ジェフユナイテッド市原・千葉
ジェフユナイテッド市原・千葉 | |||
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原語表記 | ジェフユナイテッド市原・千葉 | ||
呼称 | ジェフユナイテッド千葉 | ||
愛称 | ジェフ | ||
クラブカラー | 黄色、 緑、 赤[1] | ||
創設年 | 1946年 | ||
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ | ||
所属ディビジョン | J2リーグ | ||
昨季リーグ順位 | J2 6位(2023) | ||
クラブライセンス | J1 | ||
ホームタウン | 千葉県市原市、千葉市[1] | ||
ホームスタジアム | フクダ電子アリーナ[1] | ||
収容人数 | 19,781[1] | ||
運営法人 | ジェフユナイテッド株式会社[1] | ||
代表者 | 島田亮 | ||
監督 | 小林慶行 | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
クラブハウス | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 未上場 |
本社所在地 | 日本 〒260-0835 千葉県千葉市中央区川崎町1-38 ユナイテッドパーク[1] |
設立 | 1991年6月11日[2] |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 8040001014252 |
事業内容 | サッカークラブの運営 |
代表者 | 島田亮 |
資本金 | 4億9000万円[3] |
売上高 | 28億3800万円 (2020年1月期)[3] |
営業利益 | 1億1600万円(2020年1月期)[3] |
経常利益 | 500万円(2020年1月期)[3] |
純利益 | ▲5475万円 (2024年1月期)[4] |
総資産 | 19億3954万3000円 (2024年1月期)[4] |
決算期 | 1月期 |
主要株主 | 東日本旅客鉄道 50%[2] 古河電気工業 50%[2] |
特記事項: 2009年10月1日に株式会社東日本ジェイアール古河サッカークラブより商号変更。またチーム事務所は当初浦安市→市原市にあった。 |
ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、英: JEF United Ichihara Chiba)は、日本の千葉県市原市、千葉市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称はジェフユナイテッド千葉(ジェフユナイテッドちば)。
概要
[編集]1946年創部の古河電気工業サッカー部を前身とする。ホームタウンは2002年まで千葉県市原市、2003年から市原市および千葉市へ変更・広域化された。ホームスタジアムはフクダ電子アリーナ、練習場はユナイテッドパークであり、クラブハウスも同地に立地している[1](詳細は#スタジアムを参照)。
運営会社はジェフユナイテッド株式会社(2009年10月1日に株式会社東日本ジェイアール古河サッカークラブより商号変更[2])。東日本旅客鉄道(JR東日本)と古河電気工業(古河)が50%ずつ出資(資本金:4.9億円)[2]している。なお、2008年までは資本金1億円であったが、クラブハウス(2009年10月竣工)建設費調達などの関係から、2009年に増額された[5]。
クラブ名の「ジェフユナイテッド」(JEF UNITED、ユナイテッド=結束した)はクラブとホームタウンの結びつき、チームの協調・連帯感を表現しており、1991年に公募で決定された[1]。なお、JEFは、クラブの母体となったJR-East(=JR東日本)・Furukawa(=古河)の略称にも由来するともいわれている[6]。なお、クラブの呼称は当初ジェフユナイテッド市原であったが、2005年シーズンより現在の呼称としている。
クラブのエンブレムおよびマスコットには秋田犬がモチーフとして用いられている。マスコットは背番号2の「ジェフィ」(兄)、背番号9の「ユニティ」(弟)であり[1][7]、両マスコットの背番号の和が11となることは1つのチームを示している。2011年6月に雌のミックス犬(雑種)「みなちゃん」がマスコットに加わった(背番号は12)[7]。
クラブのフィロソフィとして「WIN BY ALL!」を掲げており、2001年シーズンより継続して使用している[2]。
歴史
[編集]前史
[編集]1946年創部の古河電気工業サッカー部が前身。1965年の日本サッカーリーグ(JSL)に発足時から参加。日本リーグ時代は三菱重工(現・浦和レッズ)や日立(現・柏レイソル)とともに丸の内御三家と言われ、JSL優勝2回、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝4回、JSLカップ優勝3回の成績を収める。また、アジアクラブ選手権1986-87で優勝し日本のクラブとしては初めてとなるアジアタイトルを獲得した。
1991年6月、運営母体が古河電気工業と東日本旅客鉄道(JR東日本)が共同出資して設立した「株式会社東日本ジェイアール古河サッカークラブ」となり、チーム名称を「東日本JR古河サッカークラブ」へ変更[8]。また、同年11月にチームニックネームが「ジェフユナイテッド」に決定した[8]。
ホームタウンについては、古河の拠点としていた横浜市とは別の場所を選定することになり、一時は千葉県習志野市の習志野市秋津サッカー場を本拠地にすることが内定したものの、騒音問題などを危惧した周辺住民からの反対運動により断念[9]。最終的に1992年5月に千葉県市原市をホームタウンとすることが決定した[8]。また、ホームスタジアムとして、市原緑地運動公園臨海競技場(以下「市原臨海」)を改修して使用することになった。
なお、1992年のJリーグカップは、太田市運動公園陸上競技場(群馬県)、平塚競技場(神奈川県)、千葉県総合スポーツセンター陸上競技場(千葉県)、および西が丘サッカー場(東京都北区)で主催試合を開催した。
Jリーグ開幕から1999年
[編集]1993年の開幕戦を前にピエール・リトバルスキーが加入。開幕戦はサンフレッチェ広島F.Cと対戦(1-2で敗戦)、2節のヴェルディ川崎戦で初勝利を挙げ、横浜マリノスを5-0で破るなど、リトバルスキー加入効果で一時は首位に立つ好スタートを切るが[10]、攻撃面ではリトバルスキー依存症とも言える状態となり[10]、失速してファーストステージは5位で終えた[10]。セカンドステージからオッツェが加入するも、リトバルスキーの分まで守備で奮闘していたフランタがメンバーから外れるようになるとチームのバランスが崩れ[10]、また下川健一ら守備陣の負傷離脱もあって低迷[10]、9位でセカンドステージを終えた[10]。加藤好男が現役を引退した。
1994年、日本代表でコーチを務めていた清雲栄純が監督に就任、ルーキーとして城彰二、秋葉忠宏が加入、城はデビュー戦から4試合連続で得点を挙げる活躍を見せたが[11][12]、1stステージは6位、2ndステージは9位に終わった。2ndステージからマスロバルが加入、2ndステージ途中、監督との関係が上手くいかないリトバルスキーと来期の契約を結ばないことが明るみに出るなど[13]、リトバルスキーは終盤戦には全く起用されなくなり、攻撃の中心はマスロバルへと移った。年間順位も9位と振るわない中、30得点を挙げたオッツェが得点王となるが、このシーズン限りで退団[14]、パベル、フランタ、阪倉裕二らも退団、リトバルスキーは引退した。
1995年、清雲栄純が監督を続投、ウィントン・ルーファー、ゴラン・バシリエビッチらを獲得。1stステージ6位、2ndステージ7位、年間総合では5位となった。1stステージ5節で柏レイソルとのJリーグ史上初の千葉ダービーが行われ、バシリエビッチが得点を決めて勝利した[15]。宮澤ミッシェルは引退、越後和男、後藤義一、バシリエビッチらが退団した。
1996年、奥寺康彦が監督に就任。イワン・ハシェックを獲得、シーズン後半からピーター・ボスが加入したが、リーグ戦は年間9位。ルーファーがシーズン終盤に、城彰二、ハシェックがシーズン終了後に退団した。
1997年、初の外国人監督となるヤン・フェルシュライエンが監督に就任。ラデが加入。マスロバルが年間を通じて負傷でフル稼働出来なかったことも影響して、1stステージは15位、2ndステージは14位、天皇杯ベスト16、Jリーグカップはベスト8。2ndステージ開幕を前にラデが退団し、アーノルド・スコルテンが加入したがチームは低迷した。
1998年までに運営会社の本社機能を浦安市から市原市へ移転。武田修宏、金大儀を獲得したが、1stステージ11位。2ndステージ開幕を前にマシュー・ビングリーを獲得したが、2勝15敗で最下位、同年年間成績で16位となりJ1参入決定戦に回り、アビスパ福岡に連勝して残留する。同年のJリーグカップでは、準決勝で鹿島アントラーズと対戦、マスロバルのハットトリックで勝利し、初の決勝進出を果たしたが、ジュビロ磐田に敗れて準優勝に終わった[16]。シーズン終了後にマスロバル、スコルテンが契約満了で退団、江尻篤彦が引退した。
1999年はゲルト・エンゲルスが新監督に就任。バロンをレンタルで獲得。1stステージ15位でエンゲルスは解任され、2ndステージからニコラエ・ザムフィールが新監督に就任、ピーター・ボスが複帰したが、2ndステージは最終節前で勝ち点1差の15位で、最終節でG大阪に勝利し他会場の結果により年間13位となり残留。ボスは引退、武田修宏が自由契約となり退団した。
2000年代
[編集]2000年2月に姉崎公園サッカー場へ練習場も移転して、クラブ機能の市原市への移転が完了した[8]。同年1stステージ11位、2ndステージ最下位、年間14位の成績で、J1残留。オフには主力である山口智がG大阪、酒井友之が名古屋グランパスエイト、そしてバロンが清水エスパルスへそれぞれ移籍した。
2001年に当時韓国代表のFW崔龍洙とボスニア・ヘルツェゴビナ代表のMFエディン・ムイチンそしてスロベニア代表のDFジェリコ・ミリノビッチが加入、1stステージ2位、2ndステージは5位で年間順位は3位。シーズン終了後にベルデニックが名古屋へ移籍。2002年はベングロシュが監督に就任、1stステージ8位、2ndステージ11位で天皇杯はベスト4。
- 2003年
- ユーゴスラビア代表元監督のイビチャ・オシムが監督に就任。ユース出身の阿部勇樹がキャプテンとなった。1stステージが3位、2ndステージは優勝した横浜F・マリノスと同勝ち点の2位、年間総合3位の成績。シーズン終了後に中西永輔、崔龍洙が退団した。
- 2004年
- 1stステージは7位。2ndステージは優勝した浦和と勝ち点差9の2位。
- 2005年
- 主力であった茶野隆行、村井慎二が揃ってジュビロ磐田に移籍した一方、ブルガリア代表のイリアン・ストヤノフを獲得した。1シーズン制となったリーグ戦において、序盤は出遅れるも混戦となった中盤から徐々に追い上げ、最終節まで優勝争いに加わり、年間成績は2年連続の4位。
- ナビスコ杯では、初優勝を達成するとともに、Jリーグ加盟後初となるタイトルを獲得した。
- また、2003年1stステージ第5節の横浜FM戦以降、市原臨海においてリーグ戦は2005年の第20節(セレッソ大阪戦)で敗れるまで31試合無敗、カップ戦含めた公式戦はナビスコ杯のGL第2節(柏レイソル戦)に敗れるまで26試合無敗を記録した。
- なお、この年の10月からフクダ電子アリーナが供用開始。同月16日の第27節横浜FM戦で、同会場初となる公式戦ホームゲームを開催した。結局この年は、リーグ戦のホームゲームでは、第25節清水エスパルス戦までのうち、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場開催となった第6節の鹿島アントラーズ戦を除く11試合を市原臨海で、第27節横浜FM戦以降の5試合をフクアリで開催した。
- 2006年
- この年から、公式戦ホームゲームの全試合をフクアリで開催(市原臨海も2010年まで本拠地登録されていたが、2006年以降開催実績はない)。
- 巻誠一郎が2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出され、W杯に出場した。
- W杯終了後の7月、オシムが日本代表監督に就任。日本サッカー協会(JFA)に引き抜かれた格好となり、無条件で監督を引き渡したクラブに選手・サポーターなど内外から多くの批判が届いた。この際「クラブとJFAが取り合うことで、最悪の結果、オシムが日本を去る事だけは避けたい」とした旨がフロント陣から発表された。後任にはイビチャ・オシムの息子であるアマル・オシムがコーチから昇格して就任した。そして、羽生直剛、佐藤勇人、山岸智ら、いわゆる「オシムチルドレン」が日本代表に選ばれた。
- ナビスコ杯で鹿島を破り、2連覇を果たした一方、リーグ戦は11位、天皇杯はJ2札幌に初戦で敗退。クラブ初の国際試合となったA3チャンピオンズカップ2006は1勝1分1敗の成績(3位)。
- 10月、祖母井がGMを辞任(その後、フランス2部・グルノーブル・フット38のGMに就任)し、後任に唐井直が就任した。
- 2007年
- キャプテンでありチームの顔であった阿部勇樹が浦和に、選手会長の坂本將貴がアルビレックス新潟へ移籍。また、巻・佐藤・山岸がチームの今季の方針説明を理由に契約を保留した。
- リーグ戦は開幕4戦未勝利(1分3敗)。第5節の横浜FC戦で初勝利を挙げたが、第8節から第14節まで7戦未勝利(3分4連敗)。シーズン途中の6月にはイリアン・ストヤノフが一部のメディアで監督批判を行い、謹慎処分の後に契約解除された。後半は第23節から第28節までクラブ史上初となる6連勝を記録。29節からは2分4敗であったが年間13位でJ1残留を決めた。
- なお、ナビスコ杯は、グループリーグ3位で予選敗退。天皇杯は大分に4回戦(初戦)で敗退。
- シーズン終了後、監督のアマル、統括本部長の唐井が解任された。
- 2008年
- 監督にヨジップ・クゼ、GMに昼田宗昭が就任。また、前年に新潟へ移籍した坂本が復帰した一方、水野晃樹がスコットランド1部・セルティックFCへ、羽生直剛がFC東京へ、山岸智が川崎フロンターレへ、佐藤勇人が京都サンガF.C.へ、水本裕貴がガンバ大阪へ移籍しチームの主力が他クラブに引き抜かれ、昨シーズンのレギュラー選手の半数近くが入れ替わる危機的状況になってしまう。4月、淀川隆博が社長を退任した。
- リーグ戦は開幕11戦未勝利で、5節からは15年ぶりの7連敗を喫するなど9敗2分(勝ち点2)で最下位。5月にクゼを解任して、イングランド・リヴァプールFC元ヘッドコーチのアレックス・ミラーが監督に就任。ミラーが来日した5月10日のホームでの京都戦に1-0で勝利し、開幕12試合目にしてシーズン初勝利を挙げた。なお、ミラーは登録が間に合わず、指揮は澤入重雄コーチが代行した。
- リーグ戦中断期間に広島からMF戸田和幸、鹿島からFW深井正樹が加入。第24節(東京V戦)から5連勝し、一時は最下位を脱出したが、第30節から1分3敗と失速。第32節終了時点で自動降格圏内の17位であった。
- 12月6日の最終節のFC東京戦は、0-2と先行されたが、後半29分からの11分間で4得点を挙げて逆転勝利[注釈 1](2008年J1最終節)。第32節終了時点16位の東京V、同15位のジュビロ磐田が両方とも敗れ、磐田が16位、東京Vが17位になり、千葉は年間15位で残留が決定した。
- 2009年
-
- クラブスローガン :「YELLOW TOP 2009」
- ミラーが監督を続投。深井を鹿島から完全移籍で獲得し、柏からアレックスを、清水から和田拓三を完全移籍で獲得。鹿島から中後雅喜を、大分トリニータから福元洋平を期限付き移籍で獲得。他チームへの移籍も噂された巻も残留したが、登録選手数はJ1最少だった。
- 2009年10月、クラブ事務所・練習場を千葉市のユナイテッドパークに移転し、運営会社の商号を「株式会社東日本ジェイアール古河サッカークラブ」から「ジェフユナイテッド株式会社」へ変更した[8]。
- リーグ戦は第4節で17位に転落。第11節で16位になるが、第17節から15戦未勝利(6分9敗)。その間の第19節終了後の7月27日にミラーを解任して、ジェフOBの江尻篤彦が監督に就任。また、ブラジルのECヴィトーリアからFWネット・バイアーノ、柏から太田圭輔を獲得したが、第31節(川崎戦)でJ2降格が決定。第32節(FC東京戦)では勝利したが、第33節・第34節と連敗し、リーグ戦は最下位に終わった。
- 前身の古河時代を含めて「下位ディビジョンへの降格」はクラブ史上初めてであり、その後ジェフは現在に至るまでJ1復帰を果たせていない。古河電工サッカー部も創設時から日本サッカーのトップリーグに所属し、ジェフに変わるまで下部リーグに降格したことがなかった。すなわちジェフはJ1復帰に限らず「上位ディビジョンへ昇格」した経験がないことになる。
2010年 - (J2)
[編集]- 2010年
-
- クラブスローガン :「走りきる!そして、その先へ。」
- 江尻が監督を続投。DF斎藤大輔が引退、主将だったMF下村東美、DFエディ・ボスナーなどが退団した一方、磐田からMF村井慎二とDF茶野隆行、京都からFW林丈統とMF佐藤勇人、2009年6月から岡山に期限付き移籍していたFW青木孝太の元ジェフ所属の5選手が復帰した。
- その他、大分から期限付きで加入したDF福元洋平と、鹿島から期限付きで加入したMF中後雅喜の2人が完全移籍に移行。また、名古屋からMF山口慶の加入とオーストラリア代表主将DFマーク・ミリガンを獲得した。7月23日にFW巻誠一郎がロシア1部・FCアムカル・ペルミに完全移籍した。
- 6月10日、淑徳大学とパートナーシップに関する包括協定及びジェフユナイテッドアシストスポンサー契約を調印。9月12日の第25節で福岡との直接対決で敗れて4位へ転落。11月23日の第36節で草津に敗れて4位以下が確定(最終順位は4位)、1年でのJ1復帰はならなかった。
- 第90回天皇杯は4回戦で敗退。シーズン終了後に江尻が監督を退任した。
- 2011年
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- クラブスローガン :「WIN BY ALL!」
- ドワイト・ローデヴェーヘスが監督に就任。中牧大輔が岡山に、池田昇平が愛媛に、谷澤達也がFC東京に、工藤浩平が京都に、和田拓三が福岡に、アレックスが鹿島にそれぞれ完全移籍。鎌田翔雅、金沢亮、ネット・バイアーノが退団した。また、中後雅喜とG大阪から期限付き移籍していた倉田秋がC大阪に期限付き移籍した。一方、熊本から藤田俊哉、横浜FCから大久保択生、オーレスンFKからトル・ホグネ・オーロイをそれぞれ完全移籍で、名古屋から竹内彬、カナダ・FCエドモントンからU-20カナダ代表のマット・ラムをそれぞれ期限付き移籍で獲得、専修大学の藤本修司、特別指定選手として活動していた明治大学の久保裕一が新加入し、益山司が大分への期限付き移籍から復帰した。
- 5月13日、三菱養和SCユースの田鍋陵太を特別指定選手に承認。6月26日、オフィシャルサプライヤーのFrom AQUAが、2011シーズンよりオフィシャルパートナーに関する契約を締結。7月30日、ジェフU-18の佐藤祥と井出遥也が、トップチーム登録(2種登録)した。8月9日、新潟から大島秀夫を期限付き移籍で獲得。
- 10月21日、監督のドワイト、ヘッドコーチのハンスを解任。後任の監督に神戸清雄、コーチに菅澤大我が就任した。
- 11月19日、第36節・湘南-徳島戦の結果を以て昇格の可能性が消滅(最終成績は6位)。
- 第91回天皇杯は4回戦で清水エスパルスに敗れた。
- 2012年
-
- クラブスローガン :「DAKKAN 奪還×脱甘」
- 監督に水戸元監督で前シーズンまで清水のコーチであった木山隆之が就任した。
- ベテランの藤田俊哉をはじめ、林丈統、ファン・ゲッセルが退団、C大阪に期限付き移籍していた中後雅喜が東京Vに、村井慎二が大分に、太田圭輔、福元洋平が徳島に、大島秀夫が札幌に完全移籍、青木孝太が甲府に、益山司が松本にそれぞれ期限付き移籍、マット・ラムとの期限付き移籍期間が満了、茶野隆行が引退した。一方、福岡から田中佑昌を、G大阪から山口智を、山形から佐藤健太郎を、横浜FCから藤田祥史をいずれも完全移籍で、磐田から荒田智之を、柏から兵働昭弘を、横浜FMから武田英二郎をいずれも期限付き移籍で獲得、井出遥也、佐藤祥がユースから昇格、大岩一貴、町田也真人が新加入した。6月には柏からリカルド・ロボが、7月には浦和から高橋峻希が期限付き加入した。8月にはFC東京から谷澤達也が完全移籍で復帰した。
- リーグ戦では、第1節、第19節、第24節で首位に立ち、第13節愛媛戦での勝利以降、第29、30節で7位に後退した時を除き、昇格争いに加わり、最終的にJ1自動昇格圏内の2位以内には届かなかったが、シーズン成績5位でJ1昇格プレーオフへ進出。プレーオフでは4位横浜FCに勝利したが、決勝の6位大分戦で前年まで千葉に在籍していた林丈統の決勝ゴールにより0-1敗れて、J1昇格はならなかった。
- プレーオフ終了後、テクニカルディレクターの神戸および監督の木山がそれぞれ退任した。
- 第92回天皇杯は、準々決勝で鹿島に敗れた。
- 2013年
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- クラブスローガン :「絶対J1!」
- 監督に新潟や大宮元監督の鈴木淳が就任した。
- G大阪から期限付き移籍加入していた大塚翔平、柏から期限付き移籍加入していた兵働昭弘がともに完全移籍に移行。清水から碓井健平、昨季C大阪でプレーしていたケンペスをそれぞれ完全移籍で獲得した。なお、韓国1部・済州ユナイテッドFCより獲得したジャイールは7月26日にUAE 1部のエミレーツ・クラブへ期限付き移籍となった。2013年8月、森本貴幸が完全移籍で加入。Jリーグへの復帰は7年ぶりとなった。2013年8月戸島章が藤枝MYFCに期限付き移籍。
- 第2節で初勝利を挙げ、以後第8節まで7試合連続負けなし(3勝4分)。第10節から第15節まで4連勝を含む6試合負けなし(4勝2分)で、第15節時点で3位に浮上。第16節、第17節とシーズン初の連敗を喫して第16節から第20節まで6位に順位を落としたが、第20節から6連勝で第25節終了時には2位神戸に勝点差3の3位に浮上し、第31節まで3位をキープ。第28節から4試合勝利なし(2分2敗)、第33節から3連敗で第34節・第35節は6位。第36節から3連勝で4位に浮上するが、第39から第42節まで2分2敗に留まり、シーズン成績は5位。プレーオフ準決勝はアウェイで4位徳島と引き分けたが、規定により決勝進出は成らず、2年連続のプレーオフ敗退となった。
- 第93回天皇杯は3回戦でFC東京にPK戦で敗れた。
- 2014年
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- クラブスローガン :「FUN! 〜勝利のために〜」
- 鈴木体制2年目。米倉恒貴がG大阪へ完全移籍、深井正樹が退団、櫛野亮が引退した一方、横浜FMから田代真一、山形から中村太亮を完全移籍で、横浜FMから天野貴史、柏から山中亮輔を期限付き移籍で獲得した。
- しかし開幕から低調で、順位も第6節終了後に9位、第16節、第18節終了後に8位になった以外は2桁順位を推移、第19節で北九州戦に敗れ、7勝6分6敗の勝点27で12位となった直後の6月23日に監督の鈴木と契約解除。テクニカル・ダイレクターの斉藤和夫による代理指揮を挟んで、7月1日に千葉県出身でロンドン五輪日本代表監督を務めた関塚隆が同月8日から後任監督として指揮を執ることが発表された[17]。
- 関塚就任後はチームの成績も上昇、最終節で讃岐に勝利して3位に食い込み、3年連続のプレーオフ進出を決めた。
- 第94回天皇杯は準決勝まで駒を進めたものの、同じJ2の山形に敗れ、古河時代以来30年ぶりの決勝進出はならなかった。また昇格プレーオフも同じく山形に敗れ、3年連続のプレーオフ敗退となった。
- 2015年
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- クラブスローガン :「一意専心」
- 関塚体制2年目。山口慶が引退し、ケンペスが退団。期限付き加入中だった天野貴史(横浜FM)、山中亮輔(柏)、幸野志有人(FC東京)が、いずれも期限付き移籍満了となった。また、碓井健平が清水、山口智が京都、竹内彬が名古屋、兵働昭弘が大分、大塚翔平が北九州へそれぞれ完全移籍、ナム・スンウがベルギーのAFCテュビズへ、戸島章が町田へ期限付き移籍した。一方、新戦力として鳥栖から金井貢史、甲府から水野晃樹、川崎からパウリーニョ、ツルヴェナ・ズヴェズダ(セルビア1部)からネイツ・ペチュニクを、水戸から鈴木隆行をそれぞれ完全移籍で、甲府から岡大生を期限付き移籍で獲得し、千葉U-18から仲村京雅と浦田樹が昇格した。乾貴哉(桐生一高)、北爪健吾(専修大)が新加入した。また、町田から栗山直樹が復帰した。夏場には横浜FMから富澤清太郎を完全移籍で、名古屋から松田力、川崎から安柄俊をそれぞれ期限付き移籍で獲得した。
- 関塚体制を貫いたものの、勝ち切れない試合を重ねて昨年より低迷。それでも第40節で東京Vに勝利して6位に上がったが、続く第41節と最終節で岡山と讃岐に連敗。最終順位は9位となり、プレーオフ進出を逃した。
- 2016年
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- クラブスローガン :「REVOLUTION -NEXT 25-」
- 関塚体制3年目。鈴木隆行が引退、ネイツ・ペチュニク(大宮)、水野晃樹(仙台)、大岩一貴(仙台)、森本貴幸(川崎)、パウリーニョ(湘南へ期限付き移籍)などの移籍や松田力(名古屋へ復帰)などの期限付き移籍期間満了者を含めて合計24人の選手がチームを去った。その一方で、甲府から阿部翔平、水戸から吉田眞紀人、大分から若狭大志、川崎から船山貴之、山本真希、横浜FMから比嘉祐介、仙台から多々良敦斗、横浜FCから小池純輝、柏から近藤直也、東京Vから佐藤優也、松本から大久保裕樹を完全移籍で、鳥栖から藤嶋栄介、東京Vから菅嶋弘希、浦和から長澤和輝を期限付き移籍で獲得。U-18から岡野洵が昇格し、新外国人選手として、栃木SCから移籍してきたイ・ジュヨンをはじめ、アランダ、エウトンが入団、新加入選手は合計19人に上った。この選手の大幅入れ替えについて、2015年11月にゼネラルマネージャーに就任した高橋悠太(前・神戸チーム統括本部長)は新体制発表会の席上で、過去に移籍加入した選手の移籍金が人件費を圧迫していたためこの問題を解消する必要があったこと(新加入選手のうち移籍金が発生したのは川崎から加入した船山のみであったという)、前年までチームとしての一体感に欠ける場面が見られたため、クラブへの愛や強い気持ちを持っている選手を集めた(結果として千葉県出身者や千葉県内の高校出身者が多く集まった)ことを理由に挙げている[18]。
- シーズン中に、鳥栖から丹羽竜平が期限付き移籍で加入、ブラジル全国4部・PSTCへ期限付き移籍していた浦田樹が復帰した。一方で浦田と仲村京雅が琉球へ期限付き移籍した。
- しかし、リーグ戦で第8節を最後にチームは自動昇格圏内の2位はおろかプレーオフ圏内である6位以内にも入れず、第25節終了後に関塚を解任、さらに小倉勉、里内猛の両コーチも同時に退任した。監督の後任は置かずにコーチの長谷部茂利が監督代行に昇格した[注釈 2]。
- 同10月30日の長崎戦で引き分けて今季の7位以下が確定し、2年連続の昇格プレーオフ進出と8年連続でJ1復帰を逃すことが確定した[20]。最終順位はJ2降格後ワーストの11位[21]。
- 2017年
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- クラブスローガン :「Pasión 力戦奮闘」
- 監督代行だった長谷部がコーチに戻り、新監督にスペイン1部・ヘタフェCF元監督のフアン・エスナイデルが就任。
- オナイウ阿道が浦和、井出遥也がG大阪へ完全移籍、長澤和輝、藤嶋栄介が期限付き移籍期間満了、谷澤達也が期限付き移籍先の町田へ完全移籍、小池純輝は愛媛FCへ、仲村京雅はYS横浜へ、浦田樹は北九州へ期限付き移籍、富澤清太郎が契約満了で退団後新潟へ移籍する一方で、FC東京から羽生直剛が完全移籍で10年ぶりにチームに復帰、その他、鳥栖から清武功暉、神戸から山本海人が完全移籍で、G大阪から西野貴治、横浜FMから熊谷アンドリューが期限付き移籍で加入、高橋壱晟(青森山田高)、溝渕雄志(慶應大)が新加入となった。新外国人選手としてバニーヤースSC(UAE 1部)からラリベイ、オリンピア(パラグアイ1部)からホルヘ・サリーナスを獲得した。
- 開幕から2勝1分で第3節終了時には首位に立つが、直後に2連敗し12位に落ちると、前半戦は常に2桁順位から抜け出せず前半戦終了時は8勝6分7敗、勝点30の13位、プレーオフ圏内となる6位とは勝点差4、自動昇格圏の2位とは勝点差13に終わった。
- シーズン中に、新潟から指宿洋史が完全移籍で、清水からキム・ボムヨン、福岡から為田大貴、名古屋から矢田旭が期限付き移籍で加入。8月には、ベラクルス(メキシコ1部)からルイス・オヘーダが加入した。一方で阿部翔平が甲府、吉田眞紀人が町田へ期限付き移籍、西野貴治が期限付き移籍契約の解除によりG大阪へ復帰し、イ・ジュヨンが讃岐へ期限付き移籍した。
- 後半戦に入り、第27節には6位と勝点で並ぶ7位まで順位を上げたものの、第28節から5試合連続勝利なしとなるなど8試合で1勝2分5敗と足踏みしたこともあり、第35節終了時には6位との勝点差を10にまで広げられる。しかし第36節からクラブ新記録の7連勝、特に最終節対横浜FC戦では先制を許し、同点には追いついたものの試合最終盤まで膠着状態だったところ、後半アディショナルタイムにキャプテン近藤直也のゴールで逆転勝利、他会場の結果により逆転で6位となり、J1昇格プレーオフ進出を決めた。プレーオフは準決勝で3位名古屋に敗戦、J1復帰はならなかった。
- 第97回天皇杯は3回戦でG大阪に敗れた。
- 2018年
-
- クラブスローガン:「PASIÓN」
- エスナイデル体制2年目。大久保裕樹と羽生直剛が現役を引退し、アランダ、キム・ボムヨン、北爪健吾(横浜FC)、比嘉祐介(東京V)、若狭大志(東京V)、多々良敦斗(熊本)らが退団。岡本昌弘が愛媛、山本海人が横浜FC、高橋壱晟が山口に期限付き移籍した。一方で、昨シーズンから期限付き移籍していた熊谷アンドリュー、矢田旭、為田大貴が完全移籍で加入。また山形から高木利弥、愛媛から小島秀仁、ピアスト・グリヴィツェ(ポーランド1部)からエベルトを完全移籍で獲得し、柏から増嶋竜也、広島から茶島雄介、ロサリオ・セントラルからロドリゲスが期限付き移籍で加入、吉田眞紀人が町田への期限付き移籍から復帰した。また古川大悟がU-18から昇格し、鳥海晃司(明治大学)、杉山弾斗(市立船橋高校)、本田功輝(四学大香川西高校)が新卒加入した。
- 開幕からは4戦で1分3敗とスタートダッシュに失敗。3月にはメルボルン・ヴィクトリー(オーストラリア1部)からゲリアが完全移籍で、清水から高木和徹が期限付き移籍で加入。吉田眞紀人が愛媛へ期限付き移籍した。初勝利後も思うように勝ち点は伸ばせず、8勝4分9敗の13位で前半戦を終えた。特にアウェイでは2勝と低調であった。夏の移籍期間では、高木利弥が柏へ完全移籍、岡野洵が大分へ期限付き移籍した。一方で松本から工藤浩平、横浜FMから下平匠が加入した。
- 後半戦に入っても戦績は上向かず、3連勝を一度も記録しないなど不安定な戦いに終始した。リーグ2位となる72得点を記録したが、失点もリーグワースト2位の72失点となるなど守備が安定せず、結果的に年間を通して上位に浮上することはできなかった。最終的には16勝7分19敗・クラブ史上最低順位の14位でシーズンを終えた。
- 第98回天皇杯は3回戦で神戸に敗れた。
- 2019年
-
- クラブスローガン:「PASIÓN」
- エスナイデル体制3年目。町田也真人(松本)、近藤直也(東京V)、清武功暉(徳島)、指宿洋史(湘南)、高木和徹(清水)、ラリベイ、ホルヘ・サリーナス、ロドリゲスらが退団。溝渕雄志、杉山弾斗が新たに期限付き移籍した。一方、名古屋から佐藤寿人(18年振り復帰加入[22])、東京Vからアラン・ピニェイロ、川崎から田坂祐介、甲府から堀米勇輝が完全移籍で、クレーベ、ベラスケス、新井一耀、鈴木椋大が期限付き移籍で加入した。また、相澤ピーターコアミ(日本文理高校)が新卒加入した。
- 開幕後、4試合で未勝利(2分2敗)の21位と低迷し、3月17日付で監督のエスナイデルを解任[23][24]。後任にはトップチームコーチの江尻篤彦が2010年以来9年振りに就任した。監督交代直後は2勝1分と持ち直すも以後は再び低迷。4月30日には昨季新潟を退団した安田理大が加入した。前半戦はわずか5勝に留まり、勝ち点23の18位でシーズンを折り返した。夏の移籍期間では古川大悟が三重に期限付き移籍し、米倉恒貴がG大阪から復帰加入した。
- 後半戦も戦績は上向かず、夏場には4連敗を含む6試合未勝利を記録した。後半戦では1度も連勝を記録しないなど下位に低迷し、第40節東京V戦にてようやくJ2残留が決定。結果的にクラブ史上最低を更新する17位でシーズンを終えた。シーズン終了を前に江尻篤彦の今季限りで監督退任が発表された。また、佐藤勇人の現役引退が発表され、最終節後には引退セレモニーが実施された。
- 第99回天皇杯は2回戦で岡山に敗れた。
- 2020年
-
- クラブスローガン:「WIN BY ALL!」
- 鳥栖やC大阪で監督を務めた尹晶煥が監督に就任。
- 期限付き移籍加入していた茶島雄介(広島)、ベラスケス(イングランド1部ワトフォード)が期間満了により退団。乾貴哉が水戸に、大野哲煥が栃木に、エベルトがヴィスワ・クラクフ(ポーランド1部)に期限付き移籍、期限付き移籍で加入していたクレーべ(エストリル)、増嶋竜也(柏)、鈴木椋大(G大阪)、米倉恒貴(G大阪)、新井一耀(名古屋)が完全移籍加入、更に川崎から新井章太、山口から山下敬大、磐田から田口泰士と川又堅碁が完全移籍加入、ユースから櫻川ソロモンが昇格、漢陽大学校からチャン・ミンギュ、関東学院大学から見木友哉、流通経済大学から本村武揚が新卒加入した。
- 開幕戦は米倉恒貴の得点で2017年以来の開幕戦勝利を挙げた。しかし新型コロナウイルス感染拡大の影響によりリーグ戦が約4か月中断した後、第6節から4戦勝利なし(1分3敗)で15位まで順位を落とす。第10節からシーズン初の3連勝で5位まで浮上するも、今度は直後に6戦勝利なし(1分5敗)で16位まで落ち、前半戦(第21節)終了時点で8勝2分11敗の勝点26、同節首位の北九州と勝点差18、J1昇格圏の2位徳島と勝点差17の14位に終わる。
- 後半戦に入り、第25節以降は17位と16位を推移、第34節で後半戦初の連勝を記録し15位浮上したものの、同節終了時点で2位福岡との勝点差が26となり、同シーズン3位以下が確定、8試合を残してJ2残留が確定した。最終成績は14位(15勝8分19敗)。
- また、シーズンを通しての初の逆転勝利は11月11日第33節松本戦と異例の遅さであった。
- 11月27日にはGMの高橋悠太の退任を発表、翌月3日にテクニカルダイレクターの鈴木健仁のGM就任を発表した。
- 12月17日に田坂祐介、12月19日には佐藤寿人、更にすでに退団が発表されていた増嶋竜也が12月20日にそれぞれ現役引退が発表され、最終節後に同3名の引退セレモニーが開催された。
- 2021年
-
- クラブスローガン:「WIN BY ALL!」
- 尹晶煥体制2年目。
- 本田功輝(青森)、工藤浩平(栃木シティ)、大野哲煥(岐阜)、ゲリア(オーストラリア1部パース)、下平匠(南葛SC)、アラン・ピニェイロが退団、佐藤優也が熊本へ、クレーベが横浜FC、古川大悟がいわきFC、為田大貴、鳥海晃司がC大阪、山下敬大がサガン鳥栖、乾貴哉が北九州へ完全移籍、堀米勇輝が山形、本村武揚が北九州へ期限付き移籍した。
- また、岩崎悠人が札幌から、小田逸稀が鹿島から、サウダーニャがECバイーアから期限付き移籍で、福満隆貴(C大阪)、鈴木大輔(浦和)、大槻周平、末吉塁(山形)、伊東幸敏(鹿島)、小林祐介(柏)が完全移籍で加入、溝渕雄志が栃木への期限付き移籍から復帰、流経大柏高校から松原颯汰、修徳高校からブワニカ啓太が新卒加入した。
- 開幕から3戦勝ちなし(1分2敗)で第6節には降格圏内である21位まで順位を落とし、スタートダッシュに失敗するも、その後は第12節からの6戦負けなし(3勝3分)と持ち直し、前半戦(第21節)終了時点では10位まで浮上、。
- 夏の移籍期間には岩崎悠人のレンタル期間が終了し鳥栖へ移籍、大槻周平が山口へ、松原颯汰がC大阪へ、溝渕雄志が栃木へ期限付き移籍した。また、檀崎竜孔が札幌より期限付き移籍で加入した。シーズン後半には、13戦無敗(8勝5分)の好調を見せたが、第36節終了時点でシーズン3位以下が確定し、J2残留が確定した。最終成績は17勝15分10敗の8位。失点は36でリーグ2位であった。
- 12月3日に安田理大、12月4日には船山貴之、矢田旭、相澤ピーターコアミの契約満了を発表した。
- 第101回天皇杯は2回戦で大宮に勝利したが、3回戦で川崎にPK戦の末敗北を喫し、敗退した。
- 2022年
-
- クラブスローガン:「WIN BY ALL!」
- 尹晶煥体制3年目。
- 小田逸稀(鹿島)、檀崎竜孔(札幌)が期限付き移籍期間満了、溝渕雄志(讃岐)、岡野洵(町田)、矢田旭(愛媛)、船山貴之(相模原)、堀米勇輝(鳥栖)[注釈 3]、伊東幸敏(大分)、杉山弾斗(九州リーグ・都農)、安田理大(松本)、相澤ピーターコアミ(青森)が退団、大槻周平(山口)、本村武揚(北九州)が期限付き移籍先の各チームへ完全移籍。 秋山陽介が仙台から、ダニエル・アウベスがSEパルメイラスから期限付き移籍で、風間宏矢(琉球)、佐々木翔悟(鹿島)[注釈 4]、高木俊幸(C大阪)が完全移籍で加入、松原颯汰がC大阪への期限付き移籍から復帰、ユースから佐久間太一、齋藤来飛が昇格、三菱養和SCユースから西久保駿介、桐蔭横浜大学から篠原友哉が新卒加入した。 開幕直後の3月にはチアゴ・デ・レオンソ(広州城)が完全移籍で加入、齋藤来飛が青森へ育成型期限付き移籍した。
- 開幕戦ではJ3から初昇格を果たした盛岡にJ2初勝利を、第10節ではここまで勝利の無かった大宮にシーズン初勝利を献上するなど、流れに乗れないまま、第17節終了時点で18位まで順位を落とす。しかし、続く第18節からは3連勝を含む6戦無敗(4勝2分)で前半戦(第21節)を終えて8位、第25節終了時点では昇格プレーオフ圏内の6位に順位を上げる。
- 夏の移籍期間にはリカルド・ロペス(上海海港)が完全移籍、川崎から田邉秀斗が育成型期限付き移籍にて加入、サウダーニャが成都蓉城へ期限付き移籍した。
- 後半戦は一進一退を繰り返すも、第41節にて8位以下が確定、J2残留が決定した。また、シーズン中の9月9日に監督の尹晶煥が今シーズン限りで退任することが発表された。最終成績は17勝10分15敗の10位であった。
- 第102回天皇杯は2回戦で金沢に敗れ、敗退した。
- 2023年
-
- クラブスローガン:「WIN BY ALL!」
- 小林慶行がコーチからトップチームの監督に昇格。
- 秋山陽介(仙台)、ダニエル・アウベス(SEパルメイラス)が期限付き移籍期間満了、リカルド・ロペス(ウクライナ1部ヴォルスクラ)、チアゴ・デ・レオンソ(アル・ダフラFC)、小島秀仁(YS横浜)、川又堅碁(沼津)が退団、チャン・ミンギュが町田へ完全移籍、櫻川ソロモンが岡山、佐久間太一が八戸へ期限付き移籍した。田中和樹が京都から期限付き移籍で加入、日高大(いわき)、松田陸(金沢)、呉屋大翔(大分)、椿直起(横浜FM)が完全移籍で加入、ユースから新明龍太、矢口駿太郎が昇格、新潟医療福祉大学から小森飛絢が、法政大学から近藤壱成が新卒加入した。サウダーニャは成都蓉城への期限付き移籍が終了し、ネフチ・バクーへの期限付き移籍となった。
- 外国人選手なしで迎えた開幕戦はルーキー小森の初得点を守り抜き勝利するも、その後は8戦勝ちなしで9節終了時点で降格圏の21位と、開幕ダッシュに失敗。また、3月には昨年からの育成型期限付き移籍を延長していた田邉秀斗が川崎へ復帰した。第10節で久々の勝利をあげると、その後は一進一退を繰り返し、前半戦(第21節)を終えて17位で折り返す。5月にはメンデス(京都)が加入。夏の移籍期間には、ドゥドゥ(今治)が完全移籍で、FC東京から西堂久俊が育成型期限付き移籍で加入し、末吉塁が岡山へ期限付き移籍した。
- 第27節の首位町田戦で勝利すると、次の第28節山口戦では4-0と圧勝。今シーズン最多得点を記録し、[25] 2連勝した。その後2試合は1分1敗となるが、第31節からは上位の磐田や苦手とする秋田を相手に勝つなど、連勝を続け、第35節の栃木戦の見木の劇的ゴールにて勝利し、PO圏内の6位に浮上した。その後も連勝を続け、第37節岡山戦にて0-5で勝利し、クラブタイ記録の7連勝を挙げ5位に順位を上げた。その後は1分1敗と停滞するも、第40節のいわき戦、第41節の群馬戦で勝利し、最終節を前にPO圏内の6位以上が確定。J1昇格プレーオフ出場を決めた。最終順位は19勝10分13敗で6位。
- プレーオフは3位の東京ヴェルディとの対戦になったが、準決勝で1-2で敗れたため敗退。15年ぶりのJ1昇格はまたも達成できなかった。
- 2024年
- クラブスローガン:「WIN BY ALL!」
- 小林体制2年目。
成績
[編集]年度別チーム得点王
[編集]- 年度別チーム得点王の一覧。リーグ戦以外での得点は含まない。
年度 | チーム得点王 | 得点 | 備考 |
1993 | パベル | 16得点 | |
1994 | オルデネビッツ | 30得点 | Jリーグ得点王 |
1995 | ルーファー | 21得点 | |
1996 | ハシェック | 12得点 | |
1997 | マスロバル | 9得点 | |
1998 | 武田修宏 | 13得点 | |
1999 | バロン | 17得点 | |
2000 | 13得点 | ||
2001 | 崔龍洙 | 21得点 | |
2002 | 16得点 | ||
2003 | 17得点 | ||
2004 | マルキーニョス | 12得点 | |
2005 | 巻誠一郎 阿部勇樹 | ||
2006 | 巻誠一郎 | ||
2007 | 水野晃樹 | 9得点 | |
2008 | 巻誠一郎 | 11得点 | |
2009 | 深井正樹 | 6得点 | |
2010 | ネット | 10得点 | |
2011 | 深井正樹 | 14得点 | |
2012 | 藤田祥史 | 15得点 | |
2013 | ケンペス | 22得点 | J2得点王 |
2014 | 13得点 | ||
2015 | ペチュニク | 14得点 | |
2016 | 町田也真人 | 11得点 | |
2017 | ラリベイ | 19得点 | |
2018 | 船山貴之 | ||
2019 | クレーベ | 17得点 | |
2020 | クレーベ 山下敬大 | 7得点 | |
2021 | 見木友哉 | 14得点 | |
2022 | 新井一耀 | 8得点 | |
2023 | 小森飛絢 | 14得点 |
タイトル・表彰
[編集]国内タイトル
[編集]その他タイトル
[編集]- JリーグDAZNニューイヤーカップ:1回
- 宮崎ラウンド:2016
表彰
[編集]- 得点王
- 1994年 - フランク・オルデネビッツ
- Jリーグベストイレブン
- 2005年 - イリアン・ストヤノフ、阿部勇樹
- 2006年 - 阿部勇樹
- フェアプレー個人賞
- 2006年 - 山岸智
- 監督特別賞
- 2005年 - イビチャ・オシム
- 得点王
- 2013年 - ケンペス
- ベストイレブン
- J2 Most Exciting Player
- 2012年 - 山口智
- 月間MVP
クラブ記録
[編集]連勝記録
[編集]- J1
- J2
- 7連勝
ホームスタジアム無敗
[編集]J1
[編集]- J2
- 16試合
- 【2010年 第35節 北九州戦 - 2011年 第29節 北九州戦】
リーグ戦 連敗
[編集]- J1
- 7連敗
- 4連敗
リーグ戦 未勝利
[編集]- J1
- 17試合【2007年 第29節 浦和戦(フクアリ)- 2008年 第11節 浦和戦(埼玉)】
- J2
リーグ戦 開幕未勝利
[編集]- J1
- 11節【2008年 第1節 G大阪戦(万博)- 第11節 浦和戦(埼玉)】
- J2
- 5節【2019年 第1節 愛媛戦(ニンスタ)- 第5節 京都戦(フクアリ)】
最も遅いシーズン初勝利
[編集]- J1
- 5月10日 【J1 2008年 第12節 京都戦(フクアリ)】
- ※ 前身の古河時代を含めても遅い。
- J2
- 3月30日 【J2 2019年 第6節 福岡戦(博多陸)】
最多得点試合
[編集]- J1
- 6得点
- 【1995年 第17節 横浜F戦(市原臨海) - 得点者:マスロバル(2)、中西永輔、ルーファー(3)】
- 【2007年 第23節 大分戦(フクアリ) - 得点者:佐藤勇人、山岸智、水野晃樹(2)、工藤浩平、青木孝太】
- J2
- 8得点
- 【2024年 第8節 栃木戦(フクアリ) - 得点者:小森飛絢、鈴木大輔(2)、椿直起、高橋壱晟、ドゥドゥ(2)、岡庭愁人】
最多失点試合
[編集]- J1
- 6失点
- 【1993年 NICOS(2nd)第18節 名古屋戦(瑞穂球)】
- 【2000年 1st第3節 神戸戦(市原)】
- J2
- 6失点
- 【2014年 第7節 湘南戦(フクアリ)】
得点差
[編集]- J1
- 勝利 - 6点差 (6-0) 【2007年 第23節 大分戦(フクアリ)】
- 敗北 - 6点差 (0-6) 【1993年 NICOS(2nd)第18節 名古屋戦(瑞穂球)】
- J2
- 勝利 - 8点差 (8-0) 【2024年 第8節 栃木戦(フクアリ)】
- 敗北 - 6点差 (0-6) 【2014年 第7節 湘南戦(フクアリ)】
国内トップリーグ所属
[編集]- 通算:43シーズン連続
- 日本サッカーリーグ:27季連続 (前身・古河電気工業時代)
- Jリーグ ・J1:16季連続 (ジェフユナイテッド市原・千葉)
個人記録
[編集]最年少試合出場
[編集]- J1リーグ戦
- 16歳333日 - 阿部勇樹 (1998年8月5日J1第16節・ガンバ大阪戦)
- J2リーグ戦
- 17歳173日 - 矢口駿太郎(2022年3月6日J2第3節・モンテディオ山形戦)
※2022年5月10日現在。
最年長試合出場
[編集]- J1リーグ戦
- 37歳71日 - モラフチク (2002年9月1日J1 2nd第1節・FC東京戦)
- J2リーグ戦
- 40歳15日 - 藤田俊哉 (2011年10月19日J2第6節・水戸ホーリーホック戦)
※2022年5月10日現在。
公式戦通算最多出場
[編集]- 公式戦
- 日本人選手
- 468試合出場 - 佐藤勇人
- 外国籍選手
- 157試合出場 - マスロバル
※2021年8月30日現在。他クラブでの出場は含まない。
リーグ戦通算出場記録
[編集]- 300試合出場
- 佐藤勇人 - 397試合 (引退)
- 250試合出場
- 200試合出場
※200試合以上。2021年12月5日現在。他クラブでの出場は含まない。
リーグ戦通算最多得点
[編集]- 日本人選手
- 54得点 - 船山貴之
- 外国籍選手
- 54得点 - 崔龍洙
※他クラブでの得点は含まない。
最多連続試合出場
[編集]- 68試合 - 山岸智 (2006年1st第1節から2007年1st第34節)
リーグ戦シーズン最多得点
[編集]- J1リーグ戦
- 日本人選手
- 13得点 - 武田修宏 (1998年 J1)
- 外国人選手
- 30得点 - オッツェ (1994年 J1)
- J2リーグ戦
- 日本人選手
- 19得点 - 船山貴之 (2018年 J2)
- 外国人選手
- 22得点 - ケンペス (2013年 J2)
最年少得点
[編集]- 公式戦
- 17歳216日 - 阿部勇樹 (1999年4月10日J1第6節・ヴィッセル神戸戦)
※2018年12月1日現在。
最年長得点
[編集]- 公式戦
- 38歳241日 - 佐藤寿人 (2020年11月8日J2第32節・モンテディオ山形戦)
※2021年1月1日現在。
ハットトリック
[編集]- J1リーグ戦
- 3得点
- J2リーグ戦
- 4得点
- ケンペス 【2013年J2 第6節 (3月31日) 北九州戦】
- 3得点
- Jリーグ杯
- 3得点
- 天皇杯
記念ゴール
[編集]- 通算1500ゴール - 城彰二【1995年4月5日 サントリー第6節 清水(市原臨海)】
- 通算2500ゴール - 江尻篤彦【1995年11月15日 NICOS第23節 平塚(市原臨海)】
- 通算8000ゴール - 崔龍洙【2002年9月14日 2nd第3節 名古屋(瑞穂陸)】
- 通算9000ゴール - 斎藤大輔【2004年3月13日 1st第1節 神戸(神戸ウイング)】
- 通算13,000ゴール - 巻誠一郎【2008年9月14日 第24節 東京V(フクアリ)】
- クラブ記録
- 第1ゴール - パベル・ジェハーク【1993年5月16日 サントリー第1節 第1節 広島(広島スタ)】
スタジアム
[編集]ホームスタジアムは千葉市中央区の千葉市蘇我スポーツ公園内にあるフクダ電子アリーナ(フクアリ、千葉市蘇我球技場)で、2005年10月以降は原則として全てのホームゲームをここで開催している。
Jリーグ発足当初は市原市の市原緑地運動公園臨海競技場(市原臨海、現・ゼットエーオリプリスタジアム)をホームスタジアムとして、複数のスタジアムでホームゲームを開催していたが、2002 FIFAワールドカップ誘致を前提に市原市で計画されていた千葉県営の新スタジアム計画が頓挫したこともあり、クラブは2002年シーズン開幕前に「千葉市蘇我スポーツ公園内の球技場(=フクアリ)が完成した後、市原臨海と同球技場を併用する」方針を示し、2005年10月からフクアリでのホームゲームを開始した。一方、市原臨海は新スタジアム計画が頓挫したことを受けて改修工事が必要となっていたが、日本サッカー協会より「観客席を2万人以上収容出来るようにし、席を全て個別席とすること」「客席の2/3以上覆える屋根を設置すること」「総座席数に対し、毎試合、観客席の8割以上の観客を動員すること」などの条件を与えられており、市営競技場である市原臨海が当該スペックを満たすためには市の負担が大きく、スタジアムの改修工事続行を断念した。なお、市原臨海でのジェフのホームゲームは2007年以降開催されておらず、Jリーグに提示した本拠地登録も2010年を最後に抹消されている。
なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「ジェフユナイテッド市原・千葉の年度別成績一覧#年度別入場者数」を参照のこと。
練習場・クラブハウス
[編集]練習場とクラブハウスは千葉市蘇我スポーツ公園・フクダ電子アリーナの隣接地にあるユナイテッドパーク。2009年10月にトップチームやユースチームなどの練習場・クラブハウスとして開設し、公園内の施設共々活用されている。2015年より毎年秋にユナイテッドパークを会場とした「ユナパまつり」も行われ、サポーターや地域住民の交流の場となっている。
Jリーグ発足当初は浦安市千鳥の古河電気工業所有地に練習場(ジェフユナイテッド市原舞浜グラウンド[26])があったが、2000年に練習場が当時のホームスタジアムに近い市原市の姉崎公園サッカー場へ移転。舞浜ではジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース舞浜)及び舞浜スクールが活動を続けていたが、2005年3月に舞浜スクールが閉鎖され、替わって2005年からは習志野市茜浜のレナウンインテリジェントジャンクション内の天然芝グラウンド(アメリカンフットボールチーム・レナウンローバーズの元練習場で、現在はXリーグ所属のオービックシーガルズが使用)にて習志野スクールが活動している[27]。
レディースの練習場については、「ジェフユナイテッド市原・千葉レディース#練習場・クラブハウス」を参照。
ユニフォーム
[編集]
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チームカラー
[編集]ユニフォームスポンサー
[編集]掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
胸 | 富士電機 | Fe 富士電機 | 2007年 - | |
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鎖骨 | 古河電気工業 | 古河電工 | 2018年 - | 1998年1月 - 10月、1999年、2002年、2005年は袖 1998年 - 2001年、2003年 - 2004年は背中上部 2001年 - 2002年4月は胸 1998年1月 - 10月、1999年は「古河」表記 |
JR東日本 | JR東日本 | 2018年 - | 1995年、2003年 - 2004年は袖 1998年 - 2000年は胸 1995年は「[vjuː] びゅう」表記 1998年 - 2002年、2005年は「JR東日本」表記 2009年4月 - 2018年は「Suica」表記 | |
背中上部 | JRE MALL | 2001年 - 2002年 2005年 2009年4月 - | ||
背中下部 | 新昭和 | 新昭和 | 2016年 - | |
袖 | 三井化学 | TPX | 2023年 - [28] | |
パンツ前面 | 千葉ステーションビル | PeRIe | 2009年 - | 2009年 - 2016年は「PeRIe JR東日本グループ」表記 |
パンツ背面 | なし | - | - |
- 鎖骨スポンサーは古河電工が左側、JR東日本が右側。
背番号の書体
[編集]Jリーグ加盟以来継続して「JEF UNITED」のロゴと同一デザインのオリジナルフォントを採用していたが、リーグ統一フォント導入により2021年から変更となった。
星
[編集]左胸のエンブレム上の星2つ(★)は2005年および2006年のヤマザキナビスコカップの優勝を表している。
ユニフォームサプライヤーの遍歴
[編集]- 1992年:アシックス
- 1993年 - 1996年:リーグ戦はミズノ、カップ戦はアシックス
- 1997年 - 2006年:ミズノ
- 2007年 - 2021年[29]:カッパ
- 2022年[30] - 現在:ヒュンメル
歴代ユニフォーム
[編集]FP 1st | ||||
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FP 2nd | ||||
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