近衛信尋
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長4年5月2日(1599年6月24日) |
死没 | 慶安2年10月11日(1649年11月15日)[1] |
改名 | 四宮(幼名)→近衛信尋→応山(法名) |
戒名 | 本源自性院応山大云 |
墓所 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町53大徳寺 |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 | 後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇 |
氏族 | 皇別近衛家 |
父母 | 父:後陽成天皇、母:中和門院 養父:近衛信尹 |
兄弟 | 承快法親王、聖興女王、覚深入道親王、龍登院宮、清子内親王・鷹司信尚室、文高女王、後水尾天皇、尊英女王、近衛信尋、 尊性法親王 、尭然法親王、高松宮好仁親王、良純法親王 、一条昭良、貞子内親王、尊覚法親王、永崇女王、高雲院宮、冷雲院宮、道晃法親王、尊清女王、空花院宮、尊蓮女王、道周法親王、慈胤法親王 |
妻 | 近衛信尹の娘 |
子 | 尚嗣、寛俊、長君、尋子、高慶尼、三時知恩寺尼 |
近衛 信尋(このえ のぶひろ、旧字体:近󠄁衞 信尋󠄁)は、江戸時代前期の公卿。後陽成天皇の第四皇子。官位は従一位・関白、左大臣。近衛信尹の養子となり、近衛家19代目当主となる。これにより近衞家は皇別摂家となった。
生涯
[編集]慶長4年(1599年)5月2日生。幼称は四宮(しのみや)。母は太閤豊臣秀吉の養女中和門院(近衛前久の娘)。母方の伯父の近衞信尹の養子となり、信尹の娘(母は家女房)を娶る。しかし妻は青侍と密通する等仲は悪く、死去寸前の徳川家康に仲立ち依頼等を行うも、結局は別居となる。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ公卿に列する。慶長12年(1607年)に権中納言、慶長16年(1611年)に権大納言、慶長17年(1612年)には内大臣となる。
慶長19年(1614年)右大臣に進み、元和6年(1620年)には左大臣、元和9年(1623年)には関白に補せられる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八条宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。自筆日記として『本源自性院記』を残している。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山(おうざん)と号する。慶安2年(1649年)10月11日薨去、享年51。近衞家の菩提寺・京都大徳寺に葬られた。法名は本源自性院応山大云。
人物・逸話
[編集]- 近衞前久や信尹の文化人としての資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した。書道は養父の信尹の三藐院流(別称:近衞流)を継承し、卓越した能書家だった。
- 茶道は古田重然に学び、連歌も巧みだった。実兄にあたる後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王・良恕法親王・一条昭良らと共に中心的人物として担った。また、禅僧の沢庵宗彭や一糸文守、後に養父と共に寛永の三筆として名を連ねる松花堂昭乗などの文人らと交流があり、宮廷への橋渡しも行っていた。
- 六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓の吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。吉野太夫が灰屋紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。
系譜
[編集]- 正室:近衞信尹娘
- 側室:家女房
系図
[編集]107 後陽成天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
108 後水尾天皇 | 近衛信尋 | 高松宮(有栖川宮)好仁親王 | 一条昭良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
109 明正天皇 | 110 後光明天皇 | 111 後西天皇 | 112 霊元天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有栖川宮幸仁親王 | 113 東山天皇 | 福子内親王 | 有栖川宮職仁親王 | 吉子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正仁親王 | 114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近衞家系図
[編集]近衞家