ハービー・ブラッシュ

ハービー・ブラッシュ
Herbie Blash
Herbie Blash - Canada 2008 Cropped.jpg
ブラッシュ(2008年)
生誕 (1948-09-30) 1948年9月30日(76歳)
イギリスの旗 イギリス
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業
  • 自動車実業家(レースチーム経営、コンサルタント)
著名な実績
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ハービー・ブラッシュ(Herbie Blash、1948年9月30日[1][2] - )は、イギリス出身の自動車実業家。フォーミュラ1(F1)の運営組織やF1チームのブラバムで首脳を務めていたことで知られるほか、ヤマハ発動機(ヤマハ)のスポーティングディレクターやコンサルタントとして30年以上に渡って同社のモータースポーツ事業に関与している[3]

「ハービー」は通称で、本名はマイケル・ブラッシュ(Michael Blash)だが、その名では知られていない(詳細は別記)。

経歴

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8歳の頃、小学校の授業でシェルの古いモータースポーツドキュメンタリーを観る機会があり、タツィオ・ヌヴォラーリらの走りに接したことでレースのことが気に入った[3][4]。また、テレビでスクランブルレース(後の言葉では「モトクロス」)を好んで観ていた[3]

12歳の頃には農場の敷地内でトラクターや、フォード・ポピュラー英語版(1950年代にイギリス・フォードが販売していた大衆車)、トライトン英語版のオートバイといった乗り物を乗り回すようになり、機械関係に関心を持つようになった[3]

初期の経歴

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キャリアの初期に、ブラッシュは以下の3チームを渡り歩いた。

  • ロブ・ウォーカー
16歳の時(1964年頃)にロブ・ウォーカーにガレージの下働きとして雇われた[3]。その仕事は乗用車の手入れを任せるというものだったが、そのガレージではRRCウォーカー・レーシングのレーシングカーの作業も行われており、ほどなく、ブラッシュはその作業に雑用係として携わるようになり、これがレースキャリアの始まりとなる[3]
1968年に、他のメカニックの不注意から、ロブ・ウォーカーのファクトリーを全焼させる火事が起きた[3]。当時のロブ・ウォーカーはロータス・49を走らせてフォーミュラ1(F1)に参戦していたことから、火災後にチーム・ロータスから部品を調達し直すためのやり取りが増え、運搬車の運転を任されていたブラッシュはロータスのメンバーたちと知り合い、同年末にはロータスでフルタイムで雇われることになった[3]
  • ロータス
1969年、ブラッシュはロータスに雇われて早々、F1のチーム・ロータスに配属され、ヨッヘン・リントのナンバー2メカニックを任された(ナンバー1はエディ・デニス)[3]同年のスペインGPで負傷したリントが欠場した際、次のモナコGPでは、グラハム・ヒルの担当も臨時で任された[3]
ブラッシュがリントのマネージャーだったバーニー・エクレストンと知り合ったのはこの時期で[2]1970年のイタリアGPでリントが死去した際、他のチームメンバーは帰国していく中、チャップマンの意向でブラッシュはイタリアに残され、エクレストンと共に遺品の整理を行い、リントの自家用車をスイスの自宅まで運んだ[3][4]。エクレストンとは年齢も立場も大きな隔たりがあったが(エクレストンのほうが18歳年長)、この一件はエクレストンとの関係を縮める転機ともなった[4]
1971年にはロータスのチームマネージャーを務めた[1]
  • フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ
1971年もしくは1972年、フランク・ウィリアムズフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズに移籍する同僚に誘われ、ブラッシュもウィリアムズのチームに移籍することにした[3]
しかし、ほどなくエクレストンからブラバムに誘われ、当時のブラッシュが夢見ていたF2チーム運営を任されるチャンスがあったことから、ウィリアムズからは短期で離脱した[3]。最初にブラバムに所属した時は前オーナーのロン・トーラナックがおり、ブラッシュはうまく折り合えなかったことから、ウィリアムズのチームに一度戻ったが、トーラナックはブラバムを去ったため、ブラッシュは再びブラバムに移った[3]

ブラバム

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1971年末にエクレストンがブラバムを買収した際、メンバーにすべく最初に声をかけた相手はブラッシュだった[1]。ブラバム参画以降、ブラッシュは、自身の信頼のおける友人たちに声を掛けていき、チャーリー・ホワイティングをはじめとする後にエクレストンの下でFOCAFOMの要職に就く人物たちの多くを集めた[1]

チームマネージャー

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1973年、エクレストンがオーナーとなったブラバムにチームマネージャーとして(再)加入した[5][3]。ブラッシュは、1987年末まで同職を務めることになる[3]

エクレストンはふだんは自身のビジネスがあるため、チームの作業場には週末の金曜日くらいにしか顔を出さず、ブラッシュはチーム運営の実務全般を任された[5]。トーラナックが去った後のブラバムでは、ラルフ・ベラミー、次いでゴードン・マレーによって新たな技術基盤が確立していった。

1978年チャーリー・ホワイティングをメカニックとして雇い、以前から友人だったから声を掛けたものだが[1]、これがホワイティングとの協働の始まりとなる[3]

同年には、以前からブラッシュが目を付けていたネルソン・ピケ翌1979年シーズンからの契約を結ぶことが決まり(経緯は別記)、エクレストン、ブラッシュ、ホワイティング、マレー、ピケがそろったブラバムは、1980年代前半にタイトルを複数獲得する黄金期を迎えた。

しかし、この頃になると、エクレストンの関心はFOCA会長としてF1の商業面を取り仕切る仕事のほうに完全に移ってしまい、ブラバムへの関心は薄れていき、チームは1987年でF1参戦を終了し[3]、ブラッシュもチームを去った。

チーム代表

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1988年、エクレストンはブラバムをウォルター・ブルンに売却し、ブルンはすぐにチームをスイスの投資家ヨアヒム・ルーティに売却した[3]

この年のブラッシュはエクレストンからFOCAのテレビ部門を任されていたが、各国から中継するための放送衛星の予約手続きであるとか、全くの素人であることからあまりにも畑違いの仕事に閉口しており、折良くルーティからブラバムの立て直しを要請されたことでその仕事を引き受けることを即決した[3]

1989年にブラバムはF1に復帰し、ブラッシュはスポーティングディレクター(チーム代表)としてチームを率いたが、チームを維持することそのものに大きな困難を抱えることになり、その年の内にルーティはチームをミドルブリッジ・グループに売却した[3]。この売却交渉はブラッシュとエクレストンで行った[6]

ヤマハ

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ヤマハ・OX99エンジン(1991年)。先代のV8のOX88燃料噴射に問題があり、ブラッシュはボッシュなどの主流の装置を使っていれば良いエンジンになっていたかもしれないと述べており[3]、このOX99エンジンでは採用されている。

ヤマハ発動機(ヤマハ)は1989年にF1でエンジンサプライヤーとして活動を始めたが、同年の戦績は惨憺たるものとなり、供給先のザクスピードはF1から撤退してしまい、ヤマハはエンジンの供給先を失っていた[7]

1990年、ブラバムのオーナーはミドルブリッジに変わったが、ブラッシュは引き続きチーム代表を任されていた。同年末、ヤマハがエンジンの供給先を探していることを知ったブラッシュは、チームが資金繰りに困難を抱えていた時期だったこともあって無償エンジンを手に入れられるその話に飛びつき、ヤマハとの交渉を始めた[7]。この時点でヤマハはF1エンジンを基本コンセプトから見直そうとしており、エンジン形式も決まっておらず、そこで「V型12気筒エンジン」の開発を提案したのは自分だとブラッシュは述べている[7][3]

1990年の暮れ、オフィスを物色していた私はヤマハのロゴを付けた1通の手紙を見つけました。それは彼らからのエンジン供給を受けることに関心を持つチームがいないかを尋ねる内容の物だったのですが、数週間、オフィスに放置されていたのです[注釈 1]。当時のヤマハと一緒にやろうという人はいませんでしたからね。しかし、我々(ブラバム)は生き残りがかかっていましたから、私はすぐに日本に電話してヤマハの担当者に接触したのです。検討に数日かかるとのことでしたが、明日にでも会いたいということで話を通しました。もうクリスマスも迫っていましたから、私は飛行機に飛び乗って東京へと向かい、彼と一緒に電車で(磐田の本社や[7])ファクトリーに行きました。(レース部門の)状況はひどいもので、入り口には古いオートバイが数台放置され、オフィスはタバコの煙で充満していました。そこで座って話をし、どんなエンジンか欲しいか質問されたので、私はV12エンジンが最適だと考えていると答えました。すると、彼らは上の階へと私を連れて行き、V12エンジンの設計検討のために描かれた図面を見せてくれました。それが始まりとなりました。30年経った今でもヤマハと働いています。[3] — ブラッシュの回想(2021年)

ブラッシュが提案したV12エンジンは重すぎたため不発となり、ブラバムとヤマハの関係は1年限りで終了した[3]。しかし、ブラッシュにとってはこれが縁となり、1992年途中にブラバムが解散した後[7]、ヤマハにスポーティングディレクターとして移籍し、ジョーダン・グランプリティレルへのエンジン供給にあたって関係構築を担う役割を果たした[3]

ミドルブリッジはブラバムのファクトリーをミルトン・キーンズに移すことにしたため、ヤマハは空き家となったイギリス・チェシントン英語版に所在する旧ブラバムのファクトリーを買い取り[注釈 2]、そこに研究開発のための子会社としてアクティバ・テクノロジー社を設立し、ブラッシュはその経営を任された[3]。ブラッシュはエンジンビルダーとして知られるジョン・ジャッド(ブラバム出身)とヤマハを引き合わせ[8]、1993年からはヤマハとジャッドが共同開発したV型10気筒エンジンがF1において5シーズンに渡って供給されるようになった。

1990年代半ばのこの時期、ブラッシュは、ヤマハのスポーティングディレクター、アクティバの経営者、FIAの副レースディレクターという3つの仕事を兼業した[3]

朝、ヤマハのシャツを着てグランプリ会場に着き、日中にどうするのかいくつかの話し合いを行い、その後、FIAのシャツに着替えてレースコントロールルームでレースディレクターのロジャー・レーン=ノット英語版に会い、日中のほとんどを彼と過ごし、またヤマハのシャツに戻る。[3] — 1996年の1日の動きについてのブラッシュの回想(2021年)[注釈 3]

ヤマハが1997年限りでF1から撤退した後も、ブラッシュは同社の2輪のレース活動で関与を続けている。

FIA

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1996年原子力潜水艦の艦長という異色の前歴を持つロジャー・レーン=ノット英語版がF1のレースディレクターに就任し、(F1の熱心なファンではあったものの[4])レース運営は未経験の人物ということで、ブラッシュはエクレストンから彼の補佐を頼まれた[3][4]。前述したように、この時点でヤマハとアクティバの仕事をしていたブラッシュは引き受けることを渋ったが、エクレストンから兼業して構わないと説得され、F1の副レースディレクター(FIA Race Director advisor[4])に就任した[3][注釈 4]

レーン=ノットが1年で退任した後、当時のFIA会長でエクレストンの盟友であるマックス・モズレーの推薦でチャーリー・ホワイティングが後任に任命された[3]。ブラッシュはレースディレクターとしては新任のホワイティングの補佐をするよう再び依頼され、引き続き副レースディレクターを務めることになった[3][4]。この仕事は1年のみという話だったが、ブラッシュは定着し、ブラッシュはホワイティングと相互補完の関係でレース運営の仕事をするようになり[1]、結果として2016年までの長期間に渡って同職を務めた[3][4]

これほどの長期に渡って続けることになったのは、「楽しかったからだ」とブラッシュは述懐している[4]

2016年限りでF1の仕事から退任した後は、レースディレクターとしての仕事は、以前から任されていたポルシェ・スーパーカップ英語版のほか[1]、2輪のスーパーバイク世界選手権でも務めるようになった[9]

2019年春、ホワイティングが急死したことを受け、F1のレースディレクターの職責はマイケル・マシ英語版に引き継がれた。マシは特に問題なくその任をこなしていたが、2021年シーズンの最終戦アブダビGPでマシが下した判断が大きな論議を呼び、その騒動によってマシは退任することになり、レースディレクターは複数名が担当する体制に変わることになった[10]。それに伴って復帰を要請されたブラッシュは、2022年からF1でシニアアドバイザーを務めている(スーパーバイク世界選手権などの仕事と兼務)[10][9]。これはレースディレクターに助言などのサポートを与える役割となる[10]

人物

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「ハービー」

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ブラッシュの本名は「マイケル」であり、「ハービー」の由来となるような名前ではない[3]

「ハービー」というあだ名は、ロブ・ウォーカー・レーシング(RRCウォーカー・レーシング)で見習いメカニックをしていた頃にチームのチーフメカニックだったトニー・クレバリー(Tony Cleverly)が、ブラッシュのことをなぜかそう呼んだことから始まった[1][3]

1968年にチーム・ロータスに移籍した際にそのあだ名を返上する機会があったが、ある日、同僚とパブに行った際にダーツが始まり、ブラッシュの名はスコアボードに「ハーバート(Herbert)」と記入された[3]。ブラッシュは抗議したが、それが裏目となり、ブラッシュのあだ名はロータスでも「ハービー」で定着し、以降、ブラッシュはレース関係者から「ハービー」と呼ばれるようになった[3]

ブラッシュはその後も不服だったのだが、後年、バーニー・エクレストンから「HER 8」と書かれたナンバープレートをプレゼントされたことで受け入れる気になったという[1]

家族など、レース関係者以外からは「マイケル」と呼ばれている[3]

エピソード

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ロータス関連

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  • ブラッシュは、ロブ・ウォーカーの下で働き始めるまで、現地で自動車レースを観たことはなかった[3]。最初に自動車レースを観たのは1964年か1965年で、ウォーカーの仕事で行ったグッドウッド・サーキットでのことだった[3][4]。そこでロータスのF1のロータス・25から市販車のロータス・コルティナまで、あらゆる種類の車を駆って同日のあらゆるクラスのレースで勝利したジム・クラークの走りに魅せられ、その印象はその後も揺るがず、自分が見た中でクラークが史上最高のドライバーだと2021年のインタビューで回想している[3]。この時の体験から、いつかロータスで働いてみたいとも考えるようになった[4]
  • ロータスを去った経緯について、リントの死後にロータスの全員にストライキを起こさせようとしたであるとか、それでコーリン・チャップマンと喧嘩別れすることになったであるとか、インターネット上の略歴でしばしば記載されているが、ブラッシュはそれらの記述を根も葉もない話だと否定している[3]。ロータス時代にチャップマンとは衝突したこと自体ほとんどなく、仕事上のミスでチャップマンを怒らせたことが何度かある程度だと語っている[3]

ブラバム関連

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  • ブラバムを買収した当初から、エクレストンはブラッシュに日常のチーム運営は全て任せており、チェシントンの作業場を訪れるのは週に1回だけだった[3]。その際、エクレストンが発見した不手際について、誰かがトイレの電気を消し忘れていたであるとかいったことまで、全ての責任をブラッシュは負ってエクレストンの怒号を浴びた[3]
  • 1974年、ブラジリア・サーキット(現在のネルソン・ピケ・サーキット)でF1の非選手権レースが開催された際、無名のネルソン・ピケは各チームに下働きでいいから働かせてくれと言って回り、その願いを唯一快諾したのがブラッシュとゴードン・マレーで、会期中のブラバムガレージの夜間警備を任せた[11][5]。ピケはそのことを後々まで忘れず、いつかブラバムで走りたいと心に決め、ブラッシュらブラバムの首脳もピケが1977年にヨーロッパF3に進出したことでその走りに早くから注目するようになった[11]。ピケが1978年イギリスグランプリ英語版ブランズ・ハッチ)のF3サポートレースに出走し、スタート直後の多重クラッシュに巻き込まれて車を壊した時は、ブラバムチームが一丸となって手助けし、リスタートにスペアカーを間に合わせた[11]。その2週間後にエンサインからF1にデビューしたピケはトラブルでリタイアしたが、その走りはエクレストンの目にも留まり、翌1979年シーズンのブラバムで走らせることがすぐに決まった[11](1978年最終戦カナダGPでもスポット起用)。
  • エクレストン時代(1980年頃)に考案されたブラバムのロゴマークに描かれた架空の生物「ヒッシング・シド(Hissing Sid)」は、ブラッシュ、エクレストン、マレーによって、チェシントンのファクトリー脇にあるパブで考案された[12][5]。「エンブレムには何か好きな動物を入れよう」ということで、トラの頭(顎)、コブラの毒牙、相手を絞め殺すニシキヘビの胴、、猛毒を持つサソリの毒針、というそれぞれの動物の必殺の武器で構成されており、ライバルチームを必殺の武器で仕留めるという意気込みが込められている[12]
  • ブラバムでチーム代表を務めた際のオーナー[注釈 5]について、「あれほどの変人には、今まで一度も出会ったためしがない」と述べ、ヤマハがチームの買収を提案し、かなりの額を提示した際も首を縦に振らず、結果的にチームを解散の憂き目にあわせたと述べている[7]

レースディレクター関連

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  • メカニック時代、コーリン・チャップマンによって昼夜を問わず働かされていたが、レースディレクターの業務をするようになってから、そうした働き方は良くないということで、ホワイティングとともに各チームがサーキットで夜間に作業をすることを禁止する規定を設けた[4](2011年から施行[13])。この規定はよく機能したものの、レースディレクターについては範囲に入れなかったため、朝はチームのスタッフが作業開始時間までサーキット外で待機している中、自分たちが最初にサーキット入りして仕事を始め、夜はピットガレージに誰もいなくなったサーキットで仕事を続けて最後に出ていくことになり(メカニック時代と変わらず長時間働くことになり)、この点は失敗だったと述べている[4]

その他

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栄転

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脚注

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注釈

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  1. ^ ヤマハは可能性のあるチーム全てに同じ内容の手紙を送っていたらしく[7]、この手紙は宛先が「スポーティングディレクター」(チーム代表のブラッシュ)ではなく、「チームマネージャー」(別の人物)になっていたため、無視されていたとブラッシュは述べている[7]
  2. ^ ブラッシュはこの順序で説明しているが[3]、ミドルブリッジのオーナーだった中内康児は、チェシントンのファクトリーはリース契約で借りていたもので、それをヤマハが(リース元から)買い取ったためブラバムは退去する必要が生じたと述べており[6]、説明している経緯には食い違いがある。
  3. ^ 別のインタビューで、日中も、午前のサーキットチェックと練習走行でFIAの仕事が小休止したら、またヤマハのシャツに着替えて午前のセッションの様子を確認しに行っていた(そして午後はまたFIAの仕事に戻る)とも言っている[4]
  4. ^ 参加者の一員であるブラッシュが運営側の副レースディレクター職も兼ねることについて、他チームでも文句を言う人間は一人もいなかった[4]。スターターになることも要請されたが、(ブラックアウトのタイミングを教えるなどの不正ができてしまう)その役目は断り、ホワイティングが引き受けた[4]
  5. ^ 「ドライバーを伴って日本まで挨拶に行った」[7]と言っていることから中内康児のことだと推測できるが、ブラッシュは名指しはしていない。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i F1 Racing 2007年12月号、「F1ハイパーレスキュー:チャーリー&ハービー」(ピーター・ウインザー) pp.84–88
  2. ^ a b GP Car Story Vol.37 Brabham BT55、「狂い始めた運命の歯車」(ハービー・ブラッシュ インタビュー) pp.82–86
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av Simon Arron (2021年4月). “Herbie Blash — The Motor Sport Interview” (英語). Motor Sport Magazine. p. 37-43. 2024年8月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Tom Clarkson(聞き手) (2023年8月3日). “FULL TRANSCRIPT: Read every word from FIA-stalwart Herbie Blash's Beyond The Grid interview” (英語). Formula One official website. Formula One World Championship Limited. 2024年8月4日閲覧。
  5. ^ a b c d Racing On No.451 ブラバム、「黄金期のトロイカ体制」(小倉茂徳) pp.77–81
  6. ^ a b Racing On No.451 ブラバム、「中内康児の独白──ブラバム撤退の真相」(中内康児インタビュー) p.99
  7. ^ a b c d e f g h i Racing On Archives Vol.04、「ハービー・ブラッシュ」 p.125
  8. ^ GP Car Story Vol.14 Tyrrell 022、「たどり着いた”軽さ”という解答。」(木村隆昭インタビュー) pp.58–63
  9. ^ a b F1速報 2022年アメリカGP&メキシコGP合併号、「尾張正博のアポなしで恐縮です。 - 第5回 ハービー・ブラッシュ」 p.43
  10. ^ a b c Adam Cooper (2022年2月20日). “【考察】マイケル・マシはなぜF1レースディレクターを解任されたのか。新システムで何が変わる?”. Motorsport.com. 2024年8月6日閲覧。
  11. ^ a b c d Racing On No.451 ブラバム、「真実のネルソン・ピケ」(Mile Doodson) pp.70–76
  12. ^ a b Racing On No.451 ブラバム、「知る人ぞ知る“あの”マスコット」(小倉茂徳) pp.36–37
  13. ^ 来季F1ではメカニックの徹夜作業は禁止に”. Auto Sport web. 三栄書房 (2010年12月14日). 2024年8月6日閲覧。

参考資料

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雑誌 / ムック
  • 『Racing On』(NCID AA12806221
    • 『No.451』三栄書房、2011年3月17日。ASIN 477961175XISBN 978-4-7796-1175-9ASB:RON20110201 
  • 『Racing On Archives』
  • 『F1速報』(NCID BB22714872
  • 『F1 Racing』
  • 『GP Car Story』シリーズ

外部リンク

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