日本の降伏
日本の降伏(にほんのこうふく)とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の日本による、連合国(実質的にはアメリカ合衆国)のポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から、玉音放送および日本軍の戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)に至るまでの過程を指す。以下、日本及びその各占領地における経過を説明する。
ポツダム宣言受諾までの経緯
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いでサイパン島が陥落すると、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し東條は岸に「ならば辞職せよ」と迫った。ところが、岸は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。
しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた[1]。1944年(昭和19年)以降の連合国軍の反攻による日本本土空襲は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。
東條内閣の後継となった小磯内閣は、本土決戦を準備しつつも、和平工作を秘密裏に模索した。元陸相宇垣一成を大陸に派遣し、中華民国重慶国民政府との和平交渉を打診した。そしてサイパンが陥落し、本土への連合国軍による空襲が本格化した1945年(昭和20年)3月には、南京国民政府高官でありながら、既に重慶政府と通じていることが知られていた繆斌を日本に招き、和平の仲介を依頼した。ところが、重光葵外相が彼を信用せず、小磯国昭首相と対立し、これも閣内不一致で総辞職となった。
この間の1945年2月、近衛文麿元首相を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「ソビエト連邦軍による占領及び『日本の赤化』を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「近衛上奏文」を昭和天皇に献言した。ところが、天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、吉田茂・岩淵辰雄・殖田俊吉ら、いわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕された。こうして軍・政・官は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を、更に特攻隊まで編成して、無謀な戦闘を継続させた。
1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣の東郷茂徳外相は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソビエト連邦を仲介役として和平交渉を行おうとした。東郷個人はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が日ソ中立条約の終了時、もしくはそれ以前の赤軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいたため、ソ連が日本と連合国との和平を仲介すると言えば、軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉が破綻すれば、日本が外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営も実質上の降伏となる条件を受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使としてモスクワでノモンハン事件を処理し、停戦と不可侵条約を実現させたという成功体験も背景にあったとされる。
翌5月、最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)において東郷は、ソ連の参戦防止及び中立を確約させるための外交交渉を行なうという合意を得た。当初、これには戦争終結も目的として含まれていて[2]、ソ連による仲介の代償として南樺太と千島列島の北半分、さらに満州の鉄道網を引き渡すことまで決めていた[3]。しかし、阿南惟幾陸相が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」と反対したため、上記2項目のみを目的とすることとなった[2]。東郷は、かつての上司であった広田弘毅元首相をヤコフ・マリク駐日ソ連大使とソ連大使館(当時強羅ホテルに疎開中)などで会談させたが、戦争終結のための具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言しなかったため、何ら成果はなかった。
その上、6月6日、最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されたため、日本側からの早期の戦争終結は、少なくとも表面上は全く不可能となった。にもかかわらず、矛盾する事に木戸幸一内相と東郷外相、及び米内光政海相は、第二次世界大戦の際限ない長期化を憂慮して、ソ連による和平の斡旋へと動き出した[4]。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇は、これに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した[5]。
しかし、東郷による広田・マリク会談は、それまでと同様、何ら進展しなかった。ただし広田は、1932年(昭和7年)のリットン報告書のことを考えれば遅きに失した感はあるが、マリクとの最後の会談で、和平斡旋の条件として満州国を中立化することをソ連に提案している[6]。しかし、マリクは「政府上層部で真剣に考慮されるだろう」と回答しただけであった[7]。7月7日、これを伝え聞いた天皇は、東郷に「親書を持った特使を派遣してはどうか」と述べた[8]。そこで東郷は近衛に特使を依頼し、7月12日、近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省は、モスクワの駐ソ日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼を外務人民委員部に伝えることとなった[9]。
しかしながら、日本の思惑とは裏腹に、既にスターリンは1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日から3ヶ月以内に対日宣戦することで英米と秘密裏に合意しており、それとは矛盾する日本政府からの中立の要請や、戦争の停戦講和の依頼など受けるつもりはもとよりなかった。5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスにある在外公館の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[10]、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていたが[11]、これらの決定的に重要な情報は全て、軍部と外務省の間では不都合であったため真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま捨て置かれた。
1945年7月、ソ連は、ベルリン郊外のポツダムにおいてポツダム会談を主催し、イギリスとアメリカ合衆国、中華民国の首脳会談によるポツダム宣言に同意する。その際、ソ連への近衛による和平工作について、米英と協議し、ソ連は対日宣戦布告まで日本政府の照会を放置することとした。
他方、日本政府は、なおもソ連による和平仲介に期待し続けた。これを受けた東郷は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。鈴木貫太郎首相は記者会見で7月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」と述べ[注釈 1]、本土決戦に備えた。
8月6日には広島への、8月9日午前11時には長崎への原爆投下があったが、日本の降伏を決定付けたのは、8月9日未明のソ連対日参戦であった。日ソ中立条約を結んでいたソ連からの突然の条約破棄と宣戦布告、および満州への侵攻により、日本には実質上ポツダム宣言の無条件受諾による降伏しか選択肢がなくなった[9]。(参照:無条件降伏)
ポツダム宣言受諾から玉音放送まで(8月10日-15日)
[編集]- 8月10日
10日午前0時3分[12]から行われた御前会議での議論では、東郷外相、米内海相、枢密院議長の平沼騏一郎が、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、「ポツダム宣言の受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。
しかし、唯一の同盟国であったドイツは5月に無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であったソ連も、先日の開戦により樺太や千島列島などから日本本土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。
ここで鈴木首相が天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で、ポツダム宣言受託が承認された[13]。
日本政府の首脳陣の中では、最終的に中立国であったソ連の参戦が最終的にポツダム宣言受諾を受託する理由となったが、実際に『昭和天皇実録』に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、当時の出席者や歴史学者の伊藤之雄は「(対日中立国の)ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[14]。
日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向け放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また加瀬俊一駐スイス公使と岡本季正駐スウェーデン公使より、11日に両国の外務大臣に手渡され、二国を経由して連合国に渡された。これ以降連合国からの回答を待つことになる。なおスウェーデンなど一部の中立国では、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、「日本が降伏した」と早とちりし、一部マスコミがこれを報じた場合があった[15]。
なおソ連大使館側の要請により、10日午前11時から貴族院貴賓室にて東郷とマリクの会談が行われた。その中で、マリクより正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜には赤軍による南樺太および千島列島への進攻、つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での、市民を巻き込んだ市街戦も開始された[16]。
ポツダム宣言は日本政府により正式に受諾の意思があることが表明されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われていなかった。それは「ポツダム宣言受諾=降伏ではない」ことから、完全な停戦を行っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった[17]。なお実際10日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。
- 8月11日
11日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかった。
- 8月12日
12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託の承認を受けて、連合国を代表するものとしてアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による日本のポツダム宣言受託への正式な返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った[13]。
その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」[18]としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」[19]というものであった。この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」[20]であった。また、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」[21]と記している。
しかし、午前中に原文を受け取った参謀本部は、subject toを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、また「連合国全体ではなくアメリカ1国だけの回答」であることや、「アメリカ大統領ではなく国務長官からの回答」であったこともあり、鈴木首相も再照会について同調した[13]。東郷外相は「(連合国からの)正式な公電が到着していない」と回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった[22]。
なお、12日朝には皇族に対して、ポツダム宣言受諾承認を天皇から直接伝えられている[23]。にもかかわらず、12日午後には豊田軍令部総長は梅津参謀総長ともに、ポツダム宣言受諾の反対を奏上する[24]。同日米内海相は豊田と大西瀧治郎海軍中将の2人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と述べ、また大西には「最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」となどと激しく叱責し、豊田は硬直したかのような不動の姿勢で聞き、「申し訳ない」という様子で一言も答えなかった[25]。
- 8月13日
この日の閣議は2回行われ、午前9時から行われた日本政府と軍の最高戦争指導会議では、「国体護持について再照会の返答」をめぐり再度議論が紛糾したが、これに先立つ午前2時に駐スウェーデン公使岡本季正から「バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものである」という報告が到着し、2回目にはポツダム宣言の即時受諾が優勢となった[26]。
しかし1日以上経っても、バーンズ回答に対しての日本政府からの「正式な回答」がなかったため、連合国とアメリカ政府、連合国軍とアメリカ軍では「日本のポツダム宣言受諾への回答が遅い」、「ポツダム宣言受諾に対して、政府と軍部でからの停戦の同意がなされていないのではないか」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむ連合国軍が、アメリカ軍を通じて東京に早期の申し入れと、バーンズ回答の内容を記した伝単を日本に散布している[27]。
さらにイギリスやアメリカ、そして中立国の多くも日本政府のポツダム宣言受諾をラジオや新聞などで一般に伝えたが、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、赤軍との戦闘や爆撃は継続され、その後も千葉(下記参照)や小田原、熊谷や土崎などへの空襲や、南樺太および千島列島、満洲国への地上戦も行われた[16]。
- 8月14日
午前11時より行われた再度の御前会議は、天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南陸相は午後1時が都合がいいと申し出していたが、天皇はなるべく早く開催せよと鈴木首相に命じたため、午前11時開始となった[28]。
御前会議では依然として阿南陸相や梅津参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南と梅津は、もし終戦になったら陸軍内で一部将兵がクーデターが起こすことを認知していた)、天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。
これを受けて、夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコード盤が放送局に搬出された。また、終戦の詔勅の載った官報の号外、それをやや解説する趣のある内閣告諭の号外が印刷され、日付は8月14日午後11時公布されたとの扱いになっている[29](おそらく実際の配布・掲示は遅らされたと思われる)。また加瀬スイス公使を通じて、ポツダム宣言受諾に関する正式な詔書を発布した旨、またポツダム宣言受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた[16]。しかし連合国は、未だ日本国民や軍に向けての通達が行われないままであることから、軍民の体制は崩さぬままであった。
当日新聞朝刊の配達・販売は正午以降とされた[29]。なお、天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国および外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われた。天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことであった。内容として「このたび詔書が渙発される」、「15日正午に天皇自らの放送がある」、「国民は1人残らず玉音を拝するように」、「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」などが報じられたが、どのような内容の放送が行われるかは秘されたままであった。
阿南陸相は、14日の御前会議の直後の午後1時に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」[30]、「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」[31]、と諄諄と説いて聞かせた。
しかしクーデター計画の首謀者の一人であった井田中佐は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南陸相は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」[32]、「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた[33]。
この期に及んでも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南陸相はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している[34]。
- 8月15日
しかし8月15日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田中佐などの狂信的な陸軍将校らにより、玉音放送の録音音源の強奪及びクーデターの未遂事件が皇居を舞台に発生し、近衛師団長森赳中将が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、天皇のもとでポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず、陸軍内では争いが起きていた。また、午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。なお、クーデターか起きる中、阿南陸相は15日早朝に割腹自決している。
また午前7時21分より全国および外地、占領地などのラジオ放送で、正午に天皇自らのラジオ放送が行われる旨の2回目の事前放送が行われた[35]。
正午に天皇はラジオ放送(玉音放送)をもって、日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された[36]。
公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、玉音放送の1時間半前の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したアヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でシーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し、陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったものの解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。
南樺太、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となっていたが、ポツダム宣言受諾の8月15日以降も、第5方面軍による南樺太死守命令等により南樺太や占守島では赤軍との戦闘が続いた。
また満洲では赤軍と国府軍との戦いの中、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局赤軍は満洲のみならず、日本領土であった南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく進軍を停止した。
停戦後(8月15日-28日)
[編集]8月15日正午からの玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸相の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けていた[37]。
また午後に大本営は大陸命第1381号と大海令第47号にて大日本帝国陸軍と海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、積極進攻作戦の中止を命令した[38]。しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。ただし、北海道の第5方面軍司令の樋口中将は、麾下にある南樺太の第88師団に南樺太死守命令を出したため、南樺太ではソ連軍との戦闘が続くこととなった。千島列島の占守島においても抗戦が決定され、こちらについても樋口中将の指示が疑われている[39]。
15日早朝の陸軍によるクーデター発生最中に自決した阿南陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と部下22名(うち5人が生還)を連れて11機の特攻機で出撃し命を絶った宇垣纏中将、妻娘らとともに一家自決した元第4航空軍の隈部正美少将、ウルシー環礁から伊401で内地へ帰投する途中アメリカ軍に拿捕される直前、艦内で自決した有泉龍之助大佐[40]、陸軍省参謀本部の大正天皇御野立所で切腹した晴気誠少佐、約1か月後となるが元参謀総長の杉山元は当人ばかりか国防婦人会の会長であったためその妻まで後追い自決するなど、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って、あるいは連合国からの逮捕や追及を怖れ、皇居前や代々木練兵場、内外の基地、自宅などで自ら命を絶った軍人や政治家、民間人は数百人に渡った。
また東條英機のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命じられたあと、自殺に失敗し逮捕される者、近衛文麿のように12月になってから連合国軍総司令部から出頭を命じられたあと、逮捕を嫌がり服毒自殺する者もいた。
16日午後4時には大陸命第1382号にて大日本帝国陸軍に対して、停戦交渉成立に至る間やむをえざる自衛のための戦闘行動を除いて「即時の戦闘停止」を命令された[38]。海軍に出された大海令48号もほぼ同内容である。1382号では具体的な停戦期限は記載されていなかったが、日本側から連合国側に通告した「日本政府・大本営発、連合国最高司令官宛電一号」では「二、右大命ガ第一線ニ到達シ実効ヲ挙グル日時ハ左ノ如ク予見ス」として「内地 四十八時間」としていた。つまり、48時間後の18日16時を完全な停戦成立完了時になるとみていた。なお、南樺太では、札幌にいた第5方面軍の樋口中将から南樺太死守命令が出されたが、その際、この自衛戦闘を理由にソ連軍進攻に対し、戦闘が継続された。
18日大陸命第1385号により大日本帝国陸軍に対して、別に示す時機に司令官らの作戦任務を解き、それ以降の戦闘が禁止されるとの命が出された[41]。この時点で、その「別に示す時機」は明示されなかったものの、一方で、15日の詔書渙発以降に敵軍の勢力下におかれた陸軍軍人・軍属は俘虜とは認識しないとし、同時に隠忍自重するようにとの内容となっている[38]。山田朗は、これをそれまで日本軍が将兵に降伏を禁じていた手前、連合軍に降伏して俘虜になるのではなく、天皇の命令で戦闘を停止して連合軍の管理下に入るのだ、という体裁をとったものだとする[42](同時にこれは、例えば現地の軍等がその停戦交渉の結果として降伏しても、15日正午以降に行ったものであれば差し支えないという効果を、この大陸命は持つことになる筈である。)。海軍には、19日の大海令第五十号で同趣旨の令が出ている。
17日には連合国最高司令官指令から一般命令第一号が下ったが、同日には日本本土を偵察に来たコンソリーデーテッドB-32を、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降起こらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。17日日本側では、16日の大海令48号を繰り返す部分のある大海令49号が海軍に出ている。
19日大陸命1386号で内地の陸軍は8月22日0時以降一切の武力行使が停止となる[41]。この日大海令50号で、海軍は支那方面艦隊を別にして一切の戦闘行為が停止される。また、同日、大陸指2546号で札幌の第五方面軍にも局地停戦交渉とその実施の武器の引渡を実施する許可が出る[43]。しかし、第五方面軍は南樺太の第88師団に停戦と武器の引渡(事実上の降伏)を許可することなく、むしろあらためて南樺太死守を命じている。
8月22日大陸命1388号により外地の陸軍は、支那派遣軍の局地的自衛の措置を除き8月25日0時以降一切の武力行使が停止とされる。また、大本営の朝枝繁春参謀は停戦の進捗状況を監督するために出張した満洲でソ連側から樺太で戦闘が続いていることを知り、この前日に自衛戦闘に名を借りて戦闘継続することに対する警告の電報を札幌の第五方面軍に打電していた[44]。そのため、ようやく南樺太の第88師団の事実上の降伏と武装解除を前提とする停戦交渉が開始し、昼頃成立する。
ドイツの場合は、本土に進攻されても容易に降伏しなかったため、一つ一つ都市が落とされていき、最後は首都を含め本土のかなりの地域が占領されていった形での敗戦となった。しかし、日本の場合は、その時点では未だ首都はもちろん、北海道、本州、九州、四国の本土は一切占領されていなかった上に、中央政府と軍中枢は存続しており[45]、まだ相当の軍人と武器や航空機、船舶が残っていた日本に対する連合国軍の動きは慎重に慎重を重ねた。連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍やイギリス軍が日本本土に上陸するまでは、結果として約2週間という異例の長さであった。
なお、沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下、勢力下にあった。また、中四国はイギリス連邦占領軍が後に駐留することが決まり、結果的にアメリカ軍とイギリス連邦軍だけで正式に日本を占領することとなった。
しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案したが、ヤルタ会談での合意内容を超えることから拒否され、駐在武官のみを送るにとどめた。しかしスターリンの命令と日本軍のソ連軍進駐拒否により、南樺太・千島へのソ連軍の攻撃は15日の玉音放送以降も継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土の択捉島は8月28日、国後島は9月2日、歯舞諸島への上陸は9月3日になって行われた[46]。なお、中華民国も軍事占領を検討したが、占領時の食料の大部分を日本に頼ろうとしたために、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否された。
17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。皇族が首相に就いたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。副総理格の国務大臣には近衛文麿、外務大臣には残留した重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。
この時点でも、日本は連合軍に占領された沖縄県、樺太、千島を除く日本本土と台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモール島などの北東アジアから東南アジア、ウェーク島からラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満洲国などの友好国、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き揚げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。
そこで16日に連合軍は中立国のスイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。これを受けて19日に、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行の塗装をした一式陸上攻撃機で木更津から伊江島に飛行し、そこからダグラス DC-4でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦および全権移譲の会談や、さらに日本本土進駐の際の安全の確保と情報提供を要求するなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍、オランダ軍に対する停戦と武装解除、日本進駐の準備は順調に遂行されるかにみえた[47]。また日本と同盟下にあったタイは、16日の日本降伏後に日本側の内諾を得た上で「宣戦布告の無効宣言」を発し、連合国側と独自に講和した。
しかし、引き揚げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、ジャワやインドシナ、ビルマ、マレーなどで勃発したイギリスやフランス、オランダからの独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件)、のちに個人の意思で中華民国国軍や中国人民解放軍に編入されたものもいた[注釈 2]。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機や九八式直接協同偵察機など)や戦車、銃器など接収した武器がそのまま利用されることも多かった。
日本とフランス植民地政府の権力の空白が生まれたインドシナでは、17日にベトナム八月革命が勃発した。日本の後ろ盾を失った満洲国はソ連軍の侵攻を受けて崩壊し、18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀や愛新覚羅溥傑ら満洲国帝室と、関東軍の吉岡安直中将や橋本虎之助中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天に侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。
さらには、アメリカ領フィリピンのルバング島で1974年まで日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎少尉のように、日本軍の将兵として戦闘行為を継続していた者や、アナタハン島のように島単位で引き揚げから取り残される者も発生した。
この様に日本とその友好国側、連合国側の上記のような準備と混乱を経たものの、22日から23日にかけて台風が日本を襲い上陸予定地の厚木飛行場も滑走路が水に浸かってしまい、さらに連合国軍の占領は遅れた[48]。
占領開始(8月28日-30日)
[編集]ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。なお、全面戦争において首都の陥落がないままで、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことであった。
また、同日東京の大森にある連合軍の捕虜収容所に、アメリカ海軍の軽巡洋艦「サンフアン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に、イギリス軍やアメリカ軍の病人や怪我人などを収容していった。
30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」でフィリピンから厚木基地に到着した。一行は午後に日本軍が用意した専用車で横浜市内のホテルニューグランドに移り、宿を取った。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の占領軍と、中華民国軍、フランス軍、オランダ軍、ソ連軍などの他の連合国軍の代表団も到着した[49]。
降伏文書調印
[編集]降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県寄りの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」艦上[50]で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。
午前8時56分に「ミズーリ」艦上に日本側全権代表団が到着した。日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵、大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。
先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦し、15日の日本軍の停戦を無視して満洲や択捉島などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日から足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した[51]。
しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的にカナダ代表の欄が空欄となった。
その後各国代表は祝賀会の為に船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザーランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した[52]
さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。
これに対して重光外相は、マッカーサー連合国軍最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策はポツダム宣言の条件通りに日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)[53][注釈 3]。
一方、中四国はイギリス連邦占領軍が駐留することに決まり、また沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、小笠原諸島は1968年まで、沖縄は1972年の本土復帰までアメリカの被占領の歴史を歩んだ。
なお連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し[54]、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。また中華民国や香港、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた日本軍人はそれぞれの現地で捕虜となり、その後B級並びにC級戦犯として、現地で裁判に掛るものが多かった。
さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、シベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。その後帰国してきた軍人も、赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれているものも多かった[55]。また民間人や軍属なども帰国の途に就いたが、自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナなどからは比較的順調に行ったものの、中華民国や満州国からの帰国はソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いておかれるものも多かった。
占領軍による間接統治
[編集]「厚木航空隊事件」のような反乱事件がいくつか起きたものの、日本国内、アジア各地に展開していた日本軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく約60日で武装解除された[56]。満州、南樺太(サハリン)、千島列島などにいた日本軍兵士数10万人(86万人といわれる)は、ソ連軍によって武装解除後シベリアをはじめとするソ連領内に連れ去られ、1年から数年にわたる過酷な自然と劣悪な待遇の元で強制労働に服し、約6万8,000人が死亡した[57]。
日本は朝鮮半島を米ソに、台湾を中華民国に、南樺太及び千島列島及び歯舞・色丹をソ連に、「本州、北海道、九州及四国並びに吾等(連合国)の決定する小島」(ポツダム宣言)をイギリス軍とアメリカ軍によって占領されたが、同じ敗戦国のドイツとは違い、日本政府による統治が継続されたことから、イデオロギーが対立する複数の連合国による分割占領を免れた[57]。
ソ連は参戦後に釧路市と留萌町(現在の留萌市)の両都市と、それらを結ぶ線より北の北海道を占領する意向を8月15日に示したが、アメリカ合衆国大統領トルーマンが即座に拒否した。マッカーサーは、初め日本を直接に統治する軍政を布こうとし、9月3日にその旨布告しようとしていたが、前日にこの方針を知った日本政府の苦情を受け入れ、結局、日本政府を通じた間接統治の形をとることとした[57]。
このマッカーサーの突然の判断変更の背景事情としては、アメリカの対日政策立案を1944年暮れから手がけていた、SWNCC(スウンク;国務・陸軍・海軍調整委員会)が、1945年8月22日から31日にかけて起草した「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」の中で「最高司令官は・・・天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じて其権限を行使すべし」、つまり間接統治が対日占領政策として最適であろうと分析していたことが上げられる[57]。
日本政府は、イギリス連邦占領軍とアメリカ軍を中心とした連合国軍による占領統治の下に置かれ、GHQが一連の戦後改革を連合国軍最高司令官の布告・命令・指示によって展開させた。1946年(昭和21年)11月3日に、大日本帝国憲法が改正された日本国憲法が公布され、1947年(昭和22年)5月3日に同憲法が施行された。
占領の終了と日本の主権回復
[編集]1951年7月20日、日本政府に講和会議出席の招請状が届いた[58]。その10日前の7月10日には開城(ケソン)で朝鮮戦争の休戦会議が始まっていた[58]。9月8日に、サンフランシスコ市内のオペラハウスで、サンフランシスコ平和条約が日本を含む49か国で調印され、日本の主権が回復した[58]。
講和会議に招かれた52か国のうち、ソ連とチェコスロバキア、ポーランドは、米英などとの意見の対立から調印を拒否した[58]。また、戦後独立したばかりで独立国家として日本と対戦していなかったインド・ビルマ・ユーゴスラビアは招請に応じなかった。また、国共内戦の結果台湾へ逃れた中華民国と、建国されたばかりで日本と交戦していない中華人民共和国、枢軸国として日本の同盟国であったドイツを引き継いだ西ドイツと東ドイツ、イタリアは招請されなかった[58]。
なお、出来たばかりか日本と交戦していない大韓民国はなぜか会議への招請を主張したが、大戦当時の朝鮮半島は日本領土であるうえに、朝鮮人の多くが自主的に日本軍や満洲軍の将兵として参戦しており(のちの朴正煕大統領など)、臨時政府を承認されなかったことを理由に、当然のことながらアメリカから招請を拒否された[59][60]。
講和条約が発効し、連合国軍による日本占領が終結したのは、1952年4月28日であった[58]。しかしながら、横井庄一や小野田寛郎に代表されるように、少なからぬ日本兵が終戦の伝達が困難な環境で潜伏していたために終戦後も戦闘状態を長期継続していた(ただし、大半は、数年で帰還した)。旧日本軍兵士や満蒙開拓青少年義勇軍たちの中には、八路軍や国民政府軍に強制的に参加させられ、国共内戦に従軍した者もあった[61]。また、自ら除隊し、インドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に身を投じる者もいた。
「終戦の日」はいつか
[編集]伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない(ハーグ陸戦条約・附属書36条)。このため休戦が協定された日と休戦協定が外交文書(降伏文書)として固定された日は異なり、実際に各地の戦線で休戦が合意された日もまた異なる。そのため現実に戦闘が停止された日付(あるいは現地日本軍が降伏した日、あるいは降伏式を執り行った日付)には前後があり、また日本政府が停戦を通告した日(最初のものは短波ラジオを通じた8月10日)、連合国の各司令部により停戦の事実が確認された日などにも前後関係がある。
今日、「終戦の日」とは、昭和天皇が「玉音放送」によって、日本政府がポツダム宣言の受諾(=日本軍の降伏表明)を連合国側に通告したことを、国民に放送を通じて公表した1945年(昭和20年)8月15日とするのが一般的である。一方、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは、前日の8月14日であり、玉音放送によって読み上げられた「終戦の詔書」の日付もその日となっている。
日本政府及び連合国代表が降伏文書に調印した日は、1945年(昭和20年)9月2日であり、連合国ではこの日を「対日戦勝記念日」としている例が多いが、中華民国や中華人民共和国、旧ソビエト連邦のように9月3日とする国もある。なお国際条約として日本国が交戦国と正式に平和条約などを締約し戦争状態が終了した日は日本国との平和条約が発効した1952年4月28日、日本国と中華民国との間の平和条約が発効した1952年8月5日、日ソ共同宣言が発効した1956年12月12日である(ただし日ソ共同宣言は戦争状態の終了を確認した条約であって平和条約ではない)。
終戦工作の例
[編集]日本軍が有利な展開なうちに早期に休戦・終結させる試みは、1942年(昭和17年)の時期から一部の政治家・官僚・民間人の間で摸索された。しかし、戦争勝利を大義とした東條内閣及び軍部により弾圧され、中野正剛のように自決に追い込まれる者もいた。終戦工作としては、他に以下のようなものが知られる。
- 燕京大学学長ジョン・スチュワートや上海市長周仏海を仲介者とする和平工作。
- 日本軍今井武夫参謀副長と中国国民軍何柱国上将との和平協議。
- 水谷川忠麿男爵(近衛文麿の異母弟)と中国国際問題研究所何世禎との和平工作。
- 駐日スウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作。また、小野寺信駐在武官もドイツの親衛隊諜報部門の統括責任者であるヴァルター・シェレンベルクと共にスウェーデン王室との間で独自の工作を行った[62][63]。だが、ソ連との交渉に専念したい東郷の意向で延期されたまま終戦を迎えた[64]。
- スイスにおけるアメリカ戦略事務局のアレン・ダレスを仲介者とした岡本清福陸軍武官・加瀬俊一公使や藤村義朗海軍武官らによる和平工作[65][66][67]。
これらはいずれも和平条件の問題や日本側による仲介者への不信、時機などから、実現には至らなかった。
軍の降伏
[編集]日本軍は、各地域でGHQに対する降伏と降伏式を行った。降伏先の指定は1945年9月2日の降伏文書調印直後に「一般命令第一号」としてGHQから発令された。
本土
[編集]- 青森県:9月9日、海軍大湊警備府司令長官の宇垣完爾、陸軍50軍司令官の星野利元、県知事の金井元彦らが大湊湾洋上のアメリカ軍艦パミナント上で占領命令書に署名している[68]。アメリカ軍側は9月2日に日本と連合国の降伏文書調印を踏まえ、24時間以内に北海道と北東北を管轄する同警備府が武装解除することなどを命じている。
沖縄
[編集]- 9月7日に南西諸島の日本軍を代表し、第28師団司令官納見敏郎中将、高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が、沖縄戦降伏文書に調印し、アメリカ側のジョセフ・スティルウェル陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名を行い、沖縄戦が公式に終結した[69][70][注釈 4]。
外地・大陸・南方
[編集]- 京城:[3][4]
- 南京:9月9日、中央軍官学校大会堂にて。日本軍代表は支那派遣軍岡村寧次大将、連合軍代表は中国戦区陸軍総司令何応欽一級上将[5][6]。
- 青島:10月25日、匯泉路競馬場にて。日本側代表は独立混成第5旅団長長野栄二少将[71]、連合軍代表は米海兵隊第6師団長レミュエル・C・シェファード・ジュニア少将、軍政部膠済区接收特派員陳宝倉中将。
- 香港:9月16日、日本側代表は香港防衛隊長岡田梅吉陸軍少将、第二遣支艦隊司令長官藤田類太郎海軍中将。連合軍代表はイギリス軍セシル・ハーコート少将、中国国民軍潘華国少将。
- バギオ(ルソン島):9月3日、キャンプジョンヘイ敷地内にて。日本軍代表は第14方面軍司令官山下奉文大将、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将。連合軍代表は米陸軍太平洋西部陸軍副司令エドモンド・H・レヴィ少将[72]。
- ラバウル:9月6日、イギリス軍艦グローリーにて。日本軍代表は第8方面軍司令官今村均大将及び南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将、連合軍代表は豪陸軍第1軍司令官ヴァーノン・スターディー中将[73]。
- シンガポール:9月12日、市庁舎にて。日本側代表は第7方面軍司令官板垣征四郎大将、連合軍代表はルイス・マウントバッテン元帥。[7]
- スマトラ:チェンバーズ(H. M. Chambers)率いる第26インド師団(26th Indian Division)が10月13日、パダンに上陸、10月21日の3時30分(GMT)、スマトラを統治した第25軍が市庁舎で降伏文書に署名した。25軍の司令官、田辺盛武が陸軍を代表、第9特別根拠地隊司令官の広瀬末人が海軍を代表した。英印軍はセイヤーズ(Sayers)大尉が海軍を代表、チェンバーズが陸軍を代表した。
- ニューギニア
- ボルネオ:9月10日にラブアンの第9師団本部にて、日本側代表は第37軍司令官馬場正郎中将、連合軍代表はオーストラリア第9師団長ジョージ・ウートン少将。
- 太平洋戦域各地の降伏式
- 中央軍官学校大会堂での降伏式の日華両国代表(9月9日)
- イギリス海軍の中尉に軍刀を引き渡す日本海軍の将校(サイゴンの降伏式)
- 青島の降伏式にて、レミュエル・C・シェファード・ジュニア少将と陳宝倉中将に軍刀を差し出す長野栄二少将
- シンガポールでの降伏式に臨む第7方面軍司令部要員(9月12日)
- 降伏文書に署名する第15根拠地隊司令・魚住治策少将(9月12日、ペナン島)
参考文献
[編集]史伝資料
[編集]- 外務省編「終戦史録」 同刊行会, 新版1997ほか。初刊:新聞月鑑社, 1952
- 改訂版「終戦史録」 北洋社(全6巻・別巻[74]), 1977-78
- 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦 終戦史録」 山手書房新社(3巻組), 1990
- 外務省編「初期対日占領政策 朝海浩一郎報告書」毎日新聞社(上下), 1978-79
- 江藤淳監修、栗原健・波多野澄雄編「終戦工作の記録」、講談社文庫(上下), 1986
- 江藤淳編・波多野澄雄解題「占領史録」(全4巻)、講談社, 1981-82/講談社学術文庫, 1989、文庫新版(上下), 1995
- 林茂・辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規, 1981(全6巻)
- 鹿島平和研究所編「日本外交史 25 大東亜戦争・終戦外交」 松本俊一監修, 1972
- 同上「日本外交史 26 終戦から講和」 鈴木九萬監修, 1973、鹿島出版会(各新版)
- 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」 芙蓉書房出版(上下), 2003
- 参謀本部所蔵 「敗戦の記録」 原書房, 1967、新版1989、2005
- 森松俊夫監修「『大本營陸軍部』大陸命・大陸指総集成 10巻」エムティ出版, 1994
- 防衛庁防衛研修所戦史室「大本營陸軍部10 昭和二十年八月まで」朝雲新聞社, 1975
- 軍事史学会編「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌」 錦正社(上下), 1998/新版合本2008
- 佐藤元英・黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料」原書房(上下), 2002
- 『日本外交文書 太平洋戦争』 六一書房(全3巻), 2010 - 各・外務省外交史料館編
- 『日本外交文書 占領期』 六一書房(全3巻), 2017-18
- 『日本外交文書 占領期 関係調書集』 六一書房, 2019
日記・回想録
[編集]- 「鈴木貫太郎自伝」 鈴木一編、時事通信社, 1968、新版1985[75]
- 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会, 1960
- 新版「歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎」ゆまに書房, 2006
- 「東久邇日記 日本激動期の秘録」徳間書店, 1968
- 東久邇稔彦「一皇族の戦争日記」日本週報社, 1957 /「私の記録」東方書房, 1947
- 東郷茂徳「時代の一面 東郷茂徳外交手記」 改造社, 1952 / 原書房, 新版2005 / 中公文庫, 新版2021
- 迫水久常「機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで」 恒文社, 1964、新版1986 / ちくま学芸文庫, 2011
- 迫水久常「大日本帝国最後の四か月」 オリエント書房, 1973 / 河出文庫, 2015
- 下村海南「終戦秘史」 講談社, 1950 / 講談社学術文庫, 1985
- 藤田尚徳「侍従長の回想」 講談社, 1961 / 中公文庫, 1987 / 講談社学術文庫, 2015
- 細川護貞「細川日記」 中央公論社(新版), 1978 / 中公文庫(上下), 1979、改版2002
- 重光葵「重光葵手記」(正・続) 中央公論社, 1986-88
- 重光葵「昭和の動乱」(上・下) 中央公論社, 1952 / 中公文庫, 2001
- 重光葵「外交回想録」 毎日新聞社, 1953、新版1978 / 中公文庫, 2011
- 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」 中公文庫, 1999。初刊・私家版
- 木戸幸一「木戸幸一日記」 東京大学出版会(上・下), 1966
- 「証言・私の昭和史5 終戦前後」聞き手三國一郎、旺文社文庫、文春文庫(新版), 1989
- 「もう一つの戦後史」聞き手江藤淳、講談社, 1978[76]
- 「証言記録 太平洋戦争 終戦への決断」サンケイ新聞社「第二次世界大戦ブックス」, 1975
- 富田健治「敗戦日本の内側」古今書院, 1962
- 「近衛文麿と日米開戦――内閣書記官長が残した『敗戦日本の内側』」祥伝社新書, 2019。川田稔解説。
- 松村謙三「三代回顧録」東洋経済新報社, 1964 / 新版・吉田書店、2021。武田知己編
- 高松宮宣仁親王「高松宮日記」中央公論社(全8巻), 1997
- 「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」 時事通信社, 1962 / 毎日新聞社, 1979
- 保科善四郎「大東亜戦争秘史 失われた和平工作」原書房, 1975
- 「最後の参謀総長 梅津美治郎」 同刊行会編、芙蓉書房, 1976
- 有末精三「終戦秘史 有末機関長の手記」 芙蓉書房, 1987(新版)
- 宮崎周一「大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌」 錦正社, 2003
- 豊田副武「最後の帝国海軍」 世界の日本社, 1950 / 中公文庫, 2017
- 富岡定俊「開戦と終戦」毎日新聞社, 1968 / 中公文庫, 2018
- 高木惣吉「自伝的日本海軍始末記 続篇」光人社, 1979
- 藤田信勝「敗戦以後」秋田屋, 1947 / リーダーズノート新書, 2011
歴史書・伝記
[編集]- 半藤一利「決定版 日本のいちばん長い日」 文藝春秋, 1995、文春文庫, 2006
- 半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1985/PHP文庫(新版), 2006
- 小堀桂一郎「宰相鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1982、文春文庫, 1987
- 「鈴木貫太郎 用うるに玄黙より大なるはなし」 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉, 2016。増訂版
- 波多野澄雄「宰相鈴木貫太郎の決断 「聖断」と戦後日本」岩波書店〈岩波現代全書〉, 2015
- 萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」 原書房, 2005(新版)/朝日新聞社, 2008
- 東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」 文藝春秋, 1993
- 豊田穣「孤高の外相 重光葵」 講談社, 1990
- 渡辺行男「重光葵 上海事変から国連加盟まで」中公新書, 1996
- 実松譲「米内光政正伝」光人社, 2009(新版)
- 「海軍大将米内光政覚書 太平洋戦争終結の真相」実松譲編、産経NF文庫, 2022。元版:光人社
- 「昭和史の天皇」 中公文庫(1-4), 2012。元版:読売新聞社(全30巻), 1980完結
- 「天皇の終戦 激動の227日」 読売新聞社, 1988 - 上記の再編版
- 入江隆則「敗者の戦後」 中央公論社〈中公叢書〉, 1989/文春学藝ライブラリー(文庫新版), 2015
- 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 中央公論新社, 2006/みすず書房, 2023
- 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」 NHKブックス(上下), 2000
- 五百旗頭真「占領期 首相たちの新日本」 読売新聞社〈20世紀の日本3〉, 1997/講談社学術文庫, 2007
- 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」 中央公論新社, 2001、中公文庫, 2013
- 戸部良一「日本の近代9 逆説の軍隊」 中央公論新社, 1998、中公文庫, 2012
- 児島襄「天皇5 帝国の終焉」 カゼット出版(新版、全5巻), 2007
- ジョン・トーランド「大日本帝国の興亡5 平和への道」 毎日新聞社外信部訳、ハヤカワ文庫(全5巻)、2015(新版)
- レスター・ブルークス「終戦秘話 一つの帝国を終わらせた秘密闘争」井上勇訳、時事通信社, 1968、新版1985。原題はBehind Japan's surrender
- ルイ・アレン「日本軍が銃をおいた日 太平洋戦争の終焉」長尾睦也・寺村誠一訳、早川書房, 1976、改訂新版2022
- 芦田均「第二次世界大戦外交史」岩波文庫(上下), 2015(新版)。解説井上寿一
個別研究
[編集]- 五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(新版)講談社学術文庫、2005年。
- 保阪正康『新版 敗戦前後の日本人』朝日文庫、2007年。
- アービン・クックス 著、加藤俊平 訳『天皇の決断 昭和20年8月15日』サンケイ新聞社〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年。
- 遠山茂樹、今井清一、藤原彰『昭和史(新版)』岩波新書、1959年。
- 纐纈厚『日本降伏 迷走する戦争指導の果てに』日本評論社、2013年。
- 加藤聖文『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』中公新書、2009年7月。ISBN 4-12-102015-4。
- 趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013年。
- 若林正丈『台湾 変容し躊躇するアイディンティティ』ちくま新書、2001年。
- 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』中公新書、1997年7月。ISBN 4-12-101372-7。
- 小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、1993年。
- 中野聡 著「植民地統治と南方軍政―帝国・日本の解体と東南アジア」、編集委員倉沢愛子ほか 編『岩波講座アジア・太平洋戦争 第7巻 支配と暴力』岩波書店、2006年。
辞典・事典項目
[編集]- 師岡佑行「終戦工作」 「社会科学大事典 10」鹿島研究所出版会, 1969
- 波多野澄雄「終戦工作」 「国史大辞典 7」吉川弘文館, 1986
- 木坂順一郎「終戦工作」 「日本史大事典 3」平凡社, 1993
その他
[編集]- 『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』(日本テレビ「知ってるつもり?!」2002年5月28日放送分)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 福田和也 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246
- ^ a b 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p151
- ^ 『読売新聞』2024年8月14日付朝刊1面『ソ連頼りの終戦 夢想』より。
- ^ 『暗闘(上)』 p.198
- ^ 『暗闘(上) 』 pp.290 - 212、218 - 220
- ^ 『満洲国―「民族協和」の実像』塚瀬進 吉川弘文館 p.147
- ^ 『暗闘(上)』 p.226
- ^ 『暗闘(上)』 pp.248 - 250
- ^ a b 寺崎英成著 『昭和天皇独白録』 136ページによれば、「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。木戸は米内にも東郷にも鈴木にも意見を聞いたが、皆講和したいと云ふ、然し誰も進んで云ひ出さない。それで私は最高指導会議の者を呼んで、速かに講和の手筈を進める様に云つた。「ソビエト」を経てやれと云つたかどうかは記憶して居らぬ。この時鈴木その他から先づ「ソビエト」の肝を探らうと、云ひ出した、私はそれは良い事と思ふが、現状に於ては速かに事を処理する必要があると云つた。これですつかり講和の決意が出来て安心した、但し講和の条件に付ては、皆各と意見があつた。之と前后して、鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云つて釆たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤もだと云つて帰つた。どうも政府も軍人も二股かける傾向があるのはよろしくない。この場合鈴木だから、隔意なく思ふ事が云へたのだ。・・・然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。しかし、「スターリン」は会議から帰つた后も、返事を寄越さず、その中に、不幸にして「ソビエト」の宣戦布告となつた。こうなつては最早無条件降伏の外はない。」とある
- ^ NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)[1]。当番組では連合国に傍受解読された駐在武官発の電報(ロンドンに保存)が紹介された。
- ^ NHK取材班 『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』 角川文庫、1995年、pp.204 - 208
- ^ 昭和天皇実録より
- ^ a b c 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.264
- ^ 昭和天皇実録 iza14090905120002 2/3
- ^ 衣奈多喜男『最後の特派員』朝日ソノラマ 1988年7月、ISBN 978-4-257-17205-5
- ^ a b c 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.267
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.265
- ^ "… the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander …"
- ^ The ultimate form of government of Japan... 原文でもgovernmentは無冠詞である(プログレッシブ英和中辞典(第4版) government)。
- ^ “The Decision to Use the Atomic Bomb” by Henry Stimson
- ^ August 10, 1945 Truman Diary
- ^ 山下祐志 1998, pp. 6.
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 219 / 85%.
- ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 471頁
- ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 473頁
- ^ 山下祐志 1998, pp. 7.
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.274
- ^ 新人物往来社 1995, p. 166.
- ^ a b 岩田重則『「玉音」放送の歴史学: 八月一五日をめぐる権威と権力』青土社、2026年6月26日、143-,170頁。
- ^ 角田房子 1980, p. Kindle5159.
- ^ 半藤一利 2006, p. 66.
- ^ 阿部牧郎 2003, p. 461.
- ^ 半藤一利 2006, p. 68.
- ^ 伊藤正徳・5 1961, p. 284.
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.275
- ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
- ^ 半藤一利 2003, p. 520.
- ^ a b c “命 (終戦に関する書類)、官報(号外)”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 井 澗 裕. “占守島・1945年8月”. 北海道大学 スラブ・ユーラシア研究センター. 2023年7月24日閲覧。
- ^ 叢書九八432a
- ^ a b “命 巻21 3部の内2号 (4)”. 国立公文書館 アジア歴史資料センター. 2023年7月25日閲覧。
- ^ 山田朗「日本の敗戦と大本営命令」『駿台史學』第94巻、明治大学史学地理学会、1995年3月、132-168頁、CRID 1050845762305962624、hdl:10291/1641、ISSN 0562-5955、NAID 120001439091。
- ^ “指 巻14 第2525号~2556号”. 国立公文書館 アジア歴史資料センター. 2023年7月25日閲覧。
- ^ NHKスペシャル取材班 編『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』(株)KADOKAWA、2019年10月25日。
- ^ Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Library of Congress Catalogue Card # 67-27047, p.239
- ^ “「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男 : 読売新聞”. 読売新聞. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『占領下の津京』佐藤洋一 p.25(河出書房新社)2006年
- ^ 「厚木でマッカーサーを出迎えた「太平洋戦争きっての名作戦家」2021年9月6日」 - 2021年9月6日 譚璐美 JBpress
- ^ 『占領下の東京』佐藤洋一 p.24(河出書房新社)2006年
- ^ 外務省
- ^ 『占領下の東京』佐藤洋一 p.84(河出書房新社)2006年
- ^ 「大日本帝国の興亡5」ジョン・ト―ランド著 早川書房 P.328
- ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
- ^ 「大日本帝国の興亡5」ジョン・ト―ランド著 早川書房 P.318
- ^ 「私を通り過ぎたスパイたち」佐々淳行著 文藝春秋 P.178
- ^ 石川真澄 『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書、6ページ
- ^ a b c d 石川真澄 『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書、7ページ
- ^ a b c d e f 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書56ページ
- ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296
- ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、95-101頁。
- ^ 池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社、2007年(平成19年))、米濱泰英『日本軍「山西残留」』(オーラル・ヒストリー企画、2008年(平成20年)6月)、山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』(草思社 1994年(平成6年)、新版が光人社文庫、2006年)に詳しい、また中国山西省日本軍残留問題を参照。
- ^ 回想に小野寺百合子『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社。初版1985年)。
- ^ 情報開示により近年研究が進み、評伝に岡部伸(産経新聞編集委員)による『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書、2012年)、『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官小野寺信の流儀』(PHP研究所、2014年)がある。
- ^ 小野寺工作を元に、作家の佐々木譲が小説で『ストックホルムの密使』(新潮社、のち新潮文庫)を著し、1995年(平成7年)10月に、NHKでドラマ放送(前・後)された。
- ^ 岡本・加瀬のルートによるスイスでの活動は、竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ1945夏』(文春新書、2005年)に詳しい。著者は『月刊文藝春秋』、『諸君!』などの編集者で、昭和史関連の著作編集を行っている。なお、岡本・加瀬と藤村は別個に活動しており、お互いの活動をほとんど知らなかったとされる。
- ^ 有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作 ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮選書、2015年)では、藤村の和平工作に否定的な見解を述べている。
- ^ 藤村=ダレス工作を元に、作家の西村京太郎が小説『D機関情報』(講談社)を著し、『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』(主演役所広司、1988年)で映画化された。
- ^ 「占領の瞬間生々しく 降伏式の写真見つかる」デーリー東北新聞社オンライン(2010/03/11)[2]
- ^ a b “日本軍の降伏文書 公開 沖縄市が終戦70年展”. 琉球新報. (2015年8月19日) 2016年5月27日閲覧。
- ^ “9月7日 沖縄での降伏調印式 (1945年)”. 沖縄県公文書館. 2016年5月28日閲覧。
- ^ “独立混成第5旅団(桐)l”. アジア歴史資料センター. 2018年12月21日閲覧。
- ^ “Second Instrument of Surrender Document”. Lillian Goldman Law Library. 2018年12月21日閲覧。
- ^ “Instrument of Surrender, Rabaul”. National Archives of Australia. 2018年12月21日閲覧。
- ^ 別巻は「終戦を問い直す シンポジウム」栗原健ほか編、江藤淳解説, 1980。
- ^ 時事及び図書センター版は、回顧談「終戦の表情」(労働文化社, 1946)を収録
- ^ 終戦・占領での当事者・その親族13名へのインタビュー