深尾隆太郎
深尾 隆太郎(ふかお りゅうたろう、1877年(明治10年)1月19日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の実業家。貴族院議員。大阪商船副社長、南洋拓殖社長、日本サッカー協会会長などを歴任し、2005年に第1回日本サッカー殿堂入り。
履歴
[編集]土佐藩主山内家筆頭家老であった深尾重良に始まる佐川深尾家(1万石)の第13代当主。10代重先の長男・需(もとむ)の長子[1]として大阪市天王寺で生まれた。
東京府尋常中学校を経て、1899年高等商業学校(現・一橋大学)を卒業する。同年に大阪商船に入社し、本社近海課長、東京支店長等を歴任。1912年朝鮮郵船取締役。1917年海外興業取締役。1920年に大阪商船専務取締役、1923年に大阪商船副社長に就任[2][3]。1929年副社長を退任し、高等商業1年後輩の村田省蔵(のちに逓信大臣等)と代わった[4]。同年日清汽船社長に就く。さらに1936年南洋拓殖社長、1937年南洋アルミニウム鉱業会長[3]。東洋電化工業会長、阪堺電鉄相談役も務める。
1925年に男爵を12代当主重孝から襲爵し、1928年6月16日に貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[1][3][5]、1928年金杯一個[6]。1930年正五位。1934年勲四等旭日小綬章[3]。1937年勲三等瑞宝章。1940年勲三等旭日中綬章[6]。大日本体育協会理事、議院制度調査会委員[3]、内閣調査会参与、海軍協会理事、電信協会理事などを歴任した。1946年5月8日、貴族院議員を辞職[7]、公職追放となった[8]。
1935年から第2代日本サッカー協会会長を務め、1936年ベルリンオリンピック参加のための資金集めなどに尽力し、第二次世界大戦が終結した1945年に辞任した[3]。2005年第1回日本サッカー殿堂入り[6]。
栄典
[編集]親族
[編集]佐川深尾家12代当主重孝(隆太郎の叔父)に嗣子がなかったことから宗家を継いだ。母まきは深尾蕃條長女[2]。妻初野(永田巌長女)との間に2男3女がおり、長男重光、次男重正ともに第五高等学校時代にはサッカー選手をしていたことがある。富子は弘前大学教授を務めた農学者田町以信男の妻[2]。哲学者の小島威彦明星大学名誉教授も娘婿。後妻浪江は岸田幸雄元参議院議員の姉。妹壽ゑは川添玄平二男川添清麿に嫁いだ。清磨の養子に後藤象二郎の孫にあたる川添浩史がおり、妻はピアニストの原千恵子、子に音楽プロデューサーの川添象郎[10][11]がいる。
- ^ a b 『高知県人名事典 新版』693-694頁。
- ^ a b c 「深尾隆太郞 (男性)」人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科)
- ^ a b c d e f 「華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎」月刊グラン2008年6月号 No.171
- ^ 大阪商船(株)『大阪商船株式会社五十年史』(1934.06)渋沢社史データベース
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、37頁。
- ^ a b c 日本サッカー殿堂公益財団法人 日本サッカー協会(JFA)
- ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日。
- ^ 公職追放の該当事項は「南洋拓殖社長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、63頁。NDLJP:1276156。 )
- ^ 『官報』第3400号「叙任及辞令」1938年5月7日。
- ^ 深尾隆太郞 (男性)人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科)
- ^ 「川添家(キャンティ)」
参考文献
[編集]- 『良い国良い人(東京に於ける土佐人)』沢翠峰、尾崎吸江共著、青山書院、1917年(大正6年)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
外部リンク
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日本の爵位 | ||
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先代 深尾重孝 | 男爵 深尾家第2代 1925年 - 1946年 | 次代 深尾重光 |
ビジネス | ||
先代 森弁治郎 | 日清汽船社長 1926年 - 1936年 | 次代 堀新 |
先代 新設 | 南洋拓殖社長 1936年 - 1940年 | 次代 大志摩孫四郎 |