菊川凱夫
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名前 | ||||||
カタカナ | キクガワ ヨシオ | |||||
ラテン文字 | KIKUGAWA Yoshio | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1944年9月12日 | |||||
出身地 | 静岡県藤枝市 | |||||
没年月日 | 2022年12月2日(78歳没) 京都府京都市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
藤枝東高校 | ||||||
1964-1967 | 明治大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1968-1974 | 三菱重工 | 94 | (2) | |||
1976-1983 | 志太クラブ | |||||
通算 | 94 | (2) | ||||
代表歴 | ||||||
1969-1971 | 日本 | 16 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1982-1994 | 中央防犯 | |||||
1999 | アビスパ福岡 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -2022年12月2日)は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
来歴
[編集]静岡県立藤枝東高校時代に全国選手権大会で優勝した実績を持つ。明治大学を経て、1968年に三菱重工業サッカー部に加入し、サイドバックとして三菱黄金時代を支えた。また、1969年6月19日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦で日本代表として初出場した[1]。
1974年に現役を一度引退。地元に戻り家業を継ぐ。1976年、藤枝市の志太クラブに入団。静岡県社会人サッカーリーグでプレーし、1980年には選手兼任監督に就任した。
将来の日本サッカーをリードしようと1982年に創部した中央防犯サッカー部に監督として入社。部員全員がガードマンとの兼業という厳しい環境の下、着実にレベルアップを図り、1987年に静岡県全県リーグ1部優勝、東海社会人サッカーリーグ昇格を達成。更に1991年には日本サッカーリーグ2部昇格まで上り詰めた。
日本リーグのプロ化(日本プロサッカーリーグ)により、Jリーグに参加しないチームを対象としたジャパンフットボールリーグ2部(旧J2)に参加した1992年には同チームに全国規模の大会に於ける初タイトルをもたらす。1993年には1部(旧J1)入り。1995年、チームのプロ化計画により福岡市に移転した福岡ブルックス(現・アビスパ福岡)の総監督となる。1996年、指導権を清水秀彦に譲り、テクニカルアドバイザーに退いたが、1999年に監督に復帰し、2000年には総監督を担当した。
2014年、藤枝MYFCの総監督兼女子チーム監督に就任[2]。
2022年12月2日4時8分、誤嚥性肺炎のため、京都市内の病院で死去した[3]。78歳没。
所属クラブ
[編集]個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1968 | 三菱 | JSL | 12 | 2 | - | ||||||
1969 | 14 | 0 | - | ||||||||
1970 | 13 | 0 | - | ||||||||
1971 | 13 | 0 | - | ||||||||
1972 | JSL1部 | 14 | 0 | - | |||||||
1973 | 18 | 0 | |||||||||
1974 | 10 | 0 | - | ||||||||
1976 | 志太ク | 静岡県 | - | ||||||||
1977 | - | ||||||||||
1978 | - | ||||||||||
1979 | - | ||||||||||
1980 | - | ||||||||||
1981 | - | ||||||||||
1982 | - | ||||||||||
1983 | - | ||||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 94 | 2 | |||||||
日本 | 静岡県 | - | |||||||||
総通算 |
代表歴
[編集]出場大会など
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 16試合 0得点(1969-1971)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1969 | 2 | 0 | 9 | 0 | 11 | 0 |
1970 | 12 | 0 | 9 | 0 | 21 | 0 |
1971 | 2 | 0 | 9 | 0 | 11 | 0 |
通算 | 16 | 0 | 27 | 0 | 43 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1969年10月12日 | ソウル | 韓国 | △2-2 | 長沼健 | ワールドカップ予選 | |
2. | 1969年10月18日 | ソウル | 韓国 | ●0-2 | ワールドカップ予選 | ||
3. | 1970年07月31日 | クアラルンプール | 香港 | ●1-2 | 岡野俊一郎 | ムルデカ大会 | |
4. | 1970年08月02日 | クアラルンプール | 韓国 | △1-1 | ムルデカ大会 | ||
5. | 1970年08月04日 | クアラルンプール | タイ | △0-0 | ムルデカ大会 | ||
6. | 1970年08月08日 | クアラルンプール | インドネシア | ○4-3 | ムルデカ大会 | ||
7. | 1970年08月10日 | クアラルンプール | シンガポール | ○4-0 | ムルデカ大会 | ||
8. | 1970年08月16日 | クアラルンプール | チャイニーズタイペイ | ○3-2 | ムルデカ大会 | ||
9. | 1970年12月10日 | バンコク | マレーシア | ○1-0 | アジア大会 | ||
10. | 1970年12月12日 | バンコク | クメール | ○1-0 | アジア大会 | ||
11. | 1970年12月14日 | バンコク | ビルマ | ○2-1 | アジア大会 | ||
12. | 1970年12月17日 | バンコク | インド | ○1-0 | アジア大会 | ||
13. | 1970年12月18日 | バンコク | 韓国 | ●1-2(延長) | アジア大会 | ||
14. | 1970年12月19日 | バンコク | インド | ●0-1 | アジア大会 | ||
15. | 1971年07月28日 | コペンハーゲン | デンマーク | ●2-3 | 国際親善試合 | ||
16. | 1971年08月13日 | レイキャビク | アイスランド | ○2-0 | 国際親善試合 |
指導経歴
[編集]- 1982年 - 1994年 中央防犯サッカー部(1994年は中央防犯FC藤枝ブルックス):監督
- 1995年 - 2000年 福岡ブルックス/アビスパ福岡
- 1995年 総監督
- 1996年 テクニカルアドバイザー
- 1999年 監督
- 2000年 総監督
- 2014年 - 藤枝MYFC:総監督兼女子監督
監督成績
[編集]年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1982 | - | 中央防犯 | - | - | - | |||||
1983 | 静岡県中西部3部 | 優勝 | - | 予選敗退 | ||||||
1984 | 静岡県中西部2部 | 優勝 | - | 予選敗退 | ||||||
1985 | 静岡県中西部1部 | 優勝 | - | 予選敗退 | ||||||
1986 | 静岡県2部 | 優勝 | - | 予選敗退 | ||||||
1987 | 静岡県1部 | 優勝 | - | 予選敗退 | ||||||
1988 | 東海 | 優勝 | - | 2回戦 | ||||||
1989 | 2位 | - | 予選敗退 | |||||||
1990 | 2位 | - | 予選敗退 | |||||||
1991-92 | JSL | 12位 | 30 | 27 | 7 | 6 | 17 | 1回戦 | 予選敗退 | |
1992 | 旧JFL2部 | 優勝 | 18 | 38 | 12 | 2 | 4 | - | -回戦 | |
1993 | 旧JFL1部 | 9位 | 18 | - | 6 | - | 12 | - | -回戦 | |
1994 | 旧JFL | 3位 | 30 | - | 24 | - | 6 | - | -回戦 | |
1999 | J1 | 福岡 | 14位 | 30 | 28 | 10 | 1 | 19 | 2回戦 | 4回戦 |
その他
- 全国社会人サッカー選手権大会 優勝(1989年、1990年)
その他
[編集]- 漫画『ワイルド7』のエピソードのひとつ、「地獄の神話」(1974年)に、同姓同名の菊川警部というキャラクターが登場する。しかも、元サッカー選手という設定だった(サッカーマニアで知られる作者の望月三起也は、中央防犯時代からチームと親しく、同チームのキャラクターデザインも担当した)。
出典
[編集]- ^ “国際親善試合”. 日本サッカー協会. 2015年12月27日閲覧。
- ^ “2014スタッフ新体制につきまして”. 藤枝MYFC (2014年1月7日). 2014年1月7日閲覧。
- ^ J1福岡元総監督の菊川凱夫さんが死去 静岡県藤枝市出身で藤枝MYFCの総監督も - 西日本スポーツ 2022年12月2日
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 菊川凱夫 - National-Football-Teams.com
- 菊川凱夫 - WorldFootball.net
- 菊川凱夫 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 菊川凱夫 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 菊川凱夫 - J.League Data Siteによる監督データ
- 園児と人生のキックオフ 福岡市の菊川凱夫さん - 西日本新聞(2012年12月28日)