織田信親
織田信親(1913年) | |
時代 | 江戸時代末期 - 昭和時代 |
生誕 | 嘉永3年12月25日(1851年1月26日) |
死没 | 昭和2年(1927年)10月30日 |
改名 | 英太郎(幼名)、山崎治安(初名)、織田信成、信親 |
官位 | 従五位下・出雲守、従二位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 丹波柏原藩主→柏原藩知事 |
氏族 | 近江山崎氏、織田氏(信雄系高長流) |
父母 | 父:山崎治正、母:不詳 養父:織田信民 |
兄弟 | 山崎治祇、信親、山崎治敏、京極寿吉、徳子 |
妻 | 新庄直敬の長女・詮子 |
子 | 信大 養子:彝 |
織田 信親(おだ のぶちか)は、江戸時代末期の大名。丹波国柏原藩の第10代(最後の)藩主。維新後、柏原藩知事、華族。爵位は子爵。官位は従五位下・出雲守。高長系織田家13代。
生涯
[編集]交代寄合(のち備中成羽藩主)・山崎治正の三男として誕生した。慶応元年(1865年)12月14日、柏原藩の第9代藩主・織田信民の末期養子として家督を相続する。第8代藩主・信敬は細川行芬の三男であり、信親の実父・山崎治正の継室は行芬の娘であった。こうした姻戚関係により、信親は織田家の養子に迎えられたと思われる。
慶応2年(1866年)12月18日、従五位下・出雲守に叙任する。慶応3年(1867年)11月19日、朝廷の求めに応じて上洛する。翌慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの際には、新政府軍に加わり、京都御所などの警備にあたる。小大名でありながら、かなり早い段階から新政府側に与している。
明治2年(1869年)6月22日、柏原藩知事に就任する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。明治4年(1871年)10月15日、旧領柏原において農業に従事することを願う帰農届を承認される。明治6年(1873年)2月4日、柏原の邸宅が全焼し、一族の千賀正遠の邸宅に移り謹慎する。明治9年(1876年)、宮中侍侯となる。明治15年(1882年)11月16日に宮内省に出仕、華族局に配属される。明治18年(1885年)12月28日、依願退職する。この間、明治17年(1884年)には子爵になっている。明治23年(1890年)7月22日、主猟官に就任する。大正10年(1921年)、高齢を理由に主猟官を辞職する。昭和2年(1927年)10月30日に死去、享年77。
系譜
[編集]- 父:山崎治正(1821年 - 1876年)
- 母:不詳
- 養父:織田信民(1840年 - 1865年)
- 妻:詮子 - 新庄直敬長女
- 生母不明の子女
- 次男:織田信大(1888年 - 1964年)
- 養子
- 女子:彝 - 北条氏恭の娘、北条兼次郎室
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 子爵 (柏原)織田家初代 1884年 - 1927年 | 次代 織田信大 |