九条政忠
時代 | 室町時代 - 戦国時代初期 |
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生誕 | 永享12年(1440年) |
死没 | 長享2年8月23日(1488年9月28日) |
改名 | 成家(初名)→政忠 |
別名 | 号:普門寺 |
官位 | 正二位、関白、内大臣 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇 |
氏族 | 九条家 |
父母 | 父:九条加々丸 養父:九条満家 |
子 | 政超、忠厳、桓昭、忠承 |
九条 政忠(くじょう まさただ)は、室町時代から戦国時代初期にかけての公卿。関白・九条満家の子。官位は正二位・内大臣、関白。九条家13代当主。普門寺と号す。
経歴
[編集]室町幕府8代将軍・足利義政(義成)から偏諱を受け成家(しげいえ)と名乗る。のちに義成が「義政」に改名すると、重ねて「政」の字を与えられて政忠と名乗った。
宝徳3年(1451年)、12歳で従三位に叙せられる。康正2年(1456年)正二位に昇叙される。25歳で内大臣となるが、叔父・政基[注釈 1][2][3]との間に家督争いが生じ、隠居を余儀なくされる(公卿補任)。その後宮廷に復帰して、長享元年(1487年)関白に就任、長享2年(1488年)に藤氏長者となるが、同年8月23日に49歳で薨去した。
系譜
[編集]- 父:九条加々丸 - 九条満家の子
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 生母不明の子女
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ かつて政忠は九条満家の子であり、政基の異母兄と推測されていたこともあった[1]。しかし実際には政忠は満家の孫である(満家の子であり、政基にとっては兄である加々丸の子)。そのため、血縁の上では政基が叔父、政忠が甥という関係になる(政基のほうが年少)。しかし政忠は相続にあたって祖父・満家の養子となっているため、政忠と政基を兄弟と見ても間違いとは言えない。
出典
[編集]- ^ 湯川敏治「戦国期における公家裁判の一例 唐橋在数殺害事件顚末を中心に」(『史泉』第69号)
- ^ 小森正明「室町期における九条家領荘園について―尾張国二宮荘を中心として―」(『書陵部紀要』第60号)
- ^ 廣田浩治「中世後期の九条家家僕と九条家領荘園 九条政基・尚経期を中心に」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第104集』)内の系図
参考文献
[編集]- 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年
- 小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年