井上準之助

井上いのうえ 準之助じゅんのすけ
濱口内閣の蔵相時代
生年月日 1869年5月6日
出生地 日本の旗 日本 日田県日田郡大肥村(現:大分県日田市
没年月日 (1932-02-09) 1932年2月9日(62歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市
出身校 帝国大学法科大学英法科卒
前職 日本銀行総裁
所属政党 (無所属→)
立憲民政党
称号 勲四等旭日小綬章
配偶者 井上チヨ

大日本帝国の旗 第23・30代 大蔵大臣
内閣 第2次山本内閣
濱口内閣
第2次若槻内閣
在任期間 1923年9月2日 - 1924年1月7日
1929年7月2日 - 1931年12月13日

選挙区勅選議員
在任期間 1924年1月9日[1] - 1932年2月9日

その他の職歴
大日本帝国の旗 第9・11代 日本銀行総裁
1919年3月13日 - 1923年9月2日
1927年5月10日 - 1928年6月12日
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井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日明治2年3月25日)- 1932年昭和7年)2月9日)は、日本政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。山本濱口第2次若槻内閣大蔵大臣に就任。貴族院議員位階従二位

生涯

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帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。

第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。

田中義一内閣外務大臣候補とされるなど立憲政友会に近い人物と目されていた。しかし、金融システムの安定と経済界の整理を推進する井上に対し、銀行の正当化を進める田中政友会は衝突し、更に田中政友会の中国政策にも井上は不満を感じていた。井上は金本位制への復帰を目指す立憲民政党濱口雄幸からの依頼で、民政党員でないにもかかわらず濱口内閣の大蔵大臣として入閣した。

1926年、環太平洋の諸国で移民や通商、人種等の問題を話し合う太平洋問題調査会が発足。井上は理事長に就任した。同調査会は前年に開催された太平洋関係調査研究会を恒久的な組織としたもので、日本のほかアメリカ合衆国オーストラリアカナダニュージーランドが参加した[2]

1929年までは、金解禁は「肺病患者にマラソン競争をさせるようなものだ」と述べていたが[3]、大臣としては緊縮財政路線を取り金解禁を実現させた。しかし、世界恐慌もあいまって日本経済はデフレーションに陥った(昭和恐慌)。濱口雄幸の退陣後に首相となった若槻禮次郎による第2次若槻内閣でも再び大蔵大臣となり、金解禁政策をあくまでも堅持した(ドル買い問題も参照)。民政党政権を支えた井上は政友会総裁を退いた先輩の高橋是清には礼を尽くした[4]が、高橋の直弟子で政友会の財政金融の第一人者となっていた三土忠造とは政敵として激しく批判を繰り広げた[5]。井上蔵相が自分の政治生命を守ることに執着したせいで、国民、特に中小企業と農民層が犠牲になった[6]ととられ、また、緊縮財政を進める中で、海軍の予算を大幅に削減した[7]ことは、海軍軍令部右翼の恨みを買い、統帥権干犯問題血盟団事件を招いた。

満洲事変が勃発すると、井上は同郷(大分)の南次郎陸相と親しいこともあって若槻首相に不拡大対応について期待されていた。しかし事変への対応が後手に回る中で、民政党の実力者で内相である安達謙蔵が協力内閣運動を推進すると外相の幣原喜重郎とともにこれに反対した。若槻内閣が内部分裂で倒れると井上財政は終焉し、高橋是清蔵相の元で積極財政を推進する政友会の犬養内閣が成立した。

野党に転落した民政党を井上はあくまでも支えた[8]元老である西園寺公望に次の内閣総理大臣候補として期待されていたという。民政党の総務を任され、第18回衆議院議員総選挙の選挙委員長も引き受けた。しかし、蔵相時代の経済の悪化などを理由に血盟団から暗殺の標的にされ、昭和7年(1932年2月9日、選挙への応援演説会場であった東京市本郷区(現在の文京区)の駒本小学校へ到着した直後に、小沼正に射殺された。青山霊園土葬で葬られ、隣には盟友であった濱口雄幸の墓がある。

日本経済聯盟会(日本経済団体連合会の前身)の結成や東洋文庫の創設に尽力。また、日本でのゴルフ普及の功労者でもあり、東京で最初のゴルフ場である『東京ゴルフ倶楽部』の設立呼びかけ人となっている。 葬儀の際、棺には白楽天詩集、端渓ののほか、ゴルフ道具一式が納められた[9]

経歴

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  • 1869年(明治2年) - 大分県大鶴村(現:日田市大肥大鶴町)に、造り酒屋「井上酒造」を営む井上清・ひな夫妻の五男として生まれた。生家[10]は、1804年創業の酒蔵であったが、7歳の時に叔父、井上簡一の養子として生家を離れている。しかし、養父の病没で11歳で家督相続したものの、すぐに実家に復籍している[11]
  • 教英中学中退[12]、上京後、成立学舎などに通う。
  • 1888年(明治21年) - 仙台第二高等中学校予科1年次入学。高山樗牛と同級で、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合う[13]
  • 1893年(明治26年) - 帝国大学英法科入学
  • 1896年(明治29年) - 帝大卒業後、日本銀行入行
  • 1905年(明治38年) - 大阪支店長
  • 1908年(明治41年) - ニューヨーク駐在
  • 1911年(明治44年) - 横浜正金銀行副頭取に就任
  • 1913年(大正2年) - 横浜正金銀行頭取に就任
  • 1919年(大正8年) - 日本銀行総裁に就任
  • 1923年(大正12年) - 第2次山本内閣大蔵大臣に就任
  • 1929年(昭和4年) - 濱口内閣の蔵相。金解禁に尽力
  • 1930年(昭和5年) - 『世界不景気と我國民の覚悟』(経済知識社)を出版
  • 1932年(昭和7年)2月9日 - 選挙運動中に血盟団員小沼正に暗殺される(血盟団事件)。

栄典

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家族

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登場する作品

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脚注

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  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
  2. ^ 「恒久的な組織として設立、理事長に井上準之助」『東京日日新聞』1926年4月7日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.384 毎日コミュニケーションズ 1994年)
  3. ^ 中村隆英『昭和恐慌と経済政策』講談社学術文庫
  4. ^ 評伝小説に、高橋義夫『高橋是清と井上準之助』学陽書房・人物文庫、2005年
  5. ^ 鈴木隆『高橋是清と井上準之助』文春新書、2012年、p140
  6. ^ 中野剛志『日本経済学新論』ちくま新書、2020年、p.300
  7. ^ 大前信也『昭和戦前期の予算編成と政治』木鐸社、2006年
  8. ^ 井上の横死が民政党の選挙資金の枯渇と総選挙での敗北をもたらしたとされている(井上寿一『政友会と民政党』中公新書、141頁)。
  9. ^ 涙さそう井上前蔵相、白楽天詩集も納棺『東京日日新聞』昭和7年2月13日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p116 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  10. ^ (株)井上酒造-日本酒と本格焼酎、大分・天領日田の蔵元 2011年現在も大分県日田市で清酒「角の井」や焼酎を製造している。生家は、「清渓文庫」として保存され、9月から11月に限って一般公開されている。
  11. ^ 杉山伸也「井上準之助研究ノート(1)」「書斎の窓」N0.610 p.39 有斐閣 2011年12月
  12. ^ 『日本近現代人物履歴事典』秦郁彦東京大学出版会、2002年。
  13. ^ 『晩翠放談』土井晩翠河北新報社、1948年
  14. ^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
  15. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  16. ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」1924年1月9日。
  17. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  18. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  19. ^ 早川隆著『日本の上流社会と閨閥』(角川書店、1983年)、179頁より
  20. ^ コトバンクより

参考文献

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関連項目

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  • 新井領一郎 - ニューヨークで井上にゴルフを教える。
  • 一万田尚登 - 日銀総裁。若いころに井上の秘書を務めたこともある。

外部リンク

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公職
先代
市来乙彦
三土忠造
日本の旗 大蔵大臣
第23代:1923年9月2日 - 1924年1月7日
第30代:1929年7月2日 - 1931年12月13日
次代
勝田主計
高橋是清
ビジネス
先代
水町袈裟六
横浜正金銀行頭取
第10代:1913年 - 1919年
次代
梶原仲治
その他の役職
先代
三島彌太郎
市来乙彦
日本銀行総裁
第9代:1919年3月13日 - 1923年9月2日
第11代:1927年5月10日 - 1928年6月12日
次代
市来乙彦
土方久徴