宝塚歌劇団7・8期生
宝塚歌劇団7・8期生(たからづかかげきだん7・8きせい)は1918年(大正7年)に宝塚歌劇団(当時の名称は宝塚少女歌劇養成会)に入団し、同年もしくは1919年(大正8年)に初舞台を踏んだ10名を指す[1]。
概要
[編集]初舞台の公演演目は天津乙女、關守千鳥、初瀬音羽子、久方靜子は『馬の王様』で[2]、その他は不明である。
この期に「宝塚の至宝」と呼ばれた天津乙女や關守千鳥が入団。
一覧
[編集]※同じ初舞台グループで分けている[1]。
芸名[1] | 読み仮名[1] | 誕生日 | 出身地 | 出身校 | 芸名の由来 | 愛称 | 役柄 | 退団年[1] | 備考 |
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天津乙女 | あまつ おとめ | 10月9日[3] | 東京都[3]千代田区 | 青山小学校 | 百人一首より 小林一三が命名 | エイコ[3] | 男役 | 1980年 | 東京都出身者初の入団 妹は雲野かよ子・池邊鶴子[4] 1948年宝塚歌劇団理事 日本舞踊・藤間乙女[5] 在団中に死去[6] |
芸名[1] | 読み仮名[1] | 誕生日 | 出身地 | 出身校 | 芸名の由来 | 愛称 | 役柄 | 退団年[1] | 備考 |
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有明月子 | ありあけ つきこ | 12月18日 | 大阪府大阪市北区[7] | 百人一首 | 男女両役[8] | 1926年に一度退団後 復帰後1931年 | 横沢三郎夫人 娘は二代目・有明月子[4] | ||
關守千鳥 | せきもり ちどり | 3月15日 | 東京都千代田区 | 仏英和高等女学校 | 百人一首 | 1921年 | 俳優・東榮子[9] | ||
初瀬音羽子 | はつせ おとわこ | 2月7日 | 秋田県[7] | 東京高等女学校 | 百人一首 | 両役 | 1928年 | 俳優・初瀬乙羽[9] | |
久方靜子 | ひさかた しずこ | 3月7日 | 東京都北区 | 瀧野川小学校 | 百人一首 | 娘役 | 1926年 | ||
松帆浦子 | まつほ うらこ | 1月17日 | 神奈川県 | 百人一首 | 1922年 | ||||
和田久子 | わだ ひさこ | 4月14日 | 大阪府 | 百人一首 | 1922年 |
芸名[1] | 読み仮名[1] | 誕生日 | 出身地 | 出身校 | 芸名の由来 | 愛称 | 役柄 | 退団年[1] | 備考 |
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生野道子 | いくの みちこ | 大阪府大阪市福島区[7] | 百人一首 | 男役 | 1927年 | ||||
笹原いな子 | ささはら いなこ | 兵庫県西宮市[7] | 西宮女子技藝學校[2] | 百人一首 | 娘役 | 1929年 | |||
龍田神代 | たつた かみよ | 百人一首 | 1927年 |
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 100年史(人物) 2014, p. 7.
- ^ a b 『寳塚歌劇少女の生活』河原蓬著、育文館書店、1922年11月25日
- ^ a b c 「舞台を色どる人々」『おお宝塚60年―「ドンブラコ」から「ベルばら」まで』朝日新聞社、1976年11月30日、231頁。
- ^ a b 80年史 1994, p. 196.
- ^ 「エンサイクロペディア・タカラジカ」『おお宝塚60年―「ドンブラコ」から「ベルばら」まで』朝日新聞社、1976年11月30日、219頁。
- ^ 100年史(人物) 2014, p. 76.
- ^ a b c d 『寶塚の歌劇少女』橋詰せみ郎著、新正堂書店、1923年12月5日
- ^ 宇佐見正「あゆみI (1914〜32)」『おお宝塚60年―「ドンブラコ」から「ベルばら」まで』朝日新聞社、1976年11月30日、59頁。
- ^ a b 橋本雅夫『素晴らしい宝塚歌劇―夢とロマンの85年―』阪急電鉄コミュニケーション事業部、1999年9月10日、175頁。ISBN 4-89485-013-3。
参考文献
[編集]- 企画・構成・執筆:橋本雅夫 著、編集統括:北川方英 編『夢を描いて華やかに―宝塚歌劇80年史―』宝塚歌劇団、1994年9月9日。ISBN 4-924333-11-5。
- 監修・著作権者:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡りつづけて(人物編)』阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日。ISBN 978-4-484-14601-0。