田部正壮
田部 正壮[1](たなべ まさたけ[2]、1849年12月21日(嘉永2年11月7日)[3] - 1939年(昭和14年)9月21日[4])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[5]。第12代広島市長[2]。維新後の族籍は広島県士族[3][5]。
経歴
[編集]安芸国(現広島県)出身。田部友蔵の長男[3]。1868年(明治元年)、戊辰の役に芸藩の一卒として東征軍に従う[1]。1872年(明治5年)、陸軍歩兵少尉心得に任ぜられる。西南戦争では教導団の引率をつとめた[6]。近衛歩兵第4連隊第1大隊長、近衛副官を経て[7]、日清戦争時には近衛師団兵站官を務め[8]、後に台湾総督府副官に転じた[9]。
1896年(明治29年)9月25日、歩兵第2連隊長[10]に歩兵中佐で任命され、翌年10月11日に歩兵大佐[11]に昇進した[3]。1903年(明治36年)7月2日、少将に昇進[12]。日露戦争では第8師団隷下の歩兵第16旅団長として黒溝台会戦に参戦[13]。さらに第3師団に属し歩兵第5旅団長を務め[14]、奉天会戦に参戦した[13]。戦後の1907年(明治40年)11月7日に中将に補せられ、同時に後備役編入となった[15]。
1917年(大正6年)10月8日から1921年(大正10年)10月7日まで広島市長を務めた[2]。
人物
[編集]趣味は漢詩、和歌、俳句、彫刻、陶器、絵画[1]。住所は広島県広島市字段原村[3][16]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)10月31日 - 従六位[17]
- 1892年(明治25年)3月11日 - 正六位[18]
- 1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[19]
- 1907年(明治40年)11月7日 - 従四位[20]
- 1939年(昭和14年)9月21日 - 正四位[21]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[22]
- 1896年(明治29年)4月11日 - 功四級金鵄勲章・勲三等瑞宝章[23]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[24]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[25]
家族・親族
[編集]- 田部家
『広島県誌』によると「田部家は祖先の田部正光が初めて浅野家に仕えた。以来代々藩士である。正壮はその八代の嫡嗣である。」という[1]。
- 父・友蔵(広島県士族)[3] - 藩命により砲術火薬の製造に従事する[1]。
- 妹
- 妻・とら(1864年 - ?、広島県士族・成川峰之進の妹)[3]
- 男・章一(1883年 - ?)[3]
- 男・浩[3](1888年 - ?、医学博士[1]、病理学者、岡山大学教授)
- 男・馨(1897年 - ?)[3][16]
- 男・威(1898年 - ?)[3]
- 男・實(1899年 - ?)[3]
- 男・修(1900年 - ?)[3]
- 男・豊(1902年 - ?)[3]
- 九男・辰(1904年 - ?)[5]
- 女・かう[3]あるいはカウ[5](1891年 - ?)
- 女・喜代子(1893年 - ?)[3]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『広島県誌』857 - 858頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月15日閲覧。
- ^ a b c 歴代広島市長広島市サイト。2022年4月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『人事興信録 初版』た446-447頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年10月15日閲覧。
- ^ 「故陸軍中将田部正壮位階追陞ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114798100
- ^ a b c d 『人事興信録 第3版』た14頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月6日閲覧。
- ^ 「3月14日 教導団伍長420名引率の井上大尉他差遣の事 浅井中佐」 アジア歴史資料センター Ref.C09081824300
- ^ 『官報』第2113号、1890年7月16日。
- ^ 「陸路河川海路輸送の景況」 アジア歴史資料センター Ref.C06060330600
- ^ 「27.10.30 台湾田部副官 臨時台湾鉄道隊付技手2名辞令の件」 アジア歴史資料センター Ref.C06061695800
- ^ 『官報』第3976号、明治29年9月28日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』38頁。
- ^ 『官報』第6000号、明治36年7月3日。
- ^ a b 『日本陸軍将官辞典』463頁。
- ^ 「師団長へ衛生訓示の件」 アジア歴史資料センター Ref.C03026976900
- ^ 『官報』第7310号、明治40年11月8日。
- ^ a b 『日本紳士録 第24版』広島13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年9月28日閲覧。
- ^ 『官報』第723号「賞勲叙任」1885年11月27日。
- ^ 『官報』第2607号「叙任及辞令」1892年3月12日。
- ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
- ^ 『官報』第7310号「叙任及辞令」1907年11月8日。
- ^ 『官報』第3821号「叙任及辞令」1939年9月28日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1896年4月23日。
- ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903-1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。
- 交詢社編『日本紳士録 第24版』交詢社、1919年。
- 『広島県誌』自治調査会、1932年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
軍職 | ||
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先代 松永正敏 | 歩兵第2連隊長 第8代:1896.9.25 - 1903.7.2 | 次代 渡辺騏十郎 |
先代 木村有恒 | 歩兵第16旅団長 第?代:1903.7.2 - 1905.1.14 | 次代 鎌田宣正 |
先代 山口圭蔵 | 歩兵第5旅団長 第8代:1905.1.14 - 1907? | 次代 ? |