江戸時代の日本の人口統計
江戸時代の日本の人口統計(えどじだいのにほんのじんこうとうけい)は、江戸時代の人口統計、人口調査および推定人口をまとめたものである。その結果は、初期には戦国時代後期から続く顕著な増加が見られ、それに比べ、中期・後期には増加はわずかだった。
概要
[編集]豊臣秀吉は天正19年(1591年)または文禄元年(1592年)に人掃令を出し、朝鮮出兵のための動員数把握の目的で全国規模の人口調査を命じた。この時の戸口調査がどの程度まで実施されたかは不明であるが、徳島藩で実施された「棟付改」、細川家領(小倉藩・熊本藩)で実施された「人畜改」などは、秀吉の命を受けて実施された戸口調査が続いたものと考えられている。
江戸時代に入ると宗門人別改帳制度が成立し、各地域毎の人口がより正確に把握されるようになった。しかしキリシタン取り締まりの為に寺社毎に戸口をまとめた物で、全国人口調査と呼べるものではなかった。
全国人口調査は徳川吉宗によって享保6年(1721年)に開始され、享保11年(1726年)以降、6年毎(子午年)に改籍された。この調査によりある程度、日本の人口の概要が分かるようになった。しかし問題点も多い。まず第一に除外された者が多い。この調査は基本的に人別改によって把握された登録人口を反映しており、調査対象は御領(幕府直轄地である天領)、私領(大名・旗本領)、寺社領、諸都市の有籍者のみであり、無籍者は対象外であるほか、武士、武家奉公人・従者(武家方奉公人並又者)や公家・皇族の人口は初めより集計の対象外であった。第二に調査方法が不統一だった。幕府直轄領以外の私領の調査方法は各藩に任されたため、乳幼児人口や被差別階級、神社仏閣関連人口の扱いが各藩で異なっていた。例えば和歌山藩 (紀州藩)では数え8歳未満、金沢藩 (加賀藩)では数え15歳未満は含めていなかった。その結果、除外人口の問題が複雑化した。第三に意図的な過少申告・過大申告をする藩が多かった。これは藩の人口調査結果にみられる人為的操作、明治時代の戸籍人口との比較から判明している。これにより、調査結果は実際より約400万から500万人ほど少なくなっていたと推定されている。
速水融によると、少なくとも金沢藩 (加賀藩)、和歌山藩 (紀州藩)、徳島藩 (阿波藩)、広島藩 (芸州藩)、福岡藩 (筑前藩)、対馬府中藩/厳原藩 (対馬藩)、鹿児島藩 (薩摩藩)の領地は明らかに人口調査、もしくはその結果の幕府への報告が、実際の人口より過小であり、こういった過小評価が、奥羽、北陸、山陽、四国、九州に多く見られる。
現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。
なお以降本項では、断りの無い限り年齢は満年齢ではなく数え年である。元号と西暦の対応に関しても、月日を記さない限り旧暦と新暦の違いを考慮しないこととする。「藩」という呼称が大名の知行地、領知、領国を指すものとして使われるようになったのは明治維新前後からであるが、便宜上江戸時代を通じて「藩」という呼称を用いる。また、本項では武家方奉公人並又者などの人口を除外した、幕府に報告するべき域内人口を「領民人口」と呼ぶこととするが、域内総人口を「領民人口」とする場合もあり、定義の定まった学術用語ではない。
江戸時代前期の推定人口変遷
[編集]大田南畝著『竹橋余筆別集』巻八「拾領ヘ相尋候 年久数人別書」によると、徳川吉宗は80年間所替のなかった10万石以上の外様大名に対して過去の領民人口を報告するように求め、江戸時代前期に関して以下の調査結果を得た。9藩中8藩で人口増加がみられ、全国人口調査の実施された江戸中期以降に比べ、江戸時代前期はかなりの人口増加があった。
なお岡山藩の貞享3年(1686年)の領民人口は、備中国分・備前国之内二郡・城下町分の人別帳が焼失または腐損したため、備前国六郡分のみの人口が報告されている。また岡山藩の宝永3年(1706年)の領民人口は、城下町の人別帳が焼失したため、備中・備前の在方のみの人口が報告されている。よって比較のために他の年度に関しても備前国六郡分のみの人口、城下町分を除く在方分の人口が併せて記述されており、本表ではそれぞれ斜体、括弧内の数字で示す。同様に津藩の寛文5年(1665年)と元禄7年(1694年)分の領民人口は、人別帳の紛失により伊勢国内寺領二ヶ村分の人口が計上されておらず、比較のために他の年度に関しても伊勢国内寺領二ヶ村分を除いた領民人口が併せて記述されており、本表では括弧内の数字で示す。同様に二本松藩の貞享2年(1685年)の領民人口は、人別帳の虫食腐損により七ヶ村の人口が計上されておらず、比較のために他の年度に関しても七ヶ村を除いた領民人口が併せて記述されており、本表では括弧内の数字で示す。
元号 | 西暦 | 松平加賀守 (金沢藩) | 松平陸奥守 (仙台藩) | 松平大隅守 (鹿児島藩) | 松平大炊頭 (岡山藩) | 藤堂大学頭 (津藩) | 松平淡路守 (徳島藩) | 酒井左衛門尉 (庄内藩) | 丹羽左京大夫 (二本松藩) | 南部修理大夫 (盛岡藩) |
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寛文5年 | 1665年 | (252,061) | 308,880 | |||||||
寛文9年 | 1669年 | 245,635 | ||||||||
貞享2年 | 1685年 | (73,351) | ||||||||
貞享3年 | 1686年 | 185,043 | ||||||||
元禄元年 | 1688年 | 385,751 | ||||||||
元禄3年 | 1690年 | 599,241 | ||||||||
元禄7年 | 1694年 | (284,126) | 126,383 | |||||||
元禄11年 | 1698年 | 260,961 | ||||||||
元禄15年 | 1702年 | 617,323 | 81,367 (76,130) | |||||||
元禄16年 | 1703年 | 306,412 | ||||||||
宝永3年 | 1706年 | (337,661) 207,215 | ||||||||
享保5年 | 1720年 | 551,754 | ||||||||
享保17年 | 1732年 | 576,734 | 647,427 | 339,955 | 396,469 (368,680) 223,929 | 287,242 (287,096) | 470,512 | 131,164 | 75,747 (70,614) | 322,109 |
調査対象 | 15歳以上 | 当歳以上 | 当歳以上 | 2歳以上 | 当歳以上 | 2歳以上 | 当歳以上 | 当歳以上 | 当歳以上 | |
領地 | 加賀、 越中、 能登、 近江之内 | 陸奥、 常陸、 下総、 近江之内 | 薩摩、 大隅一円、 日向之内 | 備前一円、 備中之内 | 伊賀一円、 伊勢、 山城、 大和、 下総之内 | 淡路、 阿波一円 | 出羽之内 | 陸奥之内 | 陸奥之内 | |
領地高(石) | 1,025,000 | 620,056 | 605,000 | 340,200 | 333,950 | 257,000 | 140,077 | 100,700 | 100,000 |
ただし統計に限りがあり、江戸時代前期の推定人口の変遷について諸説ある。
吉田東伍(1910年)は1人1石という仮定に基づいて1598年の慶長石高から1600年の推定人口を1850万人と見積もり[1]、長らくこの説が受け入れられていた。
これに対し速水融(1966年)は元和2年(1622年)の小倉藩の人畜改帳を元に1石0.28~0.44人と石/人比を訂正し、1600年の推定人口を622万~980万人と推定した[2]。後に速水融(1973年)は太閤検地石高による推定人口を破棄し、江戸時代中期以降の幕府掌握人口から逆算して1600年の推定人口を求めた。即ち諏訪郡の人別改帳の研究などから150年で人口が3倍になる成長パターンを導き、1600年の推定人口を1230万人へ改訂した[3]。
鬼頭宏(社会工学研究所編 1974年)の1600年から1750年までの推定人口は、速水融の学説をまとめたもので、江戸時代前半の人口成長パターンが150年間で3倍になるロジスティック関数によると仮定し(50年後に1.41倍、100年後に2.67倍、150年後に3倍)、寛延3年(1750年)の推定人口(江戸幕府調査人口に20%上乗せしたもの)から遡って計算している。その際全国を先進国(山城、大和、摂津、河内、和泉)、中進国(尾張、美濃、伊賀、伊勢、近江、丹波、播磨)、後進国(その他)に分類し、人口成長の開始期をそれぞれ1500年、1550年、1600年と仮定する[4]。詳しくは#地域別推定人口の変遷を参照[5]。ジャン=ノエル・ビラベン (Jean-Noël Biraben)(1993年、2005年)の推定人口は、速水融(1987年)[6]とフランシーヌ・エライユ (Francine Hérail)(1990年)[7]に依拠し、澤田吾一、社会工学研究所、速水融らの研究を踏襲している[8]。
但し最近になって鬼頭宏(2000年)は速水融推計を過小とし、17世紀の人口増加率を0.58~0.65%/年に下方修正して1600年の推定人口を1432万~1547万人と上方修正している[5]。
一方斎藤修(2000年)は1600~1721年の人口増加率をせいぜい0.51%と仮定して、1600年の推定人口を1700万人と算出している。ウィリアム・ウェイン・ファリス (William Wayne Farris)(2006年)の1600年の推定人口(1500万~1700万人)は、鬼頭宏(2000年)と斎藤修(2000年)の研究の折衷である[9]。
また、藤野正三郎(2008年)は17世紀前半の大藩の人口増加率 (0.4%) から1600年の推定人口を1940万人、1650年の人口を2365万人、1700年の人口を2888万人と算出した[10]。
以下に主な研究者による江戸時代前期の日本の推定人口変遷をまとめる。なおコリン・マッケヴェディ (Colin McEvedy) とリチャード・ジョーンズ (Richard Jones) の推定人口はアイリーン・トイバー (Irene B. Taeuber)(1958年)[11]に依拠するが、実質的には横山由清(1879年)による推定人口[12]を補間して人口を推定しており、鎌倉時代の推定人口(975万人)からの持続的な人口増加を仮定している[13]。
西暦 | 社会工学研究所 (1974年)[4] | McEvedy & Jones (1978年)[13] | 鬼頭宏 (1996年)[5] | Biraben (1993, 2005年)[8] | Farris (2006年)[9] | 藤野正三郎 (2008年)[10] |
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1600年 | 12,273,000 | 22,000,000 | 12,273,000 | 12,000,000 | 15,000,000– 17,000,000 | 19,370,000 |
1650年 | 17,497,900 | 25,000,000 | 17,497,900 | 23,650,000 | ||
1700年 | 28,287,200 | 29,000,000 | 28,287,200 | 28,000,000 | 28,880,000 | |
1721年 | 31,277,900 | 31,278,500 | 30,496,900 | 31,300,000 | 31,280,000 | |
1750年 | 31,005,900 | 29,000,000 | 31,010,800 | 30,323,900 | 31,100,000 |
幕府人口調査と推定人口
[編集]全国人口調査と推定人口
[編集]全国の人口調査は享保の改革の一環として、享保6年(1721年)に始まった。享保6年旧暦6月21日付の布達には、「諸国領知之村々、田畑之町歩、郡切に書記、並百姓町人社人男女僧尼等其外之者に至る迄、人数都合領分限に書付、可被差出候。奉公人又者は不及書出候。惣而拝領高之外新田高は不及記、町歩計可被書出候。但無高に而反別計之新田も可為同前候云々。」とあり、田畑の面積調査と人口調査が同時に行われた[14]。しかしながらこの布達により再検地への疑念などの混乱が生じため、続く旧暦6月29日の布達で、田畑の面積調査に関しては結局公認町歩を書きあげれば良いとし(この時の調査結果に関しては石高#享保6年田畑数参照)、人口調査に関しては過去の詳しい調査で代用して良いこと、武家方である「奉公人並又者」は人口調査の対象外とし、何歳以上の調査であるかを記載すること(逆に言えば、乳幼児・未成年人口の除外は御領(幕府直轄領)の代官、私領の大名・旗本の裁量に委ねられた)などが定められた。調査結果の報告猶予は8月までと短期間であったが、地方への交通手段や伝達方法も限られていたため、度重なる遅延があったようである。
2回目の人口調査が実施された享保11年(1726年)では田畑面積調査は行われず、人口調査のみが6年毎に実施されるようになった。以降人口調査は6年毎の子午年に実施されたが、最初の享保6年(1721年)の人口調査は子午年に相当しない臨時のもの(辛丑)であるため、これを正式な第1回の諸国人数調査とみなさない識者もいる。
調査の結果は「諸国人数帳」としてまとめられた。例えば国立公文書館所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」に収録の「寛政十午年 諸国人数帳」では以下のように寛政10年(1798年)の人口が旧国別、男女別に集計されている。
「 | 寛政十午年 [午改]諸国人数帳 | 」 |
このような形式の諸国人数帳の写本は幾つか残っているが、前文として箇条書きでかかれている内容はほぼ毎回同じである。すなわち6年毎の人口調査に関し、実際の調査月日は春から11月(天明以降は12月)までとしか定められておらず、各代官・領主に任されている。未成年人口に関しては、15歳以下についてはそれぞれの調査地域での慣例に従って集計することになっており、「武家方奉公人並又者」が除外人口とされている。また、元禄郷帳の石高(天保11年以降は天保郷帳の石高)が併せて記載された。幕府での実際の集計作業は調査年の翌年にずれ込むことも多かったらしく、諸国人数帳に記載の年月が翌年となっている場合もある。
諸国人数帳は総ての年度で残っているわけではないが、諸国人数帳から抽出された人口データが転載されることで、必ずしも完全ではないにせよ一部の数字が残るケースがある。以下幕府の史料や雑記に記録として残っている幕府調査による総人口と男女別人口をまとめる[15]。実際の人口はこれらの幕府調査人口(領民人口)よりも多いはずだが、除外人口と脱漏人口を補正するために、幕府調査人口に対して17%(ビラベン, 1993年)[8]または20%(鬼頭, 1996年)[5]上乗して推計された総人口を参考までに列挙する。また『三暇謾録』には享保6年(1721年)から天保5年(1834年)まで、6年毎に調査された武蔵国の人口の記載があり[注 1]、弘化3年(1846年)までの武蔵国の領民人口の変遷を完全に再現できるため、参考までに本表に掲載する。第4回の元文3年(1738年)、第16回の文化7年(1810年)、第17回の文化13年(1816年)の人口調査に関しては、総人口の記録は残っていない。
調査回次 | 調査年次 | 西暦 | 総数 | 男 | 女 | 出典 | Biraben (1993年)[8] 推計総人口 | 鬼頭 (1996年)[5] 推計総人口 | 武蔵国 領民人口[注 1] |
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第1回 | 享保6年 | 1721年 | 26,065,422 | 「国中人数石高之事」(『三暇謾録』;須田昭義「徳川時代人口に関する新資料」引用)[注 1] 「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八、国立公文書館所蔵212-0287) | 30,496,900 | 31,278,500 | 1,903,316 | ||
第2回 | 享保11年 | 1726年 | 26,548,998 | 「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八、国立公文書館所蔵212-0287) 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 31,104,400 | 1,807,783 | |||
第3回 | 享保17年 | 1732年 | 26,921,816 | 14,407,107 | 12,514,709 | 「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八、国立公文書館所蔵212-0287) 「享保十七子年十二月 日本国中十五歳以上人別高」(乙巳雑記』壱) 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 31,498,500 | 1,850,599 | |
第4回 | 元文3年 | 1738年 | n.a. | 1,737,205 | |||||
第5回 | 延享元年 | 1744年 | 26,153,450 | 『官中秘策』巻之一[注 2] | 30,599,500 | 1,787,021 | |||
第6回 | 寛延3年 | 1750年 | 25,917,830 | 13,818,654 | 12,099,176 | 『官中秘策』巻之一~巻之五[注 2] 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 30,323,900 | 31,010,800 | 1,771,214 |
第7回 | 宝暦6年 | 1756年 | 26,061,830 | 13,833,311 | 12,228,519 | 「地理誌 第六」(『国史』巻二十三)[注 3] 『官中秘策』巻之一[注 2] 「日本国郡沿革考」(『吹塵録』上巻) | 30,502,700 | 31,282,500 | 1,774,064 |
第8回 | 宝暦12年 | 1762年 | 25,921,458 | 13,785,400 | 12,136,058 | 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 30,328,100 | 1,737,158 | |
第9回 | 明和5年 | 1768年 | 26,252,057 | 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 30,714,900 | 1,753,994 | |||
第10回 | 安永3年 | 1774年 | 25,990,451 | 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 30,408,800 | 1,707,719 | |||
第11回 | 安永9年 | 1780年 | 26,010,600 | 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 30,432,400 | 1,702,784 | |||
第12回 | 天明6年 | 1786年 | 25,086,466 | 13,230,656 | 11,855,810 | 「天明寛政人数帳」(『日本経済大典』第四十八巻)[注 4] 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) | 29,351,200 | 30,103,800 | 1,626,968 |
第13回 | 寛政4年 | 1792年 | 24,891,441 | 13,034,521 | 11,856,920 | 「寛政四子年 諸国人数帳」(国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」)[注 5] 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 『甲子夜話』巻八十七 | 29,123,000 | 29,869,700 | 1,634,048 |
第14回 | 寛政10年 | 1798年 | 25,471,033 | 13,360,520 | 12,110,513 | 「寛政十午年 諸国人数帳」(国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」)[注 5] 『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(国文学研究資料館所蔵)[注 5] 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 『甲子夜話』巻八十七 | 29,801,100 | 30,565,200 | 1,666,131 |
第15回 | 文化元年 | 1804年 | 25,621,957 | 13,427,249 | 12,194,708 | 「天明寛政人数帳」(『日本経済大典』第四十八巻)[注 6] 「文化元甲子年 諸国人数調」(『吹塵録』上巻)[注 6] 「諸国人数帳」(井上瑞枝「大日本国古来人口考 (第三)」引用等)[注 6]「諸国人数調」(国立公文書館所蔵172-0073) | 29,977,690 | 30,746,400 | 1,654,368 |
第16回 | 文化7年 | 1810年 | n.a. | 1,674,669 | |||||
第17回 | 文化13年 | 1816年 | n.a. | 1,675,300 | |||||
第18回 | 文政5年 | 1822年 | 26,602,110 | 13,894,436 | 12,707,674 | 『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(国文学研究資料館所蔵)[注 7] 「諸国」『徳川理財会要』第五門 地方 巻三十一 戸口ノ部 | 31,124,500 | 31,913,500 | 1,694,255 |
第19回 | 文政11年 | 1828年 | 27,201,400 | 14,160,736 | 13,040,664 | 『嘉永五年壬子居闔国總人別寄帳写』(井上瑞枝「大日本国古来人口考 (第四)」引用)[注 8] 『武家必覧 泰平年表』巻之三十一 「諸国」『徳川理財会要』第五門 地方 巻三十一 戸口ノ部 『文恭公実録』巻之三 | 31,825,600 | 32,625,800 | 1,717,455 |
第20回 | 天保5年 | 1834年 | 27,063,907 | 14,053,455 | 13,010,452 | 篠崎亮「天保五年調査諸国人数帳」[注 9] 『諸国人数』(国立国会図書館所蔵)[注 9] | 31,664,800 | 32,476,700 | 1,714,054 |
第21回 | 天保11年 | 1840年 | 25,918,412 | 13,359,384 | 12,559,028 | 『諸国人数帳』(東京大学法学部法制史料室所蔵)[注 10] | 31,102,100 | 1,721,359 | |
第22回 | 弘化3年 | 1846年 | 26,907,625 | 13,854,043 | 13,053,582 | 「弘化三丙午年 諸国人数調」(『吹塵録』上巻)[注 11] | 31,481,900 | 32,297,200 | 1,777,371 |
明治3年7月 | 1870年 | 32,794,897 | 16,733,698 | 16,061,199 | 庚午年概算 (全身分対象) | ||||
明治5年1月29日 | 1872年3月8日 | 33,110,825 | 16,796,158 | 16,314,667 | 壬申戸籍 (全身分対象) | 1,943,211 |
なおこれらの人口は何れも琉球国の人口を含まない。また、『吹塵録』を編纂した勝海舟によると、第23回の諸国人数調査に当たる嘉永5年(1852年)の調査結果については、翌年の黒船来航や徳川家慶崩御の混乱により最終的な集計が行われなかったという。但し藩によっては嘉永5年、安政5年(1858年)、元治元年(1864年)の領民人口調査結果も残っている。
旧国別調査人口の変遷
[編集]以下記録として残っている旧国別人口を、明治5年(1872年)、明治6年(1873年)の本籍人口とともにまとめる[16]。旧国名は明治時代の五畿八道の順に従い並べてあるが、各年次をクリックすることにより、人口順に並べ替えることができる。明治5年、明治6年の戸籍人口に関しては、明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)と明治2年8月15日(西暦1869年9月20日)に陸奥国・出羽国と蝦夷地・松前藩より分割・成立した旧国別人口を載せるほか、旧陸奥国、出羽国、蝦夷地の総人口を参考として斜体で示す。表の作成に当たっては『国勢調査以前日本人口統計集成』収録の速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」をベースとしたが、享保6年(1721年)に関しては須田昭義の論文により上総の人口と総人口を修正し[注 1]、寛延3年(1750年)に関しては『官中秘策』の諸写本により駿河・甲斐・美濃・但馬・備中・紀伊・阿波の人口を改訂し[注 2]、宝暦6年(1756年)に関しては井上瑞枝の論文や『国史』の諸写本により下野・隠岐・美作・豊後・対馬・蝦夷の人口を改訂し[注 3]、天明6年(1786年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで下野の人口を改訂し[注 4]、寛政10年(1798年)に関しては国立公文書館所蔵『雑載』収録の「寛政十午年 諸国人数帳」により近江・陸奥・越中の人口を修正し[注 5]、文化元年(1804年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで山城の人口を改訂し[注 6]、文政6年(1822年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで摂津の人口を改訂し[注 7]、文政11年(1828年)に関しては高橋梵仙が『日本人口史之研究』でまとめたものを用い[注 8]、天保5年(1834年)に関しては国立国会図書館所蔵『諸国人数』により備後の人口を修正し[注 9]、弘化3年(1846年)に関しては男女人口の合計を旧国別人口として用いることで摂津、陸奥、出雲、石見の人口を改訂した[注 11]。このほか参考として明治14年(1881年)の旧国別面積[17]と天保5年(1834年)の『天保郷帳』記載の旧国別の郡数、村数と石高を掲載する[18]。明治6年(1873年)の旧国別身分人口に関しては壬申戸籍を参照。
旧国 | 享保6年[注 1] (1721年) | 寛延3年[注 2] (1750年) | 宝暦6年[注 3] (1756年) | 天明6年[注 4] (1786年) | 寛政4年[注 5] (1792年) | 寛政10年[注 5] (1798年) | 文化元年[注 6] (1804年) | 文政5年[注 7] (1822年) | 文政11年[注 8] (1828年) | 天保5年[注 9] (1834年) | 天保11年[注 10] (1840年) | 弘化3年[注 11] (1846年) | 明治5年[16] (1872年) | 明治6年[16] (1873年) | 面積[17] (1881年) (方里) | 郡数[18] (1834年) | 村数[18] (1834年) | 石高[18] (1834年) (石) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
畿内 | 2,249,792 | 2,139,480 | 2,170,087 | 2,041,309 | 2,027,334 | 2,048,799 | 2,017,308 | 2,074,967 | 2,099,644 | 2,077,269 | 1,935,301 | 1,998,736 | 2,023,652 | 2,036,842 | 445.59 | 55 | 3,651 | 1,615,527.199925 |
山城 | 564,994 | 522,626 | 527,334 | 507,488 | 506,324 | 480,993 | 469,517 | 478,652 | 498,296 | 488,726 | 445,432 | 452,140 | 429,030 | 431,453 | 73.08 | 8 | 477 | 230,131.760865 |
大和 | 413,331 | 374,041 | 367,724 | 336,254 | 329,286 | 344,043 | 340,706 | 346,319 | 356,627 | 360,071 | 338,571 | 361,157 | 418,326 | 423,004 | 201.42 | 15 | 1,354 | 501,361.691560 |
河内 | 243,820 | 231,266 | 206,568 | 205,585 | 209,296 | 218,102 | 214,945 | 244,816 | 223,747 | 224,822 | 211,559 | 224,055 | 237,678 | 239,191 | 43.99 | 16 | 545 | 293,786.634500 |
和泉 | 218,405 | 207,952 | 226,480 | 190,762 | 190,466 | 199,083 | 202,283 | 205,545 | 208,884 | 207,211 | 189,786 | 197,656 | 209,174 | 212,251 | 33.47 | 4 | 320 | 172,847.986000 |
摂津 | 809,242 | 803,595 | 841,981 | 801,220 | 791,962 | 806,578 | 789,857 | 799,635 | 812,090 | 796,439 | 749,953 | 763,728 | 729,444 | 730,943 | 93.63 | 12 | 955 | 417,399.127000 |
東海道 | 6,612,785 | 6,605,014 | 6,522,189 | 6,031,917 | 5,864,119 | 6,061,401 | 6,032,987 | 6,182,091 | 6,384,212 | 6,169,363 | 6,192,155 | 6,425,259 | 7,392,413 | 7,451,669 | 2,660.63 | 129 | 15,323 | 6,652,134.556760 |
伊賀 | 95,978 | 91,392 | 88,526 | 82,352 | 79,648 | 80,647 | 80,196 | 85,636 | 87,949 | 89,243 | 88,616 | 91,774 | 97,164 | 97,190 | 47.34 | 4 | 182 | 110,096.536000 |
伊勢 | 543,737 | 523,037 | 519,187 | 478,906 | 462,682 | 477,899 | 476,500 | 494,640 | 498,171 | 499,958 | 480,032 | 499,874 | 585,988 | 581,669 | 231.15 | 13 | 1,325 | 716,451.492700 |
志摩 | 31,856 | 34,068 | 34,261 | 37,184 | 36,888 | 38,617 | 37,875 | 40,401 | 40,919 | 41,888 | 39,210 | 40,693 | 37,439 | 46,943 | 19.74 | 2 | 56 | 21,470.398000 |
尾張 | 554,561 | 553,340 | 576,363 | 595,264 | 582,183 | 605,084 | 605,686 | 631,809 | 646,555 | 643,977 | 622,539 | 653,678 | 727,437 | 731,974 | 104.18 | 8 | 1,008 | 545,875.793000 |
三河[19] | 416,204 | 419,283 | 425,745 | 419,349 | 360,795 | 423,893 | 420,697 | 437,019 | 439,635 | 440,264 | 421,432 | 431,800 | 482,931 | 485,470 | 208.62 | 8 | 1,292 | 466,080.746800 |
遠江 | 342,663 | 333,744 | 341,724 | 332,100 | 334,246 | 352,033 | 342,398 | 386,581 | 361,236 | 360,818 | 350,967 | 363,959 | 414,928 | 416,543 | 196.44 | 12 | 1,094 | 369,552.575180 |
駿河[19] | 245,834 | 313,817 | 250,582 | 242,165 | 242,457 | 248,127 | 252,072 | 288,824 | 277,763 | 253,848 | 274,705 | 286,290 | 368,505 | 369,731 | 219.77 | 7 | 780 | 250,538.753090 |
甲斐[19][注 12] | 291,168 | 314,193 | 317,349 | 305,934 | 284,474 | 309,604 | 297,903 | 291,675 | 391,499 | 318,474 | 300,152 | 310,273 | 360,068 | 362,973 | 289.85 | 4 | 769 | 312,159.329490 |
伊豆[18][19][注 12] | 96,650 | 105,120 | 105,272 | 120,629 | 98,226 | 102,551 | 125,505 | 134,722 | 136,796 | 144,595 | 110,523 | 115,197 | 149,749 | 150,549 | 106.11 | 4 | 284 | 84,171.293620 |
相模[18] | 312,638 | 310,796 | 305,569 | 279,427 | 277,699 | 277,211 | 278,068 | 269,839 | 289,376 | 294,009 | 285,196 | 303,271 | 356,638 | 359,598 | 128.87 | 9 | 671 | 286,719.756890 |
武蔵 | 1,903,316 | 1,771,214 | 1,774,064 | 1,626,968 | 1,634,048 | 1,666,131 | 1,654,368 | 1,694,255 | 1,717,455 | 1,714,054 | 1,721,359 | 1,777,371 | 1,943,211 | 1,968,753 | 391.63 | 22 | 3,042 | 1,281,431.068820 |
安房 | 115,579 | 158,440 | 137,565 | 125,052 | 130,836 | 133,513 | 132,993 | 139,662 | 140,830 | 144,581 | 139,442 | 143,500 | 154,683 | 155,331 | 34.86 | 4 | 280 | 95,736.239070 |
上総 | 407,553 | 453,460 | 438,788 | 388,542 | 376,441 | 368,831 | 364,560 | 372,347 | 362,411 | 364,240 | 358,714 | 360,761 | 419,969 | 423,596 | 140.69 | 9 | 1,194 | 425,080.453410 |
下総[19] | 542,661 | 567,603 | 565,614 | 483,526 | 468,413 | 484,641 | 478,721 | 419,106 | 497,758 | 402,093 | 499,507 | 525,041 | 645,029 | 648,394 | 206.50 | 12 | 1,623 | 681,062.631660 |
常陸[18] | 712,387 | 655,507 | 641,580 | 514,519 | 495,083 | 492,619 | 485,445 | 495,575 | 495,859 | 457,321 | 499,761 | 521,777 | 648,674 | 652,955 | 334.88 | 11 | 1,723 | 1,005,707.489030 |
東山道[注 12] | 5,879,324 | 5,680,006 | 5,659,556 | 5,267,640 | 5,204,842 | 5,294,135 | 5,303,859 | 5,435,750 | 5,511,868 | 5,446,583 | 5,089,068 | 5,328,995 | 6,746,643 | 6,785,623 | 6,847.50 | 132 | 14,691 | 7,954,049.255308 |
近江 | 602,367 | 575,216 | 573,797 | 583,940 | 573,617 | 538,442 | 532,968 | 557,491 | 547,724 | 511,948 | 527,412 | 541,732 | 576,564 | 578,099 | 257.15 | 12 | 1,516 | 853,095.305590 |
美濃 | 545,919 | 533,091 | 543,510 | 556,165 | 536,904 | 563,863 | 566,355 | 598,580 | 609,459 | 607,269 | 570,807 | 583,137 | 660,896 | 668,148 | 402.87 | 21 | 1,602 | 699,764.321660 |
飛騨 | 67,032 | 72,323 | 74,907 | 77,939 | 76,401 | 79,393 | 81,768 | 89,818 | 91,382 | 93,765 | 82,967 | 86,338 | 98,378 | 98,822 | 268.58 | 3 | 414 | 56,602.309000 |
信濃 | 693,947 | 686,651 | 706,974 | 723,295 | 714,199 | 742,791 | 748,142 | 778,025 | 797,099 | 808,073 | 775,313 | 794,698 | 919,115 | 924,867 | 853.76 | 10 | 1,615 | 767,788.077600 |
上野 | 569,550 | 576,075 | 579,987 | 522,869 | 513,915 | 514,172 | 497,034 | 456,950 | 464,226 | 451,830 | 426,073 | 428,092 | 507,235 | 509,941 | 407.25 | 14 | 1,217 | 637,331.633100 |
下野 | 560,020 | 554,261 | 535,743 | 434,791 | 404,818 | 413,337 | 404,495 | 395,045 | 375,957 | 342,260 | 367,654 | 378,665 | 498,520 | 501,849 | 411.77 | 9 | 1,365 | 769,905.027038 |
陸奥 | 1,962,839 | 1,836,134 | 1,806,192 | 1,563,719 | 1,568,218 | 1,589,178 | 1,602,948 | 1,650,629 | 1,680,102 | 1,690,509 | 1,506,193 | 1,603,881 | 2,294,915 | 2,305,961 | 2,956.76 | 51 | 4,519 | 2,874,239.059880 |
磐城 | 348,608 | 349,594 | 429.83 | 14 | 963 | 613,924.675660 | ||||||||||||
岩代 | 427,933 | 430,163 | 497.52 | 9 | 1,305 | 755,703.961220 | ||||||||||||
陸前 | 534,609 | 539,614 | 525.92 | 14 | 702 | 697,838.180000 | ||||||||||||
陸中 | 510,521 | 513,273 | 830.98 | 10 | 537 | 423,134.490000 | ||||||||||||
陸奥 | 473,244 | 473,317 | 672.51 | 4 | 1,012 | 383,637.753000 | ||||||||||||
出羽 | 877,650 | 846,255 | 838,446 | 804,922 | 816,770 | 852,959 | 870,149 | 909,212 | 945,919 | 940,929 | 832,649 | 912,452 | 1,191,020 | 1,197,936 | 1,289.36 | 12 | 2,443 | 1,295,323.521440 |
羽前 | 560,984 | 567,361 | 546.64 | 4 | 1,204 | 804,569.693740 | ||||||||||||
羽後 | 630,036 | 630,575 | 742.72 | 8 | 1,239 | 490,753.827700 | ||||||||||||
北陸道 | 2,155,663 | 2,160,541 | 2,212,937 | 2,108,387 | 2,190,010 | 2,269,348 | 2,307,745 | 2,511,390 | 2,598,219 | 2,640,844 | 2,401,206 | 2,534,477 | 3,299,551 | 3,309,335 | 1,633.01 | 33 | 8,910 | 3,622,488.969650 |
若狭 | 86,598 | 78,072 | 77,729 | 79,323 | 76,124 | 78,356 | 78,715 | 83,056 | 84,678 | 84,366 | 83,956 | 77,183 | 85,487 | 85,813 | 54.75 | 3 | 255 | 91,018.822200 |
越前 | 367,652 | 348,052 | 344,830 | 332,019 | 335,813 | 350,833 | 354,038 | 375,572 | 386,071 | 397,823 | 328,217 | 353,674 | 461,032 | 454,229 | 217.67 | 8 | 1,533 | 689,304.819870 |
加賀[19] | 206,933 | 202,429 | 160,778 | 196,732 | 189,682 | 192,738 | 196,725 | 220,004 | 220,267 | 230,461 | 223,338 | 238,291 | 403,357 | 405,268 | 147.83 | 4 | 768 | 483,665.848700 |
能登[19] | 152,113 | 157,765 | 212,048 | 137,427 | 159,436 | 165,188 | 167,534 | 193,569 | 198,111 | 197,704 | 179,431 | 186,970 | 262,486 | 264,379 | 122.72 | 4 | 666 | 275,369.990210 |
越中 | 314,158 | 313,562 | 313,710 | 317,265 | 327,327 | 337,129 | 345,419 | 383,265 | 413,888 | 402,411 | 383,583 | 403,121 | 615,663 | 623,977 | 266.41 | 4 | 1,376 | 808,008.461820 |
越後 | 932,461 | 970,185 | 1,013,331 | 954,524 | 1,011,067 | 1,053,674 | 1,072,904 | 1,154,052 | 1,191,935 | 1,224,947 | 1,099,980 | 1,172,973 | 1,368,428 | 1,372,116 | 767.29 | 7 | 4,051 | 1,142,555.535850 |
佐渡 | 95,748 | 90,476 | 90,511 | 91,097 | 90,561 | 91,430 | 92,410 | 101,872 | 103,269 | 103,132 | 102,701 | 102,265 | 103,098 | 103,553 | 56.34 | 3 | 261 | 132,565.491000 |
山陰道 | 1,263,340 | 1,306,567 | 1,340,875 | 1,368,649 | 1,362,540 | 1,427,610 | 1,441,698 | 1,519,467 | 1,544,033 | 1,569,651 | 1,430,878 | 1,487,122 | 1,628,561 | 1,634,188 | 1,109.83 | 53 | 4,214 | 1,499,296.436760 |
丹波 | 284,893 | 276,336 | 282,018 | 281,356 | 275,038 | 281,234 | 282,493 | 290,243 | 291,869 | 292,808 | 276,117 | 280,947 | 295,359 | 295,681 | 206.67 | 6 | 880 | 324,136.268670 |
丹後 | 125,276 | 134,476 | 135,392 | 141,191 | 141,364 | 146,762 | 147,403 | 154,763 | 157,401 | 159,211 | 149,063 | 154,308 | 160,932 | 162,084 | 77.10 | 5 | 388 | 147,614.804460 |
但馬 | 149,732 | 156,612 | 154,980 | 158,455 | 160,030 | 164,764 | 167,549 | 179,408 | 181,052 | 184,323 | 162,243 | 173,573 | 187,086 | 187,980 | 165.92 | 8 | 623 | 144,313.084030 |
因幡 | 122,030 | 125,085 | 125,091 | 123,622 | 123,532 | 126,695 | 128,643 | 132,670 | 135,969 | 136,204 | 120,879 | 127,797 | 162,842 | 162,920 | 98.59 | 8 | 553 | 177,844.624000 |
伯耆 | 132,981 | 140,719 | 144,552 | 155,289 | 155,532 | 166,449 | 169,570 | 180,730 | 186,813 | 191,175 | 168,310 | 177,420 | 194,158 | 194,525 | 125.57 | 6 | 754 | 217,990.822280 |
出雲 | 222,330 | 234,896 | 220,094 | 258,916 | 260,189 | 271,667 | 279,177 | 299,708 | 308,346 | 315,270 | 302,837 | 309,906 | 340,042 | 340,222 | 181.61 | 10 | 504 | 302,627.465000 |
石見 | 207,965 | 219,512 | 259,202 | 229,113 | 225,783 | 248,076 | 245,203 | 257,508 | 257,349 | 264,948 | 225,657 | 236,963 | 259,611 | 262,035 | 232.32 | 6 | 451 | 172,209.768320 |
隠岐 | 18,133 | 18,931 | 19,546 | 20,707 | 21,072 | 21,963 | 21,660 | 24,437 | 25,234 | 25,712 | 25,772 | 26,208 | 28,531 | 28,741 | 22.05 | 4 | 61 | 12,559.600000 |
山陽道 | 2,657,695 | 2,634,975 | 2,702,284 | 2,747,716 | 2,733,792 | 2,823,445 | 2,822,910 | 2,960,990 | 3,038,751 | 3,065,352 | 2,915,809 | 3,028,359 | 3,531,865 | 3,550,654 | 1,571.35 | 81 | 4,813 | 3,211,546.810710 |
播磨 | 633,725 | 551,393 | 627,943 | 607,758 | 602,410 | 608,890 | 599,401 | 609,246 | 613,534 | 600,731 | 581,713 | 594,560 | 635,791 | 639,576 | 238.58 | 16 | 1,796 | 651,964.813500 |
美作[19] | 194,226 | 175,168 | 173,421 | 157,747 | 132,445 | 157,066 | 153,397 | 159,007 | 159,850 | 164,018 | 156,196 | 165,468 | 215,602 | 215,676 | 170.56 | 12 | 628 | 262,099.098000 |
備前 | 338,523 | 322,982 | 325,550 | 321,627 | 316,881 | 321,221 | 318,273 | 318,203 | 318,771 | 318,647 | 304,229 | 310,576 | 331,878 | 333,714 | 94.25 | 8 | 673 | 416,581.854000 |
備中 | 333,731 | 365,410 | 325,531 | 316,904 | 316,735 | 327,100 | 328,408 | 337,155 | 343,792 | 347,415 | 335,494 | 346,927 | 396,880 | 399,218 | 156.50 | 11 | 484 | 363,915.614210 |
備後 | 321,008 | 306,818 | 310,989 | 303,731 | 307,029 | 315,363 | 318,577 | 342,184 | 351,597 | 360,656 | 344,919 | 360,832 | 456,461 | 459,109 | 234.03 | 14 | 494 | 312,054.932000 |
安芸 | 361,431 | 396,878 | 414,209 | 454,112 | 466,261 | 491,278 | 499,081 | 547,296 | 564,271 | 578,516 | 527,849 | 553,708 | 667,717 | 673,301 | 286.72 | 8 | 436 | 310,648.489000 |
周防 | 262,927 | 289,392 | 291,334 | 344,800 | 351,110 | 357,507 | 358,761 | 397,836 | 429,329 | 436,198 | 413,630 | 435,188 | 497,034 | 498,732 | 189.20 | 6 | 152 | 489,428.677000 |
長門 | 212,124 | 226,934 | 233,307 | 241,037 | 240,921 | 245,020 | 247,012 | 250,063 | 257,607 | 259,171 | 251,779 | 261,100 | 330,502 | 331,328 | 201.51 | 6 | 150 | 404,853.333000 |
南海道 | 2,156,379 | 2,204,070 | 2,227,504 | 2,268,283 | 2,240,675 | 2,280,438 | 2,350,336 | 2,490,692 | 2,537,174 | 2,577,251 | 2,491,662 | 2,565,745 | 3,225,107 | 3,244,966 | 1,599.32 | 51 | 4,451 | 1,889,261.906450 |
紀伊 | 519,022 | 508,674 | 512,898 | 500,621 | 478,499 | 473,609 | 477,361 | 508,112 | 516,478 | 520,902 | 489,036 | 499,826 | 613,925 | 620,241 | 381.17 | 7 | 1,337 | 440,858.377710 |
淡路 | 105,226 | 107,113 | 107,120 | 106,161 | 104,352 | 104,269 | 112,449 | 119,327 | 123,748 | 123,500 | 119,147 | 122,773 | 164,939 | 165,485 | 36.73 | 2 | 251 | 97,164.784000 |
阿波 | 342,386 | 362,905 | 363,254 | 369,280 | 368,536 | 375,358 | 425,304 | 446,291 | 454,120 | 459,244 | 431,050 | 448,287 | 586,046 | 590,048 | 271.13 | 10 | 455 | 268,894.329000 |
讃岐[18] | 334,153 | 357,326 | 362,874 | 384,851 | 386,062 | 396,122 | 395,980 | 409,815 | 422,508 | 432,648 | 419,969 | 433,880 | 559,712 | 564,351 | 113.74 | 11 | 377 | 291,320.256400 |
伊予 | 504,045 | 499,860 | 508,592 | 514,773 | 516,186 | 531,378 | 529,829 | 563,669 | 574,847 | 585,651 | 580,589 | 599,948 | 775,974 | 778,556 | 341.56 | 14 | 955 | 460,997.639340 |
土佐 | 351,547 | 368,192 | 372,766 | 392,597 | 387,040 | 399,702 | 409,413 | 443,478 | 445,473 | 455,306 | 451,871 | 461,031 | 524,511 | 526,285 | 454.99 | 7 | 1,076 | 330,026.520000 |
西海道 | 3,074,829 | 3,165,370 | 3,203,636 | 3,226,255 | 3,240,720 | 3,237,146 | 3,299,697 | 3,366,302 | 3,422,274 | 3,449,732 | 3,397,987 | 3,468,045 | 5,139,365 | 5,163,730 | 2,830.82 | 96 | 7,509 | 4,114,612.705576 |
筑前 | 302,160 | 307,439 | 306,173 | 307,778 | 304,199 | 307,982 | 313,420 | 321,857 | 329,886 | 335,803 | 339,434 | 346,942 | 441,175 | 445,278 | 158.63 | 15 | 901 | 651,782.278440 |
筑後 | 266,426 | 260,875 | 263,176 | 270,448 | 273,293 | 272,239 | 277,579 | 284,169 | 292,913 | 307,206 | 295,678 | 299,041 | 391,535 | 393,656 | 80.87 | 10 | 710 | 375,588.897800 |
豊前 | 248,187 | 242,653 | 254,195 | 237,537 | 236,331 | 234,342 | 235,950 | 239,269 | 243,949 | 247,176 | 240,798 | 249,274 | 304,574 | 307,535 | 136.63 | 8 | 677 | 368,913.640500 |
豊後 | 524,394 | 511,880 | 511,706 | 469,687 | 468,200 | 464,722 | 466,106 | 474,016 | 474,540 | 475,985 | 457,229 | 470,875 | 562,318 | 565,460 | 344.11 | 8 | 1,473 | 417,514.227150 |
肥前 | 609,926 | 632,923 | 647,831 | 662,342 | 678,029 | 674,272 | 712,654 | 683,536 | 701,527 | 699,154 | 692,334 | 713,593 | 1,074,460 | 1,082,488 | 319.80 | 11 | 1,400 | 706,470.723196 |
肥後 | 614,007 | 620,244 | 621,294 | 646,892 | 656,035 | 663,414 | 671,316 | 720,216 | 738,078 | 743,544 | 741,677 | 755,781 | 953,037 | 950,389 | 489.29 | 14 | 1,116 | 611,920.291100 |
日向 | 211,614 | 225,421 | 225,713 | 230,133 | 228,691 | 229,624 | 230,783 | 241,310 | 243,412 | 245,476 | 249,955 | 247,621 | 376,527 | 382,564 | 511.40 | 5 | 483 | 340,128.861790 |
大隅[17][注 13] | 112,616 | 131,623 | 132,787 | 126,022 | 121,031 | 116,167 | 114,166 | 107,603 | 104,218 | 103,096 | 97,228 | 99,212 | 256,816 | 220,578 | 247.36 | 8 | 230 | 170,833.451000 |
薩摩[17][注 13] | 149,039 | 194,312 | 205,385 | 237,889 | 236,127 | 235,630 | 238,493 | 250,831 | 251,649 | 248,364 | 239,891 | 241,797 | 549,440 | 586,324 | 332.68 | 13 | 258 | 315,005.600120 |
壱岐 | 19,993 | 23,200 | 23,404 | 23,391 | 24,771 | 24,968 | 25,368 | 26,532 | 27,624 | 27,215 | 27,210 | 27,005 | 33,010 | 32,929 | 8.81 | 2 | 50 | 32,742.921000 |
対馬[19] | 16,467 | 14,800 | 11,972 | 14,136 | 14,013 | 13,786 | 13,862 | 16,963 | 14,478 | 16,713 | 16,553 | 16,904 | 29,684 | 29,740 | 44.33 | 2 | 140 | 0.000000 |
琉球[18][16][17][注 14] | 166,789 | 166,789 | 156.91 | 0 | 71 | 123,711.813480 | ||||||||||||
北海道[17][注 12] | 15,615 | 21,807 | 22,632 | 26,310 | 27,409 | 28,711 | 45,417 | 61,948 | 65,023 | 67,862 | 64,346 | 70,887 | 123,668 | 123,668 | 6,093.93 | 0 | 128 | 0.000000 |
蝦夷・松前[18][16][17][注 15] | 15,615 | 21,807 | 22,632 | 26,310 | 27,409 | 28,711 | 45,417 | 61,948 | 65,023 | 67,862 | 64,346 | 70,887 | 123,668 | 123,668 | 6,093.93 | 0 | 128 | 0.000000 |
石狩[16] | 6,003 | 6,003 | ||||||||||||||||
後志[16] | 19,098 | 19,098 | ||||||||||||||||
胆振[16] | 6,251 | 6,251 | ||||||||||||||||
渡島[16] | 75,830 | 75,830 | ||||||||||||||||
日高[16] | 6,574 | 6,574 | ||||||||||||||||
十勝[16] | 1,464 | 1,464 | ||||||||||||||||
釧路[16] | 1,734 | 1,734 | ||||||||||||||||
根室[16] | 832 | 832 | ||||||||||||||||
千島[16] | 437 | 437 | ||||||||||||||||
北見[16] | 1,511 | 1,511 | ||||||||||||||||
天塩[16] | 1,576 | 1,576 | ||||||||||||||||
樺太[16][17] | 2,358 | 2,358 | ||||||||||||||||
以上合計[注 16] | 26,065,422 | 25,917,830 | 26,061,700 | 25,086,466 | 24,891,441 | 25,471,033 | 25,621,957 | 26,603,597 | 27,201,198 | 27,063,907 | 25,918,412 | 26,907,625 | 33,110,825 | 33,300,675 | 24,791.98 | 630 | 63,690 | 30,558,917.841139 |
総数[18][17] | 26,065,422 | 25,917,830 | 26,061,830 | 25,086,466 | 24,891,441 | 25,471,033 | 25,621,957 | 26,602,110 | 27,201,400 | 27,063,907 | 25,918,412 | 26,907,625 | 33,110,825 | 33,300,675 | 24,796.63 | 630 | 63,690 | 30,558,917.841139 |
地域別推定人口の変遷
[編集]鬼頭宏による江戸時代の国別推定人口を地域別にまとめると以下の通りである。1700年以前の推定人口は1750年の幕府調査人口から逆算したもので、1721年以降の推定人口は幕府の調査人口を一律2割増ししたものである[4][5]。
地域[注 17] | 1600年 | 1650年 | 1700年 | 1721年 | 1750年 | 1756年 | 1786年 | 1792年 | 1798年 | 1804年 | 1822年 | 1828年 | 1834年 | 1840年 | 1846年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
北海道 (蝦夷) | 7,100 | 10,000 | 19,000 | 18,700 | 26,200 | 27,200 | 31,600 | 32,900 | 34,500 | 54,500 | 74,300 | 78,000 | 81,400 | 77,200 | 85,100 |
東奥羽 (陸奥) | 734,400 | 1,035,500 | 1,960,800 | 2,355,400 | 2,203,400 | 2,167,400 | 1,876,500 | 1,881,900 | 1,906,900 | 1,923,500 | 1,980,800 | 2,016,100 | 2,028,600 | 1,807,400 | 1,929,500 |
西奥羽 (出羽) | 338,500 | 477,300 | 903,800 | 1,053,200 | 1,015,500 | 1,006,100 | 965,900 | 980,100 | 1,023,600 | 1,044,200 | 1,091,100 | 1,135,100 | 1,129,100 | 999,200 | 1,094,900 |
北関東[注 17] | 714,300 | 1,007,200 | 1,907,200 | 2,210,300 | 2,143,000 | 2,106,400 | 1,766,600 | 1,696,600 | 1,704,200 | 1,664,400 | 1,617,100 | 1,603,300 | 1,501,700 | 1,552,200 | 1,594,200 |
南関東[注 17] | 1,304,600 | 1,839,600 | 3,483,300 | 3,938,100 | 3,913,800 | 3,865,900 | 3,484,200 | 3,464,900 | 3,516,400 | 3,490,500 | 3,474,300 | 3,609,400 | 3,502,800 | 3,605,100 | 3,731,900 |
北陸[注 17] | 864,200 | 1,218,500 | 2,307,500 | 2,586,800 | 2,592,600 | 2,655,500 | 2,530,100 | 2,628,000 | 2,723,300 | 2,769,300 | 3,013,700 | 3,117,900 | 3,169,000 | 2,881,400 | 3,041,400 |
東山[注 17] | 428,100 | 603,500 | 1,143,000 | 1,262,600 | 1,284,200 | 1,319,100 | 1,328,600 | 1,290,100 | 1,358,100 | 1,353,400 | 1,391,400 | 1,536,000 | 1,464,400 | 1,390,100 | 1,429,600 |
東海[注 17] | 1,081,300 | 1,821,000 | 2,555,100 | 2,642,200 | 2,710,100 | 2,691,800 | 2,718,800 | 2,585,800 | 2,754,700 | 2,775,300 | 2,973,000 | 2,950,100 | 2,940,900 | 2,821,100 | 2,920,900 |
畿内[注 17] | 2,284,600 | 2,567,400 | 2,567,400 | 2,699,800 | 2,567,400 | 2,604,100 | 2,449,600 | 2,432,800 | 2,458,600 | 2,420,800 | 2,479,200 | 2,519,600 | 2,492,700 | 2,322,400 | 2,398,500 |
畿内周辺[注 17] | 1,397,500 | 2,520,900 | 3,114,200 | 3,380,200 | 3,200,100 | 3,294,900 | 3,213,900 | 3,135,800 | 3,124,300 | 3,119,100 | 3,246,100 | 3,264,500 | 3,217,200 | 3,121,500 | 3,206,600 |
山陰[注 17] | 412,100 | 581,100 | 1,100,200 | 1,174,100 | 1,236,300 | 1,270,600 | 1,304,800 | 1,305,000 | 1,375,700 | 1,391,000 | 1,475,100 | 1,502,600 | 1,532,200 | 1,385,700 | 1,450,700 |
山陽[注 17] | 815,200 | 1,149,400 | 2,176,600 | 2,428,800 | 2,445,100 | 2,488,000 | 2,567,900 | 2,557,700 | 2,657,500 | 2,668,200 | 2,822,100 | 2,910,300 | 2,957,500 | 2,800,900 | 2,920,600 |
四国[注 17] | 625,000 | 881,300 | 1,668,700 | 1,838,600 | 1,874,700 | 1,929,000 | 1,993,800 | 1,989,400 | 2,043,100 | 2,112,600 | 2,235,900 | 2,276,300 | 2,319,400 | 2,260,200 | 2,331,800 |
北九州[注 17] | 797,500 | 1,124,400 | 2,129,300 | 2,385,100 | 2,392,500 | 2,434,100 | 2,382,400 | 2,398,600 | 2,390,800 | 2,453,900 | 2,455,600 | 2,501,900 | 2,531,100 | 2,483,100 | 2,548,400 |
南九州[注 17] | 468,600 | 660,800 | 1,251,100 | 1,304,600 | 1,405,900 | 1,422,200 | 1,489,100 | 1,490,300 | 1,493,800 | 1,505,700 | 1,584,000 | 1,604,800 | 1,608,600 | 1,594,500 | 1,613,300 |
全国合計 (琉球を除く) | 12,273,000 | 17,497,900 | 28,287,200 | 31,278,500 | 31,010,800 | 31,282,500 | 30,103,800 | 29,869,700 | 30,565,200 | 30,746,400 | 31,913,500 | 32,625,800 | 32,476,700 | 31,102,100 | 32,297,200 |
日本全体で見ると、江戸時代前期の急速な人口増加に比べ、幕府による調査人口が残っている1721年から1846年までは人口はほぼ横ばいといっていい状況だが、 享保(1730年代)、天明(1780年代)、天保(1830年代)の三大飢饉の時期には人口が減少し、平常年には多くの地域で人口が増大している。一方地域別で見ると、東奥羽と北関東は減少、北陸・東山・東海は増大、近畿は減少、中国・四国・九州は増大という傾向が見られる。
幕末の推定人口変遷
[編集]幕府の調査人口は、個々の地域においては大きな人口変動が認められるが、日本全土の総領民人口に関しては、125年間にわたって余り大きな変化が認められない。これに対し明治時代に入ると急激な人口増加が起こっている。しかしながら弘化3年(1846年)の幕末最後の全国人口調査から壬申戸籍が成立する明治5年(1872年)までは、全国人口に関する統計が存在しない空白の四半世紀であるため、人口増加の転換点は不明である。
森田優三(1944年)は、明治時代の年齢別人口統計に生命表の生存率を適用し、弘化3年(1846年)以前の人口を3000万人と仮定することで、過去の出生率を推定し、明治期の人口成長は文政期(1818~1830年)頃に始動した可能性があると指摘した[20]。
元号 | 西暦 | 推定年首人口 | 推定出生率 (明治19年末基準), ‰ | 推定出生率 (明治31年末基準), ‰ |
---|---|---|---|---|
弘化元年 | 1844年 | 30,000,000 | 28.0 | 27.7 |
弘化2年 | 1845年 | 30,000,000 | 29.7 | 29.8 |
弘化3年 | 1846年 | 30,024,000 | 26.6 | 26.0 |
弘化4年 | 1847年 | 30,195,000 | 29.8 | 29.9 |
嘉永元年 | 1848年 | 30,367,000 | 30.3 | 30.2 |
嘉永2年 | 1849年 | 30,540,000 | 31.4 | 31.7 |
嘉永3年 | 1850年 | 30,714,000 | 28.8 | 28.7 |
嘉永4年 | 1851年 | 30,890,000 | 27.1 | 26.8 |
嘉永5年 | 1852年 | 31,066,000 | 30.7 | 31.0 |
嘉永6年 | 1853年 | 31,243,000 | 30.2 | 30.1 |
安政元年 | 1854年 | 31,421,000 | 30.1 | 30.3 |
安政2年 | 1855年 | 31,599,000 | 29.2 | 29.2 |
安政3年 | 1856年 | 31,780,000 | 29.0 | 29.2 |
安政4年 | 1857年 | 31,961,000 | 29.5 | 29.8 |
安政5年 | 1858年 | 32,143,000 | 29.0 | 29.4 |
安政6年 | 1859年 | 32,327,000 | 26.9 | 26.9 |
万延元年 | 1860年 | 32,511,000 | 26.3 | 26.3 |
文久元年 | 1861年 | 32,696,000 | 23.1 | 22.6 |
文久2年 | 1862年 | 32,883,000 | 24.4 | 24.1 |
文久3年 | 1863年 | 33,070,000 | 25.7 | 25.6 |
元治元年 | 1864年 | 33,259,000 | 29.4 | 29.9 |
慶応元年 | 1865年 | 33,448,000 | 30.1 | 31.0 |
慶応2年 | 1866年 | 33,639,000 | 27.6 | 27.9 |
慶応3年 | 1867年 | 33,831,000 | 27.9 | 28.3 |
明治元年 | 1868年 | 34,024,000 | 29.9 | 30.7 |
明治2年 | 1869年 | 34,218,000 | 26.0 | 26.3 |
明治3年 | 1870年 | 34,413,000 | 25.2 | 25.8 |
明治4年 | 1871年 | 34,609,000 | 25.4 | 26.4 |
明治5年 | 1872年 | 34,806,000 | 27.5 | 28.2 |
一方弘化3年(1846年)の幕府調査人口と明治以降の戸籍人口を比較すると、江戸時代はむしろ人口減少地域であった両毛地域が明治初期には最大の人口増加地域へと変貌している。浜野潔らは、安政6年(1861年)の横浜港の開港が養蚕業の盛んな東北南部~北関東~東山地域に急速な経済の発展と人口増加をもたらし、日本全体の人口増加への転換となったと推定している。
辺境地域の人口変遷
[編集]蝦夷地・松前藩(福山藩/館藩)・アイヌの人口変遷
[編集]松前藩(蝦夷福山藩)はアイヌとの交易収入を独占するため(場所請負制)、和人地と蝦夷地を設置して往来を取締しまったが、19世初頭まで蝦夷地は人口調査の対象外であった。宝暦10年(1760年)の幕府巡検使への報告において和人地の人口は和人2万1647人を数えたほか、東在47人、西在50人、合計97人のアイヌが和人地に暮らしていた。また、福山城下の人口は安永6年(1777年)において、諸士1526人、寺社方170人、町方4308人であった。
元号 | 西暦 | 和人人口 (領民人口) | 城下 | 東在 | 西在 |
---|---|---|---|---|---|
享保6年 | 1721年 | 15,615 | |||
寛延3年 | 1750年 | 21,807 | |||
宝暦6年 | 1756年 | 22,631 | |||
宝暦10年 (家中寺社共) | 1760年 | 21,647 | 5,456 | 7,208 | 8,983 |
天明6年 | 1786年 | 26,310 | |||
寛政4年 | 1792年 | 27,409 | |||
寛政10年 | 1798年 | 28,711 |
通商を求め来航する外国船が後を絶たずロシアの南下を警戒した幕府は、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)に西蝦夷地を天領とし、アイヌに対しても人別帳の作成を行った[注 15]。文献ごとに数字が異なり、千島アイヌが北海道アイヌとまとめられているなど大まかな集計ではあるが、千島・樺太交換条約(1875年)により北海道へ移住する前の樺太アイヌの人口を記録しているなど貴重な資料となっている。
元号 | 西暦 | 蝦夷地・ 松前藩全域 (領民人口) | 和人 | アイヌ | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 北海道アイヌ | 北蝦夷地 (樺太) | |||||||
合計 | 六箇場所 (松前藩領内) | 東蝦夷地 (千島を含む) | 西蝦夷地 (樺太を除く) | ||||||
文化元年(家中寺社共) | 1804年 | 56,461 | 32,664 | 23,797 | 21,697 | 526 | 12,227 | 8,944 | 2,100 |
文化年中 | 1810年頃 | 58,540 | 31,740 | 26,800 | 450 | ||||
文政5年 | 1822年 | 61,948 | 37,138 | 24,810 | 22,239 | 472 | 12,119 | 9,648 | 2,571 |
文政11年 | 1828年 | 65,023 | |||||||
天保5年 | 1834年 | 67,862 | |||||||
天保10年 | 1839年 | 65,263 | 41,886 | 23,377 | 20,771 | 422 | 12,900 | 7,449 | 2,606 |
天保11年 | 1840年 | 64,346 | |||||||
弘化3年 | 1846年 | 70,887 | |||||||
嘉永元年 | 1848年 | 20,627 | 395 | 10,912 | 9,320 | ||||
安政元年 | 1854年 | 82,639 | 63,834 | 18,805 | 15,759 | 377 | 10,506 | 5,253 | 2,669 |
明治6年 (総人口) | 1873年 | 123,688 | 105,058 | 18,630 | 16,272 | 259 | 12,532 | 3,481 | 2,358 |
蝦夷地が天領になってからは和人の人口は増加し始めるが、一方でアイヌの人口は減少の傾向を見せる。これは和人との接触により天然痘、梅毒などの感染症が広がったことによる。文化4年(1821年)には蝦夷地の大藩が松前藩へ返却されたが、ペリー来航後の安政2年(1855年)には再び蝦夷地は天領となり、松前藩には陸奥国伊達郡と出羽国村山郡内の飛び地が与えられた。松前藩は慶応4年(1868年)に居城を福山城から館城に移した。明治3年(1870年)旧暦5月調の館藩の族籍別人口は以下の通りである。
族籍 | 合計 | 男 | 女 |
---|---|---|---|
士族 | 5,703 | 2,770 | 2,933 |
卒族 | 3,559 | 1,780 | 1,779 |
社家 | 122 | 68 | 54 |
僧・修験 | 459 | 410 | 49 |
平民 | 69,949 | 35,196 | 34,753 |
総人員 | 79,792 | 40,223 | 39,569 |
(典拠は葭田光三(1989年)[21]、白山友正 (1971年)[22]、関根達人(2010年)[23]、『新北海道史』)
琉球、奄美群島、鹿児島藩(薩摩藩)の人口変遷
[編集]琉球[注 14]は清の冊封国の建前上、江戸時代の全国人口調査の統計から除外されたが、その一方で鹿児島藩 (薩摩藩)によって琉球の宗門手札改が実施されていた。また、道之島(奄美群島)も明治に入って薩摩国(後に大隅国)に編入されるまで全国人口調査から除外されていたが、慶長18年(1613年)の琉球からの割譲以降鹿児島藩の直轄支配下にあった。これらの地域の人口は本土の人口と共に鹿児島藩の藩政史料として伝わっている。
以下鹿児島藩の総人口とともに奄美群島、「本琉球」[24]の人口をまとめる。幕府がまとめた旧国別人口(#旧国別調査人口の変遷記載の薩摩国、大隅国の人口)と幕府へ報告された領民人口(#江戸時代前期の推定人口変遷に示す『竹橋余筆別集』記載の元禄11年(1698年)と享保17年(1732年)の松平大隅守領人口)などは、鹿児島藩が幕府に報告した領民人口そのものであるが、本表では日向国諸県郡分の人口が判明している享保5年(1721年)分の領民人口のみを採用する。この一例を除き、他の統計はすべて武士、武家奉公人、従者などの除外人口を含む。なお鹿児島藩の人口調査は遺漏が多く、天保年間~幕末の遺漏人口は20万人以上とも推測されている。特に琉球は人頭税逃れのため遺漏が多く、沖縄県発足直後に調査人口がほぼ倍増している。
元号 | 西暦 | 鹿児島藩・ 琉球国全域 | 薩隅日三ヶ国合計 | 道之島(奄美群島) | 本琉球 | 他国 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | 薩摩国 | 大隅国 | 日向国 諸県郡 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | ||||
寛永9年 | 1632年 | 108,958 | 53,610 | 55,348 | |||||||||||
寛永13年[25] | 1636年 | 302,021 | 174,911 | 126,063 | 148,477 | 89,821 | 63,723 | 111,669 | 54,496 | 57,173 | |||||
万治2年 | 1659年 | 112,764 | 55,721 | 57,043 | |||||||||||
寛文5年 | 1665年 | 110,241 | 54,188 | 56,053 | |||||||||||
寛文年中 | 1670年頃 | 495,915 | 354,327 | 178,101 | 115,459 | 60,767 | 31,377 | 110,211 | 54,188 | 56,053 | |||||
寛文12年 | 1672年 | 116,483 | 57,540 | 58,943 | |||||||||||
延宝4年[注 18] | 1676年 | 369,062 | |||||||||||||
延宝5年[注 19] | 1677年 | 380,223 | 222,139 | 157,003 | 122,213 | 60,558 | 61,655 | ||||||||
貞享元年 | 1684年 | 355,387 | 183,376 | 117,583 | 54,428 | 129,995 | 64,235 | 65,760 | |||||||
元禄3年 | 1690年 | 128,567 | 63,430 | 65,137 | |||||||||||
元禄11年 (領民人口) | 1698年 | 260,961 | |||||||||||||
元禄12年 | 1699年 | 141,187 | 69,195 | 71,992 | |||||||||||
宝永3年[注 20] | 1706年 | 666,541 | 457,806 | 267,358 | 194,603 | 49,472 | 25,051 | 24,421 | 155,108 | 76,026 | 79,082 | 4,155 | |||
宝永4年 | 1707年 | 155,261 | |||||||||||||
正徳3年 | 1713年 | 157,760 | |||||||||||||
享保6年 (領民人口) | 1721年 | 303,642 | 173,040 | 130,602 | 149,039 | 112,616 | 41,987 | 167,671 | 80,009 | 87,662 | |||||
享保7年~享保12年 (領民人口) | 1722年~1727年 | 62,304 | 31,086 | 31,218 | 129,642 | 57,685 | 71,957 | ||||||||
享保14年 | 1729年 | 173,969 | |||||||||||||
享保17年 (領民人口) | 1732年 | 339,955 | |||||||||||||
元文2年 | 1737年 | 817,635 | |||||||||||||
延享2年 | 1745年 | 843,808 | |||||||||||||
宝暦3年 | 1753年 | 872,083 | |||||||||||||
宝暦11年 | 1761年 | 879,539 | 188,530 | ||||||||||||
明和9年 | 1772年 | 887,222 | 637,787 | 74,910 | 174,211 | 314 | |||||||||
天明6,7年 | 1786,87年 | 842,406 | |||||||||||||
寛政6年 | 1794年 | 623,627 | 338,765 | 284,862 | |||||||||||
寛政12年 | 1800年 | 857,562 | 626,856 | 372,573 | 177,312 | 76,971 | 74,593 | 155,650 | 463 | ||||||
文政9年 | 1826年 | 870,181 | 651,202 | 404,774 | 169,830 | 76,598 | 77,667 | 140,565 | 747 | ||||||
嘉永5年 | 1852年 | 843,906 | 625,365 | 393,527 | 157,111 | 74,727 | 85,125 | 132,678 | 738 | ||||||
明治4年[注 21] | 1871年 | 727,634 | 364,427 | 362,088 | 457,213 | 191,334 | 79,087 |
諸士、郷士、私領士、及び下人・足軽等を含めた鹿児島藩の武家人口は、明治維新の頃には34万人に達している。
身分・地域・職業 | 延宝5年 (1677年) | 貞享元年 (1684年) | 宝永3年 (1706年) | 明和9年 (1772年) | 寛政12年 (1800年) | 文政9年 (1826年) | 嘉永5年 (1852年) |
---|---|---|---|---|---|---|---|
薩隅日三ヶ国合計 | 380,223 | 355,387 | 457,806 | 637,787 | 626,856 | 651,202 | 625,365 |
人躰士 | 諸士 72,877 | 15,061 | 直士 92,805 | 32,349 | 37,075 | 37,670 | 37,607 |
城下士人躰 | 2,196 | 4,149 | 4,235 | 4,325 | 4,487 | ||
郷士人躰 | 12,865 | 21,637 | 22,857 | 23,231 | 22,834 | ||
私領家来人躰 | 6,563 | 9,983 | 10,114 | 10,286 | |||
人躰外士・妻子 | 三州武士 (人躰士を除く) 61,919 | 130,666 | 129,361 | 134,477 | 133,087 | ||
城下人躰外士・士妻娘 | 11,027 | 11,493 | 12,469 | 13,684 | |||
人躰外郷士・郷士妻娘 | 87,323 | 83,360 | 84,908 | 82,077 | |||
私領家来人躰外・家来妻娘 | 32,316 | 34,508 | 37,100 | 37,326 | |||
諸士又内・又々内・諸座附 | 諸座附者 4,468 又内・又々者 74,353 寺社家付門前 13,346 計 92,167 | 諸士家来・ 寺社家門前・ 町・在郷等 278,407 | 諸士家来・ 寺社家門前等 79,682 | 74,730 | 61,207 | 68,818 | 73,634 |
城下士家来・足軽・諸座附・寺社門前 | 27,725 | 28,113 | 35,774 | 39,922 | |||
郷士下人・足軽・中宿・諸座附・寺社門前 | 32,902 | 33,094 | 17,495 | 17,541 | |||
私領士家中・足軽・私領居住・寺社門前末々 | 14,103 | 15,549 | 16,171 | ||||
福昌寺・飯隈山役人 | 8 | 4 | 101 | 119 | |||
出家・寺社私領・妙音寺地神盲僧 | 1,767 | 1,118 | 1,742 | 1,177 | |||
苗代川・笠野原 | 911 | 1,446 | 1,413 | 2,148 | 1,989 | ||
在郷 | 167,387 | 213,169 | 383,144 | 328,141 | 333,727 | 307,254 | |
町浜 | 43,861 | 56,610 | 79,681 | 64,579 | 67,298 | 64,591 | |
鹿児島城下三町 | 7,023 | 5,737 | 5,185 | 4,941 | 4,040 | ||
野町・横井野町 | 9,326 | 10,700 | 9,622 | 10,167 | 10,433 | ||
浦浜・荒田浜 | 40,261 | 62,546 | 49,772 | 51,475 | 49,393 | ||
塩屋 | 698 | 510 | 531 | ||||
半浦 | 205 | 194 | |||||
流人・遠島者・赦免居附 | 2,850 | 192 | 6 | 97 | 166 | ||
死苦・慶賀・行脚・乞食 | 1,081 | 3,228 | 3,958 | 5,024 | 5,339 | ||
合計不一致[26] | –3 | –69,238 | 100 | 402 | |||
道之島 | 49,472 | 74,910 | 74,593 | 77,667 | 85,125 | ||
郷士格 | 47 | 192 | 1,566 | ||||
寺社 | 2 | 1 | |||||
在郷 | 49,302 | 74,131 | 76,814 | 82,782 | |||
流人・遠島者・赦免居附 | 170 | 719 | 660 | 777 | |||
徳之島乞食 | 11 | ||||||
琉球国 | 122,213 | 129,995 | 155,108 | 174,211 | 155,650 | 140,565 | 132,678 |
按司・親方・士 | 14,014 | 37,323 | 43,479 | 50,700 | 50,091 | ||
家来・下人 | 13,134 | 13,409 | 112,158 | 14,332 | 14,656 | ||
寺社 | 175 | 211 | 99 | 94 | |||
在郷 | 127,780 | 123,254 | 75,418 | 67,821 | |||
入墨流人 | 5 | ||||||
行脚 | 14 | 13 | 16 | 16 | |||
他国 | 4,155 | 314 | 463 | 747 | 738 | ||
他国(江戸・京・伏見・大坂・長崎)居付士分 | 3,109 | 314 | 463 | 747 | 738 | ||
他国居付百姓 | 876 | ||||||
他国牢人 | 170 | ||||||
総人口 | 666,541 | 887,222 | 857,562 | 870,181 | 843,906 |
(典拠は尾口義男(1998年, 2000年)[27]、『鹿児島県史』)
主な藩の人口調査
[編集]江戸時代中期以降の諸藩の領民人口調査は様々な形で残っているが、調査様式が各藩に任されたため内容・質に差がある。以下武家人口を含めた詳しい人員調査が残っている例として、金沢藩(加賀藩)、仙台藩、熊本藩(肥後藩)、萩藩/山口藩(長州藩)、佐賀藩(肥前藩)、岡山藩(備前藩)、若松藩(会津藩)、高知藩 (土佐藩)、久保田藩/秋田藩、盛岡藩(南部藩)、米沢藩、宇和島藩、弘前藩(津軽藩)、津和野藩を取り上げる。なお廃藩置県直前の明治初期の藩の人口に関しては、府藩県三治制下の日本の人口統計を参照。また、鹿児島藩(薩摩藩)に関しては、上述の#琉球、奄美群島、鹿児島藩(薩摩藩)の人口変遷を参照。
金沢藩(加賀藩)
[編集]享保6年(1721年)に金沢藩領内(支藩の大聖寺藩・富山藩領を除く)の15歳以上の人口を調べた「今津甚四郎書出候人数一巻」によると、金沢藩の15歳以上人口は左下のような身分構成となっている。これに対し幕府へ提出した15歳以上領民人口の構成は右下の通りで、多数の15歳未満人口のほか、御家中6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)、寺社方1万9785人のみならず、百姓・町人人口の内、寺社門前地の百姓・町人、藤内など合計6万6234人も除外人口となっていた実態がうかがえる。
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15歳以上の百姓・町民人口の変遷は以下の通りである。金沢城下町の町方人口については金沢市参照。
年号 | 西暦 | 合計 | 男 | 女 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
寛文4年 | 1664年 | 514,864 | 15歳未満を含む | ||
寛文7年 | 1667年 | 518,864 | 15歳未満を含む | ||
享保5年 | 1720年 | 551,754 | |||
享保6年 | 1721年 | 707,677 | 364,885 | 342,792 | 領内人口 |
554,356 | 285,090 | 269,266 | |||
享保17年 | 1732年 | 576,734 | |||
文化10年 | 1813年 | 844,054 | 領内人口 | ||
文政11年 | 1828年 | 664,934 | 338,628 | 326,306 | |
天保5年 | 1834年 | 680,938 | 345,562 | 335,376 | |
天保11年 | 1840年 | 639,592 | 322,490 | 317,102 | |
弘化3年 | 1846年 | 679,920 | 343,486 | 336,434 | |
嘉永5年 | 1852年 | 696,307 | 349,532 | 346,775 |
15歳未満の人口も含む明治3年旧暦閏10月10日(西暦1870年12月02日)の金沢藩の族籍別人口は以下の通りで、金沢藩は明治維新の頃に人口が100万人を超えていた唯一の藩である。
族籍 | 合計 | 男 | 女 |
---|---|---|---|
華族 | 11 | 3 | 8 |
士族 | 28,683 | 13,907 | 14,776 |
卒族 | 27,038 | 14,655 | 12,383 |
中間小者 | 5,938 | 3,567 | 2,371 |
社人 | 1,799 | 953 | 846 |
寺院 | 13,326 | 9,320 | 4,006 |
百姓・町人 | 997,669 | 498,585 | 499,084 |
藤内等 | 11,695 | 5,846 | 5,849 |
領内人口 | 1,086,159 | 546,836 | 539,323 |
(典拠は『加賀藩史料』、土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』弘文堂(1927年)、『石川県史』)
仙台藩
[編集]以下に支藩の一関藩を含む仙台藩の身分別人口の変遷を示す。仙台藩は中世の地方知行制が幕末まで存続し、万石以上の家臣も5家存在した。その結果「一門・諸士・諸組・諸職人」と称される武家には相当数の陪臣が含まれる。なお享保2年(1717年)の陸奥領と一関藩領の郡方人口は、武家等除外人口を含めたものを掲載している。
身分・地域 | 寛文8年 (1668年) | 延宝2年 (1674年) | 貞享3年 (1686年) | 元禄3年 (1690年) | 元禄8年 (1695年) | 元禄15年 (1702年) | 享保2年 (1717年) | 享保17年 (1732年) | 寛保2年 (1742年) | 宝暦7年 (1757年) | 天明6年 (1786年) | 寛政元年 (1789年) | 享和2年 (1802年) | 文政8年 (1825年) | 文政11年 (1828年) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
一門・諸士・諸組・諸職人 | 151,211 | 176,057 | 194,203 | 205,916 | 185,570 | 133,174 | 143,208 | 149,465 | |||||||
仙台藩 | 202,541 | 182,678 | 171,639 | 130,509 | 140,438 | 146,352 | |||||||||
一関藩(支藩) | 3,375 | 2,892 | 2,665 | 2,770 | 3,113 | ||||||||||
仙台町方 | 18,493 | 20,073 | 22,501 | 22,706 | 20,374 | 11,610 | 13,302 | 13,749 | |||||||
仙台寺院方 | 9,209 | 9,224 | 2,554 | 2,884 | 6,249 | 4,007 | 4,496 | 4,695 | |||||||
郡方 | 428,955 | 515,472 | 557,009 | 599,241 | 588,251 | 617,323 | 647,427 | 603,868 | 447,491 | 478,064 | 519,893 | ||||
陸奥領 | 473,892 | 512,941 | 507,900 | 542,268 | 819,162 | 559,204 | 534,901 | 411,496 | 409,632 | 440,799 | 481,180 | 490,571 | |||
一関藩領 | 41,580 | 25,756 | 26,694 | 31,314 | 26,293 | 21,877 | 20,259 | 21,671 | 23,032 | ||||||
近江領 | 8,332 | 9,095 | 9,380 | 8,917 | 7,982 | 8,089 | 8,129 | ||||||||
常陸領 | 9,980 | 10,194 | 9,840 | 9,299 | 7,611 | 7,358 | 7,402 | ||||||||
下総領(正徳2年以降) | 150 | 155 | 143 | 147 | 150 | ||||||||||
総数[26] | 607,868 | 720,826 | 776,277 | 819,749 | 869,846 | 816,061 | 596,282 | 598,001 | 639,070 | 687,802 | 699,334 | ||||
男 | 349,841 | 414,558 | 443,060 | 498,846 | 464,356 | 317,460 | 340,762 | 363,225 | |||||||
女 | 258,027 | 306,268 | 333,217 | 371,000 | 351,705 | 278,822 | 298,308 | 324,577 |
城下町仙台以外の地方の町方、寺社方や穢多の人口は郡方人口に含まれる。なお仙台藩陸奥領内郡方人口に関しては、『伊達家勘定方』、『御分領惣人高調』などに寛保2年(1742年)より天保3年(1832年)までほぼ毎年分記載されている。以下一関藩を含め、記録に残っている郡方人口の変遷をまとめる。天明の大飢饉により大幅な人口減少が起こっている。
元号 | 西暦 | 陸奥領 | 一関藩 | 元号 | 西暦 | 陸奥領 | 一関藩 | 元号 | 西暦 | 陸奥領 | 一関藩 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
寛文8年 | 1668年 | 428,955 | 明和元年 | 1764年 | 525,391 | 享和3年 | 1803年 | 440,769 | 21,753 | ||
延宝2年 | 1674年 | 473,892 | 明和2年 | 1765年 | 525,067 | 文化元年 | 1804年 | 436,763 | |||
天和2年 | 1682年 | 25,436 | 明和3年 | 1766年 | 524,845 | 文化2年 | 1805年 | 438,237 | 21,670 | ||
貞享3年 | 1686年 | 538,697 | 25,756 | 明和4年 | 1767年 | 525,595 | 文化3年 | 1806年 | 438,658 | ||
元禄3年 | 1690年 | 507,900 | 明和5年 | 1768年 | 524,023 | 22,290 | 文化4年 | 1807年 | 436,468 | ||
元禄8年 | 1695年 | 542,268 | 26,694 | 明和6年 | 1769年 | 522,759 | 文化5年 | 1808年 | 435,967 | 21,359 | |
元禄11年 | 1698年 | 26,597 | 明和7年 | 1770年 | 520,485 | 文化8年 | 1811年 | 453,070 | |||
宝永元年 | 1704年 | 26,836 | 明和8年 | 1771年 | 519,557 | 文化9年 | 1812年 | 457,301 | |||
宝永3年 | 1706年 | 27,785 | 安永元年 | 1772年 | 522,346 | 文化10年 | 1813年 | 458,876 | |||
正徳元年 | 1711年 | 27,571 | 安永2年 | 1773年 | 519,714 | 文化11年 | 1814年 | 463,724 | |||
正徳2年 | 1712年 | 27,733 | 安永3年 | 1774年 | 518,691 | 文化12年 | 1815年 | 468,149 | |||
正徳4年 | 1714年 | 27,759 | 安永4年 | 1775年 | 516,062 | 22,737 | 文化13年 | 1816年 | 472,030 | ||
正徳5年 | 1715年 | 28,020 | 安永5年 | 1776年 | 516,481 | 文化14年 | 1817年 | 475,481 | |||
享保元年 | 1716年 | 28,307 | 安永6年 | 1777年 | 510,249 | 文政元年 | 1818年 | 477,013 | |||
享保9年 | 1724年 | 27,679 | 安永7年 | 1778年 | 509,112 | 文政2年 | 1819年 | 478,654 | |||
享保10年 | 1725年 | 27,694 | 安永8年 | 1779年 | 505,798 | 文政3年 | 1820年 | 478,372 | |||
享保13年 | 1728年 | 27,998 | 安永9年 | 1780年 | 503,931 | 文政4年 | 1821年 | 479,211 | |||
元文5年 | 1740年 | 26,569 | 天明元年 | 1781年 | 502,124 | 文政5年 | 1822年 | 477,637 | |||
寛保2年 | 1742年 | 559,204 | 26,293 | 天明2年 | 1782年 | 22,435 | 文政6年 | 1823年 | 480,670 | ||
寛保3年 | 1743年 | 26,130 | 天明3年 | 1783年 | 493,245 | 文政7年 | 1824年 | 482,200 | |||
延享2年 | 1745年 | 26,106 | 天明4年 | 1784年 | 478,894 | 文政8年 | 1825年 | 481,190 | 23,032 | ||
延享4年 | 1747年 | 556,887 | 天明5年 | 1785年 | 413,191 | 文政9年 | 1826年 | 482,884 | |||
寛延元年 | 1748年 | 551,796 | 天明6年 | 1786年 | 411,496 | 20,259 | 文政10年 | 1827年 | 486,640 | ||
寛延2年 | 1749年 | 550,158 | 天明7年 | 1787年 | 410,974 | 文政11年 | 1828年 | 490,571 | |||
寛延3年 | 1750年 | 551,875 | 25,009 | 天明8年 | 1788年 | 410,196 | 文政12年 | 1829年 | |||
宝暦元年 | 1751年 | 551,000 | 寛政元年 | 1789年 | 409,632 | 天保元年 | 1830年 | 495,744 | |||
宝暦2年 | 1752年 | 551,367 | 24,665 | 寛政2年 | 1790年 | 410,401 | 天保2年 | 1831年 | 494,080 | ||
宝暦3年 | 1753年 | 550,001 | 寛政3年 | 1791年 | 411,173 | 天保3年 | 1832年 | 495,501 | 23,180 | ||
宝暦4年 | 1754年 | 541,110 | 寛政6年 | 1794年 | 20,995 | 天保12年 | 1841年 | 19,305 | |||
宝暦6年 | 1756年 | 539,036 | 寛政7年 | 1795年 | 411,823 | 嘉永4年 | 1851年 | 21,541 | |||
宝暦7年 | 1757年 | 534,901 | 21,877 | 寛政8年 | 1796年 | 415,054 | 嘉永5年 | 1852年 | 478,613 | 21,654 | |
宝暦8年 | 1758年 | 517,263 | 21,875 | 寛政9年 | 1797年 | 423,074 | 嘉永6年 | 1853年 | 486,609 | 22,227 | |
宝暦9年 | 1759年 | 515,430 | 寛政10年 | 1798年 | 425,786 | 安政元年 | 1854年 | 492,988 | 22,418 | ||
宝暦10年 | 1760年 | 514,576 | 寛政11年 | 1799年 | 431,488 | 安政2年 | 1855年 | 500,149 | 22,751 | ||
宝暦11年 | 1761年 | 512,641 | 寛政12年 | 1800年 | 437,204 | 文久3年 | 1863年 | 540,176 | |||
宝暦12年 | 1762年 | 513,625 | 享和元年 | 1801年 | 439,125 | 慶応3年 | 1867年 | 556,983 | |||
宝暦13年 | 1763年 | 530,252 | 享和2年 | 1802年 | 440,799 | 21,671 |
以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷を示すが、宗門改帳の研究により天保の大飢饉の際の大幅な人口減も示されている[28]。
戊辰戦争による処分により仙台藩は内高28万石に減封となる。幕末の仙台藩士分(藩主家族、一関藩を除く)は直参家中9854家(一門11家、上士78家、中士(大番士)3314家、下士(諸組士)987家、卒族5464家)、陪隷2万4296家(一門陪臣9028家、上士陪臣8793家、中士陪臣6475家)、合計3万4150家という構成になっていたが[29]、明治2年(1869年)5月の段階で士分3万3128家17万2239人(家中9651家5万6468人、陪隷2万3477家11万5771人)の内、家中1993家9965人と陪隷全員が帰農となった。明治3(1870)年の族籍別人口は以下の通りである。
族籍 | 二藩合計 | 仙台藩 | 一関藩 |
---|---|---|---|
華族 | 10 | 6 | 4 |
士族 | 31,066 | 29,408 | 1,658 |
卒 | 14,240 | 13,091 | 1,149 |
神職 | 830 | 683 | 147 |
僧尼 | 4,383 | 4,327 | 56 |
平民 | 214,357 | 191,244 | 23,113 |
穢多 | 427 | 396 | 31 |
非人 | 781 | 742 | 39 |
合計 | 266,094 | 239,897 | 26,197 |
(典拠は玉山勇(1942年)[30]、『岩手県史』、『宮城県史』、高木正朗, 新屋均(2006年)[31])
熊本藩(肥後藩)
[編集]文政11年(1828年)と明治2年(1869年)の熊本藩の身分別・族籍別人口は以下のとおりである。
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また、領民人口の変遷は以下の通りである。文政11年の身分別人口と比較すると、総人口64万8277人中百姓55万8257人と五ヶ町(熊本、八代、川尻、高瀬、高橋)町方3万2491人の合計59万0748人が幕府へ報告される領民人口として扱われ、武家、寺社方合計5万7529人が計外人口として扱われていたことが分かる。
年号 | 西暦 | 合計 | 男 | 女 | 肥後領 | 豊後領 |
---|---|---|---|---|---|---|
寛永10年 | 1633年 | 203,678 | 132,921 | 101,356 | ||
寛永11年 | 1634年 | 223,578 | ||||
寛永年中 | 1635年頃 | 223,834 | 207,209 | 16,625 | ||
寛永14年 | 1637年 | 234,277 | 132,921 | 101,356 | 215,019 | 19,258 |
天和2年 | 1682年 | 394,985 | ||||
延宝・天和年中 | 1680年頃 | 432,032 | ||||
享保6年 | 1721年 | 547,514 | ||||
享保11年 | 1726年 | 559,131 | 304,313 | 254,818 | ||
享保17年 | 1734年 | 560,546 | ||||
享保19年 | 1736年 | 531,248 | 285,364 | 245,884 | 491,911 | 39,337 |
元文3年 | 1738年 | 536,986 | ||||
宝暦4年 | 1754年 | 520,545 | ||||
宝暦11年 | 1761年 | 525,547 | 283,415 | 242,132 | 480,597 | 44,950 |
宝暦12年 | 1762年 | 537,102 | 284,958 | 252,144 | 498,034 | 39,068 |
明和5年 | 1768年 | 547,590 | 289,851 | 257,739 | 506,528 | 41,062 |
安永3年 | 1774年 | 549,687 | 289,672 | 260,015 | 509,588 | 40,099 |
安永9年 | 1780年 | 550,404 | 289,821 | 260,583 | 510,541 | 39,863 |
天明6年 | 1786年 | 528,788 | 277,472 | 251,316 | 489,640 | 39,148 |
寛政4年 | 1792年 | 532,174 | 278,509 | 253,665 | 493,275 | 38,899 |
寛政10年 | 1798年 | 535,543 | 278,535 | 257,008 | 496,482 | 39,061 |
文化元年 | 1804年 | 541,393 | 281,163 | 260,230 | 502,135 | 39,258 |
文化5年 | 1808年 | 512,575 | 461,809 | 50,766 | ||
文化7年 | 1810年 | 553,351 | 286,803 | 266,548 | 512,891 | 40,460 |
文化13年 | 1816年 | 569,729 | 293,954 | 275,775 | 528,561 | 41,168 |
文政5年 | 1822年 | 577,788 | 298,217 | 279,571 | 536,412 | 41,376 |
文政11年 (総数) | 1828年 | 590,748 648,277 | 303,645 | 287,103 | 548,780 | 41,968 |
天保5年 | 1834年 | 593,661 | 304,095 | 289,566 | ||
天保11年 | 1840年 | 593,651 | 303,923 | 289,728 | ||
天保13年 | 1842年 | 553,871 | 282,141 | 271,730 | 503,833 | 50,038 |
弘化3年 | 1846年 | 606,967 | 309,615 | 297,352 | ||
嘉永5年 | 1852年 | 615,520 | 312,112 | 303,408 | ||
安政5年 | 1858年 | 622,869 | 315,206 | 307,663 | 579,931 | 42,938 |
明治2年 (総数) | 1869年 | 594,321 720,000 | 297,584 362,668 | 296,737 357,332 |
(典拠は『熊本県史』、『肥後読史総覧』、鎌田浩『熊本藩の法と政治』創文社(1998年)、『新熊本市史』)
萩藩/山口藩(長州藩)
[編集]元禄7年(1694年)の萩藩の身分別人口と、防長領国を構成する各藩(萩藩と、その支藩である長府藩、清末藩、徳山藩、岩国藩)の町在共人口を以下にまとめる。
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さらに約100年後の寛政4年(1797年)の萩藩の身分別人口と、防長領国を構成する各藩の家中人口を以下にまとめる。
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明治2年(1869年)の族籍別人口は以下の通りで、萩藩陪臣2万5487人[32]はこの段階では士族か卒族か決まってなかった。しかしながら明治5年(1872年)の壬申戸籍では山口県全体で士族の人口は7万1776人となっており、最終的に足軽・中間・陪臣を含め、ほぼ全ての旧武家階級が士族になっている。
族籍 | 防長合計 | 山口藩 | 豊浦藩 | 清末藩 | 徳山藩 | 岩国藩 |
---|---|---|---|---|---|---|
華族 | 26 | 7 | 3 | 9 | 4 | 3 |
士族 | 20,710 | 11,589 | 2,556 | 844 | 2,003 | 3,718 |
卒 | 22,575 | 10,362 | 4,910 | 677 | 2,147 | 4,479 |
神職 | 3,356 | 2,277 | 412 | 85 | 150 | 432 |
僧尼 | 8,727 | 6,131 | 1,037 | 122 | 345 | 1,092 |
平民 | 729,289 | 524,322 | 66,999 | 9,199 | 50,547 | 78,222 |
穢多 | 13,239 | 10,419 | 509 | 38 | 649 | 1,624 |
非人 | 1,631 | 261 | 461 | 78 | 8 | 823 |
合計 | 799,553 | 565,368 | 76,887 | 11,052 | 55,853 | 90,393 |
また、防長二ヶ国の領民人口の変遷を以下にまとめる。享保6年(1721年)以降、6年毎に幕府へ支藩を含めた領民人口を報告することが義務付けられ(享保6年分として萩藩より報告されているものは実際は享保5年(1720年)の人口)、萩藩には幕府が人口集計を中断した嘉永5年(1852年)以降の分の集計も残っている。萩藩の場合、武家・武家奉公人等家中、寺社方・寺社方支配場、萩町町方、乞食・非人、領内に籍を置かない旅人の人口は除外したが、浜崎・山口・三田尻の町方、農民(地方)・漁民(浦方)の本百姓・門男(水呑百姓)、穢多・宮番・茶筅の人口は領民人口に含めていた。また、人口の減少の責を免れるため、藩主の了解のもと幕府報告の際に度々人口を改竄していたことが『公儀事諸控』の記録より判明している。例えば延享3年(1750年)には6000人の人口水増しを行っている。その6年後の宝暦6年(1756年)の領民人口も、各藩の合計48万2278人と幕府報告人口52万4646人が一致しない。
年号 | 西暦 | 防長合計 | 旧国別 | 藩別 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | 長門 | 周防 | 萩/山口藩 | 長府/豊浦藩 | 清末藩 | 徳山藩 | 岩国藩 | ||
寛文3年 | 1663年 | 204,331 | |||||||||
元禄7年 (総数) | 1694年 | 418,827 | 222,861 | 195,966 | 275,511 335,567 | 56,960 | 10,715 | 23,164 | 52,477 | ||
享保5年 | 1720年 | 475,051 | 251,425 | 223,626 | 212,124 | 262,927 | |||||
享保11年 | 1726年 | 461,040 | 252,293 | 208,747 | 200,218 | 260,822 | |||||
享保17年 | 1732年 | 486,485 | 266,182 | 220,303 | 216,395 | 270,090 | |||||
元文3年 | 1738年 | 475,845 | 255,693 | 220,152 | 207,424 | 268,421 | |||||
延享元年 | 1744年 | 521,531 | 276,212 | 245,319 | 228,384 | 293,147 | |||||
寛延3年 (改竄前) | 1750年 | 516,326 510,326 | 274,934 271,707 | 241,392 238,619 | 226,934 225,005 | 289,392 285,321 | |||||
宝暦6年 | 1756年 | 524,646 | 277,542 | 247,104 | 233,312 | 291,334 | 366,665 | 54,953 | 8,339 | 39,099 | 68,175 |
宝暦12年 | 1762年 | 505,599 | 268,637 | 236,962 | 216,249 | 289,350 | |||||
明和5年 | 1768年 | 524,912 | |||||||||
安永3年 | 1774年 | 524,072 | 279,758 | 244,314 | 223,204 | 300,868 | 40,112 | ||||
安永8年 | 1779年 | 424,404 | |||||||||
安永9年 (総数) | 1780年 | 549,072 612,479 | 284,413 | 264,659 | 226,995 | 322,077 | 38,959 | ||||
天明3年 | 1783年 | 421,500 | |||||||||
天明6年 | 1786年 | 585,837 | 304,918 | 280,919 | 241,037 | 344,800 | 416,826 | 52,163 | 7,868 | 39,389 | 69,591 |
天明8年 | 1788年 | 402,637 | |||||||||
寛政2年 | 1790年 | 402,249 | |||||||||
寛政3年 | 1791年 | 403,082 | |||||||||
寛政4年 (総数) | 1792年 | 592,031 | 309,058 | 282,973 | 240,921 | 351,110 | 403,257 476,505 | 40,082 | |||
寛政9年 | 1797年 | 406,479 | |||||||||
寛政10年 | 1798年 | 602,527 | 314,266 | 288,261 | 245,020 | 357,507 | 52,191 | 8,312 | 42,048 | ||
文化元年 | 1804年 | 605,773 | 318,910 | 286,863 | 247,012 | 358,761 | 52,325 | 8,385 | 40,826 | ||
文化4年 | 1807年 | 408,620 | |||||||||
文化7年 | 1810年 | 622,165 | 52,556 | 8,197 | |||||||
文化9年 | 1812年 | 420,953 | |||||||||
文化13年 | 1816年 | 647,451 | 44,215 | ||||||||
文化14年 | 1817年 | 434,187 | |||||||||
文政5年 | 1822年 | 647,899 | 339,812 | 308,087 | 250,063 | 397,836 | 435,381 | ||||
文政6年 | 1823年 | 436,291 | |||||||||
文政7年 | 1824年 | 436,403 | |||||||||
文政8年 | 1825年 | 438,538 | |||||||||
文政9年 | 1826年 | 439,296 | |||||||||
文政10年 | 1827年 | 465,887 | |||||||||
文政11年 | 1828年 | 686,936 | 358,279 | 328,658 | 257,607 | 429,329 | |||||
天保2年 | 1831年 | 469,198 | |||||||||
天保3年 | 1832年 | 472,482 | |||||||||
天保4年 | 1833年 | 473,714 | |||||||||
天保5年 | 1834年 | 695,369 | 363,180 | 332,189 | 259,171 | 436,198 | 475,609 | 47,156 | |||
天保6年 | 1835年 | 476,764 | |||||||||
天保8年 | 1837年 | 472,580 | |||||||||
天保10年 | 1839年 | 466,342 | |||||||||
天保11年 | 1840年 | 665,549 | 346,562 | 318,987 | 251,779 | 413,630 | 467,285 | ||||
天保13年 | 1842年 | 459,204 | |||||||||
天保14年 | 1843年 | 461,166 | |||||||||
弘化元年 | 1844年 | 464,118 | |||||||||
弘化3年 | 1846年 | 696,288 | 364,591 | 331,697 | 261,100 | 435,188 | |||||
弘化4年 | 1847年 | 471,327 | |||||||||
嘉永5年 | 1852年 | 706,888 | 367,758 | 339,130 | 266,165 | 440,723 | 477,576 | ||||
安政2年 | 1855年 | 482,636 | |||||||||
安政3年 | 1856年 | 484,937 | |||||||||
安政4年 | 1857年 | 486,157 | |||||||||
安政5年 | 1858年 | 720,630 | 375,015 | 345,615 | 271,887 | 448,743 | 488,885 | 61,657 | 8,130 | ||
文久元年 | 1861年 | 489,238 | |||||||||
文久2年 | 1862年 | 485,973 | |||||||||
文久3年 | 1863年 | 480,381 | |||||||||
元治元年 | 1864年 | 476,121 | |||||||||
慶応元年 | 1865年 | 496,575 | |||||||||
慶応2年 | 1866年 | 497,885 | |||||||||
慶応3年 | 1867年 | 487,401 | |||||||||
慶応4年 | 1868年 | 488,655 | |||||||||
明治2年 (総数) | 1869年 | 799,553 | 490,095 565,368 | 76,887 | 11,052 | 55,853 | 90,393 | ||||
明治3年 | 1870年 | 500,841 |
(典拠は石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』山五青写真工業(2005年))
佐賀藩(肥前藩)
[編集]佐賀藩では本藩と小城藩、蓮池藩、鹿島藩の各支藩を含めた領地について、武家人口を含めた領内総人口の統計を残している。天明6年(1786年)、安政元年(1854年)、元治元年(1864年)については幕府へ届け出た領民人口が分かっており、計外人口は、天明6年に約14万2500人、安政元年に19万5606人、元治元年に18万3683人と求まる。また、享保17年(1732年)の享保の大飢饉を挟む享保16年(1731年)と享保19年(1734年)の間に6万人前後の人口減少が起こっている。記録によると、享保18年(1730年)3月までに多久領で3866人、鹿島藩領で1359人の餓死者が出たとされる。
元号 | 西暦 | 合計 | 男 | 女 |
---|---|---|---|---|
延宝3年 | 1675年 | 305,040 | ||
延宝4年 | 1676年 | 307,669 | 190,986 | 116,683 |
貞享4年 | 1687年 | 329,881 | 203,628 | 126,266 |
元禄12年 | 1699年 | 352,470 | ||
元禄13年 | 1700年 | 354,961 | 217,004 | 137,957 |
宝永3年 | 1706年 | 363,107 | 220,248 | 142,859 |
宝永4年 | 1707年 | 360,840 | 218,762 | 142,078 |
正徳3年 | 1713年 | 365,381 | 220,714 | 144,667 |
享保8年 | 1723年 | 367,619 | 219,792 | 147,827 |
享保15年 | 1730年 | 373,196 | ||
享保16年 | 1731年 | 371,956 | 220,555 | 151,401 |
享保19年 | 1734年 | 292,110 | 165,884 | 126,226 |
宝暦10年 | 1760年 | 352,804 | 201,184 | 151,620 |
明和3年 | 1766年 | 361,644 | 205,576 | 156,068 |
天明6年 (領民人口) | 1786年 | 219,571 | 120,697 | 96,874 |
寛政3年 | 1791年 | 362,294 | 201,302 | 160,992 |
文政4年 | 1821年 | 366,877 | 197,862 | 169,015 |
天保15年 | 1844年 | 392,100 | ||
弘化2年 | 1845年 | 402,039 | 211,530 | 190,509 |
安政元年 (領民人口) | 1854年 | 440,932 245,326 | ||
元治元年 (領民人口) | 1864年 | 434,764 251,081 | 225,405 130,294 | 209,359 120,787 |
明治3年 | 1870年 | 513,449 | 265,950 | 247,499 |
初期の佐賀藩では出入国を禁じる政策を取っていたが、炭鉱の開発が進んだ天保年中より他国からの人口流入が引き起こり、安政元年(1854年)の頃には領内本籍者40万2769人に対し、他国者が3万8163人に増えていた。急激な人口増加傾向は幕末から明治維新まで続いている。
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(典拠は城島正祥(1973年)[33])
岡山藩(備前藩)
[編集]宝永4年(1707年)旧暦6月15日の支藩(生坂藩、鴨方藩)を含めた岡山藩の身分別人口は以下の通りである。なお岡山藩の人別は年齢2歳以上で集計されており、当歳新生児は除外されている。
内訳 | 合計 | 男 | 女 |
---|---|---|---|
御城女中 | 70 | 0 | 70 |
家中 | 10,027 | 5,137 | 4,890 |
在中 | 334,668 | 175,246 | 159,422 |
鹿久居流人・郡方牢舎人 | 187 | 168 | 19 |
町中 | 28,298 | 14,299 | 13,999 |
乞食 | 346 | 184 | 162 |
寺社 | 7,932 | 4,598 | 3,334 |
御国者合計 | 381,528 | 199,632 | 181,896 |
他国者 | 1,497 | 926 | 571 |
惣人数 | 383,025 | 200,558 | 182,467 |
岡山藩では以上のような本籍地による宗門改帳からの人口集計とは別に、現住地による人別帳からの人口集計も実施していた。
使用人を含めた武家人口は、家中人口1万0027人に町方・在方帳面者、他国者を加えた2万2628人である。
内訳 | 家中・又者人口 | 家中帳面者 | 町方・在方帳面者 | 他国者 | ||||||||
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合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | |
峰千代丸家来中・ 年寄中五人家来中・ 善太郎家来中 | 5,537 | 3,125 | 2,412 | 2,676 | 1,341 | 1,335 | 2,768 | 1,735 | 1,033 | 93 | 49 | 44 |
番頭より中小姓格まで知行取・無足753家 | 9,012 | 4,743 | 4,269 | 3,944 | 1,945 | 1,999 | 4,833 | 2,668 | 2,165 | 235 | 130 | 105 |
士鉄砲・忍び・御徒等762家 | 3,453 | 1,676 | 1,777 | 2,211 | 1,173 | 1,038 | 1,209 | 479 | 730 | 33 | 24 | 9 |
足軽・楫取・加子・小人等436家 | 3,130 | 2,682 | 448 | 603 | 332 | 271 | 2,511 | 2,337 | 174 | 16 | 13 | 3 |
丹波守(生坂藩)家来中・ 内匠(鴨方藩)家来中・ 主膳家来中 | 1,496 | 984 | 512 | 593 | 346 | 247 | 849 | 589 | 260 | 54 | 49 | 5 |
惣人数 | 22,628 | 13,210 | 9,418 | 10,027 | 5,137 | 4,890 | 12,170 | 7,808 | 4,362 | 431 | 265 | 166 |
武家屋敷と寺社地を除く岡山城下の人口は、城下に居住しない町方帳面者を含めて3万0635人であり(両山乞食346人を除く)、城下町を除く備前・備中国内領地の郡村の人口は、武家や町中に居住している在方帳面者を含めて33万5462人である。寺社方を含めた在町人口の総計は、37万5724人で、以下その内訳をまとめる。
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以上、岡山藩の武家人口が判明しているのは宝暦4年(1707年)分のみである。以下に岡山藩の領民人口の変遷をまとめる。備前八郡とは御野郡、上道郡、邑久郡、和気郡、磐梨郡、赤坂郡、津高郡、児島郡、備中五郡とは浅口郡の内、窪屋郡の内、下道郡の内、都宇郡の内、賀陽郡の内である。
年号 | 西暦 | 町在共人口 | 在方人口 | 備考 | ||||||
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合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 備前八郡 | 備中五郡 | |||
明暦元年 | 1655年 | 250,096 | ||||||||
寛文5年 | 1665年 | 307,241 | 159,101 | 148,140 | ||||||
延宝3年 | 1675年 | 316,019 | 163,275 | 152,744 | ||||||
延宝7年 | 1679年 | 279,765 | 146,527 | 133,238 | 244,180 | 35,585 | ||||
延宝8年 | 1680年 | 317,096 | ||||||||
宝永3年 | 1706年 | 337,661 | 2歳以上 | |||||||
宝永4年 | 1707年 | 375,724 | 197,293 | 178,431 | 335,462 | 175,660 | 159,802 | 290,721 | 44,741 | 2歳以上 |
享保6年 | 1721年 | 366,867 | 192,743 | 174,124 | 338,513 | 28,354 | 2歳以上 | |||
享保11年 | 1726年 | 374,453 | 197,055 | 177,398 | 345,068 | 28,914 | 2歳以上 | |||
享保17年 | 1732年 | 396,469 | 368,680 | 2歳以上 | ||||||
元文3年 | 1738年 | 368,343 | 194,439 | 173,904 | 2歳以上 | |||||
明和2年頃 | 1765年頃 | 357,007 | 189,855 | 167,152 | 2歳以上 | |||||
寛政10年 | 1798年 | 369,778 | 199,036 | 170,742 | 2歳以上 | |||||
文化元年/文化9年 | 1804年/1812年 | 366,665 | 198,262 | 168,403 | 2歳以上(町方人口は文化9年の分) | |||||
天保5年 | 1834年 | 346,866 | 186,449 | 160,417 | 318,207 | 28,219 | 2歳以上 | |||
明治2年 | 1869年 | 341,235 | 179,734 | 161,501 |
(典拠は『岡山市史』、『岡山県史』、金井圓(1953年)[34]、谷口澄夫『岡山藩政史の研究』塙書房(1964年))
若松藩(会津藩)
[編集]以下に若松藩の身分別人口の変遷をまとめる。若松藩は奥越両地域(陸奥国会津郡、耶麻郡、大沼郡、河沼郡、安積郡、越後国蒲原郡など)に領地を有するほか、越後、陸奥(南山御蔵蔵入地)に預地を有していた。この内越後御預地については、享保9年(1724年)以降越後国魚沼郡、蒲原郡の内7万石を預かっていたが、文化8年(1811年)に幕府直領となり、その後小千谷を中心とする1万石を再び越後国御預地として受領することとなる。一方南山御蔵入地は陸奥国大沼郡、会津郡、岩瀬郡及び下野国塩谷郡に広がっていた。なお文化2年(1805年)の諸士・諸奉公人・諸士家来人口は『会津家世実記』記載の概数である。
身分・地域 | 延宝5年 (1677年) | 延宝6年 (1678年) | 正徳2年 (1712年) | 正徳3年 (1713年) | 享保17年 (1732年) | 宝暦元年 (1751年) | 宝暦8年 (1758年) | 天明7年 (1787年) | 天明8年 (1788年) | 文化2年 (1805年) | 文政2年 (1819年) | 天保7年 (1836年) | 安政5年 (1858年) |
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領内総人口 | 196,125 | 185,604 | 158,973 | ||||||||||
会津差置諸士・諸奉公人・諸士家来 | 14,239 | 14,719 | 23,136 | 18,689 | |||||||||
諸士 | 3,026 | 3,158 | 独礼以上 7,350 | ||||||||||
給知之諸士 | 487 | 717 | |||||||||||
通目見之者 | 1,471 | 1,710 | 1,750 | ||||||||||
通目見以下之者 | 8,665 | 8,638 | 年割以下 軽々迄 13,972 | ||||||||||
無格扶持方為取候類 | 64 | 27 | |||||||||||
見禰屋山社家 | 69 | 56 | |||||||||||
諸士之家来 | 457 | 400 | |||||||||||
奥方女 | 13 | 60 | |||||||||||
郷中・金山 | 161,912 (内、郷村 154,766) | 郷村のみ 156,706 | 郷村のみ 166,550 | 181,886 (内、郷村 159,849) | 154,807 (内、郷村 150,066) | 郷村のみ 139,418 | 郷村のみ 116,421 | 郷村のみ 116,441 | 郷村のみ 122,433 | 129,674 | |||
陸奥国領 | 137,012 | 郷村 128,284, 非人1,084 | |||||||||||
越後国領 | 17,631 | ||||||||||||
金山 | 164 | 306 | |||||||||||
若松城下町町方 | 20,832 | 16,078 | 11,700 | 11,670 | 10,610 | ||||||||
江戸差置諸士・奥方 | 1,569 | ||||||||||||
御預地 | 52,572 | 59,948 | 59,237 | 145,561 | 141,254 | ||||||||
陸奥御預地(南山御蔵入領) | 52,572 | 59,948 | 59,237 | 56,916 | 53,759 | 49,365 | 40,174 | 39,970 | 41,722 | 41,815 | |||
越後御預地 | 88,696 | 87,495 | |||||||||||
総人口 | 341,686 | 328,427 | 225,774 |
また、若松藩の郷村人口の変遷が『会津家世実記』に長年に渡って断続的に記載されている。これらの人口は若松藩直領地の郷村の人口のみを含み、郷中の計外人口(寺社方・賤民)や家中人口、若松城下町町方人口、諸預地(南山御蔵入領・越後御預地)の人口は含まれない。
元号 | 西暦 | 合計 | 男 | 女 | 元号 | 西暦 | 合計 | 男 | 女 | 元号 | 西暦 | 合計 | 男 | 女 |
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慶安元年 | 1648年 | 113,000 | 享保13年 | 1728年 | 163,119 | 88,775 | 74,344 | 明和8年 | 1771年 | 135,413 | 70,556 | 64,857 | ||
慶安2年 | 1649年 | 103,628 | 56,645 | 46,988 | 享保14年 | 1729年 | 163,293 | 88,673 | 74,620 | 安永元年 | 1772年 | 134,375 | 70,239 | 64,136 |
慶安3年 | 1650年 | 106,423 | 58,104 | 48,319 | 享保15年 | 1730年 | 162,917 | 88,366 | 74,551 | 安永2年 | 1773年 | 134,567 | 70,490 | 64,077 |
寛文8年 | 1668年 | 141,024 | 享保16年 | 1731年 | 161,282 | 安永3年 | 1774年 | 134,803 | 70,565 | 64,238 | ||||
寛文9年 | 1669年 | 142,527 | 79,212 | 66,315 | 享保17年 | 1732年 | 159,849 | 86,571 | 73,278 | 安永4年 | 1775年 | 134,745 | 70,394 | 64,351 |
延宝2年 | 1674年 | 149,485 | 83,233 | 66,252 | 享保18年 | 1733年 | 160,422 | 86,686 | 73,736 | 安永5年 | 1776年 | 134,538 | 70,409 | 64,129 |
延宝3年 | 1675年 | 152,271 | 84,882 | 67,389 | 享保19年 | 1734年 | 160,187 | 86,589 | 73,598 | 安永6年 | 1777年 | 131,180 | 68,547 | 62,633 |
延宝4年 | 1676年 | 153,526 | 85,125 | 68,401 | 享保20年 | 1735年 | 159,297 | 85,929 | 73,368 | 安永7年 | 1778年 | 130,768 | 68,292 | 62,476 |
延宝5年 | 1677年 | 154,766 | 85,688 | 69,078 | 元文元年 | 1736年 | 159,055 | 85,756 | 73,299 | 安永8年 | 1779年 | 130,575 | 68,223 | 62,352 |
延宝6年 | 1678年 | 156,706 | 86,924 | 69,782 | 元文3年 | 1738年 | 157,721 | 84,547 | 73,174 | 安永9年 | 1780年 | 130,570 | 68,221 | 62,349 |
延宝7年 | 1679年 | 157,935 | 87,477 | 70,458 | 元文4年 | 1739年 | 156,258 | 83,718 | 72,540 | 天明元年 | 1781年 | 129,123 | 67,190 | 61,933 |
延宝8年 | 1680年 | 158,630 | 87,973 | 70,657 | 元文5年 | 1740年 | 156,718 | 83,851 | 72,867 | 天明2年 | 1782年 | 128,034 | 66,448 | 61,586 |
天和元年 | 1681年 | 158,827 | 寛保元年 | 1741年 | 154,806 | 82,699 | 72,107 | 天明3年 | 1783年 | 127,868 | 66,362 | 61,506 | ||
天和2年 | 1682年 | 158,847 | 寛保2年 | 1742年 | 153,448 | 天明4年 | 1784年 | 126,998 | 65,944 | 61,054 | ||||
貞享元年 | 1684年 | 157,228 | 87,347 | 69,881 | 寛保3年 | 1743年 | 153,472 | 81,877 | 71,595 | 天明5年 | 1785年 | 117,937 | 60,305 | 57,632 |
貞享2年 | 1685年 | 157,836 | 87,764 | 70,072 | 延享元年 | 1744年 | 153,461 | 81,160 | 71,701 | 天明6年 | 1786年 | 116,993 | 59,655 | 57,338 |
貞享3年 | 1686年 | 159,003 | 88,408 | 70,595 | 延享2年 | 1745年 | 153,616 | 81,935 | 71,681 | 天明7年 | 1787年 | 116,421 | 59,359 | 57,062 |
貞享4年 | 1687年 | 160,021 | 89,039 | 70,982 | 延享3年 | 1746年 | 153,634 | 81,859 | 71,775 | 天明8年 | 1788年 | 116,441 | 59,473 | 56,968 |
元禄2年 | 1689年 | 161,912 | 延享4年 | 1747年 | 152,805 | 81,330 | 71,475 | 寛政元年 | 1789年 | 116,924 | 59,696 | 57,228 | ||
元禄4年 | 1691年 | 163,334 | 90,851 | 72,483 | 寛延元年 | 1748年 | 150,996 | 80,322 | 70,674 | 寛政2年 | 1790年 | 118,325 | 60,973 | 57,352 |
元禄5年 | 1692年 | 163,821 | 91,171 | 72,650 | 寛延2年 | 1749年 | 150,220 | 79,926 | 70,294 | 寛政3年 | 1791年 | 117,498 | 60,509 | 56,989 |
元禄7年 | 1694年 | 165,970 | 寛延3年 | 1750年 | 150,253 | 80,015 | 70,238 | 寛政4年 | 1792年 | 117,746 | 60,487 | 57,259 | ||
元禄10年 | 1697年 | 163,838 | 91,276 | 72,562 | 宝暦元年 | 1751年 | 150,066 | 79,777 | 70,289 | 寛政5年 | 1793年 | 121,052 | 62,428 | 58,624 |
元禄11年 | 1698年 | 163,886 | 91,326 | 72,560 | 宝暦2年 | 1752年 | 150,027 | 79,707 | 70,320 | 寛政6年 | 1794年 | 121,953 | 62,902 | 59,051 |
元禄12年 | 1699年 | 165,134 | 91,959 | 73,175 | 宝暦3年 | 1753年 | 150,013 | 79,803 | 70,210 | 寛政7年 | 1795年 | 122,489 | 63,225 | 59,264 |
元禄13年 | 1670年 | 164,462 | 91,670 | 72,792 | 宝暦4年 | 1754年 | 148,281 | 78,949 | 69,332 | 寛政8年 | 1796年 | 123,218 | 63,538 | 59,680 |
宝永3年 | 1706年 | 167,144 | 93,002 | 74,142 | 宝暦5年 | 1755年 | 147,046 | 78,059 | 68,987 | 寛政9年 | 1797年 | 123,254 | 63,499 | 59,755 |
宝永4年 | 1707年 | 167,532 | 93,191 | 74,341 | 宝暦6年 | 1756年 | 146,546 | 77,702 | 68,844 | 寛政10年 | 1798年 | 122,683 | 63,161 | 59,522 |
宝永5年 | 1708年 | 167,829 | 92,459 | 75,370 | 宝暦7年 | 1757年 | 142,165 | 74,957 | 67,208 | 寛政11年 | 1799年 | 123,003 | 63,114 | 59,889 |
正徳3年 | 1713年 | 166,550 | 宝暦8年 | 1758年 | 139,418 | 73,496 | 65,922 | 寛政12年 | 1800年 | 123,922 | 63,614 | 60,308 | ||
享保元年 | 1716年 | 168,879 | 宝暦9年 | 1759年 | 135,940 | 71,359 | 64,581 | 享和元年 | 1801年 | 124,253 | 63,821 | 60,432 | ||
享保2年 | 1717年 | 168,879 | 92,768 | 76,111 | 宝暦10年 | 1760年 | 131,808 | 68,538 | 63,270 | 享和2年 | 1802年 | 124,449 | 63,955 | 60,494 |
享保3年 | 1718年 | 169,217 | 92,912 | 76,305 | 宝暦11年 | 1761年 | 133,138 | 69,656 | 63,482 | 享和3年 | 1803年 | 124,442 | 63,954 | 60,488 |
享保4年 | 1719年 | 167,618 | 宝暦12年 | 1762年 | 133,319 | 69,695 | 63,624 | 文化元年 | 1804年 | 122,419 | 63,147 | 59,272 | ||
享保5年 | 1720年 | 165,785 | 宝暦13年 | 1763年 | 133,489 | 69,614 | 63,875 | 文化2年 | 1805年 | 122,433 | 63,069 | 59,364 | ||
享保6年 | 1721年 | 165,486 | 明和元年 | 1764年 | 132,839 | 69,263 | 63,576 | 文化12年 | 1815年 | 127,097 | ||||
享保7年 | 1722年 | 165,375 | 明和2年 | 1765年 | 133,232 | 69,381 | 63,851 | 文化14年 | 1817年 | 126,945 | ||||
享保8年 | 1723年 | 165,859 | 明和3年 | 1766年 | 133,864 | 69,864 | 64,000 | 文政2年 | 1819年 | 128,284 | ||||
享保9年 | 1724年 | 166,224 | 明和4年 | 1767年 | 134,189 | 69,913 | 64,276 | 天保4年 | 1833年 | 129,476 | ||||
享保10年 | 1725年 | 163,914 | 89,387 | 74,527 | 明和5年 | 1768年 | 134,730 | 70,401 | 64,329 | 天保5年 | 1834年 | 129,912 | ||
享保11年 | 1726年 | 163,174 | 89,201 | 73,973 | 明和6年 | 1769年 | 135,073 | 70,480 | 64,593 | 天保6年 | 1835年 | 128,674 | ||
享保12年 | 1727年 | 163,044 | 88,823 | 74,221 | 明和7年 | 1770年 | 135,267 | 70,611 | 64,656 |
会津藩士は蛤御門で27人、戊辰戦争で2977人(農兵や非戦闘要員を含む)、合計3004人が戦死・殉難している。戊辰戦争による処分により、旧南山御蔵入領を含む若松藩領には若松県が設置され、越後御預地は隣接する各県に分割された。明治3年(1870年)の若松県の人口は19万9211人(神職2942人、僧尼1160人、平民19万4260人、穢多788人、非人61人)。一方明治3年(1870年)5月の若松県からの上申書によると、旧若松藩藩士約2万人の内、新たに陸奥国北郡、三戸郡、二戸郡に設置された斗南藩へ移住した者は約1万4800人、若松県内で帰農した者は約2000人、東京に上京した者約1200人、態度保留約2000人とされている。一方青森県側の資料によると、4332戸1万7327人が斗南へ移住したとされる。移住先の明治3年(1870年)の斗南藩の人口は7万5467人である。
(典拠は『会津藩家世実紀』、『会津鑑』、『若松市史』、『会津若松市史』、『野辺地町史』、佐瀬剛『戊辰殉難名簿』戊辰殉難者七十年祭典 (1937年)、松枝茂『会津藩の人口政策』山一書房 (1943年)、川口洋 (1998年)[35])
高知藩 (土佐藩)
[編集]高知藩の総人口は『土佐史料』の「楠目氏覚書」を始めとして、天和元年(1681年)から寛政10年(1798年)までの連続118年分等が伝わっている。高知藩は明暦2年(1656年)から元禄2年(1689年)まで分藩していた中村藩の幡多郡を再併合することにより、以降幕末まで土佐一国全土のみを領有する藩となる。よって今日の高知県県境内の本籍人口が元禄2年(1689年)まで遡ることができる。
元号 | 西暦 | 総人口 | 元号 | 西暦 | 総人口 | 元号 | 西暦 | 総人口 | 元号 | 西暦 | 総人口 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
天和元年 | 1681年 | 327,971 | 正徳元年 | 1711年 | 395,892 | 寛保3年 | 1743年 | 413,194 | 安永4年 | 1775年 | 434,909 |
天和2年 | 1682年 | 315,412 | 正徳2年 | 1712年 | 400,378 | 延享元年 | 1744年 | 412,621 | 安永5年 | 1776年 | 436,510 |
天和3年 | 1683年 | 316,587 | 正徳3年 | 1713年 | 402,495 | 延享2年 | 1745年 | 411,297 | 安永6年 | 1777年 | 435,098 |
貞享元年 | 1684年 | 324,086 | 正徳4年 | 1714年 | 401,079 | 延享3年 | 1746年 | 409,938 | 安永7年 | 1778年 | 438,071 |
貞享2年 | 1685年 | 329,856 | 正徳5年 | 1715年 | 400,144 | 延享4年 | 1747年 | 409,124 | 安永8年 | 1779年 | 440,344 |
貞享3年 | 1686年 | 336,513 | 享保元年 | 1716年 | 397,525 | 寛延元年 | 1748年 | 407,907 | 安永9年 | 1780年 | 439,078 |
貞享4年 | 1687年 | 341,097 | 享保2年 | 1717年 | 397,121 | 寛延2年 | 1749年 | 406,812 | 天明元年 | 1781年 | 441,832 |
元禄元年 | 1688年 | 346,272 | 享保3年 | 1718年 | 398,804 | 寛延3年 | 1750年 | 408,417 | 天明2年 | 1782年 | 442,917 |
元禄2年 (中村藩) (合計) | 1689年 | 357,948 21,181 379,129 | 享保4年 | 1719年 | 399,921 | 宝暦元年 | 1751年 | 408,422 | 天明3年 | 1783年 | 442,991 |
享保5年 | 1720年 | 399,167 | 宝暦2年 | 1752年 | 408,904 | 天明4年 | 1784年 | 445,828 | |||
享保6年 | 1721年 | 404,573 | 宝暦3年 | 1753年 | 411,633 | 天明5年 | 1785年 | 432,907 | |||
元禄3年 | 1690年 | 387,933 | 享保7年 | 1722年 | 407,980 | 宝暦4年 | 1754年 | 411,782 | 天明6年 | 1786年 | 432,203 |
元禄4年 | 1691年 | 393,116 | 享保8年 | 1723年 | 409,263 | 宝暦5年 | 1755年 | 412,898 | 天明7年 | 1787年 | 430,075 |
元禄5年 | 1692年 | 387,404 | 享保9年 | 1724年 | 413,390 | 宝暦6年 | 1756年 | 418,365 | 天明8年 | 1788年 | 425,422 |
元禄6年 | 1693年 | 394,734 | 享保10年 | 1725年 | 417,911 | 宝暦7年 | 1757年 | 416,069 | 寛政元年 | 1789年 | 422,437 |
元禄7年 | 1694年 | 402,059 | 享保11年 | 1726年 | 419,922 | 宝暦8年 | 1758年 | 420,146 | 寛政2年 | 1790年 | 421,840 |
元禄8年 | 1695年 | 406,899 | 享保12年 | 1727年 | 422,640 | 宝暦9年 | 1759年 | 422,662 | 寛政3年 | 1791年 | 425,216 |
元禄9年 | 1696年 | 409,715 | 享保13年 | 1728年 | 421,462 | 宝暦10年 | 1760年 | 425,401 | 寛政4年 | 1792年 | 427,181 |
元禄10年 | 1697年 | 411,428 | 享保14年 | 1729年 | 420,070 | 宝暦11年 | 1761年 | 427,998 | 寛政5年 | 1793年 | 430,415 |
元禄11年 | 1698年 | 409,596 | 享保15年 | 1730年 | 421,756 | 宝暦12年 | 1762年 | 431,446 | 寛政6年 | 1794年 | 431,772 |
元禄12年 | 1699年 | 405,006 | 享保16年 | 1731年 | 418,174 | 宝暦13年 | 1763年 | 432,810 | 寛政7年 | 1795年 | 434,765 |
元禄13年 | 1700年 | 408,626 | 享保17年 | 1732年 | 418,498 | 明和元年 | 1764年 | 435,083 | 寛政8年 | 1796年 | 438,306 |
元禄14年 | 1701年 | 409,035 | 享保18年 | 1733年 | 406,991 | 明和2年 | 1765年 | 435,787 | 寛政9年 | 1797年 | 438,111 |
元禄15年 | 1702年 | 405,265 | 享保19年 | 1734年 | 401,156 | 明和3年 | 1766年 | 428,810 | 寛政10年 | 1798年 | 440,362 |
元禄16年 | 1703年 | 393,500 | 享保20年 | 1735年 | 404,236 | 明和4年 | 1767年 | 426,767 | 文政5年 | 1822年 | 479,281 |
宝永元年 | 1704年 | 388,884 | 元文元年 | 1736年 | 407,000 | 明和5年 | 1768年 | 429,651 | 天保12年 | 1841年 | 501,877 |
宝永2年 | 1705年 | 387,267 | 元文2年 | 1737年 | 410,607 | 明和6年 | 1769年 | 432,035 | 天保13年 | 1842年 | 502,079 |
宝永3年 | 1706年 | 390,596 | 元文3年 | 1738年 | 413,994 | 明和7年 | 1770年 | 431,090 | 弘化元年 | 1844年 | 504,334 |
宝永4年 | 1707年 | 395,844 | 元文4年 | 1739年 | 414,441 | 明和8年 | 1771年 | 431,756 | 弘化2年 | 1844年 | 507,095 |
宝永5年 | 1708年 | 394,495 | 元文5年 | 1740年 | 415,922 | 安永元年 | 1772年 | 434,134 | 安政元年 | 1854年 | 511,392 |
宝永6年 | 1709年 | 390,814 | 寛保元年 | 1741年 | 417,268 | 安永2年 | 1773年 | 433,533 | 安政2年 | 1855年 | 505,483 |
宝永7年 | 1710年 | 392,355 | 寛保2年 | 1742年 | 417,851 | 安永3年 | 1774年 | 433,487 |
17世紀の延宝年間の人口に関しては、15歳以上の成人男子の身分別人口が残っている。
元号 | 西暦 | 15歳以上男子 | 御家中・ 諸奉公人・ 又者 | 郷中 | 浦中 | 町中 |
---|---|---|---|---|---|---|
延宝5年 | 1677年 | 111,842 | ||||
延宝7年 | 1679年 | 113,084 | 15,903 | 77,199 | 14,631 | 5,351 |
延宝8年 | 1680年 | 116,970 |
また、19世紀幕末の高知藩の身分別人口は以下の通りである。領民人口との比較から、幕末に幕府へ報告した人口には郷中、浦中、町中人口が含まれ、武家や僧侶の人口が含まれないことがうかがえる。
身分構成 | 文政2年 (1819年) | 文政12年 (1829年) | 天保14年 (1843年) | 弘化元年 (1844年) | 弘化2年 (1845年) | 嘉永6年 (1852年) | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | |
諸組上下・御家老預郷士 | 24,123 | 12,315 | 11,808 | 24,237 | 12,281 | 11,956 | ||||||||||||
頭支配郷士・諸奉公人以下 | 20,920 | 10,870 | 10,050 | 20,976 | 10,858 | 10,118 | ||||||||||||
僧侶 (町郷浦) | 797 | 797 | 795 | 795 | ||||||||||||||
領民人口 | 427,228 | 229,995 | 197,233 | 440,972 | 237,953 | 203,019 | 451,890 | 242,999 | 208,891 | 458,494 | 247,135 | 211,359 | 461,087 | 248,513 | 212,574 | 457,053 | 246,449 | 210,604 |
町中 | 13,985 | 7,739 | 6,246 | 14,442 | 8,370 | 6,072 | 15,292 | 8,692 | 6,600 | 15,680 | 8,892 | 6,788 | 15,846 | 8,930 | 6,916 | 15,895 | 8,971 | 6,924 |
郷中 | 366,906 | 198,208 | 168,698 | 376,454 | 203,107 | 173,347 | 386,067 | 207,700 | 178,367 | 389,954 | 210,155 | 179,799 | 392,119 | 211,350 | 180,769 | 389,366 | 210,199 | 179,167 |
浦中 | 46,337 | 24,048 | 22,289 | 50,076 | 26,476 | 23,600 | 50,531 | 26,607 | 23,924 | 52,860 | 28,088 | 24,772 | 53,122 | 28,233 | 24,889 | 51,792 | 27,279 | 24,513 |
総人口 | 504,334 | 271,117 | 233,217 | 507,095 | 272,447 | 234,648 |
なお享保11年(1726年)に幕府へ報告した領民人口(37万2522人)では、御侍中・諸奉公人・又者が除外され、百姓、町人、社人、僧尼等その他の者が含まれるとしている。僧侶を領民人口に含むかどうかは時期によって異なるが、その人数は1000人未満であり、総人口と領民人口との差である計外人口は凡そ武家人口に相当するといえる。明治3年(1870年)における高知藩の華士卒族人口は総人口51万6545人中4万9422人(華族8人、士族3万0506人、卒族1万8908人)である。
元号 | 西暦 | 総人口 | 領民人口 | 計外人口 |
---|---|---|---|---|
享保6年 | 1721年 | 404,573 | 351,547 | 53,026 |
享保11年 | 1726年 | 419,922 | 372,522 | 47,400 |
寛延3年 | 1750年 | 408,417 | 368,192 | 40,225 |
宝暦6年 | 1756年 | 418,365 | 372,766 | 45,599 |
天明6年 | 1786年 | 432,203 | 392,597 | 39,606 |
寛政4年 | 1792年 | 427,181 | 387,040 | 40,141 |
寛政10年 | 1798年 | 440,362 | 399,702 | 40,660 |
文化元年 | 1804年 | 409,413 | ||
文政2年 | 1819年 | 427,228 | ||
文政5年 | 1822年 | 479,281 | 443,478 | 35,803 |
文政11年 | 1828年 | 445,473 | ||
文政12年 | 1829年 | 440,972 | ||
天保5年 | 1834年 | 455,306 | ||
天保11年 | 1840年 | 451,871 | ||
天保12年 | 1841年 | 501,877 | ||
天保13年 | 1842年 | 502,079 | ||
天保14年 | 1843年 | 451,890 | ||
弘化元年 | 1844年 | 504,334 | 458,494 | 45,840 |
弘化2年 | 1845年 | 507,095 | 461,087 | 46,008 |
弘化3年 | 1846年 | 461,031 | ||
嘉永6年 | 1852年 | 457,053 | ||
安政元年 | 1854年 | 511,392 | ||
安政2年 | 1855年 | 505,483 |
(典拠は建山生 (1919年)[36]、武市佐一郎 (1930年)[37]、高橋梵仙 『日本人口史之研究』三友社刊 (1941年)、平尾道雄 『高知藩財政史』 (1953年))
久保田藩/秋田藩
[編集]『新編北羽発達史』収録の「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」記載の久保田藩の嘉永2年(1849年)の身分別人口は、年間出生数(当生)を記録する例としてしばしば取り上げられる。なお武家人口を除き、出羽の秋田六郡(雄勝郡、平鹿郡、仙北郡、河辺郡、秋田郡、山本郡)のみが集計対象となっており、下野国二郡(河内郡、都賀郡)の領民人口が集計より漏れている。なお『秋田沿革史大成』収録の「嘉永三年戌五月六郡人員調」記載の嘉永2年の久保田藩の人口は36万1928人であり、「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」記載の人口37万2154人に比べて1万0226人ほど人口が少ないが、その差は主に町人人口の取り扱いにある。「嘉永三年戌五月六郡人員調」では秋田郡久保田(2130軒)と土崎湊(519軒)のみが調査対象であるのに対し、「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」では秋田郡大館(407軒)、十二所(79軒)、山本郡能代(1293軒)、檜山(102軒)、平鹿郡横手(541軒)、仙北郡角館(356軒)、雄勝郡湯沢(235軒)の町方人口も加算されている。
身分・職業 | 人口 | 男 | 女 | 当生 |
---|---|---|---|---|
家中諸士、 江戸・京都・大阪・下野国に差置候分共 | 36,453 | 18,746 | 17,707 | 158 |
修験・社人・寺院 | 7,256 | 5,033 | 2,223 | 7 |
座頭・行人・寺社門前・比丘尼、 其他金・銀・銅・鉛山人数共 | 15,720 | 8,629 | 7,091 | 70 |
百姓 | 284,384 | 150,320 | 134,064 | 2,340 |
町人 | 27,852 | 13,819 | 14,033 | 152 |
非人 | 16 | 7 | 9 | 0 |
穢多 | 473 | 240 | 233 | 0 |
総数 | 372,154 | 196,794 | 175,360 | 2,727 |
また、久保田藩秋田六郡領内人口の変遷は以下の通りである。久保田藩は天保の大飢饉による被害が甚大で、天保5年(1834年)には凶作飢饉のために領内死亡者5万0464人を数えた。天保4年(1833年)と10年後の天保14年(1843年)の領内人口を比較すると、総人口のほぼ1/4に相当する11万人の人口が失われている。
元号 | 西暦 | 合計 | 六郡惣人口 (穢多・非人を除く) | 武家 | 町人 | 寺社 | 鉱山 | 六郡百姓 | 穢多・ 非人 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | ||||||||||
元禄5年 | 1692年 | 346,411 | 346,122 | 29,095 | 2,449 | 309,112 | 289 | 武家人口は不明 | ||||
享保6年 | 1721年 | 326,673 | 187,911 | 138,762 | 下野二郡の百姓人口4024人 (男2203人、女1821人) | |||||||
享保15年 | 1730年 | 341,614 | 341,260 | 6,184 | 20,833 | 12,504 | 6,342 | 295,397 | 168,057 | 127,340 | 354 | 武家人口は成人男子のみ 町人人口は久保田・湊のみ |
延享3年 | 1746年 | 384,592 | ||||||||||
延享4年 | 1747年 | 382,845 | 382,405 | 36,075 | 21,313 | 10,464 | 7,422 | 307,131 | 172,269 | 134,862 | 440 | 町人人口は久保田・湊のみ |
宝暦6年 | 1756年 | 300,013 | 167,422 | 132,591 | 下野二郡の百姓人口3370人 (男1845人、女1525人) | |||||||
安永元年 | 1772年 | 410,600 | ||||||||||
天明元年 | 1781年 | 320,000 | 領内人口とされるが、百姓人口の可能性あり | |||||||||
天明6年 | 1786年 | 270,706 | 領内人口とされるが、百姓人口の可能性あり | |||||||||
文化13年 | 1816年 | 314,000 | 領内人口とされるが、百姓人口の可能性あり | |||||||||
天保4年 | 1833年 | 435,262 | ||||||||||
天保14年 | 1843年 | 322,999 | ||||||||||
天保15年 | 1844年 | 326,473 | 326,027 | 6,589 | 16,387 | 11,103 | 10,971 | 280,977 | 147,557 | 133,420 | 446 | 武家人口は成人男子のみ 町人人口は久保田・湊のみ |
嘉永2年 | 1849年 | 372,154 | 371,665 | 36,453 | 27,852 | 22,976 | 284,384 | 150,320 | 134,064 | 489 | 武家人口は三都・下野在中を含む | |
嘉永3年 | 1850年 | 364,436 | 363,943 | 35,744 | 16,990 | 10,833 | 11,878 | 288,498 | 152,772 | 135,726 | 493 | 町人人口は久保田・湊のみ |
安政2年 | 1855年 | 376,509 | 376,008 | 36,730 | 17,636 | 11,103 | 11,721 | 298,818 | 158,573 | 140,245 | 501 | 町人人口は久保田・湊のみ |
安政4年 | 1857年 | 382,284 | 381,758 | 36,957 | 17,693 | 11,402 | 11,872 | 303,834 | 161,195 | 142,639 | 526 | 町人人口は久保田・湊のみ |
安政6年 | 1859年 | 388,803 | 388,278 | 37,601 | 18,082 | 11,353 | 12,326 | 308,916 | 163,856 | 145,060 | 525 | 町人人口は久保田・湊のみ |
(典拠は『秋田沿革史大成』、『新編北羽発達史』、『天樹院佐竹義公』、『綜合郷土研究』、『秋田県史』)
盛岡藩 (南部藩)
[編集]盛岡藩には天和3年(1683年)より断続的に詳細な人口調査が残っているが、宝暦2年(1752年)以降は極端に人口変動幅が少なくなり、ほぼ35万人前後に固定している。一方で官所から提出された報告書によると、宝暦5年(1755年)には餓死者5万2094人・明家7043軒、天明3年(1783年)には餓死者4万0850人・疫病死者2万3848人・明家1万0545軒・出領者3330人が発生したとする記録も残されており、幕府に報告するための藩の公式記録に虚偽な記載がなされたと考えられる。特に安永6年(1777年)から寛政2年(1790年)の間は性比が112.9に固定されているなど、明らかな人為操作が見受けられる。但し宝暦元年(1751年)以前の人口変遷のパターンは他の東北諸藩のものとと一致し、ある程度信用できると考えられる。[38][31]
以下に盛岡藩の人口構成の変遷をまとめる。十郡とは岩手郡、志和郡 (紫波郡)、稗貫郡、和賀郡、閉伊郡、鹿角郡、二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡であり、四町とは盛岡、花巻、郡山、三戸である。個々の四町人員については近代以前の日本の都市人口統計を参照。理想的には 人口 = 前年の人口 + 出生数 + 入領者数 - 出領者数 - 死亡数 が成立するはずだが、実際には一致しない場合が多い。また、身分別人口の合計と人口総数が一致しない場合も多々ある。享保17年(1732年)の領内総人口34万5825人と幕府へ報告した領民人口32万2109人を比較すると、侍方2万3121人と水主・閉伊浦等595人の合計2万3716人が計外人口であったことがうかがえる。
年号 | 西暦 | 領内総人口 | 動態統計 | 侍方 | 四町 | 出家・ 行人・ 山伏・ 座頭 | 寺社領・ 門前 | 金山師 | 水主・ 閉伊浦等 | 十郡百姓 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | 出生 | 入領者 | 出領者 | 死亡 | 合計 | 侍手廻 | 侍召仕 | 歩行 | 足軽 | 長柄・小道具・ 陸尺・馬付・ 台所・餌差 | ||||||||
承応2年 | 1653年 | 292,028 | ||||||||||||||||||
寛文9年 (領民人口) | 1669年 | 245,635 | ||||||||||||||||||
延宝8年 | 1680年 | 301,936 | 164,181 | 137,755 | ||||||||||||||||
天和元年 | 1681年 | 307,641 | 167,810 | 139,831 | 4,469 | 432 | 420 | 3,493 | ||||||||||||
天和2年 | 1682年 | 308,664 | 168,183 | 140,481 | 5,560 | 216 | 692 | 4,061 | ||||||||||||
天和3年 | 1683年 | 306,032 | 167,869 | 138,163 | 4,272 | 434 | 692 | 6,646 | 21,748 | 5,666 | 11,430 | 353 | 3,591 | 708 | 20,636 | 3,234 | 11,076 | 1,628 | 657 | 247,053 |
貞享元年[39] | 1684年 | 304,368 | 167,087 | 137,281 | 5,094 | 352 | 585 | 6,525 | 21,683 | 5,676 | 11,380 | 353 | 3,541 | 733 | 20,450 | 3,201 | 10,876 | 1,527 | 669 | 249,406 |
貞享2年 | 1685年 | 306,056 | 167,829 | 138,227 | 6,602 | 347 | 346 | 4,915 | 21,769 | 5,745 | 11,432 | 341 | 3,461 | 790 | 12,988 | 3,230 | 367 | 268,485 | ||
貞享3年 | 1686年 | 306,056 | 167,804 | 138,252 | ||||||||||||||||
貞享4年 | 1687年 | 307,260 | 167,900 | 139,360 | 5,645 | 333 | 154 | 4,620 | 21,801 | 5,757 | 11,452 | 341 | 3,461 | 790 | 13,167 | 3,349 | 367 | 268,576 | ||
元禄元年 | 1688年 | 296,229 | 162,735 | 133,494 | ||||||||||||||||
元禄2年 | 1689年 | 294,276 | 160,490 | 133,786 | 4,789 | 322 | 11 | 7,053 | 20,790 | 5,741 | 10,617 | 321 | 3,497 | 614 | 13,293 | 3,186 | 393 | 255,990 | ||
元禄3年 | 1690年 | 299,717 | 164,146 | 135,571 | 5,788 | 594 | 17 | 3,886 | 21,881 | 6,083 | 11,473 | 331 | 3,465 | 529 | 21,558 | 3,161 | 9,508 | 3,004 | 700 | 239,905 |
元禄4年 | 1691年 | 303,915 | 166,927 | 136,988 | 7,936 | 683 | 15 | 6,247 | 23,114 | 6,280 | 12,024 | 348 | 3,764 | 698 | 21,574 | 3,168 | 9,508 | 3,235 | 712 | 242,604 |
元禄5年 | 1692年 | 306,344 | 168,156 | 138,188 | 7,933 | 327 | 18 | 5,813 | 23,114 | 6,280 | 12,024 | 348 | 3,764 | 698 | 13,691 | 3,168 | 421 | 265,950 | ||
元禄6年 | 1693年 | 322,539 | 176,743 | 145,796 | 8,117 | 206 | 0 | 5,401 | 23,945 | 6,667 | 12,467 | 333 | 3,784 | 694 | 22,339 | 3,141 | 10,333 | 2,984 | 522 | 259,275 |
元禄7年 | 1694年 | 331,787 | 181,094 | 150,693 | 8,686 | 655 | 31 | 3,925 | 22,939 | 7,382 | 10,838 | 348 | 3,826 | 545 | 23,686 | 3,288 | 10,370 | 3,575 | 442 | 267,487 |
元禄8年 | 1695年 | 334,887 | 184,485 | 150,402 | 8,206 | 787 | 32 | 5,861 | 23,664 | 7,237 | 11,667 | 352 | 3,806 | 602 | 22,781 | 3,397 | 9,914 | 2,310 | 431 | 272,390 |
元禄9年 | 1696年 | 335,690 | 183,584 | 152,106 | 6,632 | 430 | 55 | 6,204 | 24,389 | 7,500 | 12,397 | 331 | 3,586 | 575 | 22,331 | 3,310 | 9,845 | 2,270 | 455 | 273,090 |
元禄10年 | 1697年 | 334,199 | 182,312 | 151,887 | ||||||||||||||||
元禄11年 | 1698年 | 339,160 | 185,033 | 154,127 | 7,819 | 496 | 566 | 2,788 | 25,499 | 8,196 | 12,370 | 346 | 3,908 | 679 | 13,736 | 3,250 | 454 | 296,221 | ||
元禄12年 | 1699年 | 342,548 | 186,855 | 155,693 | 6,719 | 624 | 388 | 3,567 | 24,969 | 8,225 | 11,908 | 331 | 3,946 | 559 | 23,370 | 3,344 | 10,127 | 2,051 | 490 | 278,197 |
元禄13年 | 1700年 | 343,499 | 187,409 | 156,090 | 4,520 | 123 | 62 | 3,630 | 25,033 | 8,418 | 11,686 | 336 | 3,958 | 635 | 23,274 | 3,337 | 10,036 | 2,241 | 514 | 279,064 |
元禄14年 | 1701年 | 345,938 | 188,793 | 157,145 | 5,253 | 475 | 257 | 3,032 | 24,807 | 8,271 | 11,743 | 352 | 3,914 | 527 | 23,279 | 3,302 | 10,169 | 1,938 | 511 | 281,932 |
元禄16年 (領民人口) | 1703年 | 350,111 322,109 | 188,141 | 161,970 | 306,142 | |||||||||||||||
宝永元年 | 1704年 | 349,765 | 188,895 | 160,870 | 6,717 | 592 | 1,925 | 5,730 | 24,204 | 8,375 | 11,290 | 334 | 3,710 | 495 | 13,676 | 3,107 | 512 | 308,266 | ||
宝永2年 | 1705年 | 350,005 | 189,027 | 160,978 | 6,823 | 1,140 | 1,263 | 6,460 | 25,218 | 8,423 | 11,940 | 325 | 4,013 | 517 | 13,857 | 3,294 | 547 | 307,089 | ||
宝永3年 | 1706年 | 350,033 | 188,784 | 161,249 | 5,845 | 386 | 395 | 5,808 | 25,105 | 8,416 | 11,915 | 317 | 3,984 | 473 | 13,905 | 3,278 | 550 | 307,195 | ||
宝永4年 | 1707年 | 349,976 | 188,753 | 161,223 | 3,734 | 573 | 468 | 3,896 | ||||||||||||
宝永5年 | 1708年 | 350,028 | 189,795 | 160,233 | 7,135 | 1,605 | 1,108 | 6,154 | ||||||||||||
宝永6年 | 1709年 | 347,196 | 188,600 | 158,596 | ||||||||||||||||
宝永7年[39] | 1710年 | 350,072 | 190,497 | 159,575 | 8,678 | 1,349 | 720 | 6,431 | 33,309 | 8,082 | 20,462 | 309 | 4,053 | 403 | 25,636 | 3,222 | 10,029 | 553 | 277,323 | |
正徳元年 | 1711年 | 348,750 | 187,977 | 160,773 | 8,771 | 842 | 887 | 6,852 | 23,695 | 8,437 | 10,329 | 351 | 4,168 | 410 | 24,235 | 3,311 | 8,031 | 2,482 | 650 | 286,346 |
正徳2年 | 1712年 | 351,193 | 190,481 | 160,712 | 10,365 | 1,280 | 751 | 6,981 | 24,063 | 8,135 | 10,877 | 304 | 4,128 | 619 | 23,922 | 3,165 | 5,560 | 2,727 | 642 | 291,114 |
正徳3年 | 1713年 | 361,787 | 196,313 | 165,474 | 9,462 | 1,117 | 559 | 6,933 | 24,189 | 8,390 | 10,773 | 314 | 4,201 | 511 | 24,549 | 3,204 | 7,497 | 2,786 | 556 | 299,006 |
享保2年 | 1717年 | 375,243 | 202,741 | 172,502 | ||||||||||||||||
享保3年 | 1718年 | 365,697 | 198,258 | 167,439 | 9,477 | 438 | 597 | 18,864 | 23,191 | 8,690 | 8,728 | 342 | 4,917 | 514 | 23,989 | 3,115 | 6,218 | 1,526 | 598 | 307,060 |
享保4年 | 1719年 | 364,541 | 197,450 | 167,091 | ||||||||||||||||
享保5年 | 1720年 | 366,577 | 198,929 | 167,648 | 8,741 | 457 | 392 | 6,770 | 21,522 | 9,404 | 6,642 | 345 | 4,633 | 498 | 24,360 | 2,986 | 6,093 | 1,421 | 601 | 309,594 |
享保11年 | 1726年 | 357,300 | 194,208 | 163,092 | ||||||||||||||||
享保12年 | 1727年 | 360,053 | 196,001 | 164,052 | 8,390 | 473 | 452 | 5,658 | 21,392 | 9,428 | 5,714 | 366 | 5,411 | 473 | 24,966 | 3,022 | 6,122 | 2,213 | 612 | 301,726 |
享保13年 | 1728年 | 344,912 | 187,875 | 157,037 | 1,769 | 150 | 1,976 | 7,759 | ||||||||||||
享保14年 | 1729年 | 341,954 | 186,934 | 155,020 | 4,843 | 363 | 1,076 | 9,265 | ||||||||||||
享保15年 | 1730年 | 343,031 | 187,893 | 155,138 | 6,348 | 610 | 536 | 6,173 | ||||||||||||
享保16年 | 1731年 | 333,681 | 183,143 | 150,538 | 273,409 | |||||||||||||||
享保17年 | 1732年 | 345,825 | 190,530 | 155,295 | 23,121 | 9,645 | 6,842 | 399 | 5,647 | 588 | 16,438 | 551 | 512 | 595 | 304,515 | |||||
享保18年 | 1733年 | 355,420 | 193,210 | 162,210 | 22,908 | 9,993 | 6,209 | 406 | 5,847 | 453 | 24,284 | 3,116 | 7,398 | 2,933 | 583 | 294,198 | ||||
享保19年 | 1734年 | 358,926 | 196,945 | 161,981 | 26,144 | 9,684 | 10,989 | 413 | 4,570 | 488 | 29,616 | 3,117 | 6,261 | 3,039 | 618 | 290,131 | ||||
元文元年 | 1736年 | 365,961 | 200,927 | 165,034 | 29,265 | 11,348 | 10,894 | 436 | 5,956 | 631 | 25,561 | 3,007 | 5,803 | 3,183 | 638 | 298,504 | ||||
元文2年 | 1737年 | 368,526 | 204,840 | 163,686 | 7,343 | 157 | 260 | 7,822 | 29,646 | 11,848 | 11,396 | 394 | 5,472 | 536 | 26,753 | 3,173 | 5,665 | 3,091 | 654 | 299,544 |
元文3年 | 1738年 | 368,588 | 201,463 | 167,125 | 6,518 | 217 | 1,073 | 6,047 | 27,671 | 10,452 | 10,773 | 425 | 5,366 | 655 | 26,718 | 3,048 | 6,784 | 3,044 | 647 | 300,676 |
元文4年 | 1739年 | 367,413 | 195,273 | 172,140 | 5,640 | 530 | 1,284 | 6,061 | 27,582 | 10,449 | 10,775 | 413 | 5,358 | 587 | 26,751 | 3,015 | 6,378 | 2,874 | 678 | 300,135 |
元文5年 | 1740年 | 367,403 | 196,297 | 171,106 | 7,857 | 160 | 582 | 5,176 | 28,507 | 11,046 | 10,880 | 411 | 5,582 | 588 | 26,560 | 3,210 | 6,234 | 2,875 | 675 | 299,342 |
寛保元年 | 1741年 | 367,397 | 197,440 | 169,957 | 6,268 | 288 | 934 | 5,938 | 28,308 | 10,982 | 10,733 | 401 | 5,496 | 696 | 26,278 | 3,176 | 6,128 | 2,853 | 663 | 299,621 |
寛保2年 | 1742年 | 365,862 | 196,766 | 169,096 | 5,784 | 392 | 832 | 6,479 | 28,124 | 10,912 | 10,612 | 384 | 5,616 | 600 | 26,211 | 3,241 | 6,195 | 2,989 | 683 | 298,519 |
寛保3年 | 1743年 | 366,772 | 205,473 | 161,299 | 8,659 | 216 | 682 | 6,964 | 25,760 | 11,070 | 8,063 | 429 | 5,642 | 556 | 25,069 | 3,209 | 5,921 | 3,380 | 683 | 302,750 |
延享元年 | 1744年 | 366,735 | 201,368 | 165,367 | 9,076 | 230 | 1,261 | 7,223 | 26,587 | 11,023 | 8,408 | 429 | 6,137 | 590 | 731 | 339,417 | ||||
延享2年 | 1745年 | 376,387 | 206,653 | 169,734 | 7,437 | 692 | 738 | 7,975 | 28,837 | 10,459 | 10,540 | 421 | 6,827 | 590 | 24,893 | 3,241 | 8,220 | 3,133 | 745 | 307,318 |
延享3年 | 1746年 | 376,650 | 206,740 | 169,910 | 6,223 | 232 | 566 | 4,522 | 29,187 | 10,794 | 10,590 | 433 | 6,820 | 550 | 24,883 | 3,248 | 7,420 | 3,233 | 754 | 307,925 |
延享4年 | 1747年 | 374,623 | 205,917 | 168,706 | 6,774 | 235 | 549 | 7,556 | 29,522 | 10,870 | 11,511 | 405 | 6,274 | 462 | 24,842 | 3,358 | 6,920 | 3,036 | 724 | 306,221 |
寛延元年 | 1748年 | 369,426 | ||||||||||||||||||
寛延2年 | 1749年 | 364,355 | 198,778 | 165,577 | 6,764 | 417 | 2,473 | 9,779 | 28,505 | 11,007 | 10,743 | 431 | 5,874 | 450 | 22,704 | 3,180 | 5,963 | 2,757 | 746 | 300,500 |
寛延3年 | 1750年 | 358,488 | 195,536 | 162,952 | 4,740 | 167 | 2,186 | 8,930 | 28,588 | 11,028 | 10,690 | 434 | 6,005 | 431 | 24,264 | 3,207 | 5,931 | 2,563 | 669 | 293,266 |
宝暦元年[39] | 1751年 | 348,491 | 189,764 | 158,727 | 4,142 | 347 | 1,246 | 11,611 | 29,312 | 11,297 | 10,098 | 420 | 6,955 | 542 | 24,238 | 3,360 | 5,989 | 2,385 | 652 | 282,555 |
宝暦2年 | 1752年 | 353,725 | 193,582 | 160,443 | 7,600 | 1,196 | 618 | 5,818 | 29,411 | 11,802 | 9,743 | 420 | 6,946 | 500 | 24,770 | 3,390 | 5,905 | 2,692 | 680 | 286,877 |
宝暦3年 | 1753年 | 355,980 | 194,224 | 161,756 | 6,009 | 209 | 217 | 6,923 | 32,143 | 11,777 | 13,279 | 402 | 5,811 | 874 | 25,049 | 3,230 | 6,103 | 2,653 | 835 | 285,897 |
宝暦4年 | 1754年 | 356,829 | 195,638 | 161,191 | ||||||||||||||||
宝暦5年 | 1755年 | 358,222 | 196,612 | 161,610 | 7,191 | 142 | 199 | 5,741 | 29,935 | 12,184 | 10,556 | 391 | 6,179 | 625 | 25,542 | 3,201 | 5,843 | 2,576 | 701 | 290,424 |
宝暦6年 | 1756年 | 356,005 | 194,980 | 161,025 | 2,047 | 85 | 917 | 5,830 | 29,836 | 12,275 | 10,383 | 381 | 6,199 | 598 | 24,717 | 3,079 | 5,821 | 2,470 | 569 | 289,513 |
宝暦7年[39] | 1757年 | 351,755 | 192,643 | 159,112 | 2,697 | 104 | 1,267 | 8,350 | 29,545 | 12,208 | 10,270 | 368 | 6,125 | 574 | 23,970 | 3,036 | 5,630 | 2,300 | 551 | 286,723 |
宝暦8年 | 1758年 | 352,755 | 193,343 | 159,412 | 4,004 | 108 | 96 | 3,986 | 27,119 | 11,912 | 9,004 | 379 | 5,263 | 561 | 20,529 | 2,685 | 4,032 | 2,112 | 444 | 295,834 |
宝暦9年 | 1759年 | 354,778 | 194,425 | 160,353 | 5,024 | 101 | 70 | 3,032 | 27,990 | 12,177 | 9,387 | 374 | 5,474 | 578 | 21,560 | 2,741 | 4,262 | 2,104 | 453 | 295,668 |
宝暦10年 | 1760年 | 355,935 | 195,165 | 160,770 | 6,113 | 169 | 123 | 4,058 | 25,471 | 11,699 | 8,547 | 369 | 4,339 | 517 | 21,930 | 2,504 | 4,264 | 2,147 | 300 | 299,319 |
宝暦11年 | 1761年 | 356,513 | 195,452 | 161,061 | 4,361 | 63 | 121 | 3,725 | 25,453 | 10,699 | 8,016 | 377 | 5,760 | 601 | 21,639 | 2,694 | 4,486 | 2,036 | 305 | 299,900 |
宝暦12年 | 1762年 | 356,978 | 195,738 | 161,240 | 99 | 157 | 3,254 | 26,963 | 11,993 | 8,297 | 391 | 5,661 | 621 | 21,888 | 3,155 | 3,858 | 2,027 | 306 | 298,784 | |
宝暦13年 | 1763年 | 357,945 | 194,969 | 162,976 | 105 | 238 | 3,682 | 28,470 | 12,415 | 8,611 | 399 | 6,425 | 620 | 22,737 | 3,118 | 3,938 | 1,927 | 316 | 297,442 | |
明和元年 | 1764年 | 358,857 | 193,434 | 165,423 | 4,853 | 158 | 225 | 3,877 | 28,457 | 12,299 | 8,795 | 411 | 6,375 | 577 | 23,079 | 2,826 | 5,802 | 2,100 | 609 | 295,984 |
明和2年 | 1765年 | 359,039 | 193,458 | 165,581 | 3,965 | 107 | 223 | 3,667 | 28,454 | 12,307 | 8,783 | 417 | 6,382 | 565 | 23,093 | 2,865 | 5,869 | 2,147 | 603 | 296,008 |
明和3年 | 1766年 | 358,786 | 193,368 | 165,418 | ||||||||||||||||
明和4年 | 1767年 | 359,028 | 193,532 | 165,496 | 6,872 | 128 | 253 | 6,505 | 27,764 | 11,998 | 8,243 | 434 | 6,492 | 597 | 23,891 | 2,925 | 5,176 | 2,452 | 352 | 296,468 |
明和5年 | 1768年 | 358,927 | 193,517 | 165,410 | 6,714 | 240 | 253 | 6,802 | 27,744 | 11,966 | 8,262 | 459 | 6,441 | 616 | 23,547 | 3,035 | 5,323 | 2,589 | 366 | 296,323 |
明和6年 | 1769年 | 358,803 | 190,856 | 167,947 | 6,782 | 362 | 356 | 6,912 | 27,797 | 11,989 | 8,231 | 438 | 6,511 | 628 | 23,429 | 3,092 | 5,156 | 2,696 | 373 | 296,260 |
明和7年 | 1770年 | 358,855 | 190,071 | 168,784 | 6,846 | 289 | 273 | 6,810 | 27,920 | 12,053 | 8,288 | 449 | 6,491 | 639 | 23,555 | 3,013 | 5,160 | 2,498 | 382 | 296,332 |
明和8年 | 1771年 | 358,736 | 190,032 | 168,704 | 6,869 | 253 | 148 | 7,093 | 27,922 | 12,035 | 8,328 | 435 | 6,479 | 645 | 23,609 | 3,002 | 5,129 | 2,587 | 397 | 296,090 |
安永元年 | 1772年 | 358,702 | 189,989 | 168,713 | 6,631 | 247 | 133 | 6,779 | 27,900 | 12,129 | 8,192 | 448 | 6,489 | 642 | 23,641 | 2,962 | 5,045 | 2,609 | 348 | 296,197 |
安永2年 | 1773年 | 358,081 | 189,641 | 168,440 | 6,567 | 209 | 159 | 7,238 | 27,926 | 12,156 | 8,203 | 441 | 6,478 | 648 | 23,665 | 2,954 | 5,007 | 2,637 | 339 | 295,553 |
安永3年[39] | 1774年 | 357,640 | 189,590 | 168,050 | 7,866 | 214 | 134 | 8,387 | 28,285 | 12,358 | 8,338 | 448 | 6,485 | 656 | 25,287 | 3,316 | 3,176 | 2,715 | 328 | 294,533 |
安永4年 | 1775年 | 358,125 | 189,779 | 168,346 | 7,583 | 198 | 119 | 7,177 | 28,182 | 12,319 | 8,312 | 448 | 6,456 | 647 | 25,044 | 3,315 | 3,427 | 2,687 | 335 | 295,135 |
安永5年 | 1776年 | 357,678 | 189,761 | 167,917 | 7,675 | 197 | 121 | 8,198 | 28,205 | 12,323 | 8,321 | 448 | 6,461 | 652 | 25,047 | 3,320 | 3,348 | 2,698 | 337 | 294,733 |
安永6年 | 1777年 | 357,959 | 189,794 | 168,165 | 7,853 | 223 | 142 | 7,653 | 28,273 | 12,335 | 8,375 | 453 | 6,455 | 655 | 25,072 | 3,318 | 3,355 | 2,672 | 332 | 294,937 |
安永7年 | 1778年 | 357,652 | 189,628 | 168,024 | 7,618 | 211 | 157 | 7,979 | 28,212 | 12,317 | 8,343 | 437 | 6,473 | 642 | 25,019 | 3,306 | 3,338 | 2,690 | 348 | 294,739 |
安永8年 | 1779年 | 357,929 | 189,797 | 168,132 | 8,225 | 274 | 136 | 8,086 | 28,281 | 12,343 | 8,369 | 444 | 6,483 | 642 | 25,130 | 3,268 | 3,314 | 2,690 | 366 | 294,880 |
安永9年 | 1780年 | 357,705 | 189,671 | 168,034 | 8,215 | 284 | 274 | 8,225 | 28,257 | 12,332 | 8,364 | 443 | 6,478 | 640 | 25,092 | 3,257 | 3,301 | 2,679 | 365 | 294,754 |
天明元年[39] | 1781年 | 357,899 | 189,783 | 168,116 | 8,379 | 314 | 304 | 8,389 | 28,291 | 12,340 | 8,371 | 449 | 6,488 | 643 | 25,120 | 3,259 | 3,305 | 2,686 | 369 | 294,869 |
天明2年 | 1782年 | 357,650 | 189,655 | 167,995 | 8,443 | 321 | 188 | 8,576 | 28,291 | 12,332 | 8,379 | 449 | 6,488 | 643 | 25,117 | 3,296 | 3,305 | 2,686 | 369 | 294,586 |
天明3年 | 1783年 | 357,896 | 189,803 | 168,093 | 8,539 | 348 | 202 | 8,685 | 28,352 | 12,363 | 8,388 | 453 | 6,499 | 649 | 25,153 | 3,319 | 3,308 | 2,693 | 372 | 294,699 |
天明4年 | 1784年 | 356,402 | 188,955 | 167,447 | 7,914 | 226 | 324 | 9,310 | 28,127 | 12,320 | 8,336 | 431 | 6,414 | 626 | 24,958 | 3,190 | 3,243 | 2,611 | 361 | 293,912 |
天明5年 | 1785年 | 357,029 | 189,319 | 167,710 | 8,519 | 328 | 226 | 8,621 | 28,378 | 12,442 | 8,392 | 448 | 6,453 | 643 | 25,140 | 3,251 | 3,256 | 2,626 | 369 | 294,009 |
天明6年 | 1786年 | 356,447 | 188,987 | 167,460 | 8,259 | 297 | 257 | 8,881 | 28,265 | 12,389 | 8,377 | 437 | 6,438 | 624 | 25,074 | 3,209 | 3,243 | 2,609 | 354 | 293,693 |
天明7年 | 1787年 | 357,251 | 189,421 | 167,830 | 8,976 | 384 | 292 | 9,068 | 28,377 | 12,412 | 8,397 | 454 | 6,475 | 639 | 25,182 | 3,245 | 3,260 | 2,632 | 374 | 294,181 |
天明8年 | 1788年 | 356,617 | 189,075 | 167,544 | 8,672 | 372 | 282 | 8,762 | 28,274 | 12,378 | 8,368 | 448 | 6,448 | 632 | 25,094 | 3,211 | 3,228 | 2,609 | 371 | 293,830 |
寛政元年 | 1789年 | 357,357 | 189,468 | 167,889 | 9,013 | 401 | 322 | 9,092 | 28,446 | 12,421 | 8,415 | 465 | 6,487 | 658 | 25,208 | 3,253 | 3,246 | 2,628 | 377 | 294,199 |
寛政2年 | 1790年 | 356,987 | 189,290 | 167,697 | 8,703 | 341 | 261 | 8,783 | 28,487 | 12,478 | 8,410 | 462 | 6,483 | 654 | 25,260 | 2,672 | 3,239 | 2,619 | 374 | 294,336 |
寛政3年 | 1791年 | 357,505 | 189,628 | 167,877 | 9,652 | 432 | 314 | 9,252 | 28,540 | 12,494 | 8,423 | 469 | 6,493 | 661 | 25,300 | 2,758 | 3,247 | 2,619 | 379 | 294,662 |
寛政4年 | 1792年 | 356,306 | 188,555 | 167,751 | 9,623 | 461 | 421 | 9,663 | 27,995 | 12,267 | 8,266 | 436 | 6,402 | 624 | 28,448 | 2,759 | 2,630 | 2,609 | 322 | 291,542 |
寛政5年 | 1793年 | 357,433 | 188,926 | 168,507 | 10,643 | 818 | 497 | 9,837 | 28,081 | 12,297 | 8,288 | 446 | 6,420 | 630 | 28,503 | 2,749 | 2,637 | 2,617 | 326 | 292,520 |
寛政6年 | 1794年 | 356,191 | 188,263 | 167,928 | 9,597 | 777 | 529 | 11,087 | 27,944 | 12,248 | 8,249 | 441 | 6,386 | 620 | 28,311 | 2,744 | 2,608 | 2,588 | 321 | 291,675 |
寛政7年 | 1795年 | 357,323 | 188,839 | 168,484 | 10,547 | 957 | 514 | 9,860 | 28,033 | 12,283 | 8,269 | 448 | 6,402 | 631 | 28,378 | 2,762 | 2,623 | 2,601 | 326 | 292,600 |
寛政8年 | 1796年 | 356,483 | 188,325 | 168,158 | 9,641 | 833 | 624 | 10,590 | 27,990 | 12,268 | 8,257 | 441 | 6,397 | 627 | 28,293 | 2,751 | 2,598 | 2,581 | 320 | 291,950 |
寛政9年 | 1797年 | 356,636 | 188,783 | 167,853 | ||||||||||||||||
寛政10年 | 1798年 | 356,636 | 188,301 | 168,335 | 10,420 | 1,154 | 577 | 10,997 | 28,060 | 12,295 | 8,278 | 441 | 6,417 | 629 | 28,400 | 2,756 | 2,578 | 2,545 | 322 | 291,975 |
享和2年 | 1802年 | 357,853 | 189,476 | 168,377 | ||||||||||||||||
享和3年 | 1803年 | 357,810 | 188,971 | 168,839 | 11,293 | 1,435 | 858 | 11,913 | 28,272 | 12,385 | 8,312 | 469 | 6,459 | 647 | 28,576 | 2,797 | 2,607 | 2,595 | 328 | 292,635 |
文化13年 | 1816年 | 326,262 | 171,907 | 154,355 | ||||||||||||||||
天保8年 | 1837年 | 350,295 | 184,853 | 165,442 | ||||||||||||||||
天保9年[39] | 1838年 | 351,332 | 185,351 | 165,981 | 11,237 | 1,414 | 797 | 10,817 | 28,105 | 12,341 | 8,264 | 455 | 6,413 | 632 | 28,385 | 2,715 | 326 | 291,801 | ||
天保10年 | 1839年 | 357,207 | 188,503 | 168,704 | 11,290 | 1,436 | 845 | 10,896 | 28,224 | 12,377 | 8,288 | 468 | 6,441 | 650 | 28,465 | 2,761 | 2,605 | 2,521 | 338 | 292,294 |
天保11年 | 1840年 | 355,548 | 187,274 | 168,274 | 11,214 | 1,400 | 832 | 10,872 | 28,005 | 12,298 | 8,226 | 459 | 6,384 | 638 | 28,402 | 2,738 | 2,593 | 2,511 | 331 | 291,735 |
八戸藩は、同じ南部氏族の藩で、三戸郡、志和郡、九戸郡に領地を有していた。
年号 | 西暦 | 領内総人口 | 侍方人口 | 寺社方人口 | 領民人口 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | 合計 | 八戸家中 (手廻・ 召使)・ 江戸常府 志和衆 | 足軽 鉄砲方 | 出家・ 山伏・ 社人・ 座頭・ 諸役人 手廻 | 寺社領 百姓 | 合計 | 男 | 女 | 諸百姓・ 町人 | 八戸 町人 | 職人 | 会所番人・ 鐘付・ 浪人・ 牧場係 | ||
享保15年 | 1730年 | 56,401 | 29,104 | 27,297 | ||||||||||||
元文3年 | 1738年 | 56,851 | 29,394 | 27,557 | ||||||||||||
延享4年 | 1747年 | 55,651 | 29,060 | 26,591 | ||||||||||||
寛延2年 | 1749年 | 71,352 | 2,833 | 2,121 | 712 | 2,001 | 387 | 66,131 | 61,997 | 4,075 | 59 | |||||
宝暦5年 | 1755年 | 65,613 | 2,453 | 1,754 | 699 | 1,608 | 492 | 61,060 | 56,793 | 3,852 | 358 | 57 | ||||
宝暦12年 | 1762年 | 51,289 | ||||||||||||||
明和2年 | 1765年 | 58,476 | 30,359 | 28,117 | 1,817 | |||||||||||
天保3年 | 1832年 | 50,551 | ||||||||||||||
天明4年 | 1784年 | 45,349 | 3,015 | 2,363 | 652 | 407 | 2,121 | 39,806 | 34,990 | 4,122 | 455 | 239 | ||||
文化7年 | 1810年 | 51,396 | 27,186 | 24,210 |
幕末には七戸藩が支藩として成立した。戊辰戦争の処分により、盛岡藩は白石に転封となったが、半年後に盛岡に復帰した。しかしながら財政難により廃藩置県を待たずに廃藩を希望し、盛岡県となった。明治3年(1870年)~明治4年(1871年)頃の八戸藩、七戸藩、盛岡県の族籍別人口は以下の通り。また、没収された領地の内、斗南藩の人口は7万5467人、江刺県の人口は23万7550人(旧仙台藩領を含む)。
族籍 | 八戸藩 | 七戸藩 | 盛岡県 |
---|---|---|---|
華族 | 2 | 3 | |
士族 | 2,927 | 1,680 | 10,893 |
卒 | 1,041 | 350 | 1,958 |
神職 | 437 | 84 | 998 |
僧尼 | 360 | 54 | 733 |
平民 | 63,374 | 13,346 | 123,054 |
穢多 | 54 | 13 | 189 |
合計 | 68,195 | 15,530 | 137,825 |
(典拠は『盛岡藩雑書』、高橋梵仙『日本人口史之研究』日本学術振興会 (1955年)、森嘉兵衛『日本僻地の史的研究』法政大学出版 (1969年))
米沢藩
[編集]米沢藩の総人口は、『秘庫存書』(上杉文書)に元禄5年(1692年)から慶応3年(1867年)まで176年分が伝わっており、もっとも長期に渡って年毎の人口変遷が保存されている。慶応2年(1866年)に人口が急増しているが、これは屋代郷3万石の加増による。18世紀に人口は減少したが、宝暦の大飢饉後の上杉鷹山の治世の頃に人口増加に転じている。その後の天明の大飢饉、天保の大飢饉の際にも人口が減少しているが、他の東北諸藩に比べると飢饉の影響は少ない。
元号 | 西暦 | 総人口 | 男 | 女 | 出家・ 修験・ 座頭 | 元号 | 西暦 | 総人口 | 男 | 女 | 出家・ 修験・ 座頭 | 元号 | 西暦 | 総人口 | 男 | 女 | 出家・ 修験・ 座頭 | 元号 | 西暦 | 総人口 | 男 | 女 | 出家・ 修験・ 座頭 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
元禄5年 | 1692年 | 133,259 | 77,825 | 54,002 | 1,432 | 元文元年 | 1736年 | 114,307 | 65,337 | 47,672 | 1,298 | 安永9年 | 1780年 | 103,628 | 56,052 | 46,527 | 1,049 | 文政7年 | 1824年 | 110,183 | 56,990 | 52,343 | 850 |
元禄6年 | 1693年 | 132,189 | 77,304 | 53,462 | 1,423 | 元文2年 | 1737年 | 113,983 | 65,078 | 47,617 | 1,278 | 天明元年 | 1781年 | 103,789 | 56,139 | 46,637 | 1,013 | 文政8年 | 1825年 | 110,341 | 56,990 | 52,499 | 852 |
元禄7年 | 1694年 | 131,966 | 77,254 | 53,268 | 1,444 | 元文3年 | 1738年 | 113,314 | 64,606 | 47,424 | 1,284 | 天明2年 | 1782年 | 103,569 | 55,887 | 46,717 | 964 | 文政9年 | 1826年 | 110,859 | 57,150 | 52,856 | 853 |
元禄8年 | 1695年 | 132,187 | 77,412 | 53,304 | 1,471 | 元文4年 | 1739年 | 112,315 | 63,895 | 47,129 | 1,291 | 天明3年 | 1783年 | 103,991 | 55,991 | 47,030 | 970 | 文政10年 | 1827年 | 111,710 | 57,541 | 53,315 | 854 |
元禄9年 | 1696年 | 131,973 | 77,375 | 53,117 | 1,481 | 元文5年 | 1740年 | 112,378 | 63,753 | 47,339 | 1,286 | 天明4年 | 1784年 | 103,281 | 55,418 | 46,188 | 975 | 文政11年 | 1828年 | 112,854 | 58,095 | 53,914 | 845 |
元禄10年 | 1697年 | 130,568 | 76,622 | 52,406 | 1,480 | 寛保元年 | 1741年 | 111,578 | 63,246 | 47,061 | 1,271 | 天明5年 | 1785年 | 100,946 | 53,954 | 46,048 | 944 | 文政12年 | 1829年 | 113,619 | 58,426 | 54,343 | 850 |
元禄11年 | 1698年 | 130,102 | 76,410 | 52,196 | 1,496 | 寛保2年 | 1742年 | 111,458 | 62,938 | 47,261 | 1,214 | 天明6年 | 1786年 | 100,381 | 53,645 | 45,805 | 934 | 天保元年 | 1830年 | 113,860 | 58,437 | 54,566 | 857 |
元禄12年 | 1699年 | 129,734 | 76,282 | 51,942 | 1,510 | 寛保3年 | 1743年 | 111,283 | 63,054 | 46,967 | 1,260 | 天明7年 | 1787年 | 99,985 | 53,405 | 45,661 | 921 | 天保2年 | 1831年 | 113,651 | 58,306 | 54,477 | 868 |
元禄13年 | 1700年 | 128,696 | 75,773 | 51,429 | 1,494 | 延享元年 | 1744年 | 111,118 | 62,784 | 47,072 | 1,262 | 天明8年 | 1788年 | 99,508 | 53,121 | 45,467 | 920 | 天保3年 | 1832年 | 114,373 | 58,666 | 54,833 | 874 |
元禄14年 | 1701年 | 128,407 | 75,705 | 51,206 | 1,496 | 延享2年 | 1745年 | 110,178 | 62,124 | 46,796 | 1,258 | 寛政元年 | 1789年 | 99,123 | 52,868 | 45,338 | 917 | 天保4年 | 1833年 | 114,999 | 59,052 | 55,071 | 876 |
元禄15年 | 1702年 | 128,031 | 75,475 | 51,055 | 1,501 | 延享3年 | 1746年 | 110,064 | 62,069 | 46,752 | 1,243 | 寛政2年 | 1790年 | 99,296 | 52,919 | 45,421 | 956 | 天保5年 | 1834年 | 115,300 | 59,112 | 55,313 | 875 |
元禄16年 | 1703年 | 127,062 | 75,014 | 50,575 | 1,473 | 延享4年 | 1747年 | 110,232 | 62,159 | 46,842 | 1,230 | 寛政3年 | 1791年 | 99,119 | 52,852 | 45,366 | 901 | 天保6年 | 1835年 | 114,109 | 58,452 | 54,777 | 880 |
宝永元年 | 1704年 | 126,513 | 74,707 | 50,316 | 1,490 | 寛延元年 | 1748年 | 109,882 | 61,836 | 46,813 | 1,233 | 寛政4年 | 1792年 | 99,085 | 52,759 | 45,427 | 899 | 天保7年 | 1836年 | 115,085 | 58,977 | 55,239 | 867 |
宝永2年 | 1705年 | 125,954 | 74,394 | 50,093 | 1,467 | 寛延2年 | 1749年 | 108,885 | 61,105 | 46,549 | 1,231 | 寛政5年 | 1793年 | 99,785 | 53,106 | 45,793 | 886 | 天保8年 | 1837年 | 114,983 | 58,890 | 55,223 | 870 |
宝永3年 | 1706年 | 124,893 | 73,846 | 49,624 | 1,423 | 寛延3年 | 1750年 | 108,859 | 60,996 | 46,625 | 1,238 | 寛政6年 | 1794年 | 101,124 | 53,703 | 46,527 | 894 | 天保9年 | 1838年 | 113,404 | 57,912 | 54,534 | 878 |
宝永4年 | 1707年 | 124,540 | 73,663 | 49,452 | 1,425 | 宝暦元年 | 1751年 | 108,623 | 60,828 | 46,549 | 1,246 | 寛政7年 | 1795年 | 102,236 | 54,188 | 47,142 | 906 | 天保10年 | 1839年 | 113,113 | 57,834 | 54,411 | 868 |
宝永5年 | 1708年 | 123,852 | 73,368 | 49,077 | 1,407 | 宝暦2年 | 1752年 | 108,858 | 60,869 | 46,746 | 1,243 | 寛政8年 | 1796年 | 101,507 | 53,700 | 46,913 | 894 | 天保11年 | 1840年 | 112,968 | 57,787 | 54,334 | 847 |
宝永6年 | 1709年 | 123,403 | 73,157 | 48,869 | 1,377 | 宝暦3年 | 1753年 | 109,068 | 60,887 | 46,945 | 1,236 | 寛政9年 | 1797年 | 103,721 | 54,768 | 48,053 | 900 | 天保12年 | 1841年 | 113,973 | 58,297 | 54,824 | 852 |
宝永7年 | 1710年 | 122,245 | 72,535 | 48,369 | 1,341 | 宝暦4年 | 1754年 | 107,996 | 60,196 | 46,580 | 1,220 | 寛政10年 | 1798年 | 104,395 | 55,044 | 48,463 | 888 | 天保13年 | 1842年 | 114,974 | 58,787 | 55,325 | 862 |
正徳元年 | 1711年 | 122,385 | 72,708 | 48,361 | 1,315 | 宝暦5年 | 1755年 | 107,317 | 59,722 | 46,378 | 1,217 | 寛政11年 | 1799年 | 105,047 | 55,303 | 48,958 | 786 | 天保14年 | 1843年 | 115,010 | 58,788 | 55,354 | 868 |
正徳2年 | 1712年 | 122,110 | 72,441 | 48,380 | 1,289 | 宝暦6年 | 1756年 | 106,390 | 58,912 | 46,266 | 1,202 | 寛政12年 | 1800年 | 106,213 | 56,238 | 50,010 | 841 | 弘化元年 | 1844年 | 115,695 | 59,135 | 55,683 | 877 |
正徳3年 | 1713年 | 120,705 | 71,598 | 47,785 | 1,304 | 宝暦7年 | 1757年 | 102,628 | 56,381 | 45,059 | 1,188 | 享和元年 | 1801年 | 107,110 | 56,238 | 50,010 | 863 | 弘化2年 | 1845年 | 116,598 | 59,547 | 56,169 | 882 |
正徳4年 | 1714年 | 120,711 | 71,503 | 47,874 | 1,331 | 宝暦8年 | 1758年 | 100,900 | 55,354 | 44,382 | 1,163 | 享和2年 | 1802年 | 106,965 | 56,070 | 50,037 | 858 | 弘化3年 | 1846年 | 117,689 | 60,105 | 56,715 | 869 |
正徳5年 | 1715年 | 121,194 | 71,663 | 48,200 | 1,331 | 宝暦9年 | 1759年 | 100,007 | 54,862 | 43,980 | 1,165 | 享和3年 | 1803年 | 106,121 | 55,529 | 49,744 | 848 | 弘化4年 | 1847年 | 118,799 | 60,673 | 57,261 | 865 |
享保元年 | 1716年 | 120,606 | 71,287 | 47,961 | 1,358 | 宝暦10年 | 1760年 | 99,369 | 54,575 | 43,640 | 1,154 | 文化元年 | 1804年 | 105,888 | 55,529 | 49,744 | 839 | 嘉永元年 | 1848年 | 119,995 | 61,270 | 57,855 | 870 |
享保2年 | 1717年 | 120,650 | 71,261 | 48,058 | 1,331 | 宝暦11年 | 1761年 | 99,552 | 54,667 | 43,706 | 1,159 | 文化2年 | 1805年 | 106,760 | 55,895 | 50,015 | 850 | 嘉永2年 | 1849年 | 119,804 | 61,189 | 57,746 | 869 |
享保3年 | 1718年 | 120,609 | 71,179 | 48,086 | 1,344 | 宝暦12年 | 1762年 | 100,024 | 54,871 | 44,013 | 1,140 | 文化3年 | 1806年 | 107,547 | 56,292 | 50,410 | 845 | 嘉永3年 | 1850年 | 120,638 | 61,544 | 58,228 | 866 |
享保4年 | 1719年 | 120,099 | 70,825 | 47,932 | 1,342 | 宝暦13年 | 1763年 | 100,560 | 55,091 | 44,360 | 1,109 | 文化4年 | 1807年 | 107,192 | 56,075 | 50,265 | 852 | 嘉永4年 | 1851年 | 121,856 | 62,035 | 58,930 | 891 |
享保5年 | 1720年 | 118,615 | 69,811 | 47,404 | 1,330 | 明和元年 | 1764年 | 101,489 | 55,559 | 44,783 | 1,127 | 文化5年 | 1808年 | 107,052 | 55,908 | 50,303 | 841 | 嘉永5年 | 1852年 | 122,361 | 62,236 | 59,244 | 881 |
享保6年 | 1721年 | 118,537 | 69,129 | 48,039 | 1,369 | 明和2年 | 1765年 | 101,845 | 55,759 | 44,960 | 1,126 | 文化6年 | 1809年 | 107,453 | 56,092 | 50,505 | 856 | 嘉永6年 | 1853年 | 123,355 | 62,745 | 59,732 | 878 |
享保7年 | 1722年 | 118,209 | 68,902 | 47,933 | 1,374 | 明和3年 | 1766年 | 102,434 | 56,065 | 45,278 | 1,091 | 文化7年 | 1810年 | 108,313 | 56,387 | 51,023 | 904 | 安政元年 | 1854年 | 124,128 | 63,174 | 60,060 | 894 |
享保8年 | 1723年 | 117,881 | 68,674 | 47,826 | 1,386 | 明和4年 | 1767年 | 102,485 | 56,094 | 45,290 | 1,101 | 文化8年 | 1811年 | 108,949 | 56,782 | 51,285 | 882 | 安政2年 | 1855年 | 124,709 | 73,440 | 50,376 | 893 |
享保9年 | 1724年 | 117,134 | 68,192 | 47,589 | 1,353 | 明和5年 | 1768年 | 102,020 | 55,869 | 45,063 | 1,088 | 文化9年 | 1812年 | 108,998 | 56,693 | 51,432 | 873 | 安政3年 | 1856年 | 125,130 | 63,652 | 60,571 | 907 |
享保10年 | 1725年 | 116,702 | 67,811 | 47,468 | 1,354 | 明和6年 | 1769年 | 102,434 | 56,065 | 45,278 | 1,091 | 文化10年 | 1813年 | 108,985 | 56,634 | 51,496 | 855 | 安政4年 | 1857年 | 125,685 | 63,890 | 60,875 | 920 |
享保11年 | 1726年 | 115,660 | 67,242 | 47,079 | 1,345 | 明和7年 | 1770年 | 102,905 | 56,246 | 45,578 | 1,081 | 文化11年 | 1814年 | 109,126 | 56,688 | 51,573 | 865 | 安政5年 | 1858年 | 126,207 | 64,076 | 61,231 | 900 |
享保12年 | 1727年 | 115,096 | 66,773 | 46,984 | 1,340 | 明和8年 | 1771年 | 103,818 | 56,700 | 46,041 | 1,077 | 文化12年 | 1815年 | 109,773 | 57,008 | 51,890 | 875 | 安政6年 | 1859年 | 127,080 | 64,503 | 61,688 | 889 |
享保13年 | 1728年 | 115,015 | 65,593 | 44,074 | 1,348 | 安永元年 | 1772年 | 104,042 | 56,773 | 46,190 | 1,079 | 文化13年 | 1816年 | 110,511 | 57,308 | 52,328 | 875 | 万延元年 | 1860年 | 127,860 | 64,730 | 62,221 | 909 |
享保14年 | 1729年 | 114,207 | 65,199 | 46,857 | 1,351 | 安永2年 | 1773年 | 103,961 | 56,636 | 46,234 | 1,071 | 文化14年 | 1817年 | 110,947 | 57,512 | 52,563 | 873 | 文久元年 | 1861年 | 128,313 | 65,037 | 62,383 | 893 |
享保15年 | 1730年 | 114,429 | 65,954 | 47,097 | 1,378 | 安永3年 | 1774年 | 103,901 | 56,573 | 46,297 | 1,067 | 文政元年 | 1818年 | 111,107 | 57,645 | 52,603 | 859 | 文久2年 | 1862年 | 129,003 | 65,415 | 62,692 | 896 |
享保16年 | 1731年 | 114,051 | 65,654 | 47,043 | 1,350 | 安永4年 | 1775年 | 104,154 | 56,646 | 46,444 | 1,064 | 文政2年 | 1819年 | 110,998 | 57,585 | 52,574 | 839 | 文久3年 | 1863年 | 127,773 | 64,937 | 61,946 | 890 |
享保17年 | 1732年 | 113,711 | 65,313 | 47,055 | 1,343 | 安永5年 | 1776年 | 104,498 | 56,766 | 46,655 | 1,082 | 文政3年 | 1820年 | 109,602 | 56,825 | 51,946 | 921 | 元治元年 | 1864年 | 127,588 | 64,967 | 62,243 | 890 |
享保18年 | 1733年 | 113,975 | 65,308 | 47,333 | 1,343 | 安永6年 | 1777年 | 103,625 | 56,279 | 46,277 | 1,069 | 文政4年 | 1821年 | 109,603 | 56,791 | 51,980 | 832 | 慶応元年 | 1865年 | 128,103 | 64,967 | 62,243 | 893 |
享保19年 | 1734年 | 113,772 | 65,341 | 47,117 | 1,314 | 安永7年 | 1778年 | 103,702 | 56,380 | 46,263 | 1,059 | 文政5年 | 1822年 | 109,557 | 56,742 | 51,984 | 851 | 慶応2年 | 1866年 | 143,126 | |||
享保20年 | 1735年 | 113,762 | 65,042 | 47,415 | 1,305 | 安永8年 | 1779年 | 103,605 | 56,102 | 46,458 | 1,045 | 文政6年 | 1823年 | 109,726 | 56,816 | 52,076 | 834 | 慶応3年 | 1867年 | 144,153 | 73,091 | 70,084 | 638 |
また、米沢藩の身分別人口は以下の通りである。なお安永5年(1776年)の身分別人口の合計(下表)と総人口(上表)が一致しないが、おそらく町方人口などの身分別人口の数値に誤りがあると思われる。
元号 | 西暦 | 合計 | 諸奉公人 ・又者 | 城下町人 | 226ヶ村 在方 | 出家・修験 ・座頭 |
---|---|---|---|---|---|---|
元禄5年 | 1692年 | 133,259 | 31,173 | 12,129 | 88,525 | 1,432 |
元禄6年 | 1693年 | 132,189 | 31,145 | 12,078 | 87,543 | 1,423 |
元禄14年 | 1701年 | 128,407 | 29,960 | 11,481 | 85,470 | 1,496 |
安永5年 | 1776年 | 121,730 | 24,061 | 16,099 | 80,488 | 1,082 |
天保11年 | 1840年 | 112,968 | 25,608 | 6,667 | 79,846 | 847 |
天保12年 | 1841年 | 113,973 | 25,899 | 6,678 | 80,544 | 852 |
天保13年 | 1842年 | 114,974 | 26,220 | 6,696 | 81,196 | 862 |
天保14年 | 1843年 | 115,010 | 26,236 | 6,717 | 81,189 | 868 |
天保15年 | 1844年 | 115,695 | 26,476 | 6,728 | 81,614 | 877 |
弘化2年 | 1845年 | 116,598 | 26,651 | 6,761 | 82,304 | 882 |
弘化3年 | 1846年 | 117,689 | 26,964 | 6,773 | 83,083 | 869 |
弘化4年 | 1847年 | 118,799 | 27,398 | 6,802 | 83,734 | 865 |
嘉永元年 | 1848年 | 119,995 | 27,782 | 6,840 | 84,503 | 870 |
嘉永2年 | 1849年 | 119,804 | 27,821 | 6,809 | 84,305 | 869 |
嘉永3年 | 1850年 | 120,638 | 28,115 | 6,920 | 84,737 | 866 |
嘉永4年 | 1851年 | 121,856 | 28,481 | 6,962 | 85,522 | 891 |
嘉永5年 | 1852年 | 122,361 | 28,642 | 6,972 | 85,866 | 881 |
嘉永6年 | 1853年 | 123,355 | 28,864 | 6,947 | 86,666 | 878 |
嘉永7年 | 1854年 | 124,128 | 29,097 | 6,973 | 87,164 | 894 |
安政2年 | 1855年 | 124,709 | 29,397 | 6,998 | 87,421 | 893 |
安政3年 | 1856年 | 125,130 | 29,764 | 6,871 | 87,588 | 907 |
安政4年 | 1857年 | 125,685 | 30,091 | 6,896 | 87,778 | 920 |
安政5年 | 1858年 | 126,207 | 30,388 | 6,881 | 88,038 | 900 |
安政6年 | 1859年 | 127,080 | 30,763 | 6,888 | 88,540 | 889 |
万延元年 | 1860年 | 127,860 | 31,098 | 6,969 | 88,884 | 909 |
文久元年 | 1861年 | 128,313 | 31,474 | 6,979 | 88,967 | 893 |
文久2年 | 1862年 | 129,003 | 32,036 | 6,943 | 89,128 | 896 |
(典拠は『山形県史』、吉田義信『置賜民衆生活史』国書刊行会 (1973年))
宇和島藩
[編集]元禄3年(1690年)から慶応3年(1867年)までの身分別人口の変遷が断続的に『宇和島藩主伊達家文書』へ記録されている。武家人口に関しては、国許、大坂、江戸屋敷の家中・使用人人口も記録されている。なお江戸屋敷の人口は、例えば明和9年(1772年)の明和の大火で明和8年(1771年)以前の書類が焼失するなどにより、一部の統計を欠く。
元号 | 西暦 | 国許・大坂・江戸合計 | 国許人口 | 国許 家中 | 大坂 家中 | 江戸 屋敷 家中 | 国許 家中 奉公人・ 長屋借 | 大坂 奉公人 | 江戸 屋敷 奉公人 | 町方 | 町方 寺中・ 山伏 | 在浦方 | 在浦方 寺中・ 山伏 | 被差別民 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | |||||||||||||
元禄3年 | 1690年 | 84,105 | 45,136 | 38,969 | 84,018 | 45,089 | 38,929 | 4,532 | 79 | 2,532 | 8 | 4,397 | 453 | 71,567 | 537 | |||
元禄4年 | 1691年 | 85,609 | 46,032 | 39,577 | 85,507 | 45,978 | 39,529 | 4,468 | 88 | 2,632 | 14 | 4,254 | 474 | 73,140 | 539 | |||
宝暦11年 | 1761年 | 106,315 | 57,444 | 48,871 | 106,246 | 57,409 | 48,837 | 4,363 | 63 | 1,461 | 6 | 3,407 | 395 | 95,041 | 1,579 | |||
宝暦12年 | 1762年 | 108,430 | 58,610 | 49,820 | 108,356 | 58,569 | 49,787 | 4,337 | 64 | 1,537 | 10 | 3,473 | 404 | 95,319 | 1,568 | 1,718 | ||
明和8年 | 1771年 | 109,630 | 59,041 | 50,589 | 109,559 | 59,005 | 50,554 | 4,506 | 71 | 1,304 | 0 | 3,614 | 402 | 96,442 | 1,462 | 1,829 | ||
安永元年 | 1772年 | 110,527 | 59,660 | 50,867 | 109,475 | 58,967 | 50,508 | 4,517 | 74 | 825 | 1,342 | 4 | 149 | 3,636 | 409 | 96,303 | 1,422 | 1,846 |
安永2年 | 1773年 | 110,058 | 59,374 | 50,684 | 109,135 | 58,828 | 50,307 | 4,473 | 73 | 693 | 1,366 | 4 | 153 | 3,579 | 399 | 96,065 | 1,408 | 1,845 |
安永3年 | 1774年 | 110,167 | 59,394 | 50,773 | 109,224 | 58,845 | 50,379 | 4,443 | 75 | 698 | 1,341 | 4 | 166 | 3,372 | 422 | 96,387 | 1,393 | 1,866 |
安永4年 | 1775年 | 110,186 | 59,460 | 50,726 | 109,231 | 58,896 | 50,335 | 4,472 | 77 | 699 | 1,297 | 4 | 175 | 3,431 | 411 | 96,333 | 1,405 | 1,882 |
安永5年 | 1776年 | 110,487 | 59,588 | 50,899 | 109,508 | 59,009 | 50,499 | 4,423 | 78 | 721 | 1,183 | 4 | 176 | 3,464 | 409 | 96,713 | 1,420 | 1,896 |
安永6年 | 1777年 | 109,675 | 59,100 | 50,575 | 108,686 | 58,515 | 50,171 | 4,392 | 77 | 738 | 1,141 | 3 | 171 | 3,443 | 389 | 96,018 | 1,409 | 1,894 |
安永7年 | 1778年 | 109,671 | 59,047 | 50,624 | 109,593 | 59,006 | 50,587 | 4,526 | 75 | 1,236 | 3 | 3,490 | 383 | 96,652 | 1,383 | 1,923 | ||
安永8年 | 1779年 | 110,701 | 59,685 | 51,016 | 109,689 | 59,071 | 50,618 | 4,515 | 74 | 750 | 1,184 | 3 | 185 | 3,532 | 380 | 96,781 | 1,357 | 1,940 |
安永9年 | 1780年 | 110,657 | 59,733 | 50,924 | 109,578 | 59,038 | 50,540 | 4,514 | 73 | 835 | 1,157 | 3 | 168 | 3,466 | 380 | 96,757 | 1,335 | 1,969 |
天明元年 | 1781年 | 111,081 | 59,871 | 51,210 | 110,158 | 59,315 | 50,843 | 4,552 | 72 | 714 | 1,155 | 4 | 133 | 3,499 | 364 | 97,243 | 1,362 | 1,983 |
天明2年 | 1782年 | 111,255 | 59,980 | 51,275 | 110,327 | 59,414 | 50,913 | 4,682 | 71 | 712 | 1,038 | 5 | 140 | 3,458 | 378 | 97,449 | 1,332 | 1,990 |
天明3年 | 1783年 | 111,898 | 60,285 | 51,613 | 110,955 | 59,713 | 51,242 | 4,530 | 72 | 723 | 1,070 | 5 | 143 | 3,449 | 382 | 98,161 | 1,332 | 2,031 |
天明4年 | 1784年 | 112,195 | 60,350 | 51,845 | 111,243 | 59,759 | 51,484 | 4,576 | 77 | 735 | 1,016 | 6 | 134 | 3,430 | 379 | 98,475 | 1,320 | 2,047 |
天明5年 | 1785年 | 111,447 | 59,949 | 51,498 | 110,497 | 59,374 | 51,123 | 4,648 | 74 | 735 | 1,072 | 4 | 137 | 3,342 | 357 | 97,748 | 1,291 | 2,039 |
天明6年 | 1786年 | 110,760 | 59,662 | 51,098 | 109,665 | 58,960 | 50,705 | 4,628 | 87 | 854 | 1,065 | 7 | 147 | 3,319 | 359 | 96,988 | 1,279 | 2,027 |
天明7年 | 1787年 | 109,254 | 58,817 | 50,437 | 109,169 | 58,776 | 50,393 | 4,618 | 80 | 1,039 | 5 | 3,287 | 369 | 96,547 | 1,284 | 2,025 | ||
天明8年 | 1788年 | 108,758 | 58,519 | 50,239 | 108,681 | 58,478 | 50,203 | 4,634 | 72 | 1,031 | 5 | 3,278 | 353 | 96,127 | 1,251 | 2,007 | ||
寛政元年 | 1789年 | 109,341 | 58,886 | 50,455 | 108,345 | 58,227 | 50,118 | 4,695 | 75 | 800 | 1,071 | 5 | 116 | 3,296 | 324 | 95,730 | 1,230 | 1,999 |
寛政2年 | 1790年 | 109,449 | 58,862 | 50,587 | 108,545 | 58,306 | 50,229 | 4,679 | 76 | 696 | 1,072 | 6 | 126 | 3,295 | 342 | 95,907 | 1,248 | 2,002 |
寛政3年 | 1791年 | 110,311 | 59,322 | 50,989 | 109,387 | 58,761 | 50,626 | 4,688 | 82 | 708 | 1,016 | 20 | 114 | 3,342 | 351 | 96,669 | 1,300 | 2,021 |
寛政4年 | 1792年 | 110,913 | 59,672 | 51,241 | 109,983 | 59,095 | 50,888 | 4,635 | 85 | 717 | 1,061 | 19 | 109 | 3,311 | 352 | 97,278 | 1,306 | 2,040 |
寛政5年 | 1793年 | 111,557 | 60,048 | 51,509 | 110,622 | 59,479 | 51,143 | 4,655 | 84 | 719 | 1,056 | 19 | 113 | 3,358 | 383 | 97,828 | 1,294 | 2,048 |
寛政6年 | 1794年 | 112,983 | 60,778 | 52,205 | 111,897 | 60,053 | 51,844 | 4,690 | 84 | 872 | 1,045 | 20 | 110 | 3,464 | 405 | 98,915 | 1,293 | 2,085 |
寛政7年 | 1795年 | 113,700 | 61,085 | 52,615 | 112,771 | 60,523 | 52,248 | 4,715 | 82 | 719 | 1,052 | 11 | 117 | 3,403 | 417 | 99,803 | 1,279 | 2,102 |
寛政8年 | 1796年 | 114,742 | 61,638 | 53,104 | 113,778 | 61,061 | 52,717 | 4,751 | 86 | 740 | 1,095 | 13 | 125 | 3,447 | 452 | 100,650 | 1,267 | 2,116 |
寛政9年 | 1797年 | 115,792 | 62,250 | 53,542 | 114,847 | 61,676 | 53,171 | 4,824 | 80 | 736 | 1,138 | 9 | 120 | 3,462 | 447 | 101,604 | 1,248 | 2,124 |
寛政10年 | 1798年 | 116,154 | 62,441 | 53,713 | 115,141 | 61,783 | 53,358 | 4,792 | 69 | 813 | 1,136 | 5 | 126 | 3,447 | 462 | 101,923 | 1,238 | 2,143 |
寛政11年 | 1799年 | 116,992 | 62,871 | 54,121 | 116,085 | 62,309 | 53,776 | 4,700 | 69 | 711 | 1,108 | 7 | 120 | 3,425 | 457 | 102,992 | 1,252 | 2,151 |
寛政12年 | 1800年 | 116,228 | 62,468 | 53,760 | 115,296 | 61,906 | 53,390 | 4,675 | 72 | 730 | 759 | 15 | 115 | 3,435 | 444 | 102,563 | 1,265 | 2,155 |
享和元年 | 1801年 | 116,787 | 62,655 | 54,132 | 115,847 | 62,095 | 53,752 | 4,730 | 72 | 735 | 804 | 13 | 120 | 3,447 | 459 | 102,982 | 1,265 | 2,160 |
享和2年 | 1802年 | 117,556 | 63,070 | 54,486 | 116,617 | 62,511 | 54,106 | 4,818 | 69 | 740 | 871 | 11 | 119 | 3,424 | 458 | 103,575 | 1,275 | 2,196 |
享和3年 | 1803年 | 118,144 | 63,368 | 54,776 | 117,199 | 62,806 | 54,393 | 4,763 | 67 | 749 | 893 | 11 | 118 | 3,428 | 460 | 104,170 | 1,273 | 2,212 |
文化元年 | 1804年 | 117,663 | 63,071 | 54,592 | 116,730 | 62,514 | 54,216 | 4,728 | 64 | 741 | 954 | 11 | 117 | 3,385 | 454 | 103,769 | 1,252 | 2,188 |
嘉永2年 | 1849年 | 154,542 | 81,077 | 73,465 | 154,493 | 81,053 | 73,440 | 5,587 | 46 | 1,039 | 3 | 4,726 | 469 | 139,046 | 3,626 | |||
嘉永6年 | 1853年 | 156,677 | 82,006 | 74,671 | 156,627 | 81,980 | 74,647 | 5,534 | 47 | 1,078 | 3 | 4,833 | 474 | 140,902 | 3,806 | |||
安政6年 | 1859年 | 164,066 | 85,510 | 78,556 | 164,016 | 85,482 | 78,534 | 5,488 | 47 | 1,263 | 3 | 5,060 | 488 | 146,414 | 1,201 | 4,102 | ||
万延元年 | 1860年 | 166,121 | 86,454 | 79,667 | 165,003 | 85,840 | 79,163 | 5,456 | 42 | 953 | 1,182 | 3 | 120 | 5,083 | 498 | 147,422 | 1,207 | 4,155 |
文久元年 | 1861年 | 167,242 | 86,972 | 80,270 | 166,093 | 86,346 | 79,747 | 5,504 | 41 | 983 | 1,273 | 3 | 122 | 5,070 | 500 | 148,333 | 1,200 | 4,213 |
文久2年 | 1862年 | 168,181 | 87,342 | 80,839 | 167,017 | 86,709 | 80,308 | 5,563 | 42 | 996 | 1,294 | 3 | 123 | 5,104 | 506 | 149,109 | 1,204 | 4,237 |
文久3年 | 1863年 | 166,677 | 83,412 | 83,265 | 165,857 | 85,943 | 79,914 | 5,608 | 39 | 719 | 1,397 | 4 | 58 | 4,957 | 508 | 148,006 | 1,185 | 4,196 |
元治元年 | 1864年 | 166,861 | 86,542 | 80,319 | 166,155 | 86,134 | 80,021 | 5,805 | 35 | 619 | 1,500 | 4 | 48 | 4,923 | 512 | 148,032 | 1,191 | 4,192 |
慶応元年 | 1865年 | 168,227 | 87,118 | 81,109 | 167,516 | 86,715 | 80,801 | 6,129 | 34 | 628 | 1,486 | 2 | 47 | 4,982 | 534 | 148,936 | 1,189 | 4,260 |
慶応2年 | 1866年 | 169,056 | 87,638 | 81,418 | 168,333 | 87,233 | 81,100 | 5,995 | 39 | 636 | 1,499 | 0 | 48 | 5,073 | 551 | 149,671 | 1,178 | 4,366 |
慶応3年 | 1867年 | 170,339 | 88,110 | 82,229 | 169,872 | 87,845 | 82,027 | 6,341 | 34 | 407 | 1,551 | 0 | 26 | 5,119 | 557 | 150,707 | 1,154 | 4,443 |
弘前藩 (津軽藩)
[編集]以下に弘前藩の人口変遷を示す。但し統計に統一がなく、武家を加えた領内総人口と、武家を除いた領民人口の統計が混在していると思われるが、後者も領内総人口の項目にまとめた。
元号 | 西暦 | 領内総人口 | 家中 | 弘前町中 | 寺社門前 | 在方 | 九浦 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
合計 | 男 | 女 | |||||||
宝永3年 | 1706年 | 154,323 | 4,754 | 149,569 | |||||
寛延3年 | 1750年 | 151,072 | |||||||
宝暦6年 | 1756年 | 160,774 | |||||||
宝暦12年 | 1762年 | 174,035 | |||||||
明和元/2年 | 1764/65年 | 222,280 | 14,600 | 16,600 | 172,700 | 18,380 | |||
明和5年 | 1768年 | 195,064 | |||||||
安永3年 | 1774年 | 250,000 | |||||||
天明元年 | 1781年 | 246,822 | 129,888 | 116,934 | 16,974 | 16,847 | 4,166 | 189,742 | 19,093 |
寛政年中 | 1795年頃 | 143,399 | 73,107 | 70,292 | 12,923 | 10,814 | 784 | 107,600 | 11,278 |
寛政10年 | 1798年 | 169,892 | |||||||
寛政12年 | 1800年 | 173,863 | 89,283 | 84,580 | 26,730 | 132,847 | 14,286 | ||
文化元年 | 1804年 | 173,471 | 89,910 | 83,561 | 14,505 | 2,849 | 156,117 | ||
文化7年 | 1810年 | 189,721 | 14,928 | 10,498 | 1,934 | 124,640 | 12,899 | ||
文化13年 | 1816年 | 198,828 | |||||||
文政5年 | 1822年 | 206,004 | |||||||
文政11年 | 1828年 | 228,797 | |||||||
天保5年 | 1834年 | 239,741 | 124,180 | 115,561 | 21,048 | 3,424 | 215,269 | ||
天保7年 | 1836年 | 239,311 | 123,343 | 115,968 | 20,480 | 14,535 | 3,252 | 183,431 | 17,613 |
天保8年 | 1837年 | 21,004 | |||||||
天保11年 | 1840年 | 170,797 | 87,793 | 83,004 | |||||
弘化3年 | 1846年 | 185,098 | 95,334 | 89,764 | |||||
嘉永5年 | 1852年 | 204,664 | 105,973 | 98,691 | |||||
嘉永6年 | 1853年 | 221,496 | 112,310 | 109,186 | 23,431 | 14,086 | |||
安政5年 | 1858年 | 204,380 | 105,837 | 98,543 | 14,850 | ||||
安政6年 | 1859年 | 236,522 | 120,213 | 116,309 | 23,964 | 14,631 | |||
元治元年 | 1864年 | 227,042 | 116,962 | 110,080 | |||||
慶応2年 | 1866年 | 255,273 | 131,289 | 123,984 | 21,926 | 16,061 | |||
明治3年 | 1870年 | 254,633 | 124,042 | 130,591 |
(典拠は『弘前市史』、『津軽史事典』)
津和野藩
[編集]19世紀の津和野藩の人口構成について、旧津和野藩主亀井家第15代当主の亀井茲建が論文に公表しており、士農工商の割合を示すデータとしてしばしば引用される。
身分・地域・職業 | 文化2年 (1805年) | 弘化2年 (1845年) | 弘化3年 (1846年) | 嘉永3年 (1850年) | 嘉永4年 (1851年) |
---|---|---|---|---|---|
家中 | 5,464 | 5,164 | 5,200 | 5,296 | 5,296 |
津和野住居 | 5,078 | 4,859 | 4,902 | 5,021 | 5,012 |
江戸住居 | 272 | 211 | 198 | 174 | 179 |
大坂住居 | 22 | 19 | 24 | 25 | 25 |
廿日市住居 | 92 | 75 | 76 | 76 | 80 |
町方 | 2,540 | 1,923 | 1,949 | 2,048 | 2,038 |
在方 | 68,332 | 58,579 | 59,106 | 61,002 | 61,451 |
修験 | 22 | 22 | |||
寺宗門修験家内 | 19 | 16 | |||
社人 | 144 | 142 | |||
寺宗門社人家内 | 215 | 218 | |||
百姓 | 66,048 | 57,207 | 57,573 | 58,920 | 59,381 |
永明寺領虹ヶ谷村 | 102 | 93 | 91 | 96 | 91 |
鑢鍛冶屋 | 1,494 | 792 | 946 | 1,084 | 1,061 |
木地屋 | 83 | 24 | 25 | 0 | 10 |
穢多 | 590 | 461 | 469 | 502 | 506 |
番太郎 | 15 | 2 | 2 | 0 | 4 |
合計 | 76,336 | 65,668 | 66,257 | 68,346 | 68,785 |
男 | 39,763 | 34,512 | 36,002 | ||
女 | 36,573 | 31,743 | 32,783 |
(典拠は亀井茲建 (1932年)[42]。)
江戸時代の生活史に関わる人口統計
[編集]江戸時代の人の一生、世帯の状況など、生活史に関わるミクロな視点からの人口統計に関しては、歴史人口学や古人類学の立場から様々な研究がなされている。
出生率
[編集]江戸時代の各地の出生率は宗門改帳等により推測することができる。宗門改帳は、江戸期におけるキリスト教禁圧の産物であり、全住民が仏教徒であることを証明するため、世帯毎に各家族や奉公人が所属する宗派・寺院を記したものである。宗門改は毎年行うことが原則とされ、各世帯の人員構成や続柄、出生、結婚、死亡等が記載されるため、人口学上極めて貴重な資料となっている。
宗門改帳等により推計される各地の粗出生率(Crude Birth Rate:人口1,000人当たりの出生数。普通出生率と同義)は、陸奥国下油田村(1773-77年:18.4、1808-12 年: 28.2、1832-36 年:19.1)、信濃国横内村(1671-1871 年:26.3)、尾張国神戸新田(1838-70 年:31.2)、美濃国西條村(1773-1868 年:31.9)、和泉国塔原村(1792-1851 年 31.48)、備前国吹上村(1693-1860 年:26.0)、肥前国野母村(1766-1871 年:28.8)等となっている。
東北地方の出生率が低かったこと、中部以西の出生率が比較的高かったことがうかがえるが、総じて比較的出生率が低い。明治33(1900)年の全国の普通出生率は32.4、大正元(1912)年は 35.1、昭和元(1926)年は 34.6、「団塊世代」の出生期であった昭和 22(1947)年は 34.3 であり、江戸時代は明治~昭和前期より出生率が低かったことになる。
もっともこれに対しては異論がある。宗門改は原則1年毎に行われるため、その間に出生し死亡した乳児が記載されないことが多く、この脱漏を考慮すると、実際の出生数は1 割ないし2割程度多かったのではないかとも推測されている。しかし、このような補正を行っても江戸期の出生率は明治~昭和前期に比べ高かったとは言い難い。当時の乳幼児死亡率の高さ、医療、衛生、食料等を考慮すれば、江戸後期の出生率は必ずしも十分ではなかったと言えよう。また、生涯出生数は地主や比較的大規模な自作農の方が、小規模自 作農や小作より高く、出生力の低い小規模自作農や小作は絶家となる例も多かった。
人口と耕地の減少に悩む各藩、さらに幕府は、間引きの禁止や「赤子養育」のための養育金支給等の施策を行っている。
平均寿命、乳児死亡率
[編集]江戸時代の生活史の人口資料としてよく利用されている資料は宗門改帳だが、基本的に静態統計であり、出生直後から宗門人別改めの期日までに死亡した場合には記載漏れとなり、正確な出生数と乳児死亡率の把握が困難である。宗門改帳より推計された数え2歳時、5歳時、10歳時、15歳時の平均余命は以下の通りである。[43]
対象村落 | 期間 | 数え2歳時 平均余命, 年 | 数え5歳時 平均余命, 年 | 数え10歳時 平均余命, 年 | 数え15歳時 平均余命, 年 | 事例数 | 計算方法 | 出典 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
男子 | 女子 | 男子 | 女子 | 男子 | 女子 | 男子 | 女子 | 男子 | 女子 | ||||
岩代国安達郡仁井田村 | 1720–1870年 | 37.7 | 36.4 | 900 | 824 | 死亡コーホート (乳児死亡率200を仮定) | 成松佐恵子 (1992年)[44] | ||||||
岩代国安積郡下守屋村 | 1716–1872年 | 37.8 | 38.6 | 674 | 641 | 死亡コーホート (乳児死亡率200を仮定) | 成松佐恵子 (1985年)[45] | ||||||
信濃国諏訪郡横内村 | 1671–1725年 | 36.8 | 29.0 | 46.7 | 35.9 | 50.0 | 38.3 | 46.9 | 35.6 | 226 | 144 | 出生コーホート | 速水融 (1973年)[2] |
1726–1775年 | 42.7 | 44.0 | 48.3 | 48.8 | 49.9 | 48.1 | 46.6 | 44.6 | 253 | 97 | |||
信濃国筑摩郡湯船沢村 | 1675–1740年 | 37.1 | 37.6 | 45.8 | 42.6 | 44.1 | 41.0 | 39.8 | 36.8 | 137 | 130 | 死亡コーホート | 鬼頭宏 (2000年)[5] |
1741–1796年 | 43.2 | 42.0 | 48.2 | 44.6 | 45.1 | 41.7 | 42.7 | 37.7 | 286 | 264 | |||
美濃国恵那郡飯沼村 | 1712–1750年 | 37.4 | 37.4 | 43.8 | 45.4 | 44.2 | 43.8 | 40.4 | 39.9 | 104 | 112 | 死亡コーホート | 速水融 (1992年)[46] |
1751–1800年 | 45.6 | 43.8 | 50.6 | 49.6 | 51.2 | 48.6 | 46.2 | 43.6 | 127 | 141 | |||
1826–1867年 | 44.4 | 44.9 | 47.9 | 45.2 | 46.6 | 44.3 | 42.1 | 39.6 | 128 | 128 | |||
1712–1867年 (全期間) | 42.8 | 42.3 | 47.7 | 46.9 | 47.6 | 45.7 | 43.1 | 41.2 | 359 | 381 | |||
1711–1780年 | 41.8 | 39.7 | 50.4 | 46.9 | 52.0 | 47.8 | 49.2 | 42.8 | 100 | 100 | 出生コーホート | ||
美濃国安八郡西条村 | 1773–1800年 | 34.6 | 34.4 | 37.8 | 39.9 | 37.5 | 40.6 | 34.2 | 35.6 | 122 | 119 | 出生コーホート | 速水融 (1992年)[46] |
出生時平均余命(平均寿命)と乳児死亡率に関しては、懐妊書上帳や出生調書上帳、明治以降の数値、モデル計算により推計値が出されている。以下江戸時代における乳児死亡率と出生、満5歳、満10歳、満15歳時平均余命の推計をまとめる。[43][47]なお江戸時代全般に見られる異常な男女比は嬰児殺しの影響があると見られるが、出生調書上帳などでは出産後に殺された嬰児についても堕胎とともに死産(死産は平均余命の計算から除外される)扱いされている可能性があり、宗門改帳における乳児死亡の情報欠落と共に、平均余命が実際よりも高く見積もられている原因となり得る。[48]
対象村落 | 期間 | 乳児死亡率, ‰ | 出生時 平均余命, 年 | 満5歳時 平均余命, 年 | 満10歳時 平均余命, 年 | 満15歳時 平均余命, 年 | 資料 | 推計方法 | 出典 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
男子 | 女子 | 男子 | 女子 | 男子 | 女子 | 男子 | 女子 | 男子 | 女子 | |||||
陸中国磐井郡狐禅寺村 | 1810–1823年 | 154 | 203 | 46.0 | 38.4 | 51.5 | 48.6 | 49.8 | 44.5 | 44.8 | 42.2 | 人数改帳, 出減帳, 出生調書上帳, 病死書上帳, 懐妊書上帳 | 長澤克重 (2008年)[47] | |
200 | 43.6 | 38.5 | 乳児死亡率200を仮定 | |||||||||||
1851–1861年 | 141 | 186 | 46.9 | 40.0 | 54.0 | 48.8 | 50.7 | 45.5 | 47.0 | 42.4 | 人数改帳, 出生調書上帳, 病死書上帳, 懐妊書上帳 | |||
200 | 43.8 | 39.3 | 乳児死亡率200を仮定 | |||||||||||
磐城国白川郡中石井村 | 1808–1826年 | 178~198~208 | 懐妊書上帳 | 最小~中間~最大値 | 鬼頭宏 (1976年)[49] | |||||||||
岩代国会津郡金井沢村, 鴇巣村, 石伏村, 桑原村 | 1752–1859年 | 200 | 39.8 | 36.1 | 宗門改帳 | 乳児死亡率200を仮定 | 岡田あおい (2006年)[50] | |||||||
羽前国村山郡山家村 | 1760–1799年 | 222 | 204 | 39.1 | 41.1 | 51.8 | 52.6 | 49.8 | 52.2 | 45.1 | 47.7 | 宗門改帳 | 初年死亡率からの推計 | 木下太志 (2002年)[51] |
1800–1835年 | 232 | 213 | 35.4 | 35.6 | 47.3 | 45.8 | 45.1 | 45.0 | 41.9 | 41.4 | ||||
1836–1870年 | 237 | 218 | 36.1 | 36.2 | 48.9 | 47.0 | 48.6 | 46.4 | 44.5 | 42.3 | ||||
1760–1870年 (全期間) | 231 | 212 | 36.8 | 37.5 | 49.3 | 48.5 | 47.8 | 47.8 | 43.8 | 43.8 | ||||
常陸国茨城郡川戸村 | 1854–1871年 | 158~170~176 | 懐妊書上帳 | 最小~中間~最大値 | 鬼頭宏 (1996)[52] | |||||||||
常陸国河内郡小茎村, 六斗蒔村 | 1851–1871年 | 115~143~190 | 懐妊書上帳 | 最小~中間~最大値 | 鬼頭宏 (1972)[53] | |||||||||
越前国坂井郡田島村 | 1819–1854年 | 26.3 | 24.1 | 宗門改帳 | 北モデル | 坪内良博, 坪内玲子 (1984年)[54] | ||||||||
信濃国伊那郡虎岩村 | 1812–1815年 | 229 | 189 | 36.8 | 36.5 | 48.8 | 46.3 | 46.6 | 46.4 | 43.9 | 45.0 | 宗門改帳 | 0-4歳死亡数の上方修正 | 小林和正 (1956年)[55] |
飛騨国大野郡往還寺村落 (宮村, 久々野村) | 1776–1795年 | 264 | 228 | 32.5 | 33.6 | 49.9 | 47.6 | 48.4 | 46.0 | 44.8 | 42.0 | 過去帳 | 須田圭三 (1973年)[56], Jannetta, Preston (1991年)[57] | |
1796–1815年 | 291 | 252 | 33.9 | 32.9 | 52.3 | 49.7 | 51.3 | 49.9 | 47.4 | 45.8 | ||||
1816–1835年 | 314 | 281 | 33.9 | 32.2 | 53.3 | 48.2 | 50.4 | 45.9 | 46.8 | 42.3 | ||||
1836–1855年 | 315 | 313 | 31.8 | 31.5 | 50.0 | 47.9 | 48.5 | 46.1 | 44.7 | 42.7 | ||||
1856–1875年 | 397 | 363 | 29.2 | 29.8 | 49.3 | 47.8 | 48.0 | 47.2 | 44.6 | 43.5 | ||||
1776–1875年 (全期間) | 288 | 265 | 32.3 | 32.0 | 50.9 | 48.2 | 49.3 | 47.0 | 45.7 | 43.3 | ||||
美濃国郡上郡中原村 | 1717–1830年 | 165 | 125 | 43.2 | 49.7 | 52.6 | 46.7 | 50.0 | 44.9 | 宗門改帳 | 北モデル | Smith (1977年)[58] | ||
美濃国大野郡鹿野村, 安八郡小泉村, 西条村 | 1751–1869年 | 232 | 199 | 35.9 | 38.9 | 48.7 | 50.5 | 46.5 | 47.7 | 42.5 | 43.4 | 宗門改帳 | 西モデル | 斉藤修 (1992年)[59] |
177 | 150 | 38.4 | 41.3 | 北モデル | ||||||||||
美濃国安八郡西条村 | 1773–1869年 | 200 | 36.8 | 36.7 | 48.9 | 49.8 | 47.4 | 47.7 | 43.5 | 43.1 | 宗門改帳 | 乳児死亡率200を仮定 | 速水融 (1992年)[46] | |
三河国宝飯郡西方村 | 1782–1787年 | 43.5 | 75.3 | 43.7 | 75.2 | 宗門改帳 | 西モデル | Hanley, Yamamura (1977年)[60] | ||||||
1787–1792年 | 30.6 | 39.1 | 37.3 | 45.0 | ||||||||||
1791–1796年 | 30.5 | 50.6 | 35.1 | 56.2 | ||||||||||
1782–1796年 (全期間) | 34.9 | 55.0 | 38.7 | 58.8 | ||||||||||
大和国広瀬郡河合村 | 1789–1867年 | 38.2 | 過去帳 | 菱沼従尹 (1978年)[48] | ||||||||||
備前国児島郡藤戸村 | 1800–1805年 | 44.1 | 54.4 | 41.1 | 55.8 | 宗門改帳 | 西モデル | Hanley, Yamamura (1977年)[60] | ||||||
1805–1810年 | 45.1 | 52.9 | 45.4 | 49.3 | ||||||||||
1825–1830年 | 40.8 | 40.3 | 53.6 | 36.5 | ||||||||||
1830–1835年 | 34.3 | 32.1 | 38.6 | 49.0 | ||||||||||
1800–1835年 (全期間) | 41.1 | 44.9 | 44.6 | 54.5 | ||||||||||
筑前国宗像郡泉福寺村落 (鐘崎村) | 1700–1724年 | 48.9 | 43.4 | 過去帳 | Kalland, Pedersen (1984年)[61] | |||||||||
1725–1749年 | 47.1 | 49.1 | ||||||||||||
1750–1774年 | 47.7 | 45.9 | ||||||||||||
1775–1799年 | 41.2 | 41.2 | ||||||||||||
1800–1824年 | 40.0 | 39.1 | ||||||||||||
1700–1824年 (全期間) | 44.7 | 43.3 |
以上は農村を中心とした研究であるが、これに対して城下町などの人口密集地域では人の出入りが激しく、平均余命の推定が困難である。小林和正は江東区深川の浄土宗雲光院跡で出土した江戸時代の満15歳以上の人骨の平均死亡年齢を男子45.5歳、女子40.6歳と推定している。[62]満15歳時平均余命は男子30.3年、女子25.6年、男女平均27.8年に相当する。[63]
出土場所 | 満15歳以上人骨 平均死亡年齢, 歳 | 個体数 | ||
---|---|---|---|---|
男子 | 女子 | 男子 | 女子 | |
東京各所 (深川以外) | 39.9 | 40.4 | 37 | 21 |
深川 | 45.5 | 40.6 | 79 | 29 |
東京各所 | 43.9 | 40.6 | 116 | 50 |
また、ワイスのモデル生命表を15歳未満に適応することにより、菱沼従尹(1978年)は江戸深川の出生時平均余命を20.3年と推定している。[48]長岡朋人, 平田和明(2007年)[64]らも都立一橋高校内遺跡から出土した人骨を元に出生時平均余命を21.3年と推定している。江戸時代は一般的に都市部の方が農村に比べて死亡率が高くて出産率が低い傾向にあり、都市部への出稼ぎを担う農村からの余剰人口を減らすことで全体の人口を調整していたと考えられている(「都市アリ地獄説」)。[46]
推計方法 | 乳幼児(満5歳未満) 死亡率, ‰ | 出生時 平均余命, 年 | 満5歳時 平均余命, 年 | 満10歳時 平均余命, 年 | 満15歳時 平均余命, 年 |
---|---|---|---|---|---|
直説法 | 362 | 20.7 | 26.0 | 25.2 | 23.1 |
ベイズ推定法 | 21.8 | 27.7 | 27.2 | 25.5 | |
最尤推定法 | 21.3 | 27.0 | 26.4 | 24.5 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c d e 本項の享保6年(1721年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は『三暇謾録』記載の数字をまとめた以下の須田昭義の論文による。
- 須田昭義, 「徳川時代人口に関する新資料」, 人類学雑誌, 63, pp. 146-148 (1954).
享保6年(1721年)の人口の相違点 旧国 須田昭義論文 速水融監修 総数 総数 上総 407,553 407,552 以上合計 26,065,422 26,065,421 総数 26,065,422 26,065,425 - ^ a b c d e 古くより西山元文著『官中秘策』には寛延3年(1750年)の総人口、男女別人口、旧国別人口が記載されていることが知られており、以下のように様々な論文・書籍で寛延3年の総人口、男女別人口、旧国別人口がまとめられている。これらの内、鈴木券太郎論文では出典が示されていないが、延享元年(1744年)と宝暦6年(1756年)の人口との比較による人口増減が記述されていることから、『官中秘策』によるものとみて間違いない。
- 村田豊, 「大日本古今人員」, 統計集誌, (3), pp. 132-134 (1881).
- 鈴木券太郎, 「寛延三年御国人口表」, 東京経済雑誌, (125), pp. 1090-1092 (1882).
- 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第三)」, 統計学雑誌,(215), pp. 59-64 (1904).
- 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
寛延3年(1750年)の人口の相違点 旧国 本項における改訂 官中秘策摘要 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 総数 男 女 山城 522,626 276,940 245,686 522,626 276,940 245,686 522,626 276,640 245,686 河内 231,266 114,951 116,315 231,266 114,951 116,315 231,266 114,651 116,315 伊賀 91,392 47,149 44,243 91,392 44,149 41,243 91,392 47,149 44,243 尾張 553,340 279,810 273,530 553,340 279,810 273,530 553,340 279,810 273,350 三河 419,283 208,406 210,877 419,283 208,406 210,877 419,283 208,406 218,077 遠江 333,744 166,857 166,887 333,744 186,857 166,887 333,744 186,857 166,887 駿河 313,817 161,386 152,431 313,817 161,388 152,431 313,819 161,388 151,431 甲斐 314,193 157,878 156,315 314,193 157,878 156,315 311,193 158,878 156,315 伊豆 105,120 53,806 51,314 105,020 53,806 51,314 105,120 53,806 51,314 相模 310,796 167,791 143,005 310,796 167,791 143,005 310,796 167,781 123,005 安房 158,440 83,031 75,409 158,440 83,021 75,419 158,440 83,021 75,409 上総 453,460 237,699 215,761 453,460 237,699 215,761 453,460 237,695 215,765 常陸 655,507 361,246 294,261 655,500 361,246 294,261 655,507 361,246 294,261 近江 575,216 290,500 284,716 575,216 290,500 284,706 575,216 290,500 284,716 美濃 533,091 272,630 260,461 533,096 272,630 260,461 533,095 272,630 260,461 上野 576,075 315,619 260,456 576,075 315,619 260,456 576,075 315,609 260,456 陸奥 1,836,134 1,019,138 816,996 1,836,134 1,019,130 816,996 1,836,134 1,019,138 816,966 出羽 846,255 479,223 367,032 846,255 479,223 367,032 846,255 479,223 367,052 越前 348,052 178,316 169,736 348,042 178,316 169,726 348,052 178,316 169,736 能登 157,765 79,973 77,792 157,765 79,973 77,792 157,765 79,073 77,792 越中 313,562 165,793 147,769 313,562 165,793 140,769 313,562 165,793 147,769 越後 970,185 510,703 459,482 970,185 510,703 459,482 970,185 518,703 451,482 丹波 276,336 143,631 132,705 276,336 143,631 132,705 276,336 143,620 132,705 但馬 156,612 81,366 75,246 156,612 81,367 75,246 156,613 83,367 75,246 因幡 125,085 66,909 58,176 125,085 66,909 58,176 125,085 66,907 58,176 出雲 234,896 120,354 114,542 234,896 120,394 114,542 234,896 120,354 114,542 石見 219,512 112,283 107,229 219,512 112,283 117,229 219,512 112,583 107,529 播磨 551,393 285,632 265,761 551,393 285,622 265,761 551,393 314,490 284,911 備中 365,410 192,396 173,014 365,410 192,393 173,014 319,410 192,396 173,014 備後 306,818 158,102 148,716 306,810 158,102 148,716 306,818 158,102 148,716 安芸 396,878 202,040 194,838 396,878 202,040 194,838 396,878 202,040 194,938 紀伊 508,674 282,975 225,699 508,674 282,975 225,699 508,174 282,475 225,699 阿波 362,905 185,881 177,024 362,905 185,881 177,024 336,905 185,881 177,024 筑前 307,439 171,878 135,561 307,439 171,878 135,561 307,439 171,876 135,561 豊前 242,653 129,086 113,567 242,653 129,086 112,567 242,653 129,086 113,567 豊後 511,880 273,145 238,735 501,880 273,145 238,735 511,880 273,145 238,735 日向 225,421 126,409 99,012 225,421 126,409 99,012 225,421 126,409 99,900 以上合計 25,917,830 13,818,654 12,099,176 25,907,710 13,835,666 12,098,166 25,842,337 13,876,766 12,097,628 総数 25,917,830 13,818,654 12,099,176 25,917,830 13,818,654 12,099,176 25,917,830 13,818,654 12,099,176 - ^ a b c 渋井孝徳著『国史』巻二十三「地理志 第六」には、宝暦6年(1756年)の旧国別人口が収録されており、以下の論文・著作でその数字がまとめられている。この内、高橋梵仙の著作の人口は、国立国会図書館所蔵の写本による。
- 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第三)」, 統計学雑誌,(215), pp. 59-64 (1904).
- 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
宝暦6年(1756年)の人口の相違点 旧国 本項における改訂 高橋梵仙著作改訂 速水融監修 総数 総数 総数 下野 535,743 535,743 533,743 隠岐 19,546 19,548 19,548 美作 173,421 172,431 172,431 豊後 511,706 521,706 521,706 対馬 11,972 11,973 11,973 蝦夷・松前 22,632 22,631 22,631 以上合計 26,061,700 26,070,712 26,068,712 総数 26,061,830 26,070,712 26,070,712 - ^ a b c 本項の天明6年(1786年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は以下の滝本誠一編纂『日本経済大典』に収録された「天明寛政人数帳」によるが、下野の総人口として男女別人口の合計を用いることにより下野の人口を改訂し、そのほか各旧国別総人口、男女別総人口との比較検討により、河内・陸奥・紀伊の男人口、加賀・美作・備中の女人口を改訂した。
- 滝本誠一編, 「天明寛政人数帳」, 『日本経済大典』, 48, pp. 167-189 (1930).
天明6年(1786年)の人口の相違点 旧国 本項における改訂 天明寛政人数帳 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 総数 男 女 河内 205,585 104,184 101,401 205,585 104,084 101,401 205,585 104,084 101,401 遠江 332,100 167,367 164,733 332,100 167,367 164,733 332,100 167,368 164,733 下野 434,791 240,354 194,437 434,797 240,354 194,437 434,797 240,354 194,437 陸奥 1,563,719 826,775 736,944 1,563,719 826,755 736,944 1,563,719 826,775 736,944 加賀 196,732 107,924 88,808 196,732 107,924 83,808 196,732 107,924 83,808 美作 157,747 86,061 71,686 157,747 86,061 71,616 157,747 86,061 71,616 備中 316,904 167,707 149,197 316,904 167,707 140,997 316,904 167,707 140,997 紀伊 500,621 260,160 240,461 500,621 260,110 240,461 500,621 260,110 240,461 肥前 662,342 353,167 309,175 662,342 353,167 309,175 662,342 337,612 309,175 以上合計 25,086,466 13,230,656 11,855,810 25,086,472 13,230,486 11,842,540 25,086,472 13,214,952 11,842,540 総数 25,086,466 13,230,656 11,855,810 25,086,466 13,230,656 11,855,810 25,086,466 13,230,656 11,855,810 - ^ a b c d e f 本項の寛政4年(1792年)、寛政10年(1798年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』収録の「寛政四子年 諸国人数帳」と「寛政十午年 諸国人数帳」による。 この内寛政4年の人口は以下の南和男の論文でも紹介されている。
- 南和男, 「寛政四年の諸国人口について」, 日本歴史, (432), pp. 42-47 (1984).
寛政4年(1792年)の人口の相違点 旧国 雑載 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 出羽 816,770 439,143 377,627 816,770 439,142 377,627 以上合計 24,891,441 13,034,521 11,856,920 24,891,441 13,034,520 11,856,920 総数 24,891,441 13,034,521 11,856,920 24,891,441 13,034,521 11,856,920 また寛政10年(1798年)の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は文部省史料館(現・国文学研究資料館)所蔵『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(信濃国佐久郡御馬寄町田家文書からの写本)記載の数字をまとめた以下の関山直太郎の論文による寛政10年の人口を採用しているが、『雑載』収録の「寛政十午年 諸国人数帳」は集計に誤りがなく、より原本に近いと考えられる。
- 関山直太郎, 「寛政10年及び文政5年の国別人口」, 経済理論, (37), pp. 61-74 (1957)
寛政10年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は『雑載』と近江・陸奥・越中の総人口が異なるほか、和泉・甲斐・上総・近江・美濃・越中・越後・周防の男人口、武蔵・越後の女人口が異なる。
寛政10年(1798年)の人口の相違点 旧国 雑載 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 和泉 199,083 101,089 97,994 199,083 100,089 97,994 甲斐 309,604 156,695 152,909 309,604 156,696 152,909 武蔵 1,666,131 908,341 757,790 1,666,131 908,341 757,190 上総 368,831 189,818 179,013 368,831 189,813 179,013 近江 538,442 273,717 264,725 538,412 253,717 264,725 美濃 563,863 289,504 274,359 563,863 288,504 274,359 陸奥 1,589,178 837,908 751,270 1,589,108 837,908 751,270 越中 337,129 178,088 159,041 337,229 178,083 159,041 越後 1,053,674 542,672 511,002 1,053,674 567,681 511,605 周防 357,507 185,586 171,921 357,507 181,586 171,921 以上合計 25,471,033 13,360,520 12,110,513 25,471,033 13,359,520 12,110,513 総数 25,471,033 13,360,520 12,110,513 25,471,033 13,360,520 12,110,513 - ^ a b c d e 文化元年(1804年)の総人口、男女別人口、旧国別人口をまとめた論文・著作は様々あるが、微妙に数字が異なる。このうち村田豊、井上瑞枝の論文は出典として「諸国人数帳」を挙げている。また滝本誠一編「天明寛政人数帳」記載の人口は実際には寛政期のものではなく文化元年のもので、高橋梵仙は「天明寛政人数帳」記載の総人口、男女別人口、旧国別人口を典拠とし、井上瑞枝の論文により明らかに誤記のある筑後の男女人口を改訂している。
- 国立公文書館所蔵, 『諸国人数調 全』.
- 村田豊, 「大日本古今人員」, 統計集誌, (3), pp. 132-134 (1881).
- 勝安房(勝海舟)編, 「文化元甲子年 諸国人数調」, 『吹塵録 上巻』, 「人口及国高之部」, 日本学術振興会, pp. 144-149 (1890).
- 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第三)」, 統計学雑誌,(215), pp. 59-64 (1904).
- 滝本誠一編, 「天明寛政人数帳」, 『日本経済大典』, 48, pp. 167-189 (1930).
- 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
文化元年(1804年)の人口の相違点 旧国 本項における改訂 高橋梵仙著作改訂
(速水融監修に同じ)総数 男 女 総数 男 女 山城 469,517 242,920 226,597 469,519 242,920 226,597 大和 340,706 174,766 165,940 340,706 174,767 165,940 摂津 789,857 413,966 375,891 789,857 410,966 375,891 備前 318,273 172,200 146,073 318,273 152,200 146,073 備中 328,408 174,097 154,311 328,408 174,097 154,211 周防 358,761 188,573 170,188 358,761 158,573 170,188 以上合計 25,621,957 13,427,249 12,194,708 25,621,959 13,383,074 12,185,784 総数 25,621,957 13,427,249 12,194,708 25,621,957 13,427,249 12,194,708 - ^ a b c 本項の文政5年(1822年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は文部省史料館(現・国文学研究資料館)所蔵『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(信濃国佐久郡御馬寄町田家文書からの写本)記載の数字をまとめた以下の関山直太郎の論文によるが、摂津の総人口 は男女別人口の合計に改訂した。この改訂によっても依然として伊勢・甲斐・伊豆・近江・下野・但馬・石見・肥前・対馬の総人口と男女別人口の合計が異なり、旧国別人口の合計は総人口よりも1487人多い。
- 関山直太郎, 「寛政10年及び文政5年の国別人口」, 経済理論, (37), pp. 61-74 (1957).
文政5年(1822年)の人口の相違点 旧国 本項における改訂 関山直太郎論文 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 総数 男 女 摂津 799,635 417,032 382,603 790,635 417,032 382,603 790,635 417,032 382,603 伊勢 494,640 248,985 245,652 494,640 248,985 245,652 494,640 248,985 245,652 甲斐 291,675 148,500 143,075 291,675 148,500 143,075 291,675 148,500 143,075 伊豆 134,722 68,471 66,253 134,722 68,471 66,253 134,722 68,471 66,253 近江 557,491 285,027 272,466 557,491 285,027 272,466 557,491 285,027 272,466 下野 395,045 213,472 181,577 395,045 213,472 181,577 395,045 213,472 181,577 但馬 179,408 93,876 85,533 179,408 93,876 85,533 179,408 93,876 85,533 石見 257,508 134,917 121,917 257,508 134,917 121,917 257,508 134,917 121,917 肥前 683,536 359,080 324,455 683,536 359,080 324,455 683,536 359,080 324,455 対馬 16,963 8,785 8,178 16,963 8,785 8,178 16,963 8,785 8,178 蝦夷・松前 61,948 32,030 29,918 61,948 32,030 29,918 61,948 15,002 13,709 以上合計 26,603,597 13,894,443 12,708,387 26,594,597 13,894,443 12,708,387 26,594,597 13,873,415 12,692,178 総数 26,602,110 13,894,436 12,707,674 26,602,110 13,894,436 12,707,674 26,602,110 13,894,436 12,707,674 - ^ a b c 以下の井上瑞枝の論文は『嘉永五年壬子居闔国總人別寄帳写』を元史料として嘉永5年(1852年)の総人口、男女別人口、旧国別人口を記載しているが、『文恭公実録』や『三暇謾録』など他史料との比較から内容は文政11年(1828年)の調査人口であると推測されている。
- 井上瑞枝, 「大日本国古来人口考 (第四)」, 統計学雑誌,(217), pp. 126-129 (1904).
- 高橋梵仙, 「第二篇 近世日本の人口」, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, pp. 87-161 (1971).
文政11年(1828年)の人口の相違点 旧国 本項における改訂 高橋梵仙著作改訂 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 総数 男 女 山城 498,296 257,500 240,796 498,296 250,500 247,096 498,296 250,500 247,096 摂津 812,090 421,309 390,791 812,090 421,309 390,791 812,090 421,309 390,791 三河 439,635 218,510 221,115 439,635 218,510 221,115 439,635 218,510 221,115 駿河 277,763 143,544 134,219 270,763 143,544 134,219 270,763 143,544 134,219 伊豆 136,796 69,354 67,442 136,796 69,354 67,442 130,796 69,354 97,442 安房 140,830 71,463 69,370 140,830 71,463 69,370 140,830 71,463 69,370 信濃 797,099 409,026 388,073 797,099 409,026 388,073 797,079 409,026 388,073 能登 198,111 99,546 98,666 198,111 99,546 98,666 198,111 99,546 98,666 佐渡 103,269 52,804 50,765 103,269 52,804 50,765 103,269 52,804 50,765 丹波 291,869 151,002 140,867 291,869 151,002 140,867 291,869 151,002 140,967 因幡 135,969 71,740 64,299 135,969 71,740 74,299 135,969 71,740 74,299 伯耆 186,813 98,684 88,119 186,813 98,684 88,119 186,813 98,684 88,119 周防 429,329 222,639 206,691 429,329 222,639 206,691 429,329 222,639 206,691 阿波 454,120 233,821 220,289 454,120 233,821 220,289 454,120 233,821 220,289 豊前 243,949 129,094 114,854 243,949 129,094 114,854 243,949 129,094 114,854 豊後 474,540 247,169 227,357 474,540 247,169 227,357 474,540 247,169 227,357 大隅 243,412 130,858 112,554 243,412 130,858 112,554 243,412 130,858 112,554 蝦夷・松前 65,023 33,902 31,121 65,023 33,902 31,121 65,022 33,902 31,121 以上合計 27,201,198 14,160,927 13,040,712 27,194,198 14,153,927 13,057,012 27,188,177 14,153,927 13,087,112 総数 27,201,400 14,160,736 13,040,664 27,201,400 14,160,736 13,040,664 27,201,400 14,160,736 13,040,664 - ^ a b c d 本項の天保5年(1834年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は以下の篠崎亮の論文(元史料不明)によるが、備後の総人口・女人口、出雲の男人口に関しては、国立国会図書館所蔵『諸国人数』により数字を改訂した。
- 篠崎亮, 「天保五年調査諸国人数帳」, 統計学雑誌, (369), pp. 14-15 (1917).
- 高橋梵仙, 「第九篇 天保五年甲午十二月 『諸国人数』について」, 『日本人口史之研究 第二』, 第一部, pp. 333-343 (1955).
天保5年(1834年)の人口の相違点 旧国 本項における改訂 篠崎亮論文 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 総数 男 女 摂津 796,439 411,366 385,073 796,439 411,366 385,073 796,439 411,938 385,073 出雲 315,270 165,593 149,677 315,270 160,593 149,677 315,270 160,593 149,677 備後 360,656 186,924 173,732 360,659 186,924 173,735 360,659 186,924 173,732 以上合計 27,063,907 14,053,455 13,010,452 27,063,910 14,048,455 13,010,455 27,063,910 14,049,027 13,010,452 総数 27,063,907 14,053,455 13,010,452 27,063,907 14,053,455 13,010,452 27,063,907 14,053,450 13,010,457 - ^ a b 本項の天保11年(1840年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は東京大学法学部法制史料室所蔵『諸国人数帳』記載の数字をまとめ、一部の数字を改訂した以下の著作による。
- 南和雄, 「附章 天保十一年全国人口調査について」, 『幕末江戸社会の研究』, pp. 164-185 (1978).
天保11年(1840年)の人口の相違点 旧国 南和雄著作 速水融監修 総数 男 女 総数 男 女 山城 445,432 226,214 219,218 445,432 216,214 219,218 遠江 350,967 177,870 173,097 350,967 177,870 173,090 上野 426,073 221,417 204,656 426,073 221,417 224,656 越中 383,583 195,476 188,107 383,583 195,486 188,107 因幡 120,879 62,353 58,526 120,879 62,353 59,526 肥後 741,677 378,514 363,163 741,677 378,514 363,063 大隅 97,228 51,923 45,305 97,228 59,923 45,305 以上合計 25,918,412 13,359,384 12,559,028 25,918,412 13,357,394 12,579,921 総数 25,918,412 13,359,384 12,559,028 25,918,412 13,359,384 12,559,028 - ^ a b c 本項の弘化3年(1846年)の総人口、男女別人口、旧国別人口は勝海舟著『吹塵録』上巻「弘化三丙午年 諸国人数調」によるが、男女別人口の合計値を旧国別人口として採用した。即ち『吹塵録』記載の陸奥・出雲・石見の総人口は男女別人口と異なるが、後者を総人口とした。 なお弘化3年の人口に関しては、速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」は関山直太郎『近世日本の人口構造』と高橋梵仙『日本人口史之研究 第一』を介して『吹塵録』の人口を採用しているが、『吹塵録』とは摂津の総人口が異なるほか、尾張・上総の男人口、大和の女人口も異なる。
弘化3年(1846年)の人口の相違点 旧国 吹塵録 速水融監修 男女計 総数 男 女 総数 男 女 大和 361,157 361,157 183,325 177,832 361,157 183,325 177,862 摂津 763,728 763,728 389,864 373,864 763,729 389,864 373,864 尾張 653,678 653,678 328,343 325,335 653,678 328,353 325,335 上総 360,761 360,761 184,362 176,399 360,761 184,361 176,399 陸奥 1,603,881 1,607,881 830,090 773,791 1,607,881 830,090 773,791 出雲 309,906 309,606 161,179 148,727 309,606 161,179 148,727 石見 236,963 236,963 122,878 114,085 239,963 122,878 114,085 以上合計 26,907,625 26,911,325 13,854,043 13,053,582 26,914,326 13,854,052 13,053,612 総数 26,907,625 26,907,625 13,854,043 13,053,582 26,907,625 13,854,043 13,053,582 - ^ a b c d 江戸時代の蝦夷・松前は東山道として扱われてきたが、本表では明治以降に成立した北海道として扱う。また、旧国の配列では、伊豆の直後に甲斐を置き、出羽の直前または直後に蝦夷・松前を置くことが江戸時代は一般的であったが、本表では明治以降の慣例に従い、伊豆の直前に甲斐を置き、西海道の後に北海道として蝦夷・松前を置く。
- ^ a b 江戸時代、奄美諸島の人口は琉球国のものとして全国人口調査の統計から除外されたが、明治5年(1872年)、明治6年(1872年)の薩摩の人口には、奄美群島の本籍人口(『日本地誌提要』によると明治6年に10万8426人)が含まれる。明治12年(1879年)以降に奄美群島は大隅国へ編入されたものの、明治15年『統計年鑑』記載の面積では、奄美群島は薩摩国に含まれたままである。
- ^ a b 江戸時代を通じて琉球国は全国人口調査の統計から除外されたが、廃藩置県により一時的に鹿児島県の管轄となり、明治5年9月14日(西暦1872年10月16日)に琉球藩が発足する。ここでは明治以降の慣例に従い、統計上は西海道として扱う。琉球の人口については#琉球、奄美群島、鹿児島藩(薩摩藩)の人口変遷参照。
- ^ a b 幕府の全国人口調査は寛政10年(1798年)までは和人のみが対象で、約2万人のアイヌ人が集計されていない。文化元年(1804年)以降の全国人口調査ではアイヌ人も集計されている。
- ^ 幾つかの史料では旧国別人口の合計と総数が一致しない。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 地域区分は以下の通り。
- 北海道: 蝦夷。
- 東奥羽: 陸奥。
- 西奥羽: 出羽。
- 北関東: 上野、下野、常陸の合計。
- 南関東: 武蔵、相模、上総、下総、安房の合計。
- 北陸: 佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、若狭の合計。
- 東山: 甲斐、信濃、飛騨の合計。
- 東海: 伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、美濃の合計。
- 畿内: 山城、大和、河内、和泉、摂津の合計。
- 畿内周辺: 近江、伊賀、伊勢、志摩、紀伊、淡路、播磨、丹波の合計。
- 山陰: 丹後、但馬、因幡、伯耆、隠岐、出雲、石見の合計。
- 山陽: 美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門の合計。
- 四国: 阿波、讃岐、伊予、土佐の合計。
- 北九州: 筑前、筑後、肥前、壱岐、対馬、豊前、豊後の合計。
- 南九州: 肥後、日向、大隅、薩摩の合計。
- ^ 延宝4年(1676年)の薩隅日三ヶ国合計人口は、慶賀人口不明。
- ^ 延宝5年(1677年)の薩隅日三ヶ国合計人口は、慶賀1081人の男女別人口が不明のため、男女別人口の合計と一致しない。
- ^ 宝永3年(1706年)の薩隅日三ヶ国合計人口は、他国居付者4155人の男女別人口が不明のため、男女別人口の合計と一致しない。
- ^ 明治4年(1871年)の薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口は、東郷、種子島の人口が欠落している。また、末吉郷の人口は大隅国にまた薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口は、男女別人口の合計(それぞれ72万6515人、45万6312人、19万1116人)と一致しない。欠落分を補った薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口はそれぞれ76万人台、46万3000~46万4000人、21万人台後半~22万人台と推定される。
出典
[編集]- ^ 吉田東伍, 『維新史八講』, 冨山房, 1910.
- ^ a b (a) 速水融, 「小倉藩人畜改帳の分析と徳川初期全国人口推計の試み」『三田學會雑誌』59巻 (3号), pp. 221–256 (1966). (b) 速水融, 『日本経済史への視角』, 東洋経済新報社, 1968.
- ^ (a) 速水融, 「近世信州諏訪地方の人口趨勢」『三田學會雑誌』61巻 (2号), pp. 111–137 (1968). (b) 速水融, 『近世農村の歴史人口学的研究』, 東洋経済新報社, 1973.
- ^ a b c d 社会工学研究所編, 『日本列島における人口分布の長期時系列的分析:時系列推計と要因分析』, 1974.
- ^ a b c d e f g h (a) 鬼頭宏, 「明治以前日本の地域人口」『上智経済論集』41巻 (1-2号), pp. 65–79 (1996). (b) 鬼頭宏, 『人口から読む日本の歴史』, 講談社, 2000.
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- ^ Francine Hérail, "Histoire du Japon", Horvath, Le Coteau, 1990.
- ^ a b c d (a) Jean-Noël Biraben, "Le Point sur l'Histoire de la Population du Japon," Population Vol. 48 (no. 2), pp. 443-472 (1993). (b) Jean-Noël Biraben, "The History of the Human Population From the First Beginnings to the Present" in "Demography: Analysis and Synthesis: A Treatise in Population" (Eds: Graziella Caselli, Jacques Vallin, Guillaume J. Wunsch) Vol 3, Chapter 66, pp 5–18, Academic Press, San Diego, 2005.
- ^ a b (a) William Wayne Farris, "Japan's Medieval Population: Famine, Fertility, and Warfare in a Transformative Age," University of Hawaii's Press, Honolulu, 2006. (b) William Wayne Farris, "Daily life and demographics in ancient Japan", Michigan monograph series in Japanese studies no. 63, Center for Japanese Studies, University of Michigan, Ann Arbor, 2009.
- ^ a b 藤野正三郎, 『日本の経済成長と景気循環』, 勁草書房, 2008.
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- ^ a b c 特に以下の書籍を元に本表を作成した。
- 柚木重三, 堀江保蔵, 「本邦人口表」 『経済史研究』 (7号), pp. 188-210 (1930).
- 関山直太郎, 『近世日本の人口構造』, 吉川弘文館, 1958.
- 高橋梵仙, 『日本人口史之研究 第一』, 日本学術振興会, 1971.
- 速水融, 「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」 『国勢調査以前日本人口統計集成』 別巻1, 速水融監修, 原書房, 1993.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 明治5年(1872年)旧暦1月29日、明治6年(1873年)1月1日調の本籍人口は『日本全国戸籍表』による。ただし明治5年調、明治6年調の本籍人口に関しては、開拓使は明治6年1月1日調、琉球藩は明治6年2月調のものをともに記載しており、琉球、石狩、後志、胆振、渡島、日高、十勝、釧路、根室、千島、北見、天塩、樺太の人口は明治5年と明治6年で全く同一である。琉球を含めた全国の本籍人口が揃うのは明治6年以降ということになる。 なお明治5年の段階ですでに府県制に移行していたが、戸籍による旧国別人口統計はしばらく存続した。
- ^ a b c d e f g h i 1 方里 ≡ (216/55)2 km2 ≒ 15.423 471 km2。なおこれらの面積は明治15年『統計年鑑』に記載されている、明治14年内務省調査面積であり、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図の大図(縮尺1/36,000)などを基に算出されている。樺太・千島交換条約締結後のことであり、北海道の面積には樺太の面積が含まれず、千島列島の面積(986.23方里 (約1万5211.1 km2))が含まれ、日本の総面積(2万4796.63方里 (約38万2450.1km2))には小笠原島の面積(4.65方里 (約71.8 km2))が含まれる。また、奄美群島の面積(101.02方里 (約1,558.1 km2))は薩摩国の面積に含まれる。奄美群島を除く薩摩国の面積は231.66方里 (3,573.0 km2)、奄美群島を含む大隅国の面積は348.38方里 (約5,373.2 km2)、奄美群島を含む琉球国の面積は257.93方里 (約3,978.2 km2)となる。
- ^ a b c d e f g h i j k 郡数、村数、石高集計は『天保郷帳』による。
- 郡数:天保年中においては、伊豆国の伊豆国附諸島、讃岐国の小豆島・塩飽島・直島・男木島・女木島等、奄美群島を含む琉球国、蝦夷地・松前藩、小笠原島には郡が設置されていない。
- 村数:『伊豆国郷帳』には伊豆国附諸島の郷村等32(17村1湊2郷12島)、『松前島郷帳』にはアイヌ人居住地である蝦夷人居所402箇所(箱館附場所8箇所、東蝦夷128箇所、西蝦夷195箇所、国後島8箇所、択捉島11箇所、奥尻島・利尻島・礼文島3箇所、樺太49箇所)と他の島25の記載があるが、これらは村数として集計されていないので、伊豆国の村数として伊豆4郡内のみの284、蝦夷地・松前藩の村数として松前藩領内の和人村のみの128(枝村を含む)を採用する。奄美群島19村は原本通り琉球国に含む。
- 石高:『天保郷帳』原本では、石高とは別に、相模国永1346貫670文、常陸国永21貫文、合計永1367貫670文が集計に含まれている。奄美群島の石高3万2828石7斗は原本通り琉球国に含む。
- ^ a b c d e f g h i 以下速水融, 「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」における註釈:
- 前後の数値との比較から、寛政4年(1792年)の三河の人口は過少に記載されていると推測される。
- 前後の数値との比較から、寛延3年(1750年)の駿河の人口は高すぎであり、記載された全国総数と実際の合計値との間にある差約7万人は、駿河の人口の誤記が原因かも知れない。
- 前後の数値との比較から、文政11年(1828年)の甲斐の人口は高すぎであり、29万1499人の誤記と推定される。
- 前後の数値との比較から、寛政4年(1792年)、寛政10年(1798年)、天保11年(1840年)、弘化3年(1846年)の伊豆の人口は低すぎであり、明治13年(1880年)の統計で約2万人を数えた伊豆七島の人口が抜けていると推定される。
- 前後の数値との比較から、文政5年(1822年)と天保5年(1834年)の下総の人口は低すぎるが、補正すべき数値の根拠はない。
- 前後の数値との比較から、宝暦6年(1756年)の加賀と能登の人口は入れ替わっている可能性が高い。
- 前後の数値との比較から、寛政4年(1792年)の美作の人口は過少に記載されていると推測される。
- 前後の数値との比較から、宝暦6年(1756年)と文政11年(1828年)の対馬の人口は過少に記載されていると推測される。
- ^ a b 森田優三, 『人口増加の分析』, 日本評論社, 1944.
- ^ 葭田光三, 1989, 「アイヌ人口史―資料を中心として―」 『日本大学人文科学研究所研究紀要』 (37号), pp. 279–301.
- ^ (a) 白山友正, 1971, 「幕末のアイヌへの人口政策と人口」 『社会経済史学』 36巻 (6号), pp. 524–555; (b) 白山友正, 1971, 「北海道アイヌ人口史(中)」 『北海道経済史研究』 (28号), pp. 7–25; (c) 白山友正, 1971, 「北海道アイヌ人口史III」 『函大商学論究』 (6号), pp. 131–154.
- ^ 関根達人, 『近世墓と人口史料による社会構造と人口変動に関する基礎的研究 (平成19年度~21年度 科学研究費補助金 (基盤研究 (B)) 研究成果報告書)』, 2010.
- ^ 『本琉球内大宜味間切城村人数改帳』などが存した。(『沖縄大百科事典』(1983年)沖縄タイムス、p.140)
- ^ 寛永13年(1636年)の薩隅日三ヶ国人口は、薩摩国喜入、鹿籠、蘭牟田、甑島、水引、東郷、黒木、久志、大隅国桜島、種子島、垂水、百引の各外城人口、日向国諸県郡須木1047人の男女別人口の記載を欠く。欠落分を補った薩隅日三ヶ国合計人口は33万~34万人と推定される。
- ^ a b 身分別人口の合計と総数は一部合致しない。
- ^ (a) 尾口義男, 「薩摩藩の人口」, 『黎明館調査研究報告』, (11号), pp. 87–134 (1998). (b) 尾口義男, 「薩摩藩と近世琉球国の人口―琉球人口データ及び近世前期の薩摩藩の社会動向に関する新たな史実を付加しての「薩摩藩の人口」補論―」 『黎明館調査研究報告』 (13号), pp. 1–42 (2000).
- ^ 人口の復元方法は主に高木正朗・新屋均(2006年)による。なお人口に関しては古文書にみられる数字を尊重し、記録のない時期に関しては、江戸時代初期の人口は会津藩の公式人口記録(『会津家世実記』)、江戸時代末期の人口は西磐井郡狐禅寺村・下油田村・峠村・中村、東磐井郡赤生津村・大籠村・新沼村・増沢村・保呂羽村の人別改帳の人口を元に再現している。
- ^ 難波信雄, 「廃藩置県前における旧仙台藩領の帰農問題」, 『東北学院大学論集 歴史学・地理学』, (2号), pp. 73–94 (1971).
- ^ 玉山勇, 「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 73巻(1号), pp. 63–94 (1942).
- ^ a b 高木正朗, 新屋均, 「近世国家の人口とその趨勢 ―仙台藩郡方・一関藩村方人口の復元: 1668–1870年―」 『立命館大学人文科学研究所紀要』(87号), pp. 7–39 (2006).
- ^ 萩藩陪臣の扱いはこの時点では、おそらく卒族のような扱いだったと思われる。陪臣は明治2年の人口総数に含まれていない。
- ^ (a) 城島正祥, 「佐賀藩の人口統計(一)」, 『史学雑誌』, 82巻(9号), pp. 1293–1320 (1973). (b) 城島正祥, 「佐賀藩の人口統計(二)」, 『史学雑誌』, 82巻(10号), pp. 1450–1467 (1973).
- ^ 金井圓, 「ひとつの藩の総人口」, 『日本歴史』, 67号, pp. 39–40 (1953).
- ^ 川口洋, 「17~19世紀の会津・南山御蔵入領における人口変動と出生制限」 『歴史地理学』 40巻 (4号), pp. 5–24 (1998).
- ^ 建山生, 「土佐の人口」 『土佐史壇』 (5号), pp. 82–86 (1920).
- ^ 武市佐一郎, 「土佐国二百五十年間の現住人口」 『土佐史談』 (33号), pp. 95–105 (1930).
- ^ (a) 森嘉兵衛, 「旧南部領に於ける二三の人口問題」 『人口問題資料』, 第46輯 (『東北人口:人口問題東北地方協議會報告書』), pp. 152–176 (1941). (b)速水融, 「近世日本の人口構造と変動」 『日本学士院紀要』 62巻 (3号), pp. 285–308 (2008).
- ^ a b c d e f g 貞享元年(1684年)の総人口には、九戸郡の百姓人員3444人(男1879人、女1565人)が加算されていない。また、宝永7年(1710年)の寺社領門前・金山師人員を1万0029人と解釈、宝暦元年(1751年)の和賀郡の百姓人員(欠落)を3万4210人と解釈、宝暦7年(1757年)の侍召仕人員(欠落)を1万0270人と解釈、安永3年(1774年)の和賀郡の百姓人員(欠落)を3万4268人と解釈、天明元年(1781年)の二戸郡の百姓人員2万2295人を三戸郡の百姓人口の誤記とし真の値は2万8883人、天保9年(1838年)の四町人員(欠落)を2万8385人と解釈し、それぞれ人口を修正した。
- ^ 一部男女・出家・修験・座頭人口の合計と総人口が一致しない。
- ^ 安澤秀一, 「宇和島藩切支丹類族改・宗門人別改・公儀え指上人数改の基礎的研究」 『史料館研究紀要』 (12号), pp. 1–210 (1980).
- ^ 亀井茲建, 「旧津和野藩に於ける人口調書 ―徳川時代身分別人口構成の一資料―」 『社会経学』 2巻(4号), pp. 442–449 (1932).
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