志村喬

しむら たかし
志村 喬
志村 喬
『東宝三十年史』(1963年)より
本名 島崎 捷爾
しまざき しょうじ
生年月日 (1905-03-12) 1905年3月12日
没年月日 (1982-02-11) 1982年2月11日(76歳没)
出生地 日本の旗 日本兵庫県朝来郡生野町[注釈 1]
死没地 日本の旗 日本東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院
国籍 日本の旗 日本
身長 163 cm
職業 俳優
ジャンル 演劇劇映画現代劇時代劇特撮映画サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間 1928年 - 1982年
配偶者 あり
主な作品
映画
受賞
毎日映画コンクール
男優主演賞
1950年静かなる決闘』『野良犬
紫綬褒章
1974年
勲四等旭日小綬章
1980年
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志村 喬しむら たかし[出典 1]1905年明治38年〉3月12日[出典 2] - 1982年昭和57年〉2月11日[1][5])は、日本俳優である。本名:島崎 捷爾しまざき しょうじ身長163cm[6]。実兄の島崎敬夫横浜ゴム社長を務めた人物[7]

兵庫県[1][4]朝来郡生野町[8][注釈 1]出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。

来歴・人物

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誕生から舞台俳優

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1905年(明治38年)3月12日日曜日)、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)に生まれる。三菱生野鉱業所の冶金技師をする父・島崎毛登女(もとめ[注釈 2])と、母・喜与の次男として口銀谷生野鉱山社宅(甲社宅)で育つ。祖父は土佐藩主・山内容堂小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。

1911年(明治44年)に生野尋常小学校に入学、きかん気のガキ大将だったが、その反面6年間通して優等生で過ごした。1917年大正6年)、旧制神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)に入学したが、その後父親が宮崎に単身転勤となった。また、丁度その頃の志村は軽い肺病のため2年間進級が遅れたことから、母や兄弟と共に父のもとに合流し、それに伴い宮崎県立延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)へ転校する。在学中は英語が得意で、文学に憧れて同人雑誌に加わって詩を寄稿する一方、ボート部に入り校内有数のボート漕ぎの名手として活躍する。中学3年生の頃に母を病気で亡くす[8]

同中学校卒業後の1923年(大正12年)に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職した[注釈 3]ことから学資の援助が得られなくなり、夜間の専門部英文科に転じ大阪市水道局の臨時職員として生計を立てる。

この頃、英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎シェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学の演劇研究会に参加。さらに1928年(昭和3年)には豊岡を演出家に頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団・七月座を結成する。しかし、芝居に熱中するあまり市役所は欠勤続きでついにはクビとなった。そこで大学も中退して、本格的に役者の道を目指し、七月座のプロ化を図り巡業などをするが、大赤字となり失敗した。

大阪に戻ってJOBK(NHK大阪放送局)のラジオ劇に声優として出演したり、厚紙切りなどで食いつないでいたが、それだけではどうしても生活が出来なかった。1930年(昭和5年)に豊岡の友人で、のちに東宝撮影所長になった森田信義の世話で五月信子の近代座に入り、職業俳優として舞台に出演する。以降は日本各地をはじめ、遠く上海青島天津大連釜山にまで巡業した。

しかし、この頃から同じような芝居が続いて気持ちや生活態度はすさみ、演技も惰性になっている自分に気付いたため巡業先で一座を離れ、再び大阪に戻った。1932年(昭和7年)に剣戟の新声劇や翌年に旗揚げした新選座の舞台に立つが、芝居の世界は景気が悪くなる一方だった。この頃主流になり始めたトーキー映画に舞台で鍛え上げた実績を生かせるかもと思い、映画俳優の転向を決意する。本人は「これまでの映画は無声映画で俳優は美男美女と相場が決まっていて、私の顔ではやっていけるはずがない。しかし台詞入りのトーキー映画が盛んになったおかげで、自分も主役といかないまでも脇役の出番は多くなるはず」と考えたという[8]

映画俳優へ

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1934年(昭和9年)に新興キネマ京都撮影所に入社する。サイレント映画の『恋愛街一丁目』で映画デビューした。当初は台詞の無い役がほとんどだったが、1935年(昭和10年)に伊丹万作監督の第1回トーキー作品『忠次売出す』ではじめて台詞のある役を貰う。それ以降は段々といい役がつき始め、1936年(昭和11年)には第一映画で溝口健二監督の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。

また千恵蔵プロに移籍した伊丹万作に呼ばれた『赤西蠣太』で、現代のサラリーマンのような朴訥とした侍・角又鱈之進を演じてからは、芸達者な脇役として認知され、志村自身も映画開眼した作品と述べている。

同年、松田定次に請われてマキノトーキー製作所に移籍。同社は翌1937年(昭和12年)4月に解散し、辻吉朗の口添えで同年に日活京都撮影所に移籍。1942年(昭和17年)までに100本近い作品に出演した。特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖』シリーズでのアバタの敬四郎役は、戦前の出演作品の中でも志村の当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上の主役を演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者のディック・ミネに歌手デビューを勧められたという。

しかしこの頃、かつて新劇の舞台に立っていたことから特別高等警察に京都の太秦警察署(現・右京警察署)へ連行されて20日間ほど拘留、妻・政子と俳優仲間の月形龍之介が身元引受人となり釈放される。戦後、『わが青春に悔なし』に出演した際、毒いちごと呼ばれる特高を演じるが、これはその時の経験を生かしたという。

1942年、日活と大映との合併をきっかけに退社し、興亜映画松竹太秦撮影所)に入社する。4本の映画に出演するが、しかしその後は仕事がなく、この頃に新劇を追いやられた東野英治郎小沢栄太郎殿山泰司らと生活を助け合う。当時、興亜映画は他社に俳優を貸し出しており、志村の恩人で東宝のプロデューサーの森田信義から打診されて志村も東宝の作品に出演した。1943年(昭和18年)に興亜とは契約が残っていたが、東宝に移籍。数本の戦意高揚映画にも出演している。

1945年(昭和20年)、朝鮮映画社製作の今井正監督作品『愛と誓ひ』ロケで韓国に渡る。このロケがきっかけでキムチが好物となる。この年の8月に終戦を迎えるが、実弟がこの数週間前に南方で戦病死する不幸に見舞われる。

1946年(昭和21年)、東宝オールスター映画の戦後第1作である『或る夜の殿様』にも配役されるなど、俳優としての地歩を固めていた。

戦後、黒澤映画での活躍

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左から志村、黒澤明三船敏郎(1953年)
左から黒澤明、三船敏郎、津島恵子、志村喬(1953年5月)
左から三船敏郎、志村、上原美佐(1957年)
アサヒグラフ1956年1月22日号より

黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演した[出典 3][注釈 4]

黒澤の最初期の作品では脇役を演じたが、1948年(昭和23年)の『醉いどれ天使』で主演に抜擢され、酔いどれ医者役を好演した。続いて1949年(昭和24年)には、『野良犬』で三船敏郎と組むベテラン刑事役を、『静かなる決闘』で三船の父親役を演じ、この二つの演技で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。

『醉いどれ天使』以降の作品では三船とのダブル主演の作品がほとんどだが、1952年(昭和27年)の『生きる』ではワンマン扱いで主演した。癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して好演、NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され[1]、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。1954年(昭和29年)の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、『生きる』と並び生涯の代表作とした。

生きものの記録』を最後に加齢のため主役級を降板。以後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じた。最後の黒澤映画は『影武者』である。1961年(昭和36年)には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、多くの欧米の映画人から祝辞を述べられる。

黒澤作品以外では、『ゴジラ』の山根博士役をはじめとして、主に重厚な科学者役を演じ東宝怪獣映画特撮映画に多く出演した[1][2][4]。また、天知俊一監督がモデルとされる初老のプロ野球監督を演じた『男ありて』(1955年)は黒澤作品でも特撮映画でもない志村の代表作として挙げられる。本作は映画化が危ぶまれていると聞いた志村自身が、映画化実現まで原作を守ろうとするほどの熱の入れようであった。映画化したのちもテレビドラマ化され、志村は映画とテレビでこの主役を演じた。

山田洋次監督の『男はつらいよ』の「博の父親」役でも知られ、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』や熊井啓監督の『黒部の太陽』など名匠の作品でも好演した。

晩年

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60代に入る頃から病気がちとなり、1974年(昭和49年)に肺気腫と診断されるが、それでも映画やテレビに出演を続け、入院中の同年には紫綬褒章を受章する。しかし1977年(昭和52年)ごろから病状は悪化、入退院を繰り返していた。

1980年(昭和55年)に勲四等旭日小綬章を受章。1981年(昭和56年)に映画『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』に出演。前年の撮影現場では病気を隠して役を演じきり、何とか無事に撮影を終えた[8]

1982年(昭和57年)2月11日木曜日)午後10時41分に慢性肺気腫による肺性心で、慶應義塾大学病院で死去(享年76歳)[9]

遺品は、2010年(平成22年)に東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈された。また同年には兵庫県朝来市に「志村喬記念館」が設立された。

家族

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(土佐藩士)
 
 
 
 
島崎毛登女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島崎敬夫志村喬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
男子島崎春彦

その他

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  • 田中友幸とは、関西大学の後輩であり、演劇活動時代から旧知の仲でもあった。『地球防衛軍』『大阪城物語』などの脚本家・馬渕薫(木村武)も同様であり、多数の映画で同窓トリオが組まれた。
  • 志村より8歳年下で神戸の料亭の娘だった政子と見合いをして、彼が32歳の時に結婚[8]。その後は政子夫人と仲のいい夫婦で知られたが、子どもはいなかった。
  • 志村の妹は、俳優の土屋嘉男の親戚筋に嫁いでおり、土屋は『七人の侍』で共演した際に志村から親戚であることを聞かされたという[7]。以後、土屋は志村のことを「おじちゃん」と呼んでいた[7]
  • 趣味はさまざまで、大学時代に培ったビリヤードの腕前は中々のものだった。役者になってからは馬術に関しては自分で馬を持ち、遠乗りも障害競技にも参加した。また、他にもカメラに凝ったり、小唄や弓を習ったり、40代後半からゴルフを始めるなど多趣味だった[8]
    • モスラ』などで共演した小泉博は、志村とよくゴルフをやっていたといい、志村はマナーに厳しく、色々教えられたという[10]
  • 山村聡、三船敏郎、渥美清から非常に尊敬されており家族ぐるみで親交があったといい、三船、渥美は志村を父親のように慕っていい、山村は志村を兄のように慕っていたという。渥美とは『噂の寅次郎』で、長大な二人芝居場面を演じている。
  • 映画監督の本多猪四郎とも、同じ成城に住んでいたことから家族ぐるみの付き合いがあり、本多猪四郎は志村喬の演技を「いわゆる自然体の演技の走りだったのではないか」と言い、「普段着の味わいが自分の映画には合っていた」と語っている[11][12]
  • 紅の空』で父娘役を演じた若林映子は、志村を素晴らしい俳優で人柄も最高であったと述べており、演技も自然体であったと評している[13]
  • 夏木陽介は志村と同じ自動車店を利用していた縁から、大先輩ながら家族ぐるみの茶飲み友達でもあったという[14]
  • スティーヴン・セガールは三船敏郎と共に志村喬を"尊敬する俳優"として挙げている。
  • 『わが心の自叙伝』によると若手時代、「芝居をする上で深い演技をするためには、もっと苦しまなければ私自身がダメになってしまう」と考え始めた。刑事役を演じた時は、事前に中年刑事の聞き込み調査に同行するなど実地の勉強を重ねた上で台本を繰り返し読み込んだ[8]
  • デビュー後映画を見た一般人から「実直で物静かな人物」と評されたが、実際には時に激しい感情を表すこともあった。1939年の嵐寛寿郎の主演映画『海援隊』に出演した時は、撮影中わがままや遅刻を繰り返した嵐に怒って、出演を辞めようとしたこともある[注釈 5]
  • 多くの作品で脇役を演じたが、中でも「小悪党」や「どこか憎めない男」を演じるのが好きだったという[8]
  • 映画『恐怖の時間』の撮影の合間に共演者の土屋と佐田豊が志村の肩を揉んでいたところ、佐田が頸動脈を圧迫しすぎたためか志村が意識を失って倒れた[7]。元医学生であった土屋が医者が来るまでに応急処置をしたため大事には至らなかったが、前後不覚に陥った様子の志村に2人は困り果てて立ち尽くしていた[7]。翌日、志村は心配をかけまいと童謡を歌いながら現場に入ってくるなどわざと明るく振る舞っていたが、土屋と佐田はかえっておっかなくなり離れてしまい、志村は「大丈夫だから逃げないでください」と2人に怒ったという[7]
  • 映画『コタンの口笛』のロケで北海道を訪れた際に、登別のホテルのレストランにて土屋と2人で毛ガニを食べていたところ、新婚客が無断で2人の写真を撮り始めた[7]。段々近づいて間近で撮り続けていた新婚の男に対し志村は激怒し大声で怒鳴りつけ、新婚客が退散したあとも「無断で撮るのは泥棒です。人が口を開けた時に撮るのは失礼です」と語っていたという[7]。ロケ先に戻った土屋がこのことを共演者の森雅之に語ったところ、森は「志村さんらしい」と言って大笑いしていたといい、土屋もこれを志村の一徹さを表すエピソードとして語っている[7]

出演作品

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映画

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戦前

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血煙高田の馬場』(1937年)
鴛鴦歌合戦』(1939年)左から片岡千恵蔵市川春代志村尾上華丈深水藤子遠山満香川良介服部富子…。
江戸最後の日』(1941年) 阪東妻三郎(中央)と志村(右)
  • 恋愛街一丁目(1934年、新興キネマ) - 父
  • 万五郎青春記(1934年、新興キネマ) - 倉地三平
  • 花咲く樹 前後篇(1934年、新興キネマ)
  • 忠次売出す(1935年、新興キネマ) - 御朱印の伝吉
  • 虎公(1935年、新興キネマ) - 煮豆屋宅平
  • 長崎留学生(1935年、新興キネマ) - 漁師定七
  • 姓は丹下名は茶善(1935年、新興キネマ) - 荒井弥太郎
  • 最後の江戸っ子(1935年、新興キネマ) - 喜左衛門
  • 十六夜日記(1935年、新興キネマ) - 桂小五郎
  • 嫁取り裸道中(1935年、新興キネマ) - 清水次郎長
  • 元禄村雨笠(1935年、新興キネマ) - 蛇の目の五郎蔵
  • 右門捕物帖 晴々五十三次 乱麻篇・裁決篇(1935年・1936年、嵐寛寿郎プロダクション) - 山太
  • 太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻(1936年、新興キネマ) - 稲田大炊
  • 快傑黒頭巾 後篇(1936年、新興キネマ) - 益満休之助
  • 弥太郎笠 前篇(1936年、マキノトーキー製作所) - お神楽の大八
  • 宮本武蔵 地の巻(1936年、寛プロ) - 侍大将
  • 浪華悲歌(1936年、第一映画) - 峰岸五郎刑事
  • 江戸の花和尚(1936年、マキノトーキー)
  • 赤西蠣太(1936年、日活・片岡千恵蔵プロダクション) - 角又鱈之進
  • 修羅八荒(マキノトーキー) - 瓢箪屋銀八
    • 第一篇(1936年)
    • 第二篇(1936年)
    • 第三篇(1936年)
  • 刺青奇偶(1936年、千恵プロ) - 女衒金八
  • 恋山彦 風雲の巻・怒濤の巻(1937年、日活) - 梁川甚左衛門
  • 血煙高田の馬場(1937年、日活) - 楽々亭
  • 忠臣蔵 地の巻・天の巻(1938年、日活) - 安井彦右衛門
  • 弥次㐂夛道中記(1938年、日活) - 遠山河内守
  • 鞍馬天狗シリーズ(日活)
    • 鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻(1938年) - 西郷吉之助
    • 鞍馬天狗 江戸日記(1939年) - 春日井右京
    • 鞍馬天狗 恐怖篇(1939年) - 春日井右京
    • 鞍馬天狗捕はる(1940年) - 益満休之助
    • 鞍馬天狗 薩摩の密使(1941年) - 村田襄介
  • 右門捕物帖シリーズ(日活) - あばたの敬四郎
    • 右門捕物帖 血染の手形(1939年)
    • 右門捕物帖 拾萬両秘聞(1939年)
    • 右門捕物帖 金色の鬼(1940年)
    • 右門江戸姿(1940年)
    • 右門捕物帖 幽霊水芸師(1941年)
  • 牢獄の花嫁(1939年、日活) - 東儀三郎兵衛
  • 海援隊(1939年、日活) - 英人・ガラバ
  • 鴛鴦歌合戦(1939年、日活) - 志村狂斎
  • 鍔鳴浪人(1939年、日活) - 外人シエリコフ
  • 彌次喜多 名君初上り(1940年、日活) - 圓山久太夫
  • 大楠公(1940年、日活) - 坊門清忠
  • 続清水港(1940年、日活) - 劇場支配人、小松村七五郎
  • 織田信長(1940年、日活) - 平手中務政秀
  • 海を渡る祭礼(1941年、日活) - 蟇の油の源次兵衛
  • 江戸最後の日(1941年、日活) - 榎本和泉守
  • 宮本武蔵 一乗寺決闘(1942年、日活) - 延暦寺僧秀聿
  • 母子草(1942年、松竹)
  • 海軍(1943年、松竹) - 牟田口隆夫
  • 姿三四郎(1943年、東宝) - 村井半助
  • 加藤隼戦闘隊(1944年、東宝)
  • 一番美しく(1944年、東宝) - 石田五郎

戦後

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醉いどれ天使』(1948年)
野良犬』(1949年)
生きる』(1952年)
七人の侍』(1954年)
『男ありて』(1955年)

テレビドラマ

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ドラマ以外のテレビ番組

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ラジオドラマ

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著書・関連書籍

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  • 「芝居ひとすじに」(神戸新聞社編『わが心の自叙伝 映画・演劇編』神戸新聞総合出版センター、2000年、所収)
  • 澤地久枝『男ありて-志村喬の世界』文藝春秋、1994年。
  • 『記録志村喬』黒澤明研究会(『黒澤明研究会誌』9号)、1989年。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 現:朝来市生野町。
  2. ^ 東百官表記では「求馬(もとめ)」
  3. ^ その後父はしばらくの間、事業を手掛けたが破産した[8]
  4. ^ 志村が亡くなるまでに出演していない黒澤作品は『續姿三四郎』『素晴らしき日曜日』『どん底』『どですかでん』の4作である。他に黒澤が共同監督を務めた『明日を創る人々』にも出演している。
  5. ^ 志村より嵐の方が年も芸歴も上で、日活の看板スターだったためスタッフも彼の態度を注意できずにいた。その日も遅れて現場に現れた嵐に腹を立てた志村は、被っていた撮影用のかつらを彼の顔に投げつけて「やめた!」と言って自宅に帰ってしまった。その後志村は監督の説得により嵐と和解して、撮影に復帰した。後日、志村は「あのような現場ではいい映画は作れない」との思いから、ああいう行動になってしまったとのこと[8]
  6. ^ 遺作映画。
  7. ^ 遺作テレビドラマ[1]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 東宝特撮映画全史 1983, p. 530, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  2. ^ a b c 決定版ゴジラ入門 1992, p. 163, 「第5章 これがゴジラ映画だ 出演した人たち」
  3. ^ a b c ゴジラ大百科 1993, p. 122, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  4. ^ a b c d 超常識 2016, p. 124, 「Column ゴジラ映画 俳優FILE」
  5. ^ a b c d e f 野村宏平、冬門稔弐「3月12日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、75頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  6. ^ 1955年増刊「日本映画大鑑・映画人篇」[要ページ番号]
  7. ^ a b c d e f g h i 「土屋嘉男ロングインタビュー」『キングコング対ゴジラ / 地球防衛軍』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズ VOL.5〉、1986年3月1日、152-153頁。ISBN 4-924609-16-1 
  8. ^ a b c d e f g h i j 週刊現代2022年2月12日号脇役稼業・第2回志村喬・憂き世の苦みを噛みしめてp173-180
  9. ^ 「野良犬」、「生きる」、「七人の侍」 ”よき時代”いぶし銀の味 「黒沢映画」支えた名優・志村喬さん死去(『読売新聞1982年2月12日朝刊)
  10. ^ 「インタビュー 俳優 小泉博(聞き手・友井健人)」『別冊映画秘宝 モスラ映画大全』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年8月11日、20頁。ISBN 978-4-86248-761-2 
  11. ^ 「本多猪四郎監督 長編インタビュー(2)」『ゴジラ / ゴジラの逆襲 / 大怪獣バラン』東宝出版事業部〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.3〉、1985年5月1日、234頁。ISBN 4-924609-07-2 
  12. ^ 「本多猪四郎監督 長編インタビュー(3)」『海底軍艦 / 妖星ゴラス / 宇宙大怪獣ドゴラ』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズ VOL.4〉、1985年8月1日、200頁。ISBN 4-924609-13-7 
  13. ^ ゴジラとともに 2016, pp. 134–135, 構成・文 浦山珠夫「若林映子」(『映画秘宝』2011年5月号)
  14. ^ ゴジラとともに 2016, p. 91, 構成・文 友井健人「夏木陽介」
  15. ^ a b c d e 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–538, 「主要特撮作品配役リスト」
  16. ^ ドラマ人間模様 あ・うん”. NHK. 2021年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月30日閲覧。
  17. ^ 日本演劇協会 編『年刊ラジオドラマ 第4集』宝文館、1956年、298頁。 

出典(リンク)

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参考文献

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  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 田中友幸『決定版ゴジラ入門』(第7刷)小学館〈小学館入門百科シリーズ142〉、1992年4月20日(原著1984年7月15日)。ISBN 4-09-220142-7 
  • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 
  • 『ゴジラの超常識』[協力] 東宝、双葉社、2016年7月24日(原著2014年7月6日)。ISBN 978-4-575-31156-3 
  • 別冊映画秘宝編集部 編『ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年9月21日。ISBN 978-4-8003-1050-7 

関連項目

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  • 辰巳ヨシヒロ - 漫画家。志村喬をモデルとして作品中の常連オヤジキャラクターを作った(『劇画漂流』上巻P.266参照)。またそのキャラクターはつげ義春にも流用されている。

外部リンク

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