浅岡信夫

あさおか のぶお
浅岡 信夫
浅岡 信夫
戦前の絵葉書
本名 浅岡 信夫
生年月日 (1899-12-15) 1899年12月15日
没年月日 (1968-11-12) 1968年11月12日(68歳没)
出生地 日本の旗 日本 広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町
出身地 日本の旗 日本 東京府東京市京橋区築地(現在の東京都中央区
死没地 日本の旗 日本 静岡県熱海市
職業 俳優映画監督映画プロデューサー
ジャンル 映画
活動期間 1925年 - 1936年
活動内容 1925年 日活大将軍撮影所入社
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浅岡 信夫
あさおか のぶお
生年月日 (1899-12-15) 1899年12月15日
出生地 日本の旗 日本 広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町
没年月日 (1968-11-12) 1968年11月12日(68歳没)
死没地 日本の旗 日本 静岡県熱海市
出身校 早稲田大学
所属政党 日本自由党
称号 従五位
勲四等旭日小綬章

日本の旗 参議院議員
選挙区 全国区
当選回数 1
在任期間 1947年 - 1950年
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浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年12月15日 - 昭和43年(1968年11月12日)は、日本俳優政治家

第二次世界大戦前、サイレント映画時代の日活スター俳優であり、映画監督プロデュースも経験、映画法の推進役も果たした。戦後、参議院議員も務めた。

来歴

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1899年(明治32年)12月15日広島県広島市大手町(現在の広島市中区大手町)のパン屋「むさし屋」の長男に生まれた[1][2][3]

東京の泰明小学校に通っていたとされ、1909年より近くの通信社で働いていた根岸寛一が小さかった浅岡を相撲で転がしたとか[4]、根岸と同僚の古野伊之助にうるさくしすぎて事務所の金庫へ閉じ込められたという[5]。(浅岡は出生地は広島だが出身地は泰明小学校のある東京市京橋区築地で現在の中央区[6])。

中学は旧制・暁星中学校(現在の暁星高等学校)とするものと[1]、旧制・広島一中(現在の広島国泰寺高校)に在籍したと書かれた文献がある[7][8]。浅岡自身は終戦後「私の郷里は広島市内でございまして、帰って来ると原子爆弾でやられて、親族あるいは親友なんかは皆倒れておるというふう」などと話している[9]。中学在学中は相撲部でならし学生横綱だった。柔道、剣道も高段の腕前で運動神経は抜群だった。早稲田大学[10]時代も相撲部に在籍する傍ら[9][11]、在学中の1920年(大正9年)〜1922年(大正11年)には、男子ハンマー投日本陸上競技選手権大会を三連覇した[12](1920年、1922年は当時の日本記録[13])。

1920年(大正9年)、広島市の広島高等師範学校で行われたアントワープオリンピックの中国予選に、投擲の広島代表として出場[14]。同年、極東選手権やり投で優勝し、日章旗を掲げる[10][15]。同じ大正9年に毎日新聞社主催による第一回全国学生相撲選手権大会に早大相撲部主将として参加し団体優勝[11]。当時の有名人であった[15]。1921年(大正11年)のラグビー早慶戦創設にも関与しているという[16]

1925年(大正14年)、大学卒業後、相撲部出身のスポーツマンとして見込まれ、日活大将軍撮影所に入社[15]、日活新人スターとして売り出された。19本の映画に出演、岡田嘉子と共演して人気を集め[1]、一時代を築いた。

1927年(昭和2年)、人気小説『海底軍艦』シリーズを映画化した『東洋武侠団』(監督内田吐夢)で浅岡と広瀬恒美は「陸の王者・浅岡信夫」「海の王者・広瀬恒美」としてダブル主演し、映画は大ヒットした。

1928年(昭和3年)、広瀬を主演に2作を監督[17]

1931年(昭和6年)、内田吐夢の『ジャン・バルジャン』(前篇・後篇)で主役ジャン・バルジャン(伴作役) を演じて俳優業を引退[15][18]

1931年(昭和6年)、『映画国策之提唱』を著し、翌1932年(昭和7年)渡米[15]。帰国後、映画国策確立の行政機関の設置を主張。情報局の幹部、政治家とも交際をもち「映画国策建議案」の成立に牽引[19]、1933年(昭和8年)国会に提出され可決した[20]。この法案は、のち館林三喜男らの尽力により1939年(昭和14年)、映画法の制定に繋がっている。森矗昶の弟・岩瀬亮北一輝の弟・北昤吉と、とりわけ親しく1933年(昭和8年)、北とともに日本国策映画研究所製作を開設[20]

1935年(昭和10年)、多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の創立に参画[20]

1936年(昭和11年)には、日本国策映画研究所製作の映画『国防全線八千粁』をプロデュース、日活が配給して公開している[17]1930年代後半に築地で料理屋を経営[9]。その後、日支事変たけなわの中国に渡る[15]大陸に十年余滞在し、敗戦により1946年(昭和21年)12月、上海から引き揚げ[9][15]。海外同胞引揚の救済運動に尽力[21]

1946年(昭和21年)、プロ野球球団・セネタース野球協会の身売り話を小西得郎と共に仲介[22][23]東急社長・五島慶太に野球を薦めたのは東急が経営していた強羅ホテルの支配人・猿丸元の友人浅岡であり、浅岡は広島一中時代の親友であった東急の専務黒川渉三を通じて五島に会い、話をまとめたという[7]

1947年(昭和22年)、日本自由党から第1回参議院議員選挙に立候補し当選[10][15]、俳優出身初の議員となる[15]。1949年(昭和24年)、第3次吉田内閣厚生政務次官を務めた[15][24]

1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[25]

1949年(昭和24年)、広島平和記念都市建設法可決。広島の戦後復興の礎になったこの法案は、浅岡の発言がきっかけで検討が始まったものという[26]

1950年(昭和25年)、日本初の女子プロ野球創設に関与[8]。同年の参議院議員選挙で落選[27]

1968年(昭和43年)11月12日熱海の別荘で庭の手入れ中、崖から落ちて脳出血のため死亡[10][15][28]。満68歳没。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、正八位から従五位に叙される[29]。墓所は六本木墓苑。

葬儀には、政財界の大物に交じり、江守清樹郎日活常務、城戸四郎松竹社長ら、映画界の首脳が駆け付けた[15]。映画関係者は「元俳優の知り合いというより、入場税引下げなどで我々はお蔭を被っているんです。その意味では映画界のボスであり、五社の恩人なんです」と話した[15]

人物・エピソード

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若い頃は派手な言動で知られ「日本のジャズ史戦前戦後」によると、新橋ダンスホールで銀座の顔役だった鈴木健二(高峰三枝子を妻にしていた)から腹を刺された事もあった。浅岡は児玉誉士夫と親しい右翼の辻嘉六の懐刀といわれていた[7][23]。1948年(昭和23年)4月に「辻嘉六氏をめぐる政治資金の問題について」、国会で証人答弁を行なっている[9]。学生時代から徳川義親や辻に世話になっており、「自身は辻の弟子のようなもの」と話している。

1925年(大正14年)に学生横綱の浅岡がスタアとして日活京都に入社すると、所内に相撲が流行り出し、土俵が築かれた。日活京都の俳優部には相撲界から入社した元・三役力士の若太刀芳之助がいて、浅岡は一度若太刀と申し合いの勝負を組んだことがあった。が、十番勝負で一番しか勝てなかったそうで、浅岡は後年稲垣浩に「その一番も花を持たせてくれたのだろう」と語り、三役力士の強さに驚嘆していたという[30]

身長177.3 cm、体重93Kg[20]、または身長180cm、体重90Kg[1]

フィルモグラフィ

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特筆のないものは出演作である[17]

脚注

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  1. ^ a b c d 『広島スポーツ100年』、中国新聞社、1979年、p.72.
  2. ^ 『新潮日本人名辞典』、新潮社、1991年、p.29.
  3. ^ 『スポーツ人國記』、ポプラ社1934年、p.79.
  4. ^ サトウハチローの詩集『スキナヒトのうた』にはタチカンサン(根岸の旧姓が立花)のうたがあり、小柄で可愛い タチカンサン という1節がある。
  5. ^ 出典は岩崎昶『根岸寛一』(根岸寛一伝刊行会、1969年、復刊・大空社、1998年 ISBN 4756805116)と『古野伊之助』古野伊之助伝記編集委員会 1970年
  6. ^ 浅岡 信夫とは - コトバンク
  7. ^ a b c もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』](JIMMY'S STRIKE ZONEより)
  8. ^ a b 谷岡雅樹『甦る!女子プロ野球 ヒールをスパイクに履きかえて』、梧桐書院、2010年、p.152-153.
  9. ^ a b c d e 衆議院会議録情報 第002回国会 不当財産取引調査特別委員会 第15号
  10. ^ a b c d 浅岡信夫、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2009年11月9日閲覧。
  11. ^ a b 続宇治川夜話(相撲人国記) (PDF) 黄旗亭(木畑龍治郎)(たつみ第10号) 30頁 鈴木商店記念館
  12. ^ 過去の優勝者・記録 | 第96回 日本陸上競技選手権大会日本選手権男子ハンマー投優勝者
  13. ^ 早稲田がつくった日本記録 - 早稲田大学競走部
  14. ^ 『広島スポーツ100年』、p.63.71.72
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m 「タウン タレント議員第一号の死」『週刊新潮』1968年12月7日号、新潮社、15頁。 
  16. ^ 校内
  17. ^ a b c #外部リンク、「浅岡信夫」、日本映画データベース、2009年11月9日閲覧。
  18. ^ ジャン・バルジャン 前篇・後篇 | 映画 - 日活
  19. ^ 卜煥模『朝鮮総督府の植民地統治における映画政策』 早稲田大学〈博士(文学) 甲第2135号〉、2006年。hdl:2065/5282NAID 500000345313https://hdl.handle.net/2065/5282 
  20. ^ a b c d 『日本の選択(4) プロパガンダ映画のたどった道』、NHK取材班編集、角川書店、1995年、p.126-.175
  21. ^ 参議院会議録情報 第2回国会 参議院 議院運営委員会 閉会後第6号 昭和23年10月10日質問主意書:参議院ホームページ
  22. ^ 関三穂『プロ野球史再発掘4』ベースボール・マガジン社、1987年、p.12-16、70
  23. ^ a b 鈴木明『昭和20年11月23日のプレイボール』光人社、2001年、p.131-132
  24. ^ ヒストリー 1970 ヒロシマの記録1949 7月”. ヒロシマ平和メディアセンター. 中国新聞社. 2022年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月22日閲覧。
  25. ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第15号 昭和23年4月14日
  26. ^ 平成11年第 1回 2月定例会-03月03日-04号
  27. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』541頁。
  28. ^ 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.126。
  29. ^ 『官報』第12580号13頁 昭和43年11月18日号
  30. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

参考文献

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  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。

外部リンク

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