鬱林郡
鬱林郡(うつりん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋代にかけて、現在の広西チワン族自治区中部に設置された。
概要
[編集]紀元前111年(元鼎6年)、前漢が南越国を滅ぼすと、鬱林郡が置かれた。鬱林郡は交州に属し、布山・阿林・安広・広鬱・中留・桂林・潭中・臨塵・定周・増食・領方・雍鶏の12県を管轄した。王莽のとき、鬱平郡と改称された[1]。
後漢が建てられると、鬱林郡の称にもどされた。鬱林郡は布山・阿林・安広・広鬱・中溜・桂林・潭中・臨塵・定周・増食・領方の11県を管轄した[2]。
264年(永安7年)、呉により交州東部を分割して広州が置かれると、鬱林郡は広州に転属した。
晋のとき、鬱林郡は布山・鬱平・阿林・安広・新邑・晋平・始建・領方・武熙の9県を管轄した[3]。
南朝宋のとき、鬱林郡は布山・鬱平・阿林・建安・建初・安始・新邑・賓平・新林・竜平・懐安・綏寧・晋平・帰化・中冑・領方・威化の17県を管轄した[4]。
南朝斉のとき、鬱林郡は布山・鬱平・阿林・建安・始集・賓平・新林・竜平・懐安・綏寧・晋平・帰化・中冑・領方・威化の15県を管轄した[5]。
隋が南朝陳を滅ぼすと、590年(開皇10年)に南定州は尹州と改称された。606年(大業2年)、尹州は鬱州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、鬱州は鬱林郡と改称された。鬱林・鬱平・馬度・阿林・石南・桂平・寧浦・楽山・嶺山・安城・領方・宣化の12県を管轄した[6]。
621年(武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、鬱林郡は南尹州(後の貴州)・簡州(後の横州)・南方州(後の澄州)・繡州・南晋州(後の邕州)に分割され、鬱林郡の呼称は姿を消した[7]。