毛利就宣
毛利 就宣(もうり なりのぶ(/ ※たかのぶ)、宝暦12年(1762年) - 文化元年8月13日(1804年9月16日))は、長州藩一門家老である厚狭毛利家の8代当主。
父は毛利広定。養父は毛利就盈。正室は毛利就盈の娘遊栄子。養父と同じく長州藩主毛利重就(父・広定の実弟で就宣の叔父にあたる)より偏諱を授かり就宣と名乗る(※天明元年(1781年)に重就が読みを改めた際にはこれに合わせて「たかのぶ」と読みを改めたものと思われる)。通称は松之允、乙之進、若狭。子に毛利房晁、毛利房嘉、毛利房謙がおり、いずれものちに毛利斉房より偏諱の授与を受けている。
生涯
[編集]宝暦12年(1762年)、一門右田毛利広定の三男として生まれる。厚狭毛利就盈の婿養子となり、安永5年(1776年)、就盈の死去により家督を相続する。毛利治親(重就の子)・斉房父子の2代の藩主に仕え、御国中御仕置役、留守居役、当職晢役、当職(国家老・執政)を歴任し、藩の財政改革に当たる。寛政元年(1789年)、萩を訪れた幕府巡見使の防火責任者を務める。寛政7年(1795年)、家督相続の御礼言上のため江戸城に登城した斉房の共をし、将軍徳川家斉に拝謁する。享和2年(1802年)、領内に郷校朝陽館を設立し、家臣子弟の学問を推奨した。文化元年(1804年)8月13日死去。享年43。家督は嫡男の房衆(房晁)が相続した。
参考文献
[編集]- 「山陽町史」