毛利就芝
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛文9年(1669年) |
死没 | 元禄8年2月20日(1695年4月3日) |
改名 | 毛利豊松(幼名)→毛利就芝 |
別名 | 毛利就棟(別名)玄蕃、宮内(通称) |
墓所 | 大寧寺(山口県長門市深川湯本) |
主君 | 毛利吉就→吉広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 阿川毛利家 |
父母 | 父:毛利就泰 |
妻 | 正室:粟屋就尚の娘 |
子 | 広規、益田兼昌 |
毛利 就芝(もうり なりしげ)は、長州藩一門家老である阿川毛利家の5代当主。父は4代当主の毛利就泰。正室は栗屋就尚の娘。子は毛利広規、益田兼昌。
生涯
[編集]寛文9年(1669年)、阿川毛利家4代当主・毛利就泰の次男として生まれ、天和2年(1682年)12月21日、藩主・毛利吉就から「玄蕃」の官途名と「就」の偏諱を与えられた。
元禄2年(1689年)、父の死去により家督を相続し、長州藩一門家老、阿川領主となる。桜井作右衛門に命じ、本山岬を整備し、番所を設置する。また、岬東岸の東大泊入江の開作(干拓)を行った。
元禄8年(1695年)2月20日に死去した。享年27。家督は嫡男の広規が相続した。墓所は山口県長門市の深川大寧寺にある。