鈴木恭一
鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12月29日[1][2] - 1987年(昭和62年)7月29日[1][2][3])は、大正末から昭和期の逓信官僚、政治家、俳人。参議院議員(2期)。俳号は鈴木杏一(きょういち)[2]。
経歴
[編集]神奈川県[1][2][3]出身。鈴木彦八の二男として生まれる[1]。京華中学校(現京華中学高等学校)、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した[1]。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業[1][2][3]。
同年4月、逓信省に入省し通信局書記に任官[1][3]。以後、郵務局勤務、通信事務官・伏見郵便局長、大逓局経理課長、大臣官房保健課勤務、逓信省事務官などを歴任し、1935年(昭和10年)7月から1936年(昭和11年)8月まで米国に出張した[1]。帰国して逓信書記官・電務局無線課長に就任[1]。以後、経理局主計課長、秘書課長、仙台逓信局長、東京地方逓信局長を歴任した[1][3]。
1942年(昭和17年)8月、陸軍司政長官に発令され第25軍司令部付となる[1]。同年9月、マライ軍政監部通信総局長に就任し、同電政局長を経て、1944年(昭和19年)7月に帰国し通信院業務局長に就任[1]。その後、運輸通信省企画局長、逓信院総務局長を経て、1946年(昭和21年)7月、逓信次官に就任[1][3]。1949年(昭和24年)6月、電気通信省の設置に伴い同事務次官となり、1950年(昭和25年)3月に退官した[1][2]。
1950年6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で出馬して初当選(補欠、任期3年)[4]。1953年(昭和28年)3月に参議院議員を辞職し[1]、同年4月の第26回衆議院議員総選挙に神奈川県第2区から自由党公認で出馬したが落選し、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙でも落選した[5]。1959年(昭和34年)6月の第5回通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して再選され[6]、参議院議員に通算2期在任した[2][3]。この間、参議院電気通信委員長、同逓信委員長などを務めた[2][3]。
その他、通信文化振興会理事長、日本無線通信協会会長、逓信協会会長、日本船舶通信会社社長、深夜放送社長などを務めた[2][3]。
また、富安風生、高浜虚子に師事した俳人としても知られた[2]。1981年(昭和56年)若葉賞受賞[7]。
1969年(昭和44年)春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[7][8]。
1987年(昭和62年)7月29日死去、88歳。死没日をもって従四位から正四位に叙される[9]。
著書
[編集]- 『西片町:句集』いんぱるす、1968年。
- 『後の月:句集』いんぱるす、1979年。
- 鈴木冨貴編『柿若葉:句集』いんぱるす、1990年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本近現代人物履歴事典』281-282頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『新訂 政治家人名事典』344頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』333頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』541頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』110-111頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』547頁。
- ^ a b 「鈴木 恭一」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』 。コトバンクより2023年1月4日閲覧。
- ^ 『官報』号外第53号2頁 昭和44年4月30日号
- ^ 『官報』第181469号9-10頁 昭和62年8月13日号
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会 | ||
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