慶應義塾大学
慶應義塾大学 | |
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大学設置 | 1920年 |
創立 | 1858年 |
創立者 | 福澤諭吉 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 慶應義塾 |
本部所在地 | 東京都港区三田二丁目15番45号 北緯35度38分56.2秒 東経139度44分34.5秒 / 北緯35.648944度 東経139.742917度座標: 北緯35度38分56.2秒 東経139度44分34.5秒 / 北緯35.648944度 東経139.742917度 |
学生数 | 33,518 |
キャンパス | 日吉(神奈川県横浜市港北区) 三田(東京都港区) 矢上(神奈川県横浜市港北区) 信濃町(東京都新宿区) 湘南藤沢(神奈川県藤沢市) 芝共立(東京都港区) 浦和共立(埼玉県さいたま市緑区) 新川崎タウンキャンパス(神奈川県川崎市幸区) 殿町タウンキャンパス(神奈川県川崎市川崎区) 鶴岡タウンキャンパス(山形県鶴岡市) 慶應丸の内シティキャンパス(東京都千代田区) 慶應大阪シティキャンパス(大阪市北区) |
学部 | 文学部 経済学部 法学部 商学部 医学部 理工学部 総合政策学部 環境情報学部 看護医療学部 薬学部 |
研究科 | 文学研究科 経済学研究科 法学研究科 社会学研究科 商学研究科 医学研究科 理工学研究科 政策・メディア研究科 健康マネジメント研究科 薬学研究科 経営管理研究科 システムデザイン・マネジメント研究科 メディアデザイン研究科 法務研究科 |
ウェブサイト | www |
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学。1858年創立、1920年大学設置。大学の略称は慶應(けいおう)、慶応大(けいおうだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
概説
[編集]慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が1858年(安政5年)に岡見彦三の推挙による藩命から江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内の蘭学塾「一小家塾」で講師に就いたことを起源に持つ[1][2][3][4][5][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[6]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[7]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。
1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、さらに1866年(慶応2年)、親藩である紀州藩(紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[8][9][注釈 4]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。1867年(慶応3年)12月、木村摂津守の世話により芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(久留米藩)控屋敷跡を購入し、翌年の1868年(慶応4年/明治元年)4月に中津藩から預かっていた「一小家塾」[10]を移転し、新しい近代学塾として英学塾である「慶應義塾」を創設した。この創設に際しモデルとしたのは、1862年5月(文久2年4月)に文久遣欧使節としてイギリス滞在中の福澤が、医師のトーマス・チェンバースの案内で訪問した英国国教会が設立したパブリックスクールのキングス・カレッジ・スクールである[11][12][13][注釈 5]。塾名は、年号の「慶應」とパブリックスクールの訳語である共立学校を意味する「義塾」をとって定めた[11][12][注釈 6]。
1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[15][16]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった[17]。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[18]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[19]と「京都慶應義塾」(京都集書院)[20]を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。
1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎(高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所(兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正徴兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂(高島学校)や高山歯科医学院、耕余義塾、亮天社、三田英学校等がある。西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から多くの塾生が郷里に帰郷した為、慶應義塾は経営難に陥り、福澤も一時は廃塾を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は理事委員中心の組織経営へと移行した。さらに1889(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く評議員会の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。
1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設し[注釈 7]、従来の正科・別科を普通部とした。1898年(明治31年)に幼稚舎・普通学科・大学科の一貫教育体制が確立。同時に大学科に政治科を開設した。
晩年の福澤諭吉は義塾経営の第一線からは半ば退いていたが、大学部存廃問題のような重要局面では影響力を行使し、1897年(明治30年)8月から一時塾長に復帰した[21]。福澤は1901年(明治34年)2月3日に没した。同月6日に宮中から祭粢料一千円が遺族に下賜され、7日に衆議院は哀悼決議案を議決した[22]。
1904年(明治37年)に大学部が専門学校令による専門学校となり、1907年(明治40年)に学校組織が財団法人として認可された。大学部文学科は1901年(明治34年)に一度廃止されたが3年後に復活し、永井荷風を主幹として1910年(明治43年)に創刊された文芸雑誌『三田文学』は日本の文学史上に大きな足跡を残した。
卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[23]。1912年(明治45年)に煉瓦造の創立五十年紀念図書館が開館。そのゴシック式の建築美は慶應義塾のシンボルとなった。慶應義塾に理科系教育部門を開設したいという希望は福澤の存命中からあり、明治末から大正初期に工学科開設案が出たこともあったが[24]、最終的に医学科を開設することに決定し、1917年(大正6年)に北里柴三郎を学長[25]に迎えて医学科予科の授業を開始。翌年看護婦養成所(看護医療学部の起源)を附設した。
1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 8]、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部からなる総合大学となり、予科と大学院を附設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[26]、同年11月には四谷区西信濃町に慶應義塾大学病院も開院した。従来からの専門学校令による課程は高等部(当初は専門部)に改組され、1945年(昭和20年)に廃止されるまでに4,419名の卒業生を送り出した[27]。関東大震災の被害復旧の目途が立った大正末期頃から校地拡張の議が起こり、1934年(昭和9年)に日吉キャンパスを開設した。
1936年(昭和11年)に米国諸大学を視察した小泉信三塾長は工学教育の必要性を痛感し、その立案に着手したところ、塾員・藤原銀次郎も同様の企画を進め、適当な時期にこれを義塾に寄附する意向を示したため、義塾はその計画をすべて藤原に譲ることとし、1939年(昭和14年)に旧制藤原工業大学が日吉構内に開校した。その後、旧制藤原工大は当初の構想通りに慶應へ寄附され、1944年(昭和19年)に慶應義塾大学工学部となった。
太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。戦時下の空襲で三田・日吉・信濃町の各キャンパスは甚大な被害を受け、さらに終戦後まもなく米軍によって日吉を接収されたため、戦後の大学再建には大きな困難を伴った。
1949年(昭和24年)4月に新制大学が発足し、文、経済、法、工の4学部を開設。同年10月日吉キャンパスの接収が解除され、翌年から日吉での教養課程の授業を開始した。1952年(昭和27年)に新制医学部が発足。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1972年(昭和47年)工学部が矢上キャンパスに移転。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を開設。2001年(平成13年)に看護短大を改組して看護医療学部を開設。2008年(平成20年)4月に共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部・薬学研究科を設置した。
2021年(令和3年)に、高山歯科医学院を前身とする学校法人東京歯科大学と2023年(令和5年)4月を目途に歯学部統合および法人の合併に協議を開始したが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を踏まえ、統合目途を設けずに協議を継続する事とした[28]。尚、塾員小幡英之助は、1875年(明治8年)内務省より歯科専門の歯科醫術開業免許第1号を得て、築地采女町(現在の東京都京橋)に開業している。
2023年(令和5年)現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている[29]。2000年代以降に研究所や社会人教育拠点などの全国展開も行われ、丸の内・大阪の両シティキャンパス、新川崎・殿町・鶴岡の各タウンキャンパスが設けられた。
大学の特徴
[編集]塾訓、目的
[編集]慶應義塾には、『慶應義塾の目的』という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝の紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を基に、福澤自身が書き直したものである[30]。
また慶應義塾では、塾訓である「独立自尊」を教育の基本に置く。
教育および研究
[編集]「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行うという意味があり、これを念頭に置いている[31]。大きな柱は「医療」と「研究」である。蘭学から適塾(後の大阪大学)、慶應義塾医学所、北里柴三郎による伝染病研究所、北里研究所、満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、アメリカ合衆国ハーバード大学医学大学院と1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち[32]、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携、協力を行っている[33]。
太平洋戦争終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、四書五経などの研鑽を積んだのち[34]、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。
実学の精神である「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等[35]から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究まで行っており、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎない。
戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名出している。文系では、その他の官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している[36]。
近年における各国の調査による世界大学ランキングでは、イギリスの『THE世界大学ランキング』(2022年)で私立総合大学1位、中国の上海交通大学による『世界大学学術ランキング』で私立総合大学1位、アメリカ合衆国のトムソン・ロイター社による『The World's Most Innovative Universities』で私立総合大学1位と、日本の私立大学ではトップの教育及び研究力を堅持している[37]。
- 兵法
慶應義塾では新銭座時代から心身共に健康を保つ手段として学生の体育を奨励し、1892年(明治25年)の體育會(体育会)を創設[38]によって専門家を雇って指導にあたらせた。初めは乗馬が主であり、1878年(明治11年)から剣術稽古が始まり、1894年(明治27年)には神道無念流の根岸信五郎を師範に招いた。のち柔術、端艇、陸海軍操練、弓術、徒歩の各部が加わった。
1896年(明治29年)徴兵令適用により学校に兵式訓練が課せられるに至るが、これより先に慶應義塾では兵式操練が行われており、1892年(明治25年)12月、大日本帝国陸軍(旧陸軍)から銃剣その他兵器の払い下げに特別の便宜を与えられ、1897年(明治30年)には「慶應義塾生徒隊」を結成し、1898年(明治31年)春に東京府下で初めて発火演習を行った[39]。なお、1898年には陸軍の軍旗(旭日旗)を製作している高級軍装品店より特別の許可をもってこれを購入。旭日旗自体はそのままに、竿頭は塾章であるペンマーク(軍旗では菊花紋章)に、房を浅葱色(常備歩兵連隊の軍旗では紫色)に変え、さらに福澤諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれ(軍旗では連隊の隊号を記入)、翌1899年3月15日に福澤別邸において隊旗授与式が行われている[40]。
1937年(昭和12年)には「慶應義塾特設防護団」が組織され、1939年(昭和14年)には中国(当時は中華民国)の上海に研究所、北京に公館を創立。中国のほか南洋への学生研究旅行団が派遣され、1941年(昭和16年)には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。日露戦争では帝国軍人援護会を支援し、第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場、農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。
1941年(昭和16年)には各学部の選択科目として「国防学」を新設し、講師として軍事評論家伊藤正徳(1913年〈大正2年〉理財科卒)が招かれた[41]。
- 塾生皆泳
かつては、全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンの下、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍の軍人の長男(小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。
また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高等学校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
- 日吉台地下壕
戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧海軍)との間には深い関わりがある(当時の塾長は小泉信三)。1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省と海軍航空本部、海軍艦政本部の日吉台地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。太平洋戦争(大東亜戦争)における台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、戦艦大和の出撃(坊ノ岬沖海戦)などの命令はこの日吉台地下壕から発せられたものであった[42]。
ここまでの経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになった。授業では自由主義や共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため[43]、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた[44][45])。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉(幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地の海軍兵学寮や海軍主計学校に転じた者も多い。
海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、まず1943年12月の学徒出陣が挙げられる。文系学生の徴兵猶予が無くなり、在学中でも20歳に達すると徴兵されたことから、校舎のほとんどが空き教室となっていた。小泉信三の長男小泉信吉の同級生が軍令部第三部第五課に在籍しており、本土空襲に備えて移転先を探していた軍令部の依頼を取り次ぐ形で、日吉校舎の貸与を小泉学長に願い出ている。また文部省からも各大学に余裕のある建物を国に貸与するよう通達もでていたことから小泉学長もこれを承諾した[46]。
一方、連合艦隊は1944年4月に軽巡洋艦大淀を連合艦隊旗艦と定め木更津に停泊していたが、6月のマリアナ沖海戦の敗北後、司令部の陸上移転を進めることとなった。候補地には大倉山の精神文化研究所、町田の玉川学園、横浜海軍航空隊、そして日吉の慶應義塾校舎が挙がったとされている。連合艦隊司令長官豊田副武大将に通信参謀附士官が意見を求められた際に、自分が寮生として過ごした日吉の寄宿舎を推薦したところ、早速上陸して参謀長草鹿龍之介中将とともに視察した。また連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐も、親戚に塾員がいて運動会の見物で現地を知っていたことから日吉移転を強く勧めた[47]。
ここで言う慶應義塾の寄宿舎とは、1937年に完成した谷口吉郎東工大助教授の設計によるもので、鉄筋コンクリート3階建て、セントラルヒーティングと各階に水洗トイレを備えた北寮・中寮・南寮の3棟の寮舎と、炊事・浴室・娯楽室を含む別棟からなり、ローマ風呂と称された浴室からは綱島や川崎が一望できたという。寄宿舎が鉄筋コンクリート製で堅固なこと、高台で電波状態が良いことから最終的に日吉が選定され、1944年9月21日、連合艦隊司令部は日吉寄宿舎に移転、将旗を掲げた。南寮の2階に長官執務室と寝室が、中寮の1階食堂が作戦室に充てられたという[48]。
連合艦隊司令部移転に先立つ1944年8月より寄宿舎近辺より蝮谷 (まむしだに)に向けて連合艦隊司令部地下壕の建設が開始された。10月には海軍省人事局が記念館の東側に海軍人事局地下壕を建設し、完成を待つこと無く12月に海軍省経理局とともに日吉に移転、翌年2月に壕内に移転した。また線路を挟んで反対側、普通部校舎の南側、現在の日吉の丘公園のある高台にも1945年1月から艦政本部が地下壕を建設している。1945年7月、それまで第一校舎で業務していた軍令部第三部が蝮谷東側の地下壕に移転、空襲で焼け出された東京通信隊、航空本部も同居した[49]。
学風および特色
[編集]カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾であり、これは福澤諭吉の発案である[15][16]。また、古来日本の風習にはなかった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた[50]。
沿革
[編集]前史
[編集]- 寛政 9年(1797年) - 豊前国中津藩第5代藩主奥平昌高が藩校進脩館を設置。
- 天保 9年(1838年) - 緒方洪庵が大坂船場で適塾を開く[51]。
- 天保10年(1839年) - 佐久間象山が神田お玉ヶ池に象山書院(五月塾)を開く。
- 嘉永 6年(1853年) - 黒船来航。
- 嘉永 7年(1854年) - 福澤諭吉が蘭学修行を志し、長崎に赴く。
- 安政 2年(1855年) - 福澤諭吉が適塾に入る。佐久間象山門弟である中津藩江戸留守居役の岡見彦三[52]が築地鉄砲洲の藩邸内に杉亨二、松木弘安(寺島宗則)らを招いて蘭学授業を行わせる。
- 安政 4年(1857年) - 福澤諭吉が適塾の塾長となる。
- 安政古川正雄、足立寛、原田磊蔵)し、藩邸内の蘭学塾「一小家塾」の講師に就任する[1][2][3][4]。(慶應義塾の起源)。 5年(1858年) - 福澤諭吉、岡見彦三の推挙により江戸出府(従者は
- 安政横浜見物を機に英学転向を決意し、森山栄之助の英語塾に通った後、蕃書調所へ入所するが英蘭辞書を借りられず退所[1][53]。 6年(1859年) - 福澤諭吉、
- 安政7年/万延元年(1860年) - 福澤諭吉、遣米使節団に随行(第1回洋行)。
- 万延2年/文久元年(1861年) - 鉄砲洲から芝新銭座に移転。
- 文久遣欧使節団に随行(第2回洋行)。英国国教会のキングス・カレッジ・スクールを訪問し、慶應義塾設立の着想を得る[注釈 5]。 2年(1862年) - 福澤諭吉、
- 文久幕臣の吉田賢輔等を教授に迎える。 3年(1863年) - 再び鉄砲洲に移転。蘭学塾から英学塾に改め、旧
- 元治元年(1864年) - 福澤諭吉、幕府外国奉行翻訳方となる。
- 慶応 2年(1866年) - 紀州藩より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に紀州塾を建築。
- 慶応 3年(1867年) - 福澤諭吉、幕府の軍艦受取委員の随員として渡米(第3回洋行)。
慶應義塾
[編集]- 慶応4年/明治元年(1868年)
- 明治2年(1869年)
- 明治3年(1870年)
- 明治4年(1871年)
- 明治5年(1872年)
- 6月 - 初めて外国人教師として長老派教会の宣教師クリストファー・カロザースを雇い入れる。
- 8月 - 出版局(のち、出版社)開設。
- 1873年(明治6年)
- 1874年(明治7年)
- 1875年(明治8年)
- 4月 - 正則・変則両科を本科・予備とし、予備を大人・童子両科に区別。本科に数学、予備の大人科に算術を課す。
- 5月 - 三田演説館開館。
- 1876年(明治9年)
- 9月 - 本科を五等に区分し、予備科大人科を単に予備科、予備科童子科を単に童子科と改称。
- 11月 - 井上良一の発案で万來舎を設置。
- 協議社・猶興社など結成され演説、文筆活動を行う。土佐の立志学舎の運営に参画。
- 1877年(明治10年)
- 1878年(明治11年)
- 1879年(明治12年)
- 1880年(明治13年)
- 1881年(明治14年)
- 1882年(明治15年)
- 3月 - 『時事新報』創刊。
- 10月 - 物理学会創立(1884年以降断絶)。
- 1883年(明治16年)
- 1884年(明治17年)
- 2月 - 英国聖公会宣教協会の宣教師ウォルター・デニングが英語教師に就任[71]。
- 1885年(明治18年)
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)
- 1888年(明治21年)
- 2月 - 正科生による同盟休校事件発生。
- 春 - 三田ベースボール倶楽部発足。
- 第二講堂竣工[78]。
- 1889年(明治22年)
慶應義塾大学部
[編集]- 1890年(明治23年)
- 1892年(明治25年)
- 5月 - 体育会創設。
- 10月 - 最初の水上運動会を開催[74]。
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)11月 - 初めて炬火行列を行う[79]。
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 3月 - 三田理財協会発会(1899年解散)。
- 4月 - 別科廃止。
- 9月 - 学制改革を議決。主力を大学に集中し、大学卒業生の養成を目的とすることを決定(翌年5月より実施)。
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)
- 1903年(明治36年)
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)
- 4月 - 創立50年記念式典を挙行。
- 5月 - 故・福澤諭吉、帝国教育会から六大教育家の一人として顕彰。
- 6月 - 財団法人慶應義塾認可。
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 1月 - 福澤先生記念日を命日(2月3日)から誕生日(1月10日)に改める。
- 5月 - 創立五十年紀念図書館竣工(11月から一般開放)。
- 6月 - ハーバード大学のエリオット総長が来塾。
- 10月 - 亜細亜協会の図書約三千冊の委託保管を引き受ける。
- 12月 - 出版局を義塾直営とする。
- 1913年(大正2年)
- 1914年(大正3年)10月 - 明大野球部の主唱により慶早明の三大学野球連盟を結成(のちに法政大学、立教大学、東京帝国大学が加わり六大学となる)。
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 6月 - インドの詩人タゴールを迎えて講演。
- 12月 - 大学部医学科設立認可。
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)
旧制慶應義塾大学
[編集]- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 4月 - 専門部が高等試験令第八条の認定を受け、卒業生は高等文官予備試験を免除さる(文部省告示第二百九十号)。
- 11月 - 食養研究所設立(1990年廃止)。
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年/昭和元年)
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)
- 4月 - 予防医学教室竣工。
- 4月 - 福澤先生誕生地記念碑を建立(大阪)。
- 1930年(昭和5年)
- 4月 - 綱町プール竣工。
- 11月 - 第1回連合三田会大会を開催。
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)
- 1934年(昭和9年)
- 1935年(昭和10年)
- 4月 - 塾長の諮問機関として学事顧問制度を設ける(林毅陸、神戸寅次郎、川合貞一、気賀勘重が就任)。
- 6月 - 日吉予科図書室開設[110]。
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 8月 - 日吉寄宿舎竣工。
- 9月 - 三田第一校舎(大学学部用)竣工。
- 10月 - 北里博士記念医学図書館開設(1944年慶應義塾に寄贈)[57]。
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)10月 - 語学研究所設置。外国語学校を開設。
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 2月 - 学事振興資金規程制定。
- 3月 - 旧制獣医畜産専門学校廃止[131]。
新制慶應義塾大学
[編集]20世紀
[編集]- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)
- 4月 - 大学院博士課程(5研究科)を設置。
- 7月 - 海外留学制度復活[注釈 39]。
- 1954年(昭和29年)1月 - 三田キャンパスに福澤諭吉胸像を設置[137]。
- 1956年(昭和31年)
- 4月 - 大学院医学研究科(博士課程)を設置。
- 5月 - 5月15日を福澤先生ウェーランド経済書講述記念日と定める。
- 塾長・学長分離問題起こる。
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 4月 - 工学部に管理工学科を設置。
- 5月 - 三田南校舎・西校舎第一期工事竣工。三田キャンパス南門(新設)が正門となる。
- 6月 - 慶應義塾労働組合結成。
- 9月 - 慶應義塾大学産業研究所 (KEO) 開設。
- 第1回三田祭を開催[141]。
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1月 - 大学体育研究所設置。
- 4月 - 大学院商学研究科設置。新聞研究室を新聞研究所に改組[125]。
- 7月 - 福澤諭吉記念基金を設置。
- 9月 - 旧制慶應義塾大学廃止。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 4月 - 文学部社会・心理・教育学科を開設[89]。電子計算室を設置(三田)。
- 5月 - 大学病院中央棟竣工。
- 1964年(昭和39年)
- 2月 - 塾旗の規準を定める[148]。
- 4月 - 国際センター発足。
- 6月 - 芝新銭座の慶應義塾跡に福澤・近藤両翁学塾跡記念碑を建立。名誉博士規程制定。
- 1965年(昭和40年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)4月 - 研究・教育情報センター発足。
- 1971年(昭和46年)
- 3月 - 福澤邸跡地に福澤諭吉終焉之地記念碑を建立[153]。
- 10月 - 工学部機械工学科と応用化学科が矢上キャンパスに移転。
- 1972年(昭和47年)
- 1973年(昭和48年)7月 - 立科山荘開荘。
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 9月 - 中等部にてユニコン像復元[147]。
- 11月 - 独立自尊記念時計塔を建立(三田)。
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)4月 - 厚生女子学院(看護専門課程)開設、専修学校となる。月が瀬リハビリテーションセンター開設(2011年閉院)[156]。
- 1978年(昭和53年)
- 4月 - 大学院経営管理研究科設置。
- 7月 - 大学帰国子女入学規程制定。
- 第1回四谷祭を開催[141]。
- 1979年(昭和54年)4月 - 文学部史学科民族学考古学専攻設置。
- 1981年(昭和56年)4月 - 工学部を理工学部に改組(数理工学科を数理科学科に改編、物理学科・化学科を設置)。
- 1982年(昭和57年)4月 - 慶應義塾図書館(新館)開館。
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1月 - 福澤諭吉生誕150年記念式典を挙行。日吉新図書館・事務棟竣工。
- 2月 - 三田大学院校舎竣工。
- 4月 - 大学院理工学研究科開設。
- 1986年(昭和61年) - 大学病院新棟(現:2号館)開院。
- 1988年(昭和63年)4月 - 女子厚生学院を改組して慶應義塾看護短期大学看護学科が開学(募集は平成12年度まで)。
- 1989年(昭和64年/平成元年)4月 - スポーツ医学研究センター開設(日吉)[159]。
- 1990年(平成2年)4月 - 湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を新設。
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年) - 第1回秋祭 (SFC) を開催[141]。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 3月 - 三田キャンパス北館竣工。山中資料センター開設[164]。
- 4月 - 大学院政策・メディア研究科修士課程開設。大学院医学研究科(修士課程)設置。
- 1996年(平成8年)
- 1998年(平成10年)11月 - 還らざる学友の碑を建立(三田)[165]。
- 1999年(平成11年)3月 - 創想館竣工(矢上)。
- 2000年(平成12年)
- 4月 - 三田キャンパス東館竣工。「幻の門」を移設[166]。文学部5学科を人文社会学科に統一[89]。 新川崎タウンキャンパス開設。
- 第1回矢上祭を開催[141]。
- 12月 - 世紀送迎会(第2回)開催。
21世紀
[編集]- 2001年(平成13年)
- 4月 - 看護短大を看護医療学部に改組。先端生命科学研究所設立。丸の内シティキャンパス開設。福澤公園に旧制四学校(商業学校・商工学校・工業学校・高等部)記念碑を建立。
- 5月 - 鶴岡タウンキャンパス開設。
- 10月 - 総合医科学研究センター設立。
- 2002年(平成14年)
- 1月 - 日吉キャンパスに来往舎(研究棟)竣工。
- 4月 - 理工学部に生命情報学科を設置。湘南藤沢キャンパスに教職課程設置。
- 2003年(平成14年)
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 1月 - 国際連携推進機構(OGI)ならびに国際連携推進室設置[169]。
- 3月 - 三田キャンパス南館竣工。
- 4月 - 大学院健康マネジメント研究科修士課程開設。
- 2006年(平成18年)3月 - 下田学生寮開設。
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 4月 - 学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併、薬学部と大学院薬学研究科を設置。同年大学院システムデザイン・マネジメント研究科と大学院メディアデザイン研究科を開設。
- 5月 - 大阪市福島区中之島の再開発地区「ほたるまち」に「慶應大阪リバーサイドキャンパス」を設置。
- 6月 - G8大学サミット開催(北海道大学)[171]。
- 8月 - 協生館竣工(日吉)。
- 10月 - イギリスのチャールズ3世(当時皇太子)が三田キャンパスを訪問。
- 11月 - 慶應義塾創立150年記念式典にて上皇明仁・上皇后美智子が臨席、天皇が「おことば」を述べる[172]。
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)1月 - MBA連携協定を、京都大学経営管理大学院、神戸大学大学院経営学研究科の3校で締結[177]。
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)4月 - 慶應義塾図書館開館100年記念式典開催。
- 2013年(平成25年)
- 4月 - 大学部理財科発足125年を記念し、4月1日付けで慶應義塾大学経済研究所(所長:吉野直行)を設置[182]。
- 5月 - 慶應大阪シティキャンパス開設(慶應大阪リバーサイドキャンパスを移転)。
- 2014年(平成26年)3月 - 日吉塾生会館前に藤原工業大学開校の地記念碑を設置。
- 2015年(平成27年)
- 10月 - 大学部開設125年記念式典・講演会開催。
- 11月 - 野村ホールディングスと共同で、ベンチャーキャピタル・株式会社慶應イノベーション・イニシアティブ (KII) を設立[183]。
- 2016年(平成28年)4月 - 川崎市川崎区のキングスカイフロント内に殿町タウンキャンパスを開設。
- 2017年(平成29年)
- 2018年(平成30年)
- 2019年(平成31年/令和元年)
- 2020年(令和2年)
- 2021年(令和3年)
- 2022年(令和4年)
- 5月 - 医学部開設100年記念事業による慶應義塾大学病院グランドオープン[194]。
- 7月 - 綱町グラウンドが日本野球聖地・名所150選に選定される。
- 2023年(令和5年)11月 - 予防医療センターが麻布台ヒルズに移転[195]。
基礎データ
[編集]所在地
[編集]東京都と神奈川県に6キャンパスを擁するほか、全国各地にタウンキャンパスなどを展開している[196]。
- 三田キャンパス(東京都港区、北緯35度38分57.3秒 東経139度44分34.2秒)
- 日吉キャンパス(神奈川県横浜市港北区、北緯35度33分16.3秒 東経139度38分55.3秒)
- 矢上キャンパス(横浜市港北区、北緯35度33分20.8秒 東経139度39分12.8秒)
- 信濃町キャンパス(東京都新宿区、北緯35度40分56.7秒 東経139度43分04.5秒)
- 湘南藤沢キャンパス(神奈川県藤沢市、北緯35度23分17.4秒 東経139度25分38.4秒)
- 芝共立キャンパス(東京都港区、北緯35度39分31.3秒 東経139度45分05.7秒)
- 新川崎タウンキャンパス(神奈川県川崎市、北緯35度32分49.4秒 東経139度40分17.3秒)
- 殿町タウンキャンパス(神奈川県川崎市)
- 鶴岡タウンキャンパス(山形県鶴岡市、北緯38度43分37.0秒 東経139度49分20.1秒)
- 浦和共立キャンパス(埼玉県さいたま市、北緯35度54分28.5秒 東経139度41分43.1秒)
- 慶應大阪シティキャンパス(大阪府大阪市北区、北緯34度42分24.4秒 東経135度29分40.6秒)
- 慶應丸の内シティキャンパス(東京都千代田区、北緯35度40分47.7秒 東経139度45分48.9秒)
象徴
[編集]校歌
[編集]歌 | 備考 |
---|---|
慶應義塾塾歌 | 作詞:富田正文、作曲:信時潔。1940年に完成し、翌年1月三田大講堂で発表が行われた[197]。慶應義塾関係者は「塾歌」と呼び、大学のみならず、一貫教育校(高等学校、普通部、幼稚舎など)を含め、慶應義塾社中で広く歌われている。幼稚舎の授業では塾歌が扱われるため、一貫教育校出身者のほとんどが歌えるようになるが、歌えない外部の塾生も増えてきている。式典で塾歌が必要なときは全員に楽譜が配られる。酒席などで歌われることはないため、塾生同士の結婚式などでは、代わりに「若き血」が歌われる。 |
旧塾歌 | 現塾歌が制定されるまで使用された。作詞は角田勤一郎(塾員)、作曲は金須嘉之進による。1904年発表。なお、旧塾歌制定の前年に「慶應義塾之歌」(いわゆる旧々塾歌)がすでに歌われていた[198]。 |
若き血 | 若き血(わかきち)は応援歌。作詞・作曲とも堀内敬三。1927年に発表。東京六大学野球連盟の応援では1得点挙げるごとに観客が肩を組み若き血を合唱するなど、スポーツの応援では定番の曲となっている。「塾歌よりも若き血を歌える」という塾生もいる。歌詞の最後にある「陸の王者」は藤山一郎が「りくのおうしゃ(清音)」と歌っていたことから濁らないのが正式である、と塾関係者の一部ではいわれている。しかし、ほとんどの塾生・塾員は「おうじゃ」と濁音で歌っている。なお、携帯電話の着信メロディとしてダウンロードできる。 |
天は晴れたり | 作詞桜井弥一郎。ワシントン頌徳歌の替え歌[199]。初期の慶早戦以来の長命の応援歌である。 |
丘の上 | 作詞青柳瑞穂、作曲菅原明朗。1928年に発表。慶早戦に勝った時にのみ歌われる。 |
我ぞ覇者 | 我ぞ覇者は応援歌。作詞は平戸市の作詞家藤浦洸、作曲は福島市の作曲家古関裕而によるもの。1946年に発表。 |
ダッシュケイオウ | ダッシュケイオウは応援歌。1966年に発表。高校野球など慶應義塾大学とは関係ない学校でも使用される機会もある。 |
その他、戦前の六大学野球黄金期には「三田に輝く三色旗」「独立自尊は我等が誇」「Blue, Red and Blue!」「幻の門」「踊る太陽」「三色旗の下に」も作られた[200]。
校旗・校色
[編集]イエロー (Yellow■)、ブルー (Blue■)、レッド (Red■) の三色をブランドカラーとしている[201]。校旗(塾旗)はペンマークのイエローを含んだブランドカラー三色の色使いであることから、三色旗とも呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない[202]。明治27年11月26日に日清戦争における旅順口陥落の祝賀としてカンテラ行列を行った際に掲げられていたものが最初であるとされる。なお現在、大学紋章、ペンマーク、塾旗は、それぞれ特許庁に商標登録されており、慶應義塾および慶應義塾大学のサービスマークとして法的に保護されている。
紋章
[編集]エンブレムは、「ペンマーク」と呼ばれ、2つのペンを右を上にして斜めに交叉させたマークである。大学内にあるマンホールの蓋までこのシンボルマークが使われている。1990年(平成2年)、交換留学協定校である豪州クイーンズランド大学からの申し出をきっかけに、慶應義塾大学の新しい紋章が制定された。クイーンズランド大学キャンパス中庭を囲む回廊の石柱の一本一本には、それぞれ世界の著名大学の紋章が刻まれている。同大学の申し出とは、その一本に慶應義塾大学の紋章を加えたいというものであった。このような経緯により考案された新紋章のデザインは、ペンマークと塾旗の色調を基調として、英文大学名、義塾の創始年とペンマークの由来となった「ペンは剣よりも強し」という成句のラテン語表記“Calamus Gladio Fortior”から構成されている[203][注釈 43]。
マスコット
[編集]マスコットは「ユニコン」。三色旗の上に描かれたものが応援の際などに使われる[146]。慶應義塾のアメリカンフットボール部や、バスケットボール部の愛称もユニコーンズである。かつて三田山上にあった大講堂正面玄関屋上に設置されていた。ただし、その姿はガーゴイル(西洋建築の雨樋彫刻)に似ており、本来のユニコーンとは著しく異なる[147]。1975年(昭和50年)に大講堂取り壊し後に保存されていた一基のユニコン像が中等部卒業生の寄附を元に修復、中等部玄関に設置された。1978年(昭和53年)には慶應義塾商工学校同窓会によって復元像が一基寄贈された。
かつて慶早戦など東京六大学野球の応援ではミッキーマウスが応援時のマスコット・キャラクターであった。しかしながら、著作権に関する意識が変化するにつれ、ディズニー社への慮りが顕在化し、現在では誰もがこのことを顧みない(忘れられた)過去のマスコットとなっている。
赤煉瓦
[編集]赤煉瓦は長年にわたり慶應義塾の知のシンボルとして大きな役割を果たしてきたとされている。幕末に伝来した煉瓦建築は、地震国である日本では、明治・大正までの期間しか造られず、その後の災害などで多くは現存していない。そのため、赤煉瓦と花崗岩による図書館旧館は、日本人によって設計された明治末年の西洋建築として稀少な建造物である。設計・監督は曾禰達蔵と中條精一郎。三田大講堂は東京大空襲で全焼し、現在は西校舎が建っている。戦後、象徴的な赤煉瓦建築の再興を図り、2000年に東館が完成した[204]。
学部
[編集]この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
文学部
[編集]- 人文社会学科
- 蘭学塾として出発した当初から語学校としての性格を持っており、英学塾にも持ち越され、ドイツ語・フランス語の専門学を始めた。1876年(明治9年)刊行の『日本開化史』(平山果・宮内貫一編)には当時の高い世評漢詩が載っている。旧制大学時代に設置されていた文学科を新制大学時に改組して設置した学部。理財・法律と並んで慶應義塾で最も古い伝統を持つ。1910年(明治43年)に哲学、史学、文学の3専攻を興す。特徴として、入学時は全員が人文社会学科に所属し、2年進級時に17専攻を選択できるという点が挙げられる。また、三田文学会の機関誌として『三田文学』を発行し、三田文学新人賞を主催している。1921年(大正10年)創刊の『史学』をはじめ、『哲学』が1926年(大正15年)[206]、『藝文研究』が1951年(昭和26年)、『Library and information science』が1963年(昭和38年)にそれぞれ創刊され、多様な紙媒体を以て教員の研究成果を発表している。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 文学部1年生はここにて、法学部、経済学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 文学部2-4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入る。 |
経済学部
[編集]- 経済学科
- 前身の理財科は1890年に開設された。大学令による大学となった1920年(大正9年)、理財科は経済学部に改称。授業科目は経済学系統と商学系統の科目群に分類されており、1938年(昭和13年)には経済学科と商業学科が設置されたが、1946年(昭和21年)に経済・商業の2学科制は廃止された[207]。
環境経済学などの他の大学ではあまり開講されていない学問分野もある。Professional Career Programme (PCP) という、経済学教育を英語で行うということを特色としたプログラムが用意されている。授業はもとより、教員やTAとの連絡や会話も英語で行われている。これによって、英語力の強化と経済学を強みにしたキャリア構築の可能性を学生に提供している。PCPとしては、国内外の専門大学院進学の基礎となる力を身につけることを目標に掲げている。また、東京工業大学との単位互換を行っている。経済学部の生徒を対象に慶應義塾大学経済学部ハイド賞という公募論文大会が行われている。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 経済学部1,2年生はここにて、法学部、商学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 経済学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入ることで経済学研究を行う。 |
法学部
[編集]- 法律学科
- 英米法を日本語で教授する夜間法律科を旧山口藩士児玉淳一郎の発案で、1879年(明治12年)12月に日本で初めて発足させたもの(最初の講義は相馬永胤)が法律学科の源流となっている[注釈 44]。夜間法律科が専修学校(現:専修大学)として分離独立した後、1890年(明治23年)に大学部法律科として再出発し、ハーバード大学の教員を迎え入れた。なお、法学部における成績優秀者は、慶應義塾大学大学院法学研究科の入学試験が免除される。免除制度は存在しないものの、かかる成績優秀者の中には慶應義塾大学大学院法務研究科(法科大学院)へ合格・進学し、司法試験を経て法曹になる者も一定数存在する。法学研究科および法務研究科(法科大学院)については、以下の該当項目を参照。
- 政治学科
- 明治初期には塾内に「東洋議政会」が結成された。また当時日本には政治学が科目には無く「国家学」の名を持っていた。120名の専任教員を持ち、日本の政治学科としては教員数および科目数が最多である。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 法学部1,2年生はここにて、経済学部、商学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 法学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入ることで法学研究を行う。 |
商学部
[編集]- 商学科
- 1957年、慶應義塾創立100周年を機に設立。ただし、商学研究自体は、1873年に福澤諭吉がアメリカの商業学校で使用されていた『ブックキーピング』という教科書を『帳合之法』という翻訳書として発行した[208]時点まで遡る。1878年(明治11年)、商学の先駆を成した分校「三菱商業学校」(その後、明治義塾に改称)、1879年(明治12年)の「簿記講習所」では商学の教育が行われた。1935年には経済学部内に経済学科(甲科)とは別に商業学科(乙科)が開設されている[209]。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 商学部1,2年生はここにて、法学部、経済学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。 |
三田キャンパス | 東京都港区 | 商学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミもしくは専攻演習(15名前後)に入ることで商学研究を行う。 |
医学部
[編集]- 医学所
- 福澤諭吉は若い頃から西洋医学に関心を持っていた。適塾では医学、物理学の蘭学書でオランダ語を学び、医学的知識を身につけていった。 1859年、咸臨丸でアメリカに行った時、福澤はサンフランシスコで民間病院を見学した。1861年、文久遣欧使節団のメンバーとしてフランスの首都パリやドイツ帝国、ロシア帝国を訪れた時も、福澤は各地の病院施設を熱心に見学した。福澤は「西洋医学」の普及こそ日本に必要だと感じていた。
- その後、慶應義塾は幾人かの蘭方医学者・洋医を出したが(足立寛陸軍軍医総監、松山棟庵、安藤正胤、印東玄得、近藤良薫等)、医学校はまだなかった。
- 明治時代になると、西洋医学を教える医学校として「大学東校」があったが、大学東校は「ドイツ医学」の学校であった。当時の日本では、医学を学ぶならドイツ語という大きなトレンドがあったので、大学東校は「ドイツ医学」を採用したのだった。対して、慶應義塾は英語でも医学を習得できる「英国医学」の医学校を作ろうと考え、1873年(明治6年)10月、「慶應義塾医学所」を三田山上に設立した。所長は松山棟庵が就任し、杉田玄端、新宮涼園、杉田武らが教員となって英国医学の授業を行った。しかし、1880年(明治13年)6月、慶應義塾医学所は経営上の理由により廃校になった。その後、慶應義塾医学所の出身者らは長い間、金蘭会と称して時々同窓会を開いていた。また、今日の慈恵会の病院は松山棟庵、隈川宗悦ら、この医学所関係の者がのちに志を合わせて基を創ったもので、その学流は東京慈恵会医科大学に亜流の形で伝わっていることになる。
- 歯科医学
- 日本における歯科医師の第1号登録者小幡英之助や、日本最初の歯科医学教育機関の設立者高山紀齋やその継承者血脇守之助などは、いずれも慶應義塾の学窓から巣立った若者であった。明治初年の日本では、歯の治療をする者は口中科と呼ばれ、専門の教育機関も設けられていなかった。その為、歯科医たらんと志すものはまず開業歯科医師の門に入り、徒弟を勤める傍ら、師匠の技術を修得した。高山紀齋はサンフランシスコの開業医の下で修業し、帰国後、開業すると同時に多くの門下生を育成し、歯科の専門書を刊行し、明治23年1月には、伊皿子の自宅の隣地に日本における最初の歯科医学の教育機関である高山歯科医学院を創設した。門下生の血脇守之助は、新聞記者や英語の教師をした後、高山歯科医学院に入学して歯科医となり、同学院を継承して東京歯科医学院と改称した。これが現在の東京歯科大学の前身である[210]。(慶應義塾大学医学部と東京歯科大学に直接の関連があるわけではない)
- 医学科
- 1917年(大正6年)4月、慶應義塾大学部に医学科が開設され、初代の医学科学長[25][211]には北里柴三郎が就任した。北里は理想的な医学教育機関を作る為に、教授陣メンバーに北里研究所の所員を中心とする北島多一ら門下生と、秦佐八郎、志賀潔らを加え、医学科予科の授業を三田山上で開始した。同年11月、慶應義塾は四谷の陸軍用地を購入し、1919年(大正8年)4月、医学科本科1年の授業を四谷の新校舎で開始した[212]。1920年(大正9年)、慶應義塾大学部医学科は大学令により「慶應義塾大学医学部」に昇格し(医学部長は北里が続けて就任)、大学病院が新たに開院した。北里柴三郎は「予は福澤先生の門下では無いが、先生の恩顧を蒙つたことは門下生以上である。故に不肖報恩の一端にもならんかと、進んで此の大任を引受けたのである。」と語り[213]、1928年(昭和3年)まで医学部長として慶應医学部を陣頭指揮し、その後も顧問として慶應医学部を支え続けた。また、慶應義塾大学部医学科の開設の時には、皇室から三万円、三井財閥から十万円の支援金を受けた。このように慶應義塾大学医学部は私立の中では唯一旧制医学専門学校からの昇格ではない私立医学部である。1906年(明治39年)に南満州鉄道株式会社他満州国に大日本帝国が進出すると、教授・金井章次との関係から南満医学堂、満鉄衛生研究所に多くの教授を送り込んだ[214]。
- 慶應義塾大学では看護学系が看護医療学部として分かれているため、医学部に医学科のみが置かれている。慶応医学部は、6年教育であり、日吉キャンパスで主に一般教養を、信濃町キャンパスで医学を学ぶ。2001年度入学生までは信濃町キャンパスが2年の秋学期一部から(2年次の秋学期の特定曜日のみ信濃町で解剖学などの実習)だったため、旧制大学時代に倣って1,2年を予科1、2と呼び、3、4、5、6年を学1、2、3、4と呼ぶ。基礎医学と臨床医学の連携の下、患者側の視点に立った臨床のための医学の発展を目的として設立されている[215]。医学部6年生の夏休みにアメリカのメディカル・スクールに短期留学できるほか、ラテンアメリカなどの医学部での交流プログラムがある。また、低学年の間にも海外の他大学との交流会(例:韓国の延世大学校)などが用意されている。また、ロックフェラー財団からの慶應義塾への寄付は戦前戦後を通じてしばしばあり、なかでも医学部の受けた恩恵は特に大きく、昭和初年だけに限ってみても予防医学教室の建設、あるいは医学部関係の留学生派遣、いずれも同財団のフェローシップによるものであった。さらに、生物学の訪問教授招聴を準備し、それによってデューク大学の生物学教授パースら5名が来任し、医学部で講義を担当した。様々な経緯から、北里大学、東京都済生会中央病院、国立がん研究センター中央病院、国立病院機構東京医療センター、東京慈恵会医科大学、国家公務員共済組合連合会立川病院など慶應義塾とゆかりの深い医療機関が多く存在する[注釈 45]。
沿革
[編集]- 1870年(明治前田政四郎の希望により、福澤諭吉がイギリス式の医学所の開設を決定する。 3年) - 慶應義塾の塾生
- 1873年(明治慶應義塾医学所」が開設される。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を訓練の場所とした。 6年) - 慶應義塾内に「
- 1880年(明治13年) - 慶應義塾医学所が閉鎖される。
- 1916年(大正 5年) - 慶應義塾大学部に医学科の設立認可。
- 1917年(大正[注釈 46]。北里柴三郎が学長に就任[25]。 6年) - 慶應義塾大学部医学科が開設される
- 1919年(大正四谷区西信濃町に医学科新校舎を開設。 8年) -
- 1920年(大正大学令により医学科が医学部に昇格。慶應医学会発足。附属病院開設。 9年) -
- 1937年(昭和12年) - 北里記念医学図書館が創設される。
- 1952年(昭和27年) - 新制大学医学部発足。北里柴三郎の生誕100周年。
- 1967年(昭和42年) - 慶應義塾大学医学部開設50周年。
- 2001年(平成13年) - 看護医療学部が開設される。
- 2008年(平成20年) - 共立薬科大学との合併により薬学部が開設される。
- 2017年(平成29年) - 慶應義塾大学医学部開設100周年。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 医学部1年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。 |
信濃町キャンパス | 東京都新宿区信濃町 | 2年生より6年生までは、ここで臨床医学を修得する。 |
理工学部
[編集]- 藤原工業大学
- 1936年(昭和11年)、慶應義塾の塾長小泉信三はハーバード大学創立300年祝典に参列するために渡米した。そこで、小泉は各地の諸大学を視察し、急激に発展向上しつつあった工学一般の世界の趨勢を目撃し、慶應義塾も工学部設立が急務であることを実感した。これにより、当時、慶應義塾の理事であった槇智雄が中心となって工学部の設立の為の研究調査を開始することになった。一方、王子製紙の社長であり塾員でもあった藤原銀次郎は、各国の製紙工業などをつぶさに視察し、その長短を比較研究して、日本の製紙工業はもとより、日本の工業界全体の発展の為に自分は何をするべきか思いを巡らせていたが、たまたま1935年(昭和10年)、アラスカに出張した帰途、スタンフォード大学を見学し、この大学の歴史、教育、研究、大学の使命・社会貢献などに深い感銘を受けた。さらに日本国内の各大学の工学部も視察してその大学の特色を詳しく研究した。やがて、藤原は自分の思い描く理想的な工業大学を日本に設立して、それがあたかもスタンフォード大学のスタンフォードたらんとすることを密かに考えた。また、藤原はかねてより評議員として慶應義塾の教育にも深い関心を持っていた。こうして慶應義塾の意図するところと藤原の意図するところが一致した。小泉信三と藤原銀次郎との間では工業大学の設置構想について折衝が始まり、財団法人藤原工業大学の創立、その大学の教育・研究は慶應義塾が担当し、校舎は日吉の慶應義塾構内に建設することが決まった。そして、ついに、1939年(昭和14年)5月26日、国から設置の認可が下りて、同年6月17日、藤原銀次郎が理事長、小泉信三が学長、槇智雄が理事、となって「藤原工業大学」が開校した。当初は機械工学科・電気工学科・応用化学科の3学科だけの私立単科工業大学であったが、創立後、大学の一応の目的を達成した時、または藤原銀次郎が亡くなった時はこの藤原工業大学の全部が慶應義塾に寄付されることとなった。
- 理工学部(旧工学部)
- 1944年(昭和19年)に藤原工業大学は慶應義塾に寄付され「慶應義塾大学工学部」となったが、その時の日本は太平洋戦争の最中であった。1945年(昭和20年)4月、慶応の日吉キャンパスの上空には米軍の爆撃機が襲来し、工学部校舎は米軍の空襲によって多くを焼失した。終戦後、慶応の焼け残った日吉校舎、寄宿舎は米軍に接収されてしまい、大学の授業再開は不可能な状態であった。この教育的困難に直面した慶應義塾大学工学部は新たな校舎を確保してスタートしなければならなかった。1945年(昭和20年)10月、慶應義塾大学工学部は目黒の旧海軍技術研究所を仮校舎として使用し(目黒仮校舎)、翌年6月には川崎市の日本光学工業の工場を仮校舎として使用した(溝ノ口仮校舎)。1948(昭和23年)3月、慶應義塾は東京都北多摩郡小金井町にある横河電機製作所の工場の土地を取得し、翌年の1949年(昭和24年)ここを慶應義塾大学工学部の「小金井キャンパス」とした。そこは、製作所の工場をそのまま大学の校舎、研究室に転用しただけの粗末なキャンパスであったが、慶應工学部の教員、学生たちは各自手作りした工作機械、実験器具、椅子、備品、薬品、資料などを用意して日々の教育・研究活動に励んだ。その後、1957年(昭和32年)には計測工学科、1959年(昭和34年)には管理工学科が設置され、慶應義塾大学工学部は5学科体制となった。それと並行して、小金井キャンパスは北海道炭礦汽船から寄付された土地2千坪と合わせて、さらなるキャンパスの整備、拡大を目指した。しかし、一般教養課程(日吉校舎)と専門課程(小金井校舎)は地理的な距離が大きく、4年間の一体教育・研究を効果的に行うには困難であった。また、小金井の校舎は工場の建物を改修しただけのものであり、研究設備のさらなる改善も期待できなかった。高度経済成長の日本において、新しい技術革新は次々に誕生していく。それを意識して慶應義塾大学工学部の中からは東京の小金井から神奈川の日吉台へ復帰を求める声がますます増えていった。そして、ついに、1972年(昭和47年)、慶應義塾大学工学部はキャンパスを念願の日吉・矢上台へ全面移転した。役割を終えた小金井キャンパスは1992年(平成2年)までに全ての土地と施設が売却され、その資金は湘南藤沢キャンパスの建設費用に充てられた。
- 1981年(昭和56年)、慶應義塾大学工学部は「慶應義塾大学理工学部」に改組し、数理科学科、物理学科、化学科を設置した。1996年(平成8年)には、電子工学科、物理情報工学科、システムデザイン工学科、情報工学科を、2002年(平成14年)には、生命情報学科を設置した。2020年(令和2年)現在、慶應理工学部は11学科体制である。
- 慶應義塾大学理工学部のカリキュラムは、以前はI系(機械工学科、電気工学科、計測工学科、物理科)、II系(管理工学科、数理科学科)、III系(応用化学科、化学科)という「系別の入学制度」で、1年時の成績で各系の学科に振り分けられていた。しかしI系では科により定員のアンバランスがあり、特定の科に成績の悪い学生が集まる傾向があった。その弊害を無くすため、現在は「学門制度」を取り入れている。学門とは「学びの庭への入り口」という意味であり、開始当初は学門1:物理、学門2:数学、学門3:化学、学門4:機械、学門5:情報の5つの学門が用意された。2020年(令和2年)からは、学門制度がさらにリニューアルし、それぞれの学門が、学門A:物理・電気・機械分野、学門B:電気・情報分野、学門C:情報・数学・データサイエンス分野、学門D:機械・システム分野、学門E:化学・生命分野の5つの学門に変わった。学生は1年次にこれらの学門の中からいずれか1つの学門に所属する。そして、2年次に自分の希望する学科に進むことになる。この学門制度では、それぞれの学門で第2学年時に進級できる学科がそれぞれ異なり、授業の必修科目も学門によって多少の違いがある。1年次の学門で自分の進路を考え、2年次にそれぞれの特色に関係した学科に進級することは、学生の学科選択に余裕を与え、その後の学生の学習目標、研究対象を広くするメリットがある。「今ある最先端を学ぶのではなく、次の最先端を拓く基礎を学ぶ」をモットーに基礎を重視した慶應義塾大学理工学部の教育は学生たちに好影響を与えており、学部卒業生の約7割が大学院に進学している。また、理工学部のある矢上キャンパスでは研究が徹夜で取り組まれていることが多く、一晩中、研究棟の電気がよく点いている様から矢上キャンパスは「不夜城」の異名をもつ。
沿革
[編集]- 1939年(昭和14年) - 藤原銀次郎により藤原工業大学(機械工学科・電気工学科・応用化学科)が開校。
- 1944年(昭和19年) - 藤原工業大学が慶應義塾に寄付され慶應義塾大学工学部となる。
- 1948年(昭和23年) - 慶應工業会が設立される。
- 1949年(昭和24年) - 東京都の北多摩郡小金井町にキャンパスを移転する。
- 1951年(昭和26年) - 新制大学院工学研究科が設置される。
- 1957年(昭和32年) - 計測工学科を設置。
- 1959年(昭和34年) - 管理工学科を設置。また、慶應工業会を財団法人「慶応工学会」に組織変更する。
- 1972年(昭和47年) - 現在の矢上キャンパスに移転する。
- 1971年(昭和46年) - 松下幸之助氏より寄付を受け、松下記念図書館竣工。
- 1974年(昭和49年) - 数理工学科を設置。
- 1981年(昭和56年) - 工学部から理工学部に改組。数理科学科、物理学科、化学科を設置。
- 1996年(平成 8年) - 電子工学科、物理情報工学科、システムデザイン工学科、情報工学科を設置。
- 2002年(平成14年) - 生命情報学科を設置。
- 2014年(平成26年) - 慶應義塾大学理工学部が創立75周年。
- 2019年(令和元年) - 慶應義塾大学理工学部が創立80周年。藤原銀次郎翁の生誕150周年。
- 2020年(令和 2年) - 「新学門制」を導入。電子工学科を電気情報工学科に改称。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 理工学部1、2年生はここで他学部生と共に学ぶ。 |
矢上キャンパス | 神奈川県横浜市 | 矢上キャンパスは日吉キャンパスのすぐ北側に位置する。理工学部3、4年生および研究科生はここでより専門的な教育を受け、または研究活動もここで行う。 |
総合政策学部・環境情報学部
[編集]- 総合政策学科、環境情報学科
- 総合政策学部と環境情報学部は湘南藤沢キャンパス (SFC) において、他の学部とは大きく違った独自の教育が実施されている。この節では両者に共通する特徴などをまとめる。
基本理念
[編集]「創造性の重視」「問題発見・解決型」。今の世の中に存在する雑多な諸問題を発見・解決していく人材の創出を目的としている。そのため、従来のリベラル・アーツと専門知識の詰め込みだけではなく、研究プロジェクトを中心に置き、その中で見えてくる学生自身に不足している知識(カリキュラム)を発見・取得し、補いながら研究を進めていくという、従来とは全く違う独創的なスタイルの構築を関係者は意図している。
特徴
[編集]大学では「学問の再編成」をキーワードとして自由度の高い履修システムを使用している。基本的に各授業には学年による履修制限を課さず、学部1年生から専門的な授業を履修でき、学部と大学院で共有する授業を多く設置している。また、「半学半教」の理念から学生、特に学部生の雇用に積極的である。具体的には図書館スタッフ、コンピュータやマルチメディアの相談員、キャンパス内の設備利用ガイドの編集員、教育補助員(学部生はSA、院生はTAと称する)などである。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
湘南藤沢キャンパス | 神奈川県藤沢市 |
看護医療学部
[編集]- 看護学科
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
湘南藤沢キャンパス | 神奈川県藤沢市 | 看護医療学部1,2,4年生 |
信濃町キャンパス | 東京都新宿区 | 看護医療学部3,4年生 |
薬学部
[編集]医学部、看護医療学部、理工学部などと連携することで、創薬から臨床までを一貫して追求できる環境が整っている。前身は共立薬科大学。
- 薬学科(6年制)
- 薬学科(6年制)では、薬物の適正使用に必要な知識の修得とその進歩を担う薬剤師を育てることを目標としている。薬学科では単に薬学という知識と技能ではなく、完成度の高い薬剤師としての生き方を学ぶ。1年生に対し、ヒューマニズム、プレゼンテーション、情報技術(IT)教育を統合した科目、双方向的な小グループでのチュートリアル教育(SGL)を導入。その後、2、3年次は薬学専門科目を履修して、4年次には、医療薬学を中心とした講義と臨床の現場に出る前の事前実務実習を行う。また、実務実習に出る前に、統合型の医療系集中講義を履修させる。5年次には5ヶ月の病院および薬局での実務実習を行う。また、各講座に入り、卒業研究を行う。
- 薬科学科(4年制)
- 薬科学科(4年制)では、医薬品の創製、分析、管理、さらには食品、化粧品、環境や食品衛生分野を中心とした化学系領域の教育・研究に力を注いでおり、薬学という科学を基盤に健康、医療の進歩に携わる人材を育成することを目的としている。薬科学科は1学年30名と少数であるが、1年生の段階から卒業後の進路に密着した講義、実習が用意され、薬科学科担当講座教員と密接に連絡を取りながら、教育と研究指導を受けることができる。
名称 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|
日吉キャンパス | 神奈川県横浜市 | 薬学部1年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。 |
芝共立キャンパス | 東京都港区芝公園 | 薬学科2年-6年生、薬科学科2年-4年生までは、ここで本格的な薬学教育・研究を行う。 |
浦和共立キャンパス | 埼玉県さいたま市 | 体育施設と薬学部附属薬用植物園がある。 |
通信教育課程
[編集]通信教育課程には、文学部・経済学部・法学部がある[注釈 47]。公益財団法人私立大学通信教育協会に加盟している。
慶應義塾大学本部のある三田キャンパスの北館に事務局(通信教育部事務室)がある。慶應義塾大学通信教育部学則第1章第2条より「通信教育部は、文学部・経済学部及び法学部の通信教育課程の実施に当たる」組織であり、通信教育課程そのものは正科生[216][217][218]として、各学部の通学課程と同じ学位を取得するため、各学部に属する[205]。
教員組織は通学課程と同じ教員で構成されている[219]。学生は所定の単位を修得すれば、通学課程と同じく慶應義塾大学の卒業生として学士の学位を取得できる[216][220][221]。また、卒業時には通学課程同様に各三田会に入会ができる[221][222]。卒業後は慶應義塾大学が提供する各施設・サービスも通学課程の卒業生と同様に[注釈 48]塾員として利用ができる。
実施学部
[編集]文学部・経済学部・法学部の3学部に通信教育課程が置かれている。文学部は、第1類(哲学を主とするもの)・第2類(史学を主とするもの)・第3類(文学を主とするもの)に便宜上区分されている。経済学部は、カリキュラムに商学部系の科目を含んでいるが、専攻分野に基づく類は存在しない。法学部は、甲類(法律学を主とするもの)・乙類(政治学を主とするもの)に便宜上区分されている。卒業時に教員免許状の取得を希望する正科生入学者のための教職課程も併設されている[223][224]。
入学の種類および入学資格
[編集]入学選考は書類選考によるが、当該学部に入学するための一定の読書歴と、入学後の勉学計画・研究計画について明確なプランを持っていることが求められる。特にアカデミック・ライティングのために必要な日本語能力が求められる[225]。入学は4月1日入学・10月1日入学がある。
名称 | 要件 |
---|---|
普通課程 |
|
特別課程 |
分類 | 要件 |
---|---|
学士入学 |
|
入学式
[編集]通信教育課程のみで三田キャンパスにて行われる。入学オリエンテーションは各地方でも開かれる(札幌市、仙台市、名古屋市、大阪市、岡山市、福岡市)。
単位修得
[編集]- レポート課題により各科目のレポートを作成する[注釈 49]。レポート提出後、当該科目の科目試験への受験申込が可能となる。科目試験は年に4回行われ、三田キャンパス以外の地方会場でも行われている。各群1科目、合計最大6科目まで受験できる。レポートと科目試験の両方の合格により当該科目の単位を修得できる。
- スクーリングでの単位修得が必須となっている。開講科目は各キャンパスにより異なる。
- 夏期スクーリング(I期・II期は日吉キャンパス、III期は三田キャンパスにて実施。)
- 実験スクーリング(夏期において日吉キャンパスにて行われる。希望者のみ受講できる。)
- 体育実技スクーリング(選択制で4単位まで卒業所要単位として加算される。日吉キャンパスにて夏期に行われる。)
- 夜間スクーリング(9月下旬から12月中旬まで毎週月曜日から金曜日まで三田キャンパスにて夜間に実施。)
- 週末スクーリング(秋に土日を利用した集中型のスクーリングを三田キャンパスにて開講している。)
- 大阪スクーリング(2013年度から慶應大阪シティキャンパスにて開講している。夜間スクーリングと週末スクーリングがある。)
- 通年スクーリング(通学課程の授業を一年を通して受講する特別なスクーリング。一定の条件が必要。)
- E-スクーリング(2008年度から開講したインターネットを使用したメディア授業。2回のレポート提出と試験が必須となっている。)
- 卒業論文が必修で8単位ある。卒業論文指導は年に2回、対面またはゼミ形式で行われる。一定の資格を満たした上で、卒業論文指導の登録手続きが必要となる。また、卒業論文の提出には卒業論文指導教員の許可が必要となる。
- 卒業論文提出後、卒業試験が行われる。卒業試験は卒業論文審査と総合面接試問からなる。3月卒業予定者は1 - 2月に、9月卒業予定者は9月に行われる。
卒業要件
[編集]- 大学設置基準第七章第三十二条の規定により、通学課程と同様、124単位(総合教育科目(48単位)+専門教育科目(68単位)+卒業論文(8単位)、認定単位も含む)が必要となる。
- 予め卒業予定申告書の提出が必要となる。卒業予定申告書には卒業論文指導教員の署名捺印が必要である。
慶友会
[編集]通信教育課程の在学生が、学生間の学習上の啓発を目的として自主的に結成している学生団体で、北海道から鹿児島、海外まで、現在その数は50団体以上に及ぶ[226]。
卒業式
[編集]卒業式は通学課程と一緒である。学位記(卒業証書)は通学課程と同様のものが授与される[217][227]。
研究科
[編集]特に表記のないものは、修士課程ならびに博士後期課程がある。
- 文学研究科
- 哲学・倫理学専攻
- 美学美術史学専攻
- 史学専攻
- 国文学専攻
- 中国文学専攻
- 英米文学専攻
- 独文学専攻
- 仏文学専攻
- 図書館・情報学専攻
- 経済学研究科
- 経済学専攻
- 法学研究科
- 民事法学専攻
- 公法学専攻
- 政治学専攻
- 社会学研究科
- 社会学専攻
- 心理学専攻
- 教育学専攻 詳細は「慶應義塾大学大学院社会学研究科」を参照。
- 商学研究科
- 商学専攻
- 医学研究科
- 医科学専攻(修士課程)
- 医学研究系専攻(博士課程)
- 医療科学系専攻(博士課程)
- 理工学研究科
- 基礎理工学専攻
- 総合デザイン工学専攻
- 開放環境科学専攻
- 政策・メディア研究科
- 政策・メディア専攻
- 健康マネジメント研究科
- 看護・医療・スポーツマネジメント専攻
- 薬学研究科
- 薬科学専攻
- 薬学専攻(博士課程)
- 経営管理研究科(ビジネススクール)
- 経営管理専攻 詳細は「慶應義塾大学大学院経営管理研究科」を参照。
- システムデザイン・マネジメント研究科
- システムデザイン・マネジメント専攻
- メディアデザイン研究科
- メディアデザイン専攻
- 法務研究科(法科大学院(ロースクール))
附属機関
[編集]附属研究所
[編集]- 慶應義塾大学経済研究所
- 慶應義塾総合研究推進機構
- 慶應義塾大学国際連携推進機構(OGI)
- 慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究センター(DMC研究センター)
- 慶應義塾大学法学研究所
- 慶應義塾大学言語文化研究所
- 慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所(旧新聞研究所)
- 慶應義塾大学SFC研究所
- 慶應義塾大学産業研究所
- 慶應義塾大学東アジア研究所(旧地域研究センター)
- 慶應義塾大学先端生命科学研究所
- 慶應義塾大学体育研究所
- 慶應義塾大学附属研究所斯道文庫
- 慶應義塾大学亜細亜研究所(廃止)
- 慶應義塾大学北京公館・中支研究所(廃止)
- 慶應義塾大学医学部附属食養研究所(廃止)
- 慶應義塾大学医学部附属月ヶ瀬温泉治療学研究所(廃止)
附属センター
[編集]- 研究支援センター本部
- 三田研究支援センター
- 日吉研究支援センター
- 矢上研究支援センター
- 信濃町研究支援センター
- 湘南藤沢研究支援センター
- 先端研究教育連携スクエア事務室
- 慶應義塾福澤研究センター
- 慶應義塾大学国際センター
- 慶應義塾大学アート・センター
- 慶應義塾大学教職課程センター
- 慶應義塾大学外国語教育研究センター(旧語学視聴覚教育研究室)
- 慶應義塾大学教養研究センター
- 慶應義塾大学スポーツ医学研究センター
- 慶應義塾大学保健管理センター
- 慶應義塾大学研究推進センター
- 慶應義塾大学知的資産センター
- 慶應義塾大学インキュベーションセンター
- 慶應義塾大学日本語・日本文化教育センター
- 慶應義塾大学総合医科学研究センター(CIMR)
- 慶應義塾大学先端科学技術研究センター(KLL)
- 慶應義塾大学グローバルセキュリティ・リサーチセンター(G-SEC)
附属病院
[編集]共同利用・共同研究拠点
[編集]- 慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センター(PDRC)[230]
- パネル調査共同研究拠点
メディアセンター
[編集]慶應義塾大学では図書館をメディアセンターと呼び、主要6キャンパスのメディアセンターで様々な書籍やデジタルコンテンツの公開を行っている[231]。
- メディアセンター本部
- 三田メディアセンター
- 図書館新館
- 図書館旧館
- 南館図書室
- 日吉メディアセンター
- 日吉図書館
- 協生館図書室
- 信濃町メディアセンター
- 北里記念医学図書館
- 理工学メディアセンター
- 松下記念図書館
- 湘南藤沢メディアセンター・看護医療学図書室
- 薬学メディアセンター
- 芝共立薬学図書館
- 三田メディアセンター
博物館など
[編集]- 三田キャンパス南別館1階に開設された小美術館。
- 慶應義塾ミュージアム・コモンズ (KeMCo)[233]
- 三田キャンパス東別館に開設された文化発信拠点。
- 福澤諭吉記念慶應義塾史展示館[234]
- 三田キャンパス図書館旧館2階に開設。義塾史に関する様々な資料が公開されている。
- 慶應義塾大学薬学部付属薬用植物園[235]
- 前身は1966年に開園した旧共立薬科大学浦和薬用植物園。
出版会
[編集]慶應義塾大学の出版部門として慶應義塾大学出版会がある。慶應義塾大学出版会は組織的に独立した株式会社であり、大学の附属機関ではない。しかしながら慶應義塾大学関係の書籍を出版するなど、大学本体との関わりが深いので、本節においてまとめた。詳細は該当記事を参照のこと。
研究
[編集]日本学術振興会 (JSPS) 事業
21世紀COEプログラム
[編集]年 | 分野 | 内容 |
---|---|---|
2002年 | 生命科学 | システム生物学による生命機能の理解と制御 |
化学・材料科学 | 機能創造ライフコンジュゲートケミストリー | |
情報・電気・電子 | アクセス網高度化光・電子デバイス技術 | |
人文科学 | 心の解明に向けての統合的方法論構築 | |
学際・複合・新領域 | 次世代メディア・知的社会基盤 | |
2003年 | 医学系 | 低侵襲・新治療開発による個別化癌医療確立 |
医学系 | 幹細胞医学と免疫学の基礎・臨床一体型拠点 | |
数学、物理学、地球科学 | 統合数理科学:現象解明を通した数学の発展 | |
機械、土木、建築、その他工学 | 知能化から生命化へのシステムデザイン | |
社会科学 | 市場の質に関する理論形成とパネル実証分析 | |
社会科学 | 多文化多世代交差世界の政治社会秩序形成 | |
社会科学 | 日本・アジアにおける総合政策学先導拠点 |
グローバルCOEプログラム
[編集]年 | 分野 | 内容 |
---|---|---|
2007年 | 生命科学 | In vivoヒト代謝システム生物学拠点 |
情報、電気、電子 | アクセス空間支援基盤技術の高度国際連携 | |
人文科学 | 論理と感性の先端的教育研究拠点形成 | |
2008年 | 医学系 | 幹細胞医学のための教育研究拠点 |
機械、土木、建築、その他工学 | 環境共生・安全システムデザインの先導拠点 | |
社会科学 | 市場の高質化と市場インフラの総合的設計 | |
社会科学 | 市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点 |
世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進事業
[編集]年 | 分野 | 内容 |
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平成19年 | 中央アジア | 中央アジアにおける環境共生と日本の役割-価値創造に基づく地域研究のあり方 |
組織的な大学院教育改革推進プログラム
[編集]年 | 分野 | 内容 |
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平成20年 | 人文社会学系 | 社会イノベータ育成コースの創設 |
医療系 | 創薬に向けた医薬科学を先導する人材の養成 |
質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)
[編集]年 | 内容 |
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平成20年 | メディカルプロフェショナリズム教育の推進 |
ユビキタス社会の問題発見解決型人材育成 |
キャンパス
[編集]この記事は、全部または一部が他の記事や節と重複しています。 具体的には慶應義塾大学#キャンパス_2との重複です。 |
学部生が学ぶキャンパスは総合政策学部/環境情報学部を除き学年で分かれている。
日吉キャンパス
[編集]同大学で最も多くの学部が設置されているキャンパス。学部・学科での学習のほかに一般教養を学ぶ。
- 経済学部(第1・2学年/履修タイプA・B)
- 法学部(第1・2学年)
- 商学部(第1・2学年)
- 経営管理研究科
- システムデザイン・マネジメント研究科
- 理工学部(第1・2学年)
- 文学部(第1学年)
- 医学部(第1学年)
- 薬学部(第1学年)
- 慶應義塾普通部(男子中学校)
- 慶應義塾高等学校(男子高等学校)
三田キャンパス
[編集]同大学の本部や学校法人の法人本部も置かれ、「慶應義塾の代名詞」と呼ばれている。
- 経済学部(第3・4学年)
- 経済学研究科
- 法学部(第3・4学年)
- 法学研究科
- 法務研究科
- 商学部(第3・4学年)
- 商学研究科
- 文学部(第2~4学年/全17専攻)
- 文学研究科
- 社会学研究科
- 慶應義塾中等部(男女共学・中学校)
- 慶應義塾女子高等学校(女子高等学校)
矢上キャンパス
[編集]日吉キャンパスの近隣、神奈川県 横浜市 港北区 日吉に所在する。
理工学部・研究科の学生が通う。
芝共立キャンパス
[編集]東京都 港区 芝公園に所在する。
薬学部・研究科の学生が通う。
信濃町キャンパス
[編集]医学部を中心に医療系3学部の学部生が学ぶ。
湘南藤沢キャンパス
[編集]看護医療学部の学部生および大学院生。総合政策学部/環境情報学部の全学年および大学院生が学ぶ。
- 総合政策学部/環境情報学部(全学年)
- 政策・メディア研究科
- 看護医療学部(第1・2・4学年)
- 健康マネジメント研究科
- 慶應義塾湘南藤沢中等部(男女共学・中学校)
- 慶應義塾湘南藤沢高等部(男女共学・高等学校)
学生生活
[編集]学園祭
[編集]三田祭含め各キャンパスごとに開催されている。このうち、三田祭以外は有志によるイベントに過ぎないとされているが、実質的には「学園祭」として認知されており、慶應義塾大学の受験生向けパンフレットなどにも紹介されている。なお、日吉キャンパスで行われる日吉祭は高等学校の文化祭で、大学との関係はない。
名前 | 開催場所 | 概要 |
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三田祭 | 三田キャンパス | →詳細は「三田祭」を参照 三田祭は、毎年11月23日前後に例年4日間行われる。運営しているのは三田祭実行委員会。三田祭の規模は大学祭では日本国内最大規模である。慶應義塾大学が公式に「学園祭」としているのは三田祭のみである。 |
四谷祭 | 信濃町キャンパス | |
矢上祭 | 矢上キャンパス | |
七夕祭 | 湘南藤沢キャンパス | →詳細は「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス § 七夕祭」を参照 湘南藤沢キャンパスで七月の第一土曜日に毎年開かれる学園祭。湘南藤沢キャンパス開校時から続いており、学生有志による七夕祭実行委員会が運営している。花火や縁日のような出店、御輿などの夏祭りをテーマとした企画が中心。また学生と大学周辺地域との協力を目的としていることが特徴である。 |
共薬祭 | 芝共立キャンパス |
部活動・クラブ活動・サークル活動
[編集]体育会の正式名称は「慶應義塾體育會」(けいおうぎじゅくたいいくかい)である。「慶應義塾大学体育会」としている文献が存在するが、正式名称では「大学」の語は使用しない。
2023年現在、43部59部門が所属しているが[236]、大学スポーツ協会には非加盟。
体育会各部間の意見交換や、体育会全体に関わる会議・行事の企画・進行や広報活動を行う組織として、體育會本部を置く。体育会部員から選出された常任委員がこうした業務に携わっている。また、体育会事務室という慶應義塾大学の部署が設置され、専任の大学職員が常駐している。体育会事務室は学生主体の體育會本部と連絡を取りながら体育会の運営をサポートしている。
- 東日本医科学生総合体育大会の発起大学であり、定期的に対抗戦を行っている。戦前までは東京帝国大学との間で「対帝大医学部野球戦」が開催されていた。
- 戦後は大阪大学、一橋大学との間でスポーツ交流戦を行う構想があったが、実現していない。
野球
[編集]野球部(硬式野球部)は東京六大学野球連盟に加盟している。東京六大学野球が発祥する大元となった慶早戦の盛り上がりがきっかけとなり、ラグビー部や端艇部(ボート競技)等でも慶早戦が行われるようになった。詳細は「慶早戦」参照。
陸上
[編集]1917年創部の競走部は、箱根駅伝で1932年に優勝している。
ラグビー
[編集]ラグビー部は蹴球部が正式名称。1899年創部であり、日本ラグビーフットボール協会は「日本ラグビーのルーツ校」としている[237]。関東大学ラグビー対抗戦グループに所属している。1910年(明治43年)に綱町グラウンドにて日本最初の蹴球対校試合を第三高等学校(現:京都大学)との間で開催した。
端艇
[編集]端艇部は1889年創部。1905年から隅田川の新大橋 - 桜橋間で毎年開催されているボート競技の慶早戦(慶早レガッタ定期戦)は、毎年3万人以上が訪れる。
チアリーディング
[編集]大学では應援指導部Majorettes、チアリーダーズUNICORNS、チア&ソングリーダーズUNICORNSの3団体が存在する。
應援指導部
[編集]スケート(ホッケー・フィギュア・スピード)
[編集]1923年創部。毎年1月と5月に行われるホッケー部門の慶早戦が有名。
ソッカー
[編集]サッカー部はソッカー部が正式名称。
アメリカンフットボール
[編集]アメリカンフットボール部の愛称はユニコーンズ(UNICORNS)である。関東学生アメリカンフットボール連盟に所属している。
バレーボール
[編集]バスケットボール
[編集]バスケットボール部の愛称もユニコーンズ(UNICORNS)。全日本学生バスケットボール選手権大会初代王者でもある。
柔道
[編集]レスリング
剣道
[編集]剣道部は1878年創部で、日本中で柔道部に次ぐ古い歴史を持つ部活動とされている。
馬術
[編集]1920年、陸軍士官学校において塾長鎌田栄吉出席の下、慶應義塾乗馬会の発会式を挙げる。以来同校馬術教官から教えを受ける。1923年4月1日、同校校庭で開かれた関東学生乗馬協会主催の第1回関東乗馬大会で優勝した。
ラクロス
[編集]ラクロス部は1986年に日本初のラクロス部として創設された[238]。それまで準体育会という位置づけだったが、2008年に体育会に加入。特に男子ラクロス部は全日本優勝5回、関東学生リーグ優勝15回という成績を残している。
テニス
[編集]慶應義塾大学硬式庭球同好会連盟というテニスサークル連盟がある。2018年時点で23サークルから成り立ち、公称会員数3000人強。