三上英雄
三上英雄 みかみ ひでお | |
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生年月日 | 1893年3月29日 |
出生地 | 日本 広島県恵蘇郡口北村 (現・広島県庄原市) |
没年月日 | 1983年8月17日(90歳没) |
出身校 | 日本大学法律科卒業 |
前職 | 弁護士 |
配偶者 | 三上英子 |
選挙区 | 東京府第5選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1932年 - 1936年1月21日 |
杉並区議会議長 | |
東京市会議員 | |
在任期間 | 1937年 - 1943年 |
在任期間 | 1936年 - 1940年 1967年4月 - 1975年3月 |
杉並町会議長 | |
その他の職歴 | |
杉並町会議員 (1929年 - ?) | |
東京府会議員 (1928年 - ?) |
三上 英雄(みかみ ひでお、1893年(明治26年)3月29日 - 1983年(昭和58年)8月17日[1])は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]広島県恵蘇郡口北村字宮内(現庄原市)で、三上瀧蔵、シカ夫妻の長男として生まれたが、母は産後に死去した[2]。口北尋常小学校、口北高等小学校を経て、1906年、格致学院に入学[2]。1909年、親類を頼って大阪市に移り関西商工学校に入学し、風呂屋を経営して学費を稼ごうとするも失敗[2]。1910年に上京して日本大学に入学し、1913年、同大法律科を卒業[2][3]。1914年11月、会計検査院嘱官となる[2]。
1917年、弁護士試験に合格[4]。1918年1月、弁護士登録を行い東京弁護士会に加入[4]。普選運動に加わる[4]。1919年、三上法律事務所を開設[4]。1924年、東京弁護士会副会長に就任[4]。
1928年、東京府会議員に当選[3][4]。1929年、東京府豊多摩郡杉並町会議員に当選し議長に就任[4]。1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に東京府第5区から立憲政友会公認で出馬し当選、衆議院議員を一期務めた[3][4]。1936年、杉並区会議員(1940年まで在任)、1937年、東京市会議員(1943年まで在任)にそれぞれ当選[5][6]。
1938年10月、中国に渡り漢口陸軍特務部嘱託に就任[5]。以後、武漢治安維持指導員、武漢市政府顧問を務めた[5]。1939年11月、上海で弁護士事務所を開設し、国策会社の顧問、上海市政府中央市場法律顧問、上海総力報国会執行委員、上海青年団理事、上海居留民会議員、同参事会員、上海居留民団学務委員などを歴任した[7]。
1945年春、上海から引揚げ、戦後、故郷で衆議院議員選挙出馬の準備を行っていたが公職追放となり、1951年に追放が解除された[8]。1952年10月の第25回総選挙で東京都第4区から出馬したが落選した[8]。1967年4月、杉並区議会議員に当選し、1975年3月まで在任、同議長も務めた[3][9]。
その他、東京地方裁判所司法委員、東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、(社福) 助葬会理事長、日本大学本部顧問、同校友会顧問、駿台学園理事などを務めた[3][10]。
著作
[編集]- 『陪審法述義』巌松堂書店、1921年。
- 『政党更生か転落か?』国運打開研究会、1933年。
- 述『南洋我觀』三上英雄、1935年。
- 演述『鹵簿誤導問題につき大臣の責任を問ふ:衆議院に於ける質疑応答を中心にして』大文社、1935年。
- 編著
- 『大震大火後の借地借家問題調停裁判実例:附・借地借家関係法律条文』法政研究会、1923年。
- 『判り易い普選法の大審院判決解説』東明書院、1929年。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 三上英子・三上恒央編『三上英雄』三上英子、1984年。