清算させられた」と主張、村民は激怒した[151]。この頃、教団は『南伝大蔵経』などパーリ語仏典の翻訳を開始した[147]。
波野村は信者300人の住民票を受理しなかったが、8月中旬に麻原とマハームドラー修行者全員は、移住を開始した[147]。8月16日、県は教団が国土法届出をしなかったために県警に告発した[148]。
地権者に更に500万円の負債が判明したため、地権者が届け出をしようとすると、教団側は虚偽の借用書にサインさせたり、麻原本人が説得したが、地権者は負担付贈与でなく、売買だったと警察に打ち明けた[152]。教団は豹変し、「5千万円返すなら土地は返すが、これまでの開発費用4〜5億円を賠償せよ」と迫り、9月5日に教団は地権者が証言を変えなければ14億円の損害賠償を求めるという内容証明郵便を送り、さらに売買差益の3500万円も教団が貸し付けたものとして返還を求めた[153]。
1990年9月にはホスゲン爆弾による無差別テロを計画した[147]。
強制捜査前日の1990年10月21日、教団は代々木公園で「守ろう!信教の自由」集会を開き、麻原は「(中東への自衛隊派遣に触れて)私が予言したように再軍備が始まった。国民を靖国神社に参拝させるような国家神道の道を歩ませるしか軍国主義はとれない。このような国家の意図からすれば、オウムは反国家的団体であることは間違いない。権力者にとってオウムは邪魔で、どうしてもつぶしたい宗教である」と演説した[154]。
10月22日、熊本県警と山梨県警が、波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反、道路運送車両法違反などの容疑でオウム真理教の強制捜査を開始した[155]。しかしオウムは熊本県警内の信者から情報を入手しており、武装化設備を隠蔽した[156]。ワイドショーが始まる午後3時に麻原が報道陣の前で熊本地検に電話し、早川らの逮捕を実況した[157]。一方、教団も江川紹子や信者の母親も小突き回され、写真をとった弁護士も腕を捻じ上げられフィルムを奪われた[132]。強制捜査後、麻原は「戦前の状況とそっくり。まさに宗教弾圧」と批判した[158][159]。
1993年、波野村の住民票受理拒否をめぐる裁判で教団側が勝訴すると[160]、1994年に波野村はオウムが5000万円[161]で手に入れた土地を和解金9億2000万円で買い戻すことで合意した[146][162]。
一方、教団が波野村に先がけて土地を入手した山梨県上九一色村でも許可なく施設建設を進め、住民と衝突した[146]。92年12月には、反対する住民に信者が「坂本弁護士のように(行方不明に)なってもいいのか」と脅した[163]。上九一色村の住民によれば、教団は、住民が前の道路を通るたびにカメラを向けたり、畑の中にトラックを停めたり、深夜3時まで大音響で工事をやったりし、抗議に行くと「バカヤロー」「コノヤロー」「テメー」「帰れ」としか言わない有様だった[164]。しかし、1992年5月に上九一色村は信者の転入届を受け入れ、山梨県富沢町でも和解が成立した[165]。
国土法違反事件の影響で、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った[166]。
ロシアへの進出と兵器開発[編集]
ソ連8月クーデター発生直後の1991年、教団のロシア進出が始まった[167][168]。ソ連崩壊後の1992年2月に来日したオレグ・ロボフロシア連邦安全保障会議書記は日本の政財界に資金援助を断られていたが、オウムは1000万ドル(約13億円[注釈 10])を援助した[169][170]。
1992年3月[注釈 11]、教団は300人の信者を引き連れモスクワ訪問、ハズブラートフ最高会議議長やルツコイ副大統領と面会し[171][172]、モスクワ国立大学、モスクワ国立工科大学、モスクワ工学物理学協会に物資を支援した[171]。麻原は、ノーベル賞受賞物理学者でレーザー光線の研究者バーソフと接触、3月13日にはモスクワ物理工科大学で日本人初の講演会を開いて[168][173]、同大学主任研究員やクルチャトフ研究所研究員にも信者を獲得した[174]。麻原はモスクワ府主教にも面会し[168]、ロシア正教教会に聖書用の紙8万ドル(1020万円)分を寄付した[173]。6000人収容できるクレムリン大劇場でのオウムミュージカル「死と転生」は、大成功を収めた[168]。
1992年4月、ラジオ局マヤークと、年間80万ドルで一日2回、各25分の放送枠を獲得、テレビ局2×2でも毎週日曜日午前中の30分の放送枠を獲得した[175]。4月1日にはラジオ番組「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」を開始[176]、当初はテープを空輸し放送していたが、94年12月から衛星回線で生放送を開始し、英語とロシア語でも布教放送を行なった[177]。また、教団は年間11000ドルというそれまでの25倍の契約料で専属オーケストラ「キーレーン」を結成した[178][179]。麻原は92年4月の取材に対してロシア人は「共産主義を経験でき、本当の意味での自由を経験でき」たことは幸せだったとし、「共産主義者が仏教を理解できたら、素晴らしい国ができる」と答えている[180]。92年7月には宗教法人として認証され、9月にモスクワ支部を開設した[172][181]。同じ頃、日本では油圧シリンダー等を製作する年商40億のオカムラ鉄工の乗っ取りに成功し[1]、オカムラ鉄工所のプラズマ切断機を参考に、マイクロ波を発生させて物を溶かすプラズマ兵器の製造を指示した[1]。
1992年秋、レーザーやプラズマ兵器の情報を集めていた村井、広瀬健一、渡部和実らがロシアを見学した[182]。
1992年、麻原は「またヴァジラヤーナを始めるぞ」と話し、1993年前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開[1]。X線兵器、プラズマ兵器、UFO、核兵器、NBC兵器など教団の兵器の開発を進めた[183][184]。
1993年2月、インテグラル・ロケット・ラムジェットなどの兵器研究のために信者らはロシアに赴き[1]、モスクワ軍事大学で自動小銃AK-74や迫撃砲を調査後、AK-74を一丁入手した[182]。帰国後AK-74を模倣した自動小銃の製造に取り組んだ[1]。
1993年2月28日アメリカにおいて、新興宗教団体ブランチ・ダビディアンに対して州警察が強制捜査に入り、銃撃戦となった。膠着後、当局は4月19日に強行突入、ほとんどの信者は焼死し、81名の死者が出た(ウェーコ包囲)。麻原はブランチ・ダビディアンの次にオウムが襲撃されると説法で述べた[185]。
1993年4月10日、麻原はハルマゲドンで使われる兵器は、体の水元素にプラズマを発生させ、体を蒸発させるプラズマ兵器であり、既にアメリカは湾岸戦争でこれを使用し[186]、イラク兵9万2000人が蒸発したと説いた[187]。アメリカのプラズマ兵器は、人工衛星でプラズマを反射させるプラズマ反射衛星砲(『宇宙戦艦ヤマト』に登場)であるのに対して、ロシアの恒星反射砲は、3kmの鏡を宇宙空間に打ち上げて太陽エネルギーを地上に反射させるもので、第三次大戦では、人類が三分の二消滅する、という[187]。
1993年4月に核兵器の材料ウランを入手するためにオーストラリアの土地を購入、9月に採掘調査をしたが発見できなかった[1][184][188]。
1993年5月にはロシアで弾丸の製造法や火薬プラント、自動小銃の金属表面への窒化処理法について調査、窒化炉の図面等を入手、帰国後設計を始めた[1]。
1992年から遠藤誠一らが猛毒の炭疽菌やボツリヌス菌などの生物兵器の開発も再開した[184]。1993年5月には亀戸道場内に大量培養施設を建設、6月と7月に屋上から炭疽菌を噴霧したが、菌が死滅しており、異臭騒ぎにとどまった(亀戸異臭事件)[1]。その後,炭疽菌培養施設を第二上九に移転し、同年夏に東京都内で噴霧車から細菌を散布した[1]。
1993年8月、土谷正実らによって、化学兵器サリンの合成に成功した[1]。麻原は、第7サティアンに70tのサリンを生成するプラントの建設を指示した(サリンプラント建設事件)[1]。サリンをヘリコプターで散布しようとして信者を1993年9月にアメリカに派遣しヘリ免許を取得させた[1]。麻原は、ロスチャイルド家とロックフェラー家が率いるフリーメイソンが米軍や公安やJCIAに命じて教団にサリンやイペリットを撒いているが、自分(麻原)が近代フリーメイソンを創り、アメリカ独立戦争も率いたのであり、際限のない欲望を肯定する物質主義となってしまった現在のフリーメーソン国家の米国とオウムは将来戦うことになる、と述べ[189]、池田大作や滝本太郎など敵対者のサリン暗殺を試みた。
1993年末から翌年にかけて毒ガス検知器、防毒マスク、防護服、細菌検知器[182]、LSDの原料となる酒石酸エルゴタミンを購入した[190]、これにより遠藤がLSDを製造し、キリストのイニシエーションで信者らに投与された[182]。他にメスカリン、覚醒剤密造に成功し、PCP、ブフォテニン、マクロマリン、コカインの一部も完成した[191]。
1993年12月にはモスクワ郊外に66万平方メートルの土地を入手し、道場、病院、学校、住居、工場などの「ロータスビレッジ」を計画した[172]。オウムは、ロシアに7つの支部を作り[192]、ロシアの信者数は最大5万人に上った[193]。
1994年(平成6年)2月、麻原は信者と中国へ旅行し、自分の前生とする朱元璋ゆかりの地を巡った[1]。旅の途中、ホテルで信者に対し、「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。」と予言し、「真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない」と説いた[1]。帰国直後の2月27日、麻原は、「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない」と説いた[1]。
翌2月28日、AK-74自動小銃1000丁の製造を指示(95年1月試作品完成)[182][194]、自衛隊を取り込むための調査を指示した[1]。
3月10日、麻原は「警察官全員をポアするしかない」「ゲリラで警察を全滅させよう」と語った[195]。翌3月11日、麻原は闇組織やそれと連動する公安が毒ガスをオウムに対し噴霧し続けてきたと述べ、信徒は立ち上がり、周りの無明に満ちた魂を真理に引き入れ、この日本を、この地球を救う必要があると説き[1]、「もともと私は修行者であり、じっと耐え、いままで国家に対する対決の姿勢を示したことはない。しかし、示さなければ私と私の弟子たちは滅んでしまう」と対国家戦争に言及した[196]。
3月中旬には沖縄で自衛隊出身や武道経験のある出家信者十数名に軍事訓練キャンプをさせ[1]、そこから選抜した約10名をロシアに派遣し、ロシア軍特殊部隊スペツナズ指導[197]の厳しい軍事訓練を受けさせた[1]。この中には平田信も含まれていた[197]。オウムはロシア軍基地で、自動小銃、機関銃、対戦車ロケット弾の実射などの軍事訓練を信者らに行なった[190]。また軍用ヘリコプターミル17を購入、1994年5月に横浜港に搬入された[198]。ほか、ミグ29戦闘機、T-72戦車300両、魚雷艇、潜水艦などの購入計画もあった[199]。ほか、映画のエキストラと称し募集したホームレスを「白い愛の戦士」部隊として編成し、山間部の施設で訓練を施した[200]。
布施の強化と連続拉致監禁事件[編集]
1994年、五仏の法則の「徳のためには他人の財産を盗むことは正しい」という教えに基づき、全財産を提供させる布施集めが激化した[201]。布施を信者の親から出させる場合もあり、また「ハルマゲドンで銀行は倒産するから返済しなくて良くなる」と説いて銀行に借金させる場合もあった[201]。この1994年頃には、全国各支部の担当者が「身ぐるみ剥ぎ取って丸裸にするぞ!」「徹底的にお布施させるぞ!」という決意の詞章を唱え、教団法務部は「国家に税金は払わないぞ!」と決意していた[201]。資産家の信者で1億円の布施を出した事例もあった[201]。
1994年3月の宮崎県資産家拉致事件では、宮崎県小林市の旅館経営者は、オウムに入信した娘の次女と三女らに睡眠薬入りの茶を飲ませられた後、監禁された[202]。布施を約束して解放された後、旅館経営者は次女らを告訴した[203]。(のち懲役2~3年の実刑判決)。その後も教団は1994年12月には鹿島とも子長女拉致監禁事件とピアニスト監禁事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件などの連続拉致監禁事件を起こした。
連続リンチ殺人と洗脳の強化[編集]
過激化とともに社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという[204]。教団内の締め付けも強くなり、男性信者逆さ吊り死亡事件(1993年6月)、薬剤師リンチ殺人事件(1994年1月)が発生した。
1994年7月10日の男性信者リンチ殺人事件では、水運び班の信者Tがイペリットを入れたとされた。拷問を受けながら信者Tは「自分は絶対に違います、麻原尊師は(神通力で)わかっているはずだから会わせてください」と懇願したが、スパイチェック(ポリグラフ検査)で陽性と出ていたため聞き入れられず、絞殺され、遺体はマイクロ波焼却装置で焼かれた[205][71]。
1994年から教団が密造した違法薬物のLSDや覚醒剤[191]をつかったイニシエーションを在家信者に対して盛んに行われた[206]。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる[207]。「キリスト」と呼ばれたLSD[191]を用いた「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200〜300人が受けた[208]。覚醒剤は「ブッダ」と呼んで[191]、LSDと混ぜて「ルドラチャクリンのイニシエーション」として在家信者約1000人が受けた[208]。
また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。林郁夫はさらに自白剤に用いられるチオペンタールナトリウムを投与後電気ショックを加える「ニューナルコ」を開発し、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている[209]。
洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語った[208][210]。
麻原本人は言葉巧みに若い女性信者を説得し、左道タントライニシエーションと称して性交を行っており、避妊も行っていなかったため妊娠・出産に至る女性も数多く現れた[211]。
サリン・VX等による連続テロ(ポア)事件[編集]
1994年5月頃、オウムでも日本や米国のような省庁制、及び日本壊滅後のオウム国家の憲法草案を起草するよう青山吉伸に指示し、憲法草案「基本律」には、主権は「神聖法皇」である麻原に属し、国名は太陽寂静国とされた[1]。1997年に年号を「真理」として、真理元年となるとした[212]。
1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭で省庁制発足式が開かれた。
同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘され、また報道被害も問題になった。教団は松本サリン事件はフリーメーソンやアメリカの仕業だと主張[213]。
1994年8月頃には早川が担当した皇居サリン散布計画のために、千代田区平河町に5箇所、中央区銀座に3箇所、港区赤坂に2箇所のテナントやマンションを借りていた[214]。井上嘉浩によれば、目的は武力クーデターによる政権奪取で、皇居周辺の国家中枢の破壊を狙っていた[215]。
さらに1994年夏に土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いた連続襲撃を実行していった。同年9月に滝本太郎弁護士がVXで襲撃された。9月20日には江川紹子が毒ガスホスゲン攻撃を受けた。12月には脱会者を匿った駐車場経営者がVXで襲撃され、同月12日には信者の勧誘を断っていた大阪の会社員が公安のスパイと断定され、ジョギングを装った新実らから注射器によりVXを注入され、殺害された。1995年1月には被害者の会の永岡弘行がVXで襲撃された。麻原は「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」「ポアしまくるしかない」などと語っていた[200]。
1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が上九一色村のサティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じた。教団は「上九一色村の肥料会社が教団を毒ガス攻撃していると虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われた[216]。
1月8日、教団ラジオで麻原は村井との対談を放送、1月から4月にかけて前哨戦が始まり、11月に宗教戦争(武力革命)が発生すると予測した[217][注釈 12]。後に発見された井上ノートには、自衛隊(現役・退役)信者50人と信者特殊ゲリラ部隊200人が、資金援助している暴力団や過激派グループの協力を得て、完全防護服着用のゲリラ工作隊を結成し、首都を占拠し、新潟からは医師を装ったロシア軍特殊部隊が強襲揚陸艇で上陸、ゲリラ部隊と合流するなどの計画が記録されていた[219]。また、この1月8日の放送で教団信者が神戸で地震があると予言[220]。1月17日に阪神・淡路大震災が発生すると、教団は予言が的中したと宣伝した。
震災直後の1月25日に出版された教団の雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」では、「人類を代表して正式に宣戦布告する」「人類を大量虐殺し、洗脳支配を計画している闇の世界政府に対して」「目覚めよ、日本人、立ち上がれ、世界人類、国連は我々の災いである。三百人委員会を超えよ!」と称した[221]。同誌によれば、ユダヤ教の聖典タルムードでは非ユダヤ人は家畜・汚れた者で、その財産を奪い取って殺してもよく、ユダヤ人でも異教に改宗した者やトーラーを否定する者は殺さねばならない[222]。また、太平洋戦争、ベトナム戦争、パナマ侵攻、湾岸戦争は軍需産業に仕組まれ[223]、日本への原爆投下は、ロックフェラー、モルガン財閥[224]、デュポン家の利益のためだったと説いた[225]。サイラス・ヴァンスやローマクラブらは戦争や飢餓による30億人の大量虐殺計画を実行している、と陰謀論を説いた[226]。
2月28日、目黒公証役場事務長だった男性を拉致監禁し、殺害した。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見され、警視庁は全国教団施設の一斉捜査を決定した。
3月15日には霞ケ関駅で自動式噴霧器が発見された。これを受けて3月19日には機動隊員らが陸上自衛隊朝霞駐屯地で化学戦訓練を受けた[227]。
しかし教団は警察より早く動き、3月20日に地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と6000人以上の負傷者が発生する大惨事となった。ナチスドイツによって開発されたサリンはその後、ソ連や米国で生産されながら実際に使用されなかったが、イラン・イラク戦争でイラクがクルド人を攻撃し、3200人〜5000人が死亡したハラブジャ事件[228]に次ぐ事件となった[60]。
麻原逮捕から教団の休眠まで[編集]
1995年3月22日には、教団本部施設への一斉捜索が行なわれた。衰弱状態の信者50人以上が見つかった[229]。翌3月23日に滋賀県安土町で逮捕された信者の車からは、教団の兵器開発データが入ったMOディスクが発見され、教団の武装化を裏付けた[230][231]。
教団弁護士青山吉伸は「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」など警察対応策を出しており、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」という光景が見られた[232]。上祐史浩らはテレビで潔白を主張した。村井秀夫の指示で4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、村井は4月23日に南青山総本部前にで刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。
3月30日には警察庁長官狙撃事件が発生し、オウムの関与が疑われたが、2010年に公訴時効が到来した。同年4月19日には、教団とは無関係の模倣犯による横浜駅異臭事件が発生したが、異臭原因物質は不明[233]。
逮捕直前の95年5月中旬頃、麻原は「私の身に何が起きても決して動揺しないように」と尊師通達を出し、一部の弟子には「長くても3年以内に釈放される」と予言した[234]。
1995年5月16日、毒ガス検知のためのカナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の再捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された[235]。
教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁から宗教法人法上の解散命令を受けた[236](1996年1月確定[237])。1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下した[238][239](同年5月確定)。7月には危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、1997年公安審査委員会により棄却された。これに先立ち、破防法適用を避けるため、安田好弘弁護士らの助言で、松本被告は教祖をやめ、殺人を肯定する教義だとされたタントラ・ヴァジラヤーナの教えを封印した[240]。
一方、教団は活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った[241]。一連のオウム事件については「教団がやった証拠がない」とし、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。インターネット上に 公式サイト を開設[242]、教団は被害者であるとする陰謀説を流布したり、ゲームやアニメの二次創作を掲載した[注釈 13]。しかし、予言されたハルマゲドンもなかったことから、教団は1999年9月に「休眠宣言」をし、12月1日に代表代行 村岡達子が、「当時の教団関係者の一部が事件に関わっていたことは否定できない」と事件を認め、被害者に謝罪した[247][248]。1999年末には無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(オウム新法)が制定された。その後、Aleph、ひかりの輪、山田らの集団など後継教団が複数ある(#後継教団)。
刑事裁判と死刑執行[編集]
逮捕後の取調で麻原は「目の見えない私がそんな事件をやれるでしょうか…」と語り、95年5月27日に取調室を出る際には「武士は言い訳しないものだ」と武士道のようなことを呟いた[249]。麻原は私選弁護人の横山昭二を解任し[250]、11月に東京地方裁判所は渡辺脩、安田好弘ほか12人の国選弁護団を選任した[240]。東京地検は、死者26人を数える一連の17事件の容疑で麻原彰晃こと松本智津夫を起訴した[251]。裁判は検察側立証だけで25年かかるとも予測され[252]、検察は裁判の迅速化を図るため、違法薬物密造の4事件について起訴を取り下げる異例の対応をとった[注釈 14]。同年末、麻原の「どうすれば、私の真実を明らかにできますか」との問いに、安田好弘弁護士は法廷での空中浮揚を提案、麻原は初公判に向けて修行を重ねたが、「エネルギーが看守に体を触られて消えてしまう」として浮揚できなかった[240]。麻原は弁護人との接見でスピッツの歌「空も飛べるはず」を歌うこともあった[253]。
1996年(平成8年)4月24日初公判[251]で、麻原は各事件の罪状認否について「いかなる不自由、不幸、苦しみに対して一切頓着しない、聖無頓着の意識。これ以上のことをここでお話しするつもりはありません」と述べただけだった[254]。麻原は「寝たきり老人になります」「私がやっていることはレジスタンス」と述べたり[81]、拘置所は洞窟に似ていて、絶好の瞑想の機会を得ていると述べた[255]。
10月4日の公判で、広瀬健一は、逮捕後も帰依心は揺るがなかったが、被害者の調書を読んでぐらついたと述べ、「(麻原は)本当は自分の力(無力)に気づいている」「直視して、真実を見極めてもらいたい」と述べた[256]。翌月、広瀬への反対尋問が始まると、「この裁判は異常」「ここは劇場じゃないか。死刑なら死刑でいい!」と麻原は発言し、退廷となった[257]。
岡崎が坂本事件での麻原の殺害(ポア)指示を証言すると、麻原は「完全に嘘だ」「裁判長を出せ」と大声で妨害、退廷となった[257]。早川も端本も坂本弁護士事件での麻原による殺害指示を証言した[257]。
1996年10月18日第13回公判で、検察側証人としてリムジン謀議を証言した井上嘉浩被告への反対尋問を弁護団が開始すると、麻原は「アーナンダ(井上)は私の弟子であり、偉大な成就者である。このような人に反対尋問すると、尋問する者だけでなく、それを見聞きする者も害を受け、死ぬこともある。この事件についてはすべて私が背負うこととします。」と尋問中止を求めた[258]。安田弁護士は、麻原を説得、反対尋問を続けた[240]。しかし、反対尋問では、麻原の事件への関与がより印象づけられ、麻原は弁護団に不信感を強めた[259]。井上の7回の証言中、麻原は「地獄に落ちるぞ」「何のために村井が死んだか考えろ。お前が喋らなければそれで済んだじゃないか」などと繰り返し井上に聞こえるように囁いた[259]。この夜、拘置所に帰った麻原は「俺の弟子は…」「くそー」と泣き叫びながら、チーズを壁に投げつけたり、早朝まで独り言を言った[257][81]。10月21日早朝、「早く、精神病院に入れてくれ」と叫び、扉を足で蹴るなどしたため、保護房に収容された[257][81]。2日後、独居房に戻ったが、その翌日、「ここから出せ」と刑務官に頭から体当たりし、再び保護房に収容された[260]。11月には職員に「ここから出れるんですか?」と質問を繰り返した[81]。弁護団は接見を21回求めたが、麻原は14回拒否した[260]。接見で麻原は、鼻水や涙を流しながら錯乱していたり、反応も心もとなく、以降は、たまに言葉が通じたが、1997年以降は弁護団は麻原と意思疎通できなくなった[240]。
1997年4月24日第34回公判で麻原は英語を交えてはぐらかすように意見陳述し、一連の事件では全て殺害を指示したことはなく、弟子たちが暴走してやったと、責任を弟子に転嫁し、無罪を主張した[261][262]。
- 地下鉄サリン事件:弟子たちが起こしたもので、自分はサリン散布を止めたが、弟子に負けた[196]。
- 坂本堤弁護士一家殺害事件:「非常に小さな罪で、しかも実行者が5人か3人の小事件であり、一人一人を対応するならば三年か四年の刑」で、自分は殺害指示していない[263]。
- 薬剤師リンチ殺人事件:元信者Oが別の信者の母親を性的に誘惑し、財産を乗っ取ろうとし、麻原をナイフで殺そうとしたので、弟子たちが殺した、殺害は指示していない[264][196]。
- 男性信者殺害事件:殺害を指示していない、新実も嘱託殺人(被害者からの依頼)だから無罪[265]。
同年6月17日の林郁夫公判では、麻原は初めて証人として出廷したが、英語で小さな声で答えたり、宣誓書への指印を拒否した[266]。林が「(石井久子が「麻原は間違っていた」と法廷で陳述したことを引いて)あなたの態度は、石井被告の心にも及ばない」と言うと、麻原は「いい加減にしろよ!お前のエネルギーは足から出ているのがわからないのか!」と言い、林は「まだそんなことを言っているんですか!そんな大きな声が出るなら、証言すればいい!」と捲し立てた[266]。検察官が証言の意思を聞くと、麻原は「林自体、アメリカだから…」と呟くだけで、退廷となった[267]。
1998年5月、林郁夫、無期懲役判決(控訴せず確定)。同年10月23日、岡崎一明初の死刑判決(2005年確定)。
1999年9月22日豊田・廣瀬・杉本公判で、麻原は宣誓文を書いて宣誓手続きが終わった[268]。「ボツリヌス菌はオウム真理教にはないです」、遠藤が大腸菌を培養していたが、「遠藤がオウム真理教、日本を統治したかったのかもしれませんね。私の奥さんを巻き込んで、88年か89年かな、遠藤と佐伯(岡崎)が肉体関係があって」、地下鉄サリン事件は井上が持ち込み、村井も否定的だったとし、「地下鉄サリン事件の話を聞いたことは、私はないです。」[269]。このほか、1985年か86年に麻原が行った空中浮遊は第三次世界大戦のきっかけとなっているとし、弁護人に脳波でその映像を送信したと称した[270]。自分は徳川慶福、徳川慶喜の直系であり、天皇家直系の藤原で、統一教会の文鮮明と血縁関係にあり、韓国、朝鮮、イラン、ユダヤ各王の関係者が選挙の後押しをしたから、落選するはずがなかったと述べた[271]。
同年9月30日、横山真人死刑判決(2007年確定)
1999年11月10日豊田亨・杉本繁郎公判で、麻原は、前に大腸菌と言ったのは間違いで、ブドウ状球菌だとし、「私は宇宙全体を動かす生命になってますが、動かす脳が破壊されているから、動かせなくなっています」と言い、英語や小声で話した[272]。杉本繁郎が直接尋問で「もういい加減目を覚まして、現実を見つめたらどうですか」と言うと、麻原は「もうちょっと、黙ってた方がいいと思うけど。石井とか知子とかに黙って、LSDを最初に使ったこと、わかってんだよ!」と答え、杉本は「結局何も答えられないんですか。最終解脱者の能力はどうしたんですか。(略)私はあなたを信じて、大馬鹿者だったと思っている。そういう気持ち、わかりますか!」と泣きながら発言した[273]。その後、豊田亨が「何も言わないつもりでしたが、今日のあなたの態度を見て考えが変わりました。(略)質問にも答えないで。あなたの裁判を見ていると、流れるがまま、長引くまま、逃避しているとしか思えない」「地下鉄サリン事件は村井と井上が起こしたと言った。つまり止める力もないわけです」と述べると、麻原は沈黙した[274]。
2000年6月6日、井上嘉浩に無期懲役判決(2004年控訴審で死刑判決、2010年死刑確定)。同年6月29日、林泰男に死刑判決(2008年確定)。同年7月17日、豊田亨と広瀬健一に死刑、杉本繁郎に無期懲役判決(いずれも2009年確定)。同年7月25日、端本悟に死刑判決(2007年確定)、同年7月28日、早川紀代秀に死刑判決(2009年確定)。2002年7月29日、新実智光死刑判決(2010年確定)。同年10月11日、遠藤誠一死刑判決(2011年確定)。
2003年4月24日、検察は論告求刑公判で、麻原は13事件の首謀者で、死刑を求刑した[275]。弁護側は2003年10月31日の最終弁論で「事件は弟子たちの暴走で、麻原被告は無罪」と主張し、結審した[276]。2003年10月29日、中川智正死刑判決(2011年確定)。
2004年(平成16年)1月30日、土谷正実死刑判決(2011年確定)。
同年2月27日、麻原彰晃に死刑判決[1]。国選弁護団は即日控訴し、辞任した[277]。この日、麻原は拘置所で「なぜなんだ、ちくしょう」と叫んだり、夜間に布団の中で「うん、うん」とうなったり、笑うなどした[278]。新たに私選弁護人松井武と松下明夫の2人がついたが、麻原は長く面会拒否し、7月の初面会でも意思疎通ができなかった[279]。10月、弁護人は、精神鑑定申立および1回目の公判停止の申立を行うが、 高裁は斥ける[279]。2005年1月、控訴趣意書の提出期限が8月31日まで延長することが認められる[279]。7月、弁護人は医師の意見書を添付して2回目の公判停止の申立を行うが、高裁は斥ける[279]。しかし、高裁は、弁護側が提出した医師の意見書を配慮し、精神鑑定の実施を伝えた[280]。ところが、弁護側は、提出期限の2005年8月31日、控訴趣意書を持参したが、精神鑑定に関する申し入れが拒否されたとして提出しなかった[281][282]。9月2日、高裁は控訴趣意書の即時提出を弁護団に要請した[281]。9月、高裁は、精神科医西山詮医師に鑑定を依頼する[279]。12月、高裁の裁判官が、麻原と面会する[279]。他方、2006年(平成18年)1月-2月、弁護団は独自に鑑定を実施、野田正彰などの精神科医は麻原の訴訟能力を疑問視した[279]。
2006年2月20日[279]に高裁に提出された西山鑑定書によれば、麻原の奇行については「自分の公判では不規則発言を繰り返すが、元弟子の公判での証言は多弁。立場によって使い分けて」おり、精神病の兆候ではなく、1997年7月以降は独房での独り言以外には言葉を発しなくなったが、2004年2月の死刑判決の後に錯乱したり、10月には野球の投球フォームをして「甲子園の優勝投手だ」と話したり、食事は介助を受けていないことから、「意思発動に偏りがあるのは不自然で、沈黙は裁判からの逃避願望で説明できる。黙秘で戦うのが96年以降の被告の決心」で、訴訟能力はあると結論づけた[278]。高裁はこの鑑定書への意見書の提出を2006年3月15日までとした[278]。弁護側は反論書を3月15日に提出、3月21日には高裁に3月28日に控訴趣意書を提出すると伝える[279]。しかし高裁は、前日の3月27日に控訴棄却を決定[279]。 弁護人は、翌日に控訴趣意書を提出し、3月30日には控訴棄却に対する異議申立を行うが、高裁は棄却した[279]。弁護側は、麻原の訴訟能力が無く、控訴趣意書の提出遅れは「やむを得ない事情」があったとして最高裁へ特別抗告を行ったが、2006年9月15日、最高裁は、西山鑑定書の信用性は十分で、原審の判断は正当で、弁護団は控訴趣意書を作成したと明言しながらも再三にわたる提出勧告に反し提出せず、弁護人と申立人(麻原)との意思疎通不能は遅延の正当な理由とはならない、と棄却した[283]。これにより、控訴審が実施されないことが確定した。
法学者白取祐司は、2006年3月28日に提出された控訴趣意書は準備不足で[279]、被告人との意思疎通が困難でも、控訴審を開かせるべきだったと批判した[279]。滝本太郎弁護士は、2005年8月に控訴趣意書を提出していれば2審は始まっていた、これはチキンゲームだったと述べる[262]。二審弁護人らは、日弁連から「控訴趣意書を長期間提出せず、死刑という重大判決を確定させ、被告の裁判を受ける権利を失わせた」と懲戒(戒告)処分を受けた[284]。
弁護団は2010年と2013年に二度の再審請求を行ったが、最高裁が特別抗告を退け、再審を認めないことが確定した[285]。
2011年2月、麻原への帰依を続けていた土谷正実は、裁判で「国家権力の陰謀」が判明すると期待していたが、逆に麻原の嘘が暴露され、しかも麻原が証言しなかったことから「弟子を放置して逃げた」との思いが強まり、さらに、麻原は土谷の証言を理解し、裁判長の反応も気にしており、精神疾患の兆しはなく、「詐病に逃げた」と思うようになって、帰依心が崩れたとし、麻原には事件について正直に述べてほしい、と語った[286]。
オウム裁判は、地裁では7年10カ月をかけて257回の公判を行い、証人は522人召喚され、1258時間の尋問時間のうち1052時間を弁護側が占め、検察側証人に対しては詳細な反対尋問が行われ、さらに麻原には特別に12人の国選弁護人がつけられ、その費用は4億5200万円だった[254]。
2018年1月に一連のオウム裁判が終結した事に伴い、同年3月14日に確定死刑囚13人のうち一部の死刑囚がこれまで拘置されていた東京拘置所から、日本各地の死刑執行施設のある拘置所(札幌拘置支所を除く)へ分散する形で収容された。法務省側は「適切に処遇し、共犯分離を図るのが目的」と説明している[287]が、一連のオウム裁判が終了し証人として出廷することもなくなり、死刑囚の心理面への配慮と、東京拘置所側の負担軽減を図るためとみられた[288]。これによりオウム事件確定死刑囚の死刑執行時期に対する関心が強くなった。
2018年7月3日、上川陽子法務大臣はオウム裁判確定死刑囚のうち、麻原彰晃こと松本智津夫・早川紀代秀・井上嘉浩・新実智光・土谷正実・中川智正・遠藤誠一の死刑執行命令書に署名、同月6日に東京拘置所で松本・土谷・遠藤、大阪拘置所で井上・新実、広島拘置所で中川、福岡拘置所で早川に対しそれぞれ死刑が執行された。続く同月24日、上川法務大臣は残る確定死刑囚の宮前一明(旧姓:岡﨑)、横山真人、小池泰男(旧姓:林)、豊田亨、広瀬健一、端本悟の死刑執行命令書に署名、同月26日に東京拘置所で豊田・広瀬・端本、宮城刑務所で小池、名古屋拘置所で宮前・横山に対しそれぞれ死刑が執行された。これによりオウム裁判に関する確定死刑囚の処断が終了した[289]。
麻原らの死刑執行直後の週刊新潮2018年7月19日号では、これまで知られていなかった女性信者殺害事件が報じられたが、立件されないまま、時効となった[290][291][292]。と言ってこのように、明るみにならぬ事件などと言った未解決事件も未だ残っており、教団関係での行方不明者は50人を超える[293]。前述通りその13人らがその2018年7月にようやく死刑執行されたことによりオウム事件は、刑事上では収束した。
教義[編集]
オウムの教義や修行法は、翻訳研究班に所属[294]した阿含宗元信者が主に担当して作ったもので、阿含宗の教義や修行法を真似たものだった[295]。この信者は、高学歴エリートが続々入信してくる中、理論武装に苦労したといい、「勘が鋭くて何でもお見通しの麻原がなかなか認めてくれないので、大変でした。逆に、エリート信者たちは何も聞かず何も考えない指示待ち人間になっており、『疑問を抱くことは心の汚れ』とか『教祖の指示は救済であり、その通り動くことが解脱の道』などと言えば、素直に絶対服従するから驚いたほどです」と後の取材で答えている[296]。当時教義作成にあたって特に使われたのはヨギシヴァラナンダ(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ)「魂の科学」(たま出版、1984)・「実践・魂の科学」(たま出版、1987.2.1)と、ラマ・ケツン・サンポ、中沢新一共著『虹の階梯』(平河出版社、1981年)だった[297]。麻原自身も1986年11月30日の説法で『虹の階梯』から修行のヒントを得たと述べている[298][299]。
中沢新一とオウム真理教との関係については、#中沢新一を参照。
オウムの教義では、オウムを離れると地獄に落ちる、特にグルを裏切れば無間地獄に落ちるとされ、教団は常にハルマゲドンや無間地獄の恐怖をちらつかせて信者をせき立てた[300]。
オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教[注釈 15]やインド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている[302]。教団の翻訳研究班では各種経典の翻訳も行っており、例えば「カーラチャクラタントラ」を英文から翻訳し配布していた[303]。
そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー的宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教の創造主としての神は梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。オウムでは、世界の宗教の起源は古代エジプトにあり、アブラハムの宗教もインド系宗教もエジプトから始まったとし、万教同根・シンクレティズム的な宗教観を持つ[304]。従って、オウム真理教に於いては世界中のありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられ、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。
具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教の六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする[305]。麻原自身は逮捕後、こう語っている。
オウム真理教が三乗の教えについて、例えばパーリ三蔵をパーリ語から翻訳しなければならないと考え、それに対して労力、人材、時間を使っている理由は、まずその根本であります上座部仏教、北伝では小乗仏教といわれていますが、この上座部仏教を検討しない限り仏教は語れないと考えているからでございます。(省略)
では、なぜ原始ヨーガという言葉が入ってくるかということについて説明をしなければなりません。もともとヨーガと仏教の関係は、10世紀前後あたりから非常に密接な関係が生じました。そして例えばヘーヴァジラ・タントラなどの場合、これは仏教徒も修行しますし、あるいは非仏教徒であるヨーガ修行者も修行するという形をとり、結局その原典の完全な復元をなすためには、ヨーガ、仏教を問わず、あらゆるインドに伝わった教えを検討し、そしてそれから原典を復元する以外にないということがあるわけです。(省略)
したがって、このオウム真理教の教義そのものが麻原独特の教えであると公安調査庁が断定するとするならば、公安調査庁の言っている本当の仏教とは何か。それをここで明示すべきでございます。 — 麻原、破防法弁明において[10]
そして、それらの教団、それらの経の完全な復元こそが、私は、この日本人に大きな最高の恩恵を与えるものと確信し、今までやってきました。
また、オウム真理教の教義には、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学の影響も指摘されている[注釈 16]。ブラヴァツキーの死後、神智学の組織である神智学協会はインドに本部を構え、ヨーガ理論とその実践による霊性の向上と霊能力開発を強調するようになったが、社会学者の樫尾直樹や宗教学者の大田俊寛は、こういった面を含めて近代神智学の構えはオウム真理教の諸宗教の編集の仕方に非常によく似ており、その影響が伺われると指摘している[306]。たとえばオウムの世界観で用いられた「アストラル」「コーザル」は神智学の用語である[307]。麻原が神智学の原典から直接学んだのか、麻原が一時はまったというGLAなどの新宗教の経典や出版物[308]、オカルト雑誌などから間接的に教義を構築したのかは定かではない[306]。
麻原は宗教の教えと科学の理論をごちゃ混ぜにして話すことを得意とし、空中浮揚からビッグバンに至るまで疑似科学理論で説明していた。最先端の科学でも難しい「ビッグバン直後の世界」などのことでも、適当に誤魔化して説明できてしまうことから、多くの理系信者が惹きつけられた[309]。
オウム真理教の主宰神は、シヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教(インド神話)にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。
救済と凡夫[編集]
初期のオウム真理教では、すべての魂の救済が目的とされたが、後期には信徒以外の一般社会の人々を「凡夫」とし、不必要・無価値の魂と見做すようになった[40]。
1988年の麻原彰晃の著書「マハーヤーナスートラ」では、オウム真理教の「救済の3つの柱」として、「人々を病苦から解放する」「この世の幸福をもたらす」「解脱、悟りへと導く」があり、これらを総合し、すべての魂を絶対自由・絶対幸福の世界であるマハーヤーナへ導くことが救済の究極の目的とされた[310]。
しかし、その後、信徒以外の「凡夫」と信徒との間には価値の差があると説かれるようになる。信徒は「救済のお手伝い」をする「光の戦士」となるが、信徒以外の一般社会の人々を「凡夫」として蔑んだ[40]。麻原は、1993年4月18日には杉並道場で「わたしたちは全ての魂をできたら引き上げたい、救済したいと考える。どうだ。しかし、時間がない場合、それをセレクトし、そして必要のない魂を殺してしまうこともやむなしと考える知恵ある魂がいたとしてもおかしくない。どうだ。」と説き[311]、1994年3月11日に仙台支部で「もともと魂の価値は等価ではない。人間から低級霊域、動物、地獄へと至るパターンを繰り返している魂と、私や真理勝者サキャ神賢(釈迦)や聖者キリストのような天の世界やニルヴァーナを多く経験し、ボーディサットヴァとしての人生を歩いている魂と、それから一般の人間とでは、そのコーザルにおける意識の広がり、空間の大きさというものは全く違い、ユダヤ教の教えでもあるが、宗教を実践している者とそうでない魂とでは千倍の価値、一万倍の価値がある」「例えばアリが十億匹いたとして。ある魂が火炎放射器を持っていたらどちらが強いか。これ(武力の差)はまさに魂の価値を意味する。彼らの魂の価値は、凡夫の魂の価値よりもすぐれているのである」と説いた[312]。
サリンを合成した教団幹部の土谷正実は、「動物を殺すと悪業になるから、動物実験はしない。今の人間は動物より悪業を積んでいる。だから(化学兵器の)効果は本番で試す」と述べた[313]。
無常・ニルヴァーナ[編集]
オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望・煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。
「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」というフレーズは「教本」では1991年2月12日、阿蘇シャンバラ精舎説法で登場した[314]。麻原は「皆さんが肯定しようとも否定しようとも、必ず死ぬ。そして死は修行によってのみ乗り越えることができる」「この現世のたかだか40年、50年にいろんな保険をかけているが、それと同じように死後の世界に保険をかけたらどうか」と説いた[315][316]。こうした死と無常、生死の超越の強調は、阿含宗や佐保田の著作には見られないオウムの特徴で、現世否定、現世離脱、現世超越が際立つ[317]。
また、麻原も熟読した「虹の階梯」では、「人は一歩一歩死に向かって歩んでいく、あなたが今この時死なないという保証はない、死が訪れれば家族や友人に恵まれ尊敬されていても、権力を持っていても、なんの役にも立たない。死に備えて必要なのは瞑想修行であり、今すぐはじめなけれならない」と説かれ、常に死についての瞑想を行い、無常の自覚があらゆる修行の基礎であるとされており[318]、オウムの教義と通じる[319]。
自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。
四無量心[編集]
仏教で四無量心とは慈、悲、喜、捨の四つの利他の無量心を指すが[320]、麻原はこれを「聖慈愛、聖哀れみ、聖称賛、聖無頓着」と言い換え、聖慈愛は「すべての魂の成長を願う心」、聖哀れみは「今なお悪業をなし、高い世界へ至ることのできない魂に対する哀れみ」、聖称賛は「自分より徳の修行で長けている者への称賛する心」、聖無頓着は「今に一切頓着しない最終段階の心」とされる。このうち聖無頓着は「金剛心」というヴァジラヤーナの教えにも通じる[321]。
輪廻とカルマ[編集]
教団では輪廻転生が信じられていた。麻原は自らの出版物を通して、徳川家光、朱元璋など多くの前世を持つと称していた[322]。中でも意識堕落天の宗教上の王は直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている[323]。
輪廻転生と関連してカルマ(業)の法則も信じられていた。虫500匹を殺すカルマが人1人を殺すカルマに相当する、接触しただけでカルマが交換される、スポーツやグルメを楽しむとカルマを負って低い世界に落ちるなどといった独特の教義があった[324]。一方で、1986年に麻原は「解脱すれば現世で罪になることをしてもカルマにならない。だから、解脱者には罪はない」と説いた[325]。
この他、教団に不利益を与えた者はカルマ返しを受けるとし、信者への体罰はカルマ落としとされた[326]。その人の悪いカルマを落としてあげるには苦しみを与えればいいとされた[327]。楽しいことをしたり、美味しいものを食べたり、十分睡眠をとると徳が減る、苦しければ苦しいほど徳を積む事になる、だから相手を苦しめるのはその人のためにいいことである、オウムを批判する人を攻撃するのもカルマ落としであるとみなされた[327]。1991年10月16日には「教学試験でカンニングしている者がいたら、構わず殴りつけろ。叩きのめせ。それは彼らが、来世、三悪趣に落ちるカルマを落とす意味においてだ。自分より強そうなら、2,3人で、それでだめなら10人で殴れ。これは私が認めた律だ。教学を勉強しない者については、怒鳴るとエネルギーをロスするから、しっかりといじめてやれ。精神的に、飯を食わせないとか、眠りそうになったら起こすとか。」とし、四無量心が根づけば殴ってでも修行させた方がいいと説き、リンチやいじめを肯定した[328]。
気とシャクティパット[編集]
オウムでは霊的エネルギー(気)を実在すると考え、これを強めるためとして様々な修行をしていた。麻原の爪や体毛を煎じて飲んだり、麻原の風呂の残り湯を飲んだりするのも「エネルギー」を高める目的があった[329][330][331]。
シャクティパットはインドのタントリズムにおいてグルが弟子に触れることでクンダリニーを覚醒させ精神的変容をもたらす行為のことである[332]。オウムでは教団初期に弟子のクンダリニー覚醒のために行われ、1988年8月には麻原はシャクティパットを終了し、高弟に委ねた[333]。元来、ヒンドゥー教・シヴァ教でシャクティーパットは、弟子の覚醒を師が手助けするもので、またカルマを他人が肩代わりすることはないが、オウムでは麻原の個人的なエネルギーや血液などの物質の注入を意味した[334]。(#ヒンドゥー教・シヴァ教との関係を参照。)
宗教学者の正木晃は、麻原のシャクティパットは真光系の手かざしやハンド・ヒーリング、セラピューティック・タッチなどと基本原理は同じであると述べている[335]。
ポア[編集]
タントラ密教における歴史的な用語としてのポア(ポワ)(pho ba)は、ナーローパの六法において、体の火を燃え上がらせるトゥンモの修行、幻身の修行、夢の修行、光明の修行、中有の修行に続いて最後の修行とされる転移・遷有の修行のことであり、意図的に自己または他者の意識を移し替える技法のことをいう[336]。タントラ密教におけるヨーガ体系においては、殺害とか、他者の魂を奪う意味はない[336]。
オウム真理教においても「ポア」また「ポワ」は「魂の転移」を意味する言葉であるが、成就者が弟子に命じて将来悪業を積む可能性のある人間の殺害も「魂の転移」となり、被殺害者も殺害者にも益となる、と説かれた[337]。「オウム神仙の会」の時代だった1987年1月4日の丹沢セミナーで麻原は「例えばグルがそれを殺せと言うときは、例えば相手はもう死ぬ時期に来てる。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね,一番いい時期に殺させるわけだね。」とすでに殺人を肯定する意味で「ポア」の用語を使った説法をしていた[1]。元教団幹部の中村昇によれば、中沢新一の「虹の階梯」を読んでいた弟子の方から、ポア(意識の移し替え)を殺人を含めた隠語として使い始めた[338]。
男性信者殺害事件直後の説教では、船上で300人の貿易商を殺害しようとしていた悪人を仏陀(の前生)はこの悪人のカルマが悪かったのでポア(殺害)したと説教されたが、宗教学者渡辺学はここで麻原が言及しているのは善巧方便経にあると指摘している[339]。善巧方便経では、500人の商人が乗る船で1人の悪人が全員を殺害して財宝を奪おうとしていたが、釈迦の前生である船長は 、悪人が商人を殺して地獄におちること、反対に計画を知った商人が悪人を殺し地獄に落ちるのを防ぐには、 この悪人を私が殺す以外に方法はない」と大悲の心をおこし、その善巧方便によって悪人を殺した[340]。渡辺学はこれは釈迦が生まれる前に行ったという話であり、釈迦と同じ心境になった人間が同じことをしても構わないという話ではなく、麻原の解釈には飛躍があり、また麻原は自分が最終解脱者であり、神に等しい存在であることを証明し、殺人行為を救済と結びつけるためにこの物語を利用したと述べている[341]。元高野山大学学長の藤田光寛は、仏教における「慈悲の心と善巧方便にもとづく殺生」 について、「本生譚や説話、 また歴史的 ・社会的な出来事などによる例証を示して説かれたこのような話は、私どものような凡夫に信知させるために用いられた象徴的比喩である。文字どおりに殺生などを実行して良いという意味ではない。」と明言する[340]。
オウムは人々の救済を説く一方、「ユダヤ=フリーメイソンに支配され物欲に溺れ動物化する人々、三悪趣に落ちる人々」と「霊的に進化する人々」を二分し、前者を粛清しようとする思考に陥っていたとされる[342][343][344]。
修行[編集]
修行の「4つの柱」として「教学、功徳、行法・瞑想修行、イニシエーション」が挙げられている[345]。修行の外見はヨガや仏教の形態をとるが、その内実はすべてグル(麻原)への霊的隷従、グルのクローンになるシステムであった[346]。
具体的な修行生活としては、睡眠時間は最初は一日5〜7時間、ステージが上がると3時間だった。起きている間は一日2回の食事と夜礼(深夜0時-1時)以外は修行(ワーク)だった。ある信者の一日は、深夜0時-1時から夜礼、その後朝6時まで修行(ワーク)、掃除・護摩供養・食事、午前9時半から3時間睡眠。起床して午後6時半の食事まで修行、食後は深夜12時まで修行で夜礼となった[347]。この信者は、慢性の睡眠不足から頭痛、腹痛に悩まされたという[347]。病気にかかることはカルマなので、薬は一切使うことはなかった[347]。
1990年8月の大阪の男性4人が子供を連れて出家した妻を相手にした訴訟では、施設の不衛生や栄養失調が報告され、子供10人を父親に引き渡す判決となった。自宅に戻った子供たちは寿司やケーキを飢えた動物のように食べた。病院で貧血と低血圧と診断され、治療が必要だった児童もいた[347]。
マハームドラー[編集]
マハームドラーとは、元はカギュ派の修行であったが、オウムにおいては、グルが弟子にあえて試練を与えて、帰依を試す修行となり、無理難題な試練を指すようになった[348]。グルが弟子を成長させるために行う修行として、殺人もマハームドラーであると説教された[349]。1988年または1989年に、麻原の娘が信者の子供に意地悪をしたり暴力を振るったのを見て、麻原は「娘がカルマ落としを仕掛けている。これぞマハームドラーの修行だ」と説明している[350]。SPA!1989年12月6日号で麻原は「カギュ派のマハームドラーから大きな影響を受けて、狂気の悟りを目指している」、対談相手の中沢新一は「宗教は本来反社会性を内に秘めている」と述べた[351]。
井上嘉浩は96年3月の初公判で「私の成したことは、すべてマハームドラーの修行でした」、遠藤誠一はサリン製造が、端本悟は坂本一家の殺害がマハームドラーだったと述べ、林郁夫は村井から「サリンを撒くことはマハームドラーの修行だから」と言われており[352]、林郁夫自身も、サリンによる死者も真理を守ることになると考え、人を殺すということにも心を動かされないことが阿羅漢と同じレベルになると考えていたという[353]。新実智光も1989年信者殺害事件に際して「(グルが殺せといったら殺せるかという)問いは、教義上のたとえ話みたいなもので、具体的に誰を殺せというものではなかった。修行上の観念崩し、マハームドラーかと思った。善悪などの二元論的な思考を崩し、空に到達するのがマハームドラー。殺生する人とされる人がいると考えること、主客が存在しないのに、存在していると考えるのは迷妄である」と述べた[354]。
マハームドラーと称して非合法活動を実施した時に麻原がよく用いたのが、次のようなミラレパの伝記だった[355]。マルパの一番弟子ゴクパは、ミラレパへのイニシエーションとして、食料を盗む村の悪人たちに魔術で雹の嵐を起こして彼らに攻撃したら伝授するとした。その後、ミラレパは「これからやることは犯罪だ」と村人に伝え攻撃し、死んだ小鳥や羊を集めてゴクパに会いに行った。ミラレパは「罪人である私を哀れんでください」といって泣くと、ラマ・リンポチェは「秘密の詞章によって罪人も瞬間的に解脱できる」と言って指を鳴らして死体を蘇らせた[355]。
イニシエーション[編集]
当初は、専らヨーガの手法を用いた修行が行われていた。その後、本来「秘技伝授」を意味する宗教用語であった「イニシエーション」という言葉を、オウム独自の「解脱者のエネルギーを伝授することで弟子を成就、解脱させる」という意味で使う[356]ことで信者を増やしていった。
麻原は著書「イニシエーション」(1987年)で、悟りを開くための「5本の柱」として、観念を崩壊させる、愛着を捨てる、全ての人を愛す、プライドを超える、怒らないを挙げた[357]。
また、教団ではユダヤ・フリーメーソンによる3S、すなわち、Screen(テレビ)、Sports(スポーツ)、Sex (セックス)が悪とされ、それらを用いたサブリミナルや煩悩による洗脳から脱却するために、全てをグルに明け渡すことが大切だとされた[358]。アダルトビデオ、カラオケ、パチンコ、ファッション、グルメ、テーマパークなどによって現代人は考える力を失い、欲望を満たす動物となり、彼ら(闇のユダヤ勢力)から家畜と呼ばれても文句は言えないと説いた[359]。
さらに麻原は終末思想を煽り、1994年前後には違法薬物や電気による様々な洗脳施策を取るようになった[360]。1994年以降は石川公一を中心として薬物と催眠術を用いたシステム化が完成され、信仰心がない人でも教団に連れ込めば洗脳してしまうシステムが確立した[358]。
この他、1991年春頃から行われた温熱修行では、47度~49度の湯に15分入ることで、チベット密教のトゥンモのような体温上昇が目指され、早川によれば、かなりの数の信徒がこれで死亡した[361]。
「バルドーの導き」では、死体や事故死の映像とともに「人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない」といった章句が繰り返され、地獄のビデオでは、画面はほとんど真っ黒で、地獄に落ちた者が空腹を訴えると、地獄の番人が口をこじ開け、焼けた鉄を注がれ、体は焼け焦げる、といった内容で、5時間ほど続く。ビデオで麻原は「私は地獄を見たことがある。地獄を経験したことがある。そして、実際、この世において、弟子達を心を込めて叩くことによって、それが体に返ってくると。」と語っている。視聴後は、麻原と石井久子のデュエットで地獄の歌が流れる中、突然、近くの太鼓が叩かれる[362]。閻魔役の大師から3時間ほど「なぜ出家できないのか」を問われ続ける[362]。出家を拒否すると、蓮華座を組まされたまま縛られ、大師が竹刀で部屋中を叩きながら、「人殺し」と怒鳴るなど、こうした責めが12時間続けられた信者もいた[362]。
ヒナヤーナ・マハーヤーナ・タントラヤーナ・タントラヴァジラヤーナ[編集]
オウム真理教では、修行の内容を3種類または4種類に分けて説く。小乗(ヒナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)、真言秘密金剛乗/秘密真言金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)で、厳密に説かれるときはタントラヤーナとヴァジラヤーナを分ける。ここでは4つの修行体系に分けて述べる。ただし、顕教が大乗を説くのに対して密教は金剛乗(ヴァジラヤーナ)を説くことは多いが、通常の仏教語の定義とは異なる。
また、麻原は年によって話す説法と衣服を変えており、1988年はヒナヤーナで黄色い服、1989年はマハーヤーナで白い服、1990年はタントラ・ヴァジラヤーナで紫の服を着た[363]。
- ヒナヤーナ
- ヒナヤーナ(小乗)とは、外界とは離れて、自己の浄化・完成を目指す道である。ヒナヤーナはすべての土台である。
- マハーヤーナ
- マハーヤーナ(大乗)とは、自己だけでなく他の多くの人たちをも高い世界に至らしめる道(衆生済度、救済)である。教団全体はマハーヤーナと規定される。ただし、完全なる自己の浄化(ヒナヤーナの完成)がなければ、真の意味でのマハーヤーナは成立しないともいう。オウム出版発行の機関紙の名前にも使われている。
- タントラヤーナ
- タントラヤーナはセックスによって、最も低い次元にある性エネルギーを上昇させる修行である[364]。初期の『超能力秘密の開発法』では幽体離脱を獲得するために頻繁な性交渉や頻繁なオナニーが奨励された[60]。同書では房中術が詳細に述べられており、例えば、セックスの相手は男性でも女性でも年下で美しく、気立てがいい人を選ぶ。射精後は最低6時間眠り、ツァンダリー、つまり性的エネルギーの火が燃え上がるのを観想する。相手が終わったら、男性は陰茎をピクピク動かしながら(女性は膣を締め付けながら)、愛液が赤いエネルギーを発していることを観想し、赤いエネルギーを陰茎で吸い上げる気持ちを持ち、そのエネルギーをムーラダーラ・チャクラから頭頂のブラフマ孔へ到達させ、蓄える。これを3回繰り返すと説かれた[365][366]。
- その後麻原は「最終解脱者」として左道タントライニシエーション (タントラのイニシエーション)と称し性行為を行っており[367]、女性信者にはセックスで精子を与え、男性信者には精子を飲ませていた[368]。ある未成年の女性信者は、1989年4月頃、福岡市内のホテルに呼ばれ、ツインルームのベッドの上に座った麻原から男性経験の有無を聞かれた後、「服を全部脱ぎなさい」と言われ、儀式と思って裸になると、キスをされ、体を触られた[369][370]。その後、富士総本部三階の麻原の部屋に夜中3時に呼ばれ、「だいぶ性欲が溜まったんじゃないか」といっていきなり服を脱がし、「これはタントラ・イニシエーションといって、エネルギーが上昇して早く解脱できるようになる」と言って、最後まで性行為をし、行為後には「誰にも言ってはいけないよ」と口止めをされた[371]。その後杉並区の麻原のマンションに呼ばれ、「生理だから」と言ったが、「妊娠しないからいいじゃないか」といわれ、グルの指示は絶対であったために断れず、性行為を受け入れた[369]。女性信者は「(麻原の)性行為自体も一方的で、ただ自分の欲望を満たそうという感じだった」と証言する[372]。他にも何人かの女性信者が「タントラ・イニシエーションという過激なイニシエーションを受けた」と述べていたが、みな口止めされていたので「これ以上は言えない」と口をつぐんだ[373]。これらの麻原のセックス修行について週刊文春が1990年3月15日号で報道したが、表立ってオウムは抗議することはなく、1990年8月の大阪地裁での人身保護請求裁判で「捏造でっちあげ」と裁判内で回答したにとどまった[369]。以降も麻原はダーキニーと称した未成年を含む若い愛人を何人も囲った。
- 一方で、信者に対しては、セックス修行については1990年春以降説教されなくなった[374]。麻原は信者に対して、マスコミの批判は全てデマで、そういう悪いデータは頭に入れないようにと指示し、週刊文春のセックス修行記事も「この件は話題にしてはいけない」という張り紙を教団施設に掲げた[375]。1994年頃には、煩悩に巻き込まれながら救済活動をなすタントラヤーナは、教祖と女性問題が取り沙汰されるような政治倫理が説かれる現代には合わない修行であると説かれた[376][364]。教団では信者は恋愛も性交も禁止され、男性大師と女性信者との関係が発覚した時には二人とも独房に監禁され、夫婦で入信すると同居できず、隣に座ることもできなかった[377]。出家信者の戒律「不邪淫」では、性行為だけでなく自慰も禁止された[368]。
- ヴァジラヤーナ
- ヴァジラヤーナ(金剛乗)とは密教徒が自らの密教を自称することばで、バジラ(金剛)はインドラの武器を意味する[378]。金剛乗とは顕教に比して絶対なる乗り物(教え)を意味し、『金剛頂経』や無上瑜伽タントラにおいて用いられる[378]。金剛乗はグルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。グルが弟子に内在する煩悩を突きつけ、それを理解できる状況を作り出し、その煩悩を越えさせるマハームドラーなどの激しい方法が含まれる。麻原はカール・リンポチェと会ってからヴァジラヤーナを説くようになった[379]。
- オウム真理教におけるタントラヴァジラヤーナの教義の中には、「五仏の法則」と呼ばれるものがあった[380]。
- これは「一般的な戒律に反する行為・言動」が、完全に煩悩なく、完全に心において利他心のみであるときには認められるとするもの。「天界の法則であって人間界においてはなし得ない」という注釈のもとで説かれたこともあった。
- 麻原は空海の真言宗でも同じことを言っているとした[386]。日本では金剛乗は真言密教を指す[387]。真言宗の経典の一つである金剛頂経は仏教学的分類においてはタントラ密教経典に分類される。金剛頂経は全十八会からなり[388]、その内初会「真実摂経」のみが日本に伝わっているが、ニ会以降の内容では後期密教との過渡期の内容に踏み込み、上記の五仏の法則に近いと言える内容も実際に存在する。経典『秘密集会タントラ』第五分[389]には、殺人などの大罪を犯す者、嘘つき、他人の財物を欲しがる者、常にセックスを求めて性行を悦楽する者は、梵行を行っている行者に等しいと書かれており、麻原の教義とこの経典との間に表面上の矛盾はないが[380]、一方でダライ・ラマ14世はこの箇所は文字通り解釈してはならないと注意を促している[390]。
- 麻原は、五仏の法則やヨハネの黙示録のような最終戦争についての言及のある時輪タントラもヴァジラヤーナ路線に利用したが、時輪タントラはイスラム教がインド仏教を衰退させていく時代に成立したもので正当防衛との解釈も成り立つが、現実に軍事的な圧力を受けてもいないのに教団が弾圧されていると陰謀論を主張したのは事実に反していたと上祐史浩は総括している[390][391]。
- 警視庁はオウム真理教のヴァジラヤーナの教義は殺人を正当化するものと解釈、オウム後継教団は現在もこの教義を根幹に据えていると見ている[392]。
予言と終末観[編集]
1985年に麻原はアビラケツノミコト(神軍を率いて戦う光の神)を任じると天から啓示を受け、その後、マイトレーヤ(弥勒菩薩)であると守護神から教えられたと語り、1988年にはシヴァ大神の指示でヨハネ黙示録を読み解き、自分をハルマゲドンで現れるキリストだとした[393]。アビラケツノミコト、マイトレーヤ、キリストは全て戦う神(軍神)とされた[394]。麻原は、神の預言とは、自ずと実現する予言ではなく、神を代行して実現する計画であると語っている[393]。
ノストラダムスの予言は、五島勉の『ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月,人類滅亡の日』(祥伝社ノン・ブック、1973年)シリーズを通じて、麻原に大きな影響を与えた[395]。とりわけ以下の詩篇は有名である。
五島勉は1999年の破局を回避するためにはユダヤ教・キリスト教などの欧米白人文明から、仏教などの東洋アジアの思想への転換が必要と主張した[395]。
立花隆は、麻原はヒトラーと同様に本気でノストラダムスの予言を信じ、「自分の予言が外れると困るからハルマゲドンを起こそうとしたのではなく、ノストラダムスがそう予言したからには、歴史はその通りに動くにちがいないし、また自分は、歴史をそのように動かす歴史的使命を与えられていると思い込んだのではないか」と指摘している[397][398]。
宗教学者の武田道生は、オウム真理教における予言と終末観の変遷を、初期の終末回避期(1985年 - 1987年)、終末回避不能・救世主出現期(1988年 - 1990年6月)、救世主確立期(1990年8月 - 1992年10月)、終末切迫期(1992年10月 - 1995年)の四つの時期に分ける[399]。初期には個人の魂が救済され、次いで人類の救済、 次いで超人類の生き残りへと終末観が変容していった[399]。
- 終末回避期:1986〜1987年
「オウム神仙の会」発足直後の1986年には「87〜 88年の富士山噴火 90年からの日米貿易摩擦、93年の再軍備、99年〜 2000年の核戦争」を予言[399][400]。
1987年には核戦争が99年か2003年となり、運命の日が1999年8月1日に特定される[401]。 この時期は、成就者が宇宙エネルギーの流れを変えて終末を回避できると予言した[402]。 阿含宗の終末論に類似した楽観的な全面的回避とい う救済が展開する[399]。
- 終末回避不能・救世主の出現期:1988年〜1989年
1988年には、日本沈没とSDI兵器による米ソ・イスラム・日本の戦争という水と火の洗礼を予言し、出口王仁三郎やノストラダムスを用いて、ハルマゲドンは回避できず、 成就者・解脱者などの新人類が生き残り、新しい王国を築くという選民思想が出現する[399][403]。しかし、日本沈没は300人の解脱者で回避できるとした。1988年4月から大宇宙占星学の連載開始[399]。同年12月には富士山の噴火を「水中エアータイト・サマディ」によって回避できたとして、成就者を出して全滅亡を回避しようと説教[399]。同年12月13日の富士山総本部における説法では、ヨハネの黙示録の教えには人類滅亡後に生き残る人の条件は、仏教の戒を守ることと禁欲、そしてシヴァ神あるいはグルへの帰依であると説かれており、これは「タントラ・ヴァジラヤーナの精髄」で、「今、世界のどこを探しても そのことを最も激しく実践しているのは、オウム真理教の信徒だけだ」と述べた[1]。
1989年2月著書『滅亡の日』では 『ヨハネの黙示録』はシヴァ大神が麻原を終末時の救世主と命じるためにヨハネに書かせたとし、シヴァが行う天変地異による悪のカルマおとしが効果を挙げなくなった時、人間の最終戦争によってカルマおとしを行うという[399]。シヴァ神から「オウム真理教の救済計画を固めよ」との神託を受けたとする麻原は「力で良い世界をつくる。これこそ、タントラ・ヴァジラヤーナの世界だ。シヴァ神はシヴァ神への強い信仰を持ち続けたタントラ修行者が諸国民を支配することを望んでいらっしゃる」と説いた[1]。同年4月には、 ノストラダムスも救世主として麻原の出現を予言していたと述べ、 成就による超人類が誕生するために終末は避けられないと 終末を肯定した[399]。
1989年5月発行の書籍「滅亡から虚空へ」では「ハルマゲドンは回避できない。しかし、オウムが頑張って多くの成就者を出すことができれば、その被害を少なくすることができる。ハルマゲドンで死ぬ人々を、世界人口の4分の1に食い止めることができる。残りの4分の3の人口の中のどれだけが生き残れるかは、オウムの救済活動次第だ。」と説いた[1]。また、第二次世界大戦でわざと負けたヒトラーは未来予知の力を持つ予言者であり、「20世紀末の大破局が救いの超人や神人を生み出す」と予言していると書いた[404]。
- 救世主確立期:1990年〜1992年
1990年8月にはノストラダムスの予言するモーゼは麻原であるとし、1991年9月の『人類滅亡の真実』では転輪王獅子吼経を通して、終末後に麻原が真理勝者 マイトレー ヤ(弥勒)に転生すると語られる[399]。 同91年12月の『キリスト宣言』で、 真理の御霊である麻原は、キリストとして再臨すると語られる。1992年9月2日のノストラダムスの勉強会で、予言にあるキリストとは「孤児とか、親元を離れて生活をしてる、親と縁が非常に薄いことを表すフランス語」であると解釈し、麻原自らの体験を持ち出して、自分がキリストであると述べた[405]。このほか、麻原は古代エジプトのアメンホテプでもあり、またフリーメーソンを敵視しているが、フリーメーソンを作ったのも自分であるとも述べた[406]。
1992年9月から10月にかけてノストラダムスが救済者麻原の出現と弾圧を予言しているとし、また超古代の救世主ヘルメスとしても再臨すると語る[399][407]。
- 終末切迫期:1992年〜1995年
1992年10月以降各地の大学で行われた講演から、悪の具体化と終末時期の前だおしが始まった。 日本への核攻撃は96年から98年1月にかけて行われ、 人口は10分の1になるとした[399]。
1993年1月31日第8回大説法祭で麻原はヒトラーのカルマと自分のカルマは似ているかもしれないと述べ、ノストラダムスのいうユピテル、クロノス、太陽、メルクリウス、マルスなどのギリシア神話・ローマ神話の神々も、マイトレーヤと同一人物、つまり麻原であるとする[404]。同年3月・4月に麻原は、ノストラダムスが1997年ハルマゲドンを説き、麻原をキリストとして予言している以上、「私が世の中の中心に引っ張り出され、主役を演じなければならない時代が来ることは間違いないだろう」[408]、「(教団が)叩かれることが予言だった。叩かれることは、予言として成就しなければならなかったのである。その叩かれた中でこの1600倍に拡大した教団の道場の空間は、間もなく2000倍になろうとする。」と述べた[409][410]。この1993年には兵器開発が強化されたが、1993年6月に上九一色村で「第三次世界大戦をとめることができるのは、世界においてただ一人、私しかしない」と宣言した[411]。1993年7月の著書『麻原彰晃 戦慄の予雷』でユダヤ・フリーメーソン陰謀説が登場し、終末は成就修行の目標とされた[399]。
1994年3月以降、麻原はさらに陰謀説を強め、「私の生命もこのまま彼ら(フリーメーソン)の攻撃を受け続けるならば、一ヶ月ともたない。今まで私は毒ガス攻撃に対してツァンダリー、トゥモで対決してきた」[412]、「1989年から世界を統一しようとしているグループがアメリカを使い、アメリカの配下のJCIA(内閣情報調査室)、公安を使い、オウムを弾圧してきた。この弾圧は、フリーメーソンの手先である創価学会や小沢一郎というラインのその背景に大きな力が働いている」と陰謀説を述べた[413][414]。3月15日には杉並道場で白蓮教による紅巾の乱を挙げ、これは(朱元璋が)明王朝を打ち立てるきっかけとなった宗教戦争であり、「このきっかけを有することのできるような教祖こそがカルト宗教の教祖」であるとする[185]。また、1993年にブランチ・ダビディアンがFBIによって滅ばされたが、それを動かしたCIAは次に麻原を「本当の意味での反米、つまり属国から開放され、日本が独立国として動き出そうとする時の中心人物」として恐れているがゆえに、マスタードガスやVXなど毒ガス攻撃を1988年から続けていると説いた[185]。1994年春以降、「国家公安、つまりフリーメーソンらは『省エネ原爆(サリン)』で我々を狙っている。近く東京23区は全滅する」と度々講演し、第三次世界大戦の狙いは、第一段階で都会が完全に死滅させ、第二段階では無政府状態をつくり、第三段階は地球の統一的な政権を作る、と説いた[415]。
こうして教団は、ユダヤによるマインドコントロールや地震兵器、毒ガス細菌兵器攻撃を強調、 <物質主義=ユダヤ=悪=闇>と<精神主義=オウム真理教=善=光>という対立を設定し、外部社会との敵対的闘争へと展開、救済者像の強化が熱狂的に行われ、積極的に終末を迎えた[399]。
ハルマゲドン(最終戦争)[編集]
ハルマゲドンとは聖書のヨハネの黙示録において神が悪魔と戦う世界最終戦争の場所である[416]。麻原は転輪王経やヨハネの黙示録、ノストラダムス・酒井勝軍・出口王仁三郎らの予言[417]、占星術(大宇宙占星学)などをミックスし、第三次世界大戦・ハルマゲドンが迫っていると盛んに主張した。現代の人類は悪業を積んでいてこのままでは三悪趣に転生してしまうので、ハルマゲドンは回避できないと説いた[1]。麻原はオウム真理教以前のヨガ教室「オウム神仙の会」を開催していた1985年頃には竹内文書と酒井勝軍の影響から終末思想ハルマゲドンについて述べており、雑誌「ムー」1985年11月号には岩手県の五葉山の調査報告として、20世紀末にハルマゲドンが起きて「神仙民族」だけが生き残り、天皇とは違う指導者が日本から出現するとの黙示を酒井が五葉山で神受されたとの伝聞を地元の古老から聞いたと書いていた[418]。
1980年代は米ソ冷戦の最終局面で、レーガン大統領が「悪の帝国」ソ連を倒すために戦略防衛構想(宇宙戦争)を唱えていたことも時代背景としてあった[419]。
麻原によるとハルマゲドンの原因は、フリーメイソン物質主義派とユダヤ勢力が物質崇拝やオウム迫害を広めてカルマが溜まっていることと、キリストと人類の進化を求めるフリーメイソン精神主義派及び米・中・露のバックにいるものたちの計画であり、大戦は中東の石油危機をきっかけとして1997年に始まり1999年8月1日ごろ激化する。この他、ナチス残党の第四帝国も参戦する。日本は不況のためファシズムに傾倒し東南アジアに侵攻、さらにアメリカと対立しNBC兵器やプラズマ兵器、電磁パルス攻撃などで蹂躙され殆どが死ぬが、「神仙民族」であるオウムが生き残り、2000年に日本から「6人の最終解脱者」が登場、オウムは地球を救い、旧人類を淘汰して超人による世界をつくるという、オカルトなどから影響を受けた、アニメ・漫画的ともいえるストーリーであった[1][420][421][422]。また、ニューエイジ的な「アセンション」による精神革命論の影響も指摘される[423]。
とはいえ麻原はソビエト連邦の崩壊を予言できず(当初は1995年にソ連があることになっていた)1999年を迎える前から予言は破綻していた[422]。石垣島でもオースチン彗星でも予言を外し、念力で食い止めたと麻原が述べるなどしたため、一部の信者では麻原への尊敬の念が薄れていったともいう[424][425]。
麻原は逮捕後の1996年の破防法弁明手続において「1995年11月にラビン首相の暗殺によって世界の首脳がイスラエルに集まったため、これをもってハルマゲドンに集まったというプロセスは終了した」「私たちはハルマゲドンに出会うかもしれない。出会わないかもしれない。ハルマゲドンが起きるなどということはその中でも一言も言っていない」と予言を半ば撤回した[426]。
ユダヤ陰謀論[編集]
麻原はユダヤ陰謀論を繰り返し説いた。1990年3月にユダヤ人、フリーメーソンの目的はオウムの崩壊と説く[127]。同年4月に、フリーメーソンがペスト菌をまいたように、全世界にボツリヌス菌をまいてポアするとヴァジラヤーナを宣言[1]。同年7月には「悪魔の本性は物質である」。なぜなら、悪魔はこの欲界を支配している、欲界の最も低次元のものは物質であるから。現在の世界を支配しているのは物質主義であり、金を持っていれば偉くなれる。物質主義や資本主義はペストの発生でフリーメーソンやユダヤ人が台頭したことによって広まった。ペストはフリーメーソンが仕掛けたと述べた(「マハーヤーナ」31号1990年7月)[427]。
オウムによれば、フリーメーソンなどのユダヤ人組織の陰謀で、日本人は情報操作や、ファーストフード、ジャンクフード、インスタント食品によって思考力を奪われており、副作用の強い、毒である薬を企業の利益のために飲まされ、天皇も彼らの傀儡とされた[428]。
また、アメリカは核兵器を日本に向けてセットしており、攻撃を開始すると在日米軍が地下要塞に潜り、ICBM、化学兵器、生物兵器、プラズマ兵器で日本を壊滅後、地下の米軍が日本を征服する、そして真の宗教であるオウムは米日国家にとって脅威である、とされた[428]。
このほか、オウムは、闇の巨大勢力は、エボラ出血熱、エイズを生物兵器として生み出し、ホロコーストはユダヤ人のデッチあげでイスラエル建国のためのプロパガンダである、ダイアナ妃暗殺はクラブ・オブ・ジ・アイルズによる粛清、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件は反連邦主義のミリシアを潰すための米政府の自作自演で、ビートルズはタヴィストック研究所による洗脳計画だと主張した[429]。
なお、ユダヤ人・フリーメーソンを敵視する反ユダヤ主義は大本教や世界救世教にも見られる[427]。
大宇宙占星学[編集]
麻原の予言は、諸葛孔明が用いた奇門遁甲の「完璧な再現」である「大宇宙占星学」に基づくとされた[430]。1991年12月には書籍「大宇宙占星学」刊行。1992年1月に販売されたビデオ「麻原彰晃尊師の大宇宙占星学」ではキャッチコピーに「戦慄の的中率 1992年あなたの運命はこうだ!」「磁場の影響を受けなくすれば運命は変えられる!」とあり、「異次元の世界の導師マニクラチュー」から伝授された大宇宙占星学は、ペルシャ湾情勢、水害、日航機墜落事故、なだしお事件、第二次世界大戦、関東大震災などすべて知っていたとされた[431]。
世界観[編集]
この世界は、熱優位の粗雑な物質による愛欲界、音優位の微細な物質の世界である形状界、光優位のデータの世界である非形状界が重なり合っているとする[432]。
愛欲界 (現象界、欲界) | 形状界 (アストラル界、色界) | 非形状界 (コーザル界、無色界) | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
大到達神智完全煩悩破壊界 (マハー・ボーディ・ニルヴァーナ) | ||||||
大完全煩悩破壊界 (マハー・ニルヴァーナ) | ||||||
上位非形状界 (上位コーザル) | 非認知非非認知境 | |||||
無所有境 | ||||||
識別無辺境 | ||||||
空間無辺境 | ||||||
上位形状界 (上位アストラル) | 清潔居住天 | 超越童子愛欲本質神天 | 中位非形状界 (中位アストラル) | |||
善現象愛欲神天 | ||||||
善安楽愛欲神天 | ||||||
超燃焼愛欲神天 | ||||||
超空間愛欲神天 | ||||||
偉大果報愛欲本質天 | ||||||
美天 | 総美愛欲本質神天 | |||||
無量美愛欲神天 | ||||||
かすかな美しさの愛欲神天 | ||||||
美愛欲神天 | ||||||
光天 | 無量光愛欲神天 | |||||
かすかな光の愛欲神天 | ||||||
光愛欲神天 | ||||||
神聖天 (梵天) | 大神聖天 | |||||
神聖臣天 | ||||||
神聖代議愛欲神天 | ||||||
神聖衆愛欲神天 | ||||||
戯れ堕落天 (天界) | 第6天界(為他神以神通創造欲望満足従事天) | 下位形状界 (下位コーザル) | 下位非形状界 (下位アストラル) | |||
第5天界(創造満足天) | ||||||
第4天界(除冷淡天) | ||||||
第3天界(支配流転双生児天) | ||||||
第2天界(三十三天) | ||||||
第1天界(四天王天) 東 - 堅固王国天 西 - 成長天 南 - 統治変化自在天空天 北 - 守庶民外傷天 | ||||||
意識堕落天(阿修羅) | ||||||
人間界 | ||||||
低級霊域(餓鬼界) | ||||||
動物界 | ||||||
地獄界 |
チャクラと五大エレメント[編集]
チャクラ(チァクラ)と五大(五大エレメント)の理論を融合した形で導入している。体の上部にあるチャクラほど高い次元につながっているとされた[432]。子供向けの自慰行為防止説法で、麻原は以下のように語っている。
「 | 心臓と、おしっこするところは、どちらが上かな?もちろん、心臓のほうが頭に近いから、上だよね?体の下の部分に、心が集中するとね、その子は下の世界に生まれ変わるんだって。やだねえ (良い子の真理 3巻)[433] | 」 |
元素 | 対応する体の構成要素 | 対応するチャクラ(チァクラ) | 色 | 対応する感覚器官 |
---|---|---|---|---|
空 | 空間(肺など) | ヴィシュッダ | 青 | 聴覚 |
風 | 呼吸 | アナハタ | 緑 | 触覚 |
火 | 体温 | マニプーラ | 赤 | 視覚 |
水 | 血液などの水分 | スヴァディスターナ | 白 | 味覚 |
地 | 肉・骨 | ムーラダーラ | 黄 | 嗅覚 |
組織[編集]
施設[編集]
東京・全国支部[編集]
- 東京総本部:港区南青山(1Fはマハーポーシャ事務所)
- 世田谷道場(世田谷区赤堤)
- 杉並道場(杉並区下井草)
- 支部:札幌、仙台、水戸、高崎、船橋、横浜、藤枝、松本、名古屋、金沢、福井、京都、大阪、堺、和歌山、広島、高知、福岡、那覇、ニューヨーク、ボン、スリランカ、モスクワ [434]
富士山総本部周辺[編集]
- 第1サティアン(89年11月当時は4階に麻原一家、金庫室、瞑想室、リビングルーム、会議室、浴室[436])
- 第4サティアン(ビデオやアニメを製作)
独房[編集]
富士山総本部では懲罰用独房と修行用独房があった。
懲罰用独房はコンテナで、窓はなく、畳は押すと水が滲み出て、茸が生えていたという。監禁された10歳の児童が通気口から外に助けを求めていると、通りかかった人が警察に通報し、これ以降、懲罰用独房はなくなった[437]。スパイチェックでの質問を批判した別の信者は、独房に監禁後、薬物を投与されると、新実や中川、遠藤らが見回りに来たが、彼らは実験動物における薬物反応を見るようで、人体実験だったという[438]。この信者は隙をみて脱走した[438]。
修行用独房は、「ポアの間」と呼ばれ、一畳の部屋で壁にビデオとオウムの本、ポータブルトイレがある。入ると5日間は出られず、説法ビデオが最大ボリュームで流され、ボリュームは調整できず、寝ても説法が聞こえた[437][439]。持ち込めるのは毛布と甘露水の瓶だけで、食事は一日一回、顔を洗うことも歯磨きもできず、トイレは一日おきに交換されるので臭くてたまらなかったという[437]。岡崎一明元幹部は、遺品にあった手記で「ポアの間」についても触れている[440]。
上九一色村その他[編集]
山梨県西八代郡上九一色村(現:南都留郡富士河口湖町[注釈 2])には第一〜第七上九があり、それぞれに施設があった。
- 第一上九
- 第2サティアン(1階は倉庫、瞑想室、法皇官房事務室、テープ作成室。3階に尊師の部屋、ピアノ、サウナ、リビングルーム、第一・第二瞑想室、浴室[436])
- 第3サティアン(物置)
- 第5サティアン(印刷工場)
- 第二上九
- 第6サティアン(1階は食品工場、子ども室、家族の部屋、瞑想室、配膳室、修法の部屋、風呂、サウナ。三階は幹部、信者の部屋、修行室、事務所、医務室[436])
- ヴィクトリー棟(詰所)、コンテナ
- 第三上九
- 第四上九
- 第8サティアン (マハーポーシャのパソコン組立工場)
- 第12サティアン (自動小銃、サリン噴霧車製造)
- 第五上九
- 第9・第11サティアン (自動小銃)
- 第六上九
- 第10サティアン - 出家信者の子弟の生活の場。自治省系緊急連絡網の配信センター。
- ジーヴァカ棟(CMI棟) - 遠藤誠一の実験室。
- 第七上九
- 窓のない倉庫群
- 富士清流精舎(山梨県南巨摩郡富沢町(現:同郡南部町) (自動小銃工場)
公称信徒数[編集]
グラフの数字は信徒人数。特記なければ日本国内のみ[81][441]。ロシアの信者数は最大3万人[442]から5万人に上った[193]。
'84年2月 | 6 | |
'85年12月 | 15 | |
'86年10月 | 35 | |
'87年2月 | 600 | |
'87年7月 | 1300 | |
'88年8月 | 3000 | |
'89年 | 4330 | |
'90年10月 | 5000 | |
'95年3月 | 15400 | |
'97年 | 1000 | |
'99年 | 1500 |
※89年は出家者330,信徒4000人であったが、90年4月の石垣島セミナーで出家者が800人になった[81][注釈 17]。
※1995年3月は出家1,400人、在家14,000人[4]。
- 後継団体
- 2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数)
- 2002年 - 1,650人
- 2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数)
- 2005年 - 1,650人
- 2008年 - 1,500人
- 2009年 - 1,500人(Aleph出家450人、在家850人。ひかりの輪出家50人、在家150人)[444]
- 2011年 - 1,500人
- 2014年 - 1,650人
- 2016年 - 1,650人(出家300人)+ロシア460人
信者の構成[編集]
出家制度は1986年6月に始まった[55]。最初期の出家者はオウム真理教以前の「オウム神仙の会」に出家しており、後に脱会した者もいたが、多くは教団幹部となった。「オウム神仙の会」以前のヨーガ教室鳳凰慶林館は女性を対象としており[32]、オウム神仙の会も当初は女性ばかりであり、最初の男性として入会したのは大内利裕だった。以下、出家順。また、出家番号は管理番号ともいう[445]。
- 石井久子:出家番号1番:1984年6月オウム神仙の会に入会、1986年6月出家[55]
- 山本まゆみ:出家番号2番:1984年オウム神仙の会に入会、1986年9月出家[445][446]
- ○○:出家番号3番:法人格取得前に脱会のため欠番[447]。ホーリーネームはラーマクリシュナナンダ[448]。
- 杉本繁郎:出家番号4番:1986年4月入信[449]
- 新実智光:出家番号5番:1986年1月入信、1986年9月オウム神仙の会に出家[450][447]
- 中村昇:出家番号6番[447]
- 岡崎一明:1986(1985)年6月[451]または9月出家[452][451]。(岡崎は1985年と言っているがはっきりしないと述べている[451])
- 大内利裕:1985年12月、オウム神仙の会最初の男性として入会。1986年10月出家[453]。早川紀代秀、井上嘉浩、村井秀夫らを出家させる[454]。
- 上祐史浩:出家番号13番:1986年8月「オウム神仙の会」に入会、1987年5月出家[49][455]。
- 岐部哲也:1986年9月オウム神仙の会入信、青年部に参加。1987年6月出家。
- 村井秀夫:1987年4月、入信。1987年6月夫婦で出家。
- 平田信:1987年8月出家。
- 飯田エリ子:出家番号33番:1984年1月に鳳凰慶林館入会し、会社の同僚石井久子を誘いオウム神仙の会に入会。1987年10月、出家[456]。
- 野田成人:1987年10月頃出家[457]。
- 早川紀代秀:1986年6月丹沢セミナーに参加。1987年11月出家。
- 井上嘉浩:出家番号63番:1986年オウム神仙の会丹沢セミナーに参加。1988年出家。
- 中川智正:1988年2月出家。
- 林泰男:1987年(昭和62年)5月入信。1988年12月6日出家。
教団幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫、土谷正実、遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸、公認会計士資格を持つ柴田俊郎、上田竜也、医師免許を持つ林郁夫や中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。麻原の勧誘方針は「女は若くて美人、男は理系の高学歴」というものだった[458]。
他にも山形明、丸山美智麿など自衛隊員、建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀、松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也、彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチームの鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。信者平均年齢は若いが、最高齢信者は88歳の女性だった[459]。
麻原の三女松本麗華は、マスメディアではオウム真理教出家者が高学歴のインテリばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、実際は一般社会に居場所を無くした構成員も多かったと語る。例えば、普通に生きていくことに疑問を生じたり、居場所が無かったりした人や、DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害などの社会的弱者が少なからずいたという[460]。
以下に示すのは教団がオウム事件発覚後の1995年6月28日に行った出家修行者対象のアンケートデータである[461]。
- 性別
- 男 459人(41%)
- 女 661人(59%)
- 計1120人
- 年齢
- 平均 30.1歳
- 最多 26歳(102人)
- 他の宗教団体への入信経験
- あり 35%
- なし 65%
- 学歴
- 大卒 37.8%
- 短大卒 7.0%
- 専門学校卒 16.7%
- 高卒 25.2%
- 入信動機
- 1位 本を読んで 273人
- 2位 勧誘 171人
- 3位 出家者・修行者の姿を見て 61人
- 4位 教義に納得して 52人
運営体制[編集]
教団の運営体制は、インドの宗教団体の東京支部で修行を積み、出家生活の経験もあった元信者によって多くが作られた[462]。この元信者は、入信した1986年2月から、麻原の最終解脱宣言に疑念を抱いて1987年4月には脱会するまでの1年2か月程の在籍期間中に、密告・相互監視制度、出家制度、寄進制度など、教団の制度の多くを作った[463]。このほか、信者の生活スケジュールの徹底管理制度や、外部の情報遮断、また成就者にはホーリーネームを授け、理系エリートには高額機器を揃えるなどの体制が構築されていった[458]。
サンガ(合宿・出家制度)[編集]
この元信者のチームは、参加費用120万円のサンガという合宿制度を作り、これは後に全財産を「お布施」として寄進させる出家制度となった[464]。このチームは「どこかに何かを残していれば、簡単にそこに逃げるから、すべてを処分して退路を断った方がいい」と全財産の寄進制度を提案した[464]。信者に「修行を放棄しない」という誓約書を書かせる案も出された[464]。実際に、出家信者には自分の遺産は全て教団に寄贈するという遺言状に署名捺印をさせた[465]。また、肉親、友人等など現世における一切のかかわりを断つことも求められ、「親族とは絶縁する。(教団に)損害を与えた場合には一切の責任を取る。すべての財産は教団に寄贈する。葬儀等は麻原が執り行う。事故等で意識不明になったときはその処置、及び慰謝料や損害賠償もすべて麻原に任す。」という誓約書を書かされた[1]。
オウムでは解脱するには功徳を積むことが奨励され、この功徳は「オウムにとってプラスになる行い」という。功徳のベースは布施で、「マハーヤーナスートラ」(1988)では「第一は何かというと、財施だ。文字通り、お金を布施することです。この布施によって、あなた方は必ず来世でも真理に巡り会うことができるでしょう」[466]、「修行の第一ステージはまず布施に始まる」と説かれた[467][468]。1990年の石垣島セミナー後、教団本部は「新たに信徒を増やすのはどうでもいい、とにかく今いる信徒を出家させろ」「出家を拒否する者にはとにかくお布施をいっぱいさせろ」と支部に命じ、麻原も機関紙「マハーヤーナ」7月号の出家特集で、「本当に真理に巡り合い、真理を実践したい人は、社会的な条件はどうでもいいから、とにかく出家をして早く至福の生活をしていただきたい」と呼びかけた[469]。1993年以降の信徒用決意では「私がこれまで所有してきたすべての財産は現世的な観念により、あるいは貪りの心によって、汚れた行為により得たものである。その悪行を滅し、偉大な功徳に変えるために、私は極限のお布施をするぞ。」という章句があった[470]。
ステージ(階級)制度[編集]
修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があった。
まず、教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ、シッシャ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加し、休暇期には集中セミナー等も開かれる。このほか名目上の信徒である「黒信徒」がいた[471]。
出家修行者のサマナ(シッシャ)には、さらに師、正悟師、正大師の各ステージが存在した。名称や編成は時期によって異なる[472]。これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。
オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナらはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった[460]。
信者時代「大師」の肩書きを持っていた元信者によれば、「オウムでは、肝心なことは常に教祖が決めているんです。教祖が知らないなんていうことはありえない」と言っている[135]。幹部であろうとも麻原の指示は絶対であり、オウム真理教附属医院の患者の入退院の判断すら麻原の指示を仰がねばできなかったという[135]。さらに麻原含めた上司の指示は説明無しに従わなくてはならなかったため、信者はいつの間にか事件に関わっていたということが度々あった[473]。公安調査庁は信者の証言を引用して「正悟師以上になると尊師のロボット」「形式上はピラミッド形組織だが基本的には尊師と信徒は1対1の関係」としている[474]。
信者の「入信の貢献度」は点数化されており、信徒Aが新たに信徒Bを入信させると60点、信徒Bが新たに信徒Cを入信させると(信徒Aに)15点、と一種のネズミ講方式だった[468]。点数はバッジ、腕章、スカーフなどで外から分かるようになっており、「入信の貢献度」49000点以上は「菩薩」で、「極限修行」をすればこの「菩薩」は「必ず解脱できる」とされた[468]。
コーザルライン(密告制度)[編集]
教団施設には「コーザルライン」という密告するための目安箱が置かれ、教団では信者同士が相互監視する密告社会が築かれた[475]。信者の間では、「目が不自由な教祖は常に心眼で信者を見ているという潜在意識があった。心の中まで見透かされているという恐怖心が、知らないうちに信者たちを支配していた」と教義等を担当した元古参信者は指摘している[476]。実際には、村井秀夫幹部が「お目付役」として信者の会話や生活態度を細かくチェックし、麻原に密かに報告していた[476]。
1987年夏に青年部のリーダー格だった信者が数人を連れて新団体を設立したことを麻原は「分派活動」とみなし、以降、信者の管理を厳しくし、信者間で電話番号を教えあうことや会話を禁止し、カルマが移るとしてお互いの持ち物に触ることも禁止され、やがて相互に監視しあう密告社会となったとも言われる[477]。
信徒用決意[編集]
1993年秋以降、麻原は青山吉伸と石川公一を重視した[478][479]。その青山と石川が作成した「信徒用決意」は5章あり、以下の3章が重要である[470]。
- この世は三悪趣のデータに満ちている。従って、普通に生活することはそれだけで三悪趣に落ちる。なぜなら身において殺生し、偸盗をなし、邪淫をなし、口においては妄語・綺語・悪口・両舌をなし、心においては愛着・真理を否定する、邪悪心という三毒をなすからである
- 三悪趣を脱し、解脱と悟りに向かうためには、今までの汚れた観念を捨て、グルへの絶対的な帰依を培うべきである。従って私は帰依するぞ。グルに帰依するぞ。徹底的にグルに帰依するぞ。私がこれまで所有してきたすべての財産は現世的な観念により、あるいは貪りの心によって、汚れた行為により得たものである。その悪行を滅し、偉大な功徳に変えるために、私は極限のお布施をするぞ。
- 世の中での善悪は観念であって正しくない。これは無智な人間が作り上げた観念である。よって観念を捨断するぞ。いかなる苦しみがあってもハードなカルマ落としを喜ぶぞ。「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」と「周りの縁ある人々を高い世界へポアするぞ」のフレーズがそれぞれ3回繰り返される[470]。
元幹部によれば、石川はサティアンの放送で信徒用決意を絶叫するように唱えていたと言う[480]。
教団の活動[編集]
日本シャンバラ化計画[編集]
麻原は1987年、「日本シャンバラ化計画」を発表した。これによると、ゆくゆくは日本主要都市すべてに総本部を設置しそこから日本全土に布教活動をし、いずれは自給自足のオウムの村「ロータス・ビレッジ」を建設するというものだった[1]。
財務(布施の料金体系)[編集]
1991年以前は、入会金が3万円、月会費が3000円で、入会時には入会金と半年分の会費、入会後のコース料金を全額前納する[468]。
- ヨーガタントラコース:初級クラスは一回三時間(10回)で3万円、中級クラス(10回)は3万5000円、上級クラス(20回)は8万円。
- ビデオ、カセットテープによる通信講座:第一部・第二部、各7万円。
- 深夜セミナー:一回6時間で6000円
- 集中セミナー:一泊7-8000円
これらは単位制で、60単位とると、麻原からシャクティーパットを受けることができる。この時の布施は5万円以上。高弟から受けるシャクティーパットは30単位以上で、布施は3万円以上だった[468]。他の瞑想法などのイニシエーションでも5万円以上の布施が必要[468]。
初期には出家時は120万円以上の布施が要求された[481]。のち、全財産の布施が要求された[482][464]。出家すると、まず「布施リストNo.1」を作成し、現金、預金(銀行名、口座番号、預金額、暗証番号を明記)、株、証券、切手、テレホンカード、オレンジカード、商品券など全ての金券、退職金、生命保険解約時の金額など「将来見込まれるお布施」、土地、家屋は評価額を記入し、奨学金の未返済額、クレジット負債などの借金は精算しないと出家できなかった[483]。次いで「布施リストNo.2」を作成し、貴金属、電気製品、家具、衣類、台所用品など、価格の高い物品から書き出す[483]。
その後、「たとえ、いかなることが起ころうとも、オウム真理教及び麻原彰晃尊師に、一切責任はない。すべて自己の意思によって修行の道に入り、すべての責任は自己にある」という誓約書、遺産は全て教団に寄贈し、葬儀は麻原によって行うとする遺言状、履歴書、戸籍謄本、住民登録の転出転入届け代理人選任者、国民年金保険料免除申請書、年金手帳、運転免許証のコピー、車検証、印鑑証明書などの提出が要求された[483]。信者の中には、親と共同の名義の土地家屋を売り、親を公団アパートに引っ越しさせた人もおり、出家後に相続した場合も教団に布施しなくてはならず、私物はバックと段ボール箱二つ分の衣類と修行用具のみが許された[483]。こうした信者からの布施を原資として、後述する種々の事業を展開していった。
各修行、イニシエーション料金は以下のように設定されていた。
- シャクティーパット 5万[484]
- ミラクルポンド(1L)10万[484]
- 愛のイニシエーション10万[484]
- 解脱特別修法プルシャ10万[484]
- 小乗ツァンダリ30万[484]
- 大乗ツァンダリ50万[484]
- 血のイニシエーション:100万円:30名限定で、麻原の神聖血液20ccを飲む[468]。
- 法施(杖のイニシエーション):麻原の著書を大量に買い取り、流布させる布施。第一段階では15万円分の著書を買い取り、これが7つのステージに分かれており、最高ステージに行くまでに150万円。第二段階では1ステージあたり150万円分買い取り、例えば地のステージでは密教食の「丹」毎月1kgを1年分、水のステージではミラクルポンド(麻原の入った風呂の残り湯)を毎月1L1年分受け取ることができた[468]。ほか、教団のチラシを買い取り、ばら撒く布施もあった[468]。
- 説法ビデオは1万円、ヒマラヤ・ヨーガ秘伝ビデオは10万円、音楽テープは1本1万〜3万円、甘露水1.5L二本で4千円[468]。
- パーフェクトサルベーション(完全救済)イニシエーション(PSI):100万円から1000万円の布施が必要で、PSIイニシエーションだけで20億円が集まったという[485]。
- 大師によるヨガ指導:一時間1万円[468]。
- 運命鑑定:3万円[468]。
- 麻原に直接相談する「お伺い書」:2万円[468]。この「お伺い書」は阿含宗のものを踏襲している。
- 1989年元旦午前0時から48時間かけて行われた「尊師最後の特別イニシエーション」では、麻原のDNAを培養した飲料を飲む「愛のイニシエーション」などが行われ、布施は30万円以上[468]。
- 麻原のヒゲを煎じて飲む特別イニシエーション:布施30万円(1987年10月〜)[486]。
- 1989年1月6日から10泊11日の富士総本部の集中修行は布施22万円以上[468]。
- 1990年4月石垣島セミナーの参加費は30万円[468]。
- 日本シャンバラ化計画基金では布施一口1万円以上で、3口以上でチベット仏教解脱曼荼羅、6口以上で麻原の写真、10口以上で麻原と一緒に写真撮影、30口以上で大師が10時間以上つきっきりで指導、超純粋甘露水を一ヶ月当たり1.5Lを六ヶ月分郵送の特典がついた[468]。
なお、麻原は2000万円のベンツを教祖専用車とし[487]、7000万円のクルーザーも所有していた[377]。
事業[編集]
オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピュータ事業、建設、不動産、出版、印刷、食品販売、飲食業、さらに家庭教師派遣、土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、人件費がゼロなので、どんな事業でも成功した[477]。出家すると、24時間をグルに捧げる生活で、睡眠時間は極端に少なく、起きている間は修行(ワーク)に捧げ、各会社での勤務は修行とされた[477]。オウム十戒に「不綺語」があり、「お互いしゃべるな。しゃべると徳が減る」とし、サティアン内部での信者同士の会話は禁止され、黙々と仕事への専念が求められた[488]。
特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、94年には月の収入が7億から8億となり[489]、1999年には年間70億円以上の売り上げがあり、純利益は20億円に迫る勢いであった(公安調査庁による)。出家信者200人がそこで働いていた。「PCの販売利益は尊師の利益になり、客も善業を積むことになる」「研修は修行」とされ、住み込みで一日20時間働く者もいた[490]。イニシエーション等を「お金がない」と断ると教団が金を貸すという仕組みで、マハーポーシャ社員のほとんどは教団に借金があった[490]。
様々な業種に進出し集まった社員を教団に勧誘したり、オウム系企業グループ「太陽寂静同盟」を結成するという構想もあった[491]。
コンピュータ事業[編集]
- マハーポーシャ[492]
- APC名古屋[494]
- CPUバンク[495]
- 真愛、ヴァンクール - コンピュータソフトウェア企画設計[496]
- ポセイドン - PCショップ「トライサル」、PC部品卸会社「ハイバーシティ」を経営。なお、「ハイパーシティー」は地下鉄サリン事件遺族高橋シズヱの住むマンションに店舗があった[496][497]
- オリエントエンジニアリング - PCショップ「PCバンク」「PC REVO」を経営[496]
- ナスカ - 広告代理業、情報処理サービス[496]
麻原らが逮捕された後の1995年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク」「PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した[498]。2000年3月には、オウムとの関連を隠したシステム開発企業が、警視庁や自衛隊を含む官公庁や大手企業のシステム開発を安価で受注していたことが発覚した(オウム真理教ソフト開発業務受注問題)[499]。
- オウムのお弁当屋さん[500]
- うまかろう安かろう亭[501]
- うまかっちゃん[501]
- 運命の時[501]
飲食店で勤務していた元信者によれば、12時間勤務で、朝5時まで働き、店の床に段ボールを敷いて寝たこともあったし、別の日には、夜9時に寮に帰ると、朝4時まで修行で、売り上げノルマを達成していないと修行時間を追加された[502]。毎日の睡眠時間は3時間ほどで、慢性の睡眠不足で考えることができなくなっていったという[502]。
出版[編集]
風俗店[編集]
人材派遣[編集]
この他、オウムの在家信者が社長を務める非破壊検査会社(1995年解散)が信者を化学プラントのほか、原発にも派遣していた[511]。福島第一・福島第二原発や浜岡原発などで作業した元信者によれば、各原発には5 - 10人の信者が入っていて、原発占拠や原発の爆破などは可能だったが、原発が教団に攻撃されなかったのは麻原が攻撃計画としてたまたま気がつかなかったためではないかと述べている[511]。若い真面目な信者は人手不足の原発で重宝され、業務のために内部の極秘情報なども容易に持ち出せたという[511]。
健康開発[編集]
- 日本健康クラブ - 化粧品・医薬品・食料品販売[496]
- ファインウォーター - 浄水器販売[496]
- スーパースターアカデミー(SSA) - エアロビクス教室。鹿島とも子が校長[512]
- ヴァジラクマーラの会 - 美人信者による修行教室[384]
- エ・ヴェーユ - 大阪に設立した能力開発塾。派手な化粧をした女性信者で勧誘していた[513]
偽装サークル[編集]
偽装サークルを各大学に設立し、学生を教団へ勧誘した。1993年以降、東大、早稲田などの学園祭で偽装サークルがコーナーを作った[514]。「後日占いの結果を教えるから」と学生の住所や電話番号を聞き出し、東大OBを自称する代表から電話、ヨガ教室に誘われるなどして、入信した学生も多かった[514]。オウム系サークルは学園祭以外でも活動、大学構内にチラシを貼り、学生たちを勧誘した[514]。ヨガ・気功のサークル「アシュラム'94」のビラを見て連絡した学生は、連絡先の家(日本印度化計画と同一人物)に行くと、尾崎豊は米国による日本崩壊のシナリオを見抜いたためにCIAから殺されたというビデオ(オウムの名前は出ない)を見せられた後、四泊五日の合宿に勧誘された[514]。
当初オウム系サークルは教団名を隠さなかったが、やがて教団名を隠すようになり、勧誘マニュアルでは「狂気の救済者になれ」と知人・友人をリストアップし、電話で主導権を取って会う約束を取り付け、悩みを聞いたり、不安感を煽りながら、徐々に誘い込めと書かれ、勧誘に成功した者にはイニシエーション、数珠、教祖の一曲などが授与される[515]。このような勧誘方法は、統一教会のFF(ファミリー・フレンド)伝道との類似が指摘される[515]。
- 日本印度化計画 - 1994年の早稲田大学学園祭に出店。チャイや揚げパイを売ったり、占い店を出した。占いでは「今の自分に満足していますか。今の自分を変えてみたいと思いますか」と質問した[514]。筋肉少女帯の同名の曲や日本シャンバラ化計画との関係は不明[516]
- 近未来研究所、ヨーガ同好会、中国武術研究会、インド化計画―カレー研究会 -1994年設立の大学ダミーサークル[496]
- アクエリアスプロジェクト21、マイブーム研究会 - 東京大学[496]
- 新世紀CIRCLE - 京都大学[496]
ダミー会社[編集]
- 薬品・武器関連のダミー会社
- 長谷川ケミカル - 1993年4月2日設立。長谷川茂之が社長。サリンなどの原料の調達が目的[517][518]
- 株式会社ベル・エポック - 1993年8月4日設立。社長・目的は長谷川ケミカルと同じ[517][519]
- ベック株式会社[520]
- 下村化学[521]
- ぶれーめん - 井上嘉浩が役員。パイナップル加工会社とのことだったが実際には細菌プラントをつくろうとしていた[520][522]
- オウムプロテクト - ロシアに設立した警備会社[523]
- サンプラン - 薬品を隠す倉庫を借りていた[508]
- 不動産取得目的のダミー会社
- 株式会社オウム - オウム神仙の会設立の年である1984年の5月28日に設立。出版業の他、ヨガ教室を開催したりしていた。土地購入のダミー会社としても使用し、これが松本サリン事件の一因となる[524][525]。
- ジェービーテレコム有限会社[526]
- 世界統一通商産業 - 早川紀代秀が代表[527]
海外事業[編集]
ロシアでは輸入会社などを設立した。早川はロシア、ウクライナの他、北朝鮮にも出入りして兵器貿易を計画していたとの見方もあるが[528]、早川は北朝鮮に出入りしたことはないと逮捕後に語っている[529]。
他にもスリランカの紅茶園などを経営していた[493]。1992年のスリランカツアーでは仏跡は訪問せず、買収する工場の見学ばかりしていたという[481]。
その他[編集]
- ドゥプニールミリオネール - ロシア射撃ツアーを企画。越川真一が代表[530]。後に株式会社アレフとなる(びっくりドンキーを経営するアレフとは無関係)[496]
- 神聖真理発展社 - 資産隠し目的[531]
- アルス総合建築事務所[383]
- M24 - スーパーマーケット[509]
- シーディーコレクター[496]
- 真理学園建設計画を文部省に出しており、小学生を2、3年間教育すれば東京大学に入学できるほどの学力がつくと信者に宣伝した[532]。
- 黎明 - 世田谷区の占い店で、大宇宙占星学6000円、西洋占星学5000円、算命学、姓名判断、紫微斗数、星座、血液型占いなどをおこなった[533]。
海外での活動[編集]
ロシア[編集]
1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシア(当時はソビエト連邦)を初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイやロシア連邦首相のヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。モスクワ放送(現:ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数か所の支部を開設。ソビエト連邦の崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。
オウム事件後、オウムはロシアや北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。しかし一連の捜査・裁判により、化学兵器は土谷正実が中心となり自力でつくったことが発覚した。新アメリカ安全保障センターも、オウムのサリン合成プロセスはロシアで主流の方法ではなくナチス・ドイツの方法に由来していると分析している[534]。また上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」とし、ロシア・北朝鮮陰謀説は「(オウム事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している[535]。
オーストラリア[編集]
マハーポーシャ・オーストラリアでは、1993年7月に50万エーカーの牧場(バンジャワーンステーション)を約50万オーストラリア・ドル(約3000万円)で購入した。オーストラリア連邦警察の調査で土壌からサリン分解生成物のメチルホスホン酸(MPA)が発見されたことで、教団が薬品類を持ち込み、化学物質を製造し、羊に対する毒性の実験を行っていたことが分かった[536][537] [538]。しかし、CNASは、サリンが存在したと決定づけるにはメチルホスホン酸イソプロピル (IMPA) が検出される必要があり、メチルホスホン酸(MPA)は自然分解生成物が吸収された場合でも検出されること、そしてオウム幹部でオーストラリアにおける実験を証言した者がいないことに注目すべきであるとする[536]。
訴訟・嫌がらせ[編集]
教団には弁護士青山吉伸がおり、批判に対し多数の訴訟を乱発していた。毎日新聞、西日本新聞、熊本日日新聞など初期からオウム報道をしていたマスコミも訴訟のターゲットとなり、事件発覚までマスコミがオウムへの追及を敬遠する一因となった[539]。
さらに敵対者や脱会活動に対しては、
- ビラまき - 毎日新聞社の入るビルを25分の間にビラで埋め尽くしたこともあった[540]
- 通勤経路にオウムのポスターを貼る[541]
- 車を並べる[541]・街宣[542]・オウム真理教の音楽を流す[542]
- 無言電話[543]・いたずら電話[544]・盗聴[545]
- 梵字による仄めかし[543]
などの嫌がらせを行い、これらはエスカレートし数々の襲撃事件に至った。
被害者[編集]
一連のオウム真理教事件における被害者数は、死者47人、重軽傷者6600人以上[546]。坂本弁護士事件死者3人、松本サリン事件では8人死亡、受傷者約600人、地下鉄サリン事件では14人死亡、受傷者は6千人を超えた[546]。
教団内に関しては判明しているだけで死者5人、行方不明者は30人以上[11]。一連の事件に関与した教団幹部に対し、刑事裁判では13人の死刑判決、6人の無期懲役判決が出され、2018年7月、死刑囚13人の死刑が執行された[546]。
弁護士の中村裕二は「もし、オウムの暴走をもっと早く止めることができていたならば、死刑囚も含め少なくとも60人の命が失われることはなかった」と述べている[546]。
評価[編集]
著名人[編集]
オウム真理教は文化人・有名人と盛んに対談し、著名人の発言を教団が発行する雑誌・刊行物「ヴァジラヤーナ・サッチャ」「本物の時代」「選択」などにおいて、「知識人・有名人も認める」と称し繰り返し紹介した[547]。こうした著名人の評価をきっかけに入団した者も多数いる。教団と交流があった著名人の多くは事件後一変してオウム批判に転じた。
- 作家の荒俣宏は「私は麻原尊師に限りない好感を抱いた。恐らく解脱した者は幼児のように他愛もないか、あるいは阿修羅のように熱狂的であるかの、どちらかだろう。(略)麻原彰晃がほんものの解脱者として、彼が示す寛大な姿勢は、明らかに前者の例と言える」と雑誌「ゼロサン」1991年6月号(新潮社)で賞賛した[547]。
- ビートたけしは1991年12月30日に放送されたテレビ番組「ビートたけしのTVタックル年末スペシャル」(テレビ朝日)で麻原と対談し[548]、その後雑誌『BART』1992年6月22日号(集英社)で再び麻原と対談した[547]。事件後は否定的な見解を取っている。
- 思想家の吉本隆明は雑誌「CUT」(ロッキング・オン)1992年5月号において、麻原の著書『生死を超える』の書評を発表し、「この本を読んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教的な世界観である生死を超える理念をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して『普通の人間』にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なものというべきだ」と麻原を修行者として高く評価した[547]。その後、オウム事件発覚後の産経新聞1995年9月5日夕刊に掲載された弓山達也との対談で吉本は、「オウムの犯罪を根底的に否定する」としながらも、なお「オウム真理教はそんなに否定すべき殺人集団ではない」「麻原は現存する世界有数の宗教家」などと述べた[549]。仏教学者定方晟は吉本のオウム論を批判した[550](詳細は#親鸞・浄土真宗参照)。
- 栗本慎一郎は1992年に雑誌で「麻原さんのように煩悩を越えられた方は非常に素晴らしいし、そこからの教えを説いていっていただきたいと思います」と麻原に語った[547][551]。しかし、サリン事件後は、オウムと統一協会や北朝鮮との関係を指摘し[552]、「血のイニシエーション」などの血を飲むと良くなるという血分けの儀式は、朴泰善や統一教会の文鮮明らの朝鮮半島のキリスト教系新宗教の影響下にあると指摘した[553][554]。
宗教家など[編集]
- 一時麻原が師と仰いだパイロット・ババは1980年代から麻原に警告しており、麻原がババから伝授された修行を多額の金銭と引き替えに伝授しているがそれでは破滅すると警告した[45]。またババは麻原は子供の病気を理由に修行を途中で抜け出しており、自分が麻原を導き損なったことに責任を感じると述べている[45]。当時の麻原は行者として優れている面があったが、「私が救済する」と主張、この考え方はプライドなどのエゴで、麻原はプライド等の煩悩が関係するアナハタチャクラのレベルで修行が止まったとコメントした[45]。また、パイロット・ババのグループは、ヨーガの修行では一時的にサマディなどの超常的な瞑想体験をすることがあるが、それで解脱したと錯覚する危険があるため行法を安易に教えることは不適切な場合もある。重要なことはサマディ自体ではなく、その後の人格の向上であり、修行者は真我(アートマン)に返るべきであり、グルは導き手にすぎないとヨーガ修行者に警告している[45]。
- サムドン・リンポチェ元チベット亡命政府首相は、1986年に空港で麻原と会ったことがあるが(前述)、「彼は全く普通の人間に見えた。精神的な輝きは感じられなかった。」と評し、オウム事件に対して「宗教に仕える者が考えることではない。イリュージョンと狂気。考えが、本人にも収拾のつかない方向に暴走してしまったのでしょう」と語った[555]。
- ヨーガ行者雨宮第二(ダンテス・ダイジ)は麻原と親交があったが、1986年に麻原が最終解脱したと雑誌で主張したことに対して「そんなことをすれば地獄に落ちる」と電話で厳しくとがめ、両者は決裂した[45]。
- 『ノストラダムスの大予言』の著者五島勉は2018年週刊文春のインタビューでオウムとノストラダムスとの関係について聞かれると、「オウムとノストラダムスは関係ありません。オウムがノストラダムスの名前を勝手に利用しただけです」「ノストラダムスの予言で危機を起こすと想定されているのは、米ソの核や生物化学兵器など、もっと大きな軍備です。それを一人の変なやつ(※麻原)が命令を下して、しかも権力をやっつけるんじゃなくて、自国の国民にサリンをまいたわけでしょう。そこのところが、どう思うも何も間違いです。」「ただ、それもやっぱり私の本に影響されてあの人たちが何か起こしたというなら本当に私も悪いわけで、それは謝りますけど、よく調べてみると、オウムの麻原たちがよりどころにしたノストラダムスの本というのは私の本と違う」(川尻徹『滅亡のシナリオ』のこと)「でも、ノストラダムスの影響というときにはぜんぶ私のせいになっちゃうんです。今、私がそれを言ってもしょうがないから、あんまり言いたくないんですけど。」と答えている[556]。五島は「(ただの新書を)まさかこんなに子どもたちが読むとは思わなかった。なんと小学生まで読んで、そのまま信じ込んじゃった。(略)当時の子どもたちには謝りたい」と謝罪している[556]。
- 統一教会の新聞世界日報などの黛建文(黛亨)編集長は、『週刊文春』94年9月8日号の宮崎資産家拉致・監禁事件とオウム報道について批判[557]、「正しい動機であれば多少はみ出す面があってもいい」「あの人(麻原)はヨガや仏教をまじめに考えている。この記事が出て、オウムの人たちは大変喜んでくれましたよ。私も功徳を積んだ」と擁護し、「記事については統一教会の指示はない」と回答した[558]。この当時の大学での偽装サークルでのオウムの勧誘方法は、統一教会のFF(ファミリー・フレンド)伝道と類似していると指摘された[515]。その後オウムは、統一教会の文鮮明はフリーメーソンの一員であり、従順に言うことを聞く家畜を製造していると批難するようになった[515]。
ジャーナリストなど[編集]
- 立花隆は、麻原は本人が自分の作り話を真実であると信じきってしまう空想虚言症だったと指摘している[559]。
- フォトジャーナリストの藤田庄市によれば、宗教の根幹には神秘体験、つまり超自然的な存在・力と個人との結び付きがあるが、麻原も自らの神秘体験を強く確信した[560]。オウム事件は救済を目指して起こったのであり、新実智光は人々を救済するために善意で殺したので「菩薩の所業」「慈悲殺人」であるとした[560]。事件の再発を防ぐには、事実関係だけでなく、信者たちの神秘体験・宗教的体験の内面にまで踏み込む調査が必要とする[560]。
- 作家の藤原新也は、熊本県波野村は麻原の故郷の八代まで車で二時間程の距離であり、麻原にとって波野村への定住計画は、故郷回帰または故郷に錦を飾る行為だったのではないか、しかし村から拒絶され追放されたことで、日本世間への怨嗟の感情を選挙での惨敗以上に決定づけたのではないかと推測している[561]。
- 劇作家の山崎哲は、戦後日本は生命に直接触れることを隠してきたが、それを一挙に崩したのがオウム事件の本質であり、江川紹子らは市民社会の正義を絶えず背負うが、それは中流意識にすぎず、親鸞の言い方ではサリンによる殺人者(悪人)も救われる、オウムを産んだのは日本社会であり、この社会についても内省すべきだ、という趣旨で、「危険な子供たち(オウム)を産んだのはこの社会です、この家族です。なんでそのことに気が付かないのか、わかんない。それぐらいかれらは鈍感だと思います。だから子供の側からすると、そういう奴ら(江川紹子に代表される連中)は殺されてもしょうがない」、さらに「サリンを撒く方法も『あり』だ」とも述べた[562][563]。一方で山崎は、刺殺された村井幹部という「死者に対しては、僕らは敬虔になるべき」とも述べた[563]。ジャーナリストの岩上安身は、山崎の発言はオウムの犯行を事実上肯定する暴言であり、教団幹部の死に対して敬虔であれと説教する一方で、オウムによる殺人を肯定する神経が理解できないと批判した[563]。
- 評論家の小坂修平は連合赤軍事件やスターリニズムを踏まえた上で、オウム事件は「八〇年代世代を基盤として挫折した唯一の革命」と捉えた[564]。小坂は、60年安保闘争は社会を軸にしていたが、全共闘では社会と自己が焦点となり、全共闘が学生の空騒ぎに過ぎなかったことが個人個人にとっては深い問題となり、そこから「日常がつまらない、日常が嫌だ」ということが「革命」の根拠となって行ったとし、閉鎖的な市民社会から出ようとして超能力やヨーガによる解脱などのオカルティックな領域に向かった環境が1970年代後半から1980年代にかけてあったと指摘した。
- 社会学者の芦田徹朗は西日本新聞(1991年5月1 - 2日)でオウムに反対する市民社会やマスコミの反応は全体主義的で、少数者を排除する危険があり、現代の