明治天皇
明治天皇 | |
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即位礼 | 即位礼紫宸殿の儀 1868年10月12日 (慶応4年8月27日) 於 京都御所 |
大嘗祭 | 1871年12月28日 (明治4年11月17日) 於 東京府大嘗宮 |
元号 | 慶応: 1867年2月13日 - 1868年10月23日 明治: 1868年10月23日 - 1912年7月30日 |
時代 | 江戸時代 明治時代 |
摂政 | 二条斉敬 |
征夷大将軍 | 徳川慶喜 |
総裁 | 有栖川宮熾仁親王 |
輔相 | 三条実美・岩倉具視 |
左大臣 | 有栖川宮熾仁親王 |
右大臣 | 三条実美 |
太政大臣 | 三条実美 |
内閣総理大臣 | |
先代 | 孝明天皇 |
次代 | 大正天皇 |
誕生 | 1852年11月3日 (嘉永5年9月22日) 13時頃 日本 山城国京都 中山忠能邸 (現:京都府京都市上京区京都御苑) |
崩御 | 1912年(明治45年)7月30日 午前0時43分(59歳没) 日本 東京府東京市麴町区 明治宮殿 (現:東京都千代田区) |
大喪儀 | 1912年(大正元年)9月13日 於 帝国陸軍青山練兵場 |
陵所 | 伏見桃山陵 |
追号 | 明治天皇 1912年(大正元年)8月27日追号勅定 |
諱 | 万延元年9月28日命名 |
称号 | |
印 | 永 |
元服 | 1868年2月8日 (慶応4年1月15日) |
父親 | 孝明天皇 |
母親 | 中山慶子 |
皇后 | 昭憲皇太后(一条美子) 1869年2月9日 (明治元年12月28日)大婚 |
子女 | |
皇嗣 | 皇太子嘉仁親王 |
皇居 | 安政度内裏 青山御所 東京城・皇城・宮城 |
栄典 | 大勲位 |
親署 |
明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年〉7月30日[1])は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、旧字体:祐󠄀宮)。お印は
倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。維新後、国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられる[2]。東京に皇居を置いた最初の天皇。在位中に皇族以外の摂政(二条斉敬)[注釈 1]、太政大臣(三条実美)、左大臣(有栖川宮熾仁親王)、右大臣(岩倉具視)、征夷大将軍(徳川慶喜)が置かれた最後の天皇にして、内閣総理大臣(伊藤博文)が置かれた最初の天皇でもある。皇后と共に和歌も多く残しており、その作品数は93,032首に及ぶ[3]。
今上天皇(第126代天皇・徳仁)の高祖父である。
生涯
[編集]生誕
[編集]嘉永5年9月22日(1852年11月3日)午の半刻(午後1時頃)に京都石薬師の中山邸の産殿において第121代天皇孝明天皇の第二皇子として生誕した。生母は当時権大納言であった公家中山忠能の娘で権典侍だった中山慶子[5]。
忠能は孫誕生を待ちわびており、娘の慶子が懐妊した時からお産の準備に大わらわとなった。当時、産殿の建設には、総工費100両が必要とされたが、年収200石の公家だった中山家には過重にすぎたため[6]、朝廷から忠能名義で100両、大叔母中山績子(孝明天皇の後宮の女官長格の「大典侍」)名義で50両の合計150両が貸し出され、その資金で六畳、十畳二間の産殿を建設した[7]。
慶子は妊娠5か月後の著帯を実家の中山邸で済ませ、9か月目の正式な著帯を8月27日(10月10日)に宮中において行った[8]。
著帯後、慶子は中山邸に新設された産殿に入って出産に備えた。『明治天皇紀』は慶子が出産の兆候を見せた同日辰の刻(午前8時前後)からの動向を詳細に記している。忠能は巳の刻(午前10時前後)に典薬寮医師3人と産婆1人を呼び寄せ、関白鷹司政通、議奏、武家伝奏に書状を出して生誕が間近であることを伝えた[5]。午の半刻(午後1時頃)に慶子が無事皇子を出産した。忠能はこれを心底喜び[9]、生誕を知らせる新たな書状を回した[5]。
孝明天皇がその報告を受けたのは常御殿北庭の花壇の菊の花を愛でながら一献傾けていた時で、待望の皇子生誕の吉報にことの他喜び、さらに杯を重ねたという[5]。天皇には先に九条夙子(英照皇太后)が生んだ第一皇女順子内親王、坊城伸子が生んだ第一皇子があったが、当時の幼児死亡率は極めて高く、前者は3歳で、後者は誕生即日に生母ともども薨去していた[8]。
生誕直後に胞衣(胎盤など)とともに請衣に包まれる儀式を受けた。ついで誕生の奏上の後に継入の湯に入れられた。臍帯を切ってこれを縛り、創痕を焼灼する儀式が行われた後、賀茂の水の産湯に入れられた。皇子生誕に当たって勧進のため陰陽頭の土御門晴雄が中山邸に派遣されていたが、土御門邸は御所からかなり距離があったために晴雄が中山邸に到着した時には既に皇子は産湯を終えていたが、臍帯の埋蔵の問題が残っており、晴雄の占いの結果に従って洛東吉田神社に臍帯は埋蔵された[10]。
9月28日に「七夜の礼」が予定されたが、その日は姉の順子内親王の百箇日に当たったため、翌日に延期され[11]、9月29日に七夜の礼が行われ、父・孝明天皇から
ただし、祐宮皇位継承はこの時点では確定したものではなかった。祐宮を産んだ中山慶子の実家中山家は羽林家であり、天皇の正室になれる五摂家の娘ではなかったためである[16]。既に孝明天皇には正室・九条夙子(英照皇太后)があり、夙子は女御から准后、皇后へと昇格していくことになっていた。そのため、夙子に皇子が生まれ成長したなら、祐宮が将来即位する可能性は低くなる状況にあった[17]。また、有栖川宮幟仁親王(男系で霊元天皇の4世孫)は、光格天皇の猶子(養子)として仁孝天皇から親王宣下を受け、有栖川宮熾仁親王(男系で霊元天皇の5世孫)・伏見宮貞教親王(男系で崇光天皇の15世孫、女系で霊元天皇の6世孫)は、仁孝天皇の猶子として親王宣下を受けていた[17]。これら3人の親王は、いずれも皇位継承の有力候補であった[18]。従って、夙子に皇子が生まれなくとも、祐宮が親王となる以前に、孝明天皇が崩じる場合などは、3人の親王の1人が皇位継承する可能性もあった[17]。以上のような事情があったものの、孝明天皇は、光格天皇の幼名を与えるほど、唯一の皇子である祐宮に期待を抱いていた[15]。
生後30日目の10月22日、参内始で、祐宮は初めて孝明天皇に会った[19]。この時、天皇は祐宮に人形を与え、祐宮は生母の中山慶子の局(部屋)を宮中での在所とすることになった[15]。ただし、当時は皇子は生母の実家でしばらく育てられた後に御所に戻る慣習があったため、祐宮は四歳まで中山邸で育てられ、折りに触れて御所に参内するという生活を送った[20][21]。
中山邸での日々
[編集]祐宮は安政3年9月29日に御所へ移る4歳までを中山邸で過ごした。外祖父の中山忠能が父親代わりであり、母慶子は典侍として宮中にいたから、外祖母の中山愛子(肥前国平戸藩主松浦清の娘)[22]や忠能の母である中山綱子(正親町三条実同娘)[23]が母親代わりであった。中山家には新たに井戸が掘られ、「祐井」と名付けられた。この井戸は現代まで保存されている[13]。
忠能が祐宮に最初に与えた玩具は木剣、竹刀、木馬だった。祐宮が特に好きだったのは木馬だった。四足の下に箱車が付いていて高さ一尺四、五寸の木馬であり、祐宮はこれにまたがってハイハイと声をかけ、侍女や忠能が引いて歩いた。木馬が壊れた時には侍女も忠能も馬になった[24]。
乳は乳母によって与えられた。当初は九条家の家臣の妻が乳母となったが、途中から学者・木村縫殿之助の妻ライに替わった。乳母にも自身の赤子があり、赤子を伴っての中山邸入りとなった。この赤子達と祐宮は幼友達となったが、よく喧嘩もしたという[25][24]。乳母やその赤子の他にも、中山邸には、中山忠光のような型破りな人間や、儒学者・田中河内介のような熱血漢もいた。このような中山家で養育されたことは、祐宮に大きな影響を与えた[26]。
ただ、当時の中山家は経済的に困窮しており、嘉永6年(1853年)2月には、女官が中山家の家計を心配して、祐宮の宮中帰還を提起するほどだった。そうした中で、祐宮は質実に育てられたと考えられる[27]。
祐宮は嘉永6年9月22日(1853年11月3日)の1歳の誕生日までは、比較的順調に育ったが、1歳の間に何度か10日以上に渡る病気にかかり、2歳の時には水痘にかかり、3歳の時にも高熱を出した[28]。このように、時折体調を崩したが、この程度の発病は現代の幼児にも普通のことであり、医薬が未発達なために、祐宮の病気が現代より長引くのは当然で、回復出来ず死亡に至る乳幼児が多い当時において、回復した祐宮の体は特に弱いわけではなかった[29]。
3歳半になると、好き嫌いの感情をはっきり示すようになった。安政3年(1856年)3月25日の参内の時は
9月22日(11月3日)、祐宮は4歳の誕生日を迎え、例年同様天皇より祝いの品を与えられた。その翌日、忠能に、祐宮を宮中へ戻すよう天皇の命が伝えられた。こうして9月29日、祐宮は中山邸から御所へ移った。祐宮は中山家の人々と屋敷に愛着を持った。宮中で暮らすようになっても、中山邸の杏の実を毎年届けて貰っていた[30]。また、明治天皇は、生涯に渡って、果物の中では杏を大変好んだ[31]。
御所での日々
[編集]祐宮は、御所にある生母の中山慶子の局(部屋)に、慶子と一緒に居住することとなった[23]。中山邸から御所に移った4歳の祐宮は、2か月ほど精神的に不安定な状態が続いた。生母と一緒に住むこととなったとはいえ、環境の大きな変化に適応するのには時間が掛かったと考えられる[32]。
孝明天皇は、祐宮が御所に住むようになって半年ほど過ぎた安政4年(1857年)春頃より、自分が関わる宮中行事を出来るだけだけ沢山見せて、祐宮を宮中に慣れさせると共に、父子の絆を強めて行こうとした[32]。祐宮が8歳で親王宣下するまでの3年半の間に、天皇は自分の後継者として、祐宮の自覚を促すと共に、周囲にも認知させようとした[32]。
この間、5歳となった祐宮は、安政4年11月に初めて和歌を詠んだ[33]。
月見れは 雁 がとんて ゐる 水の中にも うつるなりけり
天皇は、祐宮が自身の所へ出向く度に和歌5題を作らせ、それが出来るといつも菓子を与えた[34]。
権大納言正親町実徳による手習いを経て、安政6年(1859年)3月30日から有栖川宮幟仁親王が祐宮の習字の師範に就いた[35][33]。幟仁親王は毎月日を定めて参内して師範に当たった[36]。天皇は祐宮の習字の師範に親王を付けることで、祐宮を並の親王より上に位置付けたのである[33]。儀式の場にも、祐宮が准后(九条夙子。後の英照皇太后)と共に、天皇に付き従って出席する場面も増え、祐宮が親王宣下を受けて天皇の後を継ぐことは周知の事実となっていった[33]。
4月27日には明経博士伏原宣明が読書師範となり、満7歳にも満たない年齢で四書五経の素読を始めた[37]。
この頃、祐宮は、同年代の公家の子供達と木太刀でチャンバラ遊びをしたり、女官に水鉄砲を掛けたり、万年青の葉を切ったりと、活発でいたずら好きであった[38]。中山邸でもそうだったが、御所でも祐宮が最も好んだ遊びは、箱車の付いた木馬に乗る木馬遊びであった[39]。公家や大名からおもちゃの献上があっても、祐宮は2度ほど遊ぶと、3度目からは投げ付けて壊し、また木馬に乗った。孝明天皇にねだって貰った柿本人麻呂の土人形を、怒り任せに投げ付けて真っ二つにしたこともあった。勝ち気で気が短く、気に入らないことがあると、誰でも小さな拳でぶっていた[39]。
万延元年閏3月16日(1860年5月6日)、御所の御三間において[41]、子供の頭髪の端を切って揃え、髪が長く成ることを祈る深曽木の儀を行った[42][43]。
万延元年7月10日(8月26日)、勅命により准后九条夙子の実子として儲君に定められる。9月3日には式部大輔・文章博士の唐橋在光が諱を勧進し、「與仁」「履仁」「睦仁」の三号を選定して天皇に奏上した。翌日に天皇はこれを関白九条尚忠、左大臣一条忠香ら重臣に示し、その中から最も適切な諱を選ぶよう命じた。8歳を迎えた後の9月28日(11月10日)親王宣下の儀式が行われ、居並ぶ諸卿の前で孝明天皇の宸筆による「
8歳になっても睦仁親王のいたずら好きは相変わらずであった。睦仁親王は年下の藪実休(公家薮実方の子)を伴って、しばしばいたずらをした。生母の中山慶子は、睦仁親王だけを叱ることが出来ないので、睦仁親王を実休と一緒に、御所の御文庫にお仕置として閉じ込めたこともあった[45]。また明治後期に2度に渡り内閣総理大臣を務めることになる西園寺公望は、文久元年(1861年)の頃から御所に出仕し、3歳年下の睦仁親王に近習として仕えるようになり、以来、両者は親交を結んだ[46]。さらに同年12月には、前権中納言裏松恭光の孫良光(後の子爵)が親王附児に付けられ、御学友のような存在となった。良光は数え年で12歳、睦仁親王は10歳の時であった[37]。
親王宣下後、教育も進展した。万延元年(1860年)11月12日、8歳で「大学」の素読を終え、17日から「中庸」の学習に入った。文久元年(1861年)3月には、「中庸」をほぼ修了したので、伏原は続けて「論語」を君徳の養成と啓発のため講義する侍読を行いたいと提言し、天皇の許可を得た[47]。ここまでの教育は略式教育であり、家庭教師が付けられているだけのようなものだが、天皇が陰陽頭土御門晴雄に勧進させた文久2年(1862年)5月27日に読書始の儀を受けたことから、以降正規の皇子教育が始まった。輔育教養の任には外祖父の忠能が当たった[48]。
習字は、引き続き有栖川宮幟仁親王が師範を務め、生母の慶子がそれに付いた。慶子は睦仁親王の習字に関して極めて厳格で、明治天皇が明治20年代頃に自ら語ったところによれば、決められた過程を達成出来ないと、昼になっても食事をさせてくれなかったという。文久元年(1861年)2月20日には、有栖川宮に加えて広橋胤保が四・九の日や当番で御所に参仕する日に習字を教えるようになったが、睦仁親王は習字が好きではなかったため、上達しなかった[49][50]。
和歌に関しては、孝明天皇が睦仁親王に添削を通して直接指導した[51]。元治元年(1864年)正月に、歌道師範家として名高い冷泉家の当主冷泉為理が、睦仁親王に和歌を指導したいと天皇に申し出たが、天皇は積極的に応じなかった。天皇は和歌指導を睦仁親王との父子のふれあいの場として楽しんでいた[34]。天皇による和歌直接指導は、天皇崩御まで続いた[51]。
幕末政治の動乱
[編集]安政5年(1858年)6月、江戸幕府はアメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約に調印し、その条約が天皇の勅許を得ていないことが大問題となった[52]。条約に反対であった孝明天皇は、幕府が独断でアメリカとの条約に調印したこと、さらにロシア・イギリス・フランスとも条約を結ぶ方針であることを聞いて激昂し[53]、8月7日に幕府への強い抗議と条約撤回を求めた御趣意書を幕府へ下すように厳命したが、関白九条尚忠は幕府との関係を慮って、文面を穏やかなものに変えることを望んだが、結局左大臣近衛忠煕が、薩長両藩を始めとする有力諸藩に内密の勅命を伝える解決案を提示し、天皇は容認した。近衛家から、尾張・薩摩・津藩へ、鷹司家から加賀・長州・阿波藩へ、勅命の写しが伝達される。後に水戸藩にも勅命が下った(戊午の密勅)。勅命降下を、名誉なことであると受け止めた諸藩(特に水戸藩)は、以後、条約に反対して天皇を中心に団結して外敵を打払うことを求める尊皇攘夷運動を活発化させた[54]。
これを危惧した幕府大老・井伊直弼は、9月に尊皇攘夷派を大弾圧(安政の大獄)[55]。それに憤った元水戸藩士・元薩摩藩士たちは、万延元年(1860年)3月3日、井伊を桜田門外の変で討ち、以降幕府の威信は弱体化[52]。幕府は権威回復のため、公武合体の目的で、孝明天皇の異母妹和宮親子内親王を将軍徳川家茂と結婚させようと目論んだ[52]。天皇は、これが幕府の露骨な政略であること、和宮が有栖川宮熾仁親王と婚約済であったことから難色を示したが[56]、侍従・岩倉具視の献策を容れ、和宮降嫁を条件に、攘夷を行って10年以内に条約を撤廃することを幕府に約束させ、万延元年(1860年)8月に嫁がせた[52][57]。
文久2年(1862年)12月25日、睦仁親王は准后と共に、孝明天皇に従って、初めて三種の神器の1つである八咫鏡を奉安する内侍所を参拝した。内侍所は紫宸殿東方にある春興殿が充てられていた。宮中の神事への正式な参加である[58]。
文久以降、欧米列強との貿易開始によるマイナスの経済的影響が及ぶようになり始めると、各藩や各地で尊皇攘夷論が激化し、近い将来、天皇の意思を奉じて攘夷を行うことを公約しておいて、いつまでも実行しない幕府は、朝廷・諸藩・志士から様々な手段で攻撃されるようになった。それと共に、水戸・薩摩・長州三藩による尊王攘夷を巡る激しい主導権争いも影響して、有力諸藩の朝廷政治への介入が本格化することとなった[57]。朝廷内部においても尊皇攘夷派が力を強め、朝廷を動かすほどの勢力となった[59]。そして、このような政治闘争において、天皇は公武合体派と尊王攘夷派のどちらの勢力からも担がれており、天皇の政治的地位、権威はいやが上にも高まった[60]。
外祖父の中山忠能も当時公武合体政策を推進していたことから批判対象となり、文久3年(1863年)2月1日には親王御肝煎の地位を尊攘強硬派の三条実美と交代し、差控(謹慎)を命じられるなど、政治変動が睦仁親王にも直接影響を及ぼすようになった[58]。
その後、朝廷は尊攘派主導により、幕府に対して攘夷策と攘夷の実行期限を報告するように催促し、幕府は翌年に上洛して攘夷策を報告することを言明。徳川家光以来、230年振りの将軍上洛が決定された[61]。文久3年(1863年)3月7日、上洛した将軍家茂は、朝廷から攘夷実行期日を迫られ、その意思もないのに5月10日と回答した[62]。3月19日、天皇が将軍家茂に拝謁を許した際に、天皇は睦仁親王を同席させており、睦仁親王は初めて家茂を引見した[63]。
同じ文久3年(1863年)6月19日、老中・小笠原長行が生麦事件についてのイギリスとの交渉を朝廷に報告するとの名目で、幕兵千余人を率いて京都へ入ろうとし、将軍家茂が淀に留めた[63]。京都では、小笠原長行が武力で朝廷に開国を迫り、聞き入れられなかったら都に火を放ち、公家を捕縛して京都を滅ぼそうとしている、幕府が天皇を彦根へ連れ出そうとしている等の噂が流れた[63]。そのため、京都の情勢は騒然となり、朝廷も万一を考え、睦仁親王の側近人数を増やし、家司らのうち3人を数夜に渡って交代で仕えさせた。緊迫感は、11歳に近づいた睦仁親王にも肌で感じられるようになって来た[63]。
同年7月19日、関白・鷹司輔煕が攘夷のために天皇自ら軍を率いて親征を行うことについて在京の各藩主に諮問したところ、鳥取藩主池田慶徳は、天皇や公家が軍隊についてまず知る必要があるため、在京の諸藩主に命じて将兵を訓練させ、これを天皇・公家が見学し、軍事に慣れてから、親征について議論すべきと奉答した[64]。そこで、天皇は京都守護職の会津藩主松平容保に命じて将兵の訓練を禁裏御所の建春門の外で行わせた。訓練日の7月30日は雨天であったが、建春門北穴門にある御覧所において、天皇は睦仁親王や准后、女官・公家・諸藩主らを引き連れてこれを見学。天皇が軍事行事を見ることは江戸幕府成立以来なかったことであった[65]。天皇や睦仁親王らは、8月5日にも同じ場所で会津・鳥取・徳島・米沢・岡山五藩の訓練を見学した。米沢藩兵は西洋式軍隊を擁しており、大砲や銃の音や煙で子供や女達は驚きの余り血の気が失せたが、睦仁親王は泰然と見学していたという[66]。
孝明天皇は、幕府と連携して、現実的な形で幕府に攘夷を実施させるという路線を、その後も取り続けた。しかし公家の中には、天皇の意を超えて、強硬な形で攘夷を行おうとする者も出てきた。その圧力で、文久3年4月11日(1863年5月28日)から翌日にかけて、孝明天皇は石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸を行った[67]。尊皇攘夷強硬派は、この行幸のなかで、天皇が将軍へ攘夷実行の節刀を授与し、幕府に攘夷の決行を迫る計画であったが、将軍が病気を理由に参加せず、失敗に終わった[68]。睦仁親王は父の石清水行幸を准后と共に禁裏御所の道喜門の御見立所で見送り、翌12日の帰還に際しても、同様に迎え、祝賀の酒肴を一折、天皇に献じた[69]。
尊王攘夷運動は、朝権の伸張と幕権の衰退を背景に同年に最高潮に達していた。長州藩は、文久3年5月10日、即ち攘夷決行日とされた日に、下関海峡を通行中の外国船に対して砲撃を加えた(下関戦争)。そのため、尊皇攘夷派が主導していた朝廷では、長州藩評価が一段と上昇し、長州藩主毛利家に征夷大将軍を命じる勅命がくだるとの噂が流れた[70]。8月13日、朝廷は尊皇攘夷派主導により、孝明天皇が神武天皇陵と春日社に攘夷を祈願するために大和に行幸し、ついで攘夷親征の軍議を行うと布告した。とうとう天皇が軍事指揮権を握って攘夷戦争を遂行する可能性も出て来た[71]。大和行幸布告が出た翌日の8月14日、睦仁親王の叔父で、宮中で睦仁親王の学問や遊び相手も務めた中山忠光も天誅組を組織し、8月17日、大和において、天皇行幸の先鋒軍として幕府に対し挙兵している(天誅組の変)[72]。
文久3年(1863年)8月18日、孝明天皇と中川宮尊融親王は、会津・薩摩藩と共に政変を敢行、三条実美ら尊皇攘夷派の公家を宮中から排除し、彼らと連携していた長州藩を京都より追放した(八月十八日の政変)[73]。20日と26日、孝明天皇は小御所に松平容保ら諸侯を招いて労を労ったが、両日共に睦仁親王は中段の間に着座した。政治の場への登場である。とはいえこの後の登場はない。孝明天皇は、強硬な攘夷論の放逐という決断を、睦仁親王に対して意識的に示したと考えられる[74]。政変の結果、中山忠能も議奏格に復帰し、睦仁親王は鯛など贈って喜んでいる。9月27日には、忠能・愛子夫妻が参内。親王宣下以後、睦仁親王に全く会っていなかった愛子は再会の感激に涙した[74]。しかし、公武合体派の復権によって中山忠能が失脚し、12月に忠能が睦仁親王に会おうとした際には、参殿を憚れとの天皇の命があるとの理由で、会うことを許されなかった[74]。
翌年6月になると「八月十八日の政変」で失脚した三条実美ら尊皇攘夷派の公家や、彼らと連携していると見做され九門の1つの堺町御門警備を止めさせられた長州藩が、巻き返しを図って、6月末までに二千名以上の兵力を京都近郊に結集させた[75]。彼らの要求は、三条ら尊皇攘夷派公家や長州藩処分を撤回することであったが、禁裏御守衛総督徳川慶喜が長州藩軍追討令を受けると7月18日に禁門の変(蛤御門の変)が始まり、長州藩軍は最初優勢に立つも薩摩藩軍来襲により敗退し、同日中に撤退を余儀無くされた。この戦闘の最中天皇らは他所へ避難すべきという意見も出たが、慶喜らが反対したため、留まることとなり、睦仁親王も夜には御常御殿に連結した御三間へ移って就寝した[76]。
翌20日夜には、慶喜が参内し、禁裏付の糟屋義明と十津川郷士らが禁裏御所の中へ潜入し天皇を連れ出そうとしているとの情報があるとして、天皇と睦仁親王を起こして内庭よりさらに遠い紫宸殿へ移ることを奏請[76]。その際、女官達の中には大声をあげて泣き出す者もあり、睦仁親王も驚いて、紫宸殿の中で気を失い、仕えている者が水を飲ませると、ようやく平静にもどったという逸話があるが、これは蜷川新および大宅壮一が最初に唱えた説である[77]。明治天皇のことを「大砲の爆音で気絶するような臆病で気の小さい性質であると理解される」と論評しているが、それについて飛鳥井雅道は『中山忠能日記』の読み違いから出ていることを指摘しており、少年睦仁が気絶したのは蛤御門の変の大砲の音ではなく(蛤御門の変は前日である)、真夜中に起こされて、突如泣き叫ぶ女の中を紫宸殿に移されたからであろうとしている。女官達が叫んでいたのは下女が主人に付き添っていた際、誤ってお歯黒の液の入った壺を落とし、その音が銃声に間違われ、匂いも強烈であったので騒ぎとなったのだということを飛鳥井は指摘している。飛鳥井の『中山忠能日記』からの記述の説明は『明治天皇紀』の内容と一致する[78]。
7月27日には禁門の変の際に長州藩を支持した忠能が、前関白の鷹司輔煕・有栖川宮幟仁親王・有栖川宮熾仁親王ら他の長州藩支持の公家・皇族らと共に参朝を停止させられ、他人との面会も禁じられたため、睦仁親王は再度祖父と会えなくなってしまった[79]。元治元年(1864年)9月22日、睦仁親王が12歳の誕生日を迎えた際も忠能は参朝停止につき例年の鮮魚の献上が出来なかったので、代わりに忠能の妻・愛子が三種の「寄肴」を献じている[80]。
元治元年、幕府は諸藩に命じて第1次長州征討を行い、同年降伏した長州藩の家老たちが切腹させられ、代わって俗論派(幕府恭順派)が同藩の実権を握ったが、その後高杉晋作ら正義派(倒幕派)の功山寺挙兵を経て、俗論派は失脚、高杉ら正義派が藩政を掌握したため再度倒幕路線を強めた[81]。翌慶応元年になると将軍家茂が長州再征を天皇に奏上し、同年9月21日に勅許を得、翌慶応2年(1866年)6月7日から再征が開始されたが、既に同年1月、薩長同盟の密約が成立していたので、薩摩藩は出兵を拒否、他にも出兵拒否する藩が多く、幕府軍の士気は低く、大島口・芸州口・石州口・小倉口の四境において長州藩軍に返り討ちに遭って惨敗、7月20日に家茂は大阪城で病死。幕府の権威は著しく衰えた[82]。
12月5日に徳川慶喜が15代将軍に任じられた。14歳の睦仁親王も父に習い、慶喜に使いの者を送って太刀一口を下賜した。睦仁親王は慶応元年11月11日(1866年1月27日)に皇太子となってから住む予定の花御殿に一時的に移っているなど、皇位継承者としての立場を固めており、将軍宣下にも関わりを持つようになった[83]。
学習の方では、睦仁親王は、慶応元年6月に「論語」の素読を12歳で終了[84]。その6月から「孟子」の素読を開始し、翌慶応2年(1866年)5月には新たな読書伺候として参議阿野公誠が付けられ、同年7月2日に終了した。わずか1年で終えたことで、孝明天皇は睦仁親王の勉学を褒め、師範の伏原宣諭の教育を激賞した[84]。四書の素読を終えた後、天皇は7月1日から「毛詩(詩経)」の素読に進ませた。情勢が緊迫する中でも、天皇は睦仁親王への教育を怠らず、大枠の指示を行なっていた[85]。一方でこの時期、睦仁親王は皇子教育に当たる女官の影響を受けて攘夷思想を強めており、天皇は女官の影響を危惧する宸翰を中川宮朝彦親王(明治以降久邇宮)に宛てて書いている[86]。
慶応2年12月11日(1867年1月16日)から天皇は病となり、やがて発疹が現れ、15日に侍医から天然痘と診断された[87]。睦仁親王は赤い綸子、赤い縮緬の服を着て毎日病床で天皇を看病した。天皇は睦仁親王に天然痘が感染しないよう、全快するまで自分の近くに来ないよう命じたが、外祖父の忠能は睦仁親王を預かっていた間に、蘭学医・大村泰輔に頼んで睦仁親王に種痘を受けさせていた。そのことを天皇に話すと、天皇は安心した[88]。12月25日(1867年1月30日)正午に天皇の病状悪化の知らせを聞いた睦仁親王は、天皇のもとに駆けつけたが、間もなく小康状態になったように見えたので一度退出するも、午後11時頃、再度天皇の病状が悪化、睦仁親王が駆け付けた直後の午後11時15分に崩御した[88]。父を失った睦仁親王の嘆きは深く、夜も余り眠ることが出来ず、食事も進まなかった[88]。
29日に天皇崩御が正式に発表され、大喪が発令された。30日に先帝の亡骸は内槽へ移され、睦仁親王は最後の別れを告げた[89]。
践祚と新政府樹立
[編集]慶応3年1月9日(1867年2月13日)、14歳で践祚して122代天皇を継承。元服前の践祚であったので、立太子礼を経ずに皇位継承している。光格天皇の童形践祚の先例に倣って、髪型は総角(みずら)、衣装は御引直衣[91]、衵、単、張袴、横目扇という童型践祚を行った[89]。父同様、中沼了三を初の侍講とする。早く祖父忠能と再会したかった天皇は、1月15日に早速大赦を出し、禁門の変の際に長州藩を支持して閉門蟄居させられていた忠能や有栖川宮熾仁親王らに参朝を許した[82][92]。1月19日には第2次長州征討解兵を命じる勅命を幕府に対して下した[82]。幕府もこれ以上征討を続けても勝利の見込みがないことを認め、1月24日には征討諸藩に解兵と藩地へ戻るよう命じた。諸藩の兵から成る幕府連合軍が僅か1藩の長州藩に手も足も出せず惨敗した事実は、幕府の権威を地に落とすと共に天皇の権威を高めた[82]。
2月13日に参内した忠能は、歴代天皇の責務である有職故実をまず学ぶように、天皇に進言した。以後、忠能は、天皇の命に応じて有職故実進講のためにしばしば参内し、6月1日は国書進講を命じられている。薙髪するつもりであった国母慶子も3月13日に典侍を命じられ、奥勤めをするようになり、引続き天皇を支えた[93]。
2月16日には亡き父帝へ「孝明」の諡号を贈った[94]。
孝明天皇崩御で将軍徳川慶喜、京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)を中心とする「一会桑政権」は大打撃を受けていた。彼らは、元治元年(1864年)頃より、公武合体派の孝明天皇の庇護によって、京都を中心に幕府や朝廷政治をリードしていたが、朝廷内最大の権力者の支援を、これからは受けられなくなったからである。新帝は父帝ほど親幕派ではなく、新帝に最も影響力を有する外祖父忠能は明確に反幕派であった。しかし、慶喜ら「一会桑」グループは、摂政二条斉敬、朝彦親王ら親幕派皇族、議奏、武家伝奏などに圧力を掛けることで、引続き朝廷政治のリードを狙っていた[95][96]。
5月23日、朝議が開かれ、慶喜は定敬らと参加し、第二次征長戦争の敗戦をできるだけ隠蔽するため、長州藩の処分を軽くすることと、欧米列強との条約に従って兵庫を開港することの勅許を同時に出すことを天皇に求めた。これに対し、前福井藩主の松平慶永は、伊達宗城(前宇和島藩主)・島津久光・山内豊信(前土佐藩主)らとの協議を踏まえ、4藩の意見として、長州藩への寛大な処分を先に決め、反対意見が多い兵庫開港の勅許の方は後に決定すべきとの意見を述べた。慶永の意見は多くの廷臣の賛成を得たが、結局、依然として実権を握る慶喜が大勢を制し、長州藩の寛大処分と兵庫開港の勅許は同時決定された[97]。
慶喜主導の流れに危機感を抱いた土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎と薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らが6月22日に会談し、両藩が王政復古に尽力する盟約書を結んだ。既に年半前に小松帯刀・西郷隆盛・木戸孝允らの会談で薩長同盟が結ばれており、旧体制のままで徳川幕府が政治を主導することの強い疑問が、西南雄藩間で強まっていた[97]。
9月になると、島津久光も倒幕を決意し、大久保らに長州藩と倒幕に向けた交渉を開始させた。また同月には、外祖父の忠能、三条実美、岩倉具視、正親町三条実愛、中御門経之ら反幕府派公卿の連携も強まり、西郷・大久保らとも接触を深めた[98]。一方体制変革を倒幕という政治的リスク無しに実現しようとしていた前土佐藩主・山内容堂や同藩士後藤象二郎らは、10月3日、将軍職を天皇に返上する大政奉還を慶喜に勧めた。慶喜にとっても大政奉還は、旧幕府の軍事力や経済力を背景に、今後も自分が主導権を維持出来る可能性が強い方策であったため[98]、10月14日にも慶喜は大政奉還を天皇に申し出た。翌15日、御所内の小御所に、摂政二条・朝彦親王ら3人の親王、内大臣、議奏・武家伝奏らが集まり、慶喜を召し、大政奉還を認めること、今後も天皇と同じ心で国に尽すようにとの天皇からの沙汰書を下した。ただし、天皇はこの過程において、全く自分の意思を表していない。単に摂政の二条らの提言を受入れただけと考えられる[99]。
この間、天皇は、祖父の忠能と接することで、独り立ちの不安を慰めた[100]。慶応3年4月23日には、忠能を召して、囲碁を楽しんだり金魚を眺めたりし、金魚数尾を忠能に与えた。5月3日、天皇は体調を崩して寝ていたが、そこに忠能を召し、酒と肴を与え、女官に命じて酌をさせた。翌4日は、病後の運動として小さな弓で的を射て遊んだ。そこにも忠能が同席し、終わると忠能に酒と菓子を与えた。その後もしばしばこうしたことがあった[100]。
天皇から深い信任を受けていた忠能は、慶応3年10月14日に薩摩藩と長州藩に対して「討幕の密勅」を出すのに大きな役割を果たした[101]。この密勅に関しては真贋の論争があり、井上勲が天皇の裁可を得ていない「偽勅」説を唱える一方、原口清は「真勅である可能性はかなり強い」と主張する[102]。いずれにしても、この密勅は公表されなかった。公表されれば、二条ら朝廷中枢の親幕派の重臣に反対されるだろうし、すでに倒幕の意思を固めている薩長両藩を倒幕に立上がらせるには、密勅で十分であった[101]。
しかし10月13日には機先を制するように慶喜が二条城で大政奉還を宣言し、翌10月14日に慶喜はその勅許を願い出、「討幕の密勅」に基づいた大義名分は消滅した形となったため[103]、天皇は密勅を取り消さねばならなくなり、岩倉具視によれば天皇は密勅に署名した3人の公家に慶喜が政権を奉還すると明言した以上成り行きを見守るよう指示したといい、ついで10月21日には天皇は同3人の公家に勅して薩摩長州2藩に御沙汰書を授け、しばらく倒幕の実行を見合わせるよう命じた[104]。
急速な情勢変化に接して薩摩藩は大久保利通の献策を容れて密勅に依拠した挙兵策から朝廷内における王政復古のクーデタに路線を切り替えた。クーデタ当日の出兵は宮門警備に限定し、原則として全面的挙兵は意図しない計画であり、慶喜が辞官納地の命令に応じない場合、および会津桑名藩主が免職・帰国命令に応じない場合のみ追討令を下して挙兵を行う方策である。同案は討幕派公卿や、土佐藩の後藤象二郎らによって修正が加えられながらも、土佐、越前、尾張、安芸など各藩の支持を集め、12月5日に策定された。8日に大久保、西郷らから計画の説明を受けた岩倉具視は、薩摩、土佐、越前、尾張の代表者を自邸に招き、明日付(12月9日)の藩主参内の御書付を配布した[105]。これに基づき、翌9日午前10時に薩摩、尾張、安芸、越前、土佐の5藩軍が出動して御所を制圧。御所の門のうち公家門は桑名藩、蛤門は会津藩が警備していたが、いずれも戦闘を回避して撤退したため無血制圧となった[106]。
岩倉具視が御所に参内し、忠能や正親町三条実愛らが迎えた。彼らは先に承認を得た王政復古の改革の実行を求める上奏を天皇に行い、小御所に入った。その後、天皇は、御学問所に出て、有栖川宮熾仁親王ら三親王や、参議の大原重徳・万里小路博房、山内容堂、島津茂久らを前に、王政復古の大号令を発した。これにより、幕府・摂関・議奏・武家伝奏・京都守護職・京都所司代等の旧制は廃止となり、総裁・議定・参与からなる新政府が創設された。総裁には熾仁親王、議定には仁和寺宮純仁親王(後の小松宮彰仁親王)、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津茂久、山内容堂、松平慶永(春嶽)、徳川慶勝、浅野茂勲(後の長勲)の10名が任じられ、参与には岩倉具視以下の公卿に加え、尾張、越前、広島、土佐、薩摩の5藩士らが着任した[107][108]。これにより慶喜と連携して朝廷を主導していた二条と朝彦親王は失脚し朝廷の体制は一新された。
慶応3年(1867年)12月9日夜、天皇は小御所に出御し、総裁・議定・参与および尾張・越前・広島・土佐・薩摩の五藩の代表者を召し、小御所会議が行われた[110]。外祖父の忠能が議長となり、王政の基礎を確定し、更始一新の経倫を施すため、公儀を尽くすべしと開会を宣言した[111]。
薩摩藩以外の4藩は「公議政体派」と呼ばれ、とりわけその中心人物である山内容堂と後藤象二郎は、幕府の存続は否定するが、慶喜が幕府解体を認めるなら大大名として存続することは認めるという方針をもっていたので、「公議政体派」の間では大政奉還によって慶喜の評価が上がっており、慶喜に辞官納地を求める立場になかった[105]。そのため慶喜に寛大な処分を求める山内・後藤・春嶽・慶勝・浅野と、慶喜の政権返上を名目上のものに終わらせないため、あくまで辞官納地を命じることを求める岩倉・大久保・島津の間で意見対立が起きた。特に山内と岩倉の間で激しい口論があったと伝わるが、最終的には、慶喜が辞官納地を朝廷に上奏することを尾張・越前が内々に斡旋するということに決した[112][113]。また薩摩藩の当初の計画では慶喜だけではなく、松平容保・定敬の京都守護職・京都所司代罷免も含まれていたが、そちらは後に慶喜が自主的に二人を罷免したので解決した[113]。
小御所会議が終わった時刻は、子の刻(深夜12時前後)だった。15歳の明治天皇がこの長時間に及んだ激論をどのように捉えたのかは定かではない[113][114]。伊藤行雄は、岩倉具視は孝明天皇の侍従だったが、睦仁親王(明治天皇)が9歳の頃から14歳になった慶応3年3月まで、尊皇攘夷派の公家の圧力で朝廷から追放されていて以来朝廷を不在にしていたため、小御所会議の時点では、明治天皇と岩倉具視の信頼関係はまだ形成されていなかったとし、そのことから親慶喜派の二条らを中心とした朝廷の体制を、自分がよく知らない親薩摩派の岩倉らを中心とした体制に変えていくことは、孝明天皇の取ってきた方針を転換することでもあったから、おそらく強い不安を感じたのではないかとし、しかし明治天皇は外祖父・忠能や岩倉らの要望を拒否する気力も実力もまだなかったのだろうと推測している[115]。一方ドナルド・キーンは明治天皇は確かに若いとはいえ、15歳の男子であって、政治的意見を持つことができないほど幼くはなかった点を指摘する。かつて孝明天皇が息子の睦仁にひどい苛立ちを覚えたことがあったが、その理由が外祖父忠能、あるいは女官たちにより培われた睦仁の攘夷思想や反幕感情であった可能性は十分にあるとし、明治天皇はすでに父帝とは異なる自身の政治思想を確立していて、会議の結論は天皇自身が事実望んで承認したものであった可能性は捨てきれないと論じる[114]。
小御所会議の翌日、慶応3年12月10日(1868年1月4日)、慶勝・春嶽が二条城に赴き、慶喜に会議の決定を伝えると、慶喜は辞官納地について時間的猶予を要求したので、慶勝・春嶽は総裁の熾仁親王にその旨を復命したが、西郷・大久保は、それでは慶喜の政権返上の実績が現れないと反対した。二条城の内外には、旧幕府軍や親幕派藩の軍が戦力を増強しており、他方、御所の北にある相国寺に駐屯する薩摩藩軍も王政復古の大号令後に入京した長州藩軍と合流して戦力を増強しており、旧幕府勢力と薩長両藩のにらみ合いで軍事的緊張が高まっていた[116]。
天皇は忠能や岩倉らの勧めにより、12月11日(1月5日)に長州藩に御所の九門の内外の巡回警護を命じ、議定の正親町三条実愛の家も警備させた。禁門の変以来処分の対象であった長州藩を、御所や京都を警護するものとして位置づけ直したのであった。12月27日(1月21日)には七卿落ちしていた三条実美も帰京し、即日新政府の議定に就任した。また同日正午より、御所の建春門外に天皇が臨御し、薩摩・長州・土佐・広島の四藩兵の訓練を天覧した[117]。
鳥羽伏見の戦いと東征軍
[編集]慶応4年(1868年)正月、新政府と旧幕府の間で緊張が続く中、天皇は小御所の上段に出御して、親王以下の朝賀を受けた。また、元服は数えの15歳(満年齢なら13歳)の正月5日までに行うことになっていたが、形成穏やかではない状況下で、天皇はそれを行わないまま数えの17歳(満15歳)になっていたので、1月2日、元服を1月15日に行うことが決められた[119]。
一方元将軍の慶喜は、二条城にいた頃は王政復古を受け入れ、時間の猶予をもらえれば辞官納地も受け入れるような立場を取っていたが、強硬派の部下たちの気勢を削ぐために大阪城に移った後、だんだん強硬派に影響され、王政復古拒否と朝廷軍との開戦に考えが傾きはじめた。そして君子が道を誤った時は臣たる者は君子を諫めることを以て旨とすべしという儒教の教えを唱えて、天皇に弓を引く正当化を図り始めた[120]。
慶喜は12月19日(1868年1月13日)に至って王政復古の宣言の撤廃を要求、1月1日(1月25日)には旧幕府軍を率いて京都に向けて進軍を開始した[121]。1月3日(1月27日)に鳥羽・伏見の街道を進軍中の会津桑名藩軍を主力とする旧幕府軍が、鳥羽・伏見両地点において薩摩藩軍を主力とする朝廷軍と武力衝突し、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いが開戦[122][119]。
この報に接した天皇は嘉彰親王に錦旗と節刀を下賜して征討大将軍に任命し、京都に迫り来る旧幕府勢力の征討を命じた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府勢力は惨敗を喫し、幕府老中だった稲葉正邦の淀城に逃げ込もうとするも見限られ、受け入れを拒否されて敗走。つづいて狭隘の細長い平地で、大阪への関門である山崎が焦点となり、ここは旧幕府勢力側の津藩が守っていたが、天皇は1月5日にも津藩に勅使を送って説得にあたり、津藩は将軍を捨て天皇に従うことを誓い、1月6日にも旧幕府軍に砲撃を開始、旧幕府軍は要衝山崎も失って潰走し大阪城へ逃げ帰った。敗戦を悟った慶喜はその日の夜にも松平容保など数人の側近だけを伴って大阪城からこっそりと脱走して海路で江戸へ逃亡した。大阪城に置き去りにされた旧幕府軍は、翌日朝に慶喜・容保らの逃亡に気づき、次々と大阪城から逃げ出して雲散霧消し、西日本における旧幕府勢力は完全に瓦解した。この勝利により西日本と南日本はすべて天皇の統治下に収まったが、まだ戦いが終わったわけではなかった。江戸と北日本が旧幕府勢力の支配下に残っており、そこの平定も必要であった[123]。
大阪城を手中に収めた一週間後の慶応4年1月15日(1868年2月8日)に天皇は予定通りに元服を行った[124]。御所の紫宸殿の御帳台に天皇が入御すると、加冠式部卿の伏見宮邦家親王が天皇に冠を加え、理髪権大納言の正親町実徳が髪を整え、これまでの童服を改めて、御盃の儀を行って元服の儀を終えた[125]。またこれを機に六カ国公使に宛てて国書を公布し、今後は天皇が内政外政にわたって最高の権能を行使することを通達した[124]。
そして2月3日、天皇は幼少期に御所に移って以来初めて御所を出、葱花輦(天皇の臨時の行幸の際に用いられる御輿)に乗って、騎乗の親王、公家、大名らを従えて、京都における将軍宿所として旧幕府の象徴だった二条城に東大手門から入城した[126][127]。新政府の中枢機関である太政官代は当初九条道孝邸に置かれていたが、1月下旬に二条城に移されていたためである[128]。
天皇は二条城本丸白書院の上段に設けられた簾中に臨御し、総裁熾仁親王、議定、上参与が中段、下参与が廂に座を占めて朝議が行われ、江戸へ逃れた賊徒の親征と、そのための東征大総督の設置が決定された。朝議終了後、天皇は総裁を召して次の大略の親征令を下した。「このたび慶喜以下賊徒は江戸城ヘ逃れ、ますます暴虐をほしいままにしている。四海鼎沸し、万民塗炭に苦しむさまは見るに忍び難い。よって天皇は、叡断をもって親征を決意した。ついては適切な人選によって大総督を置くこととする。畿内、七道の大小藩は各々軍旅の用意に取り掛かるように。数日内に軍議を決定する。御沙汰あり次第、各部隊は命を奉じて直ちに馳せ参じよ。諸軍とも力を合わせて勉励し、忠戦を尽くすべし」[127]。
2月9日(3月2日)には政府総裁有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じた。熾仁親王は天皇の信任が厚かったうえ[130]、慶喜と親戚関係にあったので特に自ら望んで東征大総督の地位に就いた[127]。2月15日(3月8日)、京を出立する挨拶に熾仁親王が参謀、錦旗奉行を従えて参内した際、天皇は速やかに敵を掃攘せよとの勅命を与えた[127]。
熾仁親王率いる東征軍は、東海・東山・北陸三道から江戸へ向かって進軍を開始し、参謀として西郷隆盛が親王を補佐した[130]。
一方江戸に逃亡していた慶喜は、東征軍に徹底抗戦するか降伏するかで揺れ動いていたが、やがて降伏を決意し、慶応4年2月12日(1868年3月8日)に江戸城を退去して上野寛永寺内の大慈院に入って謹慎し、天皇に恭順する意思を示し、勝海舟を旧幕府勢力代表者に立てて後事を託した[131]。勝は駿府城に陣を構える東征軍参謀西郷隆盛のもとに山岡鉄舟を派遣、山岡の説得の結果、江戸の薩摩藩邸で西郷と勝の会談がもたれることになり、二度にわたる二人の会談の結果、3月14日に江戸城無血開城と慶喜の助命・謹慎が決まり、3月15日に予定されていた東征軍の江戸城総攻撃は中止され、江戸は奇跡的に戦火を免れた[132]。
4月4日(4月26日)には天皇の勅使橋本実梁が西郷隆盛以下官軍参謀60余人を従えて江戸城に入城、慶喜に代わって城主となっていた徳川慶頼が西の丸玄関でこれを恭しく出迎えた。橋本は一週間後の4月11日(5月3日)をもっての徳川家の江戸城からの退去、および慶喜の死一等を減じ水戸藩での謹慎を命じる朝命を慶頼に申し渡した[131]。期日通り4月11日に旧幕府の最後の砦である江戸城は天皇の軍隊に引き渡され[131]、4月21日(5月13日)には東征大総督の熾仁親王が江戸城に入城した[133]。
江戸城開城後、勝や山岡ら旧幕閣の対応に不満を抱く一部の旧幕臣が彰義隊を名乗って上野寛永寺に立て籠もって反乱を起こした。熾仁親王はただちに解散を命じ、勝や山岡らも投降するよう説得にあたるも効果がなかったため、親王は5月15日にも上野に討伐軍を派遣し、速やかにこれを殲滅した[134]。これをもって関東は平定され、以降の戦いは奥羽方面に移っていく[133]。
大坂親征と初めての各国公使引見
[編集]鳥羽伏見の戦いの勝利と、続く元服直後の頃の1月17日、参与・大久保利通が、天皇が直々に旧幕府残党征討軍を率いて大阪に行幸するという「大阪親征」を提案した。実際にはもはや死に体の旧幕府残党の征討のためというより、新時代を見据え、天皇を取り巻く空間や政務を行う空間を根本的に変えることが目的だった。大久保は総裁熾仁親王の諮問に応じ、さらにその後、参与・広沢真臣、後藤象二郎らの賛同を得て、1月23日には一時的な大阪への移動である大阪親征から更に踏み込んだ大阪遷都を建白した。大久保は、遷都は因習の弊害を除去して政治を一新する機会となるばかりでなく、海に接した大阪の地は、外国との交際や陸海軍を起こして富国強兵を実現するのにも適していると論じた。この大阪遷都論について政府内で議論がわきあがったが、外祖父の忠能をはじめとした公家勢が強く反対し、公家の間では、政府から公家を追い出して薩長両藩が私権を張ろうという計画との疑いさえ唱えられ、大阪遷都は合意できなかった。天皇も愛着ある京都の生活が大きく変わることから、ひどく嫌がって納得しなかった。この時まで明治天皇は京都から出たことがなかった。大阪遷都計画は立ち消えとなったものの、大久保のもう一つの提案である天皇が直々に旧幕府勢力征討軍を率いて出陣するという親征の提案の方は広く支持を集め、2月19日には天皇の大阪行幸(大阪親征)が決定した[135][131]。
同じ頃、政府内では外国公使に天皇への謁見を認めるかが議論されていた。これについては特に宮中奥向きを司る「後宮」から強い反対が起きていた。しかし岩倉具視と松平慶永が天皇の御前に伺候し、君主が他国の公使を引見するのは万国の通義であることを訴えた。天皇はそれを認め、外祖父の中山忠能を召して外国公使引見の手はずを整えるよう命じ、2月17日には天皇が外国公使に謁見を賜る旨が布告された[136]。
2月30日(3月23日)には紫宸殿においてフランス公使レオン・ロッシュとオランダ公使ファン・ポルスブルックを引見した。これが天皇の初めての外国公使引見であった。天皇は引直衣を着用して御帳台に座し、副総裁の三条実美と外祖父で輔弼の忠能が帳内に侍立し、外国事務局総督山階宮晃親王と副総裁岩倉具視が帳前に立ち、三職以下は御帳台の左右に並ぶという形で公使を迎えた[139]。
イギリス公使ハリー・パークスもこの日に引見する予定だったが、御所に向かう途中のパークスが襲撃される事件が発生したため延期された。天皇は事件を知ると深い憂慮の念を漏らし、ただちに晃親王をパークスのもとに慰問に走らせた。だが京都市民の間ではパークスより襲撃者に同情する世論の方が強かった。外国人が御所に出入りすることは神州を衰微させ、のみならず天顔まで拝させるのは、天威を冒涜するものと信じられていたためである[140]。
天皇は3月3日(3月26日)になって改めてパークスを引見。同道した通訳のアルジャーノン・ミットフォード(後の初代リーズデイル男爵)はその時の様子を次のように書いている。「中央に黒い漆塗りの細い柱で支えられた天蓋があり、それは襞のついた白い絹で覆われ、その中に黒と赤の模様が織り込んであった。天蓋の下には若いミカドが高い椅子に座るというより、むしろ凭(もた)れていた。天皇の後ろには二人の親王がひざまずいて、もし必要があれば陛下のお務めを補佐しようと控えていた。我々が部屋に入ると天子は立ち上がって、我々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった。彼は白い上衣を着て、詰め物をした長い袴は真紅で夫人の宮廷服の裳裾(もすそ)のように裾を引いていた。被り物は廷臣と同じ烏帽子だったが、その上に、黒い紗で作った細長く平らな固い羽根飾りをつけるのが決まりだった。私は、それを他に適当な言葉がないので羽飾りといったが、実際には羽のようなものではなかった。眉は剃られていて、額の上により高く描かれていた。頬には紅をなし、唇は赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた。このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並大抵の技ではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた。付け加えておくと、まもなく若い帝王は、これらの陳腐な風習や古い時代の束縛を、その他の時代遅れのもろもろと一緒に全部追放したとのことである」[141]。
3月21日(4月13日)に天皇は葱花輦に乗って建礼門から御所を出、官軍を率いて大阪へ向かった。英照皇太后、公家、大官らが天皇の行列を見送った。東征大総督の熾仁親王の父である幟仁親王を先頭にしたその軍勢は内侍所(三種の神器の一つである八咫鏡)と錦の御旗を掲げて進んだ。華頂宮博経親王、三条実美、忠能らが鎧直垂・揉立烏帽子を着用して随従した。天皇の行列が境町、三条通を通過する際、一般庶民は跪坐してこの盛儀を仰ぎ見た。行列は東本願寺で小休止の後、鳥羽の城南宮へ向かい、そこで天皇は午餐を取った。戌の刻(午後8時前後)に石清水八幡宮に到着し、そこを行在所として宿泊。行列の速度は遅く大坂における行在所である本願寺津村別院に入ったのは3月23日のことだった[143][144]。以降天皇は46日間にわたって大阪に滞在した[145][143]。実際には普通の大阪行幸だったが、旧幕府残党の親征が名目になっていたため、公式には大阪親征と称される[146]。
3月26日(4月18日)には、天保山(現・大阪港)に行幸したが、その道中安治川で小船に乗って川下りを楽しんだ。天皇が船に乗ったのはこれが初めてだった[143]。天保山に到着した天皇は、海軍の艦隊運動を親閲。海軍を親閲したのも、海を見たのも初めてであった[145]。『明治天皇紀』はこの時の天皇の様子を「天顔特に麗し」と記している。江戸時代に事実上御所に幽閉される生活を送ってきた天皇の解放感は想像に難くない[147]。天皇はとても機嫌良く、三条や忠能が付き従って、夕方4時過ぎに行在所に帰った[145]。
4月6日(4月28日)、天皇は大坂城で薩摩・長州・広島・熊本など七藩兵の訓練を親閲し、閏4月6日(5月27日)には、福岡・宇和島・広島など八藩の大砲発射の演習を親閲した。以降天皇は積極的に陸海軍の演習を親閲するようになり、軍の統率者としての新しい天皇イメージを形成する大きな一歩を踏み出した[145]。
4月9日(5月1日)には大久保利通が行在所の天皇の御前に召されて拝謁を受けた。ついで4月17日(5月9日)には木戸孝允と後藤象二郎も拝謁を受けた。政府高官といえども、当時藩士階級で無位無官だった彼らが天皇の拝謁を受けるのは極めて異例であり、いずれもその感激を日記に書いている。木戸の日記によれば「布衣にて天顔を咫尺に奉拝せし事、数百年、未曾聞(いまだかつてきかざる)なり。」であったといい、それが許されて拝謁を賜ったことに感涙したことを記している[148]。
また大阪滞在中に生母中山慶子の安産祈願を行った坐摩神社、吉野時代の後村上天皇の崩御の地である住吉行宮などに行幸。さらに皇室の忠臣楠木正成を祀る湊川神社や旧徳川幕府によって貶められた豊臣秀吉を祀るため豊国神社の建設も勅命した[146]。
大坂での日々は天皇にとって江戸時代の束縛から解放されて自由を謳歌した楽しい時間となったが、この間も学問は続けられた。4月11日(5月3日)からは『大学』『孫子』『三略』の進講を受けた。後者2つは兵法書である。4月16日(5月8日)には参与の田中国之輔から『孫子』の進講を受ける。この日から天皇は日課として『古事記』『春秋左氏伝』『孫子』などの和漢書を学び始める[148]。
大阪親征は人々から天皇を目に見える形にし、天皇と国民を近づけた最初の行幸として大きな意味があったが、江戸の旧幕府勢力が降伏し江戸城が開城されると、ほどなくして天皇の帰京が検討された。大阪遷都を考えていた大久保利通は当然これを喜ばなかった。大久保は天皇が京都に戻ればまた国民からかけ離れた存在になってしまうのではないかと恐れていた[149]。
天皇は閏4月7日(5月28日)に大坂を離れ、来る時とは打って変わって今度は素早く移動し、翌日には京都に還幸。天皇の葱花輦が境町門を入るや、天皇の還御を祝う楽士が雅楽の還城楽を演奏しながら先導し、京都市民も盛儀を一目見ようと人垣を為して天皇の還幸を祝った。大宮御所と九条道孝邸前では、三職をはじめとした公家、大名、徴士(政府が登用した藩士や平民)、無位の官吏に至るまで大勢が、その地位に応じた衣装を着て天皇の出迎えに立ち、未の刻(午後2時)に紫宸殿に入御した天皇は彼らに拝謁を賜った[149]。
五箇条の御誓文
[編集]大阪行幸に先立つ慶応4年3月14日(1868年4月6日)、御所の紫宸殿において公家と在京中大名を召集しての祭典が行われた。天皇は、まず天神地祇を祀り、政府副総裁・三条実美に祭文を読ませ、その後、天皇が玉串を献じて拝礼、ついで天皇は、三条実美に五箇条からなる国家の新方針を、神に誓う形で捧読させた(五箇条の御誓文)[151][152]。
- 一、広ク会議を興シ万機公論ニ決スベシ
- 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経倫ヲ行フベシ
- 一、官武一途庶民ニ至ル迄各々其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
- 一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
- 一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基を振起スベシ
五箇条の御誓文は以上の5つからなる。草案は由利公正と福岡孝弟が作り、木戸孝允がその修正に加わって作成された[153]。これは明治以降の日本の指導精神となり、立憲政治の基礎となった[154]。
参列した公家・大名たちは順に天神地祇と天皇を拝し、それを遵守する旨の誓書(「叡慮ヲ奉戴シ死ヲ誓ヒ黽勉従事冀クハ以テ、宸襟ヲ安ジ奉ラン」(天子の志を慎んで仰ぎ、死を賭して全力で勉め励み、願わくは天子の心を安んじ奉る所存である)に署名した。当日に参加できなかった公家・大名は後日署名を行った。署名した者の総数は前後あわせて767人である[155]。
また御誓文と同日に歴代天皇の偉業を称え、天下万民の安寧を祈り、ともに国威を海外に発揚することを訴えた天皇の告諭が宸翰の形で出されている[155]。
さらに閏4月21日(6月11日)には五箇条の御誓文の趣旨に従って、政体職制を定めた政体書が出された。その大要は天下の権力を太政官に統一し、太政官の権を行政・立法・司法の三権に分かち、三権分立して偏頗なく、相互に侵犯することなからしめ、各府藩県より貢士を出し、議事の制を立てること、諸官は4年を以て交代し、公選入札の法を用いること、各府藩県の政令も御誓文の旨を体して行るべきことなどである[156]。
即位の礼
[編集]王政復古によって天皇は、軍の統率者としてだけでなく、「万機親裁」のイメージも形成する必要が生まれた[157]。そこで大阪行幸後の閏4月21日、天皇の政務の日課が布告された。天皇は午前7〜8時に学問所に出て政務を「総覧」し、その間、重臣のいる八景間に行ったり、学問や武道に励んだりし、午後4〜5時に学問所を出ることになっていた[158]。天皇は主に学問や乗馬に熱心に励み、建て前としての政務の「総覧」には殆ど時間は使わなかったが、7月23日に木戸孝允が天皇に政治の近情を申し上げた際、天皇が積極的に時情を尋ね、木戸が尽く答えたように、政治への関心もより示すようになった[159]。
一方、江戸市民の間では幕府が滅亡した今、その政治的価値を失って僻地と化すことが恐れられており、天皇行幸が待ち焦がれていた[160]。大木喬任と江藤新平は、東国の人心鎮撫や武威を示すため、天皇が江戸に下ることを主張し、江戸を東京と改称し、将来的には東西両京を鉄道で繋げば国家が分裂する憂いは無くなると提案した。この案が容れられて、7月17日(9月3日)に天皇より「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が出され、江戸は東京と改称された。そして8月4日(9月19日)に天皇の東幸が布告された[161]。すでに3月から閏4月にかけて、大阪行幸を行った天皇は、他所に滞在することへの自信がつき、それが政府の安定に資するならそうしたいと考えるようになっており、岩倉によれば、江戸から帰った木戸と大木がその状況をよく説明し、江戸を東京とする命を天皇が下すべきであると上奏したことも、天皇はよく理解を示したという[162]。慎重派からは経費の問題や、奥羽方面の反乱がまだ完全に鎮定されていないので時期尚早との指摘もされていたが[163]、8月23日(10月8日)には政府軍は奥羽列藩同盟中でも最も有力であった会津藩の若松城の包囲に成功しており、すでに大勢は決していた[164]。
大阪からの還幸後、天皇が政務に出る親政が行われるようになったことで、天皇には東京行幸の前に諸儀式を済ませておくことが望まれていた。本来は前年11月に予定されていたものの内外の情勢から延期されていた即位の儀が意識されるようになった[166][167]。
慶応4年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)に内裏(京都御所)にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣明した[166]。
即位の礼の内容や準備は、岩倉具視の内命の下、神祇官副知事亀井茲監(津和野藩主)や神祇官判事福羽美静(同藩士)など津和野藩が中心になって行われたが、岩倉具視は維新後最初の即位の礼は将来の雛形となるような、中国の制度の模倣ではない日本古来式に更改されるのが望ましいと考え、5月にも亀井に古来式の考証勘案するよう命じ、日本古来の典拠に則る「皇国神裔継承」の規範を裁定させた[166]。
これにより即位の礼に様々な変更があった。大きな変更点として、まず第一に天皇の礼服が、唐風の冕冠・袞衣から、黄櫨染御袍の束帯となったように、中国風を排除して復古を目指したことである[167][168]。近代以前の即位の礼は、服制のほかにも、中国の皇帝即位儀礼に倣ったものが多かった。香を焚いて天帝に即位を報告する儀式は取りやめられ、庭上に置かれる幡旗は、榊に鏡・剣・璽を付けた大幣旗・日章旗・月幣旗に変えられた[167]。また、即位灌頂という印を結び真言を唱える仏教的儀礼も廃止され、神道の儀式として徹底した[169]。
第二は、即位式の行われる紫宸殿前(実際には小雨のため、承平門内に置かれた)に、直径1メートルの地球儀を置くことであった。この地球儀はかつて水戸藩主徳川斉昭が孝明天皇に献上したものだが、斉昭の狙いは天皇に世界を意識させ世界に向けて国威を発揚するよう仕向けることにあった。もしこの地球儀を即位の礼の式典の中心に据えるなら列席する百官有司(役人)に高邁なる志操を吹き込み、その見識を深めるであろうと福羽は論じている[170]。
第三は、天皇の命令である宣命を宣命使が小声から大声で読むようにし、万民に告知することを明示するとともに「万民奉賀」の寿詞を奏上したこと、公家だけでなく功臣である武士の参列を認めたことである[171]。これに関して福羽は、式典に捧げられる宣命宣制や寿詞は、万民の奉賀の気持ちを体したものでなければならない。これまでのような公家だけの儀式の世界であってはならず、儀式の世界に広く万民を取り込まねばならないと論じている[168]。
なお宣命は、桓武天皇が即位した際に、天智天皇の定めた法に従って即位するという文言が用いられ、以後それが踏襲されてきた。明治天皇の即位礼でも従来の宣命が使われたが、加えて神武天皇への復古も唱えられた。「神武創業」への復古、「万世一系」の強調による変化である[171]。
即位の礼当日、天皇は紫宸殿に用意された高御座(玉座)に北面(裏側)から入って座し、女官がその御帳をあげて天皇の姿を見えるようにすると群臣たちは一斉に平伏。弁事勘解由小路資生は天皇に幣(神に捧げる布製の礼物)を献上し、神祇官知事鷹司輔熙が御前に進んで幣を拝受。ここで典儀伏原宣足が再拝を求めて群臣が一斉に再拝。つづいて宣命使冷泉為理が宣命を捧げ、新天皇の皇位継承を宣した。さらに天皇の長命と国家の繁栄を祝う寿詞が読み上げられ、伶官によって「わたつみの はまのまさごを かぞへつつ きみがちとせの ありかずにせん(大海の浜辺の砂を数えながら、その砂の数ほどに御治世が永遠に続くことをお祈りする)」という大歌が奏された。大歌が終わると伏原宣足の合図により群臣が一斉に再拝。幟仁親王が御前に進み、即位の礼の終了を告げ、女官たちが再び御帳を下げて天皇の姿は見え無くなった[172]。こうして即位の礼は無事に終了した。
即位の礼の前日に天皇と国民の間の絆を強めるための措置として天皇誕生日(旧暦9月22日。明治6年の改暦後は11月3日)を天長節として国民の祝日に定めた。天皇誕生日を祝日とする先例はすでに宝亀6年(775年)に見られる。それ以降長く中断していたこの慣習を復活させたのは、やはり古代の慣習へ立ち返ることを強く意識したものである[173]。
慶応4年9月8日(1868年10月23日)に詔書を発して年号を慶応から明治に改元するとともに「一世一元の制」を定めた[173]。幕末には頻繁に改元が繰り返され、干支の組み合わせという年の表示があるとはいえ、同時代の人も流石に困惑を感じていたこと、皇帝権力の強い中国の明や清では、皇帝一代に一つの元号であったこと、この2つの理由から一世一元が目指されたと思われる[174]。「明治」の語は『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」(聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む)から取られている[173]。
京都から東京へ
[編集]明治元年9月20日(1868年11月4日)辰の刻(午前8時前後)、天皇は紫宸殿から出御して鳳輦に乗って建礼門から御所を出ると東京へ向かった。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭として3300人が供奉する大行列だった。掲げられる三種の神器八咫鏡の警護の任の名誉は加藤明実(水口藩主)が担った。道喜門で皇太后と淑子内親王が見送り、親王、公家、在京大名たちは南門外に整列して天皇を見送った。沿道には老人から子どもまで男女が集まって車駕を拝観し、拍手が絶えなかった[177][178]。
行幸の列は三条通りを東に粟田口まで進み、天台宗門跡青蓮院で小休止。ここで午餐を取るとともに遠出用の軽便な板輿に乗り換えた。その後行列は東山を越えて山科に出、そこで天皇は天智天皇の山科陵を遥拝した[177]。未の半刻(午後3時頃)に大津に到着。ここで東幸反対派だった権中納言大原重徳が馬で駆けつけてきて、伊勢神宮で鳥居が崩れる不吉があったとして、東幸を取りやめることを求めたが、岩倉は退けた[179]。
同日天皇は沿道の全ての神社に幣帛を命じ、また高齢者、病人、困窮者などに施しを行い、功労者を表彰した。これは東幸中に通りがかった全ての土地で行われ、そのため旅費は巨額に上ったが、三井家など京大阪の豪商が旅費を請け負っている[179]。
翌朝瀬田橋にさしかかり、天皇は琵琶湖の景色を楽しんだ[178]。9月22日(11月3日)、行列は石部を出発し、土山まで進んだ[178]。この日は天皇の16歳の誕生日であった。土山の行在所となった本陣では、岩倉や忠能・木戸孝允らが召されて祝賀会が開かれ、土山の人々にも清酒3石(約540リットル)とスルメ1500枚が下賜された。同日、奥羽戦線では会津藩が政府軍に降伏[180]、その後数日間に他の反乱諸藩も次々と降伏、奥羽は平定された。未だに反乱を続けるのは蝦夷地へ逃亡した榎本武揚一党のみとなった[179]。
天皇は四日市・桑名を経て[181]、9月27日(11月11日)に名古屋に到着し、元尾張藩主徳川慶勝と尾張藩主徳川徳成父子の出迎えを受け、東海道沿道の八丁畷(現名古屋市瑞穂区東ノ宮神社境内地)において農民の収穫の様子を初めて天覧した[175]。天皇は農民たちに菓子を与え、その労苦をねぎらった[182]。またその直前に熱田神宮を親拝している。天皇は行幸前にも熱田神宮に勅使を遣わして反乱が続いていた東北の平定を祈願する宣命を下賜していた[183]。
10月1日(11月14日)、天皇は新居(遠江)の手前で、初めて太平洋を眺めた。古代以来、持統天皇が伊勢国に、元正天皇が美濃国に、聖武天皇が伊勢・美濃に行幸した例があるが、東国のここまで来た天皇は明治天皇が最初であった[181]。10月2日、行列は浜名湖を船で渡った。湖面は静かで、その時の天皇の様子について「天顔頗る(すこぶる)麗し」とある[182]。浜松・掛川を経て、10月4日(11月17日)、天皇は大井川を渡河するにあたって、金谷台から富士山を眺めた。天皇が富士山を眺めたのは、古来未曾有のことであった[184]。感銘を受けた天皇は随従する者たちに東京到着までに富士を詠み込んだ和歌を作っておくよう命じた[185]。江戸時代を通じて軍事的な配慮から大井川には橋がかけられていなかったが、この時には天皇がお通りになるということで緊急に架橋されており、橋を渡って関東へ向かった[183]。
10月8日(11月21日)、箱根に到達、芦ノ湖の風光を見た天皇は銃猟を見たがっていたが、土地の者に迷惑をかけることを好まなかった。木戸孝允が気をきかせて前日に駿河伊豆の国境で天皇の行列を出迎えにでていた射撃の名手江川太郎左衛門にその件を相談し、江川は従者の一人に御前に広がる湖上の鳥を銃で狙わせ、一羽の鴨に命中させた。江川はこれを天皇に献上。天皇はいたく喜んで江川の従者に賞金五百疋を下賜している[186]。同日午後7時半に小田原、10月10日に大磯に到着し、漁夫たちの地曳き網の漁を天覧し、捕獲された魚は数個の大桶に入れられ、天皇の御座所へ運ばれた。それを眺めた天皇は「天顔頗る喜色あり」と記録されている[186]。
10月11日(11月24日)は神奈川に泊まった。横浜には文久3年(1863年)以来、英仏軍が駐屯しており(日本政府と英仏政府の交渉の結果明治8年に撤兵)、英仏軍の兵士たちは宿場町の西方に列をなして拝礼して行列を迎えた。また、横浜港に停泊していた各国の軍艦も一斉に祝砲を放った[187]。
10月12日(11月25日)には川崎田中本陣で昼食を取り、その後23隻の小船でつくられた舟橋で六郷川(多摩川)を渡河した[188]。東京府に入った天皇は、梅屋敷で休息後、午後3時頃に品川に到着し、東征大総督有栖川宮熾仁親王、鎮将三条実美、東京府知事烏丸光徳の出迎えを受けた[186]。
10月13日(11月26日)の早朝に行列は宮中の雅な装束に着替えて品川行在所を出発し、秋晴れの下、壮麗な行列を仕立てて東京を進んだ[184][189]。その行列は親王、公家、大名が衣冠帯剣、三等官以上の徴士が直垂帯剣であり、いずれも騎乗していた。この演出者は岩倉具視だった。岩倉はその意図を次のように述べている。長年にわたって武力による支配に慣らされてきた関東の民衆は「剽悍」であるので、これを御するには「先づ朝廷衣冠の礼を観しめ、以て其の心を和にするに如かざるなり」[186]。
途中増上寺で小休止し、天皇は再び鳳輦に乗り換えた。芝から新橋[要曖昧さ回避]、京橋、呉服橋見附を進み、同日午後1時過ぎ、和田倉門から江戸城に入城。京都御所から全行程22日の旅であった[186][189]。
同日未の半刻(午後3時頃)に天皇は西丸に入った。この時より江戸城は皇居となり、名称も東京城と改称された[189][186]。この日幾千という東京市民が天皇の行列を拝観し「図らざりき、今日一天万乗(天下を統治する天子)の尊厳を仰ぎ奉らんとは」と感涙したという[186]。
10月27日(12月10日)には東京到着直後に鎮守勅裁の社と定めていた氷川神社に行幸[191]。東京でも沿道の各地で高齢者、病人、困窮者を慈しみ、功労者を表彰し、国事殉難者の遺族を慰めた[191]。
11月4日(12月17日)に天皇は東京行幸の祝いとして東京市民に2990樽という大量の酒を下賜した。さらに錫瓶子(錫製の徳利)550本、スルメ1700把も下賜された。総額1万4318両にも及ぶ。東京市民は2日間にわたって家業を休み、歓を尽くした[192]。
忠臣を愛する天皇は、11月5日(12月18日)に権弁事山中献を勅使として高輪泉岳寺に派遣し、大石良雄(大石内蔵助)以下赤穂義士47士の墓前に勅宣を賜い、赤穂義士の忠節を追弔した[193]。
東京滞在中、東京各界人に謁を頻繁に賜った。まず叔母の親子内親王(和宮)を引見、ついで11月23日(1869年1月5日)にはフランス留学帰りの水戸藩主徳川昭武を引見。天皇は昭武に外国事情を下問し、昭武が語る外国話は天皇の心をとらえたようでこの後も昭武を召している。ただ昭武は12月初めには函館の五稜郭に立て籠もった榎本武揚一党の征伐軍に従軍するため蝦夷へ派遣された[194]。また11月22日(1月4日)にはイタリア、フランス、オランダの公使、11月23日にはアメリカ、プロイセン、イギリスの公使を引見した[195]。
11月28日(1869年1月10日)に天皇は初めて日本の軍艦に搭乗してその運転を視察。前日に三条と岩倉は軍艦で横浜沖までの出航を天皇に勧めたが、忠能は海上において剣璽を紛失することを恐れて反対した。しかし天皇の聖断により剣璽は浜御殿に残し厳しく警備させ、乗艦することに決定した。天皇が富士艦に搭乗した際に米国軍艦が祝砲21発を撃ち、富士艦も答砲した。この時天皇に随従していた忠能や大久保利通らは砲弾音に肝をつぶしたというが、天皇は「自若として龍顔殊に麗し」であったという。この日は天気がよく風波もなく、天皇は初めての軍艦搭乗体験にすこぶる満悦だったと記録にある。翌日には天皇は「海軍之儀ハ当今ノ急務」「講究精励」あるべしと御沙汰を下した[196]。
東京での生活をしばらく楽しんだ天皇は、翌春に再び東京に戻ることを約し、明治元年12月8日(1869年1月20日)に冬の寒さが厳しくなる中、忠能や大久保以下2150人余りを従えて、京都への還幸を開始した[197][198]。還幸の理由は先帝の三年祭と、一条美子(後の昭憲皇太后)の皇后冊立のためであった[191]。
三条と岩倉は、天皇の来春の再東幸までに、東京の行政組織を事実上の首都として、また東京城を皇居としてふさわしく整えるため東京に留まった[199]。再幸までに太政官が京都の二条城から東京の皇居内に移され、皇居の宮中三殿もこの間に建造されている[200]。
厳寒の中の還幸で、途中12月18日(1月30日)に名古屋付近で寒波と強風があったが、天皇は全くこたえなかったという[202]。
京都到着後、12月25日(2月6日)に先帝が眠る後月輪東山陵を親拝[191]。12月28日(2月9日)には一条美子が入内し、同日中に皇后に冊立された[202]。
明治2年(1869年)の正月を天皇は京都で過ごした。天皇が京都で正月を過ごすのはこれが最後となった。1月5日(2月15日)には参与横井小楠が暗殺され、天皇はその事件の報に驚き、ただちに侍従少納言長谷信成を横井宅に遣わして事の真偽を確かめさせた。天皇は負傷した門弟や従僕のために治療費として金400両を下賜し、横井が仕えていた熊本藩主細川韶邦にも横井を手厚く葬るよう命じて祭祀金として300両を賜った[203]。
1月15日(2月25日)に天皇は馬場初の儀に出御し、騎乗する姿を披露した。大名たちの他、公家の三条や忠能らも陪騎した[204]。1月24日(3月6日)に治世下最初の和歌御会始があり出御した。ついで1月27日にはやはり治世最初の御楽始が開かれ、天皇と皇后そろって小御所に出御した。奏楽は近衛忠房や忠能など公家たちが行った[205]。
2月20日(4月1日)には反乱が鎮定されていた奥羽地方の民に向けて次の告諭を発した。天地の間、行くところすべて「王土」でないところはない。そこに住む者はすべて天皇の赤子である。「苟も生を本邦に禀けたる者は、之を視ること赤子の如く、一民も其の所を得ざれば深く宸襟を悩ましたまふを以て、山間僻遠の地、蝦夷松前に至るまで撫恤(慈しみ憐れむこと)を加へたまわんとす」。言葉使いは儒教的であるものの、民に向けて声明を出し、民に親しく心をくだく、それは孝明天皇の時代には見られなかった新時代の天皇ならではのスタイルであった[206]。
他にも天皇と民の距離を縮めるための処置として、2月23日から3日間、東京市民に皇居庭園が解放され、東京城吹上御苑の拝観が許された。市民は歓喜したが、あまりに多くの人が東京城門に押し掛けたために死者8人、負傷者若1000人出る事態となり、天皇は遺族及び負傷者に金300両を下賜した[207]。
3月7日(4月18日)、予定通り京都を出発して東京行幸の旅に出た。ルートもほぼ昨秋の東京行幸の時と同じであったが、今回は春景色であった[209]。道中の3月12日(4月23日)に歴代天皇として初めて伊勢神宮を親拝[注釈 2]。天皇の伊勢神宮親拝は前例がなかったため、この時に儀式の次第が定められ、天皇は黄櫨染御袍を着用し、午前に豊受大神宮(外宮)、午後には宇治橋を通って皇大神宮(内宮)を親拝した。皇祖神天照大御神に王政復古を奉告し、国運の発展を祈願した[210]。
前回の東京行きより1日早い21日間の旅の末、一行は3月28日の正午前に皇居(東京城)に入城。以後、天皇は東京で暮らし続ける[211]。
しかし京都市民の間では東京再幸は東京遷都の前触れとして不安視された。岩倉具視が遷都はたとえ千百年後でもありえないと述べて、京都市民の民心を鎮めていたが、皇后も東下する計画があることを知った市民の不安は高まった。市民がこぞって神社に集まり、皇后が東行しないよう祈りをささげるようになり、地元の官吏は市民が徒党を組んで強訴哀願に及ぶのを恐れた。しかし留守長官中御門経之と京都府知事長谷信篤が市民の説得に尽力して、京都市民の興奮も収まり事なきを得た。この後も正式に東京遷都が発表されることはなかった。天皇が京都へ戻らない理由として政府の公式声明は天皇が処理しなければならない国事の緊急性を強調した[212]。
5月18日(6月27日)に政府軍は榎本武揚一党を函館五稜郭の戦いで完全鎮圧、戊辰戦争は終結した[213]。反乱に関与した諸藩主たちが寛大な処置を受けたのは、昨年の明治元年12月7日(1869年1月19日)に天皇が出した詔書によるものである。その中で天皇は次のように述べる。賞罰は天下の大典にて、朕一人が勝手に決めるべきものにあらず、広く天下の衆議を集め、至正公平いささかも誤りなきように決すべし。松平容保等の罪はまことに厳刑に処すべきものではあるが、彼らにその罪を犯さしめたのは、朕の不徳によって教化の道が立たなかったのと、この700年ほど紀綱が振るわず、名義が乱れていたからである。また容保のような大名の場合は、彼一人で謀反を行えるわけではない。必ず首謀した家臣がある。容保の死一等を許し、首謀した家臣を誅することをもって寛典に処すべきである。朕はこれから国内に励精図治教化を敷き、徳威を海外に輝かしたいと思う。汝百官将士はこれを体せよ[214]。
この詔によって奥羽における反乱の中心人物だった前会津藩主松平容保は本来であれば謀反の罪で厳刑となるところ死一等が減じられて永預けとなった。容保のみならず他の謀反藩主にもこの詔が適用され、処刑された者は一人も出ず、彼らは謹慎と減封で済んだ[213][215]。五稜郭の反乱軍指導者だった榎本武揚も捕縛後3年間投獄されたものの恩赦で釈放された後に政府高官となった[213]。この寛大な詔に聖帝の心事として感泣せざる者はなかったという[215]。
版籍奉還
[編集]全国の支配権を天皇のもとに帰一させることは、王政復古の根本思想の一つである[216]。幕末の段階で岩倉具視は「天下を合同するは、政令一に帰するに在り。政令一に帰するは、朝廷を以て国政根軸の府を為すに在り」と論じていた[216]。明治初年には参与木戸孝允が副総裁三条実美と岩倉具視に宛てて「七百年来の積弊を一変し、三百諸侯をして挙て其土地人民を還納せしむべし」として、鎌倉時代以来の封建制度を終わらせ藩主の所有する土地人民を朝廷に返上させる構想を示し[217]、明治元年9月18日(1868年11月2日)には木戸と大久保利通がこの構想を版籍奉還として進めることで合意している[218]。弱肉強食の帝国主義時代の真っただ中にあった当時の国際社会において、強力な国家を形成するためには何よりも統治機構の一元化は必要不可欠だった[219]。
他の政府高官も、諸藩をリードする薩長土肥四雄藩もそれに異論はなかった。薩摩藩は明治元年2月の段階で参与大久保利通の意見に基づいて封土10万石の献上を政府に願い出ていたし、長州藩も第二次征長戦争の勝利で獲得していた小倉や浜田などの占領地の返上を政府に願い出ているなど、藩の側から封土の一部を朝廷に返還しようという動きはすでに存在した[217]。
版籍奉還に向けた最初の動きとして明治元年10月28日(1868年12月11日)には藩治職制が布告され、地方政治について府・藩・県の三治が定められるとともに、これまでの各藩の重職の役職名が執政・参与に統一された。その人選は藩主に委ねられたが、従来の家格や門閥に囚われず、下士からも積極的に登用するよう要求している。また藩主の家政を藩政から分離することや、議事の制度を積極的に設けることも求められた。これらの要求は従来の身分制の枠組みを崩すことで、より改革が進みやすいよう各藩を導くためのものだった[216]。
木戸は土佐藩の後藤象二郎とも版籍奉還について協議し、明治2年1月14日(1869年2月24日)に京都で大久保と長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が会談し、版籍奉還の方針が合意された[220]。さらに木戸は肥前藩の前藩主鍋島直正にも掛け合って連携に加え、1月20日に薩長土肥四藩主(島津忠義、毛利元徳、山内豊範、鍋島直大)による版籍奉還の上表が提出される運びとなり、諸藩も四藩に続いて続々と版籍奉還の上表を行っている[220]。天皇は、明治2年6月17日(1869年7月25日)に諸藩からの版籍奉還の上表を勅許、請願を出していない藩にも速やかな奉還を命じた[221]。
版籍奉還により各藩の藩主たちは天皇の勅命で藩知事に任命された[221]。藩主が藩知事に横滑りした形であるため、封建主義に決定的変革をもたらす改革とはならなかったが、それでも法制的には大きな変化があった[222]。藩知事は府県知事と同じく天皇から任命された一地方行政長官に過ぎず、土地人民に対する私有権は明確に否定されており、その地位の世襲も保障されていなかった(実際には版籍奉還から廃藩置県の間に隠居した藩知事の世襲を政府が拒否した事例はほとんどないが、唯一福岡藩知事黒田長知が紙幣偽造の責任により藩知事を解任された際に後任に黒田家の世襲は認めず、有栖川宮熾仁親王が藩知事に任じられた事例がある)[218]。また藩士たちも法制上天皇の官吏となったので、藩知事と藩吏の間の主従関係は廃止された。版籍奉還は2年後の廃藩置県の第一歩となる改革だった[223]。
版籍奉還に基づく最初の藩行政機構改革として、明治2年6月25日(1869年8月2日)に諸藩に対して11項目の庶務変革指令が下った。その中で一門以下平士に至るまで士族と称することが指令されている。「士族」という呼称はここで初めて使用された。江戸時代の大名家臣団は家格を基礎に構成されていたが、藩主一門や家老家といった高禄の上士も、微禄の下士も「士族」という枠組で等質化することによって家格による優劣を否定したものである(とはいえ大抵の藩では「士族」の文字の上に「上中下」「一等二等」などの文字を勝手に付け加えることで旧来の家格を温存しようと図っているが)[224]。
さらに明治2年7月8日(1869年8月15日)には職員令が布告された。これにより藩知事には行財政と刑罰について府県知事と同じ権限が付与されたが、藩知事は旧家臣団と藩兵という独自の軍事力を保有する点が府県知事とは異なった[218]。各藩の執政・参与も府県と同じ大参事・権大参事・少参事に改名され、天皇が政府の奏薦に基づき任命する奏任官に位置づけられたため、藩知事の一存だけで藩重役の任免はできなくなり、政府の許可を得ることが必要となった[218]。
政府内では急進派と守旧派(後者は主に公家)が激しい綱引きを演じ続けており、職員令の布告があった明治2年7月8日に守旧派の主導で政体書体制の革新色が払しょくされる政府組織の再編が行われ、神祇・太政の二官が設置され、神祇官が諸官の上位に位置付けられ、二官六省制度となった[225]。三条実美が右大臣、岩倉具視と徳大寺実則が大納言に任じられた他[226][225]、公卿や旧藩主の復活が目立つ人事となった[225]。各省の卿を見ると4割以上が公卿であり、西南雄藩出身藩士(3割)を明らかに凌駕する[225]。大久保利通と木戸孝允も建白を受理する待詔院学士という立場に追いやられて政府第一線から退かされている[225]。これほどまでに守旧派の意向に沿わねばならないというのは、依然として公卿たちが政権の重しとして必要であり、政権の権威化が求められる政治情勢であったということだと考えられる[225]。この政府機構改革のために政権は一気に古色蒼然となり、官員たちは源平藤橘の本姓を名乗るようになる始末だった[225]。
しかしこれは改革を前に進めるために一時的な後退だった。天皇の大久保・木戸への期待も変わりはなかった。三条・岩倉が述べたように「利通・孝允は柱石の臣なり。祖の進退は実に国家の治乱隆替に関す、宜しく二人を優遇して至尊の顧問に備へ、以て天下の重望を負はしむべし」だったのである[227]。事実早くも11日には待詔院学士は廃止され、大久保たちには待詔院出仕が命じられ、国事を諮詢される立場になった。さらに22日には大久保が参議、23日には広沢真臣が参議となった[227]。
エディンバラ公来日
[編集]明治2年(1869年)初夏には英国でヴィクトリア女王第二王子エディンバラ公爵アルフレッドの訪日計画が立ち上がった。この頃エディンバラ公は蒸気フリゲート艦HMSガラティアに乗って世界一周航海中であり、その途中に色々な国に訪問しており、日本にも訪問を希望していた[226]。その報告を受けた英国公使ハリー・パークスはさっそく日本政府と交渉に入った。実現すればヨーロッパ王族の最初の来日となるが、それだけに当時の日本国内では相当議論があったらしく、『ヤング・ジャパン(Young Japan)』の著者ジョン・レディー・ブラックはその状況を次のように書いている。「『進歩派』は今回に限り天皇はこのような場合には他国の君主が行う慣例にできるだけ従う決断をされるべきであると主張し、強硬な『反対派』は言葉激しく次のように反論した。外国の王族の皇子と日本の天孫の家系である皇族とを同列に置くことを容認しかねないような如何なる措置も、ことごとく天皇の尊厳を貶めるものだ」[226]。しかし最終的に日本政府はイギリス王子の来日を承諾し、英国の王子が近く来日されることを知って天皇はいたくお喜びであり、もし王子に海に面した浜離宮に宿泊していただけるならば、天皇の喜び、これに勝るものはないという内容の返事をパークスに送った[226]。
初のヨーロッパ王族来日だけに準備は周到に進められた。エディンバラ公が横浜に到着すると21発の祝砲が撃たれ、エディンバラ公が通る予定の横浜から東京までの道路は掃き清められ、修復され、祈願が行われた。警備も天皇の行列並みの限界態勢が敷かれた[228]。エディンバラ公は、明治2年7月22日(1869年8月29日)に横浜に到着し、領客使に任じられた伊達宗城と大原重実が歓迎の勅旨を伝えた[227]。
天皇がエディンバラ公を引見したのは、明治2年7月28日(1869年9月4日)のことだった。馬車で皇居に到着したエディンバラ公は伊達により謁見室である大広間へ案内された。天皇は嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)とともに大広間の上段に立ってエディンバラ公を出迎え、エディンバラ公は天皇と同じ上段の天皇と向かい合った席へ招かれた[229]。エディンバラ公に同道した通訳アルジャーノン・ミットフォードによれば「陛下は二言、三言歓迎の言葉を述べた。これに対して、殿下もしかるべく答えた。その後で陛下は、エディンバラ公に『もう一度庭園で、もっと打ち解けて会いたい』と勧めた。そこで殿下は客間に下がった」[230]、「少し遅れて親王や朝廷の重臣がエディンバラ公に敬意を表し終えた後、エディンバラ公は皇居の庭(吹上御苑)にある紅葉御茶屋に案内された。そこであらゆる種類の珍味が供された。やがて、滝見御茶屋で天皇が待っているから来るように、とのお召しがあった。パークス公使、ケッペル提督、そして私の三人がエディンバラ公のお供をした」という[231]。
滝見茶屋で天皇とエディンバラ公は通訳を介して歓談し、天皇は初めての外国王族との外交体験を得た[232][233]。とはいえ、特別な話をしたわけではなく、天皇ははるばる遠国から来られた王子を歓待できることは多大な喜びであり、旅の疲れをいやすため心行くまで滞在し、行き届かないことがあれば何なりと言ってもらいたいと伝え、エディンバラ公は自分が受けた心温まる持て成しに感謝し、その歓待は不満どころか、自分の想像を超えるものだったと応じるなど、外交的な社交辞令に留まったようである[233]。それでも先の公使引見時には天皇はまるで国内の臣下に接するかのように御帳台に座して短い一方的な挨拶を告げて終わったことを考えれば、儀礼的であっても同じ段で向かい合って座り、会話を交わすようになったのは大きな変化だった[234]。
会談の最後にエディンバラ公はダイヤモンドをあしらった嗅ぎ煙草入れを天皇に贈り、また帰国後に母のヴィクトリア女王に献じたいとして、天皇の宸筆の御製を所望したので、天皇は次の御製をエディンバラ公に贈った。「世を治め人をめぐまば天地(あまつち)のともに久しくあるべかりけり」[233]。これについてブラックは「ここにもまた、古い迷信からの決別がある。驚くべきことだ。というのは、以前はミカドの親書は寺社の神聖な場所に、宝物として秘蔵されるものだったからだ」と指摘する[234]。
このエディンバラ公の来日は、外国王族が来日した場合には天皇は対等に親しくふるまうことの最初の先例となった[235]。
廃藩置県
[編集]明治2年の版籍奉還が封建領主制解体まで進められなかったのは、当時の政府の直轄軍の軍事力が藩の軍事力に対抗できるほどの規模ではなかったためである。こうした状況下では一度に封建制度を解体することは不可能であり、版籍奉還に留まらざるをえなかった[218]。しかし西郷隆盛の尽力で明治3年(1870年)から明治4年(1871年)初頭には薩長土三藩献兵問題が進捗を見た。西郷らは足しげく各藩の説得に回り、ついに明治4年(1871年)年6月に薩摩藩兵4大隊、長州藩兵3大隊、土佐藩兵2大隊など約1万の兵力を東京に集めて御親兵を創設することに成功した[237]。この御親兵は来る廃藩置県で反対藩に対抗しうる政府直轄の軍事力として創設されたものだった[238]。
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県の日の朝、天皇はまず薩長土肥4藩知事(島津忠義、毛利元徳、山内豊範、鍋島直大)を小御所に召した。天皇は4藩が明治2年に版籍奉還を首唱したことを褒めて取らし、そのうえで今また来るべき廃藩置県の大業に力を課すよう命じた。つづいて東京に在京中の藩知事56名が西ノ丸御殿の紫宸殿代大広間に召集され、彼らに向けて右大臣三条実美が次の勅語を読み上げた。「内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セントス因テ今藩ヲ廃シ県ト為シ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ更ニ綱紀ヲ張リ政令一ニ帰シ天下ヲシテ其向フ所ヲ知ラシム」(国内において億兆の民を守り、国外において万国と対峙しようと考えている今、藩を廃して県と為す。無駄を去って簡潔にし、有名無実の幣を除き、綱紀を全国に行きわたらせ、政令を統一し、天下にその進むべき方向を指し示す)。ここでいう「有名無実の弊」とは一国が何藩にも分断される封建主義のことを指す[239]。
版籍奉還は薩長土肥4藩を中心に藩からの動きであったが、廃藩置県は勅命として藩に課されたものだった。構想の立案者の一人である大久保利通は、廃藩置県にあたって西郷隆盛に助力を仰いだ。西郷は維新建設の中心人物、また清廉潔白の人として広く尊敬されており、西郷の支持を得ることで反対派に回るかもしれない藩知事の動向に影響を与えることが可能だった[240]。西郷は「戦いを以て決する」と意気込んでいたが、蓋をあけてみると抵抗はほとんどなかった。迅速な決定で反対派が形成される時間的猶予を与えなかったこともあるが、華士族の家禄は全額が政府に引き継がれ、彼らの生活維持がしばらくは保障されたことも大きい[241]。
福井藩のお雇い外国人だったアメリカ人ウィリアム・グリフィスは廃藩の情報を耳にした福井藩の様子を観察して書き留めている。「私は封建制度下の福井の城の中に住んでいて、この布告の直接的な影響を十分に見ることができた。三つの光景が私に強い印象を残した。第一はミカドの布告を受けた1871年7月18日(陽暦)の朝、その地方の官庁での光景である。驚愕、表にあらわすまいとしてもあらわれる憤怒、恐怖と不吉な予感が、忠義の感情と混じりあっていた。私は福井で、この市における皇帝政府の代表にして1868年の御誓文の起草者である由利(公正)を殺そうと人々が話しているのを聞いた。」[242]「けれどもちゃんとした武士や有力者は異口同音に、天皇の命令を褒めている。それは福井のためでなく、国のために必要なことで、国状の変化と時代の要求だと言っている。日本の将来について意気揚々として語る者もいた。『これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる』と言った」[243]、「第二は1871年10月1日の城の大広間での光景である。越前の藩主は何百人もの世襲の家臣を招集し、藩主への忠誠心を愛国心に変えることを命じ、崇高な演説をして、地方的関心を国家的関心に高めるよう説いていた。」「第三は、その翌朝の光景である。人口4万の全市民(と私には思われた)が道々に集まって、越前の藩主が先祖からの城を後にし、何の政治的権力もない一個の紳士として東京に住むため、福井を去っていくのを見送った」[242]。
こうした光景は福井に限らず、だいたいどこの藩もそうであり、藩士たちに代々の忠勤を感謝して、今後は自分ではなく天皇陛下に忠誠を誓うことを求めて告別し、市民に見送られながら東京へ向かっている[244]。
藩の書類は新県の官吏に引き継がれ、藩の役職に付いていた士族の大部分は職務を解かれるか、転任していった。これについてグリフィスは「昔から日本の災いは働かない役人とごくつぶしが多すぎることであった。まさにシンドバッドが海の老人を振り落としたと言える。新生日本万歳!」と政府の決断を絶賛している[245]。
廃藩置県により明治4年末には全国は3府72県となり、その後統廃合が進められ、明治21年に至って3府43県(+北海道庁)となり、現在の各県の領域が定まっている[246]。封建制度が平和的に解体されたことについて、英国公使ハリー・パークスは、仮に欧州でこのような改革を成功させようと思えば、武力を用いて相当の年月が必要であり、それを不要とする天皇という存在は「真神の能力」を有すると驚嘆している[246]。
大嘗祭
[編集]大嘗祭とは天皇の即位に際して行われる儀式で、天皇が新穀を天照大御神や天神地祇にお供えして自らも召し上がって世の安泰や五穀豊穣をお祈りする儀式である。毎年行われる新嘗祭と異なり、天皇一代で一回のみ行われる。明治天皇の大嘗祭は当初は即位した明治元年のうちに予定されていたが、内外の情勢から延期されて明治4年11月17日(1871年12月28日)に執り行われた。皇居内の吹上御苑に大嘗宮が造営されて史上初めて東京で行われた[247]。また儀式に用いられる御饌、御酒の収穫する斎田として山梨県巨摩郡に悠紀田、千葉県長狭郡に主基田が設けられた[247]。
天皇は17日夕刻から悠紀殿における宵の御儀に臨み、18日深夜の主基殿での暁の御儀までご親祭を続けた[247]。
18日と19日の両日に天皇は豊明節会を催して政府高官などの参列者に白酒や黒酒など酒饌をふるまった。浜離宮の延遼館でも外国の外交官たちを招いての饗宴が催され、その席で外務卿の副島種臣が大嘗祭の趣旨について各国に説明している[247]。大嘗祭終了後には一般国民にも大嘗宮の拝観が許されたため、多くの人々が見学に訪れた[247]。
君徳培養と宮中改革
[編集]廃藩置県まで天皇を取り巻く宮内省・宮中の役職には基本的に堂上華族(旧公家)が就いていた[248]。このような環境では天皇の近代的君主としての成長は望めないと考えていた大久保利通は宮中改革を焦眉の急と捉えるようになった[249]。
明治3年10月27日(1870年11月20日)、岩倉邸で、三条実美・岩倉具視・徳大寺実則・大久保利通などが集まり、天皇の輔導(教育)や人員整理等について話し合われ、同年閏10月5日に木戸孝允と大久保が天皇の「君徳培養」の任につき、天皇の教育も担当することになった[250]。
さらに西郷隆盛が参議として政府に加わったことで、天皇を武人的かつ西欧的な近代君主に導いていこうとする路線に弾みがついた。西郷は「華奢・柔弱の風ある旧公卿」は排斥して「剛健・清廉の士」を天皇側近にすべきとして、宮内省や宮中の人事の刷新を断行し、堂上華族に代わって士族の任命を推進した[251][248]。また大久保は、女官が支配する奥向きの空間は近代君主の生育にふさわしくないと考えており、吉井友実を宮内大丞に起用し、その意向を体した吉井により、古株の局、命婦、権命婦らは尽く宮中から排除された[252]。
廃藩置県後、明治4年7月21日(1871年9月5日)、宮内省の大小丞8人が生理され、薩摩藩出身の村田新八が宮内大丞に任命され、吉井友実の補佐となった。24日には、士族侍従が任命された。士族で登用されたのは、侍従長に長州の河瀬真孝、侍従に薩摩の高島鞆之助、土佐の高屋長祚、肥前の島義勇、熊本の米田虎雄である。後に、長州の有地品之允、土佐の片岡利和、元幕臣の山岡鉄舟なども任命された[253]。この時に侍従となった高島鞆之助によれば、士族が登用された後の宮中は「剛健勇武」の気風に満ち、天皇も非常に剛毅になって酒も強くなり、時々気に入った側近を集めて酒宴を開き、勇壮な物語を肴にして酒をどんどん飲むようになったという[254][255]。また、天皇の幼い頃からの勝ち気な性格も発揮されたようで、ある時、天皇は「わしは楠木正成である、賊将尊氏を撃つのだ」と叫びながら、木剣で高島を何度も叩き、高島があまりの痛さに打ち返しの気配を見せたところ、天皇が「今日はやめよう」と言って終わったこともあった[255]。またこの頃、19歳に近づいた天皇と腕相撲をした高島は、天皇の筋力が強いのに驚いたという[202]。
西郷は宮中改革後の明治4年12月11日(1872年1月20日)、鹿児島の叔父・椎原与三次に所感を次のように書き送っている。「天皇は士族の侍従を寵愛し、後宮にいることを厭い、朝から晩まで表にいて、和洋漢の学問や侍従との会読をして修行している。『中々是迄(これまで)の大名抔(など)よりは一段御軽装』で、その変貌には三条・岩倉さえも驚いている。馬は天気さえよければ毎日乗っている。近々兵士の指揮訓練も始まり、自ら大元帥となるとの意思を述べている。自分も天皇と同室で食事をしたこともある。これからは一ヶ月に三度ずつ諸省の長官を招いて政治の得失を論ずることに内定している。『尊大の風習は更に散じ、君臣水魚の交わり』となるであろう[255]。」このようにして、宮中改革は着実に進められ、西郷らの企図は実を結んだ[256]。
西郷が「和洋漢の学問」と書中で述べているように、天皇の学問の面でも進歩があった。すでに明治3年(1870年)12月24日に、洋学者加藤弘之が侍読となり、欧米の政体・制度・歴史を進講していた。明治4年(1871年)8月にはドイツ語の学習が始まり、洋学者の西周が侍読となって博物学・心理学・審美学・英米比較論を進講した。また漢学の師として、熊本藩の朱子学者元田永孚が5月に宮内省出仕を任じられた[255]。
元田のことを頑迷な保守主義者と見る向きもあったが、天皇や政府高官からの信頼は厚く、滅多に他人を褒めない大久保利通が元田を指して「この人さへ君側に居れば安心だ」と述べたり、副島種臣が「君徳の大を成すに一番功労のあつたのは元田先生である。明治第一の功臣には先づ先生を推さねばならん」と述べたりしている[257]。元田は朱子学者ながら西洋の科学的知識・技術の高さは認め、日本人は「格別」の精神でこれを学ばねばならないと論じていた。しかし人間関係の在り方については西洋は提示すべき何物も持っていないので、その手本となるものは今でも朱子の言う通り六経(四書二経)にあると主張していた。幕末に佐久間象山が唱えた東洋の道徳と西洋の科学の結合、成長後の天皇あるいは明治時代そのものを特徴づけるこの思想は、恐らく元田の教えによって天皇に培われた[258]。
この頃の講義書目は、「日本書紀」「書紀集解」「論語」「元明史略」「英国史」「国法汎論」「人身窮理書」等であった。加藤によれば、天皇の性質は「綿密茶実」で「物事を中途半端にして御止め遊ばす様な事なく、飽く迄根底を理解せられざれば止まず」という性質で、進歩は遅いが理解すれば「何時迄も御忘れない」という学習状況であった。こうして、天皇は、公家に囲まれる隠れた存在ではなく、軽易で尚武の存在となり、大久保が明治初年に描いた天皇像に近くなった。また、天皇自身もそうした在り方が性に合っていた[255]。
文明開化と天皇
[編集]廃藩置県に伴う官制改革によって、守旧派を政府・宮中から排除したことで、天皇の生活に関する改革も可能になった。明治4年(1871年)8月からは、横浜で購入された椅子などが学問所に備えられ[259]、9月からは天皇が好む乗馬においても西洋馬具を使うなど、西洋風の生活様式が取り入れられ始めた[260]。また、明治4年8月17日(1871年10月1日)、今後、天皇は民情や風俗を視察するため、騎馬や馬車などに乗り、軽装で行幸を行うとの布告が出された。それまでは、天皇の行幸は鳳輦と板輿に乗って行われていた[261]。8月18日(10月2日)、天皇は、8月6日(9月20日)に初めて乗った馬車によって、三条と岩倉の屋敷に行幸した。天皇が皇居の外へ馬車を用いて行幸した初例であり、臣下の屋敷への初めての行幸でもあった[262][263]。
ついで兵部省をはじめとする各省への行幸も積極的に行った。特に工部省は、当時の欧化・開化の拠点であり、そこを行幸することは欧化・開化を支持する政府の象徴的行為となり、天皇の学習にもなった[264]。明治4年9月22日(1871年11月3日)、19歳の誕生日を迎えた天皇のために皇居の各門外に整列している御親兵の各大隊等を馬車に乗って親閲した[265]。以後、これは天長節観兵式として恒例化された[265][264]。
天皇の食事も変わった。明治4年8月18日(1871年10月2日)、天皇は、浜離宮内の外国人接遇施設である延遼館で、大臣・参議とともに、初めて西洋料理を食べた。12月17日(1872年1月26日)には、平常の食事にも牛・羊など肉を用いることになった。11月からは、滋養のため牛乳を日に二度飲むようになったが、天皇は牛乳があまり好きではなく、後年にはコーヒーに入れるだけとなった。明治6年(1873年)7月までには、天皇は昼食に西洋料理も食べる習慣を身につけた。宮内省に出仕していた西五辻文仲によれば、天皇は築地精養軒(東京初の西洋料理店)に西五辻を派遣して西洋のテーブルマナーを学ばせた後、明治6年10月12日に宮中の奥でテーブルマナー勉強のための食事会を開いたという。天皇が「西五辻のするとおりにせよ」と命じたため、落語で伝授役が芋を転がすと、習っているみんなが芋を転がすというような有様であったという。その後、西五辻の奮闘もあって、西洋料理とテーブルマナーが、奥にまで浸透していった[266]。
天皇の身なりも変化していった。明治4年11月21日から23日(1872年1月1日から3日)、天皇が横須賀造船所に行幸した際にオーストリア人の写真師であるシュティルフリートは、天皇を隠し撮りした[269][270][271][272]。天皇は小直衣姿で椅子にすわり、直垂を着た三条実美が近くに侍座し、侍従や政府のお雇い外国人とともにいるところを撮られた[270][269]。この時期までの国内では、天皇というのは、その姿を一般庶民が見てはならないもの、極めて恐れ多いものという認識があり、江戸時代までの一般的天皇観を強く引きずっていた[273]。しかし、当時の欧米における日本への関心の高まりによって、国内外の一般人が見たことのない天皇の写真は大きなビジネスチャンスであり、それがシュティルフリートが天皇を盗撮した動機だった[272]。日本の外務省は驚愕し、オーストリア公使に働きかけ、シュティルフリートのネガ、および紙焼き写真を没収し、日本国内では天皇のこの写真を売ることができなくなったが、没収されなかった第二のネガで紙焼き写真を作り、それが外国で販売された。当時、オーストリア人を含めた欧米人は治外法権にあったこともあり対策は困難で、撮影者のシュティルフリートも結局罰せられることはなかった[269][271]。日本政府がシュティルフリートのネガと紙を買い取ることによって、シュティルフリートが盗撮した写真が極力外部に漏れないようにしたのは、天皇の御姿は人目に晒してはならないとする伝統的な天皇観に基づいていた[273]。しかし、この問題を契機に、天皇の肖像はどうあるべきかという近代的課題に政府は直面したのであった[272]。
この一件の少し前、明治4年11月12日(1871年12月23日)、欧米列強との不平等条約改正を目的として、岩倉具視を特命全権大使とした岩倉使節団が横浜を出発していた[274][275]。明治4年12月6日(1872年1月15日)、アメリカのサンフランシスコに上陸した使節団一行は、同年2月3日(3月11日)よりアメリカと条約改正交渉を始めたが、アメリカ側は、国家間の条約交渉においては国家元首の正式な委任状が必要だと主張。使節団は天皇の委任状を持参しておらず、岩倉が「私は天皇の信任を受けた全権大使」だといくら口頭で主張してもアメリカ側は納得しなかったので、天皇の委任状を受け取るため副使の大久保利通と伊藤博文が一時帰国した[275]。
また随員の小松済治を通して岩倉は宮内省に天皇の肖像写真作成を要請した。当時、欧米では高位階級や名士が挨拶時に自分の写真を贈与・交換する風習があり、外交交渉においても国家元首の肖像写真を交換するのが慣例になっていた。写真の交換は国家間の友好を意味し、互いに平等に元首を確認する儀式的行為でもあった。岩倉使節団も訪問先各国で天皇の写真を求められていた。歴史上初めての天皇公式写真を誰に撮らせるのか、大久保・伊藤帰国後の数週間に議論があったが、最終的には、当時国内トップクラスの写真師であった内田九一に決定した。依頼を受けた内田は明治5年(1872年)4月に天皇と美子皇后の写真を撮影した。この時撮影された天皇の写真は、束帯姿と小直衣姿であったが、近代国家の元首らしい洋装の天皇像を望んだ大久保と伊藤は、出来上がった天皇の写真に難色を示した[276][277]。 そこで、再び撮影をすることになり、5月からの巡幸で用いる燕尾型正服を着用した上半身の写真が撮影された(この時点では天皇はまだ髷を結っていたため、帽子によってそれを収めている)[278]。この写真が束帯・小直衣姿の写真とともに、使節団の元に送られた。それとともに、乗馬姿の全身像も撮影された。明治4年(1871年)12月から、軍隊の操練を本格的にするようになった天皇は、その際に軍服を着るようになっていたが[276]、この写真撮影以降、天皇は公務の際にも洋装をするようになった[279]。
明治5年5月15日(1872年6月20日)、京都で暮らしていた旧公家の橋本実麗が親子内親王からの伝言奏聞のため参内して天皇に謁見した際、天皇は洋装で椅子に腰かけており、また廊下に絨毯が敷かれており、宮廷の急速な西洋化に狼狽したという。宮中勤務の侍従たちもこの頃までには靴を脱ぐ必要がなくなっており、執務は椅子に座って行われるようになっていた[280]。
明治初年以来進んでいた電信網の整備も天皇に影響を与えるようになった。日本に電信線を架設することが決定されたのは、明治元年12月の新政府の廟議によってであり、イギリス人電信技士ジョージ・M・ギルバートがお雇い外国人として雇われて来日して以降、日本の電信網整備が始まる。明治2年(1869年)8月に横浜市内の灯明台役所から日本大通の裁判所までの間に電信線が架設されて試験的に運用されたのを嚆矢として、明治2年9月19日(1869年10月23日)から横浜電信局と東京築地東京電信局(東京傳信機役所)の間の約32キロに電柱593本と電信線を架設する工事が行われ(この10月23日は現在電信電話記念日となっている)、年内に工事を完了させて、明治2年12月25日(1870年1月26日)から日本最初の公衆電気通信業務が開始された[281][282]。この時に使われたのはオーストリアから贈呈されたエンボッシング・モ-ルス機であり、明治3年11月1日(10月の説もあり)に天皇は皇居においてこのエンボッシング・モ-ルス機を天覧している[281]。
明治政府は日本全国に電信網を急速に整備し、明治6年(1873年)には青森-東京-長崎を電信線でつなげ、明治15年(1882年)までにはほぼ日本全国の主要幹線網を完成させた[283]。また明治4(1871年)には デンマークの大北電信会社によって長崎-上海間と、長崎-ウラジオストク間の海底ケーブルが敷設されたため、日本からヨーロッパへの国際通信も可能となった[281][282]。東京から長崎、ウラジオストクからロンドンを経由してニューヨークまで届くようになった[282]。欧米の最新情報が日本にすぐ伝達されるようになり、天皇も外国の国家元首に吉兆があった場合などに祝辞やお見舞いの電報を送る対応ができるようになった[284]。
明治5年5月23日から7月まで天皇の西国巡幸が行われた。かつての鳳輦に乗っての大行列の行幸と異なり、燕尾型の洋服を着用し、少数の臣下だけを伴って騎馬や乗艦を組み合わせての近代的君主としての最初の行幸となった(詳細は後述)。
明治5年9月12日(1872年10月14日)には日本最初の鉄道である新橋-横浜間の鉄道開通の開業式典に臨御している。日本に鉄道を敷設することが決まったのは、明治2年11月10日(1869年12月12日)のことで、イギリス鉄道技術者たちがお雇い外国人として招かれ、明治3年3月(1870年4月)から東京-横浜間に日本最初の鉄道を敷設工事が開始され、まず開通したのは品川-横浜間だった。東京(新橋)-横浜間の正式開業に先立って、明治5年5月7日(1872年6月12日)からこの区間が仮開業された。仮開業当初は両駅間は直通で、時速約4km、所要時間は35分だったというが、当時の日本人にとっては驚愕の文明開化の機器であり「あたかも人間に羽翼を付して空天を翔けるに似たり」(『横浜毎日新聞』明治5年6月10日付)と報道されている[286]。6月5日には同区間に神奈川駅と川崎駅が追加され、料金も値下げされたことで利用者数が急増した[286]。
明治5年7月12日(1872年8月15日)に天皇がこの区間の汽車に乗車している。天皇は西国巡幸からの帰路にあり、横浜から品川まで汽車を利用したのである。天皇にとって初めての汽車乗車体験であり、これが「お召し列車」の最初であった[287]。
仮開業中に品川-新橋間の建設工事が進められてそちらも完成し、明治5年9月12日(1872年10月14日)に東京(新橋)-横浜間の鉄道の開業式が天皇臨御のもと、政府高官や各国外交官などが多数出席して開かれた[287][288]。この日天皇は和装の直衣を着し、午前9時に四頭立て馬車で新橋停車場に到着。午前10時に特別仕立ての列車で新橋を出、54分で横浜に到着。横浜停車場において午前11時から開かれた開業式に臨御した[287]。天皇は「今般、我が国鉄道首線工竣るを告ぐ。朕親ら開行し、その便利を欣ぶ。嗚呼汝百官この盛業を百事維新の初めに起しこの鴻利を万民永享の後に恵まんとす。その励精勉力実に嘉尚すべし。朕我が国の富盛を期し、百官のためにこれを祝す。朕また更にこの業を拡張しこの線をして全国に蔓布せしめんことを庶幾す」(このほど我が国の鉄道の最初の区間が竣工したことを告げる。朕自らが鉄道を開業し、その便利さを喜ぶ。ああ、そなたたち諸官は、この偉大な事業を維新のはじめに起こし、その大きな利益を広く万民に長きにわたって恵もうとしている。その精励さと努力は大いに称賛する。朕は我が国が富み栄えることを期待し、諸官のため祝福する。朕はさらにこの事業を拡張し、全国に線路を敷設することを心から願う)との勅語を述べた [289]。式が終わった後天皇は楼上の一室で休憩した後、正午に再び列車に乗って新橋へ戻り、午後1時から新橋でも開業式を行った[287]。
この後、鉄道網は急速に全国に広がり、汽車は海の蒸気船と比較して「陸蒸気」と呼ばれ、交通の近代化に貢献した[290]。
明治5年11月9日(1872年12月9日)にはこれまでの太陰暦(天保暦)から西洋諸国で使われる現行の太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を決定した。この日の午前10時に賢所便殿に出御した天皇は、伊勢神宮を遥拝した後、明治5年12月3日(太陰暦)をもって明治6年1月1日(太陽暦)と為す布告をした。天皇は改暦を皇霊に報告した後、正院に臨御して三条実美に改暦を行う理由を記した詔を与えた。その中で天皇が指摘した改暦の理由は次の通りだった。太陽の軌道に合わせるため、二、三年ごとに閏月を挿入しなければならない太陰暦は極めて不便であること、それに比べて太陽暦ははるかに正確で四年ごとに一日を加えるだけで済むこと、しかもそこから生じる誤差は七千年に一日の割合に過ぎない。この比類なき精密さこと太陽暦採用を決断した理由であるとしている[291]。これに合わせて時法も改正され、定時法に基づく24時間制が採用された。日本の国際社会への参加が進むにつれ、外交上および経済上の互換性の必要性から必然的な帰結だったと言える[292]。
岩倉具視が岩倉使節団の外遊中、自らが目の当たりにした近代化された欧米の文明についての感想を書いた手紙を日本に送った。そしてその手紙には、岩倉自身が断髪・洋装化した姿を写した写真を同封した。岩倉の写真に影響を受けた公家たちは次々と断髪し、日本の最も伝統的で古風な部分がビジュアル的に近代化しはじめた[293]。そして、明治6年(1873年)3月20日、ついに天皇も断髪を行った。天皇はいつも通り髷を結び白粉をして、御学問所に出御した。勅諚によりまず侍従有地品之允が髷を切り、次に侍従長米田虎雄と侍従片岡利和が交代で天皇の髷を整えた。天皇が戻ってくると、奥の女官たちは散髪して様変わりした天皇の姿に驚愕したという[294]。天皇の断髪が新聞で報道されて以降、断髪をする国民が後を絶たなかったという[295]。
岩倉使節団の帰国直後の頃の明治6年(1873年)10月には内田九一が三度宮中に召し出され、同年6月に制定されていた御軍服の正装および略服を着用しての天皇の写真撮影が行われ、数種類のポーズで撮影された。この頃には天皇は口髭も蓄えていた。この撮影の際、内田は椅子に腰掛けていた天皇の姿勢を正すために、傍に寄り、天皇の頭に手を触れた。当時は一般庶民が玉体に触れるなど論外であり、近侍の者が内田の無礼を責め、厳罰を加えると怒鳴ったが、天皇は微笑して「写真撮影の際はわが体といえども彼の手中にある。咎めるには及ばない。」と述べたという[296][297]。
- 明治6年(1873年)10月に内田九一が撮影した明治天皇の写真
撮影された天皇の写真は、全国の各府県に伝達された。同年12月に写真が到達した宮崎県では、道筋を掃除して「臨幸」として迎えている。とはいえ、当時の奉置の様子は、祝日に掲示して自由に参観させるという形式が多かった。のちの学校への下賜に先だって、祝祭日を通じて緩やかに浸透していった[269]。
このように天皇は近代化の象徴としての天皇像が求められ、天皇も柔軟に応えた。そして、その姿は行幸と写真という新しい方法で広められていった[269][298]。
しかしその後、1880年代になると天皇の写真嫌いが強まっていった。天皇は、写真機を通して肖像を撮り、それを交換するという西欧的な習慣に違和感を覚えていた。それが後に公式写真の撮影をしなくなった原因になった[299]。
西国巡行・習志野演習と西郷隆盛との思い出
[編集]明治5年(1872年)5月23日から7月まで、天皇は燕尾型ホック掛の正服[注釈 3]に身を包み、六大巡幸の最初となる西国巡幸を行った[280]。この巡幸の目的は、天皇が地理・人民・風土などを視察すること、天皇が将校に率先して艦船を指揮して沿海を巡覧すること、そして、政府の方針を知らない人民に行幸によって「開化進歩」を知らしめること等であった[302]。そのため、この巡幸のために大名行列のような交通遮断が行われることはなく、民はいつもと同じように仕事に精を出した。道路を修復したり、不浄の場所を隠すような、まことしやかに偽装された外観で天皇の眼を楽しませることも行われず、天皇はありのままの国の姿を視察した[280]。西郷隆盛はこの行幸に付き添った。西郷にとってこの行幸は、自らが望む武人的天皇像に向かって天皇をさらに成長させ、それを国民に宣伝する意義があった[302]。天皇は行幸中、かつてのように鳳輦や板輿に乗って重々しく移動するのではなく、陸上では乗馬や、時には徒歩で、海上では軍艦で、機能的に移動した[303]。これによって、伝統的天皇から武人的・近代的天皇へとイメージの変化がさらに進んだ[303]。
5月23日に天皇は西郷隆盛、その弟で陸軍少輔の西郷従道ら70余人を率いて品川沖に停泊する旗艦龍驤に乗艦。25日に艦隊は鳥羽湾に到着し、最初の訪問先伊勢神宮へ向かった。天皇のみ騎乗して進み、諸官はいずれも燕尾服を着用して洋刀を行使に差して徒歩で供奉した。伊勢神宮の門前町では、天皇を奉迎した沿道の庶民は、天皇の服装が旧来のものとは異なり、行列も簡素であったことに驚いたが、路傍に座って拍手拝礼した[304]。こうした行列と歓迎の光景は巡幸を通じて訪問先各地で繰り返された[305]。
次の訪問先は大阪だった。天皇の行幸を知ると大阪市民は献灯を掲げて奉迎の意を表し、迎拝者は天皇が通る道に数多く集まり、拍手して万歳を唱えた[304]。松島居留地の外国人も沿道に篝火を焚いて脱帽敬礼して天皇の行列を迎えた[305]。
5月30日に京都を行幸。3年以上ぶりに京都に戻った天皇に京都市民は「親しく天顔を拝して感泣せざる者なく」だったと記録にある[306]。天皇は忠能や親子内親王、淑子内親王など近親者を引見した後、京都の産物を陳列した博覧会に出席。その後地元中学校や、華士族の子女(後に平民の子女も入学可能となった)の教育機関である新英学校女紅場(後の京都府立第一高等女学校)を訪問[306]。この時以降天皇は地方行幸の際にその土地の物産の天覧や、学校の授業の視察を欠かさなくなった。また野営地のある場所では必ず部隊を閲兵した。今回の巡幸を通じて天皇は近代日本の将来は産業、教育、軍隊にかかっていることを理解したのである[306]。また大阪造幣寮・長崎造船所・各府県庁など近代化の拠点も訪問し、開化の進展を見届けた[264]。
九州に入り、熊本県小島では、干満の測定ミスをした海軍小輔の川村純義に対して西郷は激怒、庭にスイカを投げつけ粉砕した。天皇は二階からその一部始終を見ており[307]、この出来事を「あの時は、西郷が怒ってのう」と、後々まで語りぐさにした[308][309]。長崎では、天皇の洋装反対意見が出されたが、西郷は「未だ世界の大勢を知らざるか」と大声で叱った[305]。
6月22日(7月28日)に鹿児島に到着。旧鹿児島城内にある鎮西鎮台分営(旧島津邸)を鹿児島における行在所としたため、鹿児島城に入城した[311]。鹿児島港では陸海軍の対抗演習が天覧に供された。これは文久3年(1863年)の薩英戦争の場面を再現したものだった。現在その演習のあった天覧所の跡地(桜島フェリー乗船場付近)には「明治天皇行幸所舟形台場」碑が残されている[311]。さらに田ノ浦の陶器会社の薩摩焼の製造、磯の紡績場や大砲製造所などを視察した[311]。
鹿児島では、大臣たちが陪食した時に天皇がよく語ったもう一つのお気に入りの逸話があった。鹿児島に暮らす外国人の家に天皇と供の者数名が休憩した時に、その家の老婆が素晴らしい西洋料理と茶菓子でもてなしてくれたという。しかし彼女は「朕の誰れなるかを知らざるが如くなりき」であったと天皇は笑ってこの話を締めくくるのが常だった[307]。
天皇が鹿児島を発った後には鹿児島市民に行在所の拝観が許され、夜明け前から拝観のための長い行列ができた。鹿児島市民は天皇が神代三陵を遥拝した際に膝の下に敷いた薦の切れ端と、涼み台として使った御涼櫓装飾の杉の葉を拝戴し、災厄払いの護符にした[307]。
天皇は鹿児島から航路で7月4日に四国・丸亀に到着し、崇徳天皇の白峯陵、淳仁天皇の淡路陵を遥拝した[307]。しかしこの日、東京からの知らせで旧薩摩藩兵が大半を占める近衛兵の間で衝突が起きたという報告がもたらされ、薩摩出身の西郷隆盛と従道はこれを沈めるべく緊急に軍艦で東京に戻っていった[312]。天皇は予定通りの巡幸を続け、神戸に寄港し、その後横浜へと帰路に就いた[312]。
西郷は、寺田弘や大久保宛の書状の中で、行幸が大変盛り上がり、民衆の政府への支持が強固になった成果を告げた[304]。この巡幸は、天皇に国土を学ぶという経験を与えた。それに加えて、天皇にとっては西郷隆盛と行動をともにしたことが大きかった[308]。
明治6年(1873年)4月29日、天皇は近衛兵約2800人を率いて皇居を出発し、演習が行われる千葉の大和田原(現・習志野)までの30キロ近い行程を乗馬で抜剣して進んだ[314]。近衛都督・陸軍元帥の西郷隆盛も同道したが、肥満して馬に乗れない西郷は、その間ずっと徒歩で供奉し、その西郷の行動に、天皇は感銘を受けた[315][308]。その日の夜は大暴風雨となり、天皇は演習地に天幕を張って将校や供奉員とともに野営した。その時騎兵小隊長を務めていた人物の回想によると「夜中に陛下のテントが吹き飛んだといふことを聞きましたから、そら大変と言って直に駆け付けて参りますと、まだ吹き飛んでしまつたのではございませぬが、宮内省の人夫が網を引つ張たり」しており、天皇のテントは「雨は漏る、水は這入る」という有様だったが、「陛下は泰然として少しも御騒ぎ遊ばさずにおいでになりました」という[314]。また夜中には「西郷隆盛が陛下の御前へ出て『陛下如何』と申上げますと陛下は『随分風も強いが雨が漏るのに困る』と仰せられた」という[314]。30日に雨が上がった大和田原で野戦演習が行われた。演習が行われた大和田原は、天皇により習志野原と命名されて、以降陸軍の操練場と定められた[316]。
その後も西郷は、天皇の輔導に努めた。ある日、天皇が落馬して「痛い」と言った時、西郷に「どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけません」と叱られたことを天皇は後に語った[317]。この時期の西郷との思い出を、天皇は「あの時に西郷がこういった」「かような折に西郷はこうした」と、生涯にわたって懐かしんだ[318]。天皇の武人的変化は、西郷の個性によって、さらに促進されることとなった[317]。
学制発布
[編集]明治5年8月1日(1872年9月3日)に日本最初の公立図書館書籍館ができたのを機として、翌2日(9月4日)に天皇は学事奨励、学制の制定に関する被仰出書を出し[312]、その中で「自今以後一般人民邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」との聖旨を表明した[319]。
その聖旨に基づき太政官が日本の公教育の始まりとなった学制を発布し、日本において普通教育制度が始まった[319][320]。
学制は、学校を大学校・中学校・小学校の三等制にし、日本全国の学区を8大学区に分け、各大学区に大学校を1校設立し、1大学区を32中学区に分けて、各中学区に中学校を1校を設立し、1中学区を210小学区に分け、各小学区に小学校を設置することで、全国に8つの大学校、256の中学校、5万3760の小学校を設置するものと定めている。そのため、学制の公布以降、日本全国で小中学校が急ピッチで建設されていき、明治12年までには小学校2万8035校、就学児童は221万6007人に及んだ。学生発布の明治5年時と比較すると学校数は1万5467校、就学児童数は102万7639人も増加している。また師範学校や中学校も急速に増加し、これらは同じ時期までに196校、生徒1万4512人を数えた[321]。廃藩置県で藩校は廃され、私塾や寺子屋の類も順次廃業が進み、小学校が全国民共通の普通教育のスタートラインとなり、身分階層や男女の別なく全国民に等しく開かれた単一の学校体系が生まれた[322]。
全国を8つの大学区に分けたり、大学・中学・小学校という三等に区分したり、小学校在学期間を6歳から13歳としていることや、6歳前の幼稚小学の制度などは、フランス学制の影響が認められる[320]。また、大学区内に督學局を設け、文部省との連携で管内の学校運営全般を指導監督する教育行政システムや、小学校教員を養成するための師範学校の創設などもフランスの影響と思われる[320]。就学費用が受益者負担なのもフランスと同じだが、当時アメリカとプロイセンが世界に先駆けて行っていた義務教育(小学校)無償化の実現は、当時の日本の財政事情ではまだ不可能であり、その実現にはさらに30余年が必要であった[320]。
学制は、単一制度の小学校を、その後の全ての上級教育機関の基本階梯として義務付けたが、これは国民が等しく同じ初等教育を受けるという教育の機会均等という民主的理念に照らして大きな意義があった[323]。それはアメリカの学制と同じシステムであり、いわば「単線型教育体系」というべきものである[323]。これに対して欧州諸国では、中等教育が独自の初等予備教育を行う付属の学校を持つ教育体系と、一般の初等教育・職業教育の教育体系の二種が存在するという「複線型教育体系」が一般的だった。ヨーロッパでは、貴族・支配階級と庶民を分ける必要から、19世紀後半から20世紀に至ってもこの複線型教育系列が主流だったのである[323]。初等教育の一元化に限れば、日本の「学制」は、ドイツに48年、イギリスに72年、フランスに87年先行していた[324]。
アレクセイ大公の来日
[編集]アメリカ南北戦争の際、帝政ロシアはニューヨーク湾に艦隊を派遣して英仏を牽制したため、米国大統領ユリシーズ・グラントはそれを感謝しロシア皇帝アレクサンドル2世の第4皇子アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公をアメリカに招待し、大公は明治4年(1871年)からフリゲート艦「スヴェトラーナ」でアメリカを訪問。その帰路に大公はアジアにも回航し来日を希望したため、天皇の招待を受け、大公の日本への公式訪問が決まった。有栖川宮熾仁親王が筆頭の接伴係に任命されて接待の準備にとりかかり[326]、エディンバラ公来日の先例に倣って国賓として迎えることになった[327]。
天皇がアレクセイ大公を引見したのは10月17日(11月17日)だった。エディンバラ公の先例を踏襲し、天皇は熾仁親王とともに大広間の上段に立礼で迎え、アレクセイ大公は上段に設けられた天皇と向かい合った席に招かれて会談を行った[328]。翌日10月18日(11月18日)に天皇は返礼として大公が滞在する延遼館に初めて行幸、これ以降、国賓が宮中に参内すると滞在先への天皇の返礼の行幸が行われるようになる[329]。10月21日(11月21日)には天皇と大公は同じ馬車に乗って日比谷陸軍操練所へ向かい、馬車から閲兵を行った[329]。皇居に戻ると御学問所代で茶菓子が供され、この際にアレクセイ大公は美子皇后にも拝謁し、皇后はこの時に初めて西洋人を目にしたと言われている[326][330]。
10月25日(11月25日)に天皇と大公は汽車で横浜駅まで移動し、そこから馬車で横浜港に向かい、停泊中の日本軍艦の龍驤とロシア軍艦のスヴェトラーナに相互に乗艦しあい、日本艦隊6隻を閲艦。またスヴェトラーナでは昼食を供された。天皇が外国軍艦に乗艦するのも、外国人と食事を共にしたのもこれが初めてである[330]。ブラックによればアレクセイ大公は「宮廷馬車で陛下と同席が許された最初の外国人」であるといい、天皇がロシア艦に行幸したのは「これまでにミカドの示したヨーロッパ式儀礼のうちで、一番驚くべき進歩の徴(しるし)だった。」と記している。また「私の記憶に間違いがなければ、陛下が公衆の面前で、日本の礼装をした最後の機会だった」という[330]。
琉球王国から琉球藩へ
[編集]清国属国ながら実質的に薩摩藩支配下にあった琉球王国について、新政府は発足当初より日本の領土として捉えていた。明治2年(1869年)2月の段階で京都府は天皇の東幸についての告諭の中で「(天皇の)深思ノ思召ハ蝦夷琉球ノハテトモ日本ノ土地ニ生レシ人々ハ赤子ノ如ク」という言葉を使用していることからもそれが分かる[331]。廃藩置県後の明治5年1月に大蔵大輔井上馨は、琉球について日本本土の諸藩と同様に版籍を収納し、その所属が日本にあることを内外に明示すべきことを正院に報告している。同月、鹿児島県参事大山綱良は、琉球駐在県役人を通じて、王政維新以来、琉球国王がいまだに天皇への拝謁を行っていないので国王はただちに維新慶賀の使節団を東京に上京させるよう琉球に命じた[332]。
琉球国王尚泰は了承し、維新慶賀使を9月3日に東京へ送った。使節団は9月14日に太政大臣三条実美以下重臣たちが立ち並ぶ中、天皇に拝謁した。尚泰は使節団に持たせた天皇宛ての書簡の中で遥南方の島にて伏して維新の盛事を聞き及んで喜びに堪えない旨を表明し、これに対して天皇は長らく薩摩属国であった琉球が朝廷に忠誠を誓ったことを満足に思うとの勅語を与えるとともに、尚泰を琉球藩王および華族に任じる詔を与えた。日本本土では「藩」はこの前年の廃藩置県によって全て解体されていた。にもかかわらず琉球でのみ藩を復活させたのは、ゆくゆくは藩の解体と同じ過程によって琉球を日本政府の統治下に収めるための暫定的な処置だったからといえる[291]。
尚泰が天皇から琉球藩王に任じられたのを機に、外務卿副島種臣は東京駐在の外国公使に対して日本が琉球について全権限を有していることを通達。しかし清は琉球の宗主権を譲ろうとはしなかった[333]。
明治6年(1873年)3月9日に副島に対して、この前年に起きた台湾に漂流した琉球の宮古島の島民54人が台湾原住民パイワン族に虐殺された事件「宮古島島民遭難事件」についてその罪を清国に糾明すべきことを命じる上諭(勅命)を出した[333]。この上諭の意図は琉球島民が日本人であることを清に認めさせることにあった。また間接的には清国が台湾全島を領有しているというなら「生蕃人」(清国は台湾原住民のうち漢族に同化した者を「熟蕃」、漢化していない者を「生蕃」と呼んでいた)を罰することによってのみそれが証明できるという、清の台湾領有権主張に対する異議申し立てでもあった[333]。
北京に到着した副島は、清国当局と各国公使が皇帝謁見の礼式で膠着状態になっていることを知った。各国公使は西洋の外交慣例に従って清国皇帝は立礼で公使を迎えるべきと要求したが、清側は皇帝は世界で最も尊い存在であるので立って出迎えなど以ての外であり、逆に各国公使に対し額を地に叩きつけて皇帝に拝礼する三跪九叩頭の礼を要求した。副島も清当局から三跪九叩頭の礼を求められたが、副島は自分は天皇の代理として来ており、天皇の威信に関わる跪礼は応じられないと断った。中国古典に詳しい副島は終始中国の聖賢の教えを引用しては自己の見解の裏付けに使った。西洋の外交礼式を押し付けてくる西洋諸国の使節団に対して、中国の古典を引用して反論する副島は清皇族恭親王奕訢の関心を得たらしく、6月29日に至って副島は各国使節に先駆けて跪礼はしなくてよいとされて三拝の礼で皇帝の謁見を受けている[334]。
一方本題である台湾問題については、6月21日に外務大丞柳原前光が総理衙門(清国外務省)で「生蕃」の懲罰について交渉に当たっていたが、その議論の中で清国は清の支配は台湾全島に及んでおらず、「生蕃」は支配下にないと認めた。この発言は「生蕃」地域は無主地であり、「生蕃」に対する征伐軍を挙げても清国は無関係であることの言質となった[335]。
帰国した副島は、7月27日に天皇に拝謁して清国皇帝の復書を捧呈、天皇は副島の労をいたわって酒饌を下賜した[336]。
明治6年予算紛糾と征韓論論争
[編集]明治4年(1871年)の廃藩置県後に導入された太政官三院制の下では各省庁の権限が強化されたため、各省庁は自主的な政策運営に乗り出して省庁間の政策競合化のような現象が生じた。特に明治6年(1873年)は留守政府の開明政策が多く展開された年だったためにそれが顕著となった。徴兵令を布告して近代国民軍の形成を目指す陸軍省、学制を発布して普通教育普及を目指す文部省、司法職務定制を定めて日本各地に裁判所を設置して司法権の地方官からの回収を目指す司法省などが、各々の政策の実行のために大蔵省に予算を要求した[337]。
一方、岩倉使節団に参加中の大蔵卿大久保利通の留守を預かる大蔵大輔井上馨や大蔵少輔事務取扱渋沢栄一ら大蔵省首脳部は緊縮財政の方針を立てていたため、多額の予算を要求する他省庁との間で衝突が絶えなかった。特に明治6年予算をめぐる紛議は深刻化し、司法卿江藤新平が大蔵省の厳しい査定に反発して辞職を表明する騒ぎになり、本来各省庁の調整を行うべき正院は、三条実美と大隈重信を軸としていたこともあり、有効な仲裁者となりえず、5月には痺れを切らした井上馨や渋沢栄一ら大蔵省首脳部が辞職するという事態に陥った[338]。この予算紛糾は留守政府の限界や太政官三院制の抱える矛盾などが一気に噴出したもので、そのしこりがこの直後に始まる征韓論論争の底流にあったといえる[338]。
鎖国体制を取り続ける李氏朝鮮は、交易・外交関係を開こうという日本に対して門戸を閉ざし続け、日朝関係は悪化を続けていた。そんな中の明治6年(1873年)7月に対馬人以外の日本人が朝鮮の倭館に出入りしていることが発覚したとして、朝鮮政府が倭館に「潜商禁止の令」を掲示したことで情勢は緊迫化した。朝鮮側の主張は、対馬島を介しての両国交易は伝統的な「不易之法」であり、対馬以外の他島人の交易は我が国が許すところではない、このような潜商が倭館が自由に出入りしているということは、日本は「無法之国」となったことを意味する。倭館の者たちよ、あとで後悔することがないように我が国の非難を頭領に報告すべし、というものである[339]。
一応これは日本人全般への批判ではなく、日朝貿易の伝統的枠組みを逸脱したところで商取引をした日本人商人に批判の的を絞ったものだったが、当時の日本人にこの侮蔑の言葉をそのように解釈する者はなかった。特に「無法之国」なる表現は日本の名誉に対する侮蔑以外の何物でもなかった。日本中で朝鮮に対する怒りの声が巻き起こり、朝鮮出兵の呼び声は高まった[339]。
天皇は情勢を深く憂慮し、太政大臣三条実美に朝鮮事件処理の勅命を下した。閣議を招集した三条は、日本は朝鮮との善隣の道に努力してきたが、それは侮蔑により報いられただけだった。事態ここに及んでは日本は朝鮮にいる居留民保護のため陸海軍の小部隊を派遣するべきであり、その数は必要とあればいくらでも増強できると述べた。これに対して西郷隆盛は今にわかに軍を派遣すれば朝鮮人民は日本に併呑されるのではないかという猜疑心を持つようになるに違いなく、これは我が朝廷の遺志に反する所である。まずは全権使節を派遣し、日本の真意を伝えて朝鮮を説諭すべきである。もし朝鮮がこれを聞き容れず、使節に無礼を働くようであれば、その罪を天下に鳴らし、朝鮮を討てばよい、その使節には自分がなると主張した[339]。
閣議に出席していた留守政府の政府高官たちはことごとく西郷の意見を支持したが、この時には岩倉具視以下岩倉使節団に参加している政府高官が日本にいなかった。三条は岩倉に早期帰国して閣議に加わるよう求める電報を打った。しかし8月3日には西郷が三条に書簡を送って閣議の結果を断固実行に移すべきことを要求した。三条から返信がないことに苛立った西郷は、8月16日には直接三条のもとを訪ねて次のように論じた。もし岩倉の帰国を待っていたら時機を逃がすことになる。使節を送れば朝鮮は必ず使節を殺す。それでこそ軍隊を派遣しその罪を鳴らす名目が立つ。昨今の国内情勢は内乱の発生を望むかのような兆しが満ち満ちている。この際国内に鬱積した怒りの切っ先を外へ転じて、以て国威を海外に発揚すべきである[340]。
西郷の熱弁を前にして三条は、西郷を思いとどまらせるのは無理と判断し、8月17日にも閣議を招集して西郷の提案通り朝鮮への使節派遣を決定した。閣議で反対を表明したのは黒田清隆だけだった。彼は日露間で紛糾している樺太問題の解決の方が重要で、またもし仮に朝鮮に使節を派遣することになったら西郷ではなく自分が行くと主張した[340]。
一方天皇は8月5日に皇后とともに避暑のため神奈川県箱根宮ノ下へ移っていた。元来政務に熱心な天皇は私的な理由で東京を離れることを嫌ったが、明治6年夏の東京の酷暑は尋常ではなく、さすがの天皇も参ったようである。そのため政府閣僚らは裁可を仰ぎに箱根まで行かねばならなかった[340][341]。8月19日には三条が宮ノ下にやってきて天皇の拝謁を受けた。天皇と三条がこの時にどんな会話をしたのかは不明だが、最終的に天皇は、西郷の朝鮮派遣の件は岩倉の帰国を待って閣議で十分な議論を尽くし、その上で朕に報告せよ、という聖断を三条に与えている。三条は使節派遣を閣議決定しながらも揺れ動いており、岩倉が早期帰国して意見を述べてくれることに期待していたから、この聖断に胸をなでおろして東京へ帰り、西郷に天皇の勅命を伝えた。岩倉の帰国を待てという天皇の勅命が天皇自身の決断なのか、三条の度重なる説得の結果なのかは不明である[342]。
西郷は7月29日から8月17日まで板垣退助に三通の書簡を送っているが、即時朝鮮出兵を主張する板垣の意見に反対している。そこでの西郷の主張は「軍隊は目下ロシアの北方からの侵略に備えて必要である。然るべき理由もないのに戦端を開いたらこちらの討伐の名目が立たない。まずは使節を送るのが望ましい。そして日本が使節を送れば朝鮮は必ずその使節を殺す。そこでお願いだが自分を使節にしてほしい。副島種臣(外務卿)のような立派な使節はとても務まらないが、死ぬぐらいなら自分にもできる。」という閣議での発言と同じ趣旨のものである[342]。毛利敏彦は、この書簡は板垣に西郷の使節任命を後押ししてくれるよう頼んだものだろうと見、それは西郷がいくらこだわっても外交交渉にたけた副島が使節に任命される可能性が決して少なくなかったからであると分析する[341]。また、もし西郷の見立て通りに事が進んだ場合、使節となった西郷は死ぬことになるが、この頃の西郷の書簡は「死」を意識したものが多い。持病の悪化で苦しんでいた時期であり、無意味に病に倒れて死ぬのを恐れていたのではと考える歴史学者もある[343]。
9月13日に岩倉が帰国。それより前に一足早く帰国した木戸孝允が9月上旬に三条と会談しており、内政優先から朝鮮への使節派遣に反対したが、当時木戸は体調を崩していたため、岩倉は木戸より大久保に期待を寄せて彼を参議に引き立てようとした[344]。洋行中に大久保と不仲になっていた木戸すら大久保の尽力に期待した[344]。大久保は当初参議就任を渋っていたが、副島も参議にすることを条件に承諾。西郷派に回る可能性が高かった副島をなぜ大久保が参議に推したかは不明だが、ともかく岩倉は大久保の助力を必要としていた。10月中旬に天皇は岩倉の奏請に応じて大久保と副島を参議に任じた[344]。
顔ぶれがそろうと10月14日に閣議が開かれた。閣議で岩倉は外交上の3つの懸念事項として、樺太、台湾、朝鮮を挙げ、樺太問題が先決すべき外交問題である論じた。しかし西郷は朝鮮の事件こそが皇威、国威にかかわる最も重要な問題と主張して真っ向から対立。4人の参議(板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平)が西郷支持、3人の参議(大久保利通、大隈重信、大木喬任)が岩倉支持で政府が真っ二つに割れた[345][346]。
この征韓論論争の最中に三条が病気になったので天皇は侍医2人とドイツ人医師2人を三条邸に派遣し、10月20日には自らも三条邸を訪問して三条を見舞った。天皇は政治的空白を作るまいと、その足で岩倉邸にも行き、岩倉を太政大臣代理に任じた[345][347]。これにより岩倉が政局をリードするようになった[347]。10月23日に岩倉は征韓論について「臣その不可を信ず」という反対理由を記した意見書を天皇に奏上した[347]。その中で岩倉は次のように論じた。維新以来4、5年しかたっておらず、いまだ国の基盤は不安定である。軽々しく外国と紛争を起こしている場合ではない、朝鮮との戦争は使節の到着とともに勃発することが予期される。したがって使節派遣は国力が充実するまで待つべきである。さもなくば大惨事を招く[348]。
10月24日に天皇は裁定を下した。宸翰の勅書を出して岩倉の意見に支持を与えた。この天皇の裁定によってすべては決し、征韓論は消え、西郷ならびに西郷を支持した参議4人(板垣、後藤、副島、江藤)は全員病気を理由にして辞任することになった。天皇はこの征韓論論争に大いに心を痛めたが、朝鮮をめぐる危機はひとまず収束した[348]
この征韓論論争で西郷と西郷を支持した留守政府の政府高官たちの多くが下野した結果、政府内では大久保の権勢が突出するようになった。大久保は明治6年に内務省を新設して内務卿に就任し、事実上の大久保政権を誕生させた[349][350]。大久保は、岩倉具視、伊藤博文、大隈重信の協力・補佐を受けて、征韓論論争の余波をできる限り取り除くべく、行政改革に着手し、参議と省卿を分離したことが各省の独走を招いて予算紛議のような事態を招いたことから、参議・省卿兼任制に変更した[351]。
しかし西郷下野の影響は深刻だった。西郷支持派が多い近衛兵の脱走、帰郷に歯止めがかからなくなり、その中には天皇の侍従を務めた島義勇や村田新八も含まれた[352]。西郷辞職の翌日に天皇は篠原国幹以下佐官将校クラスを小御所代に召したが、篠原らは応じなかった。10月下旬に天皇は再び140余名の近衛将校を召したが、病気を理由に参内しない者が多かった。まばらに集合する近衛将校団を見た天皇は憂慮の念をもらしている(『明治天皇紀』)[353]。天皇の権威の失墜は隠しようがないものだった[353]。
明治6年は天皇にとって厄年のような年で征韓論騒動以外にも様々な不幸に見舞われた。特に辛かったのは権典侍葉室光子が明治6年9月18日に明治天皇の第一皇子を儲けるも即日薨去し、光子も産後に容体を悪化させて4日後に死去したことであった。さらにその直後には橋本夏子が第一皇女を儲けるも死産だったうえ、夏子も産後の容態悪化で死去してしまった[354][353]。天皇は悲しみのあまりしばらく酒にふけった[353]。
さらに同年5月5日には皇居において女官の火の不始末が原因で物置から出火し、折からの強風に煽られて皇居全域が焼失する事件が起きている。皇居の前身である旧江戸城は安政6年(1859年)10月の火事で本丸、ついで文久3年(1863年)6月の火事で西丸が焼失していた。いずれも焼失後に再建の普請が実施されるも、西丸普請中に本丸が再焼失し、本丸の再建は断念されたため、慶応4年(1868年)に江戸城が皇居となった際には西丸が残っているのみであった。この明治6年の火事でその西丸も焼失したということである[355]。幸い天皇皇后は無事であり、三種の神器も難を逃れたが、多くの官庁が被災し重要な文書の多くが灰となるなど甚大な被害があった。この後新皇居となる明治宮殿が完成したのは明治22年(1889年)のことであり、それまで天皇は赤坂離宮を仮御所として政務に臨んだ[356][357]。仮とはいえ当面の天皇の居所、公務の場となる以上赤坂離宮にそれに見合った修繕を施す必要があったが、質素を旨とする天皇はその経費として5万円を上限に定めた。天皇はそれを徹底するため三条太政大臣に勅を下し、仮御所修繕のことで民衆に負担をかけないよう命じた[356]。
地租改正
[編集]明治6年(1873年)7月28日、明治天皇は正院がまとめた地租改正法案を裁可し、自らの上諭を付して布告した。天皇の上諭部分の内容は以下のとおりである。「朕惟フニ租税ハ國ノ大事、人民休戚ノ係ル所ナリ。従前其法一ナラス、寛苛輕重率ネ其平ヲ得ス。仍テ之ヲ改正セント欲シ乃チ所司ノ群議ヲ採リ、地方官ノ衆論ヲ盡シ、更ニ内閣諸臣卜辨論裁定シ、之ヲ公平畫一ニ歸セシメ地租改正法をヲ頒布ス。庶幾クハ賦ニ厚薄ノ弊ナク、民ニ労逸ノ偏ナカラシメン。主者奉行セヨ。」[358](朕が思うに租税は国の重要な問題である。それは人民の幸・不幸に関わるからである。従前の制度は統一的ではなかった。租税負担が寛大だったり苛酷だったり、軽かったり重かったりがあって概ね不公正であった。よって朕はこれを改正したいと願い、役人たちに議論を行わせ、地方官たちの意見を引き出し、さらに内閣の大臣らと討議をして裁定した、公平にして統一的な制度に帰すための地租改正法を公布する。これによって租税の不公正という悪弊が除去され、民の苦楽に偏りがなくなることを願う。担当者はこの法を執行せよ)
当時法律には上諭(勅語)は付されないのが一般的であったが、地租改正法には上諭が付されており、地租改正がいかに重要視されていたかを物語る[359]。
地租改正の具体的内容の要旨は次の4点である。1、地券調査により「土地ノ代価」を確定し、地租の税率は「土地ノ代価」の100分の3とし、天災等の場合を除き豊凶によって増減はしない。2、地租の納付方法は金納とする。3、地租は個々の土地ごとの土地所有者に対して賦課する(村ではなく個人が課税単位)、4、地価の課税標準である「土地ノ原価」は、一定面積の耕地の収穫高から必要経費(種肥代)と、予定される新地租と村入費(村税)を控除して利益を求め、これを地方慣行の利子率で資本還元して地価を求める[359]。
江戸時代の年貢と比較すると、以下の5点が改善された点である。1、納税義務者、課税標準、税率といった税に関する基本的事項が法定されているため、江戸時代のような為政者の恣意の余地はなく、租税法律主義による予測可能性と法的安定性が確保されている、2、納税義務者は土地所有者個人なので、江戸時代のように村全体が連帯して納税義務を負わされるということはない、3、課税標準が地価であり、税率が3%に固定されているため、江戸時代の年貢よりも歳入として安定している、4、納付は金納であるため、江戸時代の米納と違って納税者に輸送の負担がない、5、法律の適用は全国一律なので、各藩領や幕府領でバラバラだった江戸時代と違って特定の地域が異なる取扱いを受けることはない[359]。
地租改正は非常に大きな意義があったといえる。まずこれまでの年貢は各藩や各幕府直轄地など地域によって負担の軽重があったが、それが解消されたこと、金納になったことで米納のような検見や輸送等の煩雑な手続きも不要になり、政府においてはコメ相場によって税収が左右されることがなくなったこと。また納税義務者が村といった集団ではなく、個人になったため、他の者の納税に左右されることがなく、自己の納税さえすればよく、責任の所在が明確になったこと。地券調査により全国の土地が測量された結果、これまで把握されていなかった土地を含め土地の形状や境界が正確に把握されるようになったこと。地券発行に際して土地台帳が作成されたことで、土地私有化や土地取引自由化とも相まって、土地管理や、民間の土地取引の推進に大きな影響を与えたことなどが挙げられる[359]。
地租改正は江戸時代の年貢制度を抜本的に改革するものとなったが、導入への抵抗はほとんど見られず、比較的スムーズに移行された。その理由は、すでに版籍奉還と廃藩置県によって藩主・藩士による土地支配体制が事実上崩壊しており、地租改正が行われやすい環境がすでに整備されていたことが挙げられる[359]。
ジェノヴァ公来日
[編集]日本の三人目の国賓となったのは、明治6年(1873年)8月、世界一周旅行中に来日したイタリア王室サヴォイア家の一員である第2代ジェノヴァ公爵トンマーゾ・ディ・サヴォイア(サルデーニャ王カルロ・アルベルトの第2王子初代ジェノヴァ公爵フェルディナンド・ディ・サヴォイアの長男)である。
ジェノヴァ公が横浜に到着した明治6年8月23日には天皇は避暑のため箱根に移っていたが、天皇が東京へ還幸した後の9月1日に赤坂離宮で天皇に拝謁[360]。ジェノヴァ公は天皇が洋装で迎えた最初の国賓である。9月8日に天皇とジェノヴァ公は日比谷陸軍操練所で飾隊式(観兵式)に臨んで閲兵した後、皇居・吹上御苑の瀧見御茶屋で午餐を取ったが、これは外国からの賓客に対して天皇が初めて行った宮中招宴である[361]。この際に振舞われたのは西洋料理であり、児玉定子はこの時以降宮中の招宴は現代に至るまで全て西洋料理(フランス料理)となり、西洋の礼式をもって行われるようになったと述べている[361]。またこの午餐会の間、前庭では日本海軍軍楽隊が西洋音楽を演奏していたが、これも宮中に西洋音楽が入るようになった端緒である[361]。
台湾出兵
[編集]台湾「生蕃人」が琉球島民を殺害した事件をめぐる清国との交渉は、明治6年(1873年)6月に副島種臣が清国官吏と談判して以降停滞していた。そこで明治7年(1874年)1月に大久保利通と大隈重信は三条実美の要請を受けて生蛮問罪について調査し、台湾蕃地処分要略を作成し、その中で、清国政府の声明によれば、台湾「生蕃」地域はどこの国にも所属していない、従って邦人が受けた暴行に対する報復は日本政府の義務であることを指摘した[363]。
3月には大隈重信、参議兼外務卿寺島宗則、駐清国公使柳原前光、陸軍大輔西郷従道が大隈邸に集まって台湾出兵についての具体的な計画を立案した[364]。政府高官の中では木戸孝允が唯一台湾出兵に反対し、台湾出兵が決定された場合には辞職することを表明したが、木戸以外に反対論はなく、台湾出兵計画は進められた。天皇も台湾出兵に強い関心を示しており、4月3日に大隈を召してこれまでの経緯を説明させるとともに、その翌日には西郷従道を中将を台湾蕃地事務都督に任じ、5日には大隈を正院の台湾蕃地事務局長官に任じた[364]。
そして4月6日に西郷従道に台湾蕃地処分に関する全権委任の勅書を与えた。勅書には「我国人ヲ暴殺セシ罪ヲ問ヒ相当ノ処分ヲ行フベキ事」とある[364]。またこれと別の特諭十款の中で天皇は次の大要を論じた。生蕃人を自儘に放任すれば、その害極まるところを知らない。「今朕が膺懲(外敵討伐)を行ふの意は彼の野蛮を化して我が良民を安んずるに在り、汝此の旨を体し、事を為すに際しては恩威並び行ふべし、鎮定の後は土人を教導して開明に向はしめ、我が政府との間に有益なる事業を興さしむべし」[364]。
西郷従道と大隈は長崎に入り、いつでも軍を台湾へ出陣させられる状態を整えた。しかし日本の台湾出兵の動きを察知した米英政府から台湾は清国領とする抗議があり、これが日本政府をひるませた。日本政府はこれ以上の行動に出る前に清国政府に筋を通す必要があると判断し、大隈は帰京を命じられ、従道はそのまま長崎に留まって後命を待つよう命じられた。政府の弱腰に激怒した従道は、進発をこれ以上遅らせることはできない、諸兵はすでに出陣の態勢にある。遅延はいかなる理由でも士気を大きく損なうことになる。それでも強いて止めようというのであれば、自分は天皇から与えられた全権委任の勅書を奉還し、賊徒となって生蕃の巣窟を攻撃して国家に累を及ぼすことのないよう処置する決意であると告げた[365]。大隈は従道の説得に当たるも、従道は諸艦に命令を出して炭水を運びこませた。そのため大隈は東京の正院に宛てて「士気強盛にしてその勢い制し難し」という電報を送った[365]。
4月27日に従道は駐厦門領事福島九成に清の閩浙総督李鶴年に宛てた書簡を届けさせた。その内容は、本官は天皇の大命を奉じ、親兵を率いて今まさに蕃地へと乗り込もうとしている。我が船艦は貴国治下の海域を通過することになる。もとより他意はない。航路を遮断しないでいただきたい。本官の目的は我が国民を暴殺した生蕃を懲戒し、二度とそのような事件を起こさせないようにすることにある。もし清国統治下の台湾府県内に潜入する生蕃があれば、逮捕し当方へ身柄引き渡しをお願いしたい、というものであった[365]。
従道は5月2日に4隻の軍艦に分乗した海陸諸兵千余人を台湾社寮港へ送り、5月17日に自身も台湾へ向かった[366]。台湾を自国領と見なす清国にとっては当然不快極まりない事態で、清政府は5月22日にも軍艦2隻を台湾社寮港へ送り、その艦長が従道と会見して日本軍の撤兵を要求したが、従道は両国の交渉ごとに関しては駐清公使柳原前光と談判すべしとだけ答えた[366]。日本軍は台湾の酷暑のため熱病に苦しめられたが、生蕃討滅作戦は順調に進み、戦勝を収めた[366]。
天皇は、台湾出兵の事後処理のため、8月1日に大久保利通を全権弁理大臣に任じ、清国に派遣した。交渉は難航したが、10月31日に日清間に条約が成立。その内容は、清国は日本の征蕃を義挙として認める。清国は日本人被害民に賠償金を支払う。清国は日本が台湾で修造した道路、建築した家屋の費用を報償する。両国間で交わした敵意ある公文書はことごとく破棄する。今後清国は台湾生蕃を取り締まり、航海の安全を確保する、等である[367]。日本の要求をほぼすべて清国に受け入れさせた形であり、台湾出兵は日本の完全勝利に終わった。しかも清国は琉球人のことを「日本人」と表現するのを許してしまったため、琉球が日本領であることを暗に認める形にもなってしまった。条約締結を受けて日本の部隊は12月20日に台湾から撤収した[367]。
天皇は12月9日に帰国した大久保利通と、台湾出兵で活躍した将官に謁を賜り、一同の尽力を称え、贈り物を下賜した。13日には宮内卿代理・宮内大輔万里小路博房を通じて、大久保に御手許金から1万円を下賜した。大久保は清国との交渉が成功したのは、自分ひとりの功績ではなく、皇上の明威と廟堂の謨猷(計略)に因るものであるとして拝辞したが、天皇が受け取るよう強く求めたため、ついに大久保も拝受した[367]。