織田郷広
時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 宝徳3年(1451年) |
別名 | 郷廣、常松[1] |
幕府 | 室町幕府 尾張守護代 |
主君 | 斯波氏 |
氏族 | 岩倉織田氏(伊勢守家) |
父母 | 父:織田常松[2] 前野家文書上の父:藤原将広 |
兄弟 | 郷広、久長?[2]、良信?[2]、常竹?[1] |
子 | 敏広[2]、広近[2] |
織田 郷広(おだ さとひろ)は、室町時代中期の武将。尾張国守護代。
生涯
[編集]織田教信または織田常松の子として誕生。「郷」の一字は斯波義郷から偏諱を賜ったものと推定される。
郷広の被官・坂井七郎右衛門広道(号:性通)が公卿・万里小路時房の代官と称して寺社領・本所領を横領。その後、郷広の推挙で時房は坂井を実際に代官としたが、横領行為を止めないため時房は管領・細川持之に陳情した。
嘉吉元年(1441年)、郷広はその責任を逃れるため、逐電した。
嘉吉2年(1442年)、郷広の跡を受け、次代・織田敏広(嫡男、または甥とされる。織田久広と同一人物とも)が尾張守護代となる[3]。
宝徳2年(1450年)、郷広は守護代の再任を計るため8代将軍・足利義政の乳母・今参局に働きかけ、今参局の進言で義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母・日野重子がこれに怒り、困惑した義政が赦免を反故にしたことにより断念した。幕府の後ろ盾を得ることを諦め、宝徳3年(1451年)、直接主家の斯波義健に許しを請うが受け入れられなかった。そして、将軍・義政の上意を得た甲斐常治に派遣された敏広らによって、郷広は越前国にて自害に追いやられた[4]。
異説
[編集]『前野家文書』「武功夜話」では、織田伊勢守入道常松と郷広を同一人物としてる。しかし、この文書の信憑性については諸説ある。また『建内記』の1431年(永享3年)3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあり、既に故人であり、この両者を別人としている。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『信長公記』
- 『清州町史』
- 『建内記』
- 『応仁略記』