さいたま市

さいたまし ウィキデータを編集
さいたま市
さいたま市旗 さいたま市章
さいたま市旗 さいたま市章
2001年平成13年)10月25日制定[注釈 1]
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
市町村コード 11100-7
法人番号 2000020111007 ウィキデータを編集
面積 217.43km2
総人口 1,351,136[編集]
推計人口、2024年10月1日)
人口密度 6,214人/km2
隣接自治体 朝霞市上尾市川口市川越市志木市戸田市蓮田市富士見市蕨市春日部市越谷市白岡市
市の木 ケヤキ
市の花 サクラソウ
市の花木
市のマスコット
市の愛称
市の歌
サクラ
つなが竜「ヌゥ」
のびのびシティ さいたま市
希望(ゆめ)のまち
(作詞:福原くにこ、作曲:タケカワユキヒデ
さいたま市役所
市長 清水勇人
所在地 330-9588
埼玉県さいたま市浦和区常盤六丁目4番4号
北緯35度51分41秒 東経139度38分44秒 / 北緯35.8614度 東経139.6456度 / 35.8614; 139.6456座標: 北緯35度51分41秒 東経139度38分44秒 / 北緯35.8614度 東経139.6456度 / 35.8614; 139.6456

さいたま市役所
地図
市庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

さいたま市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

さいたま市行政区画図
特記事項 NTT市外局番:048(市内全域)
ナンバープレート大宮
ウィキプロジェクト

さいたま市(さいたまし)は、埼玉県の県央部に位置する。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多[1]政令指定都市の一つ[2]。また財政力指数は政令市の中では3番目である。

2001年に旧県庁所在地である浦和市(当時の人口約48万人)と、大宮市(同約45万人)、与野市(同約8万人)が合併して誕生し、2005年には岩槻市(同約10万人)を編入した。政令指定都市のうち、第二次世界大戦後に合併によって誕生した基礎自治体は当市と福岡県北九州市静岡県静岡市のみ。

都市雇用圏における東京都市圏中心都市の一つであり、10区の行政区を持つ。県内唯一の人口百万人都市でもあり[1]日本の市で9番目の人口を有しており、21県の総人口を上回っている[3]

概要

[編集]

位置

[編集]

さいたま市は関東地方の中央部に位置し、札幌市京都市相模原市と並び、内陸部にあり海に面していない政令指定都市である。また、政令指定都市のうち唯一、内陸県に所在している。 県庁所在地の中で唯一、海と山どちらにも接していない。

埼玉県内においては南部東寄りに位置するが、県内で用いられる地域区分では「中央地域」に区分されることが多い[注釈 2]。また、日本の事実上の首都である東京都心部からは、北西に約25キロメートルの距離にあり、神奈川県横浜市千葉市と比較しても、県庁所在都市としては東京に最も近い[注釈 3]

その市域は広袤が東西19.6 kmおよび南北19.3 kmである[4]。面積は217.43 km2であり[5]、日本の政令指定都市としては神奈川県川崎市大阪府堺市に次いで3番目に狭い。しかし、埼玉県内の市町村としては秩父市に次いで2番目に広く、隣接市町村数(他都道府県の自治体を含む)も12市と秩父市(15市町村)に次いで2番目に多い。

日本の政令指定都市ならびに都道府県庁所在地では初のひらがな表記の市であり、2023年時点でも唯一の例である。このため、日本の都道府県庁所在地では文字数が最多(4文字)である[注釈 4]。また、ひらがな表記の市では人口が最多の市である[注釈 5]

土地利用

[編集]
さいたま市周辺における人口集中地区 (DID) の推移(1960年 - 2010年)。1960年には既に浦和・大宮・与野3市のDIDは一体化しており、他市町のDIDと接続したのはその後のことである。岩槻区のDIDは春日部市のDIDと連続するが、市内他区のDIDとは連続しない。

政治・行政の中心は浦和区浦和駅周辺)、経済・商業・交通の中心は大宮区大宮駅周辺)である。東京都心からおおむね20km - 35km圏に位置するさいたま市は、東京大都市圏における衛星都市ベッドタウンとしての性質の強い都市であり、東京23区に通勤通学する「埼玉都民」の割合が多い。その一方で、1988年に旧浦和市・旧大宮市が業務核都市に指定され、2000年さいたま新都心が街開きをして各中央官庁の地方支分部局が東京より移転してくるなど、業務機能の集積も進んでいる。

東京の北郊に位置するさいたま市は、広域的に見れば、より東京に近い市南部のほうが、市北部に比べて人口密度が高い傾向にある。これに加えて、東京都心部に直結するJR東日本沿線(京浜東北線宇都宮線高崎線埼京線)に人口が集中する傾向があり、両方の条件が重なる南区から浦和区、中央区にかけては、20,000人/ km2以上という高い人口密度の地域が連なっている[6]

行政・商業・業務などの都市機能の集積は、浦和駅大宮駅さいたま新都心駅といった主要駅周辺において顕著であり、これらが旧浦和市・旧大宮市時代からの中心市街地を形成している(旧与野市の中心は与野本町駅)。旧大宮市域は鉄道の町商都として発展し、特に大宮駅は東北新幹線上越新幹線北陸新幹線定期列車全てが停車し、首都圏屈指の繁華街ターミナル駅となっている(「大宮地区」も参照)。一方、旧浦和市域は県政・市政といった政治・行政の中心地となっており、浦和駅前も伊勢丹浦和店浦和パルコなどが位置する繁華街である。また旧浦和市域は埼玉大学埼玉県立浦和高等学校などの進学校がある文教地区であり、高級住宅街としても知られる(「浦和地区」も参照)。他にも、東武野田線(東武アーバンパークライン)の岩槻駅周辺にも、旧岩槻市の中心市街地が形成されている。旧与野市を継承した中央区は、さいたま新都心エリアに都市の拠点機能を有する一方、元来の旧与野市域では住宅地が多く占めており、浦和地区や大宮地区の間を繋ぐ街並みとなっている。

現さいたま市域の大部分は江戸時代まで農地が広がっていたが、1923年関東大震災1940年代前半の太平洋戦争などを契機として、東京などからの大規模な人口流入が生じ、本格的に宅地化が進むようになった。このような宅地化は、まず中心市街地に近い台地上の鉄道駅付近、すなわち浦和駅から大宮駅にかけての宇都宮線・京浜東北線沿線で先行した。浦和市・大宮市・与野市の各中心部は、このような地域において互いに近接していたことから、市街地の一体化(コナベーション)は早期に進行した。国勢調査において初めて人口集中地区 (DID) が定義された1960年の時点で、この3市の人口集中地区は既に連続していた。一方、1960年時点では、蕨市川口市上尾市といった他市町村の人口集中地区とは連続していなかった。

その後、首都圏への大規模な人口流入と郊外化の影響はさらに強まり、現さいたま市域の都市化は急速に進んだ(「東京一極集中」も参照)。鉄道路線の沿線においては、さいたま市の人口集中地区と他市や東京の人口集中地区とが連続するようになっただけでなく、低地や鉄道駅から離れた場所にも宅地が及ぶようになり、岩槻駅周辺の市街地も拡大した。2020年時点で、10区のうち北区大宮区中央区浦和区南区の5区では、区のほぼ全域が人口集中地区に組み込まれている[7]

しかしながら、現在もなお、鉄道駅から離れた場所には比較的大規模な農地が存在するほか、住宅地の中にも小規模な農地が点在している。また明治時代の度重なる洪水を契機とした治水対策として広大な河川敷が設けられている荒川周辺(西区桜区)や、農地として保全された見沼田んぼ周辺(北区・大宮区・見沼区・浦和区・緑区)では、開発が厳しく制限されており、人口がほとんどいない地域も存在している。岩槻区と他区(見沼区・緑区)との境界付近を流れる綾瀬川の両岸にも農地が多く、ここで市街地が途切れている。その結果、さいたま市の人口集中地区は、岩槻区以外の9区においてはほぼ一体化しているのに対し、岩槻区の人口集中地区と他区の人口集中地区は連続していない。岩槻区の人口集中地区は、東側に位置する春日部市の人口集中地区に接している。

市内の住宅地の公示地価は、2位(大宮区)を除き、上位1位から5位の地点は浦和区に所在している。また、商業地の公示地価では、上位1位から3位が大宮区の地点、4位と5位が浦和区の地点である(2023年)[8]

行政区

[編集]
さいたま市の区。
合併前の旧4市域と現さいたま市の区域との比較。

政令指定都市であるさいたま市には、10の行政区が設置されている。おおむね、市町村合併前の旧浦和市域に桜区浦和区南区緑区の4区が、旧大宮市域に西区北区大宮区見沼区の4区が、旧与野市域に中央区が、旧岩槻市域に岩槻区がある。ただし、わずかに旧浦和市域や旧大宮市域で中央区に属している地区[注釈 6]や、旧浦和市域で大宮区に属している地区[注釈 7]もある。

10区のうち、岩槻区を除く9区は、2003年(平成15年)4月1日の政令指定都市への移行[2] に伴って設置された。この9区の区域は、浦和・大宮・与野の旧3市の合併協議において盛り込まれた「旧浦和市域・大宮市域はそれぞれ4つの行政区に区分することが適当」「旧与野市域は(当時の)市域を基本として1つの行政区に区分することが適当」などの合意事項がさいたま市に引き継がれるかたちで設定されたものである[9]。一方で、岩槻区は、2005年に旧岩槻市がさいたま市に編入される際に、旧市域がそのまま岩槻区に移行する形で設定された。

さいたま市の10行政区には、それぞれ「区の色[10]」および「区の花[11]」が制定されている。

さいたま市の行政区
コード 区名 設置日 位置 人口 面積 人口密度 区の色 区の花
11101-5 西区 2003年4月1日 大宮市
西部
96,000人 29.12 km2 3,297人/ km2 あお アジサイ
11102-3 北区 旧大宮市
北部
151,029人 16.86 km2 8,958人/ km2 ふかみどり 菜の花
11103-1 大宮区 旧大宮市
南部
124,944人 12.80 km2 9,761人/ km2 オレンジ さくら
11104-0 見沼区 旧大宮市
東部
166,746人 30.69 km2 5,433人/ km2 そらいろ クマガイソウ
11105-8 中央区 与野市 104,085人 8.39 km2 12,406人/ km2 バラ色 バラ
11106-6 桜区 浦和市
西部
99,596人 18.64 km2 5,343人/ km2 さくら色 サクラソウ
11107-4 浦和区 旧浦和市
北部
168,575人 11.51 km2 14,646人/ km2 あか ニチニチソウ
11108-2 南区 旧浦和市
南部
195,252人 13.82 km2 14,128人/ km2 レモン色 ヒマワリ
11109-1 緑区 旧浦和市
東部
133,905人 26.44 km2 5,064人/ km2 みどり サクラ
11110-4 岩槻区 2005年4月1日 岩槻市 111,004人 49.17 km2 2,258人/ km2 やまぶき色 やまぶき

地理

[編集]

地形

[編集]

関東平野の中央部に位置し、市内には山地丘陵といえる場所は存在せず、比較的平坦で全域が台地および低地からなる。全域にわたって標高が低く、最も低い地点で海抜1.1 m桜区大字下大久保)、最も高い地点でも海抜20.5 m(岩槻区大字表慈恩寺)である[注釈 8]。このため、自転車が利用しやすく、自転車保有率が主な大都市の中で1位となる 83.5%と非常に高いまちとなっている。市の西境あるいはその近くに荒川[注釈 9]、東寄りに元荒川が、それぞれ北西から南東に流れており、これらの河川に近い市の西側、南側、東側の3方を低地で囲まれる。一方、市の北西側から南東に向かって、主に関東ローム層によって形成された大宮台地が延びており、市の中央部を貫いている。この台地の中にも鴻沼川芝川綾瀬川などの中小河川が流れている。このような中小河川に沿って谷底平野沖積平野などの低地が形成されているため、台地はいくつかの「支台」に区切られている。これらの低地には見沼鴻沼などがあったが、江戸時代干拓された。

気候

[編集]

さいたま市の気候は、ケッペンの気候区分に基づけば温暖湿潤気候 (Cfa) に属するが、本州太平洋側に一般的にみられるように夏季に比べて冬季の降水量が少ない。

夏季は猛暑日が多く、ときには38℃を超えることもある。近年、特に2020年以降は暑い街として知られる熊谷市並みに気温が高くなることも珍しくない。

冬季の降水量の少なさと最低気温の低さは、東京都大手町)や横浜市千葉市といった近隣の沿岸部の諸都市と比べ、より顕著である。1月の平均最低気温は-1.1であり[12]、さいたま市より北にある群馬県前橋市 (-0.5℃) よりも低い。最低気温自体もかなり低く、2018年1月26日には観測史上最低の-9.8℃を記録した[13]。ただし、観測点のさいたまアメダス(桜区大字宿)は、市中心部から少し離れた田園地帯に位置するため、ヒートアイランドの影響を受ける浦和や与野、大宮などの市街地に比べてかなり低い気温が出やすい。

さいたまアメダスにおける平年値(1991年 - 2020年の観測結果による)は、年平均気温は15.2 ℃、年間平均降水量は1371.3 mmである[12]

南方近隣の川口市戸田市蕨市では基本的に当市ほど顕著な気温になることはないが、北西隣の川越市上尾市などでは一層高温となりやすい。

さいたま市(さいたま地域気象観測所)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 18.7
(65.7)
25.5
(77.9)
26.9
(80.4)
31.2
(88.2)
34.2
(93.6)
38.0
(100.4)
39.3
(102.7)
38.7
(101.7)
37.4
(99.3)
33.1
(91.6)
26.1
(79)
25.1
(77.2)
39.3
(102.7)
平均最高気温 °C°F 9.4
(48.9)
10.3
(50.5)
13.7
(56.7)
19.2
(66.6)
23.8
(74.8)
26.5
(79.7)
30.5
(86.9)
31.8
(89.2)
27.7
(81.9)
21.9
(71.4)
16.5
(61.7)
11.7
(53.1)
20.3
(68.5)
日平均気温 °C°F 3.9
(39)
4.9
(40.8)
8.4
(47.1)
13.7
(56.7)
18.6
(65.5)
22.0
(71.6)
25.9
(78.6)
27.0
(80.6)
23.2
(73.8)
17.5
(63.5)
11.4
(52.5)
6.2
(43.2)
15.2
(59.4)
平均最低気温 °C°F −1.1
(30)
−0.2
(31.6)
3.3
(37.9)
8.4
(47.1)
13.9
(57)
18.3
(64.9)
22.2
(72)
23.2
(73.8)
19.5
(67.1)
13.5
(56.3)
6.8
(44.2)
1.2
(34.2)
10.8
(51.4)
最低気温記録 °C°F −9.8
(14.4)
−8.8
(16.2)
−5.0
(23)
−2.0
(28.4)
4.8
(40.6)
11.5
(52.7)
14.7
(58.5)
16.3
(61.3)
9.5
(49.1)
3.6
(38.5)
−2.4
(27.7)
−6.7
(19.9)
−9.8
(14.4)
降水量 mm (inch) 42.4
(1.669)
39.6
(1.559)
88.0
(3.465)
101.9
(4.012)
121.4
(4.78)
144.8
(5.701)
148.0
(5.827)
164.0
(6.457)
202.8
(7.984)
196.8
(7.748)
70.9
(2.791)
45.2
(1.78)
1,371.3
(53.988)
平均降水日数 (≥1.0 mm) 3.8 4.6 8.7 9.0 10.0 11.6 11.8 8.8 10.8 10.0 6.7 4.4 100.8
平均月間日照時間 201.4 186.4 186.6 187.1 185.3 128.4 152.5 181.9 135.6 135.1 156.6 181.1 2,018
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1977年-現在)[14][15]

人口

[編集]

日本において第1回国勢調査が行われた1920年大正9年)以来、現さいたま市域の人口は、ほぼ一貫して増加してきた。1920年当時の人口が約12.3万人であったのに対して、2015年国勢調査ではその10倍以上の約126.4万人にのぼり、2020年(令和2年)国勢調査さいたま市の人口は 132万4,591人と更に増えている[16]。特に日本の高度経済成長期における人口急増が著しく、1960年国勢調査では約42.0万人であった現さいたま市域の人口は、1975年国勢調査では約81.4万人となり、この15年間で2倍近くに増加した。旧4市域の合併直前と現在の人口は、浦和市が約49万人(現・約58万人)、大宮市が約46万人(現・約52万人)、与野市が約8万人(現・約10万人)、岩槻市が約11万人(現・約11万人)である。

近年では、日本全体の状況と同様、人口の高齢化による死亡数の増加がみられる。死亡数の増加により、さいたま市の人口の自然増(出生数から死亡数を差し引いた数)は急速に減少しており、2017年にはほぼ0となった。現在のさいたま市の人口の緩やかな増加は、ほとんどが社会増(転入数から転出数を差し引いた数)によるものである[17]。人口の転入超過は、20歳代・30歳代によるものが多く、2017年には、転入超過数8,234人のうち20歳代・30歳代が5,396人を占めた[18]

国立社会保障・人口問題研究所の『日本の地域別将来推計人口(令和5(2023)年推計)』[19] によれば、さいたま市の人口は2030年の136.3万人でピークを迎え、その後減少に転じると予測されている。ただし、さいたま市より神戸市京都市のほうが減少ペースが速く、さいたま市の日本国内における人口順位は、2040年には両市を上回って第8位(東京都区部を除けば第7位)になると予測されている。

現さいたま市域における人口の推移(1920年 - 2010年、国勢調査による)。
さいたま市と全国の年齢別人口分布(2005年) さいたま市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― さいたま市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
さいたま市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 657,425人
1975年(昭和50年) 813,712人
1980年(昭和55年) 879,291人
1985年(昭和60年) 922,757人
1990年(平成2年) 1,007,569人
1995年(平成7年) 1,078,545人
2000年(平成12年) 1,133,300人
2005年(平成17年) 1,176,314人
2010年(平成22年) 1,222,910人
2015年(平成27年) 1,263,979人
2020年(令和2年) 1,324,025人
総務省統計局 国勢調査より


人口が多い区は南区(19.21万人)、浦和区(16.52万人)、見沼区(16.48万人)、人口密度が高い区は、浦和区(14,646人/ km2)、南区(14,128人/ km2)、中央区(12,406人/ km2)となっている。

2020年国勢調査によると、昼夜間人口比率は92.9であり、県庁所在地かつ政令指定都市でありながら、100を下回っている。区別では、大宮区136.9、岩槻区102.3、中央区100.4は100を上回る[注釈 10][20]。市内に常住する通勤通学者約74万6000人の23.6%にあたる約17万6000人が東京都区部に通勤・通学しており(2020年)[20]、いわゆる埼玉都民が多い。その一方で、埼玉県内の他の市町村からさいたま市への通勤・通学者も約16万2000人にのぼり(さいたま市から埼玉県内の他の市町村への通勤・通学者は約10万4000人)[20]、昼夜間人口比率も1990年の89.8%から次第に上昇をみせるなど、さいたま市は周辺の地域から通勤・通学者を集める郊外核としての性質もあわせ持つ。

地区

[編集]

旧4市域の特徴

[編集]

さいたま市は、人口40万人以上(2001年当時)の複数の市どうしが合併した、2020年時点において日本で唯一の例である[注釈 11]

当初に合併した浦和・大宮・与野の旧3市の市街地は地理的に連続しているが、旧岩槻市は3市の市街地とは連続しない。旧4市のうち、旧浦和市と旧大宮市は、東西方向に細長い市域と2023年時点で50万人台の人口を有すること、中央部に中山道宿場町浦和宿大宮宿)を起源とする中心市街地があり、東西に住宅地や農地が多いという土地利用構成となっていること、Jリーグに所属するプロサッカークラブがあることなどの共通点がある。

旧「浦和市」域(桜区・浦和区・南区・緑区)

[編集]
古くは調神社玉蔵院門前町であったが、現在の街は旧中山道の浦和宿が設けられたことに端を発する。県庁、市役所をはじめ地裁県警など、県や市の行政機関の集積とともに、県指定金融機関である埼玉りそな銀行の本店や各種政党の支部、各種メディアの支局など県都としての機能が集積し、浦和・大宮・与野の旧3市が速やかに合併協議に入ることを促した合併促進決議やさいたま市発足時の都市計画マスタープランで「行政の中心」として位置付けられている。また、明治時代旧制浦和中学(現・県立浦和高校)浦和高等女学校(現・県立浦和第一女子高校)、大正時代に旧制浦和高校(現・埼玉大学)が設置され、文教都市として知られるゆえんとなった。関東大震災以降、東京などからの移住者で人口が急増し、別所沼周辺に画家が移住したことから「鎌倉文士浦和画家」という言葉が生まれ画家の街として知られる。明治期に埼玉師範学校(現・埼玉大学)でサッカーの指導が始められると、隣接していた旧制浦和中学と共に「埼玉サッカー発祥の地」とされ、サッカーが盛んな地域として全国的に名を馳せ、1993年のJリーグ発足時には浦和レッズ[注釈 12]が浦和市をホームタウンとして活動して現在に至っている。市域で最も東京都心に近く、通勤電車の本数も多いことから、1995年には川口市を抜き県内最大の人口を擁する都市となり、2021年時点でもさいたま市を構成する旧4市で最大の人口を擁する。浦和市時代から世帯所得は全国的にみても高く、浦和駅西側の台地上(岸町常盤高砂神明別所など)は高級住宅街としても知られる。

旧「大宮市」域(西区・北区・大宮区・見沼区)

[編集]
かつて見沼水神をまつったとも云われる、武蔵国一宮氷川神社(大宮氷川神社)の鳥居前町であり、氷川神社一帯が日本さくら名所100選にも選ばれている大宮公園となる。約2㎞に及ぶ氷川参道とともに市民の憩いの場となっている。現在の街は、1591年天正19年)に浦和宿上尾宿の間にあった馬継場に宿駅が設けられたことに起源を発する。日本鉄道による路線開通時において鉄道駅の設置はなかったため、熱心な駅誘致活動により1885年明治18年)3月に駅が開設された。

1940年昭和15年)に大宮町三橋村日進村宮原村大砂土村が合併し、大宮市が誕生。埼玉県内では浦和市に次ぐ5番目の市制施行であった。戦後に市街地が拡大、合併前の人口は県内で浦和・川口に次ぐ3位に成長した。日本鉄道大宮工場(現・JR東日本大宮総合車両センター)や大宮操車場などの鉄道施設を誘致し「鉄道の町」として知られるようになった。現在の大宮駅は、6つの新幹線を含む合計16路線の旅客営業列車すべてが停車し、1日平均乗降者数約70万人のターミナル駅へ成長した。合併後の2007年平成19年)10月14日には大成町鉄道博物館が開館した。大宮駅周辺一帯には商業施設オフィス街が集積、戦後地銀の一つである武蔵野銀行の本店をはじめ、多くの企業や金融機関などの本社・支店・営業所が存在し、先述の合併促進決議などで「経済の中心」として位置付けられている。また日本初のサッカー専用スタジアムであるNACK5スタジアム大宮(大宮公園内に所在)を本拠地とし、J2リーグが発足した1999年にJリーグに加盟した大宮アルディージャ[注釈 13]が大宮市をホームタウンとして活動し現在に至っている。他のプロスポーツでは埼玉西武ライオンズ県営大宮球場(大宮公園内に所在)を準本拠地としている。北部(現・北区)には、吉野原工業団地・陸軍工廠を前身とする大宮駐屯地および大宮盆栽村が、東西部(現・西区、見沼区)には見沼田んぼ荒川低地田園が広がり、さいたま市を構成する旧4市の中で面積は最大であった。

旧「与野市」域(中央区)

[編集]
旧浦和市と旧大宮市の間に挟まれた位置にあり、他の3市に比べて面積が小さく、ほぼ全域にわたって市街化されている。1958年(昭和33年)に市制施行。市域の狭さや市内のほぼ全域が鉄道駅至近に位置することもあり、市全域が人口集中地区に含まれ、人口密度は合併前の旧4市の中で最も高い。また、さいたまスーパーアリーナ彩の国さいたま芸術劇場を擁するため、先述の合併促進決議などで「情報発信の中心」として位置付けられている。合併直前に整備されたさいたま新都心のうち、東北本線西側の主要な地域は旧3市の市域にまたがっていたが、政令指定都市移行時に、地域の大半を占めていた旧与野市である中央区に旧浦和市部分・旧大宮市部分を編入して「新都心」という町名を新設した。

旧「岩槻市」域(岩槻区)

[編集]
南北方向に細長い市域に岩槻城城下町を起源とする中心市街地があり、南北に住宅地や農地が多いという市街配置・土地利用構成となっていること、江戸時代には大部分が岩槻藩領であったこと(他の3市は主に幕府領など)、1954年(昭和29年)の市制施行前の所属郡が南埼玉郡であったこと(他の3市は北足立郡)などの歴史的経緯において、他の旧3市とは異なった特徴を有する。伝統工芸品である岩槻人形の産地で、人形店が集積し、「人形のまち」として全国的に知られるようになった。合併後の2020年2月22日には岩槻人形博物館も開館した。

一方で、近代以降の歴史を振り返ると、1889年(明治22年)の市制町村制施行当時の旧4市の中心自治体は、全て「町」であった。浦和町は、浦和宿単独による町制施行で設置されて以降、常に周辺の村々を編入(吸収)合併したものの、1934年の市制施行は周辺の村々を合併せず、単独で市制を施行している。一方、大宮町は、大宮宿と周辺の4村による新設(合体)合併によって町制を施行し、1940年の市制施行も大宮町と周辺の4村との新設合併によって大宮市を設置している。また与野町は、旧与野町と周辺の9村との新設合併によって町制を施行し、1958年の市制施行は単独で市制を施行している。岩槻町は、旧岩槻町と隣接する1村との新設合併によって町制を施行し、1954年に市制施行を前提とする岩槻町と周辺の6村との新設合併によって新しい岩槻町を設置した後、同年に単独で市制を施行している。

浦和にとって、これまで経験した自治体合併は全て浦和への編入合併であったため、さいたま市設置が初めての新設合併であった。これに対して、大宮・岩槻は2度、与野も1度新設合併を経験し、その度に「大宮」「与野」「岩槻」の名を後継の新設自治体に引き継がせてきた経緯がある。

市域にかつて存在した市町村

[編集]
現さいたま市域の昭和初期における町村

行政区と町名・大字名

[編集]

歴史

[編集]

2001年平成13年)5月1日以前の歴史については、「浦和市」「大宮市」「与野市」「岩槻市」を、地名については「さいたま市の地名」も参照。

先史時代

[編集]

現さいたま市域には、旧石器時代より人が居住しており、大宮台地の関東ローム層から大古里(おぶさと、緑区)遺跡、明花向(みょうばなむかい、南区)遺跡などの遺跡から、旧石器時代の遺物が出土している[21]

縄文時代前期には、世界的な温暖化の進行により海面上昇が進み(縄文海進)、荒川元荒川の下流域は海面下に没した(奥東京湾。このうち、大宮台地の西側の水域は「古入間湾」とも呼ばれる[22])。このため、内陸県である埼玉県や栃木県でもこの時代の貝塚が発見されており、さいたま市内においても、当時の海岸線に近い大宮台地の縁辺部に白幡貝塚(南区)、大谷場貝塚(南区)、大戸貝塚(中央区)、中川貝塚(見沼区)などの貝塚が残されている。

寒冷化の進んだ縄文時代の後期・晩期の遺跡は少なくなるものの、岩槻区の真福寺貝塚(国指定史跡)、緑区の馬場小室山遺跡(埼玉県指定史跡)、南鴻沼遺跡(中央区)といった遺跡がある[23]

弥生時代古墳時代に入ると、本格的な水稲耕作が行われるようになる中で、低地をのぞむ台地の縁辺部や、低地の自然堤防に多くの集落が形成されるようになった。古墳は、植水古墳群側ヶ谷戸古墳群(西区)、大久保古墳群土合古墳群(桜区)など古入間川沿いの台地縁辺部や低地に多く見られる[24]

古代

[編集]

律令体制が整備されると、現在の埼玉県や東京都を中心とする地域には、令制国として武蔵国が置かれた。現さいたま市のうち岩槻区は埼玉郡に、それ以外の9区は足立郡に含まれるようになった。『和名類聚抄』には足立郡に7つの郷が所載されており、そのうち堀津(ほっつ)、殖田(うえた)、郡家(ぐうけ)、発度(はっと)、大里(おおさと)の5郷を現さいたま市域内に比定する説があるが、堀津郷や発度郡はさいたま市外に比定する説もあり、定かではない。『延喜式神名帳』には、現さいたま市域では氷川神社調神社足立神社の3座が所載されている(式内社[25]大久保領家に足立郡の郡衙があったと推定されている。

武蔵など東国では平安時代中期に国司に抵抗する群盗の蜂起が続発して治安が悪化し、地方豪族荘園管理者などが農民などを集めて武装化するようになり、武士へと成長した。天慶元年(938年)、足立郡司として現在の浦和や大宮を含む足立郡一帯を支配していたと考えられる武蔵武芝と、武蔵権守の興世王・武蔵介の源経基との対立が生じた。これがやがて平将門の乱の契機となったが、乱に巻き込まれる中で武蔵武芝は失脚し、以降足立氏などが足立郡司として登場した[26]

中世

[編集]

1160年平治元年)の平治の乱の際、源義朝に従って敗れた足立遠元はその後、足立郡に逼塞していたと考えられているが、治承4年(1180年)に挙兵して鎌倉入りした源頼朝から足立郡の郡郷領掌を安堵され、以後は有力御家人として重用された。足立遠元の屋敷は、現在の桶川市川田谷に比定する説と、現さいたま市西区の植田谷に比定する説とがある。この他、鎌倉時代に現さいたま市域に勢力を有した武士として、髙鼻和氏、麻弥屋氏、箕勾氏、渋江氏、柏崎氏などがある[27]

戸田市西部からさいたま市南区西部にまたがる佐々目郷は、正応6年(1293年)から4度に分けて鎌倉の鶴岡八幡宮寄進されたが、応永元年(1394年)以降、鶴岡八幡宮による支配に抵抗する農民の闘争が度々生じた[28]

室町時代の関東地方では幾度にわたる戦乱が生じ、現さいたま市域もその戦乱の場となった。観応の擾乱においては、観応元年(1350年)に羽祢蔵(現:桜区)にて合戦が行われ、足利尊氏方の髙麗経澄足利直義方の難波田九郎三郎らを破っている[29]

また、享徳3年12月27日1455年1月15日)に享徳の乱が勃発すると、現さいたま市一帯は古河公方方と関東管領方との対峙の場となった。康正2年(1456年)には、古河公方の足利成氏の家臣である簗田持助が足立郡に討ち入ってその大半を押領した。また岩付城は、関東管領方の(扇谷上杉持朝の家臣である太田資清資長(道灌)父子による築城であるとする説と、古河公方方の成田正等による築城であるとする説とがあり、築城後も太田氏が城主となった時期について複数の説があるなど、両勢力の角逐が続いた。

その後、長享の乱1487年 - 1505年)における長期間にわたる山内上杉家扇谷上杉家との抗争を経て、関東地方における上杉氏の力は消耗し、かわって後北条氏の勢力が次第に拡大することとなった。大永4年(1524年)には北条氏綱の勢力が既に三室郷に及んでおり、このころから現さいたま市域一帯は岩付太田氏の勢力と後北条氏の勢力の接点となったが、やがて天文15年(1546年)の川越夜戦にて北条氏康軍が勝利すると、武蔵国における後北条氏の勢力拡大はさらに本格化した。そのような状況下で、やがて永禄7年(1564年)には太田氏資がその父である太田資正を追放して北条氏康に内応し、その結果、一帯は後北条氏の支配体制下におかれることとなった[30]

しかし、1590年天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による小田原征伐の過程で岩付城も陥落した。これにより後北条氏による支配は終わり、かわって豊臣秀吉の命で関東地方を与えられた徳川家康が関東入りした[31]

近世

[編集]

徳川家康は、関東における支配を固める過程で、江戸の近隣に幕府領旗本領譜代大名を多く配置した。江戸時代幕藩体制下で現さいたま市域に置かれた藩としては、岩槻城を藩庁とする岩槻藩があり、現さいたま市域のうち、岩槻区域の大部分は岩槻藩領であった。一方、他の9区の区域は幕府領や旗本領を中心に、さらに寺社領や岩槻藩領が入りまじり、さらに相給も多いという、複雑で細分化された支配体系下にあった[32]

江戸時代に、現さいたま市域において街が形成されていたのは、浦和宿大宮宿与野町岩槻町および大門宿の5か所であった。このうち、岩槻町が唯一の城下町であり、またこの岩槻町と大門宿が、将軍の日光参詣や岩槻藩の参勤交代の経路として用いられた日光御成街道の宿場町である。また、浦和宿と大宮宿は、五街道の一つとして整備された中山道の宿場町であり、与野町は甲州街道と日光御成街道を結ぶ脇往還である奥州道中岩槻道の継立場として成立した街である。しかし、大門宿の規模は極めて小さく、また浦和宿や大宮宿も中山道の宿場町の中では比較的小規模であって、与野町の方が規模の大きい街であった[33]

江戸時代は、利根川荒川流域において、多数の河川の付け替えや沼地の干拓が行われた時代であり、現さいたま市域もその影響を大きく受けた。まず寛永6年(1629年)には、関東郡代伊奈忠治らが、利根川東遷事業の一環として、それまで現在の元荒川へと流れていた荒川の河道を、現在の熊谷市久下付近で締め切り、和田吉野川市野川を経由して入間川筋に流す河川改修を実施した。この河川の付け替えにより、元荒川筋では水害が減少して新田開発が盛んに行われるようになった反面、入間川筋ではより一層洪水の危険性にさらされることとなった[34]。同じく1629年には、灌漑用水の確保を目的として、現在の東浦和駅南東側付近の芝川を塞き止める八丁堤も築堤され、その上流側に見沼溜井が形成された。

1728年享保13年)には、享保の改革の一環として新田開発を進めていた徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、八丁堤を切り開いて見沼溜井を干拓して新田(見沼田んぼ)とし、それにかわる水源として利根川から見沼代用水(現さいたま市域は見沼代用水東縁見沼代用水西縁に分流)を開削させた。1731年(享保16年)には、もとの八丁堤があった付近に日本で最古級の閘門式運河である見沼通船堀が開削され、見沼代用水東縁・見沼代用水西縁と芝川をつなぐ内陸水運路となった。享保17年(1732年)には、見沼代用水西縁から分水するかたちで高沼用水路が開削され、見沼に続いて鴻沼が干拓された。

また、江戸時代には現在の上尾市域から、さいたま市南区域にかけての広い範囲が、紀伊徳川家徳川将軍家鷹場となっていた[35]

近代

[編集]

明治維新の過程において、日本の地方行政に関わる制度が府藩県三治制慶応4年・明治元年〈1868年〉)、版籍奉還(明治2年〈1869年〉)、廃藩置県(明治4年〈1871年〉)と移行してゆく中で、現さいたま市域では明治2年1月28日(1869年3月10日)に大宮県が設置されたが、大宮県の実質的な県庁機能は東京府日本橋馬喰町に置かれた。同年9月には県庁が浦和宿(現:浦和区)に移転し、県名も浦和県へと変更された。一方、岩槻藩は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により岩槻県となった。その後、同年11月14日に、浦和県、岩槻県、忍県が合併して埼玉県が誕生[36]、県庁は旧浦和県庁に置かれた。

日本初の鉄道開業新橋駅 - 横浜駅〈現:桜木町駅〉間)から11年後の1883年(明治16年)には、日本鉄道上野駅 - 熊谷駅間(現:宇都宮線高崎線)が開通し、現さいたま市域では7月28日に、初の鉄道駅である浦和駅(旧浦和操車場)が開業した[37]。 

市域西部を流れる荒川は、1907年(明治40年)8月と1910年(明治43年)8月に水害を起こし、特に1910年の水害は関東大水害として知られる。荒川をはじめ埼玉県内の多数の河川が大雨により氾濫し、埼玉県や東京府の広い範囲が浸水するなど、大規模なものとなった。これらの水害を契機に、荒川では「荒川下流改修計画」「荒川上流改修計画」が策定され、一体的な治水対策や河川改修工事が行われるようになった。しかしながら、戦争を含む当時の日本の経済・社会情勢の影響を受け、工事は当初予定よりも大幅に時間を要することとなった。現さいたま市域は、荒川上流改修計画に含まれているが、これによる河川改修工事は、開始年が1918年大正7年)、付帯工事も含めた終了年は1954年昭和29年)のことである。これにより、さいたま市付近の荒川は、幅2km弱にわたる河川敷を有することとなった[38]

1923年(大正12年)の関東大震災は現在のさいたま市域、なかでも浦和と大宮の発展に大きな影響を及ぼすことになる。この時期、埼玉県では主要都市中心部で「耕地整理事業」の名による区画整理が始まっていたが、中でも早期に耕地整理事業が進み、震災の時点で既に中心部付近に整備された碁盤状の街区を設けていた旧浦和町は震災被害も軽微であった(死者は3名[39])。このため、壊滅した東京や横浜から人口が流入し、特に別所沼の周辺の浦和駅西側地域には画家をはじめとした富裕層や文化人が移住した。彼らは「浦和画家」と呼ばれる文化人コミュニティーを形成し、文教都市浦和の発展に寄与した。一方、大宮ではやはり震災を契機として、大宮町・大砂土村境界部に東京市の小石川から盆栽業者が集団移転し、盆栽村組合が設立されて厳格な景観に対する取り決めを行い、盆栽村が形成された。これら関東大震災後に浦和・大宮に花開いた文化は、現在でも文化的遺産となっている。

1927年(昭和2年)に宮脇梅吉が埼玉県知事に就任。宮脇は、県庁のある浦和の単独市制もしくは浦和・大宮・与野の三町と六辻・三橋の二村の合併による一大都市圏実現を構想した。宮脇は在任わずかで他県に転出して実現しなかったが[40]1931年(昭和6年)に宮脇が再び埼玉県知事に就任。持論を再び展開し、日進を加えて三町三村の合併による「大埼玉市構想」を強く提唱した[40]。しかし大宮町の負債総額が浦和町を大幅に上回っていたことから浦和町が合併に消極的であったといわれ[41]、合併は実現しなかった。1934年(昭和9年)、市制施行により浦和市が発足。これは都道府県庁所在地として最も遅い市制施行であった。また、浦和・大宮・与野・六辻・三橋の1市2町2村の上水道を取り扱う「埼玉県南水道組合」(後の埼玉県南水道企業団、現:さいたま市水道局)が設立され、「大埼玉市」構想の一部が実現した[40]

1939年(昭和14年)には浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨などの一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示した[40]。翌年の1940年(昭和15年)、埼玉県が仲介して大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意にこぎつけたが、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなった。大宮町は、交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた日進・三橋・宮原・大砂土の4村と11月に新設合併を行い、大宮市が発足。1943年(昭和18年)には、埼玉県知事の大津敏男が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。

太平洋戦争中は、埼玉県内を管轄する浦和連隊区司令部が置かれ、戦争末期の1945年(昭和20年)には、浦和に第36軍が置かれた。市域では4月14日に浦和と大宮が、5月26日に再び浦和が空襲を受け死傷者が生じ、また浦和への爆撃予告ビラが投下されるなどしたが、県内最大の空襲である熊谷空襲のような大規模空襲に遭うことはなかった[42]。終戦後進駐軍の占領下になると埼玉会館に埼玉軍政部が置かれた。

現代

[編集]
みそのウイングシティ

2001年に戦前(1927年)から数度浮上した合併構想が結実し、浦和・大宮・与野の合併によりさいたま市が発足した。2005年には岩槻を編入し現在に至っている(下記)。戦後、現市域内のインフラ整備は著しく、浦和市域を東西に走る武蔵野線1973年)、浦和・与野・大宮の3市を南北に走る埼京線1985年)および東北新幹線上越新幹線1982年、大宮駅以南の開業は1985年)などを初めとした鉄道路線が開業し、浦和・岩槻の2市を南北に通る東北自動車道1972年岩槻IC以南の開業は浦和ICまでは1980年浦和TB以南は1987年)、浦和市域を東西に通る東京外環自動車道1992年、市域内にインターチェンジの設置はされなかった)、浦和・与野・大宮の3市を南北に通る首都高速道路埼玉大宮線1998年)などの高速道路や、新大宮バイパス上尾道路西大宮バイパス東大宮バイパス岩槻春日部バイパス蓮田岩槻バイパス・岩槻鳩ヶ谷バイパスなどの国道バイパスを始めとした一般道路の整備が行われた結果、至近の現市域も人口流入が進んだ。特に浦和市は県庁所在地として、大宮市は商業の中心としてそれぞれ発展した。平坦な地形から住宅開発が進み、旧4市域の人口は1990年代に100万人を超え、合併後には130万人となり、京都市に次ぐ国内9位の都市となった(日本の市の人口順位参照)。現在も複数の区画整理事業(一覧)が進められており、今後も市街地の拡大が見込まれる。埼玉スタジアム2002を中心としたみそのウイングシティは、計画人口3万人以上の市内最大規模の開発事業となった。また、主要駅周辺部では再開発事業(一覧)が活発化し、高層建築物が増加した。市内で最も高さがある建物はさいたま新都心にあるランド・アクシス・タワー(略称:L.A.タワー)(168m)、最も階数が高い建物はライブタワー武蔵浦和(38階)となっている。2023年SDGs先進度調査において全国815市区のうちさいたま市が1位となった。

浦和市・大宮市・与野市の合併

[編集]

合併に関する経過と合併後の沿革。旧市に関する詳細な歴史は各4市の項目を参照。

  • 1953年昭和28年) - 9月、町村合併促進法が制定される。いわゆる「昭和の大合併」の始まり。
  • 1954年(昭和29年) - 2月、埼玉県が県内323市町村を81市町村にまで合併再編する合併試案を示し、浦和市・大宮市周辺では浦和市・大宮市・与野町・大久保村・土合村の2市1町2村による合併試案が示される。しかし浦和市は大久保村・土合村を編入する合併、大宮市は周辺6村を編入する合併を構想し、この枠組みでの合併は実現せず[43]。11月、与野町が大久保村に合併を申し込むも、実現せず[44]
  • 1955年(昭和30年) - 1月、浦和市が大久保村・土合村を編入、大宮市が周辺6村(指扇村・馬宮村・植水村・片柳村・七里村・春岡村)を編入。2月、与野町議会に北部を大宮市、南部を浦和市に編入させ、中央部を残存させる案が提出されるも、反対議員や町民が議場を取り囲んで開会できず、与野町はそのまま残る[45]
  • 1958年(昭和33年) - 市制施行により与野市が発足。
  • 1962年(昭和37年) - 浦和市議会が、三市と川口・蕨での五市合併を呼びかけ。第一段階で三市、第二段階で川口・蕨との合併をするというものだった。
  • 1973年(昭和48年) - 三市の市長が合併に関して初会談。また、北九州市の合併推進派の理論的支柱となった都市社会学者の磯村英一が、三市について「合併しなければ、背を向け続けるであろう」と警告。
  • 1980年(昭和55年) - 10月、県南中央地域の都市間相互のゆるやかな連合を掲げ、浦和市、大宮市、与野市、上尾市伊奈町の4市1町および埼玉県による「埼玉中枢都市首長会議」が発足。
  • 1982年(昭和57年) - 4月、従前の首長会議の名称を「埼玉中枢都市圏首長会議」に変更。9月、「埼玉中枢都市圏構想・基本構想」策定。
  • 1985年(昭和60年) - 12月、「埼玉中枢都市圏構想」の名称を「さいたまYOU And Iプラン」(構成4市1町の英表記頭文字を組み合わせた名称)に変更。
  • 1990年平成2年) - 7月、「政令指定都市化」を公約にして、新藤享弘が大宮市長に就任。だが、単独での実現は現実的には不可能であり、合併による政令指定都市化を目指すものだった。これには与野市長の井原勇も同調した。
  • 1991年(平成3年) - 4月、「政令指定都市化」を公約にして、相川宗一が浦和市長に就任。これに難色を示した現職の中川健吉を破っての就任であった。
  • 1992年(平成4年) - 4月、国土庁が4市1町の圏域を「埼玉中枢都市圏域業務核都市基本構想」として承認。
  • 1993年(平成5年) - 6月、旧国鉄大宮操車場跡地に、国の10省庁17機関の移転決定。12月、4市1町の強固な連合を目標とした「彩の国YOU And Iプラン」を策定。以後、合併政令指定都市化の動きが活発化する。
  • 1995年(平成7年)
    • 3月 - 「合併促進決議」が浦和市議会、大宮市議会で可決、与野市議会も6月に決議を可決。この決議において「浦和を『行政の中心』、大宮を『経済の中心』、与野を『情報発信(文化)の中心』とする」という新市における三地区の位置づけが確認された。
    • 7月19日 - 上尾市が浦和市・大宮市・与野市からの合併協議会設置請求に対し拒否回答。
  • 1997年(平成9年)12月18日 - 任意協議会「浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会」が設置される[46]
  • 1998年(平成10年)
    • 4月15日 - 新市の名称の議論を付託された「第2小委員会」が設置される。
    • 10月30日 - 大宮市の提案に基づき、3市の市民代表・学識経験者・マスコミ関係者で構成される「浦和市・大宮市・与野市新市名検討委員会」が設置される(会長:兵藤釗埼玉大学学長)。
    • 11月2日 - 第2小委員会開催。新市名検討委員会から、「新市の市名は公募することが望ましい」との報告を受ける。大宮市は公募方式に対し態度を保留するも、同月10日に新市名検討委員会は国内外からの公募を再確認。その後、上尾市・伊奈町を同時に合併しないことを理由に大宮市が審議をボイコットし、合併推進協議会の協議が停滞(上尾市・伊奈町を含めた合併は、大宮市が強く求めていたもので、両市町は彩の国YOU And Iプランに含まれる領域であるとともに、大宮市にとって自身を新市の地理的な中央部に置くためには両市町を組み込むことが死活問題であった)。浦和市は審議正常化を求め、逆に戸田市・蕨市も合併に加えることを提案(1962年に打ち出した合併構想案の一部を変えたものであった)。
  • 1999年(平成11年)
    • 6月25日 - 3市先行合併、合併後に上尾市・伊奈町の意向確認を行う旨の合意が行われ(いわゆる「 6・25合意」)、審議が正常化する。
    • 8月 - 19日、大宮市議会の再反対で公募を先送り。28日、公募実施要項に「6・25合意」を盛り込むことで公募の実施を合意。31日、第14回第2小委員会で市名の公募の実施を合意。
  • 2000年(平成12年)
    • 1月10日 - 市名の公募を実施。期限の2月18日までに全国から67,665件、8,580種類の応募がなされる。その結果は、『埼玉市』が1位(7117票)、『さいたま市』が2位(3821票)というものであった。また合併を構成する各市の名称を用いる案は『大宮市』が3位(3008票)、『浦和市』が6位(1821票)となったが、大宮市以外の地域からの『大宮市』への応募は24.8%、浦和市以外の地域からの『浦和市』への応募は29.7%と少なく、浦和市からの『大宮市』への応募は1.1%、大宮市から『浦和市』への応募は3.7%であった[47]。また、『与野市』は100位以内に入らなかった[48]
    • 3月26日 - 新市名検討委員会での検討の結果、『埼玉市』(公募1位)・『さいたま市』(2位)・『彩都市』(5位2495票)・『さきたま市』(7位1374票)・『関東市』(37位217票)の5案が市名候補として選考され、第2小委員会委員長および小委員会に報告される。
    • 4月
      • 4日 - 第22回第2小委員会が開催。浦和市・与野市から『さいたま市』、大宮市から『大宮市』の2つの市名案が提案される。なお、『大宮市』の名称は、大宮市の提案で設置された新市名検討案が提出した市名候補5案にはないものだった。
      • 11日 - 第23回第2小委員会が開催。『埼玉』などの名称を使用しないでほしいとする要望書を提出した、行田商工会議所会頭・行田市埼玉地区自治会連合会会長が招聘される。
      • 17日 - 第25回第2小委員会が開催。大宮市側は新市の市役所をさいたま新都心周辺地区に置くよう要求し、合併促進決議以来「行政の中心」と位置付けられている浦和市側の猛反発を受ける。最終的に「さいたま新都心周辺地域が望ましいとの意見を踏まえ、将来の新市の事務所の位置についての検討や庁舎建設基金を創設を行う」旨[注釈 14]を合併協議書に盛り込むことで、新市名を『さいたま市』とすることに合意した[49] が、合併後は「将来の市役所の位置」に関する合併協定書の文言に関する解釈を巡って対立が見られる(当時から域内最大の人口を有し市の中心となる浦和市側の反発により、新市役所をさいたま新都心に設置すると明記されておらず、「意見を踏まえ…位置を検討する」という玉虫色の文章にされているため)。
      • 24日 - 第21回合併推進協議会が開催。新市名を 『さいたま市』とする旨委員長報告があり、議案が提出。即日議決される。なお、さいたまの「さ」の字体は、2画目と3画目が連続した字体(「ち」の鏡文字)を正式としたが、市民などが住所を表記する際にはどちらでも構わないとしている。
      • 29日 - 法定協議会「浦和市・大宮市・与野市合併協議会」が設置される。新市名が「さいたま市」に決定[50]
    • 5月5日 - 浦和市・大宮市・与野市の市境域の旧国鉄操車場跡地にて、さいたま新都心がまちびらき。なお、この「さいたま新都心」という名称は、1999年4月に決まっていたものであり、市名「さいたま市」との直接の関係はない。
    • 9月5日 - 合併協定調印式。

合併から政令指定都市へ

[編集]
岩槻市を編入、現在のさいたま市が成立

政治

[編集]

市長

[編集]

さいたま市議会

[編集]

市長選挙・市議会選挙

[編集]
  • 2001年(平成13年)5月27日:初の市長選挙。前浦和市長の相川宗一(自由党推薦)が当選。
  • 2003年(平成15年)4月13日:初の市議会議員一般選挙。議員定数を64に削減。
  • 2004年(平成16年)12月26日:南区選出議員の市議会議員補欠選挙。
  • 2005年(平成17年)5月15日:市長選挙。岩槻区選出議員の市議会議員増員選挙。浦和区選出議員の市議会議員補欠選挙。議員定数を71に増加。
  • 2007年(平成19年)4月8日:市議会議員一般選挙。議員定数を64に削減。
  • 2009年(平成21年)5月24日:市長選挙。西区・北区選出議員の市議会議員補欠選挙。
  • 2011年(平成23年)4月10日:市議会議員一般選挙。議員定数を60に削減。
  • 2013年(平成25年)5月19日:市長選挙。見沼区選出議員の市議会議員補欠選挙。
  • 2015年(平成27年)4月12日:市議会議員一般選挙。
  • 2017年(平成29年)5月21日:市長選挙。
  • 2019年(平成31年)4月7日:市議会議員一般選挙。
  • 2021年(令和3年)5月23日:市長選挙。
  • 2023年(令和5年)4月9日:市議会議員一般選挙。

国政選挙

[編集]

本市における衆議院小選挙区は、4つに区分されている。

議員名 党派名 当選回数 備考
村井英樹 自由民主党 5
武正公一 立憲民主党 7 比例復活
議員名 党派名 当選回数 備考
枝野幸男 立憲民主党 11
議員名 党派名 当選回数 備考
田中良生 自由民主党 6
議員名 党派名 当選回数 備考
土屋品子 自由民主党 9
三角創太 立憲民主党 1 比例復活


県政選挙

[編集]

本市における埼玉県議会の選挙区は、行政区ごとに区分して議員を選出している。その総数は14である。

選挙区名 定数 議員名 会派 当選回数
南第3区 さいたま市西区 1 日下部伸三 自由民主党 4
南第4区 さいたま市北区 2 関根信明 自由民主党 2
小川寿士 埼玉民主フォーラム
(立憲民主党)
1
南第5区 さいたま市大宮区 1 藤井健志 自由民主党 3
南第6区 さいたま市見沼区 2 田村琢実 自由民主党 5
武田和浩 埼玉民主フォーラム
(立憲民主党)
1
南第7区 さいたま市中央区 1 宮崎吾一 自由民主党 2
南第8区 さいたま市桜区 1 荒木裕介 自由民主党 4
南第9区 さいたま市浦和区 2 野本怜子 埼玉民主フォーラム
(立憲民主党)
1
高木功介 自由民主党 2
南第10区 さいたま市南区 2 林薫 自由民主党 1
木村勇夫 埼玉民主フォーラム
(立憲民主党)
5
南第11区 さいたま市緑区 1 高橋政雄 自由民主党 5
南第12区 さいたま市岩槻区 1 小島信昭 自由民主党 7

行政

[編集]

さいたま市役所」も参照。

広報活動

[編集]

市の一般的な広報活動は、広報課により行われている。同課内には、一般的な広報活動の企画立案や各区ごとの広報活動の取りまとめを行う「広報係」のほか、行政情報の見える化を推進することを主な業務とする「企画推進係」がある[121]

主な広報媒体として、広報誌『市報さいたま』(毎月1回発行、全戸配布)、テレビ番組『のびのびシティさいたま市』(テレビ埼玉で放送)のほか、ウェブ媒体によるもの(公式サイトおよびメールマガジン)などがあり、このうち『市報さいたま』については視覚障害者向けにカセットテープ版や点字版も制作されている[122]。また、この他にも市議会や市政の個別テーマ・部局・地域ごとの広報が多くなされている。

市のマスコットキャラクターとして、市内の見沼(見沼田んぼ)に伝わる伝承に因んだ「つなが竜ヌゥ」が2007年9月20日に制定された[123]。このキャラクターは一定の条件(要綱・マニュアルに記載)を満たせば営利目的を含めて誰でも使用することができるほか、着ぐるみの貸し出しも行われている[124]。また、埼玉県の自治体のゆるキャラで構成されるゆる玉応援団にも加盟している。また、やなせたかしによるキャラクター「浦和うなこちゃん」がさいたま観光大使に任命されており、各種イベントにて「ヌゥ」や埼玉県のキャラクターである「コバトン」・「さいたまっち」と一緒に登場することが多い[125]

市歌として、「さいたま市の歌『希望(ゆめ)のまち』」が制作されている。政令指定都市移行記念として2003年に制定された。公募により880点寄せられた歌詞の最優秀作品に市出身のタケカワユキヒデが作曲および補作詞をした楽曲で、タケカワと二人の娘(武川基、武川アイ)のユニット「タケカワユキヒデ & T's COMPANY」が歌う。この楽曲の冒頭とエンディングに流れるチャント風のエールは、浦和レッズと大宮アルディージャのサポーター有志によるものである。また、このエールをアレンジしたものが市内の複数のJR駅で発車メロディーとしても使用されている[126]

市の機関

[編集]
消防局・危機管理センター
消防・防災
保健所
上下水道
ごみ処理施設
斎場
  • 浦和斎場(桜区)
  • 大宮聖苑(見沼区)
  • 思い出の里会館(見沼区・思い出の里市営霊園内)
  • ひかり会館(中央区)
観光案内所
  • 浦和観光案内所(アトレ浦和South Area内)
  • 大宮駅観光案内所(大宮駅構内)
  • さいたま新都心観光案内所(さいたま新都心駅東西自由通路)
  • 岩槻観光案内所(岩槻駅構内)

教育

[編集]
教育委員会
教育研究所
児童施設
  • こころの健康センター

※その他10区すべてに子育て支援センターを設置している。

図書館

[編集]

さいたま市図書館を参照。市内に25館設置されている。ほかに埼玉県立熊谷図書館浦和分室が、埼玉県立浦和図書館閉館後埼玉県立文書館内に設置。

地域拠点施設

[編集]

コミュニティセンター

[編集]

支所・市民の窓口

[編集]

県の出先機関

[編集]


国の出先機関

[編集]

中央省庁の関東地方を管轄する出先機関地方支分部局)の多くが、中央区新都心(さいたま新都心)に集積している。

他の自治体との協力・交流

[編集]

県庁・近隣市との広域行政

[編集]
一部事務組合
事務委託

県外自治体

[編集]

友好都市として、福島県南会津町新潟県南魚沼市群馬県みなかみ町千葉県鴨川市と交流している(2023年時点)[127]

上記自治体には以下の運営施設がある。

  • さいたま市立舘岩少年自然の家(南会津町)
  • ホテル南郷・さゆり荘(南会津町)
  • 新治ファミリーランド(みなかみ町)

千葉県南房総市とは2008年3月31日をもって友好都市提携を解消した(友好関係は継続)。旧岩槻市が1981年11月26日安房郡千倉町と友好都市提携した。

このほか、大宮駅を通る北陸新幹線の延伸先である福井県と、相互発展に向けた連携協定を2023年12月25日に締結した[128]

海外の姉妹・友好都市

[編集]

2023年時点で以下の6都市[129]

司法

[編集]

裁判所

[編集]

経済

[編集]

概要

[編集]

さいたま市の市内総生産額は4兆6,760億円(2020年度)[130]、製造品出荷額等は8,277億円(2020年)[131]、年間商品販売額は5兆2,218億円(2021年)[132] である。製造業の従業者数(2020年)、商業の事業所数及び従業者数(2021年)は県内1位である[131][132]

産業構成

[編集]
さいたま市と埼玉県、日本全国、政令市・特別区部平均の従業人口ベースの産業構成。

さいたま市では、従業者の80%以上が商業・サービス業などの第三次産業に従事している。この構成割合は、政令市および東京特別区部全体とほぼ同様である。埼玉県全体や日本全国と比べると、製造業の構成割合が小さく、サービス業の構成割合が大きい。市街地にはテクノシティ浦和などのデータセンター、郊外には岩槻工業団地、吉野原工業団地などの物流拠点が所在する。

経済団体

主な企業

[編集]
金融機関(銀行)
埼玉りそな銀行本部
武蔵野銀行本店
金融機関(金庫)
本社を置く主な企業
研究所など
特殊法人
独立行政法人
独立行政法人(国立研究開発法人
組合企業

主な商業施設

[編集]
そごう大宮店
大宮アルシェ
伊勢丹浦和店

主なホテル

[編集]

教育機関

[編集]
埼玉大学

小中学校および高等学校、特別支援学校等はCategory:さいたま市の学校を参照。

大学

国立大学法人

私立

  • 慶應義塾大学薬学部浦和共立キャンパス(緑区、学部内のクラブ活動や学生の研修などのみに使われている。キャンパス内に附属薬用植物園がある)
  • 芝浦工業大学大宮キャンパス(見沼区、工学部およびデザイン工学部1・2年生、システム理工学部全学年)
  • 浦和大学(緑区)
  • 目白大学さいたま岩槻キャンパス(岩槻区、キャンパス内に目白大学耳科学研究所クリニックがある)
  • 日本大学法学部大宮グラウンド(見沼区、旧称は「大宮キャンパス」。2009年3月に体育実技科目の一部を残して当キャンパスでの授業を廃止。グラウンドのみが使われている。また、緊急災害対策派遣隊(TEC-FORCE)の活動拠点としても使用される)
  • 人間総合科学大学岩槻キャンパス・蓮田キャンパス(岩槻区、本部である蓮田キャンパスの所在地は、岩槻区内に属している)
  • 日本赤十字看護大学さいたま看護学部大宮キャンパス(中央区)
  • 放送大学埼玉学習センター(大宮区)
  • 国際学院埼玉短期大学(大宮区)

その他

[編集]

ホール

[編集]
さいたま市文化センター

マスメディア

[編集]

新聞社

[編集]

地元の地方紙埼玉新聞』を発行する埼玉新聞社の本社が北区吉野町にある[134]。県庁所在地であるため、各全国紙の支局を置いている。

放送

[編集]
テレビ放送局
FMラジオ局
コミュニティFM局
ケーブルテレビ

医療機関

[編集]
さいたま市立病院

さいたま市は、1市で1つの二次医療圏(さいたま保健医療圏)を構成する。

医師会
日本赤十字社

郵便

[編集]
  • 2003年4月1日の政令指定都市移行時に集配郵便局及び郵便番号の上5桁を9つの行政区毎に一致させるために集配郵便局と郵便区の再編が行われた。以下に各局の所在地と管轄地域を記す。

スポーツ

[編集]

サッカー

[編集]
埼玉スタジアム
NACK5スタジアム大宮

さいたま市は、旧浦和市域を中心としてサッカーが盛んな街でもある。現在のさいたま市役所付近に置かれた埼玉師範学校(後の埼玉大学教育学部)が1937年の全国中等学校蹴球大会(後の全国高等学校サッカー選手権大会)で初優勝し、初めて優勝旗が箱根の山を越えた(かつては近畿地方で全国大会が開かれていたため)。以来、1950年代から1970年代にかけて浦和高校浦和西高校浦和市立高校浦和南高校が次々と全国制覇し、静岡県広島県と共に「サッカー御三家」と称された[135]

2024年時点で、さいたま市内を本拠地とするプロサッカークラブとして、男子はJ1に所属する浦和レッズJ3に所属する大宮アルディージャ、女子はいずれもWEリーグに所属する三菱重工浦和レッズレディース大宮アルディージャVENTUSがある。特に三菱重工業サッカー部を前身とする浦和レッズは、AFCチャンピオンズリーグで3度優勝(大会最多かつ国内唯一)した強豪クラブとなっている。浦和レッズと大宮アルディージャとの試合は「さいたまダービー」と呼ばれ、三菱重工浦和レッズレディースと大宮アルディージャVENTUSとの試合も「さいたまダービー」と呼ばれる。また、J1規格以上のサッカースタジアムが3つある都市はさいたま市だけとなっている。

2002年には、FIFAワールドカップの埼玉会場として、日本代表の初戦や準決勝戦など4試合が緑区の埼玉スタジアム2002で行われた。2020年東京オリンピックでは、男子は準決勝戦や3位決定戦など7試合、女子は準々決勝戦など4試合が当地にて行われた。

野球

[編集]
県営大宮球場

市内では野球も盛んであり、県営・市営あわせ4つの野球場が所在する。高校野球においては、選抜高校野球大会に11回、全国高校野球選手権に15回出場し、県内最多(合計26回)の甲子園大会出場回数の浦和学院高校が所在しており、2013年に浦和学院高校が、1968年大宮工業高校が選抜高校野球大会で全国優勝を果たしている。

社会人野球においても、実業団チームでは日本通運が浦和市時代から都市対抗野球大会に48回、日本選手権に23回出場しており、1964年埼玉県勢初の都市対抗野球大会優勝を果たし、1994年には日本選手権に優勝を果たすなど南関東エリアの強豪として知られている。また、クラブチームでは全浦和野球団全日本クラブ野球選手権大会1976年の第1回大会から3連覇を果たしている。戦前は大宮町に本拠に置いた「全大宮」が1932年から都市対抗野球大会に5年連続で出場し、1935年1936年と二年連続で準決勝に進出する活躍をした。

バスケットボール

[編集]

バスケットボールについては、B3リーグ所属のさいたまブロンコスホームタウンである他、2006年8月26日から9月3日まで、FIBAバスケットボール世界選手権のファイナルラウンド、2021年7月24日から8月8日まで、2020年東京オリンピックの男女の全ての試合が、中央区さいたまスーパーアリーナにて行われた。

女子では現在は廃部となったが、日本リーグにも参戦していた日本通運ディアーズ浦和市に本拠を置いていた。また、さいたまスーパーアリーナが2020年東京オリンピックにおいて使用される事を受け、2017年度より天皇杯・皇后杯全日本バスケットボール選手権大会の最終ラウンドを当地にて行われている。

卓球

[編集]
  • Tリーグ(Tプレミアリーグ・男子)
    • T.T彩たま(埼玉県全域をホームタウンとするが、ホームタウン中心活動地域としている)

自転車競技

[編集]

スポーツ文学賞

[編集]

さいたま市は「スポーツが盛んな都市」というイメージを生かし、1994年にさいたま市スポーツ文学賞(開始時は「浦和スポーツ文学賞」。現在は終了)を創設した。スポーツを題材とする小説およびエッセイを全国から公募する文学賞で、2010年まで隔年で実施された。また、受賞者の作品集『SPORTS STORIES』を毎回刊行していた。

スポーツ施設

[編集]

サッカー

[編集]

野球

[編集]

その他

[編集]

観光

[編集]

主な文化財

[編集]

市指定のものは「さいたま市指定文化財一覧」も参照。

観光スポット

[編集]
公園
美術館
博物館
その他

祭事・催事

[編集]

伝統産業

[編集]

地域活性化、後世への継承を図るため2008年(平成20年)4月25日に以下3つを市の伝統産業を指定した。

食文化・食材

[編集]
  • ケーキ総務省統計局『家計調査年報』〈1998年 - 2000年の平均〉)によると、旧浦和市の1世帯当たりの年間ケーキ購入額が全国で1位となったため、埼玉中央青年会議所(埼玉中央JC)が「ケーキのまち・さいたま」を宣言し、ケーキで街おこしをしようと毎年ケーキにちなんだイベントを開催している。また、パスタの消費量も全国で1位である。
  • サツマイモ:品種「紅赤」は、浦和区木崎が発祥地。
  • 慈姑:緑区と岩槻区が国内有数の産地。
  • :岩槻区は「岩槻ねぎ」の産地として知られ、落語たらちね』に登場する。
  • 豆腐ラーメン豆腐ひき肉がかかった、埼玉県のご当地ラーメン

交通

[編集]

鉄道

[編集]

2017年(平成29年)7月時点で、市内33駅合計の乗降客数は増加傾向にある[145][146]

鉄道路線

大宮駅は市内最大のターミナル駅であり、乗り入れ路線数16路線は東京駅に次いで全国第2位、一日当たりの平均乗降人員は約70万人と、さいたま市内だけでなく埼玉県内で最も乗降人員が多い。さらに「東日本の玄関口」として位置づけられている。日本国有鉄道(国鉄)大宮工場を母体とする東日本旅客鉄道(JR東日本)大宮総合車両センター日本貨物鉄道大宮車両所を中心に繁栄し、かつて国鉄により公式に認定された「鉄道の町」の一つである。JRでは線籍上東北本線に属している。新幹線は、東北新幹線山形新幹線秋田新幹線北海道新幹線上越新幹線北陸新幹線の全列車が停車する。なお、上越新幹線は線籍上の起点駅となっている。

在来線京浜東北線宇都宮線高崎線埼京線川越線湘南新宿ラインが通る。高崎線と川越線の起点駅となっているほか、武蔵野線直通の「むさしの号」「しもうさ号」も発着する。

これらJR各線に加えて、東武野田線(東武アーバンパークライン)・新交通システムである埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)がそれぞれ起点駅として発着している。ニューシャトルは、鉄道博物館へのアクセス路線となっている。大宮駅および隣接するさいたま新都心駅周辺一帯は、市内最大のオフィス街繁華街が形成され、コナベーション化した発展を見せている。JTBパブリッシング交通新聞社(都道府県代表駅の記号がない「東京時刻表」を除く)の時刻表における名目上の県市代表駅は、県庁舎の最寄り駅である浦和駅と記されている。

現さいたま市域において初めて鉄道が開通したのは、1883年(明治16年)7月28日で、現市域で当時唯一の鉄道駅として浦和駅が開業した(日本鉄道上野駅 - 熊谷駅間)。その後、東北本線の分岐点として選出された大宮駅が1885年(明治18年)3月16日に開業し、現鉄道網の礎が築かれた。さらに、新たな鉄道路線の開通や新駅の開業により、現さいたま市域を通る路線や駅は次第に増加し、4つの事業者が運行する11の旅客鉄道路線[注釈 16]と、31の鉄道駅が存在するまでになった。このうちJRの駅は19駅で、大宮駅・浦和駅・南浦和駅・さいたま新都心駅・武蔵浦和駅北浦和駅の6駅は、JR東日本の乗車人員ランキング上位100位内にランクインする[147]

旅客鉄道路線の多くは南北方向に通じており、東京大都市圏における放射状の路線をなしている。特に大宮駅以南は、京浜東北線、宇都宮線・高崎線、湘南新宿ラインの3複線と、東北新幹線の建設の際に別線として建設した埼京線の4路線が担っており、多数の列車が運行されている。大宮駅以北でも、宇都宮線・高崎線が都心へのアクセス路線という重要な役割を果たしている。一方で、東京大都市圏における環状の路線をなす路線として、大宮駅から岩槻駅方面への東武野田線(東武アーバンパークライン)と指扇駅方面への川越線が、また市南部には武蔵野線が、それぞれ東西方向に通じている。なお、むさしの号・しもうさ号を除く武蔵野線と埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)以外、市内を走る全ての路線が大宮駅に発着している。

大宮駅
大宮駅