福岡ソフトバンクホークス
福岡ソフトバンクホークス | |
---|---|
Fukuoka SoftBank Hawks | |
会社名 | 福岡ソフトバンクホークス株式会社 |
創設 | 1938年2月22日 |
今シーズン | |
2024年の福岡ソフトバンクホークス | |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
| |
本拠地 | |
みずほPayPayドーム福岡(福岡県福岡市中央区) | |
収容人員 | 40,142人(みずほPayPayドーム福岡) |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
日本一(11回) | |
リーグ優勝(22回) | |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(8回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
成績(タイトル以外) | |
アジアシリーズ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
2011 | |
日本シリーズ出場(21回) (太字は勝利した年) | |
11勝10敗 | |
クライマックスシリーズ出場(15回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
8勝7敗 | |
プレーオフ(2004-2006)出場(3回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
0勝3敗 | |
プレーオフ(前後期制)出場(1回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) | |
1勝0敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 孫正義 (代行:後藤芳光) |
運営母体 | ソフトバンクグループ |
球団社長 | 後藤芳光 |
GM | 三笠杉彦 |
監督 | 小久保裕紀 |
選手会長 | 周東佑京 |
福岡ソフトバンクホークス | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
YouTube | ||||||||
チャンネル | ||||||||
活動期間 | 2013年2月14日 - | |||||||
ジャンル | 野球 | |||||||
登録者数 | 約27.8万人 | |||||||
総再生回数 | 約1億3464万回 | |||||||
| ||||||||
チャンネル登録者数・総再生回数は 2024年7月28日時点。 |
福岡ソフトバンクホークス (ふくおかソフトバンクホークス、英語: Fukuoka SoftBank Hawks)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。法人の会長は王貞治が務めている。
福岡県をフランチャイズとし、福岡市中央区にあるみずほPayPayドーム福岡を本拠地、北九州市小倉北区にある北九州市民球場を準本拠地としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は筑後市津島にあるHAWKSベースボールパーク筑後(タマスタ筑後)を使用している。
1938年から1988年までの50年にわたり、基本的には南海電気鉄道を親会社とし大阪府大阪市の大阪スタヂアムを本拠地として活動。1989年からはダイエーに売却されるとともに本拠地を福岡市に移して福岡ダイエーホークスとなり、2005年からは本拠地を変えずにソフトバンクを親会社とする福岡ソフトバンクホークスとなった。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
球団の歴史
[編集]球団創立
[編集]1938年3月1日に関西私鉄の南海鉄道を親会社とする南海軍(なんかいぐん)が結成され(運営会社は「南海野球株式会社」)、関西の私鉄界では阪神電気鉄道、阪神急行電鉄(阪急)に続く3番目のプロ野球球団となった。阪神の細野躋や阪急の小林一三が南海の寺田甚吉社長と小原英一取締役に設立を勧め、寺田のツルの一声で決まったとされている。誕生に際しては「陣痛の苦しみを知らぬおおらかさで産声を上げた」と『南海ホークス四十年史』で記述されている。本拠地は大阪府堺市の堺大浜球場。
3月29日に行われた日本職業野球連盟の総会で加盟が承認されたが、この総会の状況についてはいくつかの異なる証言がある。当時連盟理事長の鈴木竜二が「古い話で誰が言ったか定かでない」と述べているが、名古屋金鯱軍の山口勲が反対意見を出したのが定説とされる。反対意見は既に1937年度から8チームでのリーグ戦を開催していたため、南海軍の出場を認めると9チームで開催することとなり、日程上1チームは試合から外されてしまう事への抵抗だったとされる。一方で大阪タイガース常務の細野躋が南海の加盟が認められないなら脱退も辞さぬと述べたともされるが、そのような険悪な雰囲気はなかったと、総会に参加した書記の野口務の報告にある。また、当時の部員は監督と選手合わせて14名と人数的にも少なかった。しかし、連盟とリーグ参加各チームは条件付きの参入を決めた。これは春季リーグの参加は開幕が近づいており、日程編成の調整が難しかったことも考えられているが、一番の理由としては「選手を補強し、その実力を考慮に入れた上で秋季リーグからの参加を認める」というもので、春季リーグはいわばリーグ戦に参加できない準加盟チーム扱いでのスタートだった。そのため、秋季リーグ戦から参加となる。
戦前
[編集]堺大浜→中モズ時代(南海軍時代)
[編集]7月22日、南海初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦が後楽園球場で行われるが、先発の劉瀬章が3回3失点で降板など5対8で敗れている。7月28日、堺大浜球場において、阪急軍との「南海結成記念試合」が行われ、3回に2点を先制したものの直後に雨天中止となっている。8月27日に秋季リーグ戦が開幕し、南海のリーグ公式戦初試合となる対東京巨人軍戦(後楽園)が行われ、巨人に3点を先制され、その後南海が同点としたものの、リリーフで登板したヴィクトル・スタルヒンに抑えられた上、決勝のタイムリーも打たれて3対4で敗戦に終わる。9月6日の対名古屋金鯱軍戦(後楽園)に3対2で勝ち公式戦初勝利を挙げるが、初めて参加したリーグ戦は11勝26敗3分に終わり、首位から18ゲーム差の9チーム中8位に終わる。
この年に本拠地球場として中モズ球場が完成したが、公式戦は主に阪急西宮球場と阪神甲子園球場で行われた。応召で抜けた岩本義行の後の主将にこの年入団したばかりの鶴岡一人が就任。鶴岡は初年度から10本塁打で球団初のタイトルとなる本塁打王を獲得するなど活躍するが、この年限りで応召され、終戦までチームに復帰できなかった。リーグは年間通じての1シーズン制となり、便宜上、春夏秋の3季制となるが、南海は春、夏季には負け越したが秋季は勝ち越し、年間通じては首位の巨人から25ゲーム差の5位に終わる。
4月6日の対阪急軍戦で、2対32の記録的大敗を喫する。鶴岡など応召で抜けた主力選手の穴を埋められず、勝率.283で首位から45.5ゲーム差の9チーム中の8位に終わる。この年の有料入場者数は88万人近くと戦前最高となった。オフには東京六大学野球の選手、阪急から石田光彦、翼軍から鬼頭政一などを加入させるなど、それまでに無い選手の補強に乗り出している[1]。
翼軍と名古屋金鯱軍の合併により、8球団制になる。選手の応召は続き、投手陣は神田武夫と川崎徳次の2人で全試合の8割を投げているという状況だった。春、夏はそれぞれ12勝16敗と負け越すが、秋季は最後まで巨人と首位争いとなり、既に巨人の年間優勝が決まった後であったが、最終戦は1ゲーム差で巨人と戦うが2対3で敗れ、19勝9敗として、通年では初の勝ち越しとなる43勝41敗で4位となる[2]。
前年12月に始まった太平洋戦争の影響で主力選手の応召がさらに続き、戦力補強で中学出身の選手などを多数入団させるが、翌年度から主力となる別所昭以外は戦力にならなかった(別所はこの年2試合のみ登板)。川崎が病気で欠場となり、その分神田に比重がかかったが、春季は開幕から23試合までは巨人と1勝差ながら首位となり、その後4連敗で首位陥落し、夏季も開幕5連勝の後に12戦で1勝11敗で順位を落とし、首位巨人と26.5ゲーム差の6位に終わる[3]。
川崎らが応召で抜け、前年まで2年間チームを支えた神田が7月に病気で死去するなど戦力低下が続く。2年目の別所が投手陣の柱となり5月26日の対大和軍戦で球団初のノーヒットノーランを達成[注釈 1]したが、春季は最下位阪急と1.5ゲーム差の6位に終わり、 夏季は2勝11敗とした7月29日に監督を加藤喜作に代えるものの、これと前後して6連敗と4連敗を記録するなど6勝19敗で最下位。秋季は開幕から2勝1敗として、直後に11連敗となり、以降浮上することはなく、球団史で最も悪い成績[4]となる勝率.185、5勝22敗1分とし最下位に終わり、年間通じても首位の巨人と28.5ゲーム差の最下位に終わる。投手陣は別所と丸山二三雄の2人で投げている状態だったが、丸山はこの年限りで応召[4]。
中モズ時代(近畿日本軍時代)
[編集]戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併して同年6月1日より近畿日本鉄道(近鉄)となり、合わせて球団名を近畿日本軍(きんきにっぽんぐん)[注釈 2]へ改称。相次ぐ選手の応召によって、1943年には20人、1944年には14人(当時の6球団合わせても90人弱)という陣容で行われていた[5]。
この年は西鉄軍と大和軍が解散したため、6球団制となる。春季は3勝12敗で最下位に終わる。夏はここまで5年連続優勝の巨人がエースのスタルヒン[注釈 3]が活動できなくなったこともあり、一時最下位になるなど、低迷し、近畿日本は巨人と同率の3位となるが、全球団の相次ぐ選手の応召でリーグ戦を開催するのが困難となり、戦前におけるリーグ戦は夏季限りとなり、近畿日本軍としての最後の試合は8月27日の対巨人戦(甲子園)で、近畿日本が6対1で勝利している[6]。秋季は9月、リーグ戦の代わりに日本野球総進軍優勝大会の東京大会(後楽園)と大阪大会(甲子園)が開催されるが、単独チーム編成は困難となり、近畿日本は阪急と混成チームを組んでの出場となった[7]。通年成績は2年連続最下位に終わるものの、岡村俊昭が打率.369で首位打者を獲得。
戦後
[編集]中モズ時代(グレートリング時代)
[編集]プロ野球が8球団によって再開され、リーグに復帰。球団名をグレートリングに改称した。愛称は近畿で、近畿グレートリングと呼ばれることもあった(詳細については球団愛称節を参照。また、当時のプロ野球における愛称面全般については日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称を参照)。最終戦まで優勝争いとなり、11月5日に巨人がセネタースに負けたことにより、球団初優勝[注釈 4]。最終的に2位の巨人とは1ゲーム差となった。
中モズ→甲子園時代(南海時代)
[編集]6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせて球団名を南海ホークス[注釈 5]に改称した。この年チームは59勝を挙げているが、そのうち半数の30勝が別所によるもので、打線は機動力はすぐれていたが、選手兼任監督山本一人以下21名という少数精鋭の欠点が目立ち、別所が上位に勝った翌日に下位に負けることが多く、5月5日時点で首位の中日から0.5ゲームとしていたが、6月以降は首位の大阪に離されて、最終的に19ゲーム差の8球団中3位となる[9]。
前年の少数精鋭を補うべく、シベリアから復員した柚木進や木塚忠助などを補強し、シーズンに臨む。中谷信夫が開幕から12連勝[10]。11月8日の対阪急戦(甲子園)に勝利して、1946年以来2年ぶり2度目の優勝、2位の巨人に5ゲーム差をつける。オフ、エースの別所が読売ジャイアンツに引き抜かれる事件が発生した。詳細は別所引き抜き事件を参照。
勝率5割で首位の巨人から18.5ゲーム差の8球団中4位に終わる。オフの2リーグ分裂でパシフィック・リーグに加盟。
大阪時代(南海時代)
[編集]5月11日に2厘差で首位に立つものの1日で首位陥落し、それ以外は開幕からすべて毎日オリオンズが首位となった。8月に6連敗するなど10ゲーム差となり、最終的に毎日と15ゲーム差がつき、7球団中2位に終わる[11]。シーズン途中の9月12日に新しい自前の本拠地となる大阪球場が難波駅の南西に開場した。
シーズン終了後に日米野球が行われるため、シーズン途中で打ち切りとなり、21試合を残し、9月23日に2位の西鉄に18.5ゲーム差をつけてパ・リーグ加盟後初のリーグ優勝となる。一塁飯田徳治・二塁山本・三塁蔭山和夫・遊撃木塚忠助による「100万ドルの内野陣」と呼ばれた内野陣で他球団を圧倒。長打力に欠けたものの、得点はリーグ最多、失点はリーグ最少。初めて出場した日本シリーズでは巨人と対戦するが、シリーズを通してその内野陣が5盗塁で終わるなど得意の機動力が発揮できずに、初戦からの3連敗もあり、1勝4敗で敗れる[12]。
この年は7球団で108試合まで戦い、以降はそれまでの上位4球団による4回戦制となった。6月までは毎日が独走していたが、6月以降は南海が5連勝以上を4度記録するなど[注釈 6]、108試合を消化した時点では2位以下を圧倒していたが、上位4球団による争いとなってからは不振に陥り、毎日と優勝争いとなる。最終戦の対大映(大阪)に勝利したことで、2位の毎日と1ゲーム差でリーグ2連覇を決める。日本シリーズでは前年に続き巨人と対戦するが、2勝4敗で敗れる[13]。
この年は本拠地にフランチャイズ制を導入した最初のペナントレースだったため[14]、南海は当時のパ・リーグ全7球団で「正式な本拠地でリーグ優勝を決めた最初のパ・リーグ球団」となった[15]。
前年16勝の服部武夫と11勝の江藤正が1つも勝てず、柚木も16勝は挙げたが故障で2か月離脱するなど、前年までの投手陣が壊滅状態となるが、2年目の大神武俊が19勝、井上慎一が14勝で投手陣の柱となる。首位が28回入れ替わる混戦だったが、南海が残り1試合とした10月6日に2位の大映が負けたことで、リーグ3連覇を決める。監督の山本は引退後および生え抜きによる初のリーグ優勝監督となった[注釈 7][16]。日本シリーズでは3年連続で巨人と対戦するが、2勝4敗1分けで敗れる[17]。
高橋ユニオンズの加盟により、8球団制になる。西鉄ライオンズがプロ野球新記録の開幕11連勝で飛び出すが、8月から9月にかけて南海は日本プロ野球記録の18連勝、1敗を挟んで8連勝で追い上げ、終盤まで西鉄と優勝争いとなる。西鉄の90勝を上回る91勝を挙げるものの、引き分けの差で西鉄と0.5ゲーム差の2位に終わる[18]。
この年は南海が開幕10連勝で飛び出すが、この年も西鉄との25度にわたって首位が入れ替わる激しい首位争いとなる。2度3位となったが、阪急に10勝10敗とした以外は他の6球団に勝ち越し、8連勝を1度、7連勝を2度、6連勝を1度するなど8月24日以降は首位を渡さないまま、10月6日に対西鉄戦(平和台)に勝利して、2位の西鉄とは9ゲーム差をつけ、99勝41敗3分 勝率.707で1953年以来2年ぶり5度目のリーグ優勝を決める。99勝は日本プロ野球史上最多記録。またシーズン勝率7割以上達成は同年に勝率.713(92勝37敗1分)でセ・リーグ優勝した巨人とともに日本プロ野球史上最後のケースとなっている。4度目の日本シリーズで巨人と4度目の対戦となるが、3勝4敗で敗退。「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。二軍チームが同年創設のウエスタン・リーグに参加。
機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡はチーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換したが、なかなか軌道に乗らなかった。
2月、球団初の日本国外遠征となるハワイ遠征を行う。序盤、4月15日に首位に立つと途中6月半ばに一時陥落したものの、6月末に返り咲くと首位を譲らないまま、9月上旬の時点では2位の西鉄に7ゲームをつけていた。しかし9月22日からの平和台での直接対決4連戦に3敗1分けと勝てず、同月30日には西鉄に首位を明け渡し翌日に南海が再度返り咲くなど激しい首位争いとなるが、この後南海が対大映4連戦に2勝2敗とし、西鉄が5勝1敗と勝ち越し、10月6日に西鉄の優勝が決定。南海は全球団から勝ち越し、かつ西鉄と同数の96勝を挙げたものの、1954年同様に引き分け1つの差の2位に終わっている。なお、この96勝はNPBでリーグ優勝を逃したチームとしては歴代最多勝利数である[19]。
投手陣はこの年のリーグ規定投球回数230イニングに達した投手が1人も出ず、過去2年で50勝の宅和本司が6勝、前年23勝の中村大成が5勝に終わるなど、絶対的と呼べるエースがいなかったとされ、また打撃陣も飯田・木塚・蔭山らに陰りが見え、新旧過渡期と言える1年となった[20]。
高橋ユニオンズが大映スターズに吸収合併され、7球団制になる。この年も西鉄との首位争いとなったが、途中7月から8月にかけて西鉄が14連勝で抜け出す。14連勝のうち7勝を献上した南海は西鉄に7勝15敗と大きく負け越し、これが響いて西鉄に7ゲーム差をつけられて2位に終わる。オフには「立教三羽烏」のうち、長嶋茂雄と杉浦忠を獲得しようとするが、当時杉浦より入団が確実とされた長嶋が巨人入りし、杉浦のみの入団に終わる。また、チームの若返りをはかるため、飯田を国鉄、木塚を近鉄に金銭トレード[注釈 8]で放出している[21]。
毎日オリオンズが大映ユニオンズを吸収合併。この年以降、パ・リーグは6球団制となる。杉浦が開幕戦で勝利投手になるなど、チームは4月を12勝3敗とし、序盤から独走状態となり、オールスター前に杉浦が20勝(3敗)を挙げ、2位の西鉄に11ゲーム差をつけていた。しかし後半戦になると杉浦が調子を落とし、8月には西鉄戦で3敗するなど7勝9敗に終わる。西鉄は稲尾和久がチーム36勝のうち31勝に関与するなど活躍を見せて南海を追い上げ、8月16日に4ゲーム差、9月末最後の首位攻防戦2連戦直前の時点では6厘差としていた。その首位攻防戦の9月27日の試合は杉浦が先発、途中からリリーフで登板の稲尾との投げ合いで10回引き分けとしたものの、翌日には杉浦が連投で先発したものの、1回で降板するなど、2対7で敗戦し、首位を西鉄に明け渡す。10月1日に西鉄が優勝し、3年続けて序盤首位に立った南海を逆転した西鉄の優勝という形となった[22]。
この年は大毎との優勝争いとなり、10月4日の後楽園での直接対決に勝ち、1955年以来4年ぶり7度目のリーグ優勝を決める。月間成績でも優勝が決まった10月を除いてすべて勝ち越し、10敗以上はしない安定した成績で、4月28日に立って以降は8月に10連勝の大毎に首位を奪われた以外はすべて、首位だった。38勝を挙げた杉浦忠を始め、10勝以上投手が4人出ており、杉浦は最多勝・最優秀防御率・最高勝率の投手三冠王を獲得し[注釈 9]、最優秀選手に選ばれている。打者では杉山光平が首位打者を獲得。日本シリーズでは、4回の対戦でいずれも敗退した巨人と5度目の対戦となり、杉浦が第2戦以外の3試合で先発、第2戦でもリリーフで登板するなど4連投し、シリーズ史上・球団史上初となるストレート4連勝で1リーグ時代から数えて1948年以来11年ぶり3度目、2リーグ制になってから初の日本一達成となった。大阪市内の御堂筋で大阪球場前からスタートしたパレードは20万人(警察発表)のファンで埋め尽くされた[23]。オフに堀井数男が現役を引退した。
開幕戦では前年より無失点を続けていた杉浦が56イニングぶりに失点するなど、阪急に4対5で敗れ、14年ぶりに開幕戦で敗れる。前年に続き、大毎との優勝争いとなるが、8月に9連敗したのが大きく、響き、首位の大毎に4ゲーム[24]差の2位に終わる[25]。
それまで下位争いを続けていた東映フライヤーズが水原茂を監督に迎えて躍進、南海と首位争いとなる。10月11日からの南海対東映5連戦で3勝した方が優勝という状況で、10月15日の駒沢での試合で南海が勝ち、3連勝で2年ぶり8度目のリーグ優勝を決める。巨人との日本シリーズでは南海の2勝1敗で迎えた第4戦、南海が1点リードでの9回裏二死で、ジョー・スタンカが2ストライクとした後の投球へのボールの判定に南海側が猛抗議したものの判定が覆らず、この後サヨナラ負けしたことがこのシリーズの明暗を分け[26]、巨人に2勝4敗で敗れる。野村克也がこの年からパ・リーグ記録となる8年連続本塁打王、広瀬叔功がこの年から5年連続盗塁王を獲得する[27]。
開幕戦を連勝スタートしたものの直後に6連敗、2連勝を挟む形で8連敗、5連敗と敗戦を重ねて6勝19敗で、首位とは10.5ゲーム差となり、5月24日の対阪急戦後に監督の鶴岡が一時休養している。その後6月末から7月にかけて11連勝するなどもあり、鶴岡が8月に復帰した直後の8月9日に勝率を5割に戻す。9月19日には首位東映と4.5ゲーム差まで詰め寄るが、20日からの直接対決で負けたことで追いつけず、東映とは5ゲーム差の2位に終わる[28][29]。
夏場まで首位独走、5月5日の時点で2位の東映に8ゲーム差をつけていたが、オールスター直前に6連敗するなど成績が下降。前半戦4位の西鉄が9月を19勝9敗、10月も8連勝するなど追い上げ、南海が10月17日にリーグ全日程を終了した時点で、西鉄が残り4試合を西鉄が2勝以下で南海が優勝[注釈 10]という状況で西鉄が4連勝し、最大14ゲーム差を逆転され、優勝を逃す。野村が右打者としての当時年間最多本塁打を樹立[30][31]。
東京オリンピック開催の影響で、開幕が3月14日となり、3月を9勝7敗としたものの31日から5連敗で5位に転落。5月までに2位としたものの、直後に7連敗で5位に戻る。前半戦は前年より西本幸雄が監督に就任した阪急の独走状態だったが、オールスター前後から追い上げた南海が8月5日に首位に立つ。9月には7連敗で阪急に3毛差まで迫られるが、9月19日に阪急が東京オリオンズに敗れたことで、2リーグ分立後最短[注釈 11]で1959年以来5年ぶり9度目のリーグ優勝を決める。阪神との初の関西地区同士のチームの対決となった日本シリーズは阪神に先に王手を掛けられるが、第6戦・第7戦をジョー・スタンカの2試合連続完封で制し、4勝3敗で1959年以来5年ぶり4度目の日本一を達成。なお、南海は1989年から球団名を福岡ダイエーホークスおよびフランチャイズを福岡県に変更するため、南海ホークスおよび大阪時代としての日本一はこの年が最後となった。この年は首位打者と盗塁王を広瀬叔功、本塁打王と打点王を野村克也が獲得するなど主な打撃部門のタイトルを南海が独占した[32]。
この年から1999年にかけて35年間、日本一から遠ざかることになる。
開幕から本拠地の大阪球場で19連勝[注釈 12][33]するなど、序盤より連勝を重ね、2連敗を一度した以外は連敗がないまま、7月7日の時点で59試合で50勝9敗というペースで勝ち進み、17連勝も記録した。オールスター以降の勝率は5割を切ったものの、序盤からの独走もあり、2位に12ゲーム差をつけて9月26日に対東映戦ダブルヘッダー(大阪)に連勝し、2年連続10度目のリーグ優勝を決める。なお、南海は1989年から本拠地を平和台球場、1993年から本拠地を福岡ドームに移転するため、大阪球場でのリーグ優勝はこの年が最後となった。日本シリーズではこの年からV9時代に入る巨人に1勝4敗で敗れる。鶴岡が監督を辞任するが、後任の蔭山和夫が就任4日後に急死したため、鶴岡が監督に復帰している(詳細は南海蔭山新監督急死騒動を参照)。野村が2リーグ制以降初の打撃部門三冠王を達成する[34]。
5月まで26勝12敗で、6月は負け越したものの、以降はすべての月で勝ち越す。西鉄・東映との首位争いとなり、一時5.5ゲーム差をつけていたものの、西鉄に追い上げられ、南海が全日程を終了後、4試合4連勝が優勝の条件だった2位の西鉄が10月9日に敗れたことで、3年連続リーグ優勝が決まる[30]。日本シリーズでは2年連続で巨人と対戦するが、第1戦と第3戦を城之内邦雄に抑えられて敗戦。第4戦では延長14回にケント・ハドリが城之内からサヨナラ本塁打で勝利するが、第6戦にシーズン4勝の益田昭雄に5安打完封負けで、2勝4敗でシリーズ敗退[35]。
序盤から5位以下に低迷。6月に初めて月間を勝ち越し、7月4日から5連勝で勝率5割で3位に浮上するものの、直後に5連敗。8月以降は5割を保ったものの、最終的に首位の阪急と11ゲーム、3位の東映とは1ゲーム差の4位となり、1944年以来23年ぶり、2リーグ制となってからは初のBクラスに終わる。対西鉄戦では1点差試合で4勝11敗と弱かった影響で9勝17敗、対阪急戦も梶本隆夫に8敗したこともあり9勝17敗と負け越したことが大きく響いた。本塁打がリーグ2位という以外は広瀬叔功が故障欠場したこともあり、投打のバランスが取れずに打率、防御率は近年で最低の数字となった[36]。
序盤は近鉄が首位だったものの、前半戦終了までに脱落。後半戦は阪急と南海のマッチレースとなり、10月8日の時点で阪急とゲーム差無しで並んでいた[注釈 13]。7連勝で迎えた10月11日の最終戦の対近鉄戦(日生)において4対6で敗れ、阪急が勝利したことで、阪急と1ゲーム差の2位に終わる[37]。オフに鶴岡が監督退任、後任は飯田徳治。
4月1日、南海野球株式会社を発展的解消し、株式会社南海ホークスを設立発足。この年よりキャンプを呉から温暖な高知とするものの、同じ高知にキャンプを張った阪急や阪神に比べ、立地条件が悪く[注釈 14]、この年は全国的に多雨でキャンプは失敗だったとされる。前年31勝の皆川睦雄が開幕直前のオープン戦で右手人差し指を複雑骨折。さらに村上雅則・三浦清弘・新山彰忠と投手陣に故障が相次ぎ、野村克也も2度の突き指と2度の肉離れで調整不足のまま開幕を迎えた。開幕2連戦を連続してサヨナラ負けで序盤を3勝7敗、その後7勝3敗で5割、3位に浮上したが、6月には15連敗を記録。開幕後も広瀬叔功・ドン・ブレイザー・小池兼司など主力打者に故障者が続出したことにより打線が低調で、パ・リーグで唯一の100本以下の本塁打となる85本に終わり、パ・リーグとなって初の最下位に転落した[38]。飯田は1年で監督を辞任し、後任として選手兼任で野村が就任。ドラフトでは門田博光が入団。
野村はヘッドコーチに前年で南海を退団していたブレイザーを招聘し、野村ID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。この年発生した黒い霧事件では南海からは佐藤公博がオートレース八百長行為をしたとして永久追放処分を受けている[注釈 15]。
佐藤道郎がリリーフで18勝を挙げ期待通りの活躍を見せ[注釈 16]、打線が好調だったものの、杉浦忠・皆川睦雄・三浦清弘ら投手陣が精彩を欠き、前半戦はなかなか勝てないでいた。7月28日の時点で首位ロッテと8ゲーム差で、大阪球場で3連戦を迎えたが1勝1敗1分で追い上げられず、直後1分を挟む5連敗などもあり、最終的にチームは69勝57敗で首位のロッテと10.5ゲームの2位となる。佐藤は最優秀防御率と新人王を獲得[39]。
4月は首位の近鉄に次ぐ2位につけたが、5月以降は前年Bクラスの阪急が首位を奪取すると、チームは6月以降、近鉄との3位争いに終始した。2年目の門田博光が3割・30本・120打点で初タイトルとなる打点王を獲得する活躍をしたが最後は近鉄に引き離され、チームは首位阪急から22.5ゲーム差の4位に終わる。
東映からトレードで獲得した江本孟紀が前年度未勝利から背番号と同じ16勝を挙げ西岡三四郎と並ぶ南海のエース級投手へと成長。チームの要である野村克也が101打点で東映の大杉勝男とともに7度目の打点王を獲得。投手の佐藤道郎が.750で最高勝率で初のタイトルを獲得。チームは4月を首位で終え、6年ぶりの優勝が期待されたが、5月以降は阪急に首位の座を奪われると、東映・近鉄との2位争いが終盤まで続いた。最終的には2位の近鉄と同ゲーム差ながら勝率3毛差、首位・阪急から14ゲーム差の3位。
この年からパ・リーグは前後期制度を導入。前期はこの年巨人から移籍の山内新一が6月6日にリーグ一番乗りの10勝到達するなど、チームは6月13日に単独首位に立つとそのまま前期優勝。後期は対阪急戦で1分12敗と1勝も出来なかったが、後期はその阪急が優勝し、プレーオフを阪急と戦う。阪急圧倒的有利の声の中、南海が3勝2敗で勝利し、後期の南海の阪急に対する戦いぶりは「死んだ振り」と評された。日本シリーズでは巨人と対戦するが、1勝4敗で敗退している[注釈 17]。なお、南海は1989年から球団名を福岡ダイエーホークスおよびフランチャイズを福岡県に変更し、本拠地を平和台球場、1993年から本拠地を福岡ドームに移転するため、南海ホークスおよび大阪時代としてのリーグ優勝・日本シリーズ、大阪球場での日本シリーズはこの年が最後となった。
オフに日拓ホームフライヤーズの西村昭孝が南海とロッテオリオンズの合併計画を持ち出した。西村は「パ・リーグに将来性はない」として1リーグ制移行を見据えた球団合併を行うことにしたが、合併についてはまだ明らかにされていなかったにも関わらず、関西のあるスポーツ紙が先走って、南海と近鉄の合併を報じたために球界は騒然としたが、日拓が日本ハムへ身売りしたことで1リーグ問題も収束に向かい、近鉄との合併の噂も自然消滅した。
この年から1999年にかけて26年間、リーグ優勝・日本シリーズから遠ざかることになる。
野村克也が開幕2戦目で右ひざ痛で欠場するなど、この年は主力選手の故障が相次ぎ、5月まで負け越し6月以降は成績は上向くが前期は27勝28敗10分に終わる。後期は開幕からオールスターまで7勝3敗と好スタートしたものの、故障者が相次ぎ、それでもロッテ、阪急との三つ巴の争いとなるが、9月に入り、5連敗するなど後退し、3位に終わる[40]。
4月20日の対近鉄戦ダブルヘッダーにおいて第1試合を投手の自責点無しで4対3で敗れ、第2試合は神部年男にノーヒットノーランを達成されて1対0で敗れ、防御率は2点台だったものの、序盤から15試合で23失策を記録するなど守備の乱れが相次ぎ、5月に入っても連敗が相次ぎ、前期は27勝32敗6分で5位。後期も序盤ロードでの6連戦で得点が失点を上回るものの、2勝4敗と負け越し、本拠地に戻って阪急に3連敗で最下位となり低迷、9月に月間で勝ち越すものの、それまでの敗戦が響き、30勝33敗2分の3位で年間では5位に終わる。特に近鉄に6勝18敗5分と負け越したのが大きく響いた。二軍では13年ぶりにウエスタン・リーグで優勝。オフに南海の江本孟紀と阪神の江夏豊らによる4対2のトレードが行われる[41]。
期待された江夏豊がシーズン通して6勝12敗と誤算だったものの、この年リーグ1の投手陣だったが、打撃陣は新外国人トム・ロブソンが不振、野村が故障で10本塁打に終わるなど長打力にかけ、前後期ともに2位に終わる。この年、前後期1位の阪急は後期の序盤から不振だったが、8月22日からの阪急3連戦を2勝1敗とした事を足がかりに11連勝し、この間南海は五分の成績で阪急を勢いづかせたのが大きく響いた[42]。[疑問点 ]
阪急との開幕戦でサヨナラ負けの後、7連勝で首位に立つが、山内新一・藤原満が故障で離脱するなど、近鉄と阪急に追い上げられて5月に3位に落ちる。近鉄とは序盤から7連敗(1分け含む)するなど相性が悪く、3ゲーム差で迎えた6月3日からの阪急との4連戦で1勝3敗として、前期は最終的に阪急と2勝差の2位に終わる。後期は開幕から2勝10敗1分とするなど連敗が続き、連敗が止まると選手20人が下痢、腹痛を起こすなど、7月はアクシデントが続く。8月はリリーフに専念の江夏豊が6試合連続セーブを挙げ、チームの調子は良くなるが、終盤まで勝率5割寸前まで行っては負けるという繰り返しで、終盤64試合目で勝率5割に到達したが、優勝争いに加わる事も無いまま後期は3位に終わり、プレーオフには進出できなかった(通年順位は2位)、結果的にこの年が南海時代最後Aクラス入りとなる。9月28日、野村の女性関係が問題視され、公私混同を理由に解任される[43][注釈 18]。後任には広瀬叔功が就任[45]。また、この処分を不服として江夏と柏原純一が退団した。
前期は4月と5月に7連敗するなど、後期も7月に7連敗するなどあり共に最下位に終わる。打線は門田博光や藤原満の故障もあり前年より弱体化、投手陣もエースの山内新一が1勝を挙げた後にスランプとなりこの年3勝に終わり、ストッパーも佐藤道郎が3勝で江夏豊の抜けた穴が埋まらなかった。村上之宏が新人王を獲得。観客動員は激減し、12球団最少の44万4千人。
3割打者を4人輩出(新井宏昌、片平晋作、カルロス・メイ、河埜敬幸)[47]。金城基泰は最優秀救援投手、山内新一の12勝が唯一の2桁勝利[47]。門田博光がキャンプ中にアキレス腱断裂で離脱、シーズン5位(前期5位・後期最下位)に終わる[47]。
「ドカベン」こと香川伸行が入団し、開幕直後は首位争いを演じるも4月30日から7連敗を喫し失速、最下位に終わる。門田が41本塁打、メイが.326を残したが投手陣は山内新の9勝が最多で金城は2年連続最優秀救援投手に[47]。シーズン後、広瀬が辞任[47]。
野村時代のヘッドコーチであるブレイザーが監督に就任。闘志とシンキング・ベースボールを掲げた[47]。門田は初の本塁打王、山内新一、ルーキーの山内孝徳、山内和宏のトリオ・ザ・山内で26勝を積み上げた[47]。シーズン5位(前期5位・後期最下位)に終わる[47]。
トリオ・ザ・山内が揃って2桁勝利を挙げ、金城が21セーブと投手陣は整備されたが主砲の門田が故障で戦列を離れることが多く[47]、打線が好機に凡退を繰り返し[47]、チームの最多打点はジム・タイロン、定岡智秋の48に終わり、リーグ最下位。ブレイザーは心臓病に痛風と体調を崩し、同年をもって退団となった[47]。新監督は二軍監督として手腕を発揮していた穴吹義雄が就任[47]。
序盤に門田が7試合で5本塁打を放つが、4月18日に死球を受け一時離脱。代わって4番に入った香川が一時打率4割を越え首位打者となるが、夏場以降は成績を落とし、最終的に規定打席に到達しなかったものの打率.313、15本塁打を記録。山内和宏が18勝で最多勝、門田が本塁打王を獲得も、総合力不足から5位に終わる。
5月まで5割をキープするなど一時首位に立つが主力陣の相次ぐ故障などもあり6月には7連敗。オールスター直前には4位としたが、8月には15年ぶりとなる10連敗を喫するなど、5位に終わる[49][47]。打撃陣に故障者が多く、外野手転向の河埜が打撃10位に入ったのが最高だった[47]。一方、畠山準・藤本修二・加藤伸一の若手投手陣が30試合以上登板するなどの成長を感じさせた[47]。
1月4日にレギュラー三塁手の久保寺雄二が急性心不全のため26歳で急死というショッキングな出来事から始まる。4月は5割とするが、5月と6月にともに6連敗、7月には連勝できずに最下位となり、一時5位に浮上するも8月8日以降は最下位に定着。9月に入り、18日には対近鉄戦で25-4というパ・リーグ新記録となる大量得点勝利を挙げるが、25日には穴吹の解任と杉浦忠の新監督就任が発表された。10月には1分を挟む10連敗など、借金32で最下位に終わる[50]。
再建を託されて監督に迎えられたのは切り札・杉浦忠[47]。杉浦は「私を育ててくれた球団を強くする」と就任時に決意表明した[47]。前監督の穴吹が進めていた若返り策が加速[47]。杉浦はルーキーの西川佳明を積極的に起用、中盤戦から井上祐二をストッパーにした[47]。西川は清原和博に新人王を譲ったが期待に応じ10勝、チームは2年連続の最下位[47]。オフには巨人を自由契約となった加藤英司を獲得。
加藤と門田が2000本安打を達成し、15勝を挙げて台頭した藤本・山内和・山内孝と3人の2桁勝利を挙げ、井上が20セーブポイントで2位[47]となり、チームは前半を3位で折り返し、9月6日には首位西武に3.5ゲーム差まで迫るが、その後失速し、日本ハムに抜かれ、4位に終わる。「来季から湯上谷、立浪のフレッシュ二遊間で売り出す」と球団を挙げて公言するなど、この年のドラフト会議では当時PL学園高校の主将であった立浪和義の獲得と翌年以降の湯上谷宏・立浪の若手コンビによる二遊間形成を目論んだが、結局立浪はくじ引きで中日ドラゴンズが獲得し、この構想は幻に終わった[51]。
球団創立50年を迎えたが、4月23日に「おれの目の黒いうちはホークスは売らん」と公言していた川勝傳オーナーが死去。新たに就任した吉村茂夫オーナーは就任早々から球団売却に手をつけるなど身売りへの動きが進み[52]、9月にダイエーへの球団売却を発表。南海ホークスとしての最終シーズンとなった。
結果的に5位に終わるも、門田が44本塁打・125打点を挙げ40歳代の選手としての最高記録[53]を残し、二冠王、さらに年間MVPも獲得し、佐々木誠、トニー・バナザードが活躍した[47]。南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで杉浦監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」とのスピーチを残した。オフに門田は九州行きを拒否してオリックスへ1対3のトレードで移籍した。
この年は昭和最後のペナントレースだったので、南海は当時の12球団の中でロッテ、阪神と共に「昭和時代に1度も日本一を本拠地で飾れなかった球団」となった[注釈 19][注釈 20][注釈 21]。
福岡時代
[編集]ダイエー時代
[編集]1988年11月1日、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)の仲介で関西国際空港開業に伴う難波再開発事業を推し進め、不採算の球団を売却しようとする南海側と、福岡再開発事業の目玉に球団を保有し、九州を核としてアジアも視野に入れた商圏拡大を目論むダイエー側の思惑が一致し、南海電鉄は「ホークス」の名を残すこと、監督・杉浦忠を留任させること、選手・首脳陣・球団職員は希望者全員を連れていくことを条件に、球団をダイエーに売却した[57][58]。
なお、ダイエーは当初、神奈川県川崎市の川崎球場を本拠地としていたロッテの買収を福岡に移転することを前提として検討していた[注釈 22]。また、当時ダイエーの社長であった中内㓛の強い意向で当初は中内の生まれ故郷であり、ダイエーの御膝元でもある兵庫県神戸市に建設されたグリーンスタジアム神戸への本拠地移転も検討していたが、関西ではセ・リーグの阪神が圧倒的な人気を誇っており、同じパ・リーグの阪急ブレーブス[注釈 23]や近鉄が観客動員で苦戦していたこと[58]、また福岡をアジアの玄関口にしたい同市長の桑原敬一やプロ野球本拠地の再設置を望んでいた福岡青年会議所からの根強いアプローチと1989年開催のアジア太平洋博覧会跡地利用で新たなビジネスモデルが出来ると判断したダイエー専務の鈴木達郎と瀬戸山隆三からの説得もあり、中内はこの年の5月に福岡への本拠地移転を正式決定した[57][59]。
当初はダイエーのグループ会社であり、九州を中心にスーパーマーケットをチェーン展開していたユニードがホークス球団の有力買収先と報じられ、福岡ユニードダイエーホークスとなる予定だったが、当時ユニードは経営難であり、最終的にはダイエーが買収した[57][60]。また、ダイエー以外では松下電器産業(現・パナソニック)も買収に乗り出していたとされるが、社内での反対意見が多く、最終的に買収を断念している。
本拠地は福岡県福岡市の平和台球場に移転し、球団名及び会社名も福岡ダイエーホークスと改められた。新天地の福岡は、かつて南海と覇権を激しく争った西鉄ライオンズの本拠地であっただけに、福岡の人達に受け入れられるか懸念されていたが、10年ぶりとなる地元プロ球団ということで、歓迎ムードの方が大きかった。移転初年度の1989年には球団史上初めて観客動員数が125万人と初めて100万人を超えた[61]。それでも移転後、ダイエーがしばらく下位低迷を続けたこともあって、スタンドには空席が目立つことも多く、当時の対西武戦では西武ファンの割合が多かった。
杉浦監督時代
[編集]4位に終わるも、優勝した近鉄に13勝11敗2分、2位のオリックス・ブレーブスに12勝13敗1分、3位の西武に11勝13敗2分と上位球団と互角に戦い、最終的に1位と3位のゲーム差が0.5、勝率が2厘差というパ・リーグ史上最大の混戦を演出する立役者となった。さらに準本拠地(当時)の北九州市民球場では7戦全勝だった。4位までのチーム同士ではほぼ5割と大接戦となりダイエーにも優勝の可能性はあったが、上位3チームと違い5位日本ハムには2つの勝ち越し、6位ロッテに対しては牛島和彦に1勝7敗とカモにされるなど、9勝15敗と大きく負け越しこれが優勝は疎かAクラス入りにもできなかった要因となってしまった。1980年代では全てBクラスで終わった。投手陣では初の2桁の12勝を挙げた加藤伸一が軸となり[62]、野手では佐々木誠・藤本博史・岸川勝也などの新戦力も台頭[62]。10月5日の西武戦では8点差をひっくり返す大逆転劇を見せた[62]。井上祐二が27SPでチーム初タイトル[62]。杉浦はこの年をもって監督を勇退し、田淵幸一が監督に就任。田淵と西武時代に同僚だった黒田正宏がヘッドコーチ、大田卓司が打撃コーチに就任。直後のドラフトで野茂英雄の外れ1位指名で元木大介の交渉権獲得も入団を拒否される。
田淵監督時代
[編集]開幕直後に投手コーチの中西勝己が休養。6月には勝ち星のなかった山内和と中日・杉本正ら2選手とのトレードやメジャーで実績のある抑え投手・リッチ・ゴセージを獲得(ゴセージはキャンプでテストしたが、その時は不合格で、シーズン中に再度テストして獲得した経緯がある)。また、巨人で一軍経験のなかった本原正治は5勝と奮闘した。田淵はウィリー・アップショー、バナザードと確執を起こし[63]、両外国人はシーズン中に帰国・退団[64]。4月3勝12敗、5月6勝16敗1分と低迷し、1986年以来4年ぶりの最下位。チーム打率・本塁打・得点・失点・防御率はすべてリーグ最下位[65]。パ・リーグ全5球団に負け越し、勝率.325・85敗は2リーグ制以降の球団のワースト記録[62]。10月28日、田淵がセレクション会議に提出する他球団リストを公表、球団は厳重注意、減俸10%の処分を科した[66]。オフに首脳陣が刷新され、権藤博が投手コーチ、広瀬叔功が守備走塁コーチ、高畠康真が打撃コーチ、柴田猛が二軍監督に就任した。
門田が3年ぶりに復帰。権藤の手腕も光り村田勝喜が前半戦に10勝、阪神から移籍の池田親興もストッパーに転向して活躍[67]。前半戦は4位で終える[67]。上位を狙える位置にいたが、主力投手の村田と本原が故障で途中離脱、20本塁打を打っていた主砲の岸川も故障離脱したこともあり失速し5位に終わる[67](日本ハムが全日程を終了した時点でロッテ戦5試合を残しており、1勝すれば4位は確保できたが、1引き分けのあと4連敗を喫して最終戦で5位に転落。この最終戦は、ロッテが川崎球場を本拠地とした最終戦でもあった)。広瀬の指導で盗塁数は急激に伸び、特に阪神からトレードで来た大野久は盗塁王を獲得し、大野(42盗塁)・佐々木(36盗塁)・湯上谷宏(30盗塁)と30盗塁以上を3人輩出しチーム盗塁数は両リーグトップの141を記録した[68]。
オリックスからブーマー・ウェルズが移籍。ルーキー若田部健一が開幕から先発ローテーションに加わり、負け越したものの2桁勝利を挙げる。一時期7年ぶりの単独首位になるも5月下旬7連敗[65]、以降低迷し、4位。なおオリックスに15勝11敗で22年ぶりの勝ち越し。佐々木が首位打者、盗塁王を獲得。監督の田淵は解任され[65]、門田、山内孝徳、この年打点王を獲得したブーマーが引退。1992年を最後に平和台球場から移転。この時期積極的に交換トレードを敢行。生え抜きでも佐々木・吉永幸一郎・村田といった若手の成長、この時期のトレードで獲得した選手は今井雄太郎・島田誠・門田・有田修三・永射保・広橋公寿・新浦壽夫・杉本正・水上善雄と過去の実績は十分であったが、引退間近で力の衰えが顕著な選手も多く、池田・大野・本原といった成功例はあったもののその成功も1-2年のみ活躍した後は長続きしなかった。オフに根本陸夫が監督に就任。
福岡ドーム移転後
[編集]日本初の開閉式屋根を持つドーム球場として福岡ドームが完成すると同時にユニフォームのデザインも変更された。
根本監督時代
[編集]ブーマー、門田の抜けた穴は大きい上、福岡ドームが当時の日本一広い球場であるが故に、ホームゲーム60試合で僅か18本塁打しか打てず、投手陣も平和台球場時代の惨状が改善されないまま最下位に転落。これで南海時代の1978年からこの年にかけて16年連続シーズン負け越しで、これはスワローズ・アトムズが記録した15年連続(1962年 - 1976年)を更新した日本プロ野球ワースト記録である。11月に西武から佐々木・村田・橋本武広との3対3トレードで秋山幸二・渡辺智男・内山智之を獲得。また、この年のドラフトから逆指名制度が導入され、渡辺秀一・小久保裕紀を逆指名で獲得している。
福岡に移転後初めて優勝争いに加わった。阪神よりFA移籍した松永浩美、西武から移籍した秋山、助っ人のケビン・ライマーとブライアン・トラックスラーが加わり、既存戦力のカズ山本・藤本博史・吉永幸一郎・浜名千広と共に重量打線を構成した。投手陣では村田の抜けた穴を若田部・吉田豊彦・下柳剛が埋め、ルーキーの渡辺秀一が新人王を獲得する等奮闘したが、渡辺智男・内山が期待に応えられず敗戦が大きく先行してしまい、更に最多勝争いをしていたエース吉田豊彦が9月10月に1勝もできず、同率2位のオリックス・近鉄にゲーム差なしの勝率僅か6毛差で4位となり、Aクラス入りを逃した。勝敗数は69勝60敗1分で、南海時代の1977年以来17年ぶりに勝ち越した。同年オフ、ドラフト会議では駒澤大学への進学が内定していた城島健司を1位指名した他、FAで西武から石毛宏典・工藤公康が移籍した。根本が監督を勇退し、球団専務職に専念。王貞治が監督に就任した。ヘッド兼守備走塁コーチに寺岡孝、打撃兼走塁コーチに高橋慶彦、バッテリーコーチに達川光男が就任[69]。
王監督時代
[編集]前年のチームの躍進に加え、王貞治の監督就任、石毛・工藤の加入、大物外国人であるケビン・ミッチェルを獲得するなど、期待された。しかし、ミッチェルは開幕戦で満塁本塁打を放つも横柄な態度を繰り返し無断帰国。前年活躍した松永・カズ山本・吉永・ライマー、移籍の石毛等が怪我や不調。前年奮闘した投手陣も軒並み不調・怪我人続出で工藤以外、全く計算が出来ない状況だった(その工藤も故障で一ヶ月離脱してしまった)。そんな中、5年目の村松有人が一軍に抜擢されると一番打者に定着、そして2年目の小久保が28本塁打で本塁打王を獲得したが、チームは首位オリックスと26.5ゲーム差の5位に終わった。
序盤から低迷し、4月下旬には最下位に転落。5月9日に日生球場での対近鉄戦で敗戦し、9勝22敗となると、試合後に王や選手等が乗ったバスにファンから生卵がぶつけられる事件が発生した(詳細は後述)[注釈 24]。シーズンは、日本ハムから移籍の武田一浩が15勝、3年目のヒデカズ(渡辺)が防御率リーグ3位、前年から飛躍のきっかけを掴んだ村松が58盗塁で盗塁王を獲得するが、小久保は前年の活躍でマークされ打率を大幅に下げ、秋山はチームバッティングに徹して久々に3割をマークするものの、本塁打が僅か9本に終わる。工藤も最多奪三振のタイトルを獲得するものの、自身初のリーグ最多敗戦を記録。結局、首位オリックスと22ゲーム差の最下位に終わった。この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島が記録した連続Bクラス日本記録である1950年から1967年までの18年連続を更新した。
前年に行われたアトランタオリンピックの野球日本代表で大活躍した井口忠仁・松中信彦がドラフトで入団。3年目の城島健司が開幕から正捕手として起用された。正捕手になった城島は規定打席到達、3割2桁本塁打を放ち、それまで正捕手だった吉永が指名打者で3割29本塁打を放ち、小久保が打点王を獲得するが、井口がオープン戦で故障。復帰初戦初本塁打が満塁ホームランとなり、鮮烈なデビューを飾るが、その後はプロの洗礼を浴びる。松中も金属バットから木製バットへの対応が遅れ、戦力にならず、投手陣も前年の勝ち頭、武田が好投しても全く勝てず、工藤以外に計算出来る投手が不在であった。最終的には日本ハムと同率の4位[注釈 25]、20年連続Bクラスに終わった。連続4位以下の記録は近鉄の1950年から1968年までの19年連続[注釈 26]を更新する日本プロ野球ワースト記録となった。
前年に発覚したプロ野球脱税事件に関与した小久保・ヒデカズ・斉藤貢・本間満・藤井将雄の5選手が3-8週間の出場停止処分を下され、開幕からしばらく出場出来なかった。さらに小久保は復帰して間もなく大怪我でシーズンを棒に振る。エース工藤、ストッパー岡本克道がシーズン途中で離脱。苦しい中、2年目の柴原洋・井口がレギュラーを獲得。主砲小久保の出場停止と怪我の穴埋めに、広島で活躍したルイス・ロペスを急遽獲得。武田が最多勝、吉田修司が最多ホールド獲得、近鉄から戦力外となりテスト入団の西村龍次もローテーションを守り、5年ぶりの10勝を挙げ、カムバック賞を獲得。その結果、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、南海時代から続いていた連続Bクラスの記録は20年で止まる(5連敗で閉幕するも、後にオリックスも西武とのダブルヘッダーに連敗して閉幕し同率となった。共に勝率.500だが、ダイエーは67勝、オリックスは66勝で、勝利数はダイエーが上回っていた)。ただし、前年度の順位がオリックスの2位に対し、ダイエーは同率4位だったため、翌年の本拠地開幕権を獲得出来なかった。そのため、実質の4位でもあり、21年連続Bクラスでもあることもある。
この年、「球団職員がアルバイト学生に金銭を渡し、相手捕手のサインを応援バットの動きで選手に教えさせていた」という疑惑が西日本新聞の報道で持ち上がった。疑惑を持たれた選手は吉永幸一郎・大道典良・柳田聖人で、写真付きで大々的に報じられたために問題となったが、フロントはこれを強く否定。その後、パ・リーグ特別調査委員会による調査が行われ、翌年1月18日に「疑惑を完全には払拭できない」という結論を出して球団社長らに対して職務停止などの制裁を科した[70]。スパイ行為は本拠地(福岡ドーム)で行われていたと報道されたが、疑惑の3選手の打率を他球場と比較したところ、2選手については本拠地での打率が僅かに高かったが、残りの1選手は本拠地の打率の方が低かった[要出典]。
翌年からダイエーは、西武と肩を並べる常勝球団になっていく。
前年オフにFAで武田が中日へ移籍し、さらにライバル・西武に松坂大輔が入団したことにより、優勝争いは西武が本命でダイエーの評価は低かったが、この年、投手コーチとして就任した尾花高夫が手腕を発揮する。武田や、離脱した西村の穴を2年目の永井智浩・星野順治を抜擢し、共に10勝をマーク、同じく2年目の篠原貴行が中継ぎながら14勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。藤井が最優秀中継ぎ投手、工藤が最優秀防御率・最多奪三振・シーズンMVP獲得。若田部が不振を脱出し5年ぶりに10勝する。右の先発要員と考えていたロドニー・ペドラザが尾花が「抑えでいけますよ。」と進言し、城島も推して、抑えと定着した[71]。その結果、長年課題と言われていた投手力で球団としては1973年以来26年ぶり、福岡移転後初のリーグ優勝を達成[注釈 27]。この時、シーズン終了直前まで総得点が総失点を下回り、史上初の珍事かと話題になったが、最終的には総得点が上回った(総得点563、総失点553)。サヨナラ勝ち12回は12球団最多だった[65]。九州移転後初のチーム防御率3点台を記録した[72]。更に日本シリーズでは前評判では中日ドラゴンズが圧倒的有利だったが[73]、シーズン打率.330の関川浩一を第4戦まで無安打計21打数2安打打率.095に封じ[74]、4勝1敗で下し、1964年以来35年ぶり、福岡移転後初の日本一となった[注釈 28][注釈 29]。秋山が2本の本塁打とファインプレーでシリーズMVPを獲得し、西武時代の1991年に続き、史上初の2球団での日本シリーズMVP獲得者となった。
FAでエース工藤が抜け、藤井が肺癌のため、離脱[注釈 30]したものの、前年とは逆に打撃陣がチームを引っ張り、リーグ2連覇を達成する。日本シリーズでは長嶋茂雄率いる巨人との対戦で「ON対決」と話題となった。開幕から敵本拠地で2連勝したが、その後4連敗で敗れた。なお、同年のチーム最多勝は先発では若田部・永井の9勝。一方、リリーフで吉田・篠原が9勝しており、2桁勝利投手0人でのレギュラーシーズン最高勝率や日本シリーズ出場は史上初である。ペドラザが最優秀救援投手した。
この年の日本シリーズは第2戦と第3戦の間、第5戦と第6戦の間の移動日がなく、第3戦までの3連戦から2日空けて第4戦から4連戦という変則日程となった。これは1997年に福岡ドームが、2000年の日本シリーズ開催日として予定されていた10月24日から27日までの4日間を、日本脳神経外科学会のイベントを開くために球団の許可なく貸し出したためである。1998年秋に問題が発覚し、日程変更等を求めたが不可能となり、球場変更等を模索したものの、これも出来ず、脳神経外科学会が26日のイベントを午前で打ち切るなど、一部縮小して対応したため、この様な変則日程となった。なお、この問題は球団が球場確保を怠った責任があるとしてNPBは3,000万円の制裁金を球団に科した。
この年は20世紀最後のペナントレースだったので、ダイエーは「20世紀最後のパ・リーグ優勝球団」となったが、日本シリーズ敗退により、日本一を逃したことで、当時の12球団の中でロッテ、阪神と共に「20世紀に1度も日本一を本拠地で飾れなかった球団」となった[注釈 19][注釈 20][注釈 31]。
終盤まで近鉄・西武と優勝争いしたが、最終的に近鉄と2.5ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃した。この年、優勝した近鉄には19勝9敗と大幅に勝ち越したものの、西武ドームと千葉マリンスタジアムと宮城球場で3勝11敗とビジターで弱かったのが敗因となった。この年は30本塁打以上の選手が4人出るなど(パ・リーグ初)、ダイハード打線と呼ばれる打線が猛威を振るった(小久保44本・松中36本・城島31本・井口30本でチーム全体では203本塁打)。
5月14日と5月15日、台湾の台北市立天母棒球場で、日本プロ野球の公式戦としては戦後初となる台湾での試合が開催された(対オリックス戦。試合は1勝1敗、詳細は後述)。しかし、その後正捕手城島が怪我で離脱する等、チームは失速。首位西武と16.5ゲーム差、近鉄と同率の2位に終わる。この年のオフ、秋山が現役引退。勝ち頭だった若田部がFAで横浜へ移籍した。
オープン戦で小久保が膝に重傷を負ってシーズンを棒に振ったが、代役として三塁に入った川﨑宗則が活躍。前年まで1982年以来21年連続で負け越していた西武にも16勝12敗と勝ち越し、全球団に勝ち越し、2000年以来3年ぶりのリーグ優勝を達成。阪神との日本シリーズを4勝3敗で制し[注釈 32]、1999年以来4年ぶり6度目[注釈 33]の日本一を前身を含め、初めて本拠地で決めた[75]。なお、ダイエーは2005年から球団名を福岡ソフトバンクホークスに変更するため、福岡ダイエーホークスとしてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一はこの年が最後となった。打線はチーム打率が日本新記録となる.297で、打率3割の打者が6人、また、史上初の100打点の選手を1チームで4人(井口109打点・盗塁王も獲得、松中123打点・打点王を獲得、城島119打点・シーズンMVPを獲得、ペドロ・バルデス104打点)出し、この「100打点カルテット」を中心に活躍した(詳細はダイハード打線を参照)。投手陣は前年4勝ながら開幕投手となった斉藤和巳が20勝を挙げ、パ・リーグでは18年ぶりの20勝投手となったほか、ルーキーながら14勝を挙げて新人王となった和田毅、同じくルーキーの新垣渚、2年目の杉内俊哉の3人の「松坂世代」投手、そして寺原隼人などの前年とは全く一新された先発投手陣の活躍があった。しかし、優勝パレード直後の11月3日に小久保が巨人へ無償トレードされる事が発表され(小久保事件)、多くのファンのみならず、選手・関係者からも抗議が殺到した。
翌年からパ・リーグはプレーオフ、2007年からセ・リーグと共にクライマックスシリーズを導入するので、ダイエーは「年間勝率1位によるリーグ優勝 = 日本シリーズ進出を経験した最後のパ・リーグ優勝球団」となった。
先発投手陣には不調・怪我人が出るものの、打線がこの年も健在。松中が打撃三冠王を獲得しMVPになった。28歳新人の三瀬幸司が抑え投手として活躍し、最優秀救援投手となり、新人王に選ばれた。ベストナインにも4名が入った。レギュラーシーズンを1位で終えたが、この年から新たに導入されたプレーオフ第2ステージで西武に2勝3敗で敗れ、リーグ優勝を逃した[注釈 34]。
10月13日、経営再建をしていたダイエーが自主再建を断念して産業再生機構への支援を要請し、機構側が「国営ホークスになる事は無い」と語った事から球団の売却が濃厚になる。一方で、オリックスと近鉄の合併問題に端を発したプロ野球再編問題等も絡み、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」を発足させる案が取り沙汰された事もあった。観客動員数の伸び悩みや千葉市の財政難等に苦しむマリーンズ側と、親会社の経営難に苦しむ一方で、地理的に近い韓国への足がかりを狙っており、韓国にもプロ野球球団を持つロッテに大きな魅力を感じていたホークス側の思惑もあり、ロッテとの合併説も強く噂される事となった。しかし、最終的には11月30日にIT企業大手のソフトバンクが球団を総額200億円で買収することを正式発表し、同日付でNPB(日本プロフェッショナル野球組織)への加盟申請を行い、12月24日に加盟申請(球団譲渡)がプロ野球オーナー会議で承認され、翌年1月28日にダイエーが持つ球団株式(所有割合98%、残りの2%は中内正ダイエーオーナーが継続保有)をソフトバンクが50億円で譲り受けることで、問題は決着した。
同時にソフトバンクとホークスタウンは営業譲渡と合わせ、20年間の福岡ドーム使用契約を結んだ。1年間の球場使用料は48億円となる。また、同日付でコロニー・キャピタル傘下のホークスタウンが所有する興行権を150億円で取得する営業譲渡契約を締結する事で合意し、ソフトバンクは新球団名福岡ソフトバンクホークスと球団ロゴマークを発表。なお、次項に掲載しているマスコットや球団の応援歌等についてはダイエー時代のものを必要最小限の変更に留め、そのまま継承する事を合わせて発表した。
オフに井口がシカゴ・ホワイトソックスに移籍。
ソフトバンク時代
[編集]2005年1月28日、ソフトバンクがダイエーの保有していた球団株式と興行権を取得し、福岡ドームの使用契約を締結することで名実ともに「福岡ソフトバンクホークス」のスタートを切った。また、監督の王が球団の取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任することも発表された。
新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもので、チームロゴに挿入されている黄色の2本線はソフトバンクのCIロゴをアレンジしたもの(元々は海援隊の旗印から取った物)である。
戦力面では近鉄からFA宣言した大村直之、大リーグでの通算214本塁打のトニー・バティスタを2年総額1,500万ドル(約15億8,000万円)、シアトル・マリナーズでプレーしていたホルベルト・カブレラを年俸2億8,000万円で獲得。
1月30日にファン交流イベント「The First Reception 2005」が福岡Yahoo!JAPANドームで行われ、新ユニフォームや新応援歌、2005年のスローガンなどが発表された。応援歌は歌詞などの一部を改定した(「ダイエー」の部分を「ソフトバンク」に変えた)のみでそのまま引き継がれた。
3月9日、6月28日と6月29日に予定されていた対ロッテ戦の韓国開催がソウルで試合ができなくなったことと、韓国プロ野球の人気低迷から採算が合わないと判断されたため、中止されることとなった。この2試合はロッテ側の主催試合だったため、千葉マリンスタジアムで代替開催された。
開幕直後はロッテが首位に立つが、セ・パ交流戦終盤からの15連勝や本拠地ヤフードームでの12連勝で首位に立つとその後は首位を譲らず王監督時代のホークスとしては最多となる89勝を記録し、1位となる。しかし、2位とのゲーム差は4.5で、前年に続き、プレーオフで1勝のアドバンテージを得るための条件「5ゲーム差以上」には届かず[76]、城島の負傷離脱、松中の不振が最後まで響いてプレーオフではロッテに2勝3敗で敗れた。オフに城島がシアトル・マリナーズにFA移籍。
交流戦は20勝16敗で5位。7月5日、ヤフードームでの対西武戦後に王監督が記者会見を開き、胃の手術のため休養することを発表し、翌日からシーズンオフまでチームを離脱した。監督代行はチーフコーチの森脇浩司が務めた。シーズンは首位北海道日本ハムファイターズと5.5ゲーム差の3位に終わる。プレーオフ第1ステージで西武と対戦し、2勝1敗で下すが、続く第2ステージで日本ハムと対戦し、2連敗して敗退した。ヤクルトを自由契約となったリック・ガトームソンを獲得。巨人からFA宣言した小久保が復帰。横浜ベイスターズから寺原隼人とのトレードで多村仁を獲得。
前年オフの大型補強により、優勝の最有力候補に挙げられていたが、川﨑・斉藤・大村・新垣渚・小久保など、主力選手に故障者が続出した。チーム打率・チーム防御率がともにリーグ1位だったが、シーズンを通じて波に乗れず、首位日本ハムと6ゲーム差の3位に終わる。多村・松中・小久保の3人が「TMK砲」と呼ばれ、期待されるが、3人合計で53本塁打に留まった。クライマックスシリーズ第1ステージでもロッテに1勝2敗で敗れ、4年連続ポストシーズン敗退となった。
セ・パ交流戦では15勝9敗で阪神と勝率、勝ち数で並んだが、交流戦の前年順位(9位=ソフトバンク、10位=阪神)で順位を決定する規定により、初優勝が決まった。シーズン後半になると中継ぎ投手陣や川﨑など故障者が出た影響で打線の不振が目立つようになり、9月1日時点では2位だったが、9月は5勝18敗と大きく負け越す。球団側は王を終身監督とする意向があったが、9月23日、王監督が体調不良を原因に今シーズンを最後に勇退することを発表した。10月7日のリーグ最終戦で同率最下位で並んでいた楽天とのKスタ宮城での直接対決でサヨナラ負けで敗れる。最終的に64勝77敗3分、1996年以来12年ぶりの最下位となった。チーム防御率は1点台以上悪化し、投手コーチの杉本正は解任された。二軍はウエスタン・リーグで24年ぶりの優勝を決め、ファーム日本選手権ではヤクルトを破り、初の日本一となった。王の後任はチーフコーチの秋山幸二。王は球団副社長から会長に昇任し、引き続き球団に残った。
秋山監督時代
[編集]交流戦序盤の6連勝などで、6月16日に2年連続での交流戦優勝を決め、20日に横浜に勝ち、初の交流戦全球団勝ち越しての優勝を達成した。7月には一時首位に立つが、後半になると6カード連続負け越しを喫し、10月1日に対楽天戦で負け越しが確定し、シーズン3位となった。クライマックスシリーズは第1ステージで楽天に0勝2敗で敗退した。攝津正が新人王を獲得。
攝津、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩、甲藤啓介の「SBM48」や森福允彦などの救援投手陣が活躍して12球団トップとなる救援防御率2.84(唯一の2点台)を記録した。杉内と和田以外は不振だった先発投手陣を中継ぎ陣が支えた。チーム奪三振数が2005年に阪神が記録したプロ野球記録である1208を、1244で更新した。9月25日にマジック対象チームの西武が日本ハムに敗れたため、優勝が決定した。しかし、クライマックスシリーズでは打率1割6分9厘0本塁打と打撃陣が振るわず[77]、ファイナルステージで3勝4敗で3位のロッテに敗れた。クライマックスシリーズは2006年までのプレーオフと異なり、結果にかかわらず、公式戦の最高勝率チームが優勝となるため、2003年以来7年ぶり、ソフトバンクとなって初のリーグ優勝となったが、2004年・2005年に続き、日本シリーズ進出は逃した。リーグ優勝チームが日本シリーズ進出を逃すのはパ・リーグでは初、両リーグ全体では2007年の巨人に次ぐ2例目となった。MVPは和田毅が受賞。ドラフトで柳田悠岐、育成ドラフトで千賀滉大、牧原大成、甲斐拓也を指名した。特に千賀と甲斐は日本を代表する選手に成長し、後に育成ドラフトで大量の選手を指名する方針へと転換する契機となった。横浜を自由契約となった大西宏明と育成契約を結んだ。西武からFA宣言した細川亨、横浜からFA宣言した内川聖一、オリックスを自由契約となったアレックス・カブレラを獲得。
球界初の三軍を創設し、若手の育成により、注力する[78]。
交流戦が始まってから首位に立ち、交流戦を過去最高の18勝4敗1分けの成績で優勝、内川が交流戦MVPを獲得した。9月17日にマジックナンバー17が点灯、10月1日の西武戦(西武ドーム)で2年連続のリーグ優勝を決める。88勝46敗10分、2位日本ハムと17.5ゲーム差の大差で公式戦を終えた。史上初となる11球団すべてに勝ち越し、月間成績でも1度も負け越さなかった[79]。内川はMVP・首位打者(両リーグでは2人目)を獲得。クライマックスシリーズファイナルステージでは西武を相手に3連勝し、4勝0敗として、2004年から導入されたプレーオフ制度が始まって以来、7度目にして初の日本シリーズ出場となった(ソフトバンクとなって初)。中日との日本シリーズでは第6戦までお互いにホームで負け、ビジターで勝つという展開で3勝3敗としたが、第7戦に3-0で勝利し、2003年以来8年ぶり、ソフトバンクとして初の日本一を本拠地で決めた。台湾で開催されたアジアシリーズでは韓国の三星ライオンズに決勝で敗れている。オフに自由契約となったホールトンが巨人に移籍。杉内が巨人、和田がボルチモア・オリオールズ、川﨑がシアトル・マリナーズにFA移籍。西武からFA宣言した帆足和幸を獲得。
3月24日、ソフトバンク本社が福岡ドームをシンガポール政府投資公社(GIC)から870億円で買収することが報道される[80]。開幕戦の3月30日の対オリックス戦(福岡ドーム)に3対1で勝利すると[81]、10試合で8勝2敗と首位に立つ。5月8日、ブラッド・ペニーが右肩故障から1試合の登板で退団する[82]。交流戦では8連敗と低迷し、8勝13敗3分の11位で終わる。前半戦を16年ぶりの借金を抱えたまま[83]、3位で折り返す。後半戦では8月22日に7連勝で首位日本ハムと1.5ゲーム差とする[84]。一時は4位に後退するものの、終盤は楽天、ロッテとクライマックスシリーズ進出を争い、10月4日に楽天が西武に敗れたため、クライマックスシリーズ進出を決めた[85]。最終的に67勝65敗、首位から6.5ゲーム差の3位。チーム防御率は2年連続リーグトップだったが、打撃陣は得点5位、得点圏打率最下位と低迷した。クライマックスシリーズファーストステージでは西武と対戦し2勝1敗で勝ちあがるが[86]、続くファイナルステージで日本ハムと対戦、3連敗で敗れた[87]。二軍はウエスタンリーグで4年ぶりに優勝している[88]。小久保裕紀が現役を引退した[89]。攝津正が最優秀投手・最多勝利投手・沢村栄治賞、内川聖一が最多安打を獲得。8勝を挙げた武田翔太が特別表彰(優秀新人賞)を受賞。ドラフトでは亜大の東浜巨を1位指名、西武・DeNAとの競合の末に獲得[90]。オフにDeNAから多村仁志、吉川輝昭、神内靖との3対3トレードで吉村裕基、江尻慎太郎、山本省吾[91]、ニューヨーク・ヤンキースを自由契約となった五十嵐亮太を獲得[92]。オリックスからFA宣言した寺原隼人が7年ぶりに復帰[93]。FAで7年ぶりに復帰した寺原の人的補償として馬原孝浩がオリックスに移籍[94]。
充実した戦力で優勝候補筆頭とも言われながら、外国人選手が投打にわたって軒並み振るわず[95]、先発投手不足にも悩まされる[96]など苦戦。2年ぶり4度目のセ・パ交流戦優勝こそ達成した[97]ものの、交流戦終了後は攝津が登板する試合以外勝てないなど不調が続き[98]、7月24日には最下位に転落[99]。一方、7月31日に斉藤和巳が現役への復帰を断念し、退団した[100](9月28日にヤフオクドームで行われた引退セレモニーを最後に現役を引退)。西武ドームで西武に同一カード3連勝した8月15日に西武を抜き、3位に浮上[101]して以降はAクラスを維持し、9月18日に勝利した時点でロッテを抜き、2位に浮上し[95]、4位の西武と5ゲーム差まで開いた[102]にもかかわらず、19日以降の残り14試合で5勝9敗とズルズル後退し[95]、終盤の西武ドームでの直接対決で連敗した10月3日には直前10試合で8勝2敗の好成績を挙げた西武に逆転され、ゲーム差なしの4位に転落し[102]、5日にはシーズン最終戦となる対日本ハム戦に勝利し連敗を3で止めるも、この試合後に西武が対楽天戦に勝利したことで、4位が確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった[95]。長谷川がホークスの外野手としては1955年の飯田徳治以来58シーズンぶりとなる全試合フルイニング出場、かつパ・リーグ歴代3位のシーズン198安打を放ち首位打者と最多安打のタイトルを獲得するなど活躍し[103]、チームの総得点660総失点562、得失点差98というリーグトップクラスの成績を残しながらも[95]、王監督時代最終年の2008年以来5年ぶり、秋山監督が指揮をとってからは初のBクラスとなった[95]。なお、二軍は2年連続の優勝と2008年以来5年ぶりの日本一を決めている[104]。オフにウィリー・モー・ペーニャとブライアン・ファルケンボーグの両外国人選手が退団した(ペーニャはオリックス、ファルケンボーグは楽天に移籍)。オークランド・アスレチックスを自由契約となった岡島秀樹が1年ぶり、阪神を退団したジェイソン・スタンリッジが6年ぶりに復帰[105][106]。他球団からFA宣言した鶴岡慎也、中田賢一[107]、他球団を退団したデニス・サファテ[106]、ブライアン・ウルフ[108]、李大浩[109]を獲得。山崎勝己がオリックスにFA移籍。
李大浩が4番に定着。内川聖一、柳田悠岐、長谷川勇也や前年初めて規定打席に到達して打率3割をマークした中村晃、不動の遊撃手となった今宮健太がレギュラーとしてチームを牽引し[110]。交流戦では1位で迎えた最終戦で、2位の巨人との直接対決に敗れ、2位に終わる[111]。9月6日の対西武戦(ヤフオクドーム)に6対2で勝利し、12球団で最初のクライマックスシリーズ進出を決めたが[112]、その後は最後までオリックスとの激しい優勝争いとなり、一時は残り試合数の関係で2位のオリックスに優勝へのマジックナンバーが点灯し、逆にソフトバンクは9月17日から1勝9敗で最後までマジックナンバーが点灯せず、迎えたシーズン最終戦のヤフオクドームでのオリックスとの直接対決で、延長10回裏に松田宣浩のサヨナラ打で3年ぶり通算18度目のリーグ優勝を決めた。マジックナンバーが点灯せずに優勝したのは1992年のヤクルト以来22年ぶり[113]で、シーズン最終戦での優勝決定はNPB史上8度目、最終戦でのサヨナラ勝ちによる優勝決定はNPB史上初となった[114]。また、シーズン観客動員を246万8442人として実数に近い発表となった2005年以降の球団記録を更新[115]。10月14日に監督の秋山幸二の今季限りでの監督退任が発表された[116]。日本ハムとのCSファイナルステージ(ヤフオクドーム)はアドバンテージの1勝を含む4勝3敗で勝利し、2011年以来3年ぶりに日本シリーズに進出し[117]、阪神との日本シリーズでは4勝1敗で2011年以来3年ぶりの日本一となった[118]。この年は親会社および球団名変更後初の年間勝率1位によるリーグ優勝を現在の本拠地・福岡ドームで決め、監督は球団OBである秋山だったため[119]、「球団OB監督の下で現在の親会社や球団名になってから年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一を現在の本拠地で決める」という偉業を成し遂げた[注釈 35]。これは。2014年当時、球団最初の生え抜き監督・平石洋介が就任前だった楽天を除くパ・リーグ現存5球団史上初である[注釈 37]。11月1日、次期監督は工藤公康が就任すると発表された[122][123]。オフにニューヨーク・メッツから松坂大輔を獲得。
工藤監督時代
[編集]4月を3位で終えるも、5月17日にはそれまで首位だった日本ハムを抜き、首位に立つ[124]。交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦最高勝率が確定[125]。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ[126]。前半戦は2位日本ハムと3.5ゲーム差の首位で終える。8月5日の対日本ハム戦に勝ったことで、マジック38が点灯。福岡移転後、最速での点灯となった[127]。9月6日、対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた[128]。9月17日、本拠地での対西武戦に5-3で勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める[129]。リーグ優勝は2年連続19回目、リーグ連覇は2010年・2011年以来の5回目となる。9月26日の対ロッテ戦勝利で南海・ダイエー時代を含めて史上5球団目の球団通算5000勝を達成[130]。10月4日の対楽天戦に勝利し、シーズン90勝を達成[131]。シーズン90勝は球団では南海時代の1956年に96勝(52敗6分け)して以来59年ぶり[132]。最終的には2位・日本ハムに12ゲームという大差をつけてのリーグ優勝となった。クライマックスシリーズファイナルステージではファーストステージ勝者のロッテと対戦。初戦の内川のサヨナラヒットで先手を取ると李大浩が期間中に2本のホームランを放つなど打線が爆発し、シーズン中の勢いそのまま4勝0敗(アドバンテージの1勝を含む)とストレート勝ちで、2年連続で日本シリーズ進出を決めた[133]。東京ヤクルトスワローズと対戦した日本シリーズでは4勝1敗で2年連続7度目の日本一を達成。日本シリーズ連覇は21世紀初と球団史上初となった[134]。柳田悠岐が打率.363・本塁打34本・盗塁数32個の成績で、首位打者のタイトル獲得と同時にトリプルスリー(3割30本30盗塁)を達成し、パ・リーグMVPにも選出された[135]。ドラフトでは髙橋純平を3球団競合の末に獲得[136]。
オフに新外国人としてロベルト・スアレスを獲得。シカゴ・カブスを自由契約となった和田が5年ぶりに復帰[137]。李大浩、スタンリッジの両外国人選手が自由契約となった(李大浩はマリナーズ[138]、スタンリッジがロッテに移籍[139])。松中が他球団での現役続行を視野に退団するも[140]、獲得球団が現れなかったため、現役を引退した[141]。
この年の3月より二軍の本拠地が福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場からHAWKSベースボールパーク筑後へ移転した[142]。
李大浩に代わる新たな外国人野手を補強せず、開幕から純国産打線となるも、前年同様前半戦は快調に首位を飛ばし、交流戦でも2年連続の最高勝率チームになるなど、一時は史上初の6月マジック点灯の可能性もあった。しかし、中盤から最大11.5ゲーム差あった日本ハムの怒涛の追い上げを喰らい、その間主力選手の故障・不振者が続出。特に救援投手の故障・不振者の続出が深刻で、この年のシーズン先発投手勝利12球団トップを記録したものの、救援勝敗では5月以外勝ち越しがなく、後半戦の8月の月間成績における救援勝敗は0勝6敗を記録。その結果、失速の一途をたどり、8月末には日本ハムに首位を奪われてしまう。その後、日本ハムとの熾烈な首位争いに突入するも、9月21日・22日の対日本ハム2連戦に連敗[143]。9月28日に日本ハムが優勝したことにより、リーグ2位が確定[144]。
クライマックスシリーズではリーグ3位のロッテと対戦。2連勝のストレートで勝利し、リーグ2位としては2009年の楽天以来7年ぶりにファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージでリーグ優勝の日本ハムと対戦するも、2勝4敗で日本ハムに敗れ、3年連続日本シリーズ出場はならなかった。
日本復帰1年目の和田が15勝を挙げ、最多勝となった。
オフにロッテを自由契約となったアルフレド・デスパイネを獲得。
3月31日にシカゴ・カブスを自由契約となった川﨑が6年ぶりに復帰。交流戦では広島と同率での最高勝率となり、広島に勝ち越したため3年連続の最高勝率球団となった[145]。公式戦では5月に18勝7敗と大きく勝ち越し4位から2位に浮上。一方、5月10日に新外国人としてリバン・モイネロを獲得。7月7日に首位に立つが、9日には2位に陥落[146]。8月上旬に入り楽天との間で首位と2位の入れ替わりを数回繰り返した後、8月15日に対オリックス戦に勝利し、両リーグ最速の70勝目とソフトバンク球団創設後通算1000勝目を挙げるとともに首位に浮上[147]、その後は首位を独走し、9月16日には対西武戦に勝利し、パ・リーグ史上最速でのリーグ優勝を決めた[148]。また、1シーズンのチーム失策38の最小タイ記録を達成した[149]。1991年に西武が挙げて以来の記録で、当時はシーズン試合数が130試合であり[150]、1991年より試合数が多い条件での記録となった。
クライマックスシリーズではリーグ3位の楽天と対戦。2連敗後に3連勝し、アドバンテージ1勝を含む4勝2敗で日本シリーズ出場を決めた。
日本シリーズではDeNAと初の対戦、3連勝して先に王手を決めるも、その後2連敗を喫し、第6戦でサヨナラ勝利して4勝2敗で2015年以来2年ぶりの日本一になった。
サファテが日本プロ野球新記録となる54セーブを挙げ3年連続の最多セーブ投手となり最優秀選手および正力賞に選出されたほか、東浜巨が16勝を挙げ菊池雄星(西武)と同数での最多勝、東浜のほか、千賀滉大とバンデンハークも2桁勝利(それぞれ13勝)を達成、岩嵜翔が46ホールドポイントを挙げ最優秀中継ぎ投手、デスパイネが35本塁打・103打点で本塁打王・打点王の二冠となった。
オフに新外国人としてジュリスベル・グラシアルを獲得。
開幕前に髙谷裕亮が関節炎で離脱し、同じく栗原陵矢も左肩を脱臼のため全治6か月と開幕絶望的になった。しかし、残る唯一の一軍経験者甲斐拓也が侍ジャパンへ招集されたこともあり、オープン戦に一軍経験のない谷川原健太・九鬼隆平らが同行する緊急事態となった。これを受けて3月27日、育成登録だった捕手の堀内汰門と支配下契約を結ぶ。投手陣も前年右肘内側側副靱帯再建手術を受けたスアレスの来日が開幕後まで遅れ、前年左肘骨片除去手術を受け、その後復帰していた和田毅が左肩の違和感を訴え出遅れるなど故障者が多数出たこともあり、オープン戦は5勝10敗1分、12球団中10位の成績に終わった。
レギュラーシーズンでは前年の優勝の立役者だった千賀、サファテ、岩嵜らの怪我人が続出し、5月下旬から8月中旬まではロッテ、オリックスとの3位争いとなり、8月には一時期借金状態となる。8月下旬から連勝し、日本ハムを抜き、2位になり、さらに西武を猛追するが、9月15日からの対西武3連戦で3連敗を喫し、西武にマジック11が点灯[151]、9月27日からの直接対決では再びメットライフドームで西武に連敗し、9月30日の福岡ヤフオク!ドームでのロッテ戦に敗れたことで、優勝マジック1としていた西武の優勝が決定したため、6ゲーム差をつけられ、リーグ連覇を逃し、2位でレギュラーシーズンを終えた。10月6日にヤフオクドームで行われた引退試合を最後に本多雄一が現役を引退した。
クライマックスシリーズファーストステージではシーズン3位の日本ハムと対戦して2勝1敗でファイナルステージへ駒を進めると、リーグ優勝した西武と対戦、柳田の2本塁打・8打点などの活躍もあり昨年同様3戦目から5戦目まで3連勝し、4勝2敗(西武のアドバンテージによる1敗含む)で2年連続18度目の日本シリーズ進出を決めた。なお、ソフトバンクがリーグ優勝以外でクライマックスシリーズを突破して日本シリーズに進出したのはこのシーズンが初めてである。広島東洋カープとの日本シリーズではシリーズ史上最多の8度盗塁阻止(甲斐は6度盗塁阻止で日本シリーズ最多補殺新記録)などの活躍を見せ広島の機動力を完璧に封じ込み、4勝1敗1分けで下し、日本シリーズを2年連続9度目の優勝で飾り、パ・リーグで初めてセ・リーグ全球団を相手に日本シリーズを制した球団となり、同球団が初にして2024年シーズン終了までで唯一「リーグ優勝をした状態で日本シリーズに行けなかった」と「リーグ優勝していない状態での日本一」の両方の経験をする球団となった。同一監督による2年連続日本一は球団初。リーグ連覇を果たしていない球団が連続日本一になるのは史上初となり、平成の日本シリーズ優勝はこれが7度目で、それまで6度で並んでいた巨人を抜いて単独最多となった[152]。ソフトバンクは2003年、2011年を含め日本シリーズ出場6連続優勝。史上最長11連続の巨人(1961、1963、1965~1973年)に次ぎ、西武(1986~1988、1990~1992年)に並ぶパ・リーグ最長記録となった[153]。日本シリーズMVPに選ばれた甲斐拓也は育成出身史上初のMVPとなった[154]。
オフに城所龍磨と攝津が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。
シーズン開幕から故障者が続発する中、投手陣ではプロ2年目のアンダースローの高橋礼(同年の新人王を受賞)が先発で、高卒4年目の髙橋純平、ドラフト1位ルーキーの甲斐野央が中継ぎ・セットアッパーとして奮闘した。野手陣では故障者が続発する外野手の中で、飛躍を見せた育成出身の釜元豪や、同じく育成から支配下登録され、勝負所での代走や守備固めとして起用された周東佑京などの若手選手がその穴を埋めてみせた。若手の活躍もあり7月には2位に7ゲーム差前後つけて首位に立つものの、8月下旬頃から西武が猛追、9月中旬に首位から陥落、そして9月24日の試合で西武が勝利し、ソフトバンクが敗れたため、西武の優勝とソフトバンクの2位が確定、リーグ優勝を逃した。9月6日のロッテ戦では千賀がノーヒットノーランを達成している[155]。しかし、クライマックスシリーズではファーストステージで楽天に1敗の後、2連勝でファイナルステージ進出、そのファイナルステージでは西武に負けなしの4連勝で勝ち上がり、日本シリーズに出場した。非リーグ優勝のまま日本シリーズに2回出場したのはソフトバンクが初である[注釈 38]。2000年以来19年ぶりに巨人との対戦となった日本シリーズでも負けなしの4連勝とポストシーズンを破竹の10連勝で締め、3年連続日本一を達成した。これにより、ソフトバンクは2010年代にセ・リーグ全球団を相手に日本シリーズを制した。
オフに出場機会増加を希望した福田秀平がロッテにFA移籍。福田の移籍はロッテのコーチで元ホークスの鳥越裕介が移籍を熱望したのが大きな理由であったという。江川智晃らが現役を引退した。スアレスが自由契約となった(阪神に移籍)。ヤクルトを自由契約となったウラディミール・バレンティン[156]、新外国人としてマット・ムーア[157]を獲得。
上記の2年連続日本一により、ソフトバンクは「平成最後と、令和最初のパ・リーグ日本一球団」となった。
一軍本拠地の球場名称が「福岡PayPayドーム」に変更された[158]。開幕前の練習試合で内川聖一が大不振で開幕二軍スタートが決まり、また新型コロナウイルス感染症の流行の影響でグラシアルとデスパイネの両外国人選手が来日できず、中村晃もケガのため、開幕に間に合わなかった。開幕後も松田宣浩やバレンティンなど、主力選手の打撃が振るわず、開幕スタートダッシュに失敗した。一方、開幕スタメンに抜擢された若手の栗原陵矢が開幕戦でサヨナラヒットを放つなどシーズン序盤は好調をキープしていた。7月10日(対楽天)に福岡ドーム1000勝を達成した[159]。シーズン開幕の6月19日から無観客試合が続いており、この試合がシーズン初めて観客を入れての試合だった。また、延長10回(2020年シーズンの特別ルールにより延長は10回まで)の柳田悠岐のサヨナラ本塁打で決着し、節目となる記念すべき勝利に華を添えた[160]。打順をほぼ毎日組み替えるなど工夫を重ねた結果、勝利を積み重ねて7月下旬には初めて首位に浮上した[161]。8月1日、二軍で調整中の長谷川勇也が新型コロナウイルス感染症のPCR検査で陽性と判定され、これを受け、翌2日の試合(対西武・福岡PayPayドーム)は中止となった[162]。8月中旬にグラシアルとデスパイネ、下旬にムーアが相次いで復帰。同月内は幾度か首位から陥落[163][164]するも、いずれも1日で首位に返り咲いた。9月になると楽天が大きく後退し、事実上優勝争いはロッテとソフトバンクの一騎打ちとなった。9月17日(対日本ハム・札幌ドーム)、15日深夜に急逝した三軍コンディショニング担当の川村隆史を悼んで選手はユニホームの左袖に喪章を着けて試合に臨んだ。この試合で1000本安打を達成した中村晃はヒーローインタビューで川村に対する思いを語った[165]。9月後半からは周東佑京が打撃の調子を上げリードオフマンの座を掴んだ。9月・10月初旬にロッテに迫られて再び首位陥落の危機に立たされる[注釈 39]も、10月中旬以降は投手陣が安定、10月のチーム得点は142点を記録するなど打線も好調で[167]、11日(対ロッテ・福岡PayPayドーム)、13日・14日(対オリックス・京セラドーム大阪)と球団記録に並ぶ3試合連続の無失点勝利を達成[168]するなど、10日(対ロッテ・福岡PayPayドーム)から連勝を続け、コロナ禍で主力選手多数が一時戦線離脱したロッテを一気に突き放し、21日(対日本ハム・札幌ドーム)には工藤監督就任後最長となる10連勝を達成し、優勝マジック「8」を点灯させた[169]。連勝を23日(対西武・福岡PayPayドーム)に12まで伸ばす[170]など、11試合で先発が勝ち投手になり[167]、その後も順調にマジックを減らし、27日の試合(対ロッテ・福岡PayPayドーム)に勝利し、3年ぶり19度目のリーグ優勝を決めた[171]。31日(対西武・メットライフドーム)の勝利で、月間22勝(4敗1分)・月間貯金18のプロ野球新記録[注釈 40]を樹立した[172]。終わってみれば、2位ロッテと14ゲーム差つけての圧勝であった。
周東が10月にプロ野球新記録となる13試合連続盗塁を決めるなど8月から一気に盗塁を積み重ね、最終的にはシーズン50盗塁を決めて盗塁王に輝いた。また、柳田が最多安打のタイトルを獲得し、2度目のパ・リーグMVPに選出された。投手では千賀滉大と石川柊太がともに11勝を挙げ、同じく11勝の楽天・涌井秀章と最多勝のタイトルを分け合った。千賀は最優秀防御率および最多奪三振(オリックス・山本由伸と同数)のタイトル、石川は最高勝率のタイトルも手にした。また、モイネロが最多ホールドのタイトル、中村晃も自身初のゴールデン・グラブ賞(一塁)を獲得した[167]。森唯斗はリーグ2位の32セーブ、ほぼ1年間スタメンに名を連れた栗原は得点圏打率.333を記録した[167]。チーム防御率は12球団唯一の2点台(2.92)、チーム得点は前年2019年のリーグ4位(582)から同2位(531)、本塁打はリーグトップの126本[167]、盗塁もリーグトップの99。
ロッテとのクライマックスシリーズ(CS)では2戦ともに先制点を取られながらも逆転勝ちを収め、アドバンテージの1勝を含め3勝とし史上初のCS4連覇を果たした[173]。11月25日、日本シリーズ・第4戦(福岡PayPayドーム)で読売ジャイアンツに4対1で勝利し、4勝0敗で4年連続11度目の日本一を達成した。なお、2年連続の4勝0敗は史上初、4年連続日本一はパ・リーグ初であった[174]。栗原がMVPに輝いた[167]。
オフに内川聖一が退団し[175](ヤクルトに移籍)、ムーアが自由契約となった。日本ハムを自由契約となったニック・マルティネス、新外国人としてコリン・レイを獲得。
開幕4連勝と滑り出しは良く、序盤は首位に立つこともあった[176]が、その後千賀滉大、東浜巨、森唯斗、モイネロ、グラシアル、周東佑京といった主力選手に故障が相次いだ[177]上、松田宣浩、デスパイネ、バレンティンらベテラン陣の不振も重なり、上位をキープすることはできなかった。8度の優勝を誇った得意の交流戦でも5勝9敗4分け、球団ワーストの勝率3割5分7厘と大失速した。一方、阪神から二保旭とのトレードで中谷将大を獲得。5月9日にはソフトバンク三軍が元広島の藤井皓哉にノーヒットノーランを浴びるが、スカウトが藤井が戦力になると判断、オフになって育成契約するに至った。
東京オリンピック日本代表には柳田悠岐・栗原陵矢・千賀滉大・甲斐拓也が選出され、金メダルを獲得した。また、アメリカ代表にもマルティネスが選出され、銀メダルを獲得している。
オリンピックの中断期間中に新外国人としてダリエル・アルバレスを獲得するも、中断期間明けの後半戦も低迷から抜け出すことはできず、9月には借金生活に突入。9月後半に入ると、持ち直して3位の楽天に迫るが、10月に入ると、引き分けを挟んで8連敗と再び大きく後退したことが響き、最終的には10月23日の楽天戦で直接対決に敗れ、4位が確定し、球団初の日本一翌年のBクラスとなり、5年連続日本一はならなかった。
10月21日にペイペイドームで行われた引退試合を最後に長谷川勇也が現役を引退した。
契約最終年だった工藤監督は監督7年間で5回の日本一の実績を残して退任。工藤の後任監督として藤本博史が就任した。福岡移転後、元南海ホークスの選手がホークスの監督となるのは、福岡移転初年度に南海時代から引き続きダイエーの監督を務めた杉浦忠以来32年ぶりで、ソフトバンクとなってからは初。一方、ドラフト1位で風間球打投手の交渉権を獲得した。また、将来的には現在の三軍制を「四軍制」にまで拡張する方針を示し[178]、育成ドラフトでも大量14人を指名した。
甲斐、中村晃、柳田がゴールデングラブ賞、柳田がベストナインに選出された。
オフにバレンティンがウェイバー公示され、渡邉雄大、川島慶三、釜元豪、アルバレスとマルティネスの両外国人選手、ロッカー内で他の選手の私物が盗まれた事案に関与したことを認めた古谷優人[179]が自由契約となった(渡邉は阪神、川島と釜元は楽天、アルバレスはモンテレイ・サルタンズ、マルティネスはサンディエゴ・パドレスに移籍)。川原弘之、吉住晴斗、髙谷裕亮が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。中日からFA宣言した又吉克樹[180]、新外国人としてフレディ・ガルビス、タイラー・チャトウッドを獲得。8月8日付で退団したコリン・レイが復帰。FA入団した又吉の人的補償として岩嵜翔が中日に移籍。
藤本監督時代
[編集]球団としては1955年以来67年ぶりの開幕8連勝と好調な滑り出しだった(藤本監督は新人監督としての開幕連勝記録を達成)[181]が、この連勝中に栗原が左膝前十字靭帯断裂で今季絶望となり、連勝ストップ後に柳田が左肩の負傷で一時登録を抹消された。その後も5月に上林誠知の右アキレス腱断裂、さらには6月から7月にかけてコロナ禍や又吉克樹の右足骨折なども重なり、ベストメンバーが揃わない時期が続いたが、ルーキーの野村勇、3年目の柳町達ら25歳以下の若手や怪我から復帰した周東佑京らがその穴を埋め、上位をキープした。東浜が5月11日の西武戦でノーヒットノーランを達成した[182]。7月16日に骨折離脱の又吉の代替要員として日本ハムを自由契約となり、福井ネクサスエレファンツに所属していた経験豊富なリリーバーの秋吉亮を獲得。9月15日に優勝マジック11が点灯したが、マジック点灯直後のオリックスとの最後の3連戦(京セラドーム大阪)で3連敗を喫し、優勝争いがもつれることとなる。その最中、9月24日に福岡PayPayドームで行われた引退試合を最後に明石健志が現役を引退した[183][184]。その後、9月30日の楽天戦(楽天生命パーク宮城)に勝利してマジック1となるも、10月1日の西武戦(ベルーナドーム)でサヨナラ負けを喫し、マジック1のまま足止めとなった。それでも翌2日のシーズン最終戦に引き分け以上もしくはオリックスが引き分け以下となった場合には優勝という依然有利な状況だった[185]が、ZOZOマリンスタジアムでのロッテ戦で逆転負けを喫し、その数分前にオリックスが楽天生命パーク宮城での楽天戦に勝利していたため、オリックスに逆転されて優勝を逃した[注釈 41]。
3位西武とのクライマックスシリーズファーストステージでは2連勝で突破し、ポストシーズン18連勝を達成した[186]が、ファイナルステージのオリックス戦ではアドバンテージを含め、1勝4敗で敗退した[187]。Aクラス入りしながら日本シリーズ進出できなかったのは2016年以来6年ぶりで、クライマックスシリーズ敗退もそれ以来となった。
甲斐、中村晃がゴールデングラブ賞、甲斐、今宮、柳田がベストナインに選出された。
千賀が海外FA権行使しニューヨーク・メッツへ移籍した。オフに松田宣浩、秋吉亮、高田知季、中谷将大、真砂勇介が自由契約となった。DeNAからFA宣言した嶺井博希、日本ハムからFA宣言した近藤健介、ロッテを自由契約となったロベルト・オスナ、阪神を自由契約となったジョー・ガンケル、新外国人としてウイリアンス・アストゥディーヨ、コートニー・ホーキンス、テキサス・レンジャーズからFAとなった有原航平を獲得。FA入団した近藤の人的補償として田中正義が日本ハムに移籍。
三軍に続き、球界初の四軍を創設し、若手の育成により、注力する[78]。三軍と四軍の違いについて三笠GMは、「三軍は試合経験を通じた育成、四軍は高卒やけが明けなど、体力づくりが必要な選手が所属する。」と説明した[188]。これにより、球団との契約選手は120人を超えた[189]。
開幕5連勝とスタートダッシュに成功。優勝争いを展開していたが、7月に1969年以来54年ぶりの12連敗、8月も10勝14敗と負け越して優勝争いから脱落した。後半戦は大きな連勝がなく、シーズン最終戦までCS争いがもつれた末に3位に終わり、CSに出場した。
CSファーストステージで2位のロッテに1勝2敗で敗れ、CSファーストステージ敗退。この年は外国人打者が揃って機能しなかった。オフに藤本監督は退任し、西武からFA宣言していた山川穂高、現役ドラフトで日本ハムから長谷川威展を獲得した一方、水谷瞬が日本ハムに移籍。山川の人的補償で甲斐野央が西武に移籍。森唯斗、嘉弥真新也、上林らが戦力外となり、退団した。ドラフトでは前田悠伍、岩井俊介、廣瀬隆太、大山凌、澤柳亮太郎、藤田悠太郎などを指名した。
小久保監督時代
[編集]2軍監督の小久保が監督に就任し、ヘッドコーチには小久保の大学の先輩奈良原浩、投手コーチは投手陣、特に先発陣の立て直しを掲げ、倉野信次を呼び戻した。リバン・モイネロと大津亮介を先発に配置転換した[190]。柳田が5月31日の広島戦で走塁中に右足を痛め右半腱様筋損傷で全治4か月と判断され、チームに激震が走る[191]。7月5日に守護神のオスナが出場選手登録を抹消、8月2日に渡米[192]。柳田離脱後は柳町達、正木智也が奮闘して戦力が落ちなかった[193]。オスナ離脱後は抑えは松本裕樹[194]、ダーウィンゾン・ヘルナンデス[195]が務めた。7月30日の楽天戦で快勝しマジック42が初点灯、7月点灯は1995年のオリックス以来29年ぶり[192]。9月23日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で4年ぶりのリーグ優勝を決めた。攻撃陣が12球団最多得点の607、投手陣もチーム防御率2.53に、12球団最少53失策、失点はリーグ最少、91勝で小久保は2002年の伊原春樹(西武)、2015年の工藤公康(ソフトバンク)を抜き新人監督最多勝利になった[196]。前年は防御率リーグ5位の3.63と苦しんだ先発陣だが今季はリーグトップの2.50と大幅に改善[197]。また、小久保は球団名を福岡ダイエーホークス、フランチャイズを福岡県に変更後に入団したOB監督として初のリーグ優勝をした[注釈 42][200]。3・4月18勝6敗2分、5月13勝9敗、6月17勝5敗1分、7月11勝10敗、8月14勝11敗、9月・10月16勝9敗と全ての月で勝ち越した。対戦成績は日本ハムは12勝12敗1分と5割だったが、ロッテは16勝8敗1分、楽天は16勝9敗、オリックスは18勝6敗1分、西武は17勝8敗と勝ち越した。2位・日本ハムに13.5ゲームの大差をつけた[193]。主催72試合の観客動員272万6058人となり、ソフトバンクとなった2005年以降の最多を更新したと発表した[201]。有原が14勝、モイネロが11勝、スチュワート・ジュニアが9勝、大関友久が8勝を挙げ、救援陣も安定していた[193]。野手では近藤が首位打者と最高出塁率、山川が本塁打王と打点王、周東が盗塁王、有原が最多勝、モイネロが最優秀防御率に輝いた[202]。3、4月から毎月MVPに選出され、2005年以来の快挙(3月、4月柳田、5月栗原、6月モイネロ、近藤、7月有原、8月モイネロ、9月、10月栗原)[203]。ベストナインは球団史上最多6人(有原、山川、栗原、今宮、近藤、周東)が選出された[204]。MVPは近藤が受賞した。
クライマックスシリーズではアドバンテージを含む4連勝で日本ハムを下し、2020年以来4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。
日本シリーズではDeNAに2勝4敗で敗れ、開幕2連勝からの4連敗で2000年以来24年ぶりの日本シリーズ敗退となり、日本一を逃した。日本シリーズ敗退は21世紀およびソフトバンク譲渡後初となり[205]、2リーグ制に移行してから初めて日本シリーズで巨人以外のセ・リーグ球団に敗れるということになった。
所属選手・監督・コーチ
[編集]チーム成績・記録
[編集]- リーグ優勝 22回[注釈 43]
- 1リーグ時代 2回(1946年、1948年)
- 2リーグ制後 20回(1951年 - 1953年、1955年、1959年、1961年、1964年 - 1966年、1973年[注釈 44]、1999年、2000年、2003年、2010年、2011年、2014年、2015年、2017年、2020年、2024年)
- 日本一 11回
- (1959年、1964年、1999年、2003年、2011年、2014年、2015年、2017年 - 2020年)
- セ・パ交流戦優勝・最高勝率 8回(2015年から2018年までは最高勝率)
- (2008年、2009年、2011年、2013年、2015年 - 2017年、2019年)
- クライマックスシリーズ優勝 8回
- (2011年、2014年、2015年、2017年 - 2020年、2024年)
- 前期優勝 1回
- (1973年)
- Aクラス 53回
- 1リーグ時代 5回(1941年、1946年 - 1949年)
- 2リーグ制後 48回(1950年 - 1966年、1968年、1970年、1972年 - 1974年、1976年、1977年、1998年[注釈 45] - 2007年、2009年 - 2012年、2014年 - 2020年、2022年 - 2024年)
- Bクラス 33回
- 1リーグ時代 7回(1938年秋 - 1940年、1942年 - 1944年)
- 2リーグ制後 27回(1967年、1969年、1971年、1975年、1978年 - 1997年、2008年、2013年、2021年)
- 最下位 12回
- 1リーグ時代 2回(1943年 - 1944年)
- 2リーグ制後 10回(1969年、1978年、1980年、1982年、1985年 - 1986年、1990年、1993年、1996年、2008年)
- 連続Aクラス入り最長記録 21年(1946年 - 1966年)
- 連続Bクラス最長記録 20年(1978年 - 1997年)※日本プロ野球記録
- 最多勝 99勝(1955年)
- 最多敗 85敗(1990年)
- 最多引分 21分(2021年)[注釈 46]
- 最高勝率 .750(1951年)
- 最低勝率 .283(1940年)
- 最多連勝 18(1954年)
- 最多連敗 15(1969年)※1引き分けを挟む
2004年・2005年のプレーオフはレギュラーシーズン最高勝率球団として第2ステージに進出(5ゲーム差以上で1勝のアドバンテージを得られることになっていたが、両年とも4.5ゲーム差で、アドバンテージ無しでの戦いとなった)。2004年は西武、2005年はロッテに共に2勝3敗で敗退。当時のプレーオフの規定により、両年とも最終成績は2位となった。
2006年のプレーオフはレギュラーシーズン3位により、第1ステージから登場。シーズン2位の西武を2勝1敗で破って第2ステージに進むものの、この年は2004年・2005年と2年続けてレギュラーシーズン最高勝率球団のチーム(ソフトバンク)が敗れたため、制度が変更され、ゲーム差に関係なく、無条件で1位チームに1勝のアドバンテージが与えられたこともあり、シーズン1位の日本ハムに2連敗で敗退。
2007年はレギュラーシーズン3位でこの年からセ・リーグもプレーオフ制を導入し、名称変更されたクライマックスシリーズに第1ステージから登場。シーズン2位のロッテに1勝2敗で敗退した[注釈 47]。
その他の記録
[編集]- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(2022年)※オリックス・バファローズと同率で2位
- 最大ゲーム差 45.5ゲーム(1940年)
- 最高得点 822(2003年)
- 最多安打 1461本(2003年)
- 最多本塁打 203本(2001年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .297(2003年)
- 最低打率 .184(1943年)
- 最高防御率 1.82(1941年)
- 最低防御率 5.63(1980年)
歴代本拠地
[編集]- 1938年 堺大浜球場
- 1939年 - 1947年 中百舌鳥球場
- 1948年 - 1949年 甲子園球場
- 1950年 - 1988年 大阪球場(1950年のシーズンは9月に大阪球場が完成するまで藤井寺球場などを使用)
- 1989年 - 1992年 平和台野球場
- 1993年 - 現在 福岡ドーム(2005年から"福岡 Yahoo! JAPANドーム"、2013年から"福岡 ヤフオク!ドーム"、2020年から"福岡PayPayドーム"、2024年4月25日からは、"みずほPayPayドーム福岡"に改称)
その他、福岡移転後は準本拠地として北九州市民球場(北九州市)や藤崎台県営野球場(熊本県熊本市中央区)でも公式戦を行っている。
歴代監督
[編集]※太字はリーグ優勝、◎は日本一
- 1938年 - 1940年 : 高須一雄
- 1941年 - 1942年 : 三谷八郎
- 1942年 : 加藤喜作 (第1次)
- 1943年 : 高田勝生
- 1943年 - 1944年 : 加藤喜作 (第2次) [※ 1]
- 1946年 - 1965年 : 山本一人(改名)→鶴岡一人 (第1次)◎[※ 2][※ 3][※ 4]
- (1965年 : 蔭山和夫) [※ 5]
- 1966年 - 1968年 : 鶴岡一人 (第2次)[※ 6]
- 1969年 : 飯田徳治
- 1970年 - 1977年 : 野村克也 [※ 7]
- 1978年 - 1980年 : 広瀬叔功
- 1981年 - 1982年 : ドン・ブレイザー
- 1983年 - 1985年 : 穴吹義雄
- 1986年 - 1989年 : 杉浦忠 [※ 8]
- 1990年 - 1992年 : 田淵幸一
- 1993年 - 1994年 : 根本陸夫
- 1995年 - 2008年 : 王貞治◎[※ 9][※ 10]
- 2009年 - 2014年: 秋山幸二◎
- 2015年 - 2021年: 工藤公康◎
- 2022年 - 2023年: 藤本博史[※ 11]
- 2024年 - : 小久保裕紀
歴代主将
[編集]- 1999年 - 2002年 秋山幸二※第19代一軍監督[※ 1]
- 2009年 - 2012年 小久保裕紀 ※野球日本代表 WBC日本代表の第4代監督 現福岡ソフトバンクホークス監督[※ 2]
- 2015年 - 2018年 内川聖一[※ 3]
- 2022年 - 2023年 柳田悠岐
太字は監督経験者(他球団及び日本代表も含める)
準永久欠番扱いの背番号
[編集]南海時代以来、正式な永久欠番は存在しないとされるが、以下の背番号がそれに準じた扱いを受けている。
- 15:藤井将雄
- 「炎の中継ぎ」として活躍し1999年、当時のパ・リーグ最多ホールド記録を樹立。福岡移転後のリーグ初優勝および日本一の原動力となる。日本シリーズ中に胸部の痛みを訴え、入退院を繰り返しつつも復活を期して二軍で調整していたが、2000年10月13日、チームのV2を見届けたのち、肺癌のために逝去。享年31。
- 2001年以降、15番は欠番となっており2016年時点の報道で”半永久欠番”の記載がある[206]。
- 89:王貞治
- 1995年から2008年までの14年間、ホークスの監督として指揮を執り3度のリーグ優勝と2度の日本一を成し遂げ(巨人監督時代を含むと4度のリーグ優勝)、ゼネラルマネージャーとしても球団に多大な功績を残した。球団は背番号89番を空けて将来の監督に与える方針を示していたが、王の後を継いだ秋山幸二が「恐れ多くも自分が背負うには重すぎる」と辞退。これにより球団は89番を欠番扱いとすることを表明した。
沢村栄治賞受賞者
[編集]別所昭が日本プロ野球投手史上初の沢村栄治賞受賞者である。ホークスで沢村賞を複数回受賞しているのは斉藤和巳のみである(他球団での受賞も合わせると別所昭がホークス時代に1回、巨人時代に1回で複数回受賞を達成している)。斎藤はパシフィック・リーグ初の複数回受賞者でもある。別所と斎藤の間の時代に杉浦忠が投手三冠王を達成するなど活躍をしたが、当時、パ・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、杉浦は受賞出来なかった[207]。
三冠王(投手・打者)
[編集]投手三冠王
[編集]打者三冠王
[編集]最優秀選手受賞者(複数回)
[編集]投手の複数回受賞者
[編集]2023年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[209]。
打者の複数回受賞者
[編集]ホークスの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは4人。山本一人が日本プロ野球打者史上初の複数回受賞者である。また、野村克也が日本人打者最多タイ記録となる5回受賞を達成している[209]。
- 山本一人 :3回(1946年、1948年、1951年)
- 野村克也 :5回(1961年、1963年、1965年、1966年、1973年)
- 松中信彦 :2回(2000年、2004年)
- 柳田悠岐 :2回(2015年、2020年)
チームの特徴
[編集]南海時代
[編集]- 1948年のフランチャイズ制導入にあたり、暫定的に本拠地を甲子園球場に決定。1950年9月12日の大阪球場完成に伴い移転。1950年シーズンはそれまで藤井寺球場などを使用した。
- 南海時代のチームカラーは緑。
- 南海時代のテレビ野球中継については、南海電鉄が主要株主でもあった毎日放送が1959年にテレビを開局する際に、大阪球場の全試合の独占中継契約を結んでいる。この年は南海が日本一になり、1961年刊行の毎日放送の社史はこの契約を「一大ヒット」と記すほどだった[210]。この成功で南海側はテレビ中継の旨味を知ることになり、翌1960年の契約に当たっては人気を背景に放映権料要求を大幅にはね上げた[注釈 48]。そこで、毎日放送側はホームゲーム35試合の優先放送契約で妥結した。だが、放映権料の高騰を危惧した毎日放送は1961年に南海との交渉を断念して、テレビの野球中継自体を大幅に縮小することとなった[212](ただ、毎日放送との関係は規模を大幅に縮小しながらもダイエーへの球団売却まで続いた)。その後、東京キー局の発言力が強くなり、関西地区でも日本テレビ放送網やその他の大手キー局系列による巨人戦の全国中継が頻繁に放送されるようになると、巨人と同じセ・リーグのために巨人と何度も対戦する阪神タイガースのテレビでの露出が南海ホークスより飛躍的に多くなった。また、新たに兵庫県U局として開局したサンテレビが対巨人戦以外の阪神主催セ・リーグ試合も多数中継するようになり、その電波が兵庫県だけでなく大阪府内のほぼ全域でも受信でき、更に京都のU局であるKBS京都もその中継に頻繁に参加するようになった事から関西全域で野球人気がセ・リーグ偏重となり、テレビ中継の少ないパ・リーグの南海の人気は著しく低落していった。その結果として、南海戦のテレビ中継はさらに減少する悪循環だった。阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった[注釈 49]。
- 南海時代の年間観客動員数は、公式発表によれば、1961年の89万7090人をピークに、その後は減少傾向が続き、1971年には45万2400人で底を打ち、1988年には91万8000人に増えたとされている[214]。しかし、2004年の日本プロ野球による観客数発表は概数で、水増しが多かった。1987年には88万3000人とされていたが、ダイエー球団代表を務めた瀬戸山隆三の証言によると、実際には30万人だったとされる[58]。
福岡移転後
[編集]- 福岡ソフトバンクホークス主催試合の1試合平均の観客数は、2012年度統計で33,933人で、パ・リーグではトップ、プロ野球12球団の中では巨人(40,333人)、阪神(37,886人)、に次ぎ第3位である[215][216]。1993年以降観客動員が200万人を超えていて福岡ドーム(現・みずほPayPayドーム福岡)の開場となった1993年から2022年まで30年連続で主催試合の観客動員数はパ・リーグ1位である[217]。
- 2010年7月27日の対楽天戦(藤崎台県営野球場)でホークスが福岡移転以来、22年目にして公式戦全主催ゲーム(地方ゲーム含む)の通算観客動員数が5,000万人(50,013,137人)を突破した。
- ホークスには『月刊ホークス』という公式情報誌が存在し、全国の書店で販売されている(九州では発売日が2日遅れる)。
- 福岡移転の元年である平成元年(1989年)は、ダイエーの試合を平日のナイターの主催試合限定で、福岡放送(FBS)制作で中継していたものを、FBSのキー局である日本テレビで深夜0時30分から1時間ほどのダイジェストに編集し割と頻繁に録画放送していた(これは同年のみの中継で、解説はFBS専属解説者の長池徳士を中心に、ごく稀にFBSと同じNNN系列局・広島テレビの解説者(当時)だった小林聖始や、中京テレビの解説者(当時)だった三沢淳や、日本テレビの解説者も担当した)。『メディアのしくみ―新聞に制圧される地方テレビ局』(明石書店)によると、ホークス移転に伴いFBSでダイエーとの折衝を担当した南条岳彦が中継権折衝の際、録画中継を含めた全国ネットという曖昧な表現で最終的提案としたという[218]。
- 福岡移転時点の監督であった杉浦忠はダイエーの買収・移転時に背番号を「71」から「81」に変更し、以後、王貞治を除く歴代監督が背番号「81」を使っていたが、2024年就任した小久保裕紀は二軍監督時代からの「90」を引き続き着用する。
- ダイエー時代のチームカラーはオレンジとエメラルド・グリーン。オレンジはユニフォームのラインや球団ロゴなどに使われ、エメラルド・グリーンは球団旗の地色などに使われた。ソフトバンクが親会社になってからは、同社のイメージカラー「レボリューション・イエロー」をチームカラーに使用。ユニフォーム袖のラインや球団旗の地色などに使用。それに伴い、ペットマークおよびマスコットキャラクターの鷹の顔の色が、オレンジからイエローになった。
- 2007年に導入されたクライマックスシリーズでの下克上による日本シリーズ進出を「される(2010年)」方と「する(2018年、2019年)」方の両方を経験している唯一の球団である(2024年度シーズン終了時点)。
- NPBで史上初の昭和、平成、令和の3元号で日本一を達成している。
球団愛称
[編集]- 戦後チームの球団愛称となった「グレートリング」は鉄道の車輪をイメージし、併せて近鉄の社章や沿線の「大和」地区(大→おおきな、和→わ、に掛けて「大きな輪」→グレートリング)、並びに合併会社である近鉄の一致団結をイメージしたものだった。しかし、これが性に関するスラングのため、このチーム名を面白がって観戦に来た米軍兵士が「グレートリング」という言葉を聞くたびに大笑いしていたという(資料によって「女性器」「男性器」「性行為」と複数の説がある[219]。あくまで俗語であるため真説は不明)。そのため、翌年の親会社の変更に合わせて南海「ホークス」と改称している。
- 「ホークス」は南海電気鉄道の社章[注釈 50]が車輪の両側から鳥の羽根が伸びる意匠だったことから、鳥の種類の中から鷹を選択して決定したもので、ダイエーとソフトバンクがそれぞれ買収した後も現在に至るまで引き継がれている。南海ホークスの球団史である『南海ホークス四十年史』(1978年)には、当初「コンドル」も愛称の有力候補に挙がったが、当時の松浦竹松球団代表がはげ頭であったことから、コンドルを名乗るのは遠慮されたとある[220]。また、南海社内報『親和』に1960年に掲載された文章には、最終候補として「ホークス」のほかに「カージナルス」があったという伝聞がみられる[221]。
- 「ホークス」は1947年途中から使っており、これは日本球界では「タイガース」(1936年から、ただし戦時中は「阪神軍」に改名)、「ジャイアンツ」(日本語愛称の「巨人軍」とともに1936年から。ただし戦時中は「巨人軍」のみ)、「ドラゴンズ」(1947年から)に次いで歴史が長い。
ユニフォームの変遷
[編集]南海時代
[編集]- 1938年 - 1940年:「NANKAI」のロゴで前立てに線が入る。左袖には当時の南海社章(通称:羽車)をアレンジした「ボールに羽が生えたマーク」。
- 1940年 - 1943年:戦況の悪化によりロゴが漢字(四角の囲みに入る)となるが、ワッペンはそのまま残された。1944年に親会社・南海鉄道が関西急行鉄道と合併し近畿日本鉄道となり、球団名も「近畿日本」となるがユニフォームは不明。
- 1946年 - 1947年:前立て線に新しいチームカラーの緑を使用。1947年からユニフォームの左胸に南海のマークを使用。ビジターは「GREATRING」のロゴで後に「N」一文字に。
- 1947年 - 1949年:球団名が南海ホークスとなり、ダークブルーのユニフォームが登場。胸には黒の筆記体で「Hawks」。帽子が白でツバが緑、ロゴは「H」で金色。
- 1948年:戦後の黎明期に縦縞を使用。優勝するものの1年で廃止。
- 1949年 - 1950年:1988年の球団身売りまで使っていたロゴが登場[注釈 51]。縁取りは黄色。左袖には1946年・1948年の優勝を記念するチャンピオンマークが装着された。ビジター用の灰色のユニフォームは鷹のマークだったが、1950年からシールズ型のユニフォームが登場。帽子は紺色地に深緑色の鷹のマーク(白縁)。
- 1951年 - 1958年:ボタンが比翼仕立てのユニフォームが登場。線も廃止され、シンプルな印象となった。この間、帽子マークが1956年から変更される[注釈 52]。
- 1959年 - 1968年:鶴岡監督のアイデアで肩から袖、パンツに黒い太線を入れたデザインが登場。1960年から腰番号が付けられる。南海黄金時代を象徴するユニフォームであり、オールドファンの多くは南海と言えばこのユニフォームを連想する。帽子は黒を地色にNHマークがNの右側とHの左側の縦線を共有するものから、電車の車輪をモチーフとしたHをNと組み合わせたものに変更された。
- 1969年:飯田徳治監督就任で心機一転の意味もあり、深緑をオレンジが挟むデザイン。帽子は黒を地色にNHマークがNが白、Hがオレンジの組み合わせ。胸番号が登場(胸番号はオレンジ色)。背番号、胸番号の書体が久保田型ブロック体(近鉄バファローズと同様)のものになる。しかし最下位ということもあって公式戦用としては1年で廃止となり練習用に格下げとなる。
- 1970年 - 1971年:野村克也監督就任時より、鶴岡監督時代のデザインに戻る。ただし、袖には太線が入っているが肩線は無く、胸番号がつき、背番号とともに前デザインの久保田型ブロック体が踏襲された。
- 1972年 - 1977年:カラーテレビの普及で大幅にモデルチェンジ。伸縮性ニット製ユニフォームを採用する。縁起を担ぐ野村兼任監督らしく毎年のように目まぐるしく細部のマイナーチェンジがあった。1974年 - 1976年にかけてはホーム用2種類、ビジター用2種類の計4種類のユニフォームを使い分けた。
- 【パイレーツ型(1972年 - 1976年)】
- 1972年より、当時のピッツバーグ・パイレーツを参考にしたベルトレスプルオーバータイプが登場。胸ロゴ、背番号、胸番号、帽子、アンダーシャツ、ストッキングは黒に近い深緑。帽子のNHマークと通気穴は黄土色、首、パンツの線は深緑と黄土色の2本、袖、腰は深緑、白、黄土色の3本。
- ホーム用は上下白。Hawksのロゴ、背番号、胸番号は黄土色の縁取り。
- ビジター用は上下ブルーグレーで、NANKAIのロゴ、胸番号、背番号には白の縁取りがつく。
- 1974年より、パンツの線が深緑と黄土色の2本ラインから黄土色の線の両サイドを深緑の細線で挟んだ3本線に変わる。
- 1975年より、ホーム、ビジター共左袖にペットマークがつけられる。
- 1972年より、当時のピッツバーグ・パイレーツを参考にしたベルトレスプルオーバータイプが登場。胸ロゴ、背番号、胸番号、帽子、アンダーシャツ、ストッキングは黒に近い深緑。帽子のNHマークと通気穴は黄土色、首、パンツの線は深緑と黄土色の2本、袖、腰は深緑、白、黄土色の3本。
- 【アスレチックス型(1974年 - 1976年)】
- 1974年よりパイレーツ型ユニフォームにプラスする形で、当時のオークランド・アスレチックスを参考にしたユニフォームを新たに採用する。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黄緑色、NHマークは白。パンツのサイドラインは黄緑・黄・黄緑の3本線で、ソックスが黄色になる(1974年の初期のみアンダーシャツが黄色)。
- ホーム用は、Hawksロゴ、胸番号、背番号は黄緑色で、縁取りは深緑、首は黄色、黄緑の2本線、袖、腰は黄緑、黄、黄緑の3本線。
- ビジター用の上着は黄緑色、パンツは白で、NANKAIロゴ、胸番号、背番号は白で、縁取りは深緑、首は黄色、白の2本線、袖、腰は黄、白、黄緑の3本線。
- 1975年にはVネックになり、3本線に変わる。さらに左袖にパイレーツ型同様、ペットマークが付けられる。
- ホーム用は黄緑、黄、黄緑の3本線。
- ビジター用は黄、白、黄の3本線。
- 1976年には、ビジター用のパンツのサイドラインが消える。
- 1974年よりパイレーツ型ユニフォームにプラスする形で、当時のオークランド・アスレチックスを参考にしたユニフォームを新たに採用する。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黄緑色、NHマークは白。パンツのサイドラインは黄緑・黄・黄緑の3本線で、ソックスが黄色になる(1974年の初期のみアンダーシャツが黄色)。
- 【プロトタイプ(1976年・1977年)】
- 【パイレーツ型(1972年 - 1976年)】
- 1977年のみパイレーツ型ユニフォームが廃止になり、アスレチックス型ユニフォームがマイナーチェンジ。袖、腰のラインに新たに赤が取り入れ、首周りがVネックから丸首に戻る。この年より背番号の上にローマ字で選手名が入り、スパイクの色が白地に黄緑の線となる。帽子はグリーンを地色に白のNHマーク。
- ホーム用は、袖、腰が黄緑、黄、赤の3本線、首が深緑、黄緑、深緑の3本線。
- ビジター用は、袖、腰が赤、白、黄の3本線、首が黄、白、黄の3本線。
- 1978年以降も二軍および練習用としては引き続き使用されたが、ペットマークが取り外された。
- 1978年 - 1983年:野村監督解任、広瀬叔功監督就任に伴い、ユニフォームを一新。左肩のペットマークが取り外され、ホーム、ビジター共色使いはそのままで、鶴岡監督時代の象徴だった肩と袖の太線が復活(太ライン、ロゴ、背番号、胸番号:ホーム用は黄緑、ビジター用は白で、それぞれ黒の縁取り)。帽子はグリーンを地色に白のNHマーク。
- 1980年のみ、ホーム用が深緑の縦縞に変更され、さらに後期のみ胸番号が赤になる。また帽子のツバがホーム・ビジターとも赤になる。しかし、最下位のため1年で廃止となる[注釈 53]。
- 1983年にベルトレスからベルト式にマイナーチェンジ。ホーム用はベルトラインをループ状としてサイドラインを存置した一方、ビジター用はベルトラインを通常型に変更し、サイドラインが消える。
- 1984年 - 1988年:前年の穴吹義雄監督就任に伴い、南海黄金時代の象徴であった深緑色が復活。肩、袖のラインが肩、袖に深緑の2本線となる。帽子はグリーンを地色に白のNHマーク。
- ビジター用は上半身深緑で肩に線がない。
- 帽子の頂点のボタンが白のものとグリーンのものの2種類があった。
ダイエー時代
[編集]- 1989年 - 1992年:球団名が「福岡ダイエーホークス」となり、三宅一生デザインにより一新。ダイエーのイメージカラーのオレンジと、こげ茶色を基調とした縦縞(ホーム、ビジター共)となる。胸ロゴはホーム用が「Hawks」、「Hawks」の左上に小さく「Daiei」がつき、ビジター用が「Daiei」、「Daiei」の左上に小さく「FUKUOKA」がつく。右袖にはダイエーの社章、左袖はホーム・ビジター両方とも「FUKUOKA」。背番号、胸番号の書体が変更になり、西武ライオンズと同じ書体になる。帽子はこげ茶にオレンジ字で「FDH」だが、ヘルメットは鷹の頭部をイメージしたユニークなデザインを採用。科学忍者隊ガッチャマンのヘルメットにデザインが類似している事から通称「ガッチャマンヘルメット」と呼ばれる[222][223]。
- なお、ユニフォーム以外ではウインドブレーカーがホーム用・ビジター用の2種類が用意され、カラーはホーム用はダイエーのイメージカラーのオレンジ、ビジター用は南海時代を継承する意味を込めて緑が採用された。背中は、ホーム用・ビジター用共通でローマ字で選手名(黒文字にオレンジの縁取り)、その下に九州地方の地図の上に鷹の刺しゅうを施したもの。
- 1991年途中から、ビジター用の地色をベージュから灰色に変更する[注釈 54]。縦縞の色もこげ茶からオレンジに変更される。
- 1993年 - 2004年:福岡ドーム移転と根本陸夫監督就任により、当時のシカゴ・ホワイトソックスをモチーフにしたシンプルなデザインにモデルチェンジ。上着はホーム用は白地・ビジター用は黒地で、ホーム用は黒・ビジター用は白のラケットライン。パンツは白地。左袖に球団ペットマーク、右袖に「FUKUOKA」。また帽子のFDHマークを縦並びにしたロゴが左胸につき、右みごろの中心には胸番号がつく。帽子は黒地。FDHマークは帽子・ユニフォームともにホーム用はオレンジ、ビジター用は白。
- 1999年 -(二軍は2001年 - ):ビジター用・ホーム用ともヘルメット同様に帽子のつばがオレンジ、FDHマークは白になる。
- 2001年 - :ペットマークが右袖に移動。
ソフトバンク時代
[編集]- 2005年 - :球団名が「福岡ソフトバンクホークス」に変更。ダイエー時代のデザインを継承しつつ、基本的な色づかいは変わらないものの、ダイエーのイメージカラーのオレンジから、ソフトバンクのイメージカラーのレボリューション・イエローにチームカラーが変わり、上着は地色がホーム用が白、ビジター用は黒と、ダイエー時代の色を踏襲。灰色のラケットラインが入り、胸に「SoftBank HAWKS」(ホーム)・「SoftBank」(ビジター)のロゴが入る。両袖にはソフトバンクのイメージシンボルの2本の太線が入っている。線の色はホーム用が黄色、ビジター用が白。ビジター用のみ左袖に「HAWKS」の白い文字があるが、スポンサー広告の入るユニフォームの場合は右袖に移される。パンツは白で、ホーム用は黄色、ビジター用は灰色でそれぞれ2本の細線が入っている。胸番号は廃止され、帽子・ヘルメットのつばは再び黒となった。帽子マークは黄色で「S」と「h」を絡めたモノグラム。
- 2006年7月 - :帽子が、後述の鷹の祭典ユニフォームで登場したつばが黄色のデザインになる。なお、ヘルメットは以前と同じくつばは同じ黒のまま。
- 2008年:右肩のペットマークが「球団創設70周年&福岡移転20周年」のロゴマークになる。同年から、スパイクが黒地に白線に変更される。
- 2010年 - :胸マークや背番号などが、刺繍から昇華プリントへ変わる[224]。(前年の鷹の祭典ユニフォームでも採用された。)デザイン上の変化はなし。
- 2013年:右肩のペットマークが「球団創設75周年」のロゴマークになる。
- 2016年 - :ユニフォームの供給元が、MLB球団と同じくマジェスティック・アスレティック社になる[225]。デザイン上の変化はなし。また同年5月17日より、熊本・大分地震被災者へのメッセージを込めた「ファイト!九州」のキャッチフレーズが右袖のマスコットマーク上部に取り付けられる。2015年シーズンからキャップへの広告表示が認められ、キャップ右即部にファーウェイの広告が入る。
- 2018年:右肩のペットマークが「球団創設80周年」のロゴマークになる。
- 2019年:右肩のペットマークが「福岡移転30周年」のロゴマークになる。
- 2020年 -:ヘルメットがツヤ消しのものになる。(2018年の球団創設80周年記念のヘルメットでも採用された。)
特別ユニフォーム
[編集]- 2006年7月15日から17日まで開催された「鷹の祭典2006 in ヤフードーム」において、限定ユニフォームを着用したのを皮切りに、毎年「鷹の祭典」においてさまざまなデザインの限定ユニフォームを着ている(#鷹祭 SUMMER BOOST(旧称:鷹の祭典)を参照)。
- 2018年の球団創設80周年記念企画として、3月31日の対オリックス戦・5月5日の対オリックス戦・6月2日の対DeNA戦・8月26日の対西武戦・9月9日の対オリックス戦での「レジェンドデー」にて歴代ユニフォームから球団創設時の白地に紺のラケットデザイン、帽子を黒地に1947年に採用された鷹マークの最終形のアレンジ、胸に現行のHAWKSロゴ、袖に現行ユニフォームに準じた紺の二本線を入れた「80周年記念ユニフォーム」を着用。
- 2019年4月7日から5月19日にかけて福岡・長崎・北九州・熊本・鹿児島の5会場5試合において「ホークスは九州と共に」をモットーに福岡移転30周年を記念して「WE=KYUSHUデー」(ウィー・イコール・九州デー)を実施。同試合と3月2日のオープン戦において白地に赤色「カチドキレッド」をあしらいキャップや左袖に九州島の形状をあしらった特別ユニフォームを着用。オープン戦時の着用では背番号の縁が細いものとなっていたが、公式戦では太いものに改善された。
- 2019年5月11・12日の対ロッテ戦において「タカガールデー」企画の母の日イベントとしてNPO法人「ハッピーマンマ」協力のもと乳がん啓発を目的に通常のホームユニフォームの黄色部分をピンクに変更しキャップのShマーク横にピンクリボンマークを添えた「ピンクリボンユニフォーム」を着用。
復刻ユニフォーム
[編集]- 2008年にはホークス誕生70周年及び福岡移転20周年記念事業の一環として南海電鉄とダイエーにも趣旨を説明した上で、以下のユニフォームを復刻した。復刻試合の対戦相手は同リーグのオリックス・バファローズを除き、着用当時に日本一になった際の日本シリーズにおける対戦相手である。どちらのユニフォームも、袖に創立70周年&福岡移転20周年記念マークのワッペンが張り付けられている。
- 2013年にも創立75周年を記念してユニフォームを復刻した。
- 【南海・1984年 - 1988年モデル】
- オリックスとの共同企画「OSAKA CLASSIC 2013」[注釈 56](4月19日 - 21日、京セラドーム大阪)と、パ・リーグ6球団が復刻ユニフォームで試合を行う共同企画「レジェンド・シリーズ2013」の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(8月30日 - 9月1日、ヤフオクドーム)と北海道日本ハムファイターズ戦(9月3日 - 5日、東京ドーム)で着用。ユニフォームの袖には「皇潤」の広告と創立75周年記念マークのワッペンが貼り付けられている。また、ヘルメットにはソフトバンクのロゴマークが入る。グランドコートは南海仕様の物は制作されず秋山監督らは通常の物を着用していた。
- 【南海・1984年 - 1988年モデル】
- 2014年には以下のユニフォームを復刻した。どちらも左袖には「キューサイ」の広告が貼り付けられている[注釈 57]。
- 【南海・1972年 - 1973年モデル】
- 前年に引き続き開催された、オリックスとの共同企画「OSAKA CLASSIC 2014」[注釈 56](5月16日 - 18日、京セラドーム大阪)において着用。ヘルメットにソフトバンクのロゴマークが入る。
- 【ダイエー・1989年 - 1992年モデル】
- 埼玉西武ライオンズ戦(6月27日 - 29日、西武ドームおよび8月19・20日、ヤフオクドーム)において着用[注釈 58]。西武ドームでの着用試合は「ライオンズ・クラシック2014」としての開催。福岡での着用試合は「ソフトバンク10thシリーズ」の一環である「福岡クラシック2014」としての開催である。
- 【南海・1972年 - 1973年モデル】
- 2015年には以下のユニフォームを復刻した。
- 【南海・1983年モデル】
- 前年に引き続き開催された、オリックスとの共同企画「OSAKA CLASSIC 2015」[注釈 56](5月1日 - 3日、京セラドーム大阪)において着用。なお、左袖には「キューサイ」の広告、ヘルメットにソフトバンクのロゴマークがそれぞれ貼り付けられている。
- 【南海・1983年モデル】
- 2017年には以下のユニフォームを復刻した。
- 【南海・1980年モデル】
- 2年ぶりに開催された、オリックスとの共同企画「KANSAI CLASSIC 2017」(4月28日 - 30日、京セラドーム大阪)において着用。
- 【南海・1980年モデル】
- 2018年には以下のユニフォームを復刻した。
- 【南海・1984年 - 1988年モデル(ビジター)】
- オリックスとの共同企画「KANSAI CLASSIC 2018」(4月28日 - 30日、京セラドーム大阪)において着用。
- 【南海・1984年 - 1988年モデル(ビジター)】
球団旗の変遷
[編集]- 1938年 - 1940年:紺色地に当時の南海電鉄の社章(通称:羽車)をアレンジした「ボールに羽が生えたマーク」を中心。
- 黄色地のものも存在(黄色地のものには、「ボールに羽が生えたマーク」の下に紺色の「NANKAI」の文字)。
- 1946年 - 1947年:「近畿日本グレートリング」に変更となったが、南海社章(いわゆる「羽車」)をそのまま使用。紺色地に「羽車」。
- 黄色地のものも存在。
- 1947年 - 1948年:紺色地に中央に白の二等辺三角形をデザイン。アルファベットの「N」の上に南海社章。
- 1949年:上のデザインを踏襲し二等辺三角の底辺を反対に。白地に緑の二等辺三角形、その上に黄色フチの鷹のシルエット(今竹七郎が制作)。
- 1950年 - 1976年:2リーグ分裂を機に球団旗を変更。白地に緑の鷹のシルエット。
- 1977年 - 1988年:上のデザインを踏襲。鷹のシルエットを少しリニューアル、その下の部分に赤地のラインに白文字の筆記体で「Hawks」の文字が入る。
- 1989年 - 2004年:ダイエーに身売りされ「福岡ダイエーホークス」に。エメラルド・グリーンを地色に中央に「ホーマーホーク」のイラスト。「ホーマーホーク」の上に黒字で「FUKUOKA」、「ホーマーホーク」の下にオレンジの文字で「Daiei」、その下に黒字で「Hawks」。
- 2005年 - :ソフトバンクに身売りされ「福岡ソフトバンクホークス」に。海援隊の旗印(二曳)をモチーフに、白地に親会社・ソフトバンクのイメージカラーであるレボリューション・イエローの2本線。上の白い部分には黒文字で「= Softbank」、下の白い部分に黒文字で「HAWKS」。
マスコット
[編集]南海時代は、1974年から1977年までバットの上に乗る鷹の上に少年が乗るマスコットを使用していたが、このマスコットが野村克也監督(当時)と現夫人・野村沙知代(当時:伊東芳枝)主導で導入されたものだったため、野村の監督解任と同時に使用が中止された。
その後1978年から1988年まで「たかちゃん」という鷹を擬人化したマスコットキャラクターがペットマーク等に使われていた。球団売却後は、南海OBが中心となって運営している少年野球チーム『ジュニアホークス』で一部アレンジしたものが使われている。
ダイエー時代からは「ホークファミリー」と呼ばれる鷹を擬人化したマスコット達が登場。平和台球場時代は「ホーマーホーク」ら4体で構成。福岡ドーム移転後は「ハリーホーク」ら8体で構成されており、ソフトバンクになった現在でも変わっていない。ホークファミリーの体の色はダイエー時代はオレンジ、ソフトバンクになってからはイエローになっている。
また2012年からは、「ウッチーくん」・「マッチくん」・「チョメちゃん」・「ポンちゃん」といった、所属選手をモチーフにしたマスコットがスタジアムキャラクターとして順次登場[226]。2013年途中より「せっつくん」が[227]、2014年途中より「いまみ〜くん」が[228] 新たに登場した。
さらに、2015年5月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦より、白星ジェット風船をモチーフにした謎のキャラクター・「ふうさん」が登場した。
2016年からは二軍のHAWKSベースボールパーク筑後専用マスコットとして「ひな丸」が登場している。 なお2017年からははなかっぱから応援マスコットキャラクターとしてはなかっぱ、ももかっぱ、がりぞー、アゲルが選ばれた。
2020年11月9日からは12球団としては初となる公式VTuber・「鷹観音海」と「有鷹ひな」がデビュー、2022年12月末まで活動をしていた。キャラクターデザインはtiv[229]。
運営会社
[編集]種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 | 日本 〒810-0065 福岡県福岡市中央区地行浜二丁目2-2 (福岡ドーム) |
設立 | 1969年3月 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 5290001009981 |
事業内容 | プロ野球球団の保有、野球競技の運営、野球等スポーツ施設等の経営・管理、各種メディアを利用した映像・音声・データ等のコンテンツ配信サービス、等 |
代表者 | 取締役オーナー 孫正義 取締役会長 王貞治 代表取締役社長兼オーナー代行 後藤芳光 代表取締役専務兼執行役員 太田宏昭 |
資本金 | 1億円 |
売上高 | 350億9,100万円 (2024年2月期)[230] |
営業利益 | △13億9,600万円 (2024年2月期)[230] |
経常利益 | △27億7,800万円 (2024年2月期)[230] |
純利益 | △28億200万円 (2024年2月期)[230] |
純資産 | 212億3,600万円 (2024年2月期)[230] |
総資産 | 1,072億7,000万円 (2024年2月期)[230] |
従業員数 | 230名(2018年2月現在) |
決算期 | 2月末日 |
主要株主 | ソフトバンクグループ 100% (同社の連結子会社) |
外部リンク | http://softbankhawks.co.jp/ |
特記事項:2005年1月「株式会社福岡ダイエーホークス」から現商号へ商号変更。 |
福岡ソフトバンクホークス株式会社(ふくおかソフトバンクホークス、英: Fukuoka SoftBank HAWKS Corp.)は、福岡ソフトバンクホークスの運営会社で、ソフトバンクグループの連結子会社である。
子会社
[編集]- AcroBats(アクロバッツ)株式会社
- 福岡ソフトバンクホークス全額出資子会社として2019年8月1日設立。
- 球団では親会社であるソフトバンクグループなどと協力し、従前から選手・コーチの現役引退後の就労支援などのセカンドキャリア事業を進めてきたが、「さらにアスリート自らの経験や想いを広く社会に還元していき、企業・アスリートの双方にとって有意な価値を提供することにより、様々な分野で活躍する元アスリートを社会に輩出する仕組みづくりを実現する」ことを目指して設立された。
- 事業としてはスポーツ選手のマネジメント、テレビ・ラジオなどの出演などのキャスティング、地域・企業・団体などのイベントなどのプランニング事業などである。
- 社名は、「現役時代以上に輝き、アクロバティックなセカンドキャリアを過ごしてほしい」という意味合いが込められている。
- 設立当初のスタッフは3人体制で、代表取締役社長・安積研二、事業・戦略・企画担当の江尻慎太郎、並びにマネジメント契約を結んだ攝津正である[231][232]。
ユニフォーム等のスポンサー
[編集]ユニフォームのスポンサーとサプライヤーは以下のとおり
- ヘルメット - サニックス(2002年 - 2006年途中)→ベスト電器(2007年 - 2011年)→ERICSSON(2012年 - 2014年)→Tポイント(2015年 - 2016年)→ベガコーポレーション(2017年)→レオパレス21(2018年)→オープンハウス(2019年7月 - シーズン終了)→ Tポイント(2020年 - 2021年 )BellSystem24(2022年 -)
- ユニフォームの袖 - エムシーコーポレーション(2001年 - 2005年)→アパマンショップ(2006年 - 2008年)→ソフトバンクモバイル(2009年)→エバーライフ(2010年 - 2011年、2013年は「皇潤」、2012年のみ「Sence of Etern!ty」表記)→キューサイ(2014年 - 2015年)→ コカ・コーラボトラーズジャパン(2016年 - )[234]
- パンツ - 日本オラクル(2006年)→日本グッドイヤー(2007年)→外為どっとコム(2008年 - 2009年)→ソフトバンクモバイル(2010年)→昭和建設(2011年 - )[235]
- キャップ - RIZAP(2015年7月 - シーズン終了)→ HUAWEI(2016年 - 2018年)→ PayPay(2019年)→ 大東建託(2020年 - )[236]
- 練習着‐ ZTE(2017年5月 - 2018年 )→ Tポイント(2019年 - )[233]
- 選手移動時用スーツ - セオリー(2005年 - 2010年)→青山商事(2011年 - )[237]
主な球団歌・応援歌
[編集]歴代
[編集]- 南海軍の歌(作詞:山岡羊村)
- 雑誌『野球界』1939年11月号付録『職業野球便覧』に歌詞掲載。南海軍時代に制定されたと見られるが、楽譜は確認されていない[注釈 59]。
- 南海ホークスの歌(作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、歌:灰田勝彦、東京混声合唱団)
- 球場の鷹(作詞:石原信一、作曲:徳久広司、歌:斎藤努=当時毎日放送アナウンサー)
- 1980年にレコード発売。香川伸行の応援歌「青春ドカベン」のカップリング(B面)曲だった。
- 鷹の爪(作詞:水島新司、作曲:四方章人、編曲:神保雅彰、歌:香川伸行・加藤伸一・吉田博之・畠山準・湯上谷宏)
- 1986年にレコード発売。水島監修の下製作。「南海ホークス新応援歌」として企画された。
- ダイヤモンドの鷹(作詞:阿久悠、作曲:宇崎竜童、歌:RYUDOGUMI)
- 福岡移転以来、「WE ARE THE CHAMPION……」の節で始まる長年公式球団歌としてその役を担っていた。球場(試合開始1時間前に流されていた)の他、ダイエー系列店舗やダイエー系列であったコンビニエンスストアのローソンでもこの曲が流され、優勝の際やシーズン終了のセレモニーで流された。また、平成元年から平和台時代を中心に、時折中継していたサンテレビのホークス戦中継の合間のCMに入る直前の音楽としても(得点スコアをバックに)この歌の終りの演奏部分が起用されていた。しかし、後述の『いざゆけ若鷹軍団』(当時:公式応援歌)に対して知名度が低く、ソフトバンクに球団が移行すると共にその幕を下ろすことになった(後年、阿久悠は、この曲が利用されなくなってしまったことを大変遺憾に思うというコメントを発表している)。
- 可能性(作詞:山本智幸、作曲:山本智幸/久保田光太郎、歌:エスカーゴ)
現在
[編集]- いざゆけ若鷹軍団
- 勝利の空へ(作詞・作曲・歌:藤井フミヤ)
- 球団公式セレモニーソング。福岡ソフトバンクホークスの誕生に合わせて制作され、2005年の開幕戦で藤井本人によって初披露された。ヤフードームでの試合に勝った時は「勝利の花火」を上げて「いざゆけ若鷹軍団」とこの曲が流れるのが定番となっている。開幕後初勝利の試合後や、藤井本人がライブなどで来福している際、生歌を披露することがある。
主なキャンプ地
[編集]- 宮崎県宮崎市・生目の杜運動公園(2003年秋季から)
- 南海時代は、1960年頃には海外(ハワイ)キャンプを張ったこともあったが、晩年は呉でキャンプを張っていた。
- ダイエー時代は、初年度はハワイで実施。その後は沖縄県でキャンプを張った時期もあったが、多雨に悩まされたこともあり、高知にキャンプ地を移した。1995年にはオーストラリアのゴールドコーストでキャンプを行った。
スローガン
[編集]- ダイエー時代
- 1989年:Just Now For The Fan
- 1990年:Action Baseball
- 1991年:Action Baseball II〜嵐を起こせ鷹軍団
- 1992年:BIG CHALLENGE '92
- 1993年:GO WILD! GO!〜野生派宣言
- 1994年:ING 1994年、何かが起こる
- 1995年:AIMING 狙います。
- 1996年:一二三いかせます。
- 1997年:Wild but Balanced
- 1998年:AIMING2(エイミング アゲイン)
- 1999年:Get the top
- 2000年:めざせ! V2
- 2001年:Super Hawks 2001〜鷹の時代
- 2002年:2002 Super Hawks AGAIN〜All Together
- 2003年:Victory Again〜羽ばたけHAWKS
- 2004年:GOLDEN HAWKS〜果てしなき勝利への挑戦
- ソフトバンク時代
- 2005年:めざせ世界一!
- 2006年:めざせ世界一!
- ほかに「WE = HAWKS」、ロッテ戦限定スローガンとして「倍返し。」
- 2007年:めざせ世界一!
- ほかに「WE = HAWKS」、「ストロングホークス」、終盤戦・クライマックスシリーズスローガンとして「優勝へ、全開!」
- 2008年:めざせ世界一!
- ほかに「WE = HAWKS」、開幕戦スローガンとして「熱気ブン!ブン! 全員開幕」、シーズン終盤スローガンとして「誇りを胸に、頂点へ」
- 2009年:「フリキレ!! 全員、全開、前進ホークス。」
- ほかに「WE = HAWKS」、終盤戦スローガンとして「フリキレ!! いざ、頂点へ。」
- 2010年:「今年はやらんといかんばい!」
- ほかに終盤戦スローガンとして「勝たんといかんばい!」
- 2011年:「(ダ)」(◯の中にダ)。
- ほかに終盤戦スローガンとして「燃えるん(ダ)」
- 2012年:「VV(ブイブイ)」
- ほかに終盤戦スローガンとして「燃えろ! VV(ブイブイ)」
- 2013年:「超!ガツガツ行こう!」
- ほかに終盤戦スローガンとして「超! ガッツメラメラ」
- 2014年:「(俺)がやる。」(◯の中に俺。)
- ほかに終盤戦スローガンとして「ゼッタイ! (俺)がやる。」
- 2015年:「熱男」(アツオ)
- ほかに終盤戦スローガンとして「全員! 熱男!」
- 2016年:「熱男2016」(『熱男』の読みは2015年と同じ)
- ほかに終盤戦スローガンとして「熱男ファイヤー〜頂点へ燃え昇れ!」
- 2017年 : 「1(ワン)ダホー!」
- ほかに終盤戦スローガンとして「ALL FOR ワンダホー!」および、「全力! ワンダホー!」
- 2018年 : 「もう1頂!(いっちょう)」
- ほかに終盤戦スローガンとして「もう1頂! HAWKS魂」
- 2019年:「奪Sh!(ダッシュ)」
- ほかに終盤戦スローガンとして「V奪Sh!」
- 2020年:「S15(サァイコー!)」
- ほかに終盤戦スローガンとして「全員HAWKS S15」
- 2021年:「鷹く!(たかく!)」
- ほかに終盤戦スローガンとして「熱く鷹く!」
- 2022年:「もっと!もっと!もっと!」
- ほかに終盤戦スローガンとして「もっと!もっと!もっと!もっと!」
- 2023年:「鷹!鷹!鷹!(おう!おう!おう!)」
- ほかに終盤戦スローガンとして「頂点いくぞ!鷹!鷹!鷹!」
- 2024年:「VIVA 美破!(ビバ)」
- ほかに終盤戦スローガンとして「いざ、美破!」
主なトピック
[編集]没収試合で掴んだ初優勝
[編集]1946年シーズンは、11月5日の最終日まで優勝の行方がわからなかった。この日、後楽園球場で東京巨人軍対セネタース、そしてグレートリング対中部日本軍の変則ダブルヘッダーが行われ、巨人が勝ってグレートリングが敗れると2チームが同勝率で1位となり、同点決勝戦に持ち越される可能性があった。だが、第1試合で巨人が1-4で敗れたため、グレートリングは出番を待たずに創部9年目、悲願のリーグ戦初優勝を決めた。なお、グレートリングはその最終戦で別所昭を先発に迎えたが、鼻血と失神により途中降板するアクシデントがあり、4-7で敗れている。
鶴岡一人は後年「(優勝したのは)パシフィックの藤本さん(同チーム監督)のおかげだよ」と述べている。これは、パシフィックは戦前の既存球団に在籍していた藤井勇・白石敏男を獲得。すでに両選手は戦前所属した球団から給料をもらっていなかったので、藤本は自由契約の身分だと考えて獲得したが、日本野球連盟は調査をすることを決めて「調査が完了するまでは公式戦出場を認めない」とした。だが、それを無視して2人を無断で5月の公式戦4試合に出場させてしまい、後にこれらが没収試合となってしまった。このうち2試合がグレートリング戦で、5月23日の試合は7-5でグレートリングが勝っていたので勝敗には関係ないが、26日の試合はパシフィックに4-7で敗戦していた。これが没収試合の規定で9-0でグレートリングの勝利となった。もし没収試合がなく、最終戦が上記の成績だったら、巨人対グレートリングの同点決勝となっていた。
毎回得点試合・毎回失点試合
[編集]南海時代の1952年6月7日、後楽園球場での対東急フライヤーズ戦で、日本プロ野球史上初の毎回得点記録が達成された。それも1回から5回までは毎回2点ずつを小刻みに取り、最後の9回には一挙4点を挙げ18-4での大勝劇で史上初の快挙を飾った。スコアは毎回得点の項にテーブルとして掲載している。
逆に毎回失点を喫してしまった経験は2回ある。1回目は南海時代の1975年5月11日の対阪急ブレーブス戦(阪急西宮球場)で4-15で敗れ、阪急に毎回得点[注釈 60] を献上している。2回目はダイエー時代の1997年5月7日の対西武ライオンズ戦で、7回に大量6点を失うなど、0-21の完封負けを喫している。
日本シリーズ最少観客動員記録
[編集]1953年の日本シリーズ(対巨人戦)は、本来第5戦を後楽園球場、第6・7戦を大阪球場で行う予定だったが、日米野球の日程の関係と当時の大会規定で「第1・3・5・7戦と第2・4・6戦は毎年両リーグが交互に指定し、また第1・2戦、第3・4戦、第5・6戦はそれぞれ連続して同じ地区の球場を指定すること」という取り決めもあり、予定を変えて5・6戦を南海主催、7戦を巨人主催の後楽園という日程で行った。このうち第6戦は本来の大阪球場ではなく大阪タイガースの本拠地の阪神甲子園球場を借りて開催したが、有料観客はわずか6346人というシリーズ史上最少記録となった。
こけら落しがサスペンデッドゲーム
[編集]1987年5月23日、この年に開場した新潟県・柏崎市佐藤池野球場のこけら落しとして、対ロッテオリオンズ戦が開催された[238]。ところが、当日は激しい降雨で、本来なら中止にしたいところだったが、柏崎市では1950年以来37年ぶり[注釈 61] の公式戦開催とあって、前売り券も売り切れる好調ぶりであることから、大会を主催した新潟日報と柏崎市は強行開催をしようと天候の回復を待った。
そして小康状態となるのを見てグラウンドの整備や土の補充を行い、当初発表の14時より32分遅れて14時32分に試合開始となったが、再び大雨になったため64分の中断を強いられる。それでも注目度が高いことを考慮して試合成立にこだわり、何とか試合は成立した。中断明け後は問題なく試合が行われ続けたが、佐藤池球場にはナイター照明設備が設置されておらず、日没になればその時点で試合を打ち切らなければいけない。当時の新潟の日没時刻は18時20分で、ギリギリまで開催することも可能だったが、雲が分厚かった影響もあり、これ以上試合を続けると球が見え辛くなって危険という理由で、8回表・4-4で迎えたロッテの攻撃途中の17時44分をもってサスペンデッドゲームが宣告された。この試合の続きは7月8日に平和台で開催され、河埜のサヨナラ適時打で勝利した[注釈 62][注釈 63][注釈 64]。
パ・リーグでは1950年代から1960年代にかけて7試合のサスペンデッドゲームがあったが1966年6月7日中断・6月8日再開の東映-東京戦を最後に途絶えており、21年ぶりのサスペンデッドゲームとなった。サスペンデッドゲームの条項はセ・リーグと交流戦にはなく、パ・リーグのみに設けられていたが、これ以降は実施例が一度もないまま2012年度に条項が廃止されたため、この試合が日本プロ野球最後のサスペンデッドゲームとなった。
このサスペンデッドの中断前の試合が行われた次の日の5月24日に新潟市の鳥屋野運動公園野球場で開催が予定されていた試合はこの豪雨の影響によりグラウンドコンディション不良という理由で開催中止された[239]。
なお、南海は1977年から1988年まで、夏季を中心として「新潟シリーズ」を行っており、初日の土曜は原則として長岡市悠久山野球場、2日目は鳥屋野運動公園野球場を会場として行った[240]。ただし、1981年の対西武ライオンズ戦では、初戦が上越市営球場、前述の1987年と1988年の対近鉄バファローズ戦の初戦は柏崎で行われている。また、日曜の開催のうち、1977年・1978年と1982年[注釈 65] は当時2シーズン制であったため、できるだけ1カード3連戦を消化できるようにするためにダブルヘッダーで実施されたことがある。
堺市への幻の移転計画
[編集]大阪球場は、1994年の関西国際空港開港に伴う難波地区の再開発計画の対象地域に指定されていたため、1990年を最後に閉鎖が決まった。親会社である南海電気鉄道は大阪球場に代わる新球場の建設を検討していたところ、大阪市に隣接する堺市が、当時の市長の意向で熱心に誘致を進めた。しかし、ダイエーへの球団譲渡と福岡市への本拠移転によって、この計画も幻となった。
大阪球場はその後、1989年・1990年の2年間だけ、近鉄バファローズが準本拠地として使ったのを最後に役目を終えた。暫定措置としてフィールド部を住宅展示場として使用した後、1998年に完全閉鎖。その後の再開発事業により、なんばパークスとなった。中百舌鳥球場も地元の草野球や少年野球などの一般利用向けに使われていたが、2001年に閉鎖され、跡地にはマンションが建設された。
生卵事件
[編集]1996年5月9日、対近鉄バファローズ戦(日本生命球場)での試合[注釈 66]に2-3で敗れた後、苛立ちを募らせた一部のファンが暴徒化し、王や選手の乗ったバスに向かって「お前ら、プロか」の罵声と共に生卵を投げつける事件が起きた。この年は開幕から低調で、チームはこの敗戦で4連敗、この日時点での成績は9勝22敗、借金13、勝率も3割を切る惨状に、前日にも敗戦に怒ったファンがバスを取り囲む騒ぎが起きるなど、主に福岡以外の球場で王の采配を疑問視するファンの暴走が相次いでいた。
保護地域でのロードゲーム
[編集]※福岡ソフトバンクホークス主催試合の地方球場一覧に詳細参照
これまでに公式戦で5試合(3カード)、地元福岡でロード扱いの試合を行ったことがある。
- 1999年6月11日 - 13日、対オリックス・ブルーウェーブ戦(福岡ドーム)
詳細はオリックス・バファローズ#敵地での主催ゲームを参照。
- 2008年5月29日、対横浜ベイスターズ戦(北九州市民球場)
- 2012年5月31日、対横浜DeNAベイスターズ戦(北九州市民球場)
以上の2試合は前日にそれぞれ別の九州地方(前者は新大分球場、後者は長崎ビッグNスタジアム)で試合を行う「九州2連戦」となっている。
以上の3試合とも、ベンチの配置の関係でロード扱いのホークスは一塁側、対戦相手側は三塁側のベンチを使用していた(協約上、ホームチームがベンチを選べる)。新大分球場、長崎ビッグNスタジアムではホークスが三塁側でベイスターズが一塁側を使用した。
オープン戦では、福岡ドームや北九州で読売ジャイアンツと、北九州ではこれに横浜DeNAベイスターズ・広島東洋カープと地元でのロードゲームを行ったケースはあった。この際、福岡ドームでのジャイアンツ主催はジャイアンツが三塁側、ホークスが一塁側を使用した。北九州市民球場では、ジャイアンツやカープが一塁側をホークスが三塁側を使用した。ベイスターズ主催は、公式戦同様、ベイスターズが三塁側を、ホークスが一塁側を使用した。
台湾での公式戦
[編集]2002年5月14日・15日に、台北市立天母棒球場で対オリックス・ブルーウェーブ2連戦を開催した。井箟重慶によると、台湾での公式戦はもともとオリックスが計画していたものの、収支面の見通しが立たずに断念。計画が宙に浮く格好になっていたが、2002年にダイエーが開催に漕ぎ着けたものだったという。なお、日本のプロ野球が海外で試合を行うのは戦後3回目(1961年5月20日の西鉄ライオンズvs東映フライヤーズ、1962年6月13日・14日の阪急ブレーブスvs大毎オリオンズが当時アメリカ合衆国の占領下にあった沖縄で行って以来)だが、台湾での公式戦は戦後初である。
試合は松浦亜弥の始球式で始まり、第1戦は5-4でダイエーがサヨナラ勝ち、第2戦はオリックスが8-7で勝利した。
球団は翌年の2003年にも高雄市で対西武ライオンズ2連戦を予定していたが、西武との交渉がまとまらず開催には至らなかった[注釈 67]。
東京での主催ゲーム
[編集]2004年6月15日、対大阪近鉄バファローズ戦(2連戦の初戦)を、王貞治の古巣である読売ジャイアンツの本拠地・東京ドームで主催ゲームとして初開催した。なお、この試合の数日前である6月7日の試合で監督通算1000勝を達成したため、急遽通算1000勝記念試合として開催された。また、2012年からは「鷹の祭典」の一環として毎年のように東京ドームで主催ゲームを1 - 2試合開催している。
大阪での主催ゲーム
[編集]2014年8月18日、ソフトバンクの主催により、京セラドーム大阪にて対西武戦を開催した。試合はソフトバンクが6-5で勝利し、観客は32,093人であった[241]。元々ソフトバンクは前身が大阪府を保護地域とした南海であったことから、京セラドーム大阪にて主催試合を開催することとなった。大阪での主管試合の開催は、福岡移転前の1988年以来26年ぶりのことであった。ソフトバンクは前日まで京セラドーム大阪にてビジターで対オリックス戦が組まれており、試合当日は大阪で主催試合を行い、翌日と翌々日の2日間については従来通り福岡で主催試合を行った。なおこの大阪と福岡での変則3連戦は、ソフトバンクへの球団譲渡10周年を記念した「福岡ソフトバンクホークス10thシリーズ」と題した特別シリーズとして行われた。
2015年以降も毎年1試合継続して行われているほか、京セラドームでの対オリックス戦1カードは年度により南海の復刻試合(オリックス側は年によって阪急または近鉄)として開催されることがある。但し、京セラドームを本拠とするオリックスがソフトバンク主管のビジター球団として出場したことはない。