織田尚長
時代 | 江戸時代初期 - 前期 |
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生誕 | 慶長元年(1596年) |
死没 | 寛永14年11月3日(1637年12月19日) |
戒名 | 林泉院殿雲巌宗光大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・武蔵守、越後守、大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
藩 | 大和柳本藩主 |
氏族 | 織田氏(長益系尚長流) |
父母 | 父:織田長益 |
兄弟 | 長孝、頼長、俊長、長政、尚長、宥諌、松平忠頼正室、湯浅直勝室、永福院殿 |
妻 | 正室:なし[1] 側室:宝樹院 |
子 | 長種、坊城俊完継室、神尾元珍正室、 甘露寺経長室、蜷川親房正室 |
織田 尚長(おだ なおなが)は、江戸時代初期から前期にかけての大名。大和国柳本藩初代藩主。尚長流織田家初代。官位は従五位下・武蔵守、越後守、大和守。
生涯
[編集]慶長元年(1596年)、織田長益(有楽)の五男として摂津国味舌村(現・大阪府摂津市)にて誕生。
慶長19年(1614年)7月3日、従五位下武蔵守に叙任する。同年12月、長益が豊臣家の重臣であったため、大坂冬の陣の終結に際して豊臣家から徳川家に人質に出される。慶長20年(1615年)4月、大坂城を退去した父・長益と共に徳川家康に御目見する[2]。
元和元年(1615年)8月12日、長益から大和式上郡・山辺郡内で1万石を分与された。始めは大泉村、次いで柳本村に陣屋を構えた。寛永3年(1626年)3月徳川秀忠に従い上洛し、同年9月徳川家光に従い参内した。寛永13年(1636年)1月8日、江戸城の石普請を命じられる。
寛永14年(1637年)11月3日、死去。享年42。法号は林泉院殿雲巌宗光大居士。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。
系譜
[編集]子女は1男4女。