随郡

随郡(隨郡、隋郡、ずい-ぐん)は、中国にかつて存在した晋代から初にかけて、現在の湖北省随州市一帯に設置された。

概要

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288年太康9年)、司馬邁が随郡王に封じられ、義陽国随県平林県を分割して随郡が立てられた[1]。随郡は随郡は荊州に属し、郡治は随県に置かれた。

454年孝建元年)、随郡は郢州に転属した。464年永光元年)、随郡は雍州に転属した。469年泰始5年)、随郡は再び郢州に転属した。476年元徽4年)、随郡は司州に転属した。478年昇明2年)、南陽王劉翽が随郡王に改封され、さらに随陽郡王と改められたのにともない、随郡は随陽郡と改められた。南朝宋のとき、随陽郡は随陽永陽厥西西平林の4県を管轄した[2]

南朝斉が建てられると、随郡の称にもどされた。斉の随郡は随・永陽・厥西・安化の4県を管轄した[3]

549年大統15年)、西魏楊忠長孫倹らが南朝梁から随郡を奪った[4]。西魏の随郡は并州に属し、後に隋州に転属した。

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、随郡は廃止されて、隋州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、隋州が漢東郡と改称された。漢東郡は土山唐城安貴順義・平林・上明光化の8県を管轄した[5]

620年武徳3年)、唐により漢東郡は隋州と改められた。742年天宝元年)、隋州は漢東郡と改称された。758年乾元元年)、漢東郡は随州と改称された[6]

脚注

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  1. ^ 晋書』宗室伝
  2. ^ 宋書』州郡志二
  3. ^ 南斉書』州郡志下
  4. ^ 周書』文帝紀下
  5. ^ 隋書』地理志下
  6. ^ 旧唐書』地理志二