膳桂之助
膳 桂之助 ぜん けいのすけ | |
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生年月日 | 1887年7月21日 |
出生地 | 群馬県伊勢崎市 |
没年月日 | 1951年11月25日(64歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学卒業 |
前職 | 日本団体生命保険社長 |
所属政党 | (研究会→) 無所属 |
称号 | 従三位 勲三等瑞宝章 法学士(東京帝国大学) |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年8月12日 - 1947年1月31日 |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年7月23日 - 1946年8月12日 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1946年6月8日 - 1947年5月2日 |
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年7月21日 - 1951年11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)を歴任した。
概要
[編集]第1次吉田内閣で国務大臣 (無任所)を務めた。日本国憲法の制定にあたって国務大臣として参与し、連署している。従三位勲三等瑞宝章。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1900年、旧制前橋中学(群馬県立前橋高等学校)に入学したが、教員追放運動に参加し、中退した。その後、正則英語学校、立教中学校(立教池袋中学校)に移った。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学(東京大学法学部)独法科に入学した。
官界
[編集]1914年、大学を卒業し農商務省に入省した。商工局属[1]。官僚時代には健康保険法の立案に携わり、その成立に尽力した。その後、1926年に農商務省を退職し、日本工業倶楽部に転じた。
財界
[編集]1933年の日本団体生命保険の設立に携わり、専務や社長を歴任した。1937年には第23回国際労働機関の総会に出席した。1943年には産業報国連盟の理事に就任した。
政界
[編集]1946年、中央労働委員会使用者委員に就任し、6月8日には貴族院議員に就任した[2]。また、吉田茂に請われて第1次吉田内閣の国務大臣として入閣し、経済安定本部総務長官、物価庁長官として終戦後の混乱の収拾に尽力した。
1947年、第1回参議院議員通常選挙にて、全国区から無所属で立候補した。26万票以上を集め当選圏内に入ったが、連合国軍最高司令官総司令部の公職追放の憂き目に遭い、当選を返上した。墓所は多磨霊園。
略歴
[編集]- 1887年 - 群馬県伊勢崎市にて誕生。
- 1914年 - 農商務省入省。
- 1926年 - 農商務省退官。
- 1942年 - 日本団体生命保険社長。
- 1943年 - 産業報国連盟理事。
- 1946年 - 中央労働委員会委員。
- 1946年 - 貴族院議員。
- 1946年 - 国務大臣(無任所)。
- 1946年 - 経済安定本部総務長官、物価庁長官。
- 1951年 - 死去。
脚注
[編集]関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 (創設) | 経済安定本部総務長官 初代:1946年 - 1947年 | 次代 石橋湛山 |
先代 (創設) | 物価庁長官 初代:1946年 - 1947年 | 次代 石橋湛山 |