伊藤貞次
伊藤 貞次[1][2](いとう ていじ[3]、1878年(明治11年)1月17日[4] - 1943年(昭和18年)[5])は、日本の実業家、政治家。第15代広島市長[6][7][8]。広島商工会議所顧問[9][10][11]。
元キャンディーズのメンバーで女優・歌手の伊藤蘭は曽孫[12][13]、俳優の水谷豊は伊藤蘭の夫、女優の趣里は玄孫にあたる。
経歴
[編集]新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身[6][8]。伊藤東蔵の長男[4][14][15]。早くに父を亡くし、一家は困窮する[3]。母の実家・渡邊家に身を寄せる[3]。農作業に精を出す[3]。
1896年、家督を相続する[4][14][15]。1897年3月、東京数学院中学全科を卒業[6][8]。鉄道局運輸課傭[6]、北海道庁事業手[2]。1899年7月、大蔵省文官普通試験に合格、同年8月北海道庁鉄道書記試験に合格[6][8]。1905年7月、早稲田大学専門部法律科を卒業[4][6][10][14][16]。北海道庁、農商務省、富山県各属を歴任[14][15]。
富山、宮城、山形各県理事官を経て[9]、1921年に函館区助役となり[8]後区制廃止に依り函館市助役に就任する[14][15]。1926年、広島市助役に転じる[14][15]。1930年5月16日に広島市長に就任する[7]。
市長の任期中、1932年に宇品港は広島港と名を改め、同年太田川改修工事が、1933年に広島港修築が始められ、1934年頃から工業港建設の声が高まる[6]。1934年5月15日に退任する[7][8]。全国市長会会長をつとめ、会長を辞して以後は幹事になる[2]。
満洲に土地建物事業を経営する[14][15]。東京吉祥寺に大邸宅を建てる[3]。
職歴
[編集]- 1897年7月 - 鉄道局運輸課傭[6][8]。
- 1898年10月 - 北海道空知支庁第二課事業生[6][8]。
- 北海道庁属より農商務省属[6][8]。
- 1914年3月 - 富山県属に転じ勧業課長[6][8]。同年5月富山県理事官勧業課長に任じ、次いで宮城県勧業課長、山形県商工課長兼林務課長[6][8]。
- 1921年9月 - 函館区助役[6][8]。
- 1926年12月 - 広島市助役[6][8]。
- 1930年5月 - 広島市市長[6][8]。
人物
[編集]疑獄
[編集]『中国新聞』は「1934年2月18日、広島市土木疑獄事件を取調中の検事局は、この日錦華人絹誘致について謝礼金を受け取った疑いで市長伊藤貞次の出頭を求める」と報じた[17]。
また『中国新聞』は同年3月13日に「錦華人絹からの一万円分配問題を端緒として疑獄事件が拡大波及するにつれ、伊藤広島市長に対する刑事上の嫌疑は太田川改修同盟会の二千円行方不明問題および藤田一郎氏からの一千円借用問題の二点に対しても向けられるにいたり、十二日も病床へ召喚命令が発せられるなど身辺急をつげるにいたったので、予算市会において倒れるまで市長としての責務を果すとて悲壮な決意を固めていた伊藤市長も松坂市会議長など市会幹部および黒河収入役、中川文書課長らとも相談の上、ついに辞意を決し、十二日午後八時黒河収入役に辞表を託して松坂市会議長の手元に提出した」と報じた[18]。
人柄
[編集]趣味は読書、野球[1]。宗教は禅宗[9][10][11][14][15]。住所は広島県広島市水主町[1][4][10][11]、西平塚町[14][15]、大連市長春台[14][15]。
家族・親族
[編集]- 伊藤家
- 父・東蔵[4][10][14]
- 母・タカ(1854年 - ?、新潟、渡邊半四郎の三女)[4][14]
- 長男・太郎(1901年 - 1956年、川崎市役所勤務、伊藤蘭の祖父)[14][15] - 尋常中学校を卒業後は油絵などを描き、暮らしていた[3]。無職だったが、奈良村ハマと結婚する[13]。1922年に英邦(伊藤蘭の父)が生まれると気持ちを改め、法政大学で経済を学んで、卒業後は川崎市役所に勤める[3]。市役所を辞めて、油絵に没頭する[13]。画家としての雅号は、「伊藤蘭」[3]。
- 男・貞彦(1907年 - ?、伊藤土地建物事務所主任)[14][15]
- 二女[9][14]
- 養子・榮(1908年 - ?、新潟、渡邊逸作の二女)[4][15]
- 孫[14]
- 親戚
- 略系図
伊藤東蔵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊藤貞次 | 奈良村正則 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊藤太郎 | ハマ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊藤英邦 | 八重子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
水谷豊 | 伊藤蘭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
趣里 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ a b c 『広島県紳士録 昭和8年版』広島市4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月4日閲覧。
- ^ a b c 『都市公論 14(1)』106頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “ファミリーヒストリー 伊藤蘭〜“蘭の花”親子3代の秘話〜”. NHK (2023年8月25日). 2023年9月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第10版 上』イ76 - 77頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月4日閲覧。
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、343頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本の歴代市長 市制施行百年の歩み 第3巻』91頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月14日閲覧。
- ^ a b c 歴代広島市長広島市サイト。2022年4月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『新修広島市史 第7巻(資料編 第2)』549頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月8日閲覧。
- ^ a b c d e 『越・佐傑人譜 昭和14年度版』い11 - 12頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年2月19日閲覧。
- ^ a b c d e 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』59頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月10日閲覧。
- ^ a b c 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』広島3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年2月18日閲覧。
- ^ 水谷豊・伊藤蘭夫妻、広島市長と懇談 映画「少年H」PRで来広(2013年7月29日)、中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター。
- ^ a b c d “ファミリーヒストリー 伊藤蘭〜“蘭の花”親子3代の秘話〜”. TVでた蔵. ワイヤーアクション (2023年8月25日). 2023年9月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『人事興信録 第13版 上』イ68頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第12版 上』イ79頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月8日閲覧。
- ^ 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』専門部法律科 明治三十八年度得業197頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月10日閲覧。
- ^ 『新修広島市史 第5巻 本編 "年表、索引、地図、編纂沿革"』224頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月9日閲覧。
- ^ 『広島市議会史 新聞資料編』568頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月20日閲覧。
参考文献
[編集]- 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』早稲田大学校友会、1923 - 1924年。
- 都市研究会編『都市公論 14(1)』都市研究会、1931年。
- 『広島県紳士録 昭和8年版』西日本興信所、1933年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 日本風土民族協会編『越・佐傑人譜 昭和14年度版』日本風土民族協会、1938年。
- 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社ほか、1943年。
- 『新修広島市史 第7巻(資料編 第2)』広島市、1960年。
- 『新修広島市史 第5巻 本編 "年表、索引、地図、編纂沿革"』広島市、1962年。
- 『広島市議会史 新聞資料編』広島市議会、1985年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 市制施行百年の歩み 第3巻』歴代知事編纂会、1985年。