新宣陽門院

新宣陽門院
続柄 後醍醐天皇皇女?

全名 惟子?(いし)
称号 新宣陽門院
身位 一品・内親王
出生 不明(延元元年/建武3年(1336年)かそれよりやや後?)
死去 元中6年/康応元年(1389年)7月以降
父親 後醍醐天皇
母親 阿野廉子
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新宣陽門院(しんせんようもんいん)は、南北朝時代南朝皇族女院歌人院号宣下以前には、一品宮(いっぽんのみや)・一品内親王と称した。

その出自について、近世の南朝系図では、後村上天皇第一皇女で中宮顕子北畠親房の女)所生の憲子内親王(けんしないしんのう)とされていたが、それを裏付ける史料はない。

20世紀後半以降は、後醍醐天皇阿野廉子との間に生まれた皇女であるとする説が有力である。その中でも特に、末娘である惟子内親王(いしないしんのう)に比定する説が比較的根強い。これが正しければ、祥子内親王(日本最後の伊勢神宮斎宮)や後村上天皇の同母妹となる。

阿野廉子と関わりが深く、その崩御に際し、七七忌御願文を奉献している。また、和歌に秀で、南朝の有力歌人として、准勅撰集新葉和歌集』に20首が入集した。

経歴

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経歴は不明の点が多いが[注釈 1]正平14年/延文4年(1359年)6月、阿野廉子(新待賢門院)の四十九日に七七忌御願文を奉納したのが初見[注釈 2]。同年8月廉子の墓を観心寺に築くため、かつて同寺の祈祷料所でありながら朝用分として召し上げられていた河内小高瀬庄(大阪府守口市)を返付し[2]、また12月に和泉大雄寺孤峰覚明による開創)へ紀伊吉田庄の領家職を寄進した[3][注釈 3]

新葉和歌集』によると、正平23年/応安元年(1368年)5月後村上天皇を追憶して嘉喜門院と贈答歌を交わし(哀傷・1345)[4]、翌正平24年/応安2年(1369年)春にはまだ一品宮と称していた(哀傷・1328)[5]。従って院号宣下は長慶天皇によるものと思われるが、その事情は判然としない。元中3年/至徳3年(1386年)12月観心寺を新待賢門院の護摩所に指定[6]。元中4年/至徳4年(1387年)2月河内高向庄領家職の年貢から毎年1,000疋を供料として同寺に与えることとし[7]、元中6年/康応元年(1389年)7月同寺に和泉御酢免(大阪府堺市?)朝用分を寄進した[8]

人物

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歌人としては、南朝准勅撰集新葉和歌集』に20首が入集した[9]

惟子内親王説

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大日本史』が嘉喜門院との贈答歌を根拠に後村上天皇の皇女と推定して以来、もっぱらこの説が踏襲されていた。しかし、女院が阿野廉子菩提を弔うために観心寺に寄進を重ねていることに着目した小木喬は、後醍醐天皇と廉子との間に生まれた末娘で、後村上の同母妹ではないかと考えた。

深津睦夫君嶋亜紀もまた、「後醍醐天皇皇女、母は新待賢門院廉子か」としている[9]

小木説では惟子内親王とは別の廉子の娘とされているが、所京子は一歩進めて、惟子ではないか、と主張している[10]。また、その誕生年については、延元元年/建武3年(1336年)もしくはその翌年ごろではないか、と推測している[10][注釈 4]。『新葉和歌集』神祇・607の阿野廉子の歌の詞書に、「延元の比子もりの社へまゐらせて(略)」とあり、廉子が延元年間(1336年 - 1440年)に子守を司る吉野水分神社に参詣したことがわかり、新たな子が誕生したと考えられるからである[10]

また、所説よりさらに前にも、東京大学史料編纂所の『大日本史料』6編22冊の558ページで、廉子の七七忌御願文を書いた一品内親王=惟子説は唱えられている[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 近世の史料である『南朝編年記略』によれば、興国5年(1344年)後村上院の第一皇女として生誕、正平7年(1352年)1月一品に叙され、天授2年(1376年)1月准三后となる。同4年(1378年2月4日皇太子良泰親王准母として院号宣下を受け(一本は翌5年2月とする)、元中8年(1391年)6月伊勢国多気の北畠顕泰第で薨去、金剛宝寺に葬られたと伝えられる。
  2. ^ 大日本史料』は奉納者の一品内親王に「惟子」(後醍醐天皇皇女)と注する[1]所京子も小木の見解を引用しつつ、女院を惟子内親王と同一人としている(別節)。
  3. ^ 『大日本史料』は寄進者の一品宮に「興良親王」(護良親王王子)と注するが、これは誤りである。
  4. ^ なお、『日本歴史地名大系』(平凡社、2006年)は、『本間文書』中の、建武2年5月12日付の遠江国高部郷(静岡県袋井市)に関する文書を「惟子内親王家令旨」と称し、同郷は惟子内親王家領であるとしている[11]。これに従えば、惟子は建武2年(1335年)かそれ以前の出生となる。しかし『大日本史料』所収の同文書では、単に「内親王家御領」とある[12]。なぜ『日本歴史地名大系』がこの内親王を惟子に比定したのか、理由は書かれていない[11]

出典

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  1. ^ a b 『大日本史料』6編22冊556–564頁.
  2. ^ 観心寺文書』正平14年8月30日付一品宮令旨
  3. ^ 賜蘆文庫文書』正平14年12月3日付後村上天皇綸旨
  4. ^ 深津 & 君嶋 2014, p. 254.
  5. ^ 深津 & 君嶋 2014, p. 250.
  6. ^ 『観心寺文書』元中3年12月14日付讃岐守仲益奉書
  7. ^ 『観心寺文書』元中4年2月14日付新宣陽門院令旨
  8. ^ 『観心寺文書』元中6年7月8日付新宣陽門院令旨
  9. ^ a b 深津 & 君嶋 2014, p. 351.
  10. ^ a b c 所 2000, pp. 117–119.
  11. ^ a b 「静岡県:袋井市 > 高部村」『日本歴史地名大系』平凡社、2006年。 
  12. ^ 『大日本史料』6編2冊403–404頁.

参考文献

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  • 井上宗雄 「新葉集の女流歌人」(久松潜一編 『日本女流文学史 古代・中世篇』 同文書院、1969年、NCID BN01844397
  • 東京大学史料編纂所編 『大日本古文書(家わけ第6) 観心寺文書』 東京大学出版会、1970年、ISBN 9784130910705
  • 小木喬 「新宣陽門院」(『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
  • 所京子『斎王の歴史と文学』国書刊行会、2000年。ISBN 978-4336042071 
  • 深津睦夫; 君嶋亜紀 編『新葉和歌集』明治書院和歌文学大系〉、2014年。ISBN 978-4625424168 

関連項目

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