アメリカ合衆国
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- アメリカ合衆国
- United States of America
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(国旗) (国章) - 国の標語:E pluribus unum(1776年8月 - 現在[1])
(ラテン語:多数から一つへ)
In God We Trust(1956年7月 - 現在)
(英語:我らは神を信ずる)
Annuit cœptis
(ラテン語:神は我らの企てに与し給えり)
Novus ordo seclorum
(ラテン語:時代の新秩序) - 国歌:The Star-Spangled Banner
星条旗 -
公用語 英語[注釈 1] 首都 コロンビア特別区
(ワシントンD.C.)最大の都市 ニューヨーク - 政府
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大統領 ジョー・バイデン 副大統領・上院議長 カマラ・ハリス 下院議長 マイク・ジョンソン 最高裁判所長官 ジョン・ロバーツ - 面積
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総計 9,834,000km2(3位)[2] 水面積率 4.9% - 人口
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総計(2024年) 345,426,571人(3位)[3] 人口密度 37.76[3]人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2024年) 29兆1677億7900万ドルアメリカ合衆国ドル[4] - GDP(MER)
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合計(2024年) 29兆1680億ドル(2位)[4] 1人あたり 86,601[4]ドル - GDP(PPP)
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合計(2024年) 29兆1680億ドル(2位)[4] 1人あたり 86,601[4]ドル - 独立(イギリスより)
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独立宣言 1776年7月4日 国家承認(パリ条約) 1783年9月3日 南北戦争終結 1865年4月9日
通貨 アメリカ合衆国ドル(USD) 時間帯 UTC-5 から -11 (DST:-4 から -9) ISO 3166-1 US / USA ccTLD .us 国際電話番号 1
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、英語: United States of America、英語略称: USA、United States、US、America)は、北アメリカ大陸の中央部および北西部に位置し、大西洋および太平洋に面する連邦共和国(合衆国)。通称は米国(べいこく)またはアメリカ。首都はコロンビア特別区(ワシントンD.C.)。
概要
[編集]コロンビア特別区および50州から構成される[5][6]。うち大陸本土の48州は北のカナダと南のメキシコとの間の北アメリカ大陸中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ大陸北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡を挟んでロシアと国境を接している。ハワイ州は太平洋中部に位置する島嶼群である。アメリカは太平洋およびカリブ海に5つの有人の海外領土を有する。
約1万5000年前、パレオ・インディアンはユーラシア大陸から現在の北アメリカ大陸本土に移住し、ヨーロッパ諸国による植民地化は16世紀に始まった。アメリカ合衆国の建国は、大西洋沿岸に沿って位置する13植民地に端を発する。イギリスと同植民地との間の紛争によってアメリカ合衆国は独立した。1776年7月4日、アメリカ独立戦争におけるイギリスとの交戦時に同植民地の代表はアメリカ独立宣言を全会一致で発布した。(この日はアメリカで「Fourth of July」と呼ばれている。)1783年9月に同戦争はイギリスからのアメリカの独立の承認により終結し、ヨーロッパの植民地帝国を相手に成功した世界初の独立戦争となった[7][8]。
1787年9月17日、現在のアメリカ合衆国憲法が起草された。集合的に権利章典と名付けられた最初の10の修正案は1791年に批准され、多数の基本的な市民の権利および自由を保証することを目的として策定された。マニフェスト・デスティニーの教義に駆られ、19世紀を通してアメリカ合衆国は先住民の強制退去、新たな領土取得、次第に承認した新たな州[9]により北アメリカの西部へ拡大した。アメリカ合衆国史上唯一の内戦である南北戦争は、アメリカ合衆国における合法的な奴隷制を終焉に至らせた[10]。19世紀末までに、アメリカ合衆国は太平洋まで拡大し[11]、米国経済は成長し始めた[12]。
米西戦争に勝利したアメリカ合衆国は、第一次世界大戦中にイギリスやフランス、日本とともに連合国として参加。本土が戦火に巻き込まれなかったアメリカ合衆国は経済的繁栄を謳歌した。戦後には共産主義国家を広げないためにロシア革命に内政干渉を行い、他の列強と共にシベリア出兵を開始したが、1920年代後半には大恐慌で大打撃をこうむった。
第二次世界大戦には1941年12月に日本軍の真珠湾攻撃により連合国側で参戦し、緒戦では本土空襲など痛手を受けたが、優れた技術力および圧倒的な物量によって連合国を勝利に導いた。戦勝国の中心として世界への影響力を強め、ソビエト連邦と世界を二分する超大国となった。西側諸国の事実上のリーダーとしてソ連を事実上のリーダーとする東側諸国と対立し、冷戦に突入したが、1989年に東欧革命によって社会主義諸国は次々と崩壊、1991年にソビエト連邦が崩壊したことでアメリカが世界唯一の超大国と見做されるようになった。この状態を超大国を上回る極超大国と称されることがあった。
第二次世界大戦の戦勝国である事から、国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、国連から核兵器の保有を合法的に認められている他、NATOの加盟国でもある。アメリカ軍(米軍)は陸軍・海軍・空軍・宇宙軍・海兵隊・沿岸警備隊で構成されており、北米(アメリカ北方軍)・アジア(アメリカインド太平洋軍)・欧州(アメリカ欧州軍)・アフリカ(アメリカアフリカ軍)・中東(アメリカ中央軍)・南米(アメリカ南方軍)など世界中の国家(170か国ほど)に多数の駐留軍事拠点(米軍基地)を設置し、同盟国などの国家安全保障を担っている[13]。
2000年代に入り、経済面でヨーロッパ諸国の衰退と日本がバブル崩壊によって先進国が長期低迷しているという反面、自国の金融とIT企業が急成長し世界に影響力を高めた。
アメリカ合衆国は、2018年の世界の軍事支出の36%を占める世界最大の軍事大国である[14]。世界で初めて核兵器を開発した国であり、日本への原子爆弾投下によって戦争において核兵器を使用したことがある唯一の国である。
2020年代まで、アメリカ合衆国が事実上唯一の世界の超大国として君臨していた[15]。
2023年現在、アメリカ合衆国は国際社会に最も多大な影響を及ぼす政治的・経済的・軍事的大国であり、世界で最も民族的に多様かつ多文化な国のひとつである他[16]、科学研究および技術革新における世界のリーダー的存在であるともされている[17]。アメリカ合衆国のピュー研究所の調査によると、2020年代には、中華人民共和国が経済面ではアメリカ合衆国に匹敵し始めたが、軍事力ではアメリカ合衆国が圧倒的に上回っており[18][19]、経済・軍事的に台頭する中華人民共和国やロシアなどとの間で新冷戦と呼ばれる状況に突入している。
アメリカ合衆国は先進国であり、世界最大規模の国民経済を有する経済大国である[20]。世界貿易機関、G7、G20、経済協力開発機構、北大西洋条約機構(NATO)、米州機構、米州相互援助条約などの加盟国でもある。米国経済は、豊富な天然資源および労働者の高度な生産性によって支えられている[21]。アメリカ合衆国は脱工業化社会であるとされている一方で、世界最大の製造国のひとつであり続けている[22]。
国号
[編集]1507年、ドイツ人地図製作者のマルティン・ヴァルトゼーミュラーは、イタリア人探検家および地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって西半球の陸地をアメリカ州と名付けた世界地図を作成した[23]。
United States of America(ユナイテッド・ステイツ・オヴ・アメリカ)という言葉の最初の文書証拠は、大陸軍ジョージ・ワシントンの副官および検閲官の大将であるスティーブン・モイランにより書かれた1776年1月2日付の手紙である。手紙はジョセフ・リード中佐宛で、革命戦争において「アメリカ合衆国の大量で十分な力」でスペインを支援する嘆願をモイランは記した[24]。
「United States of America」という言葉が最初に公開出版された証拠は、1776年4月6日にバージニア州・ウィリアムズバーグのザ・バージニア・ガゼット紙面に匿名で書かれたエッセイである[25][26]。1776年6月、トーマス・ジェファーソンは独立宣言の「原草稿」の見出しにすべて大文字で書かれた「UNITED STATES OF AMERICA」という言葉を加えた[27][28]。独立宣言の7月4日の最終版において、表題の該当する部分は「アメリカ合衆国13州一致の宣言」に変更された[29]。1777年に連合規約が発布され、「連合の名称を『United States of America』と定める」と規定した[30]。
短縮形は「United States」が標準的であり、単に「United States」と表すだけで「アメリカ合衆国」とする場合が多い。ほかの一般的な形式は、「U.S.」「USA」および「America」である。ほかに口語での名称として「U.S. of A.」があり、国際的には「States」がある。18世紀後半の詩歌において人気な名称である「コロンビア」は、クリストファー・コロンブスが起源であり、コロンビア特別区の名に見られる[31]。
英語以外の言語において、アメリカの名称は「United States」または「United States of America」のいずれかの、口語では「America」の翻訳であることが多い。加えて、USAのような略称はときどき用いられる[注釈 2]。東アジアでも、「America」を「亞米利加」「亞美利加」「米利堅」「美利堅」などと音訳し、「United States」を「合衆国」と翻訳することで、日本語では「アメリカ合衆国」「米国」、中国語、朝鮮語、ベトナム語では「美利堅合衆國」「美國」と漢字表記する。この漢字表記は歴史上一定していたわけではなく、「亜墨利加」「亜国」などの表記が用いられたことがあった[34]。一方、英語名称の翻訳を由来としない名称としては、ベトナム語でのアメリカの名称である「Hoa Kỳ」(花旗)があり、これは中国南部でのアメリカ合衆国の国旗の古称「花旗」およびアメリカの古称「花旗国」に由来する。
「United States」という言葉は、1865年批准のアメリカ合衆国憲法修正第13条にみられる、「the United States are」のように、本来は独立州の集合体を表現した複数形として扱われていた。南北戦争終結後には、「the United States is」のように単数形として扱うことが一般的になった。要は複数の州が集結して一つの国家になったものといえよう。現在は単数形が標準的であり、複数形は「these United States」のような慣用句にその形を留める[35]。その違いは州の集合体および単一体の間の違いを反映しており、慣用以上の重要なものとされている[36]。
アメリカ合衆国国民の標準的な言及方法は、「Americans」である。「United States」「American」および「U.S.」は、「American values」および「U.S. forces」のように形容詞的に国を言及するのに用いられる。Americanは、アメリカ合衆国と関連のないものへの言及には英語ではほとんど用いられない[37]。
日本語における名称
[編集]日本語においては、単に「アメリカ」、もしくは「アメリカ(亜米利加)合衆国」の通称として「米国」(べいこく)・「米」(べい)と呼ばれる場合が多い。公用文では「米国」が使用されており、「アメリカ」呼称は口語もしくはテレビのニュースなどで用いられることが多い(NHKなど)。 尚、戦時下においては国民やマスメディア、大本営発表内での呼称として、「鬼畜米国」(きちくべいこく)、「敵米国」(てきべいこく)や、イギリスと合わせて「鬼畜米英」(きちくべいえい)等と呼称されていた。
ただし、上述するように「アメリカ」はアメリカ大陸全体を指すので、正しくはない。在日米国大使館・領事館などはそのウェブサイトにおいて自国の事を一貫して「米国」と記述している。
歴史
[編集]新大陸の到達
[編集]イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国への到達を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張をもとに新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名し、その名が定着していった。
これを契機に、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への侵略が開始した。イタリアのジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検し、イギリスがニューイングランド植民地の領有を宣言し、フランスもジャック・カルティエがセントローレンス川を探検したあと、その一帯をヌーベルフランス植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓が開始した。
のちに、アメリカ人は「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」をスローガンに奥地への開拓を進め、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手にすることができるという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形成した。その成功が誇張も含めて旧大陸に伝来し、さらに各地からの移民を誘発することになった。それと同時に、先住民であるネイティブ・アメリカンと協調・交易する一方で、虐殺や追放をして彼らの土地を強奪していった。
グレートブリテン王国(イギリス)からの独立
[編集]北米大陸にヨーロッパ諸国が植民地支配を展開する中、イギリスと13植民地との間に経済・租税措置を巡って対立が生じた。1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、1776年7月4日に独立宣言を発表し、イギリスの優位性を崩すためにフランスと同盟を締結した。
13植民地の独立とアメリカ合衆国の建国
[編集]この7月4日は現在も「独立記念日」として、クリスマス、感謝祭と並び、米国の代表的な祝日とされる。13植民地が勝利すると1783年にパリ条約が締結され、「アメリカ合衆国」として正式に独立(建国)し、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。
1787年9月17日には、連合規約に代わる中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定された。1789年3月4日に発効され、同年に初代大統領として大陸軍司令官であったジョージ・ワシントンが就任した。
アメリカは、「自由」と「民主主義」を標榜したことから、近代の共和制国家としても、当時としては稀有な民主主義国家であった。しかし、女性やアフリカ大陸から強制的に連行させられた黒人奴隷、アメリカ先住民の権利はほとんど保障されなかった。その結果、奴隷制度と人種差別が独立後のアメリカに長く残ることとなった。
西部開拓と南北戦争
[編集]1791年、ウィスキー税反乱が発生したものの、連邦政府の勝利に終わった。北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を獲得した。未開の地であった西部の勢力拡大を企図して、1803年のフランス領ルイジアナ買収を実施したが、イギリスが西部開拓を阻んだため、1812年に米英戦争が勃発するも1814年にガン条約を締結して事態は収拾し、西部へ進出した。
入植時からの先住民との戦争を継続しながらも、1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移住法によりインディアンを強制的に西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年のオレゴン条約、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達した。現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアを確立したのである。
それと同時期に遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも進出を開始した。1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣した。2つの不平等条約を締結した上で開国させた。以後、アジア外交にも力を入れるようになった。
1861年、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言を発した南部の連合国と北部の合衆国の間で南北戦争が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて1862年に当時の大統領エイブラハム・リンカーンによって奴隷解放宣言が発表され、1865年に南北戦争はアメリカ合衆国の勝利で終結し、アメリカ連合国は解体された。しかし、法の上でのアフリカ系アメリカ人や先住民など、その他の少数民族に対する人種差別はその後も継続することになる。
南北戦争後、鉄道網の発達と共に本格的な西部開拓時代に突入した。19世紀後半には、鉄鋼業や石油業が繁栄したことによってアメリカ経済が大きく躍進することになった。
海外進出
[編集]南北戦争後も諸外国との戦争などを通して、海外領土の拡大が続けられた。1867年にはアラスカをロシア帝国から購入し、1898年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利してグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定した。これにより、現在の北米・太平洋圏でのアメリカ領土が確立した。また1899年から1946年にかけて、スペインに代わってフィリピンを支配した。
1900年には義和団の乱平定に八カ国連合軍として清に派兵した。1904年の日露戦争にアメリカ合衆国は干渉し、日本とロシア帝国の両国はアメリカ合衆国連邦政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結させた。
1910年代から外国人土地法を徐々に施行し、有色人種に対する圧力を強化した。1919年、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという 人種的差別撤廃提案に当時のアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは反対した。
米比戦争を勃発しアメリカ合衆国が勝利した後には、数十万人のフィリピン人を虐殺した上で独立運動を鎮圧したが、1934年には議会がフィリピン独立法(タイディングス=マクダフィ法)を制定、10年後の独立を認めた。しかし、フィリピン独立準備政府(フィリピン・コモンウェルス)は日本軍の侵攻により1942年にアメリカに亡命した。
第一次世界大戦
[編集]1914年7月28日にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では、当初は中立を守る一方で、1915年にハイチ、1916年にドミニカ共和国に出兵して占領を開始した。
アメリカ合衆国は軍政を展開したことで西半球における権益確保政策を進めた。ルシタニア号事件などの影響もあり、次第に連合国に傾き、1917年には連合国側として参戦した。1918年には共産主義の拡大を防ぐ目的でシベリア出兵を実施した。
1918年11月11日に終結した第一次世界大戦後は、1919年のパリ講和会議で当時の大統領ウッドロウ・ウィルソンの主導によって国際連盟設立と人種差別撤廃案阻止[38]に大きな役目を担う。モンロー主義を提唱してヨーロッパへの不干渉およびラテンアメリカに対する権益の維持をしようとするアメリカ合衆国上院の反対により国際連盟への加盟は実現しなかったが、他の戦勝国とともに5大国の一員として注目された。1920年代にはアメリカン・アニメーションの黄金時代とも呼ばれ、アニメーション産業が活発化した。
国内では首都ワシントンをはじめとする多くの都市で「赤い夏」などの人種暴動により数万人が死傷した[39]。1924年には排日移民法を施行して人種差別政策を強めた。1927年に出兵していたニカラグアでサンディーノ将軍の率いるゲリラが海兵隊を攻撃したため、1933年にアメリカ軍はニカラグアから撤退し、従来の政策から善隣外交(Good Neighbor policy)に外交政策を移行した。
戦間期
[編集]続く1920年代のバブル経済に基づく空前の繁栄「轟く20年代」が起こるが、1929年10月29日ウォール街・ニューヨーク証券取引所で発生した株の大暴落「暗黒の木曜日」が契機となり、1939年まで続く世界恐慌が始まった。この世界恐慌によって、労働者や失業者による暴動が頻発するなど多大な社会的不安を招いた。
当時の大統領フランクリン・ルーズベルトが実施したニューディール政策により経済と雇用の回復を目指したものの、1930年代末期まで経済も雇用も世界恐慌以前の水準には回復せず、第二次世界大戦の戦時経済によって世界恐慌以前の水準を上回る、著しい経済の拡大と雇用の回復が実現された。一方で、経済不況を受けてドイツ、イタリア、日本などでナチズム、ファシズム、軍国主義が1930年代前半から台頭し始め、のちの第二次世界大戦の起因となった。
第二次世界大戦
[編集]1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した当初は中立政策は維持していたものの、1941年にはレンドリース法の施行により、イギリス・ソビエト連邦・自由フランス・中華民国に大規模な軍需物資の支援を実施し、日本のアジア進出に対してABCD包囲網を形成した。1941年12月7日(日本時間:12月8日)に日本軍による真珠湾攻撃があり、これを契機にイギリスやソ連が中心となっていた連合国の一員として参戦した。
開戦後まもなく、日系アメリカ人や南米諸国の日系人のみを強制収容所に連行した(日系人の強制収容)。日系人男性はアメリカ兵として忠誠を示すために戦闘に参加した。日本海軍機によるアメリカ本土空襲などの、数回にわたる西海岸への攻撃はあったものの、本土への被害はほとんどなく、事実上の連合諸国への軍事物資の供給工場として機能し、あわせてドイツ、イタリア、日本の三国同盟を軸とする枢軸国に対する戦闘でも大きな役割を果たした。1943年夏頃からはヨーロッパ戦線や南太平洋戦線においてイギリス軍や中華民国軍、オーストラリア軍らとともに本格的な反攻作戦を開始。1944年にはパリの解放を行ったものの、フランス国内における米兵の犯罪が多発した。
また、敵国であったドイツや日本だけでなく、または同盟国であった中国に対する戦略爆撃・無差別爆撃を実施した。1944年、中国本土爆撃(漢口空襲)では市街地の50%以上が焼失した。アメリカ軍が行った日本本土空襲の中でも、1945年3月10日の東京大空襲では推定約14万人、ドイツに関してもドレスデン爆撃で最大20万人を死傷させた。
1945年5月8日にはドイツが連合国に対して無条件降伏した。1945年8月には、イタリアやドイツなど枢軸国からの亡命科学者の協力を得て原子爆弾を完成した。同年、アメリカ合衆国は世界で初めて一般市民を標的に日本の広島(8月6日)と長崎(8月9日)に投下し、人類史上初の核兵器を使用し、推定で合計約29万人が死傷した。8月15日に日本がポツダム宣言を受諾し降伏し、同年9月2日の日本全権による連合国への降伏文書調印をもって第二次世界大戦は終戦した。
第二次世界大戦以前は非戦争時にはGDPに対する軍事費の比率は1%未満から1%台で、GDPに対する軍事費の比率が低い国だったが、第二次世界大戦で史上最大の軍拡(後述)を実施したことで、各種関連企業が潤うことで著しく軍事偏重状態になり、ボーイングやグラマン、フォードやグッドイヤーなどによる軍産複合体が政治に影響力を行使する恐れがあると批判されるようになった。
アメリカ合衆国は、大戦における主な戦場から本土が地理的に離れていたことから本土にほとんど戦災被害を受けなかった。戦勝国として日本の委任統治領であったマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などの太平洋の島々を新たに信託統治領として獲得するとともに、敗戦後の日本やドイツを統治した。1946年からマーシャル諸島でクロスロード作戦などの大規模な原水爆実験を繰り返して核大国としての地位を固める。核拡散防止条約(NPT)はアメリカを核兵器国と定義し、原子力平和利用の権利(第4条)と核不拡散(第1条)・核軍縮交渉(第6条)義務を定めている[40]。
以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由と民主主義」の理念を目的・大義名分として冷戦期およびそれ以後の外交をリードする事になる。
戦後とソ連との冷戦
[編集]第二次大戦後は、連合国としてともに戦ったソ連との冷たい戦争(冷戦)が始まった。一時は上院議員ジョセフ・マッカーシーらに主導された赤狩り旋風(マッカーシズム)が発生するなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。
冷戦においては、ソ連を盟主とした東側諸国の共産主義・社会主義陣営に対抗する西側諸国の資本主義・自由主義陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、韓国、中華民国(台湾)などに経済支援や軍事同盟締結などで支援した。共産主義国家を除く世界の大半の国に影響力を広めることになった。
アメリカ合衆国は北大西洋条約機構(NATO)によって、ソビエト連邦はワルシャワ条約機構によって他国に多数の自国の軍事基地を設立させていった。核兵器を保有していないドイツやイタリア、オランダなどの国内にもアメリカ軍基地の他に核兵器を設置した(核シェアリング)。しかし、発射の決定権は全てアメリカ連邦政府が保持していたため安全保障面で疑問視された。
戦勝国であり核兵器までも保有しているイギリスにも1万人を超えるアメリカ兵と在英アメリカ軍が、また上記以外にもトルコやノルウェー、スペインやサウジアラビアにもアメリカ軍が駐留し、西側諸国の上空を守っていた。アジアでも朝鮮戦争停戦後、韓国には在韓米軍やフィリピン、タイに駐留した。日本にも日米安保条約に基づき在日米軍が数万人駐留している。
同時に南アメリカもアメリカ合衆国の政策の影響力により、アメリカ合衆国寄りとして政策を続けられたため、「合衆国の裏庭」と批判されるほどであった[注釈 3]が、キューバ革命以降はキューバと敵対している。
冷戦期には朝鮮戦争、ベトナム戦争など世界各地の紛争に介入している。グレナダ侵攻の際は宣戦布告を行わないまま開始した。ベトナム戦争ではトンキン湾事件で事実を一部捏造し本格的介入に踏み込んだ。核兵器の製造競争などもあり、ジョン・F・ケネディ政権下の時代にソ連との間でキューバ危機が起こるなど、核戦争の危機もたびたび発生し、1963年にはケネディ大統領暗殺事件が発生した。
冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求もひとつの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態を発生させ、ベトナムへの介入は西側・東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。「反共産主義」であるという理由だけでアジアやラテンアメリカ諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対しても、パナマの米州学校で「死の部隊」の訓練を行った。こうして育てられた各国の軍人は母国でクーデターや内戦を起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困をもたらす結果となった。
同時に、大戦の後遺症に苦しむ同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差を生み出し、のちに東欧革命の原動力の起因となった。
人種差別と公民権運動
[編集]「民主主義国家」を標榜するアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が法律で承認され、一部の州では結婚も禁止する人種差別国家でもあった。1967年まで16州で白人が非白人と結婚することを禁じていたが、アメリカ最高裁判所が異人種間結婚を否定する法律を憲法違反と判断した[41]。1960年代にはこのような状態に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行った結果、1964年7月に当時の大統領リンドン・ジョンソンの下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。
差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在に至るまでヨーロッパ系移民およびその子孫が人口の大半を占め、社会的少数者の先住民やユダヤ系移民、非白人系移民とその子孫(アフリカ系、ヒスパニック、アジア系など)などの少数民族に対する人種差別問題は解消していない(アメリカ合衆国の人種差別)。それは就職の際の格差などから、警察官が人種の相違を理由に不公平な扱いをしたといった問題としてロス暴動のような大きな事件の原因となることすらある。アフリカ人への奴隷貿易や先住民虐殺の国家的行為に基づく歴史的事実については、連邦政府としてはいまだに謝罪していない。1965年、中米紛争の一環として、再びドミニカ共和国の占領、1983年、ロナルド・レーガン政権は、宣戦布告なしでグレナダ侵攻と1986年にはリビアへの無差別爆撃を開始した。
冷戦終結と貿易赤字と単独主義
[編集]1989年の冷戦終結と1991年のソビエト連邦の崩壊によって、結果的に事実上アメリカ合衆国側(自由主義陣営)の勝利となり、以後唯一の超大国として「世界の警察(globocop)」と呼ばれ[42][43][44][45][46][47][48]、冷戦後の世界はパクス・アメリカーナとも呼ばれるようになった。
冷戦時代から引き続いて、日本、韓国、サウジアラビア、ドイツ、イギリス、イタリア、オーストラリア、エジプト、ベルギー、スペインやトルコ、ルーマニアやデンマーク、ノルウェーなど国外の戦略的に重要な地域に米軍基地を現在も駐留・維持し続け、1989年にはジョージ・H・W・ブッシュ政権の元、パナマ侵攻を決行し、1990年には湾岸戦争と各国の紛争や戦争に介入した。パナマ侵攻は国連での手続きもないアメリカ単独の武力侵攻のため、国連総会は軍事介入を強く遺憾とする決議を採択した[49]。
石油ショック以降の原油の値上がりによって基幹産業のひとつである自動車産業などが大きな影響を受け、1970年代以降は日本や西ドイツなどの先進工業国との貿易赤字に悩ませられることとなる。しかしこのころよりハイテク・半導体技術と産業、とりわけ集積回路(IC)がムーアの法則に従って急速に発達し始め、のちのAI革命に繋がった。
1970年代に入ると日本との貿易摩擦が表面化し、日本との経済的な対立を引き起こした。労働者や議員がハンマーで日本製品を壊すという現象も発生した。バブル崩壊以降は日本との大きな経済対立はしていないものの、近年は、中華人民共和国に対する貿易赤字が膨張しているほか[50]、インドなどへの技能職の流出が問題となっている。
経済がグローバル化し冷戦時代に軍事用として開発されたインターネット・ITが民間に開放され、流行した。1993年からの民主党のビル・クリントン政権下では、ITバブルと呼ばれるほどの空前の好景気を謳歌した。
テロとの戦い
[編集]21世紀に入って間もなく、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を境に「テロとの戦い」を宣言して世界の情勢は劇的に変化し、各国間の関係にも大きな変化が起こるきっかけとなった。ただし、このテロ事件を起こしたアルカーイダの母体となる組織に、ソ連のアフガニスタン紛争時に資金提供していたのは米国であった[51]。
同年、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュは、テロを引き起こしたアルカーイダをかくまったタリバーン政権を攻撃するため、10月にアフガニスタン侵攻を開始した。約3か月で目的を達成し、傀儡政権を樹立したが、タリバーンを全滅することはできず、危害を加えたことで市民からも支持されず[52]、統治に約20年と2.26兆ドルを費やした後[53]、最終的に米軍は撤退し、タリバーンは急速に勢力を回復して再び政権を奪還。米国最長の戦争は「敗北」とも言われる幕引きとなった[54]。
後述のイラク戦争も含めた中東作戦では、戦死者以上の自殺数を出した兵士の心的外傷後ストレス障害(PTSD)が社会問題になった[55][56]。
2002年にはイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸と呼び、2003年3月には、イラクを大量破壊兵器保有を理由に中華人民共和国・ロシア・ドイツなどの反対を押し切ってイラク戦争に踏み切ったが、大量破壊兵器は見つからず「石油を狙った侵略行為」と批判する声があがった。後に、ブッシュ大統領はイラクの大量破壊兵器保有の情報が誤りであったことを認めた。イラク戦争勝利後、アメリカ合衆国はイラク共和国への軍事占領を開始した。
2005年には、テロ対策を目的に連邦情報機関および連邦政府が大統領令に基づき、具体的な法令的根拠・令状なしに国内での盗聴・検閲などの監視が可能となり、アメリカ合衆国で事業展開する通信機器メーカーはすべての製品にこれを実現する機能を具備することが義務付けられている(詳しくはCALEA)。
ノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国のデズモンド・ムピロ・ツツ元南アフリカ聖公会大主教は、イラク戦争開戦の責任を問い、ジョージ・W・ブッシュ元大統領とトニー・ブレア元英国首相をアフリカとアジアの指導者たちと同様に裁くため国際刑事裁判所に提訴するよう呼び掛けている[57]。
2008年米大統領選で、イラク駐留米軍の早期撤退を公約とするバラク・オバマが当選。2009年1月に就任すると、翌月には2010年8月末までにイラクからほとんどの米軍部隊を撤退させ、同国での戦闘任務を終了させることを発表した[58]。度々の延期がありながらも、2011年末の完全撤退が決まり、2011年12月14日にオバマ大統領はイラク戦争終結を宣言した[59]。同年には アメリカ海軍特殊戦開発グループがウサーマ・ビン・ラーディンを殺害した。
ISILが台頭したことで2014年に再派遣した。イラク議会選挙では反干渉を掲げる政党が勝利している[60]。また、同年には生来の決意作戦を決行した。
オバマは「核なき世界」を訴え、ノーベル平和賞を受賞したが、その後も中東への派兵は続き素質に値するのかという議論も巻き起こった。オバマは「変革」と「国際協調」を訴え、人種差別のさらなる解決や国民皆保険の整備、グリーン・ニューディールなどの政策を通じた金融危機、環境問題、国際情勢の改善に積極的に取り組むことを表明した。オバマ大統領が「アメリカは世界の警察をやめる」と宣言してからは[61][62]、中華人民共和国とロシア、イランとのなどの対立が起きている。
また、人権擁護団体「南部貧困法律センター」によると、2009年にバラク・オバマという初のアフリカ系黒人大統領が誕生して以降、ヨーロッパ系白人の非白人種に対する反発が強くなり、人種偏見に基づくとみられる事件が増加および過激化しており[63][64][65]、南部では共和党員の約半数が異人種間結婚(白人と非白人の結婚)は違法にするべきと世論調査会社「パブリック・ポリシー」の調査に回答している[66]。
一極支配の弱まりと中露との対立
[編集]2017年、「アメリカ第一主義(アメリカ・ファースト)」を掲げた実業家出身で軍歴が無い異色の人物であるドナルド・トランプが2016年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利したため大統領に就任した。しかし、トランプの登場はアメリカ合衆国の社会を分断させ、TPPやパリ協定、イラン核合意などの国際協定から次々に離脱。同盟国の日本やヨーロッパ諸国からの批判が相次いだ。その後もメキシコからの非正規移民対策として国境に壁を築き始めるなど、孤立主義を深めていく。また政権下では国務長官をはじめ政府高官が次々に交代するなど、政治的にも混乱した。また、ドナルド・トランプ政権はシャイラト空軍基地への攻撃を実行した。
2020年1月にはアメリカ軍主導によってバグダード国際空港そばを走行中のガーセム・ソレイマーニーら10人をMQ-9 リーパーの攻撃で殺害した。イランも報復を宣言し在イラク米軍基地攻撃を実行[67]した。この際、世界では「第三次世界大戦」がトレンド入りするほどの緊張[68]があった。
2020年1月後半から新型コロナウイルス感染症の世界的流行が発生。アメリカはパンデミック中心地の一つとなり、スペイン風邪を上回る多数の死者を出した[69]ほかロックダウンなどで経済的にも大きな打撃を受ける。また、感染元と見られる中華人民共和国への反中感情が悪化し、アジア系など有色人種へのヘイトクライム・ヘイトスピーチが発生した[70]。白人警察による黒人差別問題によってブラック・ライヴズ・マター運動を始めとする人種間、イデオロギー間での分断が深まっていった[71]。
この年の大統領選挙では民主党のジョー・バイデンが勝利したが、トランプは敗北宣言を認めず、選挙で不正が行われたと主張した。この対立が引き金となって、2021年にはトランプ支持者による合衆国議会議事堂が襲撃される事件が発生した。バイデンはウイグル自治区をめぐる疑惑や台湾問題などの人権問題、そして経済分野において中華人民共和国との対立を深めていた。同年、バイデン政権は民主主義サミットを主催した。
2022年にロシアがウクライナに全面的な軍事侵攻を行った際に、大統領のジョー・バイデンはロシアと関連が疑われるベラルーシに経済制裁を行った。各国のウクライナへの軍事的及び経済的な支援を主導し、国際的な影響力を発揮した[73]。その後も、バイデン政権はG7、Quad、自由で開かれたインド太平洋戦略など経済・軍事的に覇権主義的傾向を推し進めつつある中露を念頭に置いた戦略的外交を推し進めつつある。
2022年アメリカ合衆国選挙の上院議員選挙では民主党が多数派を維持したが、下院議員選挙では共和党が過半数の議席を奪取した[74]。
2024年にはアメリカ合衆国大統領選挙で再びドナルド・トランプの台頭によって国内は、再びかつての南北戦争のように事実上2カ国の分断状態になった[75][76]。
政治
[編集]政治体制は50州とコロンビア特別区で構成される連邦共和制国家である。連邦政府は、立法、行政、司法の三権分立制をとるが、その分立の程度が徹底しているのが大きな特徴である。
元首であり、かつ行政の長であるアメリカ合衆国大統領は、間接選挙で大統領選挙人を介し、選出される。任期は4年となっており、3選は禁止。行政府は、大統領と各省長官が率いる。
立法府は上院と下院から構成される両院制(二院制)の議会である。上院は、各州から2議席ずつの計100議席、任期は6年で2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、各州の人口を考慮した定数の合計435議席(その他に投票権のない海外領土の代表など5人)からなり、任期は2年。一般的に、上院は上流層の意見を反映し、下院は中流層、下流層の意見を反映しているとされている。大統領は上下両院のバランスをとる役割を期待されている。
議席は歴史背景から共和党と民主党による二大政党制が確立している。基本的に東西両海岸沿いに民主党支持者が多く、中部に共和党支持者が多いという地域的特色があるとされる調査結果が出ている(赤い州・青い州)。ほかにも少数政党はいくつか存在するが二大政党を覆す程には至らず、時折選挙戦で注目を浴びる程度である。
法制度
[編集]イギリスから独立した経緯から、アメリカ法にはイギリスの法思想の影響がみられる。
憲法
[編集]アメリカ合衆国はイギリスの不文憲法の伝統から離れて、成文憲法であるアメリカ合衆国憲法を成立させた。1787年9月17日に作成され、1788年に発効し、現在も機能している世界最古の成文憲法であり、後の憲法史に大きな影響を与えた。
アメリカ合衆国憲法は合衆国に連邦の構造を与え、立法、行政、司法の三権分立とその相互抑制均衡を成文で制度化している。また基本的人権のカタログでもある。憲法 第6条では、アメリカ合衆国は立憲主義をとることを宣明している。
州法
[編集]各州が独自の立法機関、そして州立の裁判所を設置し独自の州憲法と州法を有する。連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、各州法の地位は「国の法律」ともいえるほど高い。
アメリカ合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州をまたぐ通商に関連する事項などに限定されていることから、会社法なども州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。
訴訟社会
[編集]訴訟社会としても知られ、国内に弁護士が100万人もおり[77]、人口比では日本の25倍になる。アメリカ人自身からも「スーイズム」と称される、過度の訴訟による弊害がたびたび指摘され、所謂マクドナルド・コーヒー事件はその代表例として有名になった。これは国民が多文化・多宗教の混合であるため、共通する価値判断基準が法律以外にないからだという意見がある。また、日本では制限されている弁護士の宣伝広告活動が認められていることから、弁護士本人が出演するCMがテレビで放送される事も多い。営業活動に熱心な弁護士を揶揄する「アンビュランス・チェイサー(事故や事件で負傷者が出ると、搬送先の病院で被害者に賠償請求訴訟を起こすよう勧めるため救急車を追いかける弁護士の意)」というスラングがある。
法の下の平等
[編集]独立宣言には「すべての人民は法のもとに平等である」と謳われており(第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカ(ー)ンにより)、すべての国民は国家との法的権利義務において等しく扱われ、人種、信条、性別によって不当な扱いを受けないという原則を示している。この原則はアメリカ合衆国憲法修正第14条に端的に現れている。しかし実際のところ、女性、黒人奴隷および先住民が真の法の下の平等を勝ち取ったのは建国から200年近くも後のことである。アメリカ合衆国で女性参政権が認められたのは1920年であり、アフリカ系アメリカ人と先住民族が法のもとにほかの人種と同等の権利を保証されるようになるまでには20世紀半ばの公民権運動の勃興を待たねばならなかった。
19世紀後半以降にアメリカ合衆国への移民が増加するに従い、アングロ・サクソン系以外の移民を制限するための法律が連邦議会で次々に可決された。1882年に中国人(当時の国名は清)の移民を禁止する中国人排斥法が制定され、1924年には日本で「排日移民法」として知られているジョンソン・リード移民法が制定されて、新たに移民できる外国人の数を合衆国内にすでに居住している同じ人種の人口によって決めることで、実質的にアジアと東欧および南欧からの移民を制限した。連邦レベルで移民の人種的制限が完全に撤廃されたのは1965年のハート・セラー移民帰化法においてである。
第二次世界大戦が勃発すると、米国西海岸に居住する日系アメリカ人は米国の市民権を持つアメリカ人であるにもかかわらず「敵性外国人」として市民権を剥奪され、強制収容所に送られた(詳しくは日系人の強制収容を参照)。同じ理由から、アメリカの影響下にあったラテンアメリカ13か国の日系人もアメリカに強制連行された。この一連の強制収容により多くの日系人が財産や生活の基盤を失い、戦後7年が過ぎた1952年の移民国籍法の施行まで市民権は回復されなかった。
「自由の国」を自称しているとはいえ、上記のように法の上での人種差別が近年まで残っていたうえ、現在も人種差別はあらゆる場面にみられる。常識を超えた程度ではあるが[78]、アメリカ合衆国における有色人種の雇用における差別は、ほとんどのヨーロッパ諸国に比べてまだ少ない[79][80]。アメリカ合衆国の問題は人種差別の度合いというよりも、平和そのものが世界平均を下回っているという事実である[81]。ピューリタニズム・キリスト教右派の考えの影響から性に関する問題には厳しいところもあり、州によっては婚前交渉や同棲が認められておらず、刑罰の対象となる場合もある。妊娠中絶を合法化すべきかどうか、死刑制度を認めるかどうかなどの点で宗教的価値観などの多様性を背景とした国家レベルでの議論が繰り返されている。
国際関係
[編集]アメリカは経済、政治、軍事において膨大な影響力を保持しており、その外交方針は世界的な関心を集める。国際連合本部はニューヨークに置かれ、国連における議決機関安全保障理事会の常任理事国として強い権限を握る。ほかにおもな加盟機関として、北大西洋条約機構、太平洋共同体、米州機構があり、主要国首脳会議構成国でもある。親密な関係を有する国と地域としてはイギリスやオーストラリア、ニュージーランド、イスラエル、日本、韓国、中華民国(中国台湾)、およびNATO加盟国があり、中でもイギリスとは「特別な関係」と呼ばれる強固な絆で結ばれ、軍事上や核兵器の情報、技術共有も行われている。アメリカ合衆国は日本、オーストラリア、インドとQUADを結成している[82]。
米西戦争以前は、モンロー主義に代表されるような孤立主義政策だったが、米西戦争以後は、後発帝国主義国として外国への軍事介入や傀儡政権を樹立して間接支配する外交政策を繰り返した。20世紀初期から第二次世界大戦までの期間に、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、メキシコに軍事介入し、メキシコ以外の前記の諸国に傀儡政権を樹立した。
第二次世界大戦後は戦勝国となったうえに国土にほとんど被害を受けなかったこともあり、大戦後に起きた冷戦において、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営に対抗する、日本やイギリスなどの資本主義陣営の事実上の盟主的存在として、「自由と民主主義の保護」の名のもと、朝鮮戦争やベトナム戦争など世界各地の紛争に介入している。冷戦中は「反共」またはアメリカ合衆国の外交に協力的という理由で、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ベネズエラ、韓国、フィリピン、南ベトナム、中華民国、カンボジア、イラン、イラク、ザイールなどの各国に傀儡政権を樹立または軍政や王政やその他の独裁政権を支援した。アメリカ合衆国が樹立し間接支配していた傀儡政権は、革命や民主化運動により崩壊が続き、1990年のチリの大統領ピノチェトの辞職を最後にすべて崩壊した。
中東においては、1947年のパレスチナ分割決議と1948年のイスラエル建国以後、ユダヤ系アメリカ人やイスラエル系ロビイストの影響力からイスラエルの戦争や武力行使による民間人殺傷や占領を正当化または黙認し、中東のイスラム文化圏の国民から反米感情をもたれるようになった。
1989年の冷戦終結と1991年のソビエト連邦の崩壊後は、唯一の「超大国」となり、強大な軍事力を背景にパナマ侵攻やソマリア内戦、イラク戦争など、各国の紛争や戦争に積極的に派兵し、その当事国となった。1979年のイスラム革命後のイラン、1991年の湾岸戦争後のイラクなどの中東のイスラム系国家を対立視することが多いことから、イスラム系国家の国民から多くの反発を買うことになった。
テロ支援国家
[編集]一般に、テロ支援国家と言えばアメリカ国務省により発表されている「Patterns of Global Terrorism」に記されているイラン、シリア、スーダンを指す。そのほかにはリビアや北朝鮮、キューバがかつてテロ支援国家に指定されていたが、リビアは2006年に、北朝鮮は2008年に、キューバは2015年にそれぞれ指定を解除された。
実はアメリカ自身も積極的にテロリストを支援している国家と言われる。アメリカによるテロ支援は、おもにアメリカ中央情報局(CIA)により秘密裏に実施されていると言われ、実際にCIAによりテロ活動の教育を受けたという報告もある。冷戦時代のアメリカはラオス、アフガニスタン、キューバ、ニカラグアなどでおもに反共闘争を行う軍事組織に対しての直接的または間接的な支援を実施していた。特にニカラグア内戦でのコントラ支援は有名であり、1986年にイラン・コントラ事件のスキャンダルが発覚した。また、皮肉にも1980年代にアフガニスタン紛争にて合衆国のCIAがアフガニスタンに侵攻したソビエト連邦との戦いを支援していたムジャーヒディーンの1人が、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件を実行したテロ組織アルカーイダの司令官、ウサーマ・ビン・ラーディンであった。
冷戦終結後もアメリカの経済的な利益を目的としてフィリピン、パナマ、ハイチ、ベネズエラ、イランなどで、反米政権に対するクーデターの支援などが行われたという説がある。クーデターではないが旧東欧圏の「色の革命」には米国が積極的に関与したと言われる。
日本との関係
[編集]いわゆる「黒船来航」で始まった日米関係は日本が鎖国から脱して開国を行う端緒ともなった。明治維新を経た日本は生糸の輸出を中心に米国との経済関係を深めたが、20世紀に入ると黄禍論の高まりに伴う排日移民法の制定や中国大陸での権益を巡って日米関係は次第に冷え込み、最終的に太平洋戦争(大東亜戦争)で総力戦によって戦火を交えた。日本の敗戦後、アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領統治に置かれ、講和条約発効による国交回復後は米ソ冷戦を背景に日米同盟が締結され、政治・経済・軍事・文化など多方面で主に米国主導の密接な関係を築いている。
日米交流の始まり
[編集]1797年(寛政9年)にオランダ東インド会社とバタヴィアで傭船契約を結んだアメリカの船の多くは、セイラムから日本に向けて出航した。そして、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、日米貿易は1808年(文化6年)まで続いた。ただし、その日米貿易は日本とオランダ商館との関係に配慮した特殊なものであった。アメリカ船が長崎に入港する際は、1795年に滅亡したオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の国旗を掲げてオランダ船を装うよう、すでに雇い主を失っていたオランダ商館から要請された。日本に向けられたアメリカ船は次の通り[83]。
- 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号。
- 1798年、同上。
- 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
- 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
- 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号。
- 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
- 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス。
- 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
- 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
- 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
- 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
- 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
- 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号。
黒船来航と国交樹立
[編集]19世紀に日本で明治維新を引き起こす要因の一つとなった、1854年2月のアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督率いる「黒船」の来航を経て、同年3月に日米和親条約を締結し正式な国交を樹立した。
その後、1859年6月に日米修好通商条約を締結したことにより、両国間の本格的な通商関係も開始された。1871年12月から翌年7月まで特命全権大使・「岩倉使節団」が、アメリカ大陸を「ユニオン・パシフィック鉄道」、「ペンシルバニア鉄道」を使って横断している。そのおもなルートはサンフランシスコ港-サクラメント-ソルトレイク・シティ-シカゴ-ワシントン-フィラデルフィア-ニューヨーク-ボストン港であり、当時の様子が、「米欧回覧実記」に克明に記されている[84](一部イラスト有)。
緊密化と人種差別
[編集]その後20世紀に入り、日露戦争後の1905年9月に行われたポーツマス条約締結時のセオドア・ルーズベルト大統領による仲介などを経て、両国間においての貿易、投資や人事的交流が急増するなどその関係を深める。
第一次世界大戦時には、日本の同盟国のイギリスやフランス、イタリアなどとともに連合国同士としてドイツに対して戦い、戦後は五大国として、世界の先進国として振る回った。また戦後も自動車や映画産業、船舶などアメリカ企業の進出が進んだ。
しかしその後アメリカでは、急速に五大国として世界でその存在感を増す日本に対しての、黄色人種に対する人種差別的感情を元にした警戒感が、マスコミを中心に強まった(黄禍論)。
開戦
[編集]さらに1930年代に行われた日本の中国大陸進出政策に対するフランクリン・ルーズヴェルト政権による反発や、第二次世界大戦勃発後の1940年6月にフランスのヴィシー政権がドイツと休戦したことに伴い、日本軍がフランス領インドシナに進出したことに対して不快感を示し(仏印進駐)、同政権が対日石油禁輸政策を断行するなどその関係は急速に冷え込んだ。アメリカ国務省のスタンリー・クール・ホーンベックは「日中が泥沼の戦いを続けることがアメリカの利益だ」と述べた[85]。
イギリスはマレー半島やインド、香港などを、オランダはジャワを、アメリカもフィリピンを長年武力で植民地化していたが、日本に対して中国大陸に保有する全ての権益放棄と最終的な撤兵を要求するハル・ノートによって両国関係は修復不能になり、日本をイギリスやオランダ、アメリカとの開戦に追い込んだ。日本軍はマレー作戦でのイギリス軍との開戦直後、現地時間1941年12月7日に日本軍により行われたハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃、いわゆる「真珠湾攻撃」以降、日米両国は第二次世界大戦において枢軸国と連合国に別かれ敵対関係になり、戦火を交えることになった。
日米安全保障体制の構築
[編集]1945年8月の日本のポツダム宣言受諾による連合国に対する敗戦に伴い、連合国による占領を行う機関として設立された連合国軍最高司令官総司令部にアメリカ軍が参加し、1951年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約が1952年4月28日に発効して日米の国交が回復するまでの間、日本の占領統治を事実上アメリカ政府は行った。
以降、2国間で日米安全保障条約を締結して(1951年旧条約、1960年新条約)、旧ソビエト連邦や中華人民共和国、北朝鮮などの軍事的脅威に対して共同歩調をとり続けるなど、友好的な関係を築いている。日本にとって、アメリカは安全保障条約を正式に結んでいる唯一の国でもある(アジアには集団安全保障体制が存在せず、中華民国や大韓民国などの中華人民共和国と北朝鮮を除く各国が個別に、アメリカと安全保障条約関係を締結している)。
現在の日米関係
[編集]冷戦が終結した現在も日米関係は国際政治や経済活動において米国の強大な主導化のもとに、両国間の貿易や投資活動はその規模の大きさから両国経済だけでなく世界経済に大きな影響力を持つ。2006年10月に発生した北朝鮮の核実験における対応や、同国による日本人拉致事件でもある程度共同歩調をとっている。2007年7月30日、アメリカ合衆国議会は、日本政府によって慰安婦にされたとする者への謝罪や歴史的責任などを要求するとしたアメリカ合衆国下院121号決議を出している。日本は韓国や中国に対する賠償問題はすべて解決済みとの立場であり、応じていない。
ジャーナリストの手嶋龍一は麻生太郎元首相との対談の中で、ブッシュ政権が日本の常任理事国入りを可能にする案を提示しなかったため、事実上これによって日本の常任理事国入りは潰されたと述べた[86]。一方で国際問題評論家の古森義久は、アメリカは日本一国だけの常任理事国入りを支持していたが日本に加えドイツ、ブラジル、インドも常任理事国入りするG4案は安保理全体の大幅拡大が前提となるため、これに否定的なアメリカが反対したのは明白だったはずで、この小泉内閣の誤算がアメリカの支援を失ったと指摘している[87]。
福田康夫総理大臣はアメリカ政府から、サブプライム住宅ローン危機による資金不足に対応するため、日本がアメリカのために100兆円規模の資金を拠出するように要求されていたが、理不尽な要求として拒否した[88]。
米軍海兵隊のグアム移転経費の日本側負担額について、アメリカは2006年に合意した28億ドルの1.5倍にあたる42億ドルを要求[89]。また、アメリカが負担することで合意していた米軍関連施設の一部の建設費約820億円を日本が負担するよう要求している[90]。移転経費について日本側は、移転する海兵隊が8,000人から4,000人に半減することから難色を示していたが、2012年4月に両政府は条件つきながら28億ドルとすることで合意した[91]。
2012年9月5日、2030年代に原子力発電所全廃を目指す政府方針を説明した藤崎一郎駐米大使に対し、エネルギー省のポネマン副長官は「日本の主権を尊重する」としながらも「くれぐれも外圧と取られないように注意してほしい。この協議は極めて機密性の高いものだ」と発言。翌6日にはアメリカ国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官が藤崎大使に対し、「エネルギー政策をどのように変えるかは、日本の主権的な判断の問題だ」としながらも「プルトニウムの蓄積は、国際安全保障のリスクにつながる」と強い懸念を表明するなど、アメリカ側は原発ゼロ政策の閣議決定回避へ圧力を強めた。19日、政府は原発ゼロ政策の閣議決定を見送った[92]。日本共産党はアメリカの日本の原発政策に対する各種言動を内政干渉と強く批判している[93]。
問題点
[編集]日米安全保障体制のもとで日本が自主外交に消極的であったことや、冷戦時代に起きたベトナム戦争やイラク戦争などにおいて、嘉手納基地や横田基地、横須賀基地などの日本国内のアメリカ軍基地が出撃基地として利用されてきたこと、日本国内のアメリカ軍基地周辺において在日米軍兵士による日本人に対する犯罪が発生しても、日米地位協定により日本側に被疑者の身柄の拘束を最初に行うことが拒否されるケースがあることなどから、日米関係に対する批判も存在する。現在、地位協定の改善に向けて協議が進んでいる[注釈 4]。
日本人のアメリカへの親近感
[編集]日本の内閣府によって実施された、日本人のアメリカへの親近感に関する世論調査(2022年1月)は以下となっている。
- 「親しみを感じる」: 88.5%
- 「親しみを感じる」: 36.6%、「どちらかというと親しみを感じる」: 52.0%の合計
- 「親しみを感じない」: 11.1%
- 「どちらかというと親しみを感じない」: 6.9%、「親しみを感じない」: 4.2%の合計
これは他の周辺諸国に対する親近感との比率に比べて著しく高い。たとえば、他国に対する親近感は以下となっている。
- 中華人民共和国に対して「親しみを感じる」: 20.6%、「親しみを感じない」: 79.0%
- 韓国に対して「親しみを感じる」: 37%、「親しみを感じない」: 62.4%
- ロシアに対して「親しみを感じる」: 13.1%、「親しみを感じない」: 86.4%
- インドに対して「親しみを感じる」: 51.3%、「親しみを感じない」: 48.1%[94]。
国家安全保障
[編集]アメリカ軍は1775年6月14日の設立以来、 245年以上の歴史を誇る軍事組織である。略称は米軍または合衆国軍である。軍の最高司令官はアメリカ合衆国の大統領である。
アメリカ陸軍、アメリカ海軍、アメリカ海兵隊、アメリカ空軍、アメリカ宇宙軍、アメリカ沿岸警備隊の6軍からなり、陸海空軍と宇宙軍および海兵隊はアメリカ合衆国国防総省の、沿岸警備隊はアメリカ合衆国国土安全保障省の管轄下にある。
また、統合軍として地域別、機能別に編成されており、アメリカ合衆国国内以外にも、イギリス(在英アメリカ空軍)、イタリア、ドイツ、オランダ、日本(在日米軍)、大韓民国(在韓米軍)、カタール、キューバ(グァンタナモ米軍基地)、クウェート、サウジアラビア、ジブチ、スペイン、トルコ、バーレーン、ベルギー、エストニア、ポーランド、トルコ、オーストラリア、フィリピン、カナダなどに在外米軍基地を展開させ、国益を重視と安全保障を担っている。
アメリカ軍は世界170か国に駐留し、800[95]を超える専用軍事基地を有している[13]。
また、核兵器をはじめとする大量破壊兵器を保有しており、第二次世界大戦では核兵器が、ベトナム戦争では化学兵器(枯葉剤)が実戦に使用された。ドイツやオランダ国内にはアメリカ軍の核兵器(ニュークリア・シェアリング)があり有事の際はアメリカの指導の元、投下される。アメリカ国外の軍事基地にある核兵器もアメリカ合衆国連邦政府及びアメリカ軍側に主権がある。
アメリカ合衆国の経済において、軍需産業は最大の産業、基幹産業、あるいは主要な産業であるとの検証可能性を示さない伝聞情報が広く流布されているが、アメリカ合衆国政府が公開している経済統計や財政統計を検証すると事実ではない。軍需産業はほかの産業と異なり、軍隊が唯一の消費者であり、社会全体を消費者とする産業と比較すると市場規模は限定される。軍需産業は高度な付加価値の素材や部品や機器やシステムを統合する産業であり、科学技術と素材や部品や機器やシステム産業の基盤がないと成り立たない産業である。軍需産業に対する発注はアメリカ合衆国の経済や社会の状況と国際情勢と軍事政策に影響され、軍が望む予算や武器の購入は連邦議会で審議され、連邦議会が承認して可決し大統領が署名した予算分だけしか発注されない。
アメリカ合衆国のGDPに対する軍事費の比率は、1901年から1917年は1%未満で推移していた。第一次世界大戦に参戦して大規模な軍拡をし、GDPに対する軍事費の比率は、1918年は8.0%、1919年は13.9%に増大し、20世紀以後では3番目に大きな比率になった[96]。
第一次世界大戦終結後は大規模な軍縮が行われ、GDPに対する軍事費の比率は、1920年 - 1921年は2%台、1922年は1%台、1923年 - 1931年は1%未満、1932年 - 1933年は1%台、1934年 - 1935年は1%未満、1936年 - 1940年は1%台で推移し[97]、第二次世界大戦以前は平時にはGDPに対する軍事費の比率が小さい国だった。
第二次世界大戦への参戦を想定しイギリスとソ連に武器を供給した1941年はGDPに対する軍事費の比率は5.6%、第二次世界大戦中に参戦して20世紀以後では史上最大の軍拡が行われ、GDPに対する軍事費の比率は1942年は17.8%、1943年は37.0%、1944年は37.8%、1945年は37.5%に増大し、20世紀以後では最大の比率になり[98]、著しい軍事偏重体制になり、軍産複合体が政治に影響力を行使するおそれがあると批判されるようになった。
第二次世界大戦終結後は大規模な軍縮をしたが、冷戦体制になり、GDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦以前の状態には減少せず、軍事費の比率が大きい状態が継続した。朝鮮戦争に介入して軍拡し、1953年のGDPに対する軍事費の比率は14.2%になり、20世紀以後では2番目に大きくなった。朝鮮戦争停戦後の1954年 - 1960年は軍縮をしたが、冷戦初期の軍拡競争が激しい時代で、GDPに対する軍事費の比率は13.1% - 9.3%で推移し、20世紀以後では4番目に大きな比率になった。ベトナム戦争に介入して軍拡して、GDPに対する軍事費の比率は1961年 - 1968年は9.4% - 7.4%で推移し、20世紀以後では5番目に大きな比率になったが、1960年代は経済成長率が高く経済成長率が軍事費の増加率より大きかったため1950年代よりは比率は減少した。1969年以後はベトナムからの軍の撤退が進み大規模な軍縮をして、ベトナムから全軍撤退した1974年にはGDPに対する軍事費の比率は5.8%に減少し、冷戦の軍事対立緩和により軍縮が進んだ1979年には4.6%に減少した。1980年代は冷戦時代最後の米ソ軍拡競争になり、1986年にはGDPに対する軍事費の比率は6.2%に増大した。
冷戦終結後は大規模な軍縮をして、GDPに対する軍事費の比率は著しく減少した。1998年 - 2000年のGDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦後では最小の3.0%になり、1999年 - 2001年のGDP[99]に対する軍事費のうちの武器購入費(=軍需産業の市場規模)の比率は0.5%であり、軍需産業は最大の産業でも基幹産業でも主要な産業でもなくマイナーな産業である[100]。
2002年以後はアフガニスタンとイラクでの戦争のために軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は2008年には4.3%に増大したが、アフガニスタンとイラクでの戦争終結後は軍縮をすると予想され、GDPに対する軍事費の比率は冷戦終結後の1990年 - 2001年までの比率よりもさらに減少すると予測されている。
第二次世界大戦後から2009年現在にいたるまで、アメリカ合衆国の経済を構成する産業の多様化と、政府の行政サービスの多様化の結果、GDPと連邦政府支出に対する軍事費の比率と、経済に対する軍需産業の比率は、単年度や数年間の増減はあっても、第二次世界大戦時をピークとして長期的には減少傾向が継続し、今後も継続すると予想されている。
ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2007年の世界の総軍事費に対して、アメリカ合衆国の軍事費は45%を占め[101]、世界最大の軍事力大国・軍事費大国・軍需産業大国・武器輸出大国である。
情報機関
[編集]アメリカにおけるインテリジェンス・コミュニティーは、国家情報長官室(ODNI)が統括している。
アメリカ国家安全保障局(NSA)は、主に電子機器を使った諜報活動を行っている。戦後から通信傍受システム「エシュロン」をUKUSA協定内で運用し始めた。また、監視プログラム「PRISM」では、GoogleやAppleといった自国の大手IT企業を経由してインターネット上の情報を広範に収集し監視している[102]。2013年にNSA職員エドワード・スノーデンからの内部告発により明るみになったこのプログラムについて、IT企業の中には『コンピュータプログラムのNSA用バックドアの存在』を間接的に認めるところも現れている[103]。日本、ブラジル、フランス、ドイツなどの首相など35人が電話盗聴の対象になっていたと報じられている[104]。同盟国であっても標的にする盗聴は非難されているが、この諜報活動の根拠となる外国情報監視法第702条は、2023年現在まで延長され続けている[105]。
中央情報局(CIA)は、主に人間を使った諜報活動を行っている。内政干渉に多く関与し、第二次世界大戦後の日本占領期には岸信介や正力松太郎を協力者として使い、戦後社会の形成に影響を及ぼした。1950年代から1960年代にかけては、社会主義・共産主義化しつつあったイラン・グアテマラ・コンゴ・キューバなどに対してクーデター・要人暗殺などを含んだ工作活動を積極的に展開[106]。ベトナム戦争・イラク戦争・アフガニスタン紛争などの戦争において、局員は現地へ潜入して敵性ゲリラ・民兵・テロリストの情報収集を行い、その拠点や隠処の攻撃時間・座標をアメリカ軍へ通知してきた[107]。2001年の9・11テロの後は、コマンド部隊によるテロリストの逮捕・殺害計画を極秘に企画し、「テロリスト関係者若しくはそれらと接触した人物」を拉致し、国内法の及ばない地域(シリアやグァンタナモ米軍基地)の秘密収容所に、取調べを口実に収監・拷問していた事が判明している[108]。また、直接的にテロ組織要人の殺害も担ってきた[109]。
地理
[編集]アメリカ合衆国は本土の48州と、飛び州のアラスカとハワイの2州、連邦直属の首都ワシントンD.C.から構成される。さらに、海外領土としてプエルトリコ、アメリカ領サモア、グアム、ヴァージン諸島などがある。
国土面積はおよそ930 - 960万km2とされ、日本(37.8万km2)の約25倍の規模である。統計によって数値に揺らぎがあるのは、おおむね五大湖水域の処理の仕方に起因するものである。その他の大国と比較すると、ロシア、カナダに次ぐ面積であり、中華人民共和国とは拮抗している。すなわち世界で第3位もしくは第4位の面積を有するということになる。
本土は北アメリカ大陸の中央部と北西にあり、東側は大西洋、南側をメキシコ湾とメキシコ合衆国、西側を太平洋、そして北側をカナダで囲まれる。北側に隣接するカナダとは、北緯49度線、五大湖とセントローレンス川で国境線が引かれ、カナダを挟んで北西にさらに進むと飛び地としてアラスカがある。南側はリオグランデ川を介してメキシコと接する。大陸の東側に南北にアパラチア山脈、大陸の西寄りには南北にロッキー山脈があり、山岳地帯となっている。アパラチア山脈とロッキー山脈の間は大平原になっており、農業や牧畜業が盛んである。大陸の南東端にはフロリダ半島がある。北西部のカナダとの国境地域には五大湖と呼ばれる湖がある。
アパラチア山脈の東側はニューヨーク、ワシントンD.C.、ボストンなどの都市があり人口集中地帯になっている。ロッキー山脈の西側の太平洋沿岸にもロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどの大都市がある。五大湖沿岸にはシカゴやデトロイトなどの大都市があるが、大陸の中西部には大都市が比較的少ない。
気候
[編集]平年値 (月単位) | ハワイ | アラスカ | 太平洋側 | 西部内陸 | 中西部 | |||||||||||||||
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ホノルル | ヒロ | バロー | フェアバンクス | アンカレッジ | ヤクタト | シアトル | サンフランシスコ | フレズノ | ロサンゼルス | ラスベガス | デスバレー[110] | フェニックス | ソルトレイクシティ | デンバー | ファーゴ | ミネアポリス | シカゴ | デモイン | ||
気候区分 | BSk | Af | ET | Dfc | Dfc | Cfc | Cfb | Csb | BSh | Csa | BWh | BWh | BWh | Cfa | BSk | Dfb | Dfa | Dfa | Dfa | |
平均 気温 (°C) | 最暖月 | 27.9 (8月) | 24.8 (8月) | 5.0 (7月) | 17.2 (7月) | 14.9 (7月) | 12.5 (7月) | 18.9 (8月) | 18.2 (9月) | 28.3 (7月) | 21.0 (8月) | 33.2 (7,8月) | 39 (7月) | 34.9 (7月) | 26.1 (7月) | 23.0 (7月) | 21.6 (7月) | 23.2 (7月) | 23.3 (7月) | 24.5 (7月) |
最寒月 | 23.0 (1,2月) | 21.9 (1月) | −25.8 (1月) | −21.9 (1月) | −8.2 (1月) | −2.1 (1月) | 4.9 (12月) | 10.1 (1月) | 8.2 (12月) | 14.0 (12月) | 8.3 (12月) | 10.9 (12月) | 13.1 (12月) | −1.3 (1月) | −0.3 (1月) | −12.6 (1月) | −8.8 (1月) | −4.6 (1月) | −5.3 (1月) | |
降水量 (mm) | 最多月 | 74.3 (12月) | 349.0 (11月) | 26.6 (8月) | 55.2 (7月) | 37.4 (6月) | 531.8 (10月) | 169.2 (11月) | 105.8 (2月) | 55.9 (1月) | 90.6 (2月) | 19.3 (2月) | 9.9 (1月) | 26.9 (3月) | 51.6 (4月) | 59.0 (5月) | 105.2 (6月) | 109.7 (7月) | 123.2 (8月) | 122.3 (6月) |
最少月 | 6.2 (6月) | 184.6 (6月) | 3.2 (2月) | 7.4 (7月) | 12.4 (2月) | 160.4 (6月) | 16.7 (7月) | 0.1 (7月) | 0.1 (8月) | 0.3 (8月) | 2.1 (6月) | 0.8 (5月) | 0.6 (6月) | 17.9 (8月) | 12.4 (1月) | 15.1 (2月) | 17.1 (2月) | 44.3 (1月) | 21.8 (1月) | |
平年値 (月単位) | 中西部 | 南部 | 北東部 | |||||||||||||||||
デトロイト | カンザスシティ | インディアナポリス | オクラホマシティ | ダラス | ヒューストン | ニューオリンズ | オーランド | マイアミ | ナッシュビル | アトランタ | シャーロット | ワシントンDC | ピッツバーグ | バッファロー | ニューヨーク | ボストン | コンコード | カリブー | ||
気候区分 | Dfa | Cfa | Cfa | Cfa | Cfa | Cfa | Cfa | Cfa | Am | Cfa | Cfa | Cfa | Cfa | Cfa | Dfb | Cfa | Cfa | Dfb | Dfb | |
平均 気温 (°C) | 最暖月 | 23.1 (7月) | 25.7 (7月) | 24.2 (7月) | 27.8 (7月) | 29.8 (7月) | 29.1 (7月) | 28.2 (7,8月) | 28.2 (7,8月) | 28.9 (8月) | 26.6 (7月) | 26.8 (7月) | 26.6 (7月) | 26.6 (7月) | 22.8 (7月) | 21.8 (7月) | 25.3 (7月) | 23.1 (7月) | 21.1 (7月) | 18.7 (7月) |
最寒月 | −3.2 (1月) | −1.3 (1月) | −1.7 (1月) | 3.5 (1月) | 8.2 (1月) | 11.8 (1月) | 11.6 (1月) | 16.1 (1月) | 20.1 (1月) | 3.6 (1月) | 6.3 (1月) | 5.6 (1月) | 2.3 (1月) | −1.7 (1月) | −3.5 (1月) | 1.0 (1月) | −1.5 (1月) | −5.8 (1月) | −12.1 (1月) | |
降水量 (mm) | 最多月 | 89.9 (6月) | 50.0 (2月) | 133.4 (6月) | 122.2 (6月) | 115.9 (5月) | 157.2 (6月) | 154.2 (11月) | 192.1 (6月) | 248.3 (6月) | 139.5 (5月) | 136.0 (7月) | 108.6 (8月) | 101.2 (5月) | 110.3 (6月) | 103.6 (11月) | 111.4 (7月) | 113.9 (3月) | 102.8 (10月) | 105.0 (7月) |
最少月 | 27.6 (1月) | 57.0 (2月) | 62.7 (2月) | 34.3 (1月) | 47.7 (8月) | 78.2 (2月) | 93.5 (8月) | 55.0 (2月) | 43.0 (1月) | 77.5 (10月) | 83.7 (10月) | 75.4 (5月) | 63.8 (2月) | 57.9 (10月) | 63.1 (2月) | 67.8 (2月) | 78.8 (2月) | 59.8 (2月) | 54.5 (2月) |
アメリカの気候は広い国土のためにきわめて多様である。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。ほぼ全域が亜寒帯に属し、北極圏には寒帯のツンドラ気候が分布するが、南岸部は暖流の影響で西岸海洋性気候も見られる。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある。本土では、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、冬は寒いが、夏はかなり暑い。東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダとの国境部では暑くなる日も多い。エリー湖やオンタリオ湖南岸はアメリカの平野部でもっとも降雪量が多いが、日本の日本海側と比べるとかなり少ない。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバナ気候が見られる。西部は一般的に乾燥していてステップ気候が広く見られ、メキシコ国境付近では砂漠気候が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。
自然災害には、メキシコ湾岸の集中豪雨、メキシコ湾岸と大西洋岸南部のハリケーン、中央部の平原に多い竜巻、カリフォルニア州の地震、南カリフォルニアの夏の終わりのスモッグと山火事、五大湖や東海岸の大雪などがある。
アメリカ中西部〜南部からメキシコ湾沿岸にかけての地域は、北極からの寒気を遮る山脈がないため、緯度のわりに猛烈な冷え込みを記録することがあり、普段は温暖なフロリダ半島北部やメキシコ湾沿岸地域でも氷点下まで下がることも珍しくない。
自然環境
[編集]アメリカ合衆国では、在来種だけで約1万7,000種の植物が確認されており、カリフォルニア州だけで5,000種の植物が現存する。 世界でもっとも高い木(セコイア)、もっとも大きな木(セコイアデンドロン)、もっとも古い木(ブリッスルコーンマツ)は同州に存在する[111]。動物界では400種以上の哺乳類、700種以上の鳥類、500種以上の爬虫両生類、9万種以上の昆虫が確認されている[112]。
ベーリング海峡でユーラシア大陸と、パナマ地峡で南アメリカ大陸とつながっているため、旧北区と新熱帯区とは同じ種や近縁の種を共有している。ロッキー山脈は低地の生物にとって遺伝子流動の障害となっており、ロッキー山脈の東と西では異なる種の動植物が分布する。熱帯から北極圏にまたがる国土のため、アメリカは多様な動植物相を持つ。ハワイ諸島とカリフォルニア州は世界的な生物多様性のホットスポットである。
しかし、西部開拓期以降には農場開発など人間の営為の障害となる生物を駆除していったためにアメリカバイソンやオオカミなど多くの種が絶滅の危機に瀕することとなった。リョコウバト、カロライナインコは駆除の結果絶滅した。約6,500種の外来種が作為的あるいは非作為的に持ち込まれて帰化しており[113]、少数の侵略的外来種が固有の動植物の生存を脅かし、甚大な経済的被害をもたらしている。
自然保護
[編集]アメリカにおける動植物の保護の歴史は長い。1872年にイエローストーン国立公園が世界初の国立公園に制定されて以来、連邦政府は57の国立公園とその他の国有地を保護してきた[114]。一部の地域では、人の影響を受けていない環境を長期的に保存するために保護区としての原生地域が指定されている。連邦政府は国土の28.8%にあたる総面積264万3,807 km2を保護しており[115]、大部分は国立公園や国定森林として保護されているが、一部は原油や天然ガス、その他の鉱産資源の採掘や牛の放牧のために賃貸されている。1973年には固有の動植物と生息地を保護するために絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律が制定された。この法律に従って絶滅危惧種と絶滅危機種の現状を観察し、種の存続に不可欠な生息地を保護する機関が魚類野生生物局(The U.S. Fish and Wildlife Service)である。個々の州も独自に種と生態系の保全を行っており、連邦と州の協力を促す制度も存在する。魚類野生生物局や国立公園局、森林局などを統括する内務長官は大統領に任命されるため、生態系の保全も行政のほかの部門と同じく政権の優先事項に大きく左右される。
2007年現在、アメリカ合衆国の化石燃料の消費による二酸化炭素の排出量は中華人民共和国に次いで世界第2位である[116]が、国民1人あたりの排出量は依然として世界第1位である。
地方行政区分
[編集]アメリカ合衆国は、50の州(state、Commonwealth)と1の地区(district)で構成されるが、そのほかに、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在では50州を持つ。星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。
経済
[編集]この節は検証可能な
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